第一章 犯人の顔だけがない
「レイ、朝よ」
名前を呼ばれて、御影レイは目を開けた。
最初に見えたのは、自分の部屋の天井ではなかった。
雨に濡れた路地だった。
赤いネオンが水たまりの上で砕けている。黒い傘の縁から、雨粒が糸のように落ちている。片方だけ脱げた赤いヒール。水に沈みかけた星形のピアス。濡れた金髪。薄く開いた唇。
喉が熱い。
違う。
喉を切られたのは、僕じゃない。
右手が重い。
違う。
黒いナイフを握っていたのは、僕じゃない。
死にたくない。
それは、僕の恐怖ではない。
でも、胸の奥でそれは確かに鳴っていた。
死にたくない。
まだ行きたい場所がある。
まだ名前を呼ばれたい。
まだ明日へ行くつもりだった。
「レイ?」
もう一度、母の声がした。
雨の路地が割れた。
赤いネオンが薄れて、白い朝の光に変わる。湿ったアスファルトの匂いが、洗濯物の柔軟剤と味噌汁の匂いへ変わる。耳の奥に残っていた拍手が、階下で食器を置く小さな音に置き換わる。
レイは、自分の部屋のベッドの上にいた。
カーテンの隙間から入る光は鈍い。窓ガラスには雨粒が細く残っていた。夜の雨が、まだ朝の街に貼りついている。
身体を起こそうとして、レイは右手を見た。
何も握っていなかった。
白いシーツの上に置かれた、細い指。爪の間に血はない。掌にも傷はない。黒い刃の重さも、実際にはどこにも残っていない。
それなのに、握っていた感覚だけがある。
刃ではなく、刃の周囲の空気を握っていたような感覚。
光を反射しない、黒い穴みたいなナイフ。
レイは右手を開いたり閉じたりした。
関節はいつも通りに動く。
心臓も動いている。
息もできる。
喉も切れていない。
胸も刺されていない。
膝も痛くない。
それが、少しだけ気持ち悪かった。
「生きてる?」
ドアの向こうから、母がそう聞いた。
いつもの確認だった。
冗談みたいな声ではない。深刻すぎる声でもない。毎朝、洗濯物を畳んだか、傘を持ったか、朝食を食べるかを聞くのと同じ温度で、彼女は息子の生存を確かめる。
レイは喉に手を当てた。
指先に触れる皮膚は、なめらかで、冷たくも熱くもなかった。
「生きてる」
答える声が、少しかすれていた。
ドアの向こうで、小さく息を吐く気配がした。
「なら起きなさい。今日は雨だから、傘を忘れないで」
「分かってる」
「朝ご飯、食べられる?」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて、一口は食べる」
その言い方があまりに日常で、レイはしばらく返事をしなかった。
雨の路地では、誰かが死んでいた。
その誰かは、遠い他人ではない。
名前を知らなくても、顔を知らなくても、レイには分かる。
同じ根から伸びた、別の人生。
同じ魂を持つ、別の人間。
その死の瞬間が、今も身体の内側に沈んでいる。
それでも階下では味噌汁が温められていて、母は一口は食べろと言い、学校の時間は近づいていた。
世界はいつもそうだった。
誰かが死んでも、朝は来る。
自分が死んでも、朝は来る。
レイはベッドから降りた。
裸足が床に触れた瞬間、足裏に別の感触が重なった。
濡れた石畳。
細いヒールの不安定さ。
右膝の古傷。
舞台の床の硬さ。
長く踊ってきた身体の疲労。
レイは壁に手をついた。
息を吸う。
ここは自室だ。
アガルタ市雨宮坂地区の住宅街。御影家の二階。古い本棚と机とベッドと、黒いノートのある部屋。窓の外には隣家の屋根と、雨に濡れた電線が見える。
レイの身体は十七歳の少年のものだ。
エミー・グレイス・ハーパーのものではない。
そう確認してから、彼は洗面所へ向かった。
*
鏡の中の自分は、いつも通りだった。
黒に近い灰色の髪が少し寝癖で跳ねている。目の下には薄い影がある。制服のシャツはまだ着ていない。首筋には傷ひとつない。
レイは鏡に顔を近づけた。
そこに映っているのは御影レイだった。
女ではない。
ショーダンサーではない。
金髪でもない。
青灰色の瞳でもない。
赤いリップも、星形のピアスもない。
それなのに、鏡の奥で一瞬だけ赤い照明が揺れた。
古い鏡。
壁一面の曇った鏡。
赤いステージ。
客席。
濡れたコート。
拍手。
レイは蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗った。
水が頬を流れる。
雨の感触と重なる。
彼は目を閉じた。
僕はまた死んだ。
それは、これまでにも何度もあった。
知らない男の病室で死んだことがある。
古い列車の事故で死んだことがある。
名前も知らない国の砂の上で、喉を焼かれながら死んだことがある。
子供のまま川に落ちたことも、老人として家族に看取られたこともある。
誰かを愛したまま死んだことも、誰にも知られず死んだこともある。
死は、レイにとって珍しいものではない。
遠い同魂者の記憶が流れ込むたび、彼は死を思い出す。
そのたびに、身体は無傷で目覚める。
呼吸を確認し、母の声を聞き、自分の名前を思い出す。
それで終わるはずだった。
けれど今回は違った。
僕はまた殺した。
右手に、黒いナイフの重みがあった。
刃を差し出す角度。
相手との距離。
雨の中で一歩踏み込む感覚。
逃げようとする身体を追う視界。
握った柄の冷たさ。
加害者の記憶。
それがある。
被害者として死ぬ記憶だけなら、まだ分かる。これまでもあった。死の瞬間は、強くつながる。魂の根が同じなら、最期の恐怖が流れ込むことは珍しくない。
だが、殺す側の手触りまで、自分の中にあるのは異常だった。
レイはタオルで顔を拭いた。
鏡をもう一度見る。
犯人の顔を思い出そうとする。
黒い傘。
黒いコート。
濡れた路地。
黒いナイフ。
声。
私はお前だ。
そこまではある。
けれど、傘の下へ意識を向けると、記憶が滲む。
顔だけがない。
ぼやけているのではない。見落としたのでもない。影で隠れていたのでもない。
そこに顔があったことは分かる。
目も、口も、鼻も、輪郭も、確かに存在していたはずだ。
しかし記憶の中では、そこだけ黒く塗り潰されている。
写真の顔を、あとから墨で消したように。
レイは指先で鏡の自分の顔に触れた。
「誰だ」
小さく呟いた。
鏡の中の自分は答えない。
当然だ。
答えられるなら、もう知っている。
*
朝食の味は、よく分からなかった。
御影佳乃は、食卓の向かいで息子の顔を見すぎないようにしていた。
それが分かる程度には、レイは母を見ていた。
彼女は四十一歳で、アガルタ市立中央図書館の郷土資料室で働いている。朝の食卓では、仕事用のブラウスの上から薄いカーディガンを羽織り、髪を後ろでまとめていた。派手ではない。けれど、身支度はいつも整っている。
食卓には、味噌汁と焼き魚と卵焼きが置かれていた。
父の席は使われていない。
椅子は、まだある。
レイは卵焼きを一切れ口に運んだ。
甘い。
直後に、別の味が重なった。
安い酒。
舞台裏の水。
リップの苦み。
雨の匂い。
吐き気というほどではない。
ただ、今ここで食べている自分と、数時間前に死んだ女の記憶が、同じ喉を通ろうとしている。
「無理なら残していいわ」
佳乃が言った。
レイは箸を止めた。
「一口は食べろって言った」
「食べたから」
「そう」
「母さん」
「なに?」
「昨日の夜、雨、強かった?」
佳乃は少しだけ考えた。
「この辺りは、夜中に少し。歓楽街のほうは強かったみたいね。夜見坂で冠水しかけたって、朝のニュースで言ってた」
「夜見坂」
口にした瞬間、赤いネオンが頭の奥で揺れた。
佳乃がこちらを見る。
「知り合いでもいるの?」
「いない」
「そう」
佳乃はそれ以上聞かなかった。
レイは、母のそういうところに救われている。
問い詰めない。
でも、見ていないわけではない。
それが一番厄介で、一番ありがたい。
「レイ」
「なに」
「今日は、帰りが遅くなるなら連絡して」
「いつもしてる」
「昨日はしてない」
「寝てた」
「たぶんね」
佳乃は湯呑みを持ち上げた。
柔らかい黒い瞳が、少しだけ不安そうに揺れた。
「何を見たのか、今は言わなくていい。でも、帰ってきたら返事はして」
「……分かった」
「あなたが何を覚えていても」
佳乃はそこで一度、言葉を切った。
レイは箸を持ったまま、母を見た。
「ここでは御影レイよ」
その言葉は、味噌汁の湯気よりも静かに、食卓へ落ちた。
レイは返事をしなかった。
できなかった。
代わりに、残っていた卵焼きをもう一切れ食べた。
甘かった。
今度は、少しだけ味が分かった。
*
アガルタの朝は、夜を引きずっている。
駅へ向かう坂道には、まだ濡れた落ち葉が貼りついていた。マンホールの縁から白い湯気が上がり、古い石壁の隙間を雨水が細く流れている。空は明るいのに、地面だけが夜のままだった。
レイは透明に近い薄灰色の傘を差して歩いた。
学院指定の傘だ。
街には同じ傘を持った生徒がいくらでもいた。黒に近い紺のブレザー、白シャツ、銀灰色のネクタイ。私立アガルタ学院高等部の制服は、雨の日によく馴染む。
駅へ向かう生徒たちは、いつも通りに話していた。
小テスト。
部活。
新しい動画。
誰かの恋人。
購買のパン。
昨日のテレビ。
その声の隙間に、女の笑い声が混ざった。
英語だった。
違う。
記憶だ。
レイは歩く速度を落とした。
水たまりに、自分の顔が映る。
その横に、一瞬だけ金髪の女が映った。
赤いリップ。濡れた頬。片耳の星。
瞬きをすると、消えた。
レイは足を止めずに歩いた。
慣れている。
そう思おうとした。
だが、慣れていることと、平気なことは違う。
駅の改札を抜ける時、右手に黒いナイフの重さが戻った。
切符を通す手と、刃を握る手が重なる。
レイは改札機に学生証をかざし損ねた。
電子音が鳴る。
後ろの生徒が「あ」と小さく声を漏らした。
レイは一度下がり、もう一度カードをかざした。
今度は通れた。
何でもない顔で歩く。
何でもない顔をするのは、得意だった。
学院へ向かう電車の窓には、雨に濡れた街が流れていた。
地下へ入る直前、窓の外に夜見坂方面のネオン看板が遠く見えた。
昼の光の中では、そこはただの古い歓楽街だった。
死体の気配など、どこにもない。
けれどレイの喉には、まだ切られた痛みが残っていた。
*
私立アガルタ学院は、雨宮坂の上に建っている。
坂道を上ると、新校舎のガラス張りの壁が見えてくる。晴れた日なら、そこには市街地の光や遠くの空が映る。雨の日は違う。ガラスは曇り、校舎全体が霧の中に沈んだように見える。
旧校舎の煉瓦壁は、新校舎の奥にひっそりと残っていた。
赤茶色の壁。細い窓。使われていない講堂。資料室。古い新聞部室。
レイはそこへ視線を向けた。
理由は分からない。
ただ、今朝は旧校舎の窓がいつもより暗く見えた。
「また死人みたいな顔してる」
背後から声がした。
振り向かなくても分かった。
白瀬真昼。
高等部二年三組。新聞部所属。正確には、学校公認の新聞部よりも、個人取材サイト《アガルタ観測録》の管理者としてのほうが有名な生徒。
制服はきちんと着ていない。
ネクタイは緩い。袖は少し捲っている。肩にはカメラストラップ。鞄からはメモ帳と小型のボイスレコーダーが半分はみ出している。栗色の髪はポニーテールにまとめられていたが、湿気で少し跳ねていた。
琥珀色の瞳が、まっすぐレイを見る。
笑っているのに、観察している目だった。
「今朝、死んだから」
レイは答えた。
真昼は二秒ほど黙った。
それから、眉を寄せる。
「朝からブラックすぎない?」
「そうかな」
「そうだよ。普通は『寝不足』とか『低血圧』とか言うところでしょ」
「寝不足で、低血圧で、死んだ」
「死因、雑」
真昼は呆れたように言いながら、レイの隣に並んだ。
「ていうか、本当に顔色悪いよ。保健室行く?」
「必要ない」
「そういう人ほど倒れるんだよ」
「倒れたら行く」
「倒れる前に行くのが文明人」
「僕は野蛮でいい」
「うわ、感じ悪い」
いつもの調子だった。
真昼はよく喋る。
レイは必要最低限だけ返す。
周囲から見れば、真昼が一方的に絡んでいるように見えるのだろう。実際、半分くらいはそうだった。
しかし、彼女はレイの沈黙を怖がらない。
それが少し面倒で、少しだけ厄介だった。
「で、ほんとは何?」
「何が」
「今朝の『死んだから』。冗談にしては、目が笑ってない」
「君は人の目を見すぎる」
「取材の基本だから」
「僕は取材対象じゃない」
「今のところはね」
「今後も違う」
「それはこっちが決める」
真昼は笑った。
レイはため息をついた。
教室へ入ると、朝の騒がしさがあった。
椅子を引く音。鞄を机に置く音。友人同士の会話。誰かがスマホで動画を見て笑っている。窓の外では雨がまた細く降り始めていた。
レイの席は、窓際の後方だった。
彼はそこに座り、鞄を置いた。
真昼は前の席の生徒に「ちょっと借りるね」と言って椅子を反転させ、レイの机に両肘をついた。
「ねえ、夜見坂の事件、知ってる?」
レイの指が止まった。
黒いノートを机に出しかけていた手。
「事件?」
「まだ詳しく出てないけど、歓楽街で何かあったっぽい。夜中に警察車両が何台も入ったって投稿がある。動画はすぐ消された」
「よく見てるね」
「見るよ。アガルタ観測録の管理人ですから」
「ただの野次馬だろ」
「違います。市民記者です」
「もっと悪い」
「ひどい」
真昼は頬を膨らませたが、すぐに表情を戻した。
「でも、本当に変なんだよ。投稿したアカウント、三つくらい消えてる。動画も、黒い傘の人が映ってたってコメントだけ残ってるのに、元動画がない」
黒い傘。
レイは窓の外を見た。
校庭に、透明傘が並んでいる。
黒い傘はない。
それでも、黒い影が目の奥に落ちた。
「興味ない」
「まだ何の事件かも言ってないのに?」
「大体分かる」
「え?」
真昼の目が鋭くなった。
しまった、と思った時には遅かった。
「大体分かるって、何が?」
「歓楽街で警察車両が来る事件なんて、珍しくないだろ」
「夜見坂では珍しくない。でも動画が消えるのは珍しい。黒い傘ってコメントが残るのも珍しい。あと、御影くんが今、明らかに反応したのも珍しい」
「観察しすぎ」
「隠すの下手すぎ」
レイはノートを開いた。
真昼は机に身を乗り出す。
「知ってることあるの?」
「ない」
「嘘」
「証拠は?」
「顔」
「顔は証拠にならない」
「私の中ではなる」
「君の中の裁判所は閉鎖したほうがいい」
そこで担任が入ってきた。
真昼は不満そうに口を閉じ、椅子を戻して自分の席へ行った。
朝のホームルームが始まる。
担任の声は遠かった。
連絡事項。提出物。進路調査。天候不良による部活動の注意。
レイは窓を見ていた。
ガラスに雨粒が流れている。
その向こうに、赤いステージが重なる。
エミーが踊っている。
笑っている。
右膝を庇っている。
客席に向かって、名前を覚えて、と無言で言っている。
エミー。
エミー・グレイス・ハーパー。
誰だ。
君は、誰だった。
レイは目を閉じた。
そしてすぐに開けた。
閉じると、雨の路地へ戻ってしまいそうだった。
*
午前の授業は、紙の上を滑っていった。
数学の教師が黒板に数式を書き、英語の教師が長文を読ませ、現代文の教師が登場人物の心情を問う。
レイは指名されれば答えた。
答えられた。
頭の中には、解法も文法も本文の構造も入っている。知識を引き出すことは難しくない。むしろ簡単だった。
難しいのは、自分の記憶と、他人の記憶を分けることだった。
英語の教科書を開いた時、エミーの発音が舌に乗った。
教師の読み上げる英文よりも自然に、別の言葉が出そうになる。
レイは唇を閉じた。
現代文で「名前」という単語が出た時、胸の奥が反応した。
名前を覚えて。
忘れてもいい。
でも、今は覚えて。
誰に言った?
犯人に?
自分に?
遠くの少年に?
レイはペンを握った。
筆圧が強くなり、ノートの紙が少しへこんだ。
昼休みのチャイムが鳴った時、彼はようやく息を吐いた。
「御影くん」
すぐ横に真昼がいた。
「近い」
「逃げる前に確保」
「僕は犯罪者じゃない」
「まだね」
「まだって何」
「今後の態度次第」
真昼はそう言って、スマホを掲げた。
画面にはニュース速報の見出しが出ていた。
レイは見ないようにした。
見ないようにしたのに、見えてしまった。
――夜見坂歓楽街の路地で女性死亡 外国籍のショーダンサーか
教室のざわめきが少し変わっていた。
数人の生徒が同じニュースを見ている。
「歓楽街だって」
「こわ」
「ミラーなんとかって店?」
「外国人の人らしいよ」
「殺人?」
「まだ分かんないって」
軽い声。
遠い事件を話す声。
当然だ。
彼らにとって、死んだ女性は知らない誰かだ。
ニュースの中の一行だ。
顔写真が出れば、少しだけ同情される。店の名前が出れば、少しだけ噂される。数日経てば、別の事件に流される。
それが普通だ。
普通の人間は、知らない他人の死をずっと抱えてはいられない。
レイはそう思った。
思ったはずだった。
ニュース映像が切り替わる。
店の外観が映った。
クラブ《ミラー・ルージュ》。
赤いネオンは昼の光の中で消えている。警察の黄色い規制線。濡れた路地。ブルーシート。制服警官。集まる報道陣。
そして、被害者の写真。
エミー・グレイス・ハーパー。
舞台用ではない写真だった。
たぶん在留カードか、店の宣材写真から切り取ったものだろう。ハニーブロンドの髪。青灰色の瞳。少し作った笑顔。
レイの喉が熱くなった。
画面の中の彼女が、雨の路地の彼女と重なる。
踊っていた。
笑っていた。
逃げようとしていた。
明日へ行くつもりだった。
そのはずなのに、レイの口から出た言葉は、乾いていた。
「僕がひとり死んだ」
教室の音が、一瞬だけ遠ざかった。
言ってから、自分でも気づいた。
しまった。
真昼が、スマホを持ったまま固まっていた。
「今」
彼女の声から、いつもの軽さが消えていた。
「何て言ったの?」
レイは視線を外した。
「何も」
「言った」
「聞き間違いだろ」
「私、耳はいいよ」
「なら悪くしたほうが生きやすい」
「ごまかさないで」
真昼はスマホを机に置いた。
画面の中では、ニュースキャスターが事件の概要を読み上げている。
昨夜未明。
夜見坂歓楽街。
クラブ《ミラー・ルージュ》裏手の路地。
刃物のようなものによる傷。
現場付近では黒い傘を差した人物の目撃情報。
刃物のようなもの。
黒い傘。
レイの右手が疼いた。
「御影くん」
真昼が低く言った。
「今の、どういう意味?」
「言葉通りの意味はない」
「じゃあ、どういう意味ならあるの?」
「ない」
「嘘」
「またそれか」
「だって嘘だもん」
真昼は椅子を引き、レイの前に座った。
昼休みの教室は騒がしい。けれど二人の周囲だけ、少し空気が薄くなったようだった。
「知ってたの?」
「何を」
「この人が死んだこと」
「ニュースで見た」
「その前」
「知らない」
「じゃあ、なんで『僕がひとり死んだ』なんて言うの」
レイは黙った。
答えようがない。
同じ魂を持つ別人がいる。
その記憶が自分に流れ込む。
彼女は殺された。
そして、その殺した側の感触も自分の中にある。
でも、犯人の顔だけが思い出せない。
そんな話をすれば、真昼はどうするか。
笑うか。
怖がるか。
記事にするか。
たぶん、どれでもない。
彼女はまず、被害者の名前を聞くだろう。
それが一番、面倒だった。
「白瀬」
「なに」
「この事件には関わるな」
真昼の眉が上がった。
「どうして」
「危ないから」
「具体的に」
「歓楽街の殺人事件だ。女子高生が首を突っ込むことじゃない」
「それ、警察にも親にも先生にも言われるやつ」
「なら全員正しい」
「正しいかどうかは私が決める」
「君の中の裁判所はやっぱり閉鎖したほうがいい」
「茶化して逃げない」
真昼は机に手を置いた。
指先が白くなるくらい、強く。
「この人、名前あるよ」
レイは目を細めた。
「ニュースに出てる」
「エミー・グレイス・ハーパー。二十六歳。クラブ《ミラー・ルージュ》のショーダンサー。たぶん、これから報道では『外国籍女性』とか『歓楽街勤務の女性』とか『被害者』って呼ばれる」
「それが?」
「それが嫌なの」
真昼の声は、怒っていた。
けれど、ただの怒りではなかった。
もっと古い傷に触れたような声だった。
「事件になると、人ってすぐ役割で呼ばれる。被害者。容疑者。外国人女性。店のダンサー。そういう言葉でまとめられて、名前が後ろに追いやられる」
「報道はそういうものだろ」
「そういうものだから、放っておいていいの?」
「君が記事を書いて何が変わる」
「少なくとも、誰かが名前を検索した時に、この人がただ死んだだけじゃないって分かる」
レイは、画面の中のエミーを見た。
ただ死んだだけではない。
そんなことは、知っている。
知りすぎている。
膝の痛みも、赤いヒールも、ダンスノートも、壊れかけの星形ピアスも、逃亡準備も、最後に名前を言ったことも、全部。
でも、それはレイの中にある記憶だ。
証言ではない。
記録でもない。
誰かに渡せる形をしていない。
「やめたほうがいい」
レイは言った。
「君には関係ない」
真昼の表情が変わった。
怒りより先に、失望が来たような顔だった。
「関係ない人が殺されたら」
彼女はゆっくり言った。
「誰も名前を呼ばなくなるでしょ」
その言葉は、レイの中にすぐには入ってこなかった。
名前を呼ぶ。
それが何になるのか、彼には分からなかった。
死んだ人間は戻らない。
殺された同魂者の記憶は、すでに自分の中にある。
エミーの痛みも、恐怖も、最後の抵抗も、全部覚えている。
なら、それで足りるのではないか。
自分が覚えているなら、消えてはいないのではないか。
そう思おうとした。
でも、画面の中のエミーの写真が、わずかに滲んだ気がした。
雨のせいではない。
スマホの液晶のせいでもない。
レイの記憶の中で、黒い傘の下だけが何度も潰れる。
被害者の顔はある。
加害者の手はある。
凶器の重さもある。
雨の匂いもある。
路地の赤いネオンもある。
なのに、犯人の顔だけがない。
レイは無意識に右手を握った。
真昼がそれに気づく。
「御影くん」
「なに」
「本当に、何か知ってるんだね」
「知らない」
「じゃあ、何を覚えてるの?」
その問いは、ほとんど正解だった。
レイは真昼を見た。
琥珀色の瞳が、真っ直ぐこちらを見返している。
怖がっていない。
引いてもいない。
ただ、知ろうとしている。
それが少しだけ、腹立たしかった。
「白瀬」
「うん」
「君は、知らなくていい」
「それを決めるのは、御影くんじゃない」
「死ぬかもしれない」
「脅してる?」
「警告してる」
「じゃあ、ちゃんと警告して。何が危ないの。誰が危ないの。黒い傘? ミラー・ルージュ? それとも、御影くん?」
最後の言葉で、レイは黙った。
真昼はその沈黙を見逃さなかった。
「……御影くん?」
昼休みの終了五分前を知らせる予鈴が鳴った。
教室の空気が動き出す。
弁当箱を片づける音。購買から戻ってきた生徒の声。教師が廊下を歩く足音。日常が、何事もなかったように戻ってくる。
真昼はまだレイを見ていた。
レイはスマホの画面を伏せた。
そこに映っていたエミーの顔が消える。
消したのは自分だ。
そのことに、なぜか胸が少しだけ重くなった。
「授業が始まる」
レイは言った。
「逃げた」
「そう見えるなら、そうなんだろう」
「放課後、旧新聞部室に来て」
「行かない」
「来て」
「行かないと言った」
「じゃあ私が勝手に夜見坂へ行く」
レイは真昼を見た。
真昼は本気だった。
この少女は、本当に行く。
黄色い規制線があっても、警察がいても、危ないと言われても、記事のために、名前のために、現場へ近づく。
レイは短く息を吐いた。
「……放課後だけだ」
真昼の表情が少しだけ明るくなった。
「来るんだ」
「君が勝手に死ぬよりはましだ」
「心配してる?」
「迷惑を減らしたい」
「はいはい、そういうことにしとく」
真昼はスマホをしまい、自分の席へ戻ろうとした。
その途中で、ふと振り返る。
「御影くん」
「まだ何か」
「さっきの言葉、取り消さないから」
「どれ」
「関係ない人が殺されたら、誰も名前を呼ばなくなるってやつ」
レイは返事をしなかった。
真昼は続けた。
「だから、私は呼ぶよ。エミー・グレイス・ハーパー。ちゃんと名前で」
その名前を聞いた瞬間、レイの中で赤い照明が揺れた。
舞台の上で、彼女が笑っている。
大丈夫。
まだ踊れる。
その声が、記憶の奥で小さく響いた。
レイは窓の外を見た。
雨がまた強くなっていた。
透明な傘が校庭の端に並んでいる。
その中に一本だけ、黒い傘が立っているように見えた。
瞬きをすると、それは消えた。
犯人の顔は、やはり思い出せない。
ただ、声だけが残っている。
私はお前だ。
レイは右手を握ったまま、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「違う」
それが、エミーの言葉なのか。
自分の言葉なのか。
その時のレイには、まだ分からなかった。




