第五章 命の重さと、十七歳の体温
目が覚めた時、最初に感じたのは「重さ」だった。
まぶたの裏側を叩く光、肺に流れ込む空気、毛布のざらついた感触。幽霊だった時には失われていた、生命という名の質量が僕をベッドに縛り付けていた。
あ、起きたんだ……オッさん。
頭の奥で、一ノ瀬健人の声がした。昨日のパニックは消え、今はどこか他人事のような、ひどく冷めたトーンだ。
……オッさんって言うな。まだ二十四だ。
俺から見ればオッさんだよ。十七だし。
脳内で会話をするというのは、奇妙な感覚だった。自分の思考に、他人の思考が直接混ざり込んでくる。プライバシーもへったくれもない。
僕は震える手で、枕元のサイドテーブルにある水のペットボトルを掴んだ。ゴクリ、と喉が鳴る。冷たい水が胃に落ちる感覚に、思わず背筋が震えた。
生きている。この高校生は、ちゃんと生きているんだ。
「お水、ありがとうございました」
看護師に、お礼を伝える。
「あら、敬語なんて。昨日はもう少し、元気な話し方だった気がするけど」
看護師がクスリと笑って部屋を出ていく。危ない。中身が僕だとバレるわけにはいかない。
健人、普段はどんな喋り方なんだ?
……もっと適当。あと、そんなに腰低くないよ。
難しいな……。
僕はよろよろと立ち上がり、備え付けの洗面台の鏡に向かった。そこに映っていたのは、少し髪を遊ばせた、線の細い少年だった。陽太としての僕とは、似ても似つかない。それでいて、手のひらだけは不釣り合いに節くれ立っている。運動部でもやっていたのだろうか。
頬を抓ってみる。痛い。手を洗う。水の感触がする。けれど、鏡の中の瞳だけは、僕がよく知っている「僕」の光を宿していた。
……なあ、学校とか家族は大丈夫なのか。入院したなら、連絡くらい行ってるだろ。
なあ、健人。少しの間だけでいい。この体、僕が使わせてもらっていいか。会いたい人がいるんだ。
嫌だ!そんなの俺には関係ない。
断ってきた…やはり高校生だ。
だが健人は、ちょっと待って…と考えた。
少し間があり。
ああ。
いいよ。俺もさ、実は少し帰りづらいんだ。彼女と喧嘩したばっかりだし。オッさんが代わりにやってくれるなら、少し休みたい。
助かる。……でも、一つだけ約束だ。絶対にお前の体を傷つけない。終わったら、必ず返す。
当たり前だろ。
……でもさ、その人、オッさんのこと幽霊だって気づかないよ?
健人の指摘は、鋭く胸に刺さった。そうだ。僕はもう、陽太ではない。加奈にとって、僕は「知らない高校生」でしかないのだ。
……仕方ない。
そう思うことに、思ったより時間はかからなかった。悲しみに擦り切れ、受け止めることに慣れきってしまった僕には、もう、それを拒む力さえ残っていなかったのかもしれない。それでも、と僕は思う。この姿でしか会えないなら、この姿で会えばいい。
幸い、検査の結果は「念のための一晩」で済むほど軽微なものだった。医師は「打撲と擦過傷、あとは処置した傷が塞がるのを待つだけ」と言い残し、昼過ぎには退院の許可が出た。
退院し、コンビニへ向かった。手に取ったのは、安物の洗剤の詰め替えパック。それから、少し高いバニラアイス。レジで小銭を払う指が、わずかに震える。
会いたい。でも、会ってどうすればいい。
夕暮れの街並みが、高校生の視点で見ると、昨日までより少しだけ高く、そして遠く感じられた。
「あ、一ノ瀬健人。……よかったね」
声のした方を見ると、電柱にもたれかかった善子が、暇そうにアイスの容器を眺めていた。周りの通行人は、誰も彼女に気づいていない。
「……は? 誰だよ、オッさんの知り合い?」
……僕の知り合いだよ。
その一言だけで、僕は、ほとんど全部を理解してしまった。まさか、これは――
……今は、いい。
込み上げてきた問いを、僕は無理やり呑み込んだ。
「……どうしたんだよ、オッさん」
健人の声に、僅かな戸惑いが混じる。
……何でもない。
「へえ、随分器用に乗り換えたじゃん」
善子はそれだけ言うと、まるで今の言葉などなかったように、話を変えた。
器用も何も、選んでこうなったわけじゃない。
いや……それよりも、お前が、そうしたんじゃないのか?
いや……
それより、それ――
僕の視線に気づいた善子が、容器を軽く振ってみせる。中のアイスは、もう半分近くまで溶けていた。
「あー、これ? 結構いいペースで溶けてるよ。他人の体乗っ取ったりして、色々頑張ってるのは認めるけど、時間切れは待ってくれないから」
……あとどれくらいだ。
「さあ? 気温と、あと私の気分次第かな。それより聞いてよ、この着物ほんと動きにくくてさ、今度こそゴスロリの許可下りないですかねって上に聞いたんだけど」
……気分て。まさか、お前の機嫌次第で人の寿命が決まるとか、そんな適当な話じゃないだろうな。
でも……こいつに会うと真冬のように寒い。
「んなわけないでしょ、これでも一応、物理現象だよ? 溶ける速度は決まってるの。……でも、そこも含めて、私の気分次第ってこと。まあ、機嫌がいい日は、日陰に持ってってあげたりはするけど」
話を聞いていない。いや、そもそも僕の話など、最初から聞く気がないのだろう。それでも、容器の中でとろけていくアイスだけは、嫌でも目に焼きついた。




