第七章 共同生活のような時間
「……いや、多分、気のせいです。この近くのコンビニで、よく見かけてたのかも」
加奈は「そう……」と自信なさげに首を傾げたが、それ以上は踏み込んでこなかった。今の彼女には、他人の正体を暴くようなエネルギーは残っていないのだ。
「これも、ついでに。……元気ないみたいだったから」
バニラアイスを差し出すと、加奈は驚いたように目を丸くし、それから自嘲気味に笑った。
「高校生に心配されるなんて、私、相当ひどい顔してるんだね」
彼女がドアを閉めようとした瞬間、僕は反射的に足を踏み出していた。
オッさん!何してるんだ!健人が声を出すが、聞こえないフリをした。
「……あの、もしよかったら、少し片付け、手伝いましょうか」
は、正気? おいおいおい!それただの不法侵入だから。
健人、頼む。一回だけでいい、一回だけでいいんだ。
あー!もう……勘弁してくれ!
加奈は面食らった顔をしたが、廊下にまで漏れ出している自分の部屋の惨状を振り返り、深く、深くため息をついた。
「……いいよ。もう、どうでもいいから。好きにして」
半分自棄のような許可を得て、僕は何日ぶりかも分からないほど久しぶりに、その部屋へと「帰宅」した。
部屋の惨状は、外から見ていた時よりも凄惨だった。幽霊の時には触れられなかった「コンビニの袋」や「脱ぎっぱなしの服」が、今は健人の手を通して明確な質量を持って迫ってくる。
僕はまず、窓を全開にした。溜まりに溜まった淀んだ空気が、新しい夕風に入れ替わっていく。それから、シンクに溜まったカップを洗った。水で薄めた洗剤ではなく、さっき僕が買ってきた新しい洗剤で。泡がモコモコと立ち上がり、コーヒーの着色汚れを落としていく。その光景を見ているだけで、胸の奥の支えが少しだけ取れるような気がした。
「……陽太も、よくそうやって洗ってくれてた」
背後で、加奈がぽつりと呟いた。洗う手が、一瞬止まる。
「陽太……?」
「亡くなった彼氏。……私、あの人がいないと、ゴミの出の日も忘れちゃうみたい」
加奈の声は、風が吹けば消えそうなほど細かった。
僕は振り返らずに、二人のカップを水ですすいだ。
「……その人は、あなたがそんな風になるのを、一番望んでないと思います」
「……どうしてわかるの?」
「……なんとなく。僕は、そう思うから」
加奈が小さく鼻をすすった音が聞こえた。僕は床に散らばった雑誌をまとめ、中身の入ったままのペットボトルを空けていった。陽太がいつも加奈のためにやっていた手順を、健人の手が完璧にトレースしていた。
「一ノ瀬くん」
「はい」
「……なんだか、変な感じ。初めて会った気がしない」
加奈が、少しだけ笑った。まだひどく頼りない笑みだったけれど、「砂の味」がする世界から、彼女が少しだけこちら側に戻ってきた証拠のように見えた。
一時間後。完璧とは言えないまでも、床が見える程度には片付いた部屋で、僕たちは並んでバニラアイスを食べた。
加奈が、一口食べて「……冷たい」と呟く。
「甘いものは、ちゃんと味がするね」
その言葉を聞いて、僕は健人の胸のあたりが温かくなるのを感じた。
あの日、渡すはずだったのと同じ、あのバニラアイスだ。
買ったときは、こんな形で渡すことになるなんて、想像もしていなかった。ただ、隣で笑っていてほしかっただけなのに。
もし、あと少しだけ早く帰れていたら。もし、あの時に指輪を買っていたら、叶わない「もし」が、頭の中を静かに流れては消えていく。窓の外はもう暗くなっていて、部屋の明かりだけが、二人分の輪郭をぼんやりと照らしていた。この時間が、ずっと続けばいいのに。そう思うことさえ、贅沢だと分かっていながら。
けれど、その温かさと同時に、健人の意識が奥の方で寂しそうに声を上げた。
おい!……オッさん、待てよ!ずるいよ。……俺の彼女、こんな風に笑ってくれないぞ!
その言葉は、忘れていた現実を僕に突きつけた。僕は今、一人の少年の人生を「借りて」ここにいる。この安らぎは、偽物なのだ。
借り物の温もりには、必ず返す時が来る。それがいつなのか、僕にはまだ、わからなかった。




