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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第一巻:エミー・グレイス・ハーパー
2/10

第一章 犯人の顔だけがない

「レイ、朝よ」


 名前を呼ばれて、御影レイは目を開けた。


 最初に見えたのは、自分の部屋の天井ではなかった。


 雨に濡れた路地だった。


 赤いネオンが水たまりの上で砕けている。黒い傘の縁から、雨粒が糸のように落ちている。片方だけ脱げた赤いヒール。水に沈みかけた星形のピアス。濡れた金髪。薄く開いた唇。


 喉が熱い。


 違う。


 喉を切られたのは、僕じゃない。


 右手が重い。


 違う。


 黒いナイフを握っていたのは、僕じゃない。


 死にたくない。


 それは、僕の恐怖ではない。


 でも、胸の奥でそれは確かに鳴っていた。


 死にたくない。

 まだ行きたい場所がある。

 まだ名前を呼ばれたい。

 まだ明日へ行くつもりだった。


「レイ?」


 もう一度、母の声がした。


 雨の路地が割れた。


 赤いネオンが薄れて、白い朝の光に変わる。湿ったアスファルトの匂いが、洗濯物の柔軟剤と味噌汁の匂いへ変わる。耳の奥に残っていた拍手が、階下で食器を置く小さな音に置き換わる。


 レイは、自分の部屋のベッドの上にいた。


 カーテンの隙間から入る光は鈍い。窓ガラスには雨粒が細く残っていた。夜の雨が、まだ朝の街に貼りついている。


 身体を起こそうとして、レイは右手を見た。


 何も握っていなかった。


 白いシーツの上に置かれた、細い指。爪の間に血はない。掌にも傷はない。黒い刃の重さも、実際にはどこにも残っていない。


 それなのに、握っていた感覚だけがある。


 刃ではなく、刃の周囲の空気を握っていたような感覚。


 光を反射しない、黒い穴みたいなナイフ。


 レイは右手を開いたり閉じたりした。


 関節はいつも通りに動く。


 心臓も動いている。


 息もできる。


 喉も切れていない。


 胸も刺されていない。


 膝も痛くない。


 それが、少しだけ気持ち悪かった。


「生きてる?」


 ドアの向こうから、母がそう聞いた。


 いつもの確認だった。


 冗談みたいな声ではない。深刻すぎる声でもない。毎朝、洗濯物を畳んだか、傘を持ったか、朝食を食べるかを聞くのと同じ温度で、彼女は息子の生存を確かめる。


 レイは喉に手を当てた。


 指先に触れる皮膚は、なめらかで、冷たくも熱くもなかった。


「生きてる」


 答える声が、少しかすれていた。


 ドアの向こうで、小さく息を吐く気配がした。


「なら起きなさい。今日は雨だから、傘を忘れないで」


「分かってる」


「朝ご飯、食べられる?」


「たぶん」


「たぶんじゃなくて、一口は食べる」


 その言い方があまりに日常で、レイはしばらく返事をしなかった。


 雨の路地では、誰かが死んでいた。


 その誰かは、遠い他人ではない。


 名前を知らなくても、顔を知らなくても、レイには分かる。


 同じ根から伸びた、別の人生。


 同じ魂を持つ、別の人間。


 その死の瞬間が、今も身体の内側に沈んでいる。


 それでも階下では味噌汁が温められていて、母は一口は食べろと言い、学校の時間は近づいていた。


 世界はいつもそうだった。


 誰かが死んでも、朝は来る。


 自分が死んでも、朝は来る。


 レイはベッドから降りた。


 裸足が床に触れた瞬間、足裏に別の感触が重なった。


 濡れた石畳。

 細いヒールの不安定さ。

 右膝の古傷。

 舞台の床の硬さ。

 長く踊ってきた身体の疲労。


 レイは壁に手をついた。


 息を吸う。


 ここは自室だ。


 アガルタ市雨宮坂地区の住宅街。御影家の二階。古い本棚と机とベッドと、黒いノートのある部屋。窓の外には隣家の屋根と、雨に濡れた電線が見える。


 レイの身体は十七歳の少年のものだ。


 エミー・グレイス・ハーパーのものではない。


 そう確認してから、彼は洗面所へ向かった。


     *


 鏡の中の自分は、いつも通りだった。


 黒に近い灰色の髪が少し寝癖で跳ねている。目の下には薄い影がある。制服のシャツはまだ着ていない。首筋には傷ひとつない。


 レイは鏡に顔を近づけた。


 そこに映っているのは御影レイだった。


 女ではない。

 ショーダンサーではない。

 金髪でもない。

 青灰色の瞳でもない。

 赤いリップも、星形のピアスもない。


 それなのに、鏡の奥で一瞬だけ赤い照明が揺れた。


 古い鏡。

 壁一面の曇った鏡。

 赤いステージ。

 客席。

 濡れたコート。

 拍手。


 レイは蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗った。


 水が頬を流れる。


 雨の感触と重なる。


 彼は目を閉じた。


 僕はまた死んだ。


 それは、これまでにも何度もあった。


 知らない男の病室で死んだことがある。

 古い列車の事故で死んだことがある。

 名前も知らない国の砂の上で、喉を焼かれながら死んだことがある。

 子供のまま川に落ちたことも、老人として家族に看取られたこともある。

 誰かを愛したまま死んだことも、誰にも知られず死んだこともある。


 死は、レイにとって珍しいものではない。


 遠い同魂者の記憶が流れ込むたび、彼は死を思い出す。


 そのたびに、身体は無傷で目覚める。


 呼吸を確認し、母の声を聞き、自分の名前を思い出す。


 それで終わるはずだった。


 けれど今回は違った。


 僕はまた殺した。


 右手に、黒いナイフの重みがあった。


 刃を差し出す角度。

 相手との距離。

 雨の中で一歩踏み込む感覚。

 逃げようとする身体を追う視界。

 握った柄の冷たさ。


 加害者の記憶。


 それがある。


 被害者として死ぬ記憶だけなら、まだ分かる。これまでもあった。死の瞬間は、強くつながる。魂の根が同じなら、最期の恐怖が流れ込むことは珍しくない。


 だが、殺す側の手触りまで、自分の中にあるのは異常だった。


 レイはタオルで顔を拭いた。


 鏡をもう一度見る。


 犯人の顔を思い出そうとする。


 黒い傘。


 黒いコート。


 濡れた路地。


 黒いナイフ。


 声。


 私はお前だ。


 そこまではある。


 けれど、傘の下へ意識を向けると、記憶が滲む。


 顔だけがない。


 ぼやけているのではない。見落としたのでもない。影で隠れていたのでもない。


 そこに顔があったことは分かる。


 目も、口も、鼻も、輪郭も、確かに存在していたはずだ。


 しかし記憶の中では、そこだけ黒く塗り潰されている。


 写真の顔を、あとから墨で消したように。


 レイは指先で鏡の自分の顔に触れた。


「誰だ」


 小さく呟いた。


 鏡の中の自分は答えない。


 当然だ。


 答えられるなら、もう知っている。


     *


 朝食の味は、よく分からなかった。


 御影佳乃は、食卓の向かいで息子の顔を見すぎないようにしていた。


 それが分かる程度には、レイは母を見ていた。


 彼女は四十一歳で、アガルタ市立中央図書館の郷土資料室で働いている。朝の食卓では、仕事用のブラウスの上から薄いカーディガンを羽織り、髪を後ろでまとめていた。派手ではない。けれど、身支度はいつも整っている。


 食卓には、味噌汁と焼き魚と卵焼きが置かれていた。


 父の席は使われていない。


 椅子は、まだある。


 レイは卵焼きを一切れ口に運んだ。


 甘い。


 直後に、別の味が重なった。


 安い酒。

 舞台裏の水。

 リップの苦み。

 雨の匂い。


 吐き気というほどではない。


 ただ、今ここで食べている自分と、数時間前に死んだ女の記憶が、同じ喉を通ろうとしている。


「無理なら残していいわ」


 佳乃が言った。


 レイは箸を止めた。


「一口は食べろって言った」


「食べたから」


「そう」


「母さん」


「なに?」


「昨日の夜、雨、強かった?」


 佳乃は少しだけ考えた。


「この辺りは、夜中に少し。歓楽街のほうは強かったみたいね。夜見坂で冠水しかけたって、朝のニュースで言ってた」


「夜見坂」


 口にした瞬間、赤いネオンが頭の奥で揺れた。


 佳乃がこちらを見る。


「知り合いでもいるの?」


「いない」


「そう」


 佳乃はそれ以上聞かなかった。


 レイは、母のそういうところに救われている。


 問い詰めない。


 でも、見ていないわけではない。


 それが一番厄介で、一番ありがたい。


「レイ」


「なに」


「今日は、帰りが遅くなるなら連絡して」


「いつもしてる」


「昨日はしてない」


「寝てた」


「たぶんね」


 佳乃は湯呑みを持ち上げた。


 柔らかい黒い瞳が、少しだけ不安そうに揺れた。


「何を見たのか、今は言わなくていい。でも、帰ってきたら返事はして」


「……分かった」


「あなたが何を覚えていても」


 佳乃はそこで一度、言葉を切った。


 レイは箸を持ったまま、母を見た。


「ここでは御影レイよ」


 その言葉は、味噌汁の湯気よりも静かに、食卓へ落ちた。


 レイは返事をしなかった。


 できなかった。


 代わりに、残っていた卵焼きをもう一切れ食べた。


 甘かった。


 今度は、少しだけ味が分かった。


     *


 アガルタの朝は、夜を引きずっている。


 駅へ向かう坂道には、まだ濡れた落ち葉が貼りついていた。マンホールの縁から白い湯気が上がり、古い石壁の隙間を雨水が細く流れている。空は明るいのに、地面だけが夜のままだった。


 レイは透明に近い薄灰色の傘を差して歩いた。


 学院指定の傘だ。


 街には同じ傘を持った生徒がいくらでもいた。黒に近い紺のブレザー、白シャツ、銀灰色のネクタイ。私立アガルタ学院高等部の制服は、雨の日によく馴染む。


 駅へ向かう生徒たちは、いつも通りに話していた。


 小テスト。

 部活。

 新しい動画。

 誰かの恋人。

 購買のパン。

 昨日のテレビ。


 その声の隙間に、女の笑い声が混ざった。


 英語だった。


 違う。


 記憶だ。


 レイは歩く速度を落とした。


 水たまりに、自分の顔が映る。


 その横に、一瞬だけ金髪の女が映った。


 赤いリップ。濡れた頬。片耳の星。


 瞬きをすると、消えた。


 レイは足を止めずに歩いた。


 慣れている。


 そう思おうとした。


 だが、慣れていることと、平気なことは違う。


 駅の改札を抜ける時、右手に黒いナイフの重さが戻った。


 切符を通す手と、刃を握る手が重なる。


 レイは改札機に学生証をかざし損ねた。


 電子音が鳴る。


 後ろの生徒が「あ」と小さく声を漏らした。


 レイは一度下がり、もう一度カードをかざした。


 今度は通れた。


 何でもない顔で歩く。


 何でもない顔をするのは、得意だった。


 学院へ向かう電車の窓には、雨に濡れた街が流れていた。


 地下へ入る直前、窓の外に夜見坂方面のネオン看板が遠く見えた。


 昼の光の中では、そこはただの古い歓楽街だった。


 死体の気配など、どこにもない。


 けれどレイの喉には、まだ切られた痛みが残っていた。


     *


 私立アガルタ学院は、雨宮坂の上に建っている。


 坂道を上ると、新校舎のガラス張りの壁が見えてくる。晴れた日なら、そこには市街地の光や遠くの空が映る。雨の日は違う。ガラスは曇り、校舎全体が霧の中に沈んだように見える。


 旧校舎の煉瓦壁は、新校舎の奥にひっそりと残っていた。


 赤茶色の壁。細い窓。使われていない講堂。資料室。古い新聞部室。


 レイはそこへ視線を向けた。


 理由は分からない。


 ただ、今朝は旧校舎の窓がいつもより暗く見えた。


「また死人みたいな顔してる」


 背後から声がした。


 振り向かなくても分かった。


 白瀬真昼。


 高等部二年三組。新聞部所属。正確には、学校公認の新聞部よりも、個人取材サイト《アガルタ観測録》の管理者としてのほうが有名な生徒。


 制服はきちんと着ていない。


 ネクタイは緩い。袖は少し捲っている。肩にはカメラストラップ。鞄からはメモ帳と小型のボイスレコーダーが半分はみ出している。栗色の髪はポニーテールにまとめられていたが、湿気で少し跳ねていた。


 琥珀色の瞳が、まっすぐレイを見る。


 笑っているのに、観察している目だった。


「今朝、死んだから」


 レイは答えた。


 真昼は二秒ほど黙った。


 それから、眉を寄せる。


「朝からブラックすぎない?」


「そうかな」


「そうだよ。普通は『寝不足』とか『低血圧』とか言うところでしょ」


「寝不足で、低血圧で、死んだ」


「死因、雑」


 真昼は呆れたように言いながら、レイの隣に並んだ。


「ていうか、本当に顔色悪いよ。保健室行く?」


「必要ない」


「そういう人ほど倒れるんだよ」


「倒れたら行く」


「倒れる前に行くのが文明人」


「僕は野蛮でいい」


「うわ、感じ悪い」


 いつもの調子だった。


 真昼はよく喋る。


 レイは必要最低限だけ返す。


 周囲から見れば、真昼が一方的に絡んでいるように見えるのだろう。実際、半分くらいはそうだった。


 しかし、彼女はレイの沈黙を怖がらない。


 それが少し面倒で、少しだけ厄介だった。


「で、ほんとは何?」


「何が」


「今朝の『死んだから』。冗談にしては、目が笑ってない」


「君は人の目を見すぎる」


「取材の基本だから」


「僕は取材対象じゃない」


「今のところはね」


「今後も違う」


「それはこっちが決める」


 真昼は笑った。


 レイはため息をついた。


 教室へ入ると、朝の騒がしさがあった。


 椅子を引く音。鞄を机に置く音。友人同士の会話。誰かがスマホで動画を見て笑っている。窓の外では雨がまた細く降り始めていた。


 レイの席は、窓際の後方だった。


 彼はそこに座り、鞄を置いた。


 真昼は前の席の生徒に「ちょっと借りるね」と言って椅子を反転させ、レイの机に両肘をついた。


「ねえ、夜見坂の事件、知ってる?」


 レイの指が止まった。


 黒いノートを机に出しかけていた手。


「事件?」


「まだ詳しく出てないけど、歓楽街で何かあったっぽい。夜中に警察車両が何台も入ったって投稿がある。動画はすぐ消された」


「よく見てるね」


「見るよ。アガルタ観測録の管理人ですから」


「ただの野次馬だろ」


「違います。市民記者です」


「もっと悪い」


「ひどい」


 真昼は頬を膨らませたが、すぐに表情を戻した。


「でも、本当に変なんだよ。投稿したアカウント、三つくらい消えてる。動画も、黒い傘の人が映ってたってコメントだけ残ってるのに、元動画がない」


 黒い傘。


 レイは窓の外を見た。


 校庭に、透明傘が並んでいる。


 黒い傘はない。


 それでも、黒い影が目の奥に落ちた。


「興味ない」


「まだ何の事件かも言ってないのに?」


「大体分かる」


「え?」


 真昼の目が鋭くなった。


 しまった、と思った時には遅かった。


「大体分かるって、何が?」


「歓楽街で警察車両が来る事件なんて、珍しくないだろ」


「夜見坂では珍しくない。でも動画が消えるのは珍しい。黒い傘ってコメントが残るのも珍しい。あと、御影くんが今、明らかに反応したのも珍しい」


「観察しすぎ」


「隠すの下手すぎ」


 レイはノートを開いた。


 真昼は机に身を乗り出す。


「知ってることあるの?」


「ない」


「嘘」


「証拠は?」


「顔」


「顔は証拠にならない」


「私の中ではなる」


「君の中の裁判所は閉鎖したほうがいい」


 そこで担任が入ってきた。


 真昼は不満そうに口を閉じ、椅子を戻して自分の席へ行った。


 朝のホームルームが始まる。


 担任の声は遠かった。


 連絡事項。提出物。進路調査。天候不良による部活動の注意。


 レイは窓を見ていた。


 ガラスに雨粒が流れている。


 その向こうに、赤いステージが重なる。


 エミーが踊っている。


 笑っている。


 右膝を庇っている。


 客席に向かって、名前を覚えて、と無言で言っている。


 エミー。


 エミー・グレイス・ハーパー。


 誰だ。


 君は、誰だった。


 レイは目を閉じた。


 そしてすぐに開けた。


 閉じると、雨の路地へ戻ってしまいそうだった。


     *


 午前の授業は、紙の上を滑っていった。


 数学の教師が黒板に数式を書き、英語の教師が長文を読ませ、現代文の教師が登場人物の心情を問う。


 レイは指名されれば答えた。


 答えられた。


 頭の中には、解法も文法も本文の構造も入っている。知識を引き出すことは難しくない。むしろ簡単だった。


 難しいのは、自分の記憶と、他人の記憶を分けることだった。


 英語の教科書を開いた時、エミーの発音が舌に乗った。


 教師の読み上げる英文よりも自然に、別の言葉が出そうになる。


 レイは唇を閉じた。


 現代文で「名前」という単語が出た時、胸の奥が反応した。


 名前を覚えて。


 忘れてもいい。


 でも、今は覚えて。


 誰に言った?


 犯人に?


 自分に?


 遠くの少年に?


 レイはペンを握った。


 筆圧が強くなり、ノートの紙が少しへこんだ。


 昼休みのチャイムが鳴った時、彼はようやく息を吐いた。


「御影くん」


 すぐ横に真昼がいた。


「近い」


「逃げる前に確保」


「僕は犯罪者じゃない」


「まだね」


「まだって何」


「今後の態度次第」


 真昼はそう言って、スマホを掲げた。


 画面にはニュース速報の見出しが出ていた。


 レイは見ないようにした。


 見ないようにしたのに、見えてしまった。


 ――夜見坂歓楽街の路地で女性死亡 外国籍のショーダンサーか


 教室のざわめきが少し変わっていた。


 数人の生徒が同じニュースを見ている。


「歓楽街だって」

「こわ」

「ミラーなんとかって店?」

「外国人の人らしいよ」

「殺人?」

「まだ分かんないって」


 軽い声。


 遠い事件を話す声。


 当然だ。


 彼らにとって、死んだ女性は知らない誰かだ。


 ニュースの中の一行だ。


 顔写真が出れば、少しだけ同情される。店の名前が出れば、少しだけ噂される。数日経てば、別の事件に流される。


 それが普通だ。


 普通の人間は、知らない他人の死をずっと抱えてはいられない。


 レイはそう思った。


 思ったはずだった。


 ニュース映像が切り替わる。


 店の外観が映った。


 クラブ《ミラー・ルージュ》。


 赤いネオンは昼の光の中で消えている。警察の黄色い規制線。濡れた路地。ブルーシート。制服警官。集まる報道陣。


 そして、被害者の写真。


 エミー・グレイス・ハーパー。


 舞台用ではない写真だった。


 たぶん在留カードか、店の宣材写真から切り取ったものだろう。ハニーブロンドの髪。青灰色の瞳。少し作った笑顔。


 レイの喉が熱くなった。


 画面の中の彼女が、雨の路地の彼女と重なる。


 踊っていた。

 笑っていた。

 逃げようとしていた。

 明日へ行くつもりだった。


 そのはずなのに、レイの口から出た言葉は、乾いていた。


「僕がひとり死んだ」


 教室の音が、一瞬だけ遠ざかった。


 言ってから、自分でも気づいた。


 しまった。


 真昼が、スマホを持ったまま固まっていた。


「今」


 彼女の声から、いつもの軽さが消えていた。


「何て言ったの?」


 レイは視線を外した。


「何も」


「言った」


「聞き間違いだろ」


「私、耳はいいよ」


「なら悪くしたほうが生きやすい」


「ごまかさないで」


 真昼はスマホを机に置いた。


 画面の中では、ニュースキャスターが事件の概要を読み上げている。


 昨夜未明。

 夜見坂歓楽街。

 クラブ《ミラー・ルージュ》裏手の路地。

 刃物のようなものによる傷。

 現場付近では黒い傘を差した人物の目撃情報。


 刃物のようなもの。


 黒い傘。


 レイの右手が疼いた。


「御影くん」


 真昼が低く言った。


「今の、どういう意味?」


「言葉通りの意味はない」


「じゃあ、どういう意味ならあるの?」


「ない」


「嘘」


「またそれか」


「だって嘘だもん」


 真昼は椅子を引き、レイの前に座った。


 昼休みの教室は騒がしい。けれど二人の周囲だけ、少し空気が薄くなったようだった。


「知ってたの?」


「何を」


「この人が死んだこと」


「ニュースで見た」


「その前」


「知らない」


「じゃあ、なんで『僕がひとり死んだ』なんて言うの」


 レイは黙った。


 答えようがない。


 同じ魂を持つ別人がいる。


 その記憶が自分に流れ込む。


 彼女は殺された。


 そして、その殺した側の感触も自分の中にある。


 でも、犯人の顔だけが思い出せない。


 そんな話をすれば、真昼はどうするか。


 笑うか。


 怖がるか。


 記事にするか。


 たぶん、どれでもない。


 彼女はまず、被害者の名前を聞くだろう。


 それが一番、面倒だった。


「白瀬」


「なに」


「この事件には関わるな」


 真昼の眉が上がった。


「どうして」


「危ないから」


「具体的に」


「歓楽街の殺人事件だ。女子高生が首を突っ込むことじゃない」


「それ、警察にも親にも先生にも言われるやつ」


「なら全員正しい」


「正しいかどうかは私が決める」


「君の中の裁判所はやっぱり閉鎖したほうがいい」


「茶化して逃げない」


 真昼は机に手を置いた。


 指先が白くなるくらい、強く。


「この人、名前あるよ」


 レイは目を細めた。


「ニュースに出てる」


「エミー・グレイス・ハーパー。二十六歳。クラブ《ミラー・ルージュ》のショーダンサー。たぶん、これから報道では『外国籍女性』とか『歓楽街勤務の女性』とか『被害者』って呼ばれる」


「それが?」


「それが嫌なの」


 真昼の声は、怒っていた。


 けれど、ただの怒りではなかった。


 もっと古い傷に触れたような声だった。


「事件になると、人ってすぐ役割で呼ばれる。被害者。容疑者。外国人女性。店のダンサー。そういう言葉でまとめられて、名前が後ろに追いやられる」


「報道はそういうものだろ」


「そういうものだから、放っておいていいの?」


「君が記事を書いて何が変わる」


「少なくとも、誰かが名前を検索した時に、この人がただ死んだだけじゃないって分かる」


 レイは、画面の中のエミーを見た。


 ただ死んだだけではない。


 そんなことは、知っている。


 知りすぎている。


 膝の痛みも、赤いヒールも、ダンスノートも、壊れかけの星形ピアスも、逃亡準備も、最後に名前を言ったことも、全部。


 でも、それはレイの中にある記憶だ。


 証言ではない。


 記録でもない。


 誰かに渡せる形をしていない。


「やめたほうがいい」


 レイは言った。


「君には関係ない」


 真昼の表情が変わった。


 怒りより先に、失望が来たような顔だった。


「関係ない人が殺されたら」


 彼女はゆっくり言った。


「誰も名前を呼ばなくなるでしょ」


 その言葉は、レイの中にすぐには入ってこなかった。


 名前を呼ぶ。


 それが何になるのか、彼には分からなかった。


 死んだ人間は戻らない。


 殺された同魂者の記憶は、すでに自分の中にある。


 エミーの痛みも、恐怖も、最後の抵抗も、全部覚えている。


 なら、それで足りるのではないか。


 自分が覚えているなら、消えてはいないのではないか。


 そう思おうとした。


 でも、画面の中のエミーの写真が、わずかに滲んだ気がした。


 雨のせいではない。


 スマホの液晶のせいでもない。


 レイの記憶の中で、黒い傘の下だけが何度も潰れる。


 被害者の顔はある。

 加害者の手はある。

 凶器の重さもある。

 雨の匂いもある。

 路地の赤いネオンもある。


 なのに、犯人の顔だけがない。


 レイは無意識に右手を握った。


 真昼がそれに気づく。


「御影くん」


「なに」


「本当に、何か知ってるんだね」


「知らない」


「じゃあ、何を覚えてるの?」


 その問いは、ほとんど正解だった。


 レイは真昼を見た。


 琥珀色の瞳が、真っ直ぐこちらを見返している。


 怖がっていない。


 引いてもいない。


 ただ、知ろうとしている。


 それが少しだけ、腹立たしかった。


「白瀬」


「うん」


「君は、知らなくていい」


「それを決めるのは、御影くんじゃない」


「死ぬかもしれない」


「脅してる?」


「警告してる」


「じゃあ、ちゃんと警告して。何が危ないの。誰が危ないの。黒い傘? ミラー・ルージュ? それとも、御影くん?」


 最後の言葉で、レイは黙った。


 真昼はその沈黙を見逃さなかった。


「……御影くん?」


 昼休みの終了五分前を知らせる予鈴が鳴った。


 教室の空気が動き出す。


 弁当箱を片づける音。購買から戻ってきた生徒の声。教師が廊下を歩く足音。日常が、何事もなかったように戻ってくる。


 真昼はまだレイを見ていた。


 レイはスマホの画面を伏せた。


 そこに映っていたエミーの顔が消える。


 消したのは自分だ。


 そのことに、なぜか胸が少しだけ重くなった。


「授業が始まる」


 レイは言った。


「逃げた」


「そう見えるなら、そうなんだろう」


「放課後、旧新聞部室に来て」


「行かない」


「来て」


「行かないと言った」


「じゃあ私が勝手に夜見坂へ行く」


 レイは真昼を見た。


 真昼は本気だった。


 この少女は、本当に行く。


 黄色い規制線があっても、警察がいても、危ないと言われても、記事のために、名前のために、現場へ近づく。


 レイは短く息を吐いた。


「……放課後だけだ」


 真昼の表情が少しだけ明るくなった。


「来るんだ」


「君が勝手に死ぬよりはましだ」


「心配してる?」


「迷惑を減らしたい」


「はいはい、そういうことにしとく」


 真昼はスマホをしまい、自分の席へ戻ろうとした。


 その途中で、ふと振り返る。


「御影くん」


「まだ何か」


「さっきの言葉、取り消さないから」


「どれ」


「関係ない人が殺されたら、誰も名前を呼ばなくなるってやつ」


 レイは返事をしなかった。


 真昼は続けた。


「だから、私は呼ぶよ。エミー・グレイス・ハーパー。ちゃんと名前で」


 その名前を聞いた瞬間、レイの中で赤い照明が揺れた。


 舞台の上で、彼女が笑っている。


 大丈夫。


 まだ踊れる。


 その声が、記憶の奥で小さく響いた。


 レイは窓の外を見た。


 雨がまた強くなっていた。


 透明な傘が校庭の端に並んでいる。


 その中に一本だけ、黒い傘が立っているように見えた。


 瞬きをすると、それは消えた。


 犯人の顔は、やはり思い出せない。


 ただ、声だけが残っている。


 私はお前だ。


 レイは右手を握ったまま、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。


「違う」


 それが、エミーの言葉なのか。


 自分の言葉なのか。


 その時のレイには、まだ分からなかった。

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