第九章 喧嘩の記憶
莉子を家まで送り届ける道中、健人の意識はやけに静かだった。
自分の体が、自分以外の言葉で誰かを救ったことへの戸惑い。あるいは、僕が流し込んだ「後悔」の残り香が、彼にも伝わってしまったのかもしれない。
街灯の光がアスファルトに長い影を落とす。その影を見つめているうちに、記憶の蓋が、不意に剥がれ落ちた。
あの日の朝、僕は加奈と最悪の喧嘩をした。
発端は、先週、彼女の誕生日に「残業で遅くなる」と嘘をついたことだった。本当は、その足で指輪を探しに行っていたのだけれど、加奈にはまだ何も気づかれていないはずだった。それでも、あの日から時々、彼女が僕をじっと見つめる視線が増えていた。
「陽太、最近隠し事してるでしょ。……もう、私のこと好きじゃないの?」
「そんなわけないって。……仕事に行く。帰りに何か買ってくるから」
加奈の潤んだ瞳から逃げるように、僕は部屋を出た。
本当は、仕事帰りに指輪を探しに行くつもりだった。今日という今日は、決着をつけると決めていた。
ズボラで、いつも僕に甘えてばかりの加奈。けれど、僕が風邪を引けば泣きそうな顔で看病してくれて、僕のくだらない冗談に誰よりも笑ってくれる。そんな彼女と、一生、この汚い部屋で笑い合って生きていこうと決めていた。
……サプライズ、するつもりだったんだ。
走って駅ビルのジュエリーショップに入った。仕事を終え、まっすぐそこへ向かったのだ。
ショーケース越しに、彼女の細い指に似合いそうな光を眺めていた。
どれが良いのか……わからない。
店員と目が合うのが怖くて、自分のような男がそんな高価な約束を背負っていいのか急に足がすくんで、結局、店員に声をかける勇気が出ないまま、僕はその場所を後にした。
「……次、ちゃんと仲直りした時にしよう」
自分に言い訳をして、僕はコンビニへ向かった。歩きながら、意地を張るのも馬鹿らしくなって、僕は加奈に短く送った。
*『残業、終わった。これから帰るよ』*
それだけ送ると、既読はすぐについた。
*『生姜買うの忘れないで。あとアイス、いつものやつ』*
すぐに、そっけない返事が届いた。
頼まれていた生姜と、いつものバニラアイス。喧嘩したままでは渡せないその二つを、仲直りのしるしとして持ち帰ろうと決めていた。指輪の代わりには、あまりにささやかすぎたけれど。
とりあえず、一文字だけ――「り」。
それだけ打った。
買い物袋の中で、生姜とアイスがぶつかり合う音を聞きながら、僕はスマホの画面を睨んでいた。
コンビニから出て、せめて、これだけじゃ味気ない。もう一言、何か付け足さなければ。
*――さっきはごめん。今から帰るから、話を聞いて。*
打ちたかった言葉は、まだ画面には映っていなかった。頭の中で言葉を選んでいる、その一瞬のうちに――
けれど、その指が続きを打つことはなかった。
ブレーキの悲鳴。鈍い衝撃。
手からこぼれ落ちた買い物袋の中で、生姜とアイスがぶつかり合う、乾いた小さな音がした。それが、僕が最後に聞いた音だった。
僕は知らない。既読がついたあの一文に、加奈がずっと返事を打とうとしていたことを。ちょうどその瞬間、加奈のスマホの画面にも、同じ文字が浮かんでいたことを。「り」――たった一文字の「了解」。彼女もまた、送信ボタンを押せないまま、同じ言葉を胸に抱えていたことを。
僕が死んだあの日、加奈が受け取ったのは、僕の言葉ではなく、警察から渡された遺品だけだった。
健人の喉が、勝手に鳴った。
あの日、伝えられなかった言葉が、飲み込めない塊となって胸を塞いでいる。
……オッさん。泣いてるの?
……いや。この体、目が弱いんだよ。
嘘つけ。健人の瞳から溢れたのは、間違いなく僕の涙だった。
僕はまだ、成仏なんてできない。
加奈に、自分がどれほど愛されていたかを知ってほしいわけじゃない。
ただ、あの喧嘩が「最後」のまま、彼女の人生を止めてしまったことが、申し訳なくてたまらないんだ。
「……健人。明日、もう一度、彼女のところへ行かせてくれ」
……仕方ないな。
オッさん。その人のこと、ちゃんと終わらせなよ。
健人の声は、笑い声だったが……少しだけ大人びていた。
空には、あの日と同じ、冷たくて綺麗な月が浮かんでいた。
けれど、その月を見上げながら、僕はふと思う。――アイスは、あとどれくらい残っているんだろう。




