第四章 二度目の事故
引っ張られる、という生易しいものではなかった。
魂の後ろ髪を掴まれ、無理やり狭い隙間に押し込まれるような、強烈な圧迫感。視界が暗転し、次の瞬間、僕は猛烈な「痛み」と共に目覚めた。
コンクリートの冷たさ。鼻を突く鉄さびの匂い――血だ。右腕が熱い。アスファルトですり下ろしたような、焼けるような痛みが脳髄を刺す。
痛え……クソッ、なんだこれ……。
口から出たのは、自分の声ではなかった。もっと低くて、少し掠れた、聞き覚えのない少年の声。
仰向けに倒れた視界の先、夕闇のなかに、へし折れた自転車と、フロントガラスにヒビの入った乗用車が見えた。
運転手が降りてきた。
「おい、大丈夫か! 坊主、しっかりしろ!」
僕は自分の手を顔の前に持ってきた。そこにあるのは、僕の手ではなかった。節くれ立って、少し日焼けした、高校生の制服の袖口から覗く、見知らぬ少年の手。その掌は血と泥で汚れていた。
混乱が波のように押し寄せる。僕は死んだはずだ。幽霊になって、加奈の部屋にいたはずだ。なのに、なぜ痛みがある? なぜ、この手は僕のものじゃない?
……だれ、だ。
頭の奥底で、小さな声が響いた。僕の声じゃない。もっと内側、意識の沼の底から聞こえるような、震える声だ。
俺の体の中で……だれかが、動いてる。
その時、僕は理解した。僕は、この事故に遭った高校生の体に、入り込んでしまったのだ。
抗う気力は、もう残っていなかった。悲しみに擦り切れた僕は、いつからか、起きることのすべてを、ただ受け止めるしかできなくなっていたのかもしれない。
少年の意識が恐怖で暴れる。彼が主導権を取り戻そうとするたび、全身の痛みが倍増し、視界がチカチカと点滅する。
落ち着け! 暴れるな、脈が早すぎる!
僕は心臓の鼓動を必死に抑え込もうとする。彼を殺すわけにはいかない。僕はもう死んでいるが、彼はまだ生きている。
嫌だ、怖い、死にたくない……!
誰だお前!出てけ! これ、俺の体だ! 誰だか知らないけど、出てけよ!!
出たいのはこっちも同じだ。でも今出て行ったら、お前の心臓が保たない。
知るかよ! そんなの! お前、勝手に人の体に入ってきて、勝手なこと言うな!
少年のパニックが、僕の意識を飲み込もうとする。遠くで救急車のサイレンが聞こえ始めた。
おい、聞け。僕は幽霊だ。君を殺すつもりはない。
君は事故に遭った。今、体がひどいショック状態だ。君一人じゃ、この痛みに耐えきれなくて心が壊れる。
……はぁ?……幽霊?
そう。だから……少し身体を貸してくれ。僕が痛みを肩代わりする。君の意識は、奥で休んでいていい。
話しながら…何故、僕は、こんな事を知っているのか?疑問に思うが、今は、それどころじゃない。
だが…少年の抵抗が、ほんの少し弱まった。恐怖の代わりに、呆然とした困惑が広がる。
貸すって……どうやって。
僕に任せろ。君はただ、眠るみたいに力を抜けばいい。
サイレンの音が、すぐそばで止まった。ストレッチャーが運ばれてくる気配。
大丈夫だ。絶対に死なせない。
その誓いと共に、僕は少年の意識を優しく奥へと押しやり、彼の体の「主導権」を握った。全身を苛んでいた痛みが、明確な輪郭を持って僕の意識に流れ込んでくる。
「……健人。一ノ瀬健人、です」
無意識に口から出た。
健人…
それが、この体の持ち主の名前だった。僕じゃない。けれど、これからは僕でもある。
後になって思う。きっと、死にかけた者の魂は、同じ「死の淵」に強く引き寄せられるのだ。加奈への未練を抱えたまま消えかけていた僕の存在は、すぐ近くで起きたもうひとつの死の気配に、否応なく共鳴した。――理屈で理解したわけじゃない。ただ、そうとしか思えなかった。
それか……宮田……あの死神がしたのか?
ストレッチャーに乗せられ、救急車の中に運び込まれる。天井のライトが眩しい。
加奈。
僕は、生きてる人間の体を手に入れた。
これで、君に触れられるかもしれない。洗剤の詰め替えを、買ってあげられるかもしれない。
遠のく意識の中で、僕は最後に、そんなことばかり考えていた。
けれど、それがどんな結末を連れてくるのか、この時の僕は、まだ何も知らなかった。




