第二章 届かない右手と、糸屑
とてつもない寒さで目覚めた。
黒い着物姿の女が、僕の横にしゃがみ込んで、こちらを覗き込んでいた。
「あー! やっちゃったー」
場違いなほど軽い声だった。状況にまるでそぐわない、屈託のない声。
……は?
「あ! ごめん、ごめん。君、死ぬ予定じゃなかったんだよねー、実は」
頭が理解を拒否する。死ぬ予定じゃなかった? だったら今、目の前に転がっているこれは何なんだ。
まだ、生姜も渡していない。アイスの返事だって、まだ打ち終わってない。やり残したことが、こんなにあるのに。
「え? 何、黙ってるよー。ちゃんと説明するから、そんな顔しないでって」
女は僕の反応など気にする様子もなく、着物の袖をひらひらさせながら立ち上がった。
「ねえそれよりさ、この着物、堅苦しくない? 私、本当はもっとこう、ゴスロリの服着たーい! 絶対似合うと思うんだよねぇー」
…全然説明してない…
こんな、中途半端なまま終われるわけがない。ふざけるな、と怒鳴りたかった。けれど声にならなかった。僕はもう、声を出すための体すら持っていなかったから。
「あ、声出ないよね、それ今の状態だと普通。私、死神の宮田。宮田善子。よろしくねー」
死神を名乗るくせに、あまりにも人間くさい名前だった。せめてもう少し、それらしい名前をつけろよと、僕は声にならない声で思った。
善子は懐から、小さなアイスの容器を取り出した。中身は、僕が最後に加奈へ買った、あのバニラアイスと同じ銘柄に見えた。
「これ、君の残り時間。手違いで死んじゃった魂だから、本当は今すぐ消えちゃうところなんだけど、上に掛け合って、これが溶けきるまでは待ってもらうことになったから。まあ、残った時間を楽しんで!」
それだけ言うと、善子は着物の袖をひらつかせて、いなくなった。残されたのは、僕と、僕自身の亡骸と、割り切れない怒りだけだった。
それから数日、僕はただ、自分の亡骸について回った。運ばれていった霊安室で、駆けつけた両親と、ひさしぶりに顔を合わせた。父は言葉もなく立ち尽くし、母は僕の亡骸の頬に触れて泣き崩れていた。
二人のそんな姿を見るのは、初めてだった。
……ああ、本当に、もう戻れないんだ。
さっきまで胸を占めていた「まだやり残したことがある」という焦りが、その一瞬だけ、静かに影をひそめる。代わりに広がったのは、もっと重くて、逃げ場のない何かだった。
声をかけても、肩に手を伸ばしても、誰にも僕は届かない。加奈がどうしているのかも分からないまま、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
そんな騒がしい日々の果てに、僕は自分の葬式を眺めていた。
自分の葬式を眺めるというのは、ひどく座りの悪いものだった。
線香の匂いは、鼻の奥をくすぐるだけで肺には落ちてこない。会場を流れるお焼香の列も、読経の声も、すべてが薄い膜の向こう側の出来事のように感じられた。
祭壇に飾られた自分の写真は、柄にもなくネクタイを締めて、妙に澄ました顔をしている。
もっとマシな写真はなかったのかよ。
そう苦笑して、隣に立つ彼女――加奈の肩を叩こうとした。
けれど、僕の右手は彼女の黒いワンピースを虚しく通り抜け、冷たい空気だけを掴んだ。
加奈は、泣いていなかった。
ただ、幽霊の僕から見れば、彼女がどれほど限界に近いかは一目でわかった。喪服の背中には、小さな糸屑がついている。いつもなら僕が指先で払って、「またどこかにぶつけた?」と笑うところだ。けれど今の加奈は、糸屑一つにさえ気づかない。視線はどこも見ておらず、ただ焼香の煙を目で追っているだけだ。その頬はやせ細り、肌はひどく乾燥して粉を吹いている。
数珠を持つ彼女の左手の薬指を、僕はぼんやりと見つめた。何もついていない、その細い指を。いつか、そこに何かを贈る日が来るのだろうと、当たり前のように思っていた自分を思い出す。当たり前は、当たり前のまま終わらなかった。
彼女はズボラだ。放っておけば、賞味期限の切れた納豆だって平気で食べる。
そんな当たり前の小言さえ、今はもう、彼女の鼓膜を震わせることさえできない。
出棺の時、加奈が僕の遺影を抱えた。その指先が、白く震えている。僕を閉じ込めた重い箱が、火葬場の暗い奥へと吸い込まれていくのを、彼女は瞬きもせずに見つめていた。
「陽太」
不意に、彼女が小さく呟いた。
それは僕を呼ぶ声というより、自分のなかに消え残った体温を確かめるような、頼りない吐息だった。
焼香の煙の向こうで、僕の輪郭が少しずつ薄れていく。地上に取り残され、ゆっくりと壊れていく彼女を置いて。
……まだ、行けない。
せめて、彼女がちゃんとゴミを出せるようになるまでは。
けれど、僕の願いに反して、体はどんどん透明な静寂に溶けていった。
加奈だけを、この壊れかけた部屋に、独り置き去りにして。




