序章 雨の中のエミー
幻都アガルタでは、夜になると雨が降る。
毎晩ではない。天気予報の数字としては、そんなに多くない。けれど夜見坂歓楽街に立つ者は、みんな同じことを言う。
ここは、夜になると濡れる街だ。
看板のネオンが濡れる。客のコートの裾が濡れる。坂道の石畳が濡れる。古いビルの壁に貼られたポスターが、剥がれかけた端から水を吸って重くなる。
そして、鏡が曇る。
クラブ《ミラー・ルージュ》の壁には、古い鏡が何枚も嵌め込まれていた。
かつては店内を広く見せるための飾りだったのだろう。赤い照明を倍に増やし、踊る女たちの脚を、腕を、笑顔を、客席のグラスの中にまで反射させるための小道具だったのだろう。
けれど今は、どの鏡も少しずつ古びていた。
縁の金箔は黒く沈み、角には小さな曇りが浮いている。ひび割れた鏡面を、黒い塗料でごまかした跡もあった。そこに赤いライトが当たると、鏡はもう人を映す道具ではなく、赤い水たまりのように見えた。
その赤い水たまりの中で、エミー・グレイス・ハーパーは笑っていた。
笑うのは得意だった。
口角を上げる角度。目尻の力の抜き方。客席のどこを見るか。どのタイミングで視線を外すか。自分を安売りしているように見せず、それでいて客を寂しくさせない笑い方。
舞台に立つ女は、踊りだけで踊っているわけではない。
照明、音楽、衣装、客の視線、煙草の匂い、グラスの氷が鳴る音、支配人の機嫌、同僚の呼吸、床板の軋み。全部を足の裏で拾って、それでも顔だけは軽やかにしていなければならない。
エミーは赤いヒールで床を叩いた。
かつん、と乾いた音が鳴る。
右膝に、針を刺したような痛みが走った。
大丈夫。
彼女は笑ったまま、腰をひねった。
まだ踊れる。
左足へ体重を逃がす。膝を庇っていることが客席から分からないよう、上半身の動きを少し大きくする。肩を開き、腕を伸ばし、手首だけを柔らかく返す。
赤紫の羽飾りが揺れた。
客席の奥で、濡れたコートを着た男が拍手した。隣の女が笑った。バーカウンターの向こうで雨宮朔がグラスを磨きながら、ほんの少し眉を上げた。膝のことに気づいたのかもしれない。
気づかなくていいのに、とエミーは思った。
気づかれるのは嫌いではない。
ただ、気づかれたあとに向けられる顔が苦手だった。
大丈夫か、と聞かれる。
休め、と言われる。
無理するな、と誰かが言う。
そういう言葉は優しい。
優しいものは、ときどき鎖に似ている。
「エミー!」
ステージ袖から、小さな声が飛んだ。
新人の橘ミオだった。舞台用のラメをつけすぎた頬が、暗がりの中でもきらきらしている。出番を終えたばかりで息が荒い。まだ十九歳。まだ、自分の疲れをごまかす方法を知らない子。
エミーは踊りながら、ほんの一瞬だけ片目をつむった。
大丈夫、の合図。
ミオは泣きそうな顔で、けれど頷いた。
その顔を見た瞬間、エミーの胸の奥が少しだけ痛んだ。
あの子にも、ちゃんと言わなくちゃ。
今日で最後だと。
音楽が跳ねる。
古いジャズを現代風に編曲した曲だった。安いスピーカーは高音が少し割れる。それでも、曲の中にはまだ昔の輝きが残っていた。いつか本物の劇場で、生演奏で踊ってみたい。そんなことを思っていた頃もあった。
いや。
今も、思っている。
エミーはターンした。
鏡の中の自分が遅れて回る。
ハニーブロンドの巻き髪。赤いリップ。長い睫毛。古い映画のショーダンサーみたいな衣装。左耳で揺れる星形のピアス。
右耳のピアスは、控え室の机の上に置いてある。
留め具が壊れかけていた。衣装係の瑠璃が「明日ちゃんと直す」と言ってくれた。でも、明日はもうここにはいない。
エミーは、鏡の中の自分に向かって微笑んだ。
ごめんね。
でも、もう行くの。
最後のサビに入った。
赤い照明が一段階強くなる。古びたミラーボールが回り、壁の鏡に細かい光の破片をばらまく。客席がぼやける。拍手が遠くなる。膝の痛みも、足首の熱も、きつく締めた衣装の苦しさも、全部まとめて舞台の下へ沈んでいく。
この瞬間だけは、いつも少し救われる。
どんな場所でも、踊っている間だけは、自分の身体が自分のものに戻る。
誰かの店の看板でもない。
誰かの恋人でもない。
誰かに拾われた外国人ダンサーでもない。
契約書の名前でも、支払い台帳の数字でもない。
エミー・グレイス・ハーパー。
その名前だけが、足の裏から背中へ上がってくる。
名前を覚えて。
彼女は客席へ向けて、最後の笑顔を投げた。
エミー。
エミー・グレイス・ハーパー。
音楽が止まった。
一拍だけ、沈黙があった。
それから、拍手が来た。
大きくはない。満席でもない。かつてこの店が持っていたという熱気には、きっと届かない。それでも、誰かが手を叩いていた。誰かが口笛を吹いた。ミオが袖で両手を握りしめていた。リナ・マルケスが客席の脇で、泣くのをこらえるみたいに笑っていた。
エミーは深く、深く、礼をした。
膝が悲鳴を上げた。
大丈夫。
まだ踊れる。
でも、もう踊らない。
この店では。
*
「膝、見せな」
ステージを降りるなり、榛名亜紀がそう言った。
舞台監督兼フロアマネージャーの亜紀は、黒いパンツスーツの袖をまくり、首から鍵束を下げていた。いつもなら口より先に煙草の匂いが来る人だったが、店内禁煙になってからは、代わりにミントのタブレットを噛むようになった。
「見せたら怒るでしょ」
「見せなくても怒るよ」
「Then I choose mystery. 秘密の女って、素敵でしょ?」
「膝を壊した女は素敵じゃない。ただの馬鹿」
亜紀はそう言いながらも、エミーの肩にタオルを掛けた。
汗を吸った肌に、乾いた布の感触がやさしく触れる。エミーは少しだけ目を伏せた。
「亜紀」
「なに」
「バッグ、ありがとう」
亜紀の表情が一瞬止まった。
それから、いつも通りの低い声に戻る。
「裏口近くのロッカー。左から三番目。鍵は刺したままにしてある」
「そんなに親切にしたら、共犯になるよ」
「もうなってる」
「怖くない?」
「怖いよ」
亜紀は、短く笑った。
「でも、あんたがここで壊れていくのを見るほうが、もっと怖い」
エミーは返事をしなかった。
してしまったら、泣く気がした。
控え室は狭かった。
三人分の鏡台が押し込まれ、壁際には衣装ラックが並び、床には靴箱と化粧道具とペットボトルが散らばっている。古い換気扇は雨の日になると湿った空気を逆に吐き出す。赤い照明の下では華やかに見えた衣装も、蛍光灯の下ではほつれや染みが隠せなかった。
エミーの鏡台の前だけ、少し片づいていた。
半分荷造りされたバッグが、椅子の下に置いてある。
大きくはない。安物の黒いボストンバッグ。ファスナーの片側が少し噛みやすく、急いで閉めると必ず引っかかる。
中には、パスポートが入っている。
青いカバーは角が擦れて、何度も開いた跡がついていた。入国スタンプ。期限の近い在留カードのコピー。契約書の控え。折りたたんだ現金。リナに預けるはずだった封筒とは別に、自分で最後まで持っていく分。
古いダンスノートも入れた。
子供の頃に描いた舞台の落書き。英語と日本語が混ざった振付メモ。膝を痛めてからのリハビリ記録。好きだった曲名。苦手だったステップ。新人に教える時の注意。
そして、数日前に書いた短い文。
I saw the rain boy again.
雨の少年を、また見た。
エミーはバッグからノートを取り出し、そのページを開いた。
字が少し乱れている。寝起きに慌てて書いたからだ。
夢の中の少年は、黒い制服を着ていた。
窓際の席。雨の匂い。白いカーテン。教室のざわめき。机の上に置かれたノート。細い指。まだ若いのに、ひどく疲れた目。
誰かが彼の名前を呼んでいた気がする。
でも、聞き取れなかった。
エミーはその少年を知らない。
知らないのに、知っている気がした。
彼が雨を見ている時の胸の重さを、知っている。彼が自分の身体を自分のものだと思いきれない感覚を、知っている。誰かが死んだ朝に、息をするのが少し面倒になる感覚を、知っている。
でも、彼はエミーではなかった。
似ているのに、違う。
鏡の向こうにいる他人みたいに。
「またそれ?」
背後から、リナが覗き込んだ。
褐色の肌に舞台用の金粉が残っている。髪を乱暴にひとつに結び、片手には水のペットボトルを持っていた。
「Rain boy?」
「勝手に読まないで」
「見えてるもん」
「見えたなら忘れて」
「無理。私、記憶力いいの」
リナはそう言って、エミーの隣に腰を下ろした。
椅子がぎしりと鳴る。
「本当に行くんだね」
「行く」
「今夜?」
「今夜」
「どこへ?」
「最初は、安いホテル。明日、駅の向こうの劇場に行く。オーディションじゃないけど、知り合いに会う。昔、一緒に踊ってた人。小さいレビューの仕事があるかもしれない」
「給料、ちゃんと出る?」
「たぶん」
「たぶん、って」
「ここより悪くはない」
リナは黙った。
その沈黙には、否定できない重さがあった。
「トーマは?」
「言った」
「怒った?」
「もちろん」
「殴られた?」
「No」
「本当?」
「本当。言葉のほうが痛かったけど」
エミーは笑った。
リナは笑わなかった。
「エミー」
「なに」
「あなた、笑う時に嘘つくの、下手になったね」
エミーは、鏡に映る自分を見た。
さっきまで舞台で完璧だった顔が、蛍光灯の下ではひどく疲れて見える。ファンデーションでは隠しきれない目の下の影。リップの端のひび割れ。髪の根元は少し暗い。染め直すお金も時間も、最近はいつも後回しだった。
でも、それでも。
「明日から」
エミーは言った。
「私の名前で踊る」
リナの目が濡れた。
「うん」
「店の看板じゃなくて」
「うん」
「トーマのエミーじゃなくて」
「うん」
「ただの、エミー・グレイス・ハーパー」
名前を口にした瞬間、胸の奥に小さな火が灯った。
それはとても頼りない火だった。
雨に当たればすぐ消えてしまいそうな、手で囲わなければ守れない、小さな火。
けれど、確かにあった。
リナは何も言わず、エミーを抱きしめた。
舞台の汗と、安い香水と、雨の匂いが混ざる。
エミーは一度だけ、リナの背中を強く抱き返した。
それから、そっと離れた。
長く抱きしめると、行けなくなる。
「ミオには?」
「あとで」
「泣くよ」
「知ってる」
「怒るよ」
「それも知ってる」
リナは鼻をすすり、無理やり笑った。
「じゃあ、ちゃんと怒られてから行きな」
「時間があったらね」
「作りなよ。最後なんだから」
最後。
その言葉だけが、やけにはっきり響いた。
エミーは鏡の前に置いた星形のピアスを手に取った。
壊れかけの片方。もう片方は耳元で揺れている。
昔、初めて小さな舞台に立った日に買ったものだった。高くはなかった。金属も本物ではない。けれど、照明を浴びると星みたいに光った。
名前を覚えてもらえなかった日も、このピアスだけは覚えていた。
スターになりたかったわけじゃない。
誰かの代わりではなく、自分として見られたかった。
それだけだった。
*
閉店後の《ミラー・ルージュ》は、舞台中よりもずっと広く感じる。
客がいなくなり、音楽が止まり、グラスが片づけられ、照明が落ちると、店は急に古い建物へ戻る。赤いカーテンは色褪せた布になり、鏡は曇った板になり、ステージはただの高くなった床になる。
魔法が解けたみたい、と昔のミオなら言ったかもしれない。
でもエミーは、魔法が解けたあとの舞台も嫌いではなかった。
本当の姿が見えるから。
夢は、きれいなままでは持ち出せない。
傷も、汚れも、未払いの請求書も、痛む膝も、一緒に持っていくしかない。
裏口近くのロッカーからバッグを出す時、廊下の奥で足音がした。
革靴の音。
エミーは振り向かなかった。
「本気なのか」
九条燈馬の声だった。
店のオーナー。元恋人。かつて彼女を拾い、ステージに立たせた男。そして、長い時間をかけて、助けた手を鎖に変えた男。
エミーはバッグのファスナーを確かめた。
今夜に限って、噛まなかった。
「本気」
「外でやれると思っているのか」
「やってみる」
「その膝で?」
「この膝は私の膝よ」
「エミー」
燈馬が一歩近づいた。
香水と酒の匂いがした。
「君はこの店で輝いた。俺が場所を作った。照明を当てた。客を呼んだ。君を守った」
「うん」
エミーは頷いた。
「それは本当」
燈馬の顔に、一瞬だけ安堵が浮かんだ。
だから、エミーは続けた。
「でも、守ることと、閉じ込めることは違う」
燈馬の表情が固まった。
「誰に吹き込まれた」
「私が考えた」
「君はすぐそうやって――」
「トーマ」
エミーは、彼の言葉を遮った。
自分でも驚くくらい、声は静かだった。
「私は、あなたのエミーじゃない」
廊下の奥で雨音が強くなった。
裏口の扉の隙間から、冷たい空気が流れ込んでくる。
燈馬は何か言おうとした。
でも、言えなかった。
エミーはその沈黙に、少しだけ感謝した。
彼にも、最初から悪意しかなかったわけではない。
助けてくれた日もあった。笑わせてくれた夜もあった。夢を信じてくれた瞬間も、たぶん本当にあった。
けれど、終わったのだ。
終わったものを、憎しみだけで包む必要はない。
ただ、出ていけばいい。
「Goodbye, Toma」
エミーはそう言って、裏口の扉を押した。
*
雨が降っていた。
細い雨ではない。
夜見坂の古い建物の隙間へ、斜めに叩きつけるような雨だった。裏路地の排水溝は水を飲み込みきれず、黒い水たまりをいくつも作っている。赤いネオンがそこに映り、揺れ、ちぎれ、踏まれるたびに砕けた。
エミーは折りたたみ傘を開いた。
半分壊れている。
骨が一本歪んでいて、布の端がめくれ上がる。風が吹くと、傘は抵抗するより先に悲鳴を上げた。
「Come on」
エミーは小さく呟いた。
「今夜くらい、ちゃんとして」
傘は答えず、また風にあおられた。
足元の赤いヒールは、水を吸って重くなっていく。もう舞台用の靴で外を歩くべきではなかった。でも、履き替える時間が惜しかった。安いブーツはバッグの中にある。駅まで行ければ、それでいい。
駅まで。
駅の向こうまで。
明日の朝まで。
そこまで行ければ、何かが変わる。
エミーはバッグを抱え直し、路地を歩いた。
ミラー・ルージュの裏口から大通りへ出るには、細い路地を抜ける必要がある。片側には空き瓶のケース。反対側には古い室外機。壁には剥がれたポスター。雨の日には、路地全体が細長い水槽のようになる。
その奥に、人が立っていた。
黒い傘。
最初に見えたのは、それだけだった。
傘の下に顔があるはずなのに、夜と雨がそこだけ濃くなったように見えた。
エミーは足を止めた。
歓楽街に黒い傘の人間など、珍しくない。
雨の夜だ。
誰だって傘を差す。
それなのに、喉の奥が冷えた。
膝の痛みが消えた。
代わりに、胸の中の小さな火が、雨に怯えるように揺れた。
「通して」
エミーは言った。
日本語だった。
黒い傘の人物は動かなかった。
「Please」
今度は英語で言った。
相手は、少しだけ首を傾げたように見えた。
それだけで、なぜかエミーは、夢の中の少年を思い出した。
雨の教室。
窓際の席。
黒い制服。
自分ではないのに、自分の胸の奥にいる誰か。
違う。
エミーはバッグの紐を握った。
これは夢じゃない。
「あなた、誰?」
黒い傘の下から、声がした。
低いとも、高いとも言えない声だった。
若いようにも聞こえる。
疲れた大人のようにも聞こえる。
男の声のようで、女の声のようでもあった。
雨が声の輪郭を削っていた。
「私はお前だ」
エミーは、息を止めた。
意味が分からなかった。
分からないのに、その言葉は胸の奥へ真っ直ぐ入ってきた。
私はお前だ。
その瞬間、知らない記憶が開きかけた。
地下の水音。
白い病室。
黒い手袋。
名前を書こうとして止まる指。
雨に濡れた教室の窓。
誰かが朝の部屋で呼ばれる声。
レイ。
そんな音が、どこかで揺れた。
けれど、エミーはその名前を知らなかった。
知らない名前に、すがるわけにはいかなかった。
「違う」
エミーは言った。
声が震えていた。
でも、言えた。
「私はエミーよ」
黒い傘の人物は、黙っていた。
雨が強くなる。
傘の縁から落ちる水滴が、黒い糸のように見えた。
「エミー・グレイス・ハーパー」
彼女は、自分の名前をもう一度言った。
「覚えて。忘れてもいい。でも、今は覚えて」
黒い傘の下で、何かが揺れた。
顔が見えそうになる。
見えない。
そこに目がある。口がある。鼻筋がある。そう分かるのに、認識しようとすると黒いインクを水に落としたように滲む。
人の顔だけが、世界から消されている。
「名前など」
声がした。
「観測者がつけた傷にすぎない」
「知らない」
エミーは一歩、後ろへ下がった。
「私には、必要なの」
黒い傘の人物の右手が動いた。
黒いものが見えた。
ナイフ、だと思った。
でも、刃は光らなかった。
街灯も、ネオンも、雨粒も、その刃の上では反射しない。銀ではなく、鉄でもなく、そこだけ空間が切り抜かれたような黒だった。
エミーの身体が、本能で逃げようとした。
だが、右膝が遅れた。
痛み。
赤いヒールが水たまりで滑る。
傘が風にあおられ、裏返りかける。
バッグの紐が肩から落ちる。
パスポート。
現金。
ダンスノート。
壊れかけの星形ピアス。
舞台のチケット半券。
明日へ持っていくはずだったものが、一瞬で重くなる。
まだ。
エミーは息を吸った。
まだ、私は――。
黒い刃が近づいた。
*
視点が壊れた。
雨が頬に当たっている。
違う。
雨を見下ろしている。
違う。
右手に、黒いナイフの重さがある。
違う。
喉が熱い。
違う。
赤いヒールが水たまりの中で片方だけ脱げている。
違う。
刺した感触が、手の中に残っている。
違う。
痛い。
痛くない。
逃げたい。
逃がさない。
死にたくない。
終わらせる。
私の名前はエミー。
私はお前だ。
違う。
違う。
違う。
遠くで、誰かが眠っている。
雨の音が、窓ガラスを叩いている。
少年の部屋。
黒いノート。
白いシーツ。
まだ目覚めていない身体。
御影レイ。
その名前だけが、暗い水の底から浮かび上がる。
エミーは倒れている。
エミーは刺している。
エミーは見ている。
エミーは、遠くの少年の中へ流れ込んでいく。
けれど、犯人の顔だけがない。
黒い傘の下。
そこにいたはずの誰か。
声も、手も、刃も、雨の匂いも、全部覚えているのに。
顔だけが、黒く滲んでいる。
最後に、星形のピアスが水たまりへ落ちた。
赤いネオンが、その小さな星を一瞬だけ照らした。
エミー・グレイス・ハーパーは、まだ明日へ行くつもりだった。
その名前だけは、雨の中に残った。




