第三章 崩れる生活
葬儀が終われば、世界は「終わったこと」として動き出す。
けれど加奈の部屋だけは、腐敗の途中で止まっていた。
葬儀から一週間後。
部屋の空気は、湿った埃とコンビニ弁当の容器が混じった、独特の重苦しさを帯びていた。シンクには二人分のコーヒーカップが置かれたままだ。テーブルの上には、飲みかけのペットボトルが何本も並び、脱ぎ捨てられたタイツが床で黒い塊になっている。
加奈は、ベッドから動かなくなっていた。仕事は「体調不良」で休んでいるらしい。スマホの通知は鳴り続けているが、彼女はそれをソファーのクッションの下に押し込んでいる。
加奈、起きろよ。……せめて窓を開けろって。
僕は彼女の枕元に立ち、何度も声をかける。けれど、幽霊の言葉は空気を震わせることさえできない。僕はただ、彼女の髪に触れようとして、その指先がシーツを通り抜けるのを眺めることしかできなかった。
何度目かも分からない。呼びかけては届かず、触れようとしては通り抜ける。その繰り返しの中で、悲しみよりも先に、僕自身がすり減っていくのが分かった。悲しいと感じることにさえ、体力がいるのだと、死んでから初めて知った。
加奈がようやく這い出したのは、日が沈みかけた頃だった。フラフラと冷蔵庫へ向かい、扉を開ける。
中にあるのは、いつからそこにあるのかも分からない、萎びて芽の伸びた生姜の欠片と、溶けて固まった、古いアイスの成れの果てだ。買ってこいと言われ続けたまま、結局最後まで買い足せなかった、あの二つの成れの果てだった。
彼女はそれを手に取ることさえせず、ただぼんやりと冷蔵庫の冷気に当たっていた。
喧嘩した夜は決まって、どちらからともなくバニラアイスを一つ買ってきて、スプーン二本で半分こして食べた。
それだけで、大抵の諍いは仲直りのきっかけになった。
あの日も、そうするはずだった。
「……あ、洗剤」
彼女が力なく呟く。台所の隅、空のまま放置された洗剤のボトル。彼女はそれを手に取り、また少しだけ水を足した。もう泡も立たない、ただの濁った水だ。それでカップを撫でる彼女の背中が、あまりに小さくて、僕は胸が締め付けられる。
ふと、自分の体が透けていることに気づく。葬儀の時よりも、足元が床の模様に溶け込んでいる。このままでは、彼女が完全に壊れる前に、僕が消えてしまう。
嘘だろ……。何もできないまま、終わりかよ。
無力感というより、それは絶望に近かった。彼女の生活が荒れていくのを、特等席で見守るだけの地獄。
加奈は、洗うのを諦めたカップをシンクに放り出し、そのまま床に座り込んでしまった。
その時だ。
外から、激しいブレーキ音と衝撃音が響いた。
窓の向こう、夕闇のなかで、青い制服を着た高校生がアスファルトに転がっているのが見えた。
その瞬間、僕の魂が、猛烈な勢いで外へと引っ張られた。
――っ!?
加奈の部屋が、遠くなる。磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、僕は見知らぬ少年の体へと、意識を叩きつけられた。




