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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第一巻:エミー・グレイス・ハーパー
1/10

序章 雨の中のエミー

 幻都アガルタでは、夜になると雨が降る。


 毎晩ではない。天気予報の数字としては、そんなに多くない。けれど夜見坂歓楽街に立つ者は、みんな同じことを言う。


 ここは、夜になると濡れる街だ。


 看板のネオンが濡れる。客のコートの裾が濡れる。坂道の石畳が濡れる。古いビルの壁に貼られたポスターが、剥がれかけた端から水を吸って重くなる。


 そして、鏡が曇る。


 クラブ《ミラー・ルージュ》の壁には、古い鏡が何枚も嵌め込まれていた。


 かつては店内を広く見せるための飾りだったのだろう。赤い照明を倍に増やし、踊る女たちの脚を、腕を、笑顔を、客席のグラスの中にまで反射させるための小道具だったのだろう。


 けれど今は、どの鏡も少しずつ古びていた。


 縁の金箔は黒く沈み、角には小さな曇りが浮いている。ひび割れた鏡面を、黒い塗料でごまかした跡もあった。そこに赤いライトが当たると、鏡はもう人を映す道具ではなく、赤い水たまりのように見えた。


 その赤い水たまりの中で、エミー・グレイス・ハーパーは笑っていた。


 笑うのは得意だった。


 口角を上げる角度。目尻の力の抜き方。客席のどこを見るか。どのタイミングで視線を外すか。自分を安売りしているように見せず、それでいて客を寂しくさせない笑い方。


 舞台に立つ女は、踊りだけで踊っているわけではない。


 照明、音楽、衣装、客の視線、煙草の匂い、グラスの氷が鳴る音、支配人の機嫌、同僚の呼吸、床板の軋み。全部を足の裏で拾って、それでも顔だけは軽やかにしていなければならない。


 エミーは赤いヒールで床を叩いた。


 かつん、と乾いた音が鳴る。


 右膝に、針を刺したような痛みが走った。


 大丈夫。


 彼女は笑ったまま、腰をひねった。


 まだ踊れる。


 左足へ体重を逃がす。膝を庇っていることが客席から分からないよう、上半身の動きを少し大きくする。肩を開き、腕を伸ばし、手首だけを柔らかく返す。


 赤紫の羽飾りが揺れた。


 客席の奥で、濡れたコートを着た男が拍手した。隣の女が笑った。バーカウンターの向こうで雨宮朔がグラスを磨きながら、ほんの少し眉を上げた。膝のことに気づいたのかもしれない。


 気づかなくていいのに、とエミーは思った。


 気づかれるのは嫌いではない。


 ただ、気づかれたあとに向けられる顔が苦手だった。


 大丈夫か、と聞かれる。

 休め、と言われる。

 無理するな、と誰かが言う。


 そういう言葉は優しい。


 優しいものは、ときどき鎖に似ている。


「エミー!」


 ステージ袖から、小さな声が飛んだ。


 新人の橘ミオだった。舞台用のラメをつけすぎた頬が、暗がりの中でもきらきらしている。出番を終えたばかりで息が荒い。まだ十九歳。まだ、自分の疲れをごまかす方法を知らない子。


 エミーは踊りながら、ほんの一瞬だけ片目をつむった。


 大丈夫、の合図。


 ミオは泣きそうな顔で、けれど頷いた。


 その顔を見た瞬間、エミーの胸の奥が少しだけ痛んだ。


 あの子にも、ちゃんと言わなくちゃ。


 今日で最後だと。


 音楽が跳ねる。


 古いジャズを現代風に編曲した曲だった。安いスピーカーは高音が少し割れる。それでも、曲の中にはまだ昔の輝きが残っていた。いつか本物の劇場で、生演奏で踊ってみたい。そんなことを思っていた頃もあった。


 いや。


 今も、思っている。


 エミーはターンした。


 鏡の中の自分が遅れて回る。


 ハニーブロンドの巻き髪。赤いリップ。長い睫毛。古い映画のショーダンサーみたいな衣装。左耳で揺れる星形のピアス。


 右耳のピアスは、控え室の机の上に置いてある。


 留め具が壊れかけていた。衣装係の瑠璃が「明日ちゃんと直す」と言ってくれた。でも、明日はもうここにはいない。


 エミーは、鏡の中の自分に向かって微笑んだ。


 ごめんね。


 でも、もう行くの。


 最後のサビに入った。


 赤い照明が一段階強くなる。古びたミラーボールが回り、壁の鏡に細かい光の破片をばらまく。客席がぼやける。拍手が遠くなる。膝の痛みも、足首の熱も、きつく締めた衣装の苦しさも、全部まとめて舞台の下へ沈んでいく。


 この瞬間だけは、いつも少し救われる。


 どんな場所でも、踊っている間だけは、自分の身体が自分のものに戻る。


 誰かの店の看板でもない。

 誰かの恋人でもない。

 誰かに拾われた外国人ダンサーでもない。

 契約書の名前でも、支払い台帳の数字でもない。


 エミー・グレイス・ハーパー。


 その名前だけが、足の裏から背中へ上がってくる。


 名前を覚えて。


 彼女は客席へ向けて、最後の笑顔を投げた。


 エミー。


 エミー・グレイス・ハーパー。


 音楽が止まった。


 一拍だけ、沈黙があった。


 それから、拍手が来た。


 大きくはない。満席でもない。かつてこの店が持っていたという熱気には、きっと届かない。それでも、誰かが手を叩いていた。誰かが口笛を吹いた。ミオが袖で両手を握りしめていた。リナ・マルケスが客席の脇で、泣くのをこらえるみたいに笑っていた。


 エミーは深く、深く、礼をした。


 膝が悲鳴を上げた。


 大丈夫。


 まだ踊れる。


 でも、もう踊らない。


 この店では。


     *


「膝、見せな」


 ステージを降りるなり、榛名亜紀がそう言った。


 舞台監督兼フロアマネージャーの亜紀は、黒いパンツスーツの袖をまくり、首から鍵束を下げていた。いつもなら口より先に煙草の匂いが来る人だったが、店内禁煙になってからは、代わりにミントのタブレットを噛むようになった。


「見せたら怒るでしょ」


「見せなくても怒るよ」


「Then I choose mystery. 秘密の女って、素敵でしょ?」


「膝を壊した女は素敵じゃない。ただの馬鹿」


 亜紀はそう言いながらも、エミーの肩にタオルを掛けた。


 汗を吸った肌に、乾いた布の感触がやさしく触れる。エミーは少しだけ目を伏せた。


「亜紀」


「なに」


「バッグ、ありがとう」


 亜紀の表情が一瞬止まった。


 それから、いつも通りの低い声に戻る。


「裏口近くのロッカー。左から三番目。鍵は刺したままにしてある」


「そんなに親切にしたら、共犯になるよ」


「もうなってる」


「怖くない?」


「怖いよ」


 亜紀は、短く笑った。


「でも、あんたがここで壊れていくのを見るほうが、もっと怖い」


 エミーは返事をしなかった。


 してしまったら、泣く気がした。


 控え室は狭かった。


 三人分の鏡台が押し込まれ、壁際には衣装ラックが並び、床には靴箱と化粧道具とペットボトルが散らばっている。古い換気扇は雨の日になると湿った空気を逆に吐き出す。赤い照明の下では華やかに見えた衣装も、蛍光灯の下ではほつれや染みが隠せなかった。


 エミーの鏡台の前だけ、少し片づいていた。


 半分荷造りされたバッグが、椅子の下に置いてある。


 大きくはない。安物の黒いボストンバッグ。ファスナーの片側が少し噛みやすく、急いで閉めると必ず引っかかる。


 中には、パスポートが入っている。


 青いカバーは角が擦れて、何度も開いた跡がついていた。入国スタンプ。期限の近い在留カードのコピー。契約書の控え。折りたたんだ現金。リナに預けるはずだった封筒とは別に、自分で最後まで持っていく分。


 古いダンスノートも入れた。


 子供の頃に描いた舞台の落書き。英語と日本語が混ざった振付メモ。膝を痛めてからのリハビリ記録。好きだった曲名。苦手だったステップ。新人に教える時の注意。


 そして、数日前に書いた短い文。


 I saw the rain boy again.


 雨の少年を、また見た。


 エミーはバッグからノートを取り出し、そのページを開いた。


 字が少し乱れている。寝起きに慌てて書いたからだ。


 夢の中の少年は、黒い制服を着ていた。


 窓際の席。雨の匂い。白いカーテン。教室のざわめき。机の上に置かれたノート。細い指。まだ若いのに、ひどく疲れた目。


 誰かが彼の名前を呼んでいた気がする。


 でも、聞き取れなかった。


 エミーはその少年を知らない。


 知らないのに、知っている気がした。


 彼が雨を見ている時の胸の重さを、知っている。彼が自分の身体を自分のものだと思いきれない感覚を、知っている。誰かが死んだ朝に、息をするのが少し面倒になる感覚を、知っている。


 でも、彼はエミーではなかった。


 似ているのに、違う。


 鏡の向こうにいる他人みたいに。


「またそれ?」


 背後から、リナが覗き込んだ。


 褐色の肌に舞台用の金粉が残っている。髪を乱暴にひとつに結び、片手には水のペットボトルを持っていた。


「Rain boy?」


「勝手に読まないで」


「見えてるもん」


「見えたなら忘れて」


「無理。私、記憶力いいの」


 リナはそう言って、エミーの隣に腰を下ろした。


 椅子がぎしりと鳴る。


「本当に行くんだね」


「行く」


「今夜?」


「今夜」


「どこへ?」


「最初は、安いホテル。明日、駅の向こうの劇場に行く。オーディションじゃないけど、知り合いに会う。昔、一緒に踊ってた人。小さいレビューの仕事があるかもしれない」


「給料、ちゃんと出る?」


「たぶん」


「たぶん、って」


「ここより悪くはない」


 リナは黙った。


 その沈黙には、否定できない重さがあった。


「トーマは?」


「言った」


「怒った?」


「もちろん」


「殴られた?」


「No」


「本当?」


「本当。言葉のほうが痛かったけど」


 エミーは笑った。


 リナは笑わなかった。


「エミー」


「なに」


「あなた、笑う時に嘘つくの、下手になったね」


 エミーは、鏡に映る自分を見た。


 さっきまで舞台で完璧だった顔が、蛍光灯の下ではひどく疲れて見える。ファンデーションでは隠しきれない目の下の影。リップの端のひび割れ。髪の根元は少し暗い。染め直すお金も時間も、最近はいつも後回しだった。


 でも、それでも。


「明日から」


 エミーは言った。


「私の名前で踊る」


 リナの目が濡れた。


「うん」


「店の看板じゃなくて」


「うん」


「トーマのエミーじゃなくて」


「うん」


「ただの、エミー・グレイス・ハーパー」


 名前を口にした瞬間、胸の奥に小さな火が灯った。


 それはとても頼りない火だった。


 雨に当たればすぐ消えてしまいそうな、手で囲わなければ守れない、小さな火。


 けれど、確かにあった。


 リナは何も言わず、エミーを抱きしめた。


 舞台の汗と、安い香水と、雨の匂いが混ざる。


 エミーは一度だけ、リナの背中を強く抱き返した。


 それから、そっと離れた。


 長く抱きしめると、行けなくなる。


「ミオには?」


「あとで」


「泣くよ」


「知ってる」


「怒るよ」


「それも知ってる」


 リナは鼻をすすり、無理やり笑った。


「じゃあ、ちゃんと怒られてから行きな」


「時間があったらね」


「作りなよ。最後なんだから」


 最後。


 その言葉だけが、やけにはっきり響いた。


 エミーは鏡の前に置いた星形のピアスを手に取った。


 壊れかけの片方。もう片方は耳元で揺れている。


 昔、初めて小さな舞台に立った日に買ったものだった。高くはなかった。金属も本物ではない。けれど、照明を浴びると星みたいに光った。


 名前を覚えてもらえなかった日も、このピアスだけは覚えていた。


 スターになりたかったわけじゃない。


 誰かの代わりではなく、自分として見られたかった。


 それだけだった。


     *


 閉店後の《ミラー・ルージュ》は、舞台中よりもずっと広く感じる。


 客がいなくなり、音楽が止まり、グラスが片づけられ、照明が落ちると、店は急に古い建物へ戻る。赤いカーテンは色褪せた布になり、鏡は曇った板になり、ステージはただの高くなった床になる。


 魔法が解けたみたい、と昔のミオなら言ったかもしれない。


 でもエミーは、魔法が解けたあとの舞台も嫌いではなかった。


 本当の姿が見えるから。


 夢は、きれいなままでは持ち出せない。

 傷も、汚れも、未払いの請求書も、痛む膝も、一緒に持っていくしかない。


 裏口近くのロッカーからバッグを出す時、廊下の奥で足音がした。


 革靴の音。


 エミーは振り向かなかった。


「本気なのか」


 九条燈馬の声だった。


 店のオーナー。元恋人。かつて彼女を拾い、ステージに立たせた男。そして、長い時間をかけて、助けた手を鎖に変えた男。


 エミーはバッグのファスナーを確かめた。


 今夜に限って、噛まなかった。


「本気」


「外でやれると思っているのか」


「やってみる」


「その膝で?」


「この膝は私の膝よ」


「エミー」


 燈馬が一歩近づいた。


 香水と酒の匂いがした。


「君はこの店で輝いた。俺が場所を作った。照明を当てた。客を呼んだ。君を守った」


「うん」


 エミーは頷いた。


「それは本当」


 燈馬の顔に、一瞬だけ安堵が浮かんだ。


 だから、エミーは続けた。


「でも、守ることと、閉じ込めることは違う」


 燈馬の表情が固まった。


「誰に吹き込まれた」


「私が考えた」


「君はすぐそうやって――」


「トーマ」


 エミーは、彼の言葉を遮った。


 自分でも驚くくらい、声は静かだった。


「私は、あなたのエミーじゃない」


 廊下の奥で雨音が強くなった。


 裏口の扉の隙間から、冷たい空気が流れ込んでくる。


 燈馬は何か言おうとした。


 でも、言えなかった。


 エミーはその沈黙に、少しだけ感謝した。


 彼にも、最初から悪意しかなかったわけではない。


 助けてくれた日もあった。笑わせてくれた夜もあった。夢を信じてくれた瞬間も、たぶん本当にあった。


 けれど、終わったのだ。


 終わったものを、憎しみだけで包む必要はない。


 ただ、出ていけばいい。


「Goodbye, Toma」


 エミーはそう言って、裏口の扉を押した。


     *


 雨が降っていた。


 細い雨ではない。


 夜見坂の古い建物の隙間へ、斜めに叩きつけるような雨だった。裏路地の排水溝は水を飲み込みきれず、黒い水たまりをいくつも作っている。赤いネオンがそこに映り、揺れ、ちぎれ、踏まれるたびに砕けた。


 エミーは折りたたみ傘を開いた。


 半分壊れている。


 骨が一本歪んでいて、布の端がめくれ上がる。風が吹くと、傘は抵抗するより先に悲鳴を上げた。


「Come on」


 エミーは小さく呟いた。


「今夜くらい、ちゃんとして」


 傘は答えず、また風にあおられた。


 足元の赤いヒールは、水を吸って重くなっていく。もう舞台用の靴で外を歩くべきではなかった。でも、履き替える時間が惜しかった。安いブーツはバッグの中にある。駅まで行ければ、それでいい。


 駅まで。


 駅の向こうまで。


 明日の朝まで。


 そこまで行ければ、何かが変わる。


 エミーはバッグを抱え直し、路地を歩いた。


 ミラー・ルージュの裏口から大通りへ出るには、細い路地を抜ける必要がある。片側には空き瓶のケース。反対側には古い室外機。壁には剥がれたポスター。雨の日には、路地全体が細長い水槽のようになる。


 その奥に、人が立っていた。


 黒い傘。


 最初に見えたのは、それだけだった。


 傘の下に顔があるはずなのに、夜と雨がそこだけ濃くなったように見えた。


 エミーは足を止めた。


 歓楽街に黒い傘の人間など、珍しくない。


 雨の夜だ。


 誰だって傘を差す。


 それなのに、喉の奥が冷えた。


 膝の痛みが消えた。


 代わりに、胸の中の小さな火が、雨に怯えるように揺れた。


「通して」


 エミーは言った。


 日本語だった。


 黒い傘の人物は動かなかった。


「Please」


 今度は英語で言った。


 相手は、少しだけ首を傾げたように見えた。


 それだけで、なぜかエミーは、夢の中の少年を思い出した。


 雨の教室。

 窓際の席。

 黒い制服。

 自分ではないのに、自分の胸の奥にいる誰か。


 違う。


 エミーはバッグの紐を握った。


 これは夢じゃない。


「あなた、誰?」


 黒い傘の下から、声がした。


 低いとも、高いとも言えない声だった。


 若いようにも聞こえる。

 疲れた大人のようにも聞こえる。

 男の声のようで、女の声のようでもあった。


 雨が声の輪郭を削っていた。


「私はお前だ」


 エミーは、息を止めた。


 意味が分からなかった。


 分からないのに、その言葉は胸の奥へ真っ直ぐ入ってきた。


 私はお前だ。


 その瞬間、知らない記憶が開きかけた。


 地下の水音。

 白い病室。

 黒い手袋。

 名前を書こうとして止まる指。

 雨に濡れた教室の窓。

 誰かが朝の部屋で呼ばれる声。


 レイ。


 そんな音が、どこかで揺れた。


 けれど、エミーはその名前を知らなかった。


 知らない名前に、すがるわけにはいかなかった。


「違う」


 エミーは言った。


 声が震えていた。


 でも、言えた。


「私はエミーよ」


 黒い傘の人物は、黙っていた。


 雨が強くなる。


 傘の縁から落ちる水滴が、黒い糸のように見えた。


「エミー・グレイス・ハーパー」


 彼女は、自分の名前をもう一度言った。


「覚えて。忘れてもいい。でも、今は覚えて」


 黒い傘の下で、何かが揺れた。


 顔が見えそうになる。


 見えない。


 そこに目がある。口がある。鼻筋がある。そう分かるのに、認識しようとすると黒いインクを水に落としたように滲む。


 人の顔だけが、世界から消されている。


「名前など」


 声がした。


「観測者がつけた傷にすぎない」


「知らない」


 エミーは一歩、後ろへ下がった。


「私には、必要なの」


 黒い傘の人物の右手が動いた。


 黒いものが見えた。


 ナイフ、だと思った。


 でも、刃は光らなかった。


 街灯も、ネオンも、雨粒も、その刃の上では反射しない。銀ではなく、鉄でもなく、そこだけ空間が切り抜かれたような黒だった。


 エミーの身体が、本能で逃げようとした。


 だが、右膝が遅れた。


 痛み。


 赤いヒールが水たまりで滑る。


 傘が風にあおられ、裏返りかける。


 バッグの紐が肩から落ちる。


 パスポート。

 現金。

 ダンスノート。

 壊れかけの星形ピアス。

 舞台のチケット半券。


 明日へ持っていくはずだったものが、一瞬で重くなる。


 まだ。


 エミーは息を吸った。


 まだ、私は――。


 黒い刃が近づいた。


     *


 視点が壊れた。


 雨が頬に当たっている。


 違う。


 雨を見下ろしている。


 違う。


 右手に、黒いナイフの重さがある。


 違う。


 喉が熱い。


 違う。


 赤いヒールが水たまりの中で片方だけ脱げている。


 違う。


 刺した感触が、手の中に残っている。


 違う。


 痛い。


 痛くない。


 逃げたい。


 逃がさない。


 死にたくない。


 終わらせる。


 私の名前はエミー。


 私はお前だ。


 違う。


 違う。


 違う。


 遠くで、誰かが眠っている。


 雨の音が、窓ガラスを叩いている。


 少年の部屋。


 黒いノート。


 白いシーツ。


 まだ目覚めていない身体。


 御影レイ。


 その名前だけが、暗い水の底から浮かび上がる。


 エミーは倒れている。


 エミーは刺している。


 エミーは見ている。


 エミーは、遠くの少年の中へ流れ込んでいく。


 けれど、犯人の顔だけがない。


 黒い傘の下。


 そこにいたはずの誰か。


 声も、手も、刃も、雨の匂いも、全部覚えているのに。


 顔だけが、黒く滲んでいる。


 最後に、星形のピアスが水たまりへ落ちた。


 赤いネオンが、その小さな星を一瞬だけ照らした。


 エミー・グレイス・ハーパーは、まだ明日へ行くつもりだった。


 その名前だけは、雨の中に残った。

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