第八章 しつこい優しさ
加奈の部屋を辞し、夜の街を健人の足で歩く。体温があり、心拍がある。それは奇跡のようなことだが、この体には僕の知らない「生活」が詰まっていた。
健人のポケットの中で、スマホが短い振動を繰り返している。
あー!
どうした?
オッさんの都合に付き合ってたから……
見てみろよ!
『莉子』という名前から、心臓に悪そうなメッセージが連投されていた。
*『無視しないでよ』*
*『この前、あんなに喧嘩したまま、事故ったって聞いて心配したのに。生きてるなら返信くらいしてよ』*
*『もういい。最低』*
……なあ、健人。彼女、怒ってるぞ。
……うっせえな。知ってるよ、そんなの。
莉子って、誰だ。彼女なのか。
……とりあえず彼女。そして幼馴染。家近いし、クラスも同じ。
ずいぶん本気で心配されてるみたいだけど。
うるせえんだよ、あいつは昔っから。進路のこととか、態度のこととか、いちいち口出してくるし。「ちゃんとしろ」しか言わねえの。マジでウザい。
僕は思わず苦笑した。ウザいと言うわりに、健人の意識の奥は、苛立つというより、どこか落ち着いていた。
だったら、放っておけばいいじゃないか。
……それが、できねえんだよな。
ぽつり、と健人が呟く。強がりの奥に、隠しきれない何かがある。
前にさ、告白してきた女子とかもいたけど。「健人、顔いいから」とか「一緒にいると自慢できる」とか、そんなんばっかで。……別に、それはそれでよかったんだけど。何か、違うんだよな。
僕は黙って、続きを待った。
莉子は、そういうんじゃねえの。俺の顔とか、どうでもよくて。無理してたら、無理すんなってすぐ言ってくるし。
……だから、ありがたいとは思ってるよ、一応。でも、それ言葉にすんの、なんかカッコ悪いじゃん。
健人が鼻で笑う。強がりの笑いだった。
うっせ、これ以上詮索すんなよ。オッさんには関係ないだろ。
健人の意識が、拗ねたように丸くなる。昨日の事故の遠因は、この莉子という子との喧嘩だったのかもしれない。
謝ればいいじゃないか。心配したって言ってるんだから。
オッさんに何がわかるんだよ。喧嘩したあとって、どうやって顔を合わせればいいか分かんないんだよ。……オッさんたちは、喧嘩しなかったの?
健人の問いに、胸の奥がチクリと痛んだ。
……したよ。山ほど。最後の日だって、そうだ。
記憶が、断片的に蘇る。
「陽太、最近隠し事してるでしょ。……もう、私のこと好きじゃないの?」
彼女のその声だけは、はっきり覚えている。けれど、自分がなんと言って家を出たのか――その言葉だけが、記憶の中でひどく曖昧だった。
……仲直りできる相手がいるのは、贅沢なことなんだぞ、健人。
……。
いいか。女の子が「最低」って送ってくるときは、「寂しいから今すぐ会いに来い」っていう合図だ。……多分、な。
……何それ。オッさん、意外と古臭いアドバイスするんだね。
健人は鼻で笑ったが、「……少しだけ、貸してやるよ」と、僕に主導権を譲った。僕がスマホを操作して『今から会える?』と打ち込む。
三十分後。駅前のマクドナルドの前。短いスカートにパーカーを羽織った、気の強そうな女の子が立っていた。莉子は、僕(健人)の姿を見るなり、目に涙を溜めて駆け寄ってきた。
「バカ健人! 死んだかと思ったじゃん!」
いきなり両肩を掴まれる。健人の体を通して、彼女の震える拳の熱が伝わってくる。
「……悪かった。ちょっと、ぼーっとしてて」
「ぼーっとしてて事故るとか、マジであり得ないから! ……腕、大丈夫なの?」
「平気平気、ちょっと擦りむいただけ。骨とかは何ともないから」
莉子の視線が、健人の包帯に落ちる。その瞳は、怒りよりも深い、純粋な恐怖と安堵で揺れていた。
その表情を見た瞬間、僕はたまらなく羨ましくなった。僕が死んだとき、きっと加奈は一人で、僕のいない部屋に立ち尽くしてたにちがいない。
こんな風に、本人に向かって「バカ」と怒鳴ることさえ許されなかったのだ。
健人、今だ。……ちゃんと目を見て、謝れ。
僕の意識が、主導権を少しだけ健人に戻す。健人はぎこちなく、けれど莉子の肩に手を置いた。
「……莉子、ごめん。今回の事……俺はガキだった。心配かけて、本当にごめん」
莉子は一瞬呆気に取られたように目を見開き、それから健人の胸に顔を埋めて、わっと泣き出した。
夜の駅前。泣きじゃくる少女と、彼女をぎこちなく支える少年。その光景を、中身が幽霊の僕は、どこか遠い気持ちで眺めていた。
よかったな。……仲直り、できたな。
健人の心臓が、莉子の体温に反応してトクンと跳ねる。健人の意識が、わずかに揺れた。それは僕の知らない、新しい鼓動だった。高校生の恋を再生させながら、僕は自分の未練が、さらに鋭く研ぎ澄まされていくのを感じていた。




