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第一章 日常の断絶



*『生姜買うの忘れないで。あとアイス、いつものやつ』*


スマホの画面に浮かんだ、その締まらない一文に、僕は「り」とだけ打ち込んだ。


コンビニから出てきて、次の言葉を考えている時、視界の端に黒い着物の女が訝しげに、こちらを見ている気がした。


送信ボタンを押そうとした、その瞬間――指先が届かなかった。


金属が軋む音。アスファルトを叩く鈍い衝撃。


握りしめていたスマホの画面が、蜘蛛の巣のようにパキリと割れる。


僕の返信は、送られないまま虚空に消えた。


「り」という文字が、世界で一番重い言葉になった。


世界が壊れる音は、意外と小さかった。


   ✦   ✦   ✦   


陽太と出会ったのは、駅前の商店街だった。雨の日、傘を忘れて店を出ようとした私を、彼はわざわざ走って追いかけてきて、ビニール傘を一本、無言で差し出した。


「あ……ありがとうございます」

私は傘の事を忘れていた。この雨の中にずぶ濡れで帰る気だった。


「……忘れ物、多いですよね。さっき、レジのところで見てました」


律儀すぎるくらい律儀な人だと思った。それが、陽太との始まりだった。あとから思うと、テンプレみたいな出会いに笑ってしまう。


付き合ってからも、彼はずっとそうだった。デートも、いつも定番のコース。それでも私には心地よかった。楽しかったのに、ちょっとだけつまらない顔をしてみせると、律儀に反省した顔をする。それを見るたび、私は安心した。ちゃんと愛されてる。ちゃんと、私を見てくれてる、って。


同じ部屋に住むまで、時間はかからなかった。


洗剤の減り具合。

ゴミの分別。

電気の消し忘れ。


私が適当に流すことを、彼は一つ一つ、律儀に拾い上げていく。周りからはよく「なんであんな真面目な子と」と驚かれたけれど安心できる人だった。


なのに、肝心なところでは、驚くほど不器用だった。その不器用さが好きで、私はいつも、それに甘えていた。


先週。

「今日、残業で遅くなる」と言って、彼はいつもより早口で出ていった。

その日は、私の誕生日。

陽太に限って忘れる訳はない。

それよりも態度の方が気になった。目を合わせない。そわそわした指先。


「……もしかして、他に好きな人でもできた?」


からかい半分で聞いたつもりだったのに、陽太は分かりやすいくらい狼狽えて、「んなわけないだろ」と早口で否定した。嘘が下手すぎて、逆に毒気を抜かれるくらいだった。


それでも、その日から、彼を見る目が少しだけ変わってしまった自分がいた。


そして、あの日の朝。

そう…私の誕生日に喧嘩してしまった。


「陽太、最近隠し事してるでしょ。……もう、私のこと好きじゃないの?」


売り言葉に買い言葉で、また同じ話を蒸し返してしまった。


「そんなわけないって。……仕事に行く。帰りに何か買ってくるから」


彼は、いつもと同じ、少し困ったような顔で出ていった。それが、彼の生きている顔を見た、最後だった。


いつもの帰り時間の少しあと、「これから帰るよ」とLINEが来た。


「アイスと生姜、忘れないでね」と返信した。


既読はついた。


けれど、それきり、返事は来なかった。


ずっと、待っていた。


電話が鳴った。


警察からだった。


「え?」としか言えなかった。


事故。搬送先。確認――言葉の意味はわかるのに、頭のどこにも入ってこなかった。


私は、部屋から出られなくなった。


きっと、そのうち帰ってくる。「ただいま」と言って、いつも通り靴を脱ぎ散らかして。そう信じることでしか、立っていられなかった。


   ✦   ✦   ✦   


陽太が死んでから、部屋の時計が止まったままだ。


玄関には脱ぎっぱなしの靴。洗濯物カゴには、彼が次に泊まった時に着るはずだったTシャツ。台所の洗剤は、彼が死ぬ一週間前から、もう空のままだった。


最後に陽太が使ったとき、「もうないじゃん、詰め替え買っときなよ」と苦笑いされた。私は「明日買う」と答えた。その「明日」は、もう来ない。


底に残ったわずかな洗剤を水で薄めて使い続けている。泡は立たない。汚れも落ちない。それでもやめられない。やめたら、彼が最後に触れたものが、ほんとうに消えてしまう気がして。


シンクに溜まった二人分のコーヒーカップ。私は蛇口を締めた。


食欲はない。でも、お腹は空く。


コンビニで買ってきた冷たいおにぎりを口に押し込む。噛んでも噛んでも、それはただの冷えた澱粉の塊でしかない。


「……陽太」


暗い部屋でこぼした名前だけが、やけに重く、確かな味を持っていた。


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