第六章 再会
驚いたことに、加奈のマンションへの道を、僕は迷うことなく辿ることができた。健人にとっては初めて歩くはずの道のりを、健人の足が僕の記憶通りに動いてくれる。角を曲がるたびに、僕自身の記憶が、健人の体を通して道を教えてくれていた。
オッさん、マジでそこ行くつもり?
行く。……やらなきゃいけないことがあるんだ。
は。ストーカーかよ、キモ……
それに外見はオレなんだから、勘弁してくれよ。
構わず歩く。
そこには見慣れた、レンガ造りの建物。けれど、幽霊の時にはすんなり通り抜けられたオートロックのドアが、今は巨大な障壁となって僕の前に立ちはだかっている。
……詰んだな。
インターホン、押せば?
押して、なんと名乗る? 「死んだ恋人です」とでも言うか?
途方に暮れて立ち尽くしていると、エントランスのドアが内側から開いた。住人が出てきたのだ。僕は咄嗟に、その隙間に滑り込んだ。
四〇二号室。ドアの前に立つ。
……静かだ。幽霊だった時、このドアの向こうで加奈が静かに壊れていくのを、僕はただ見ていることしかできなかった。
僕は、意を決して、インターホンを押した。
――ピンポーン。
その音が、自分の鼓膜を震わせるのが、ひどく新鮮で、そして怖かった。
「……はい」
スピーカーから聞こえたのは、掠れた、生気のない声。加奈だ。
「あ、あの。……上の階に住んでる、一ノ瀬です」
は? オッさん、何言ってるんだよ!俺、ここ住んでねーし。
黙ってろ、緊急事態だ。
「母に、下の階に住んでる方にこれを渡してくるように言われて来ました。間違えて、余分に買ってしまったみたいで」
あまりに苦しい嘘だ。けれど、今の加奈には、その嘘を見抜く気力さえないかもしれない。
しばらくの沈黙の後、カチャリ、と鍵が開く音がした。ドアが、ゆっくりと開く。
そこに立っていた加奈は、昨日よりも、さらにやせ細っていた。髪はボサボサで、Tシャツはヨレヨレ。目の下には色濃いクマがある。あの「水のままの洗剤」でカップを洗っていた時の、崩れかけた姿そのものだった。
「……これ、どうぞ」
僕は、洗剤のパックを差し出した。加奈は、それを呆然と受け取る。その指先が、僕の手に、一瞬だけ触れた。
――懐かしい。
彼女の手は、記憶にあるのと同じくらい、驚くほど冷たかった。
「……ありがとうございます」
その時、ボサボサの髪が少し顔にかかった。いつもなら、僕がそれを払って、「ちゃんと髪乾かして寝なよ」と言うところだ。
僕は、無意識に手を伸ばしかけた。
おい!待て!オッさん!健人の声で気づく。
僕は今、一ノ瀬健人だ。
「おっと!」思わず声が出た。
知らない高校生が、いきなり女性の髪に触れたら、それこそストーカーだ。
「え?……何か?」
その瞳。暗く沈んではいるけれど、かつて僕を映していた、あの瞳。
「あ、いえ。……髪に、糸屑が」
僕は、咄嗟に嘘を重ねた。僕の葬儀の時に彼女の背中にあった、あの糸屑。それを思い出しながら、僕は空中で、見えない糸屑を払う仕草をした。
「……糸屑?」
加奈は、自分の髪に触れ、それから、僕の手をじっと見つめた。その瞳に、ほんの少しだけ、生気が戻ったような気がした。
「……あなた、どこかで」
彼女の言葉に、心臓が止まるかと思った。
「どこかで……会ったこと、ある?」
その瞬間、脳の奥で、健人の意識が、ニヤリと笑った気がした。




