第十章 溶ける前に、言えなかったこと
翌日、放課後の街には冷たい風が吹いていた。
駅前のマクドナルドで、まだ少し腫れた目をした莉子が待っていた。
オッさん、俺にやらせてくれ。今度は、俺の言葉で言わなきゃいけないんだ。
ああ。わかってる。……頑張れよ!
僕は意識の手綱を緩め、健人に主導権を預けた。
「莉子。……俺さ、一昨日死にそうになって、初めてわかったんだ」
健人の声は、少し震えていた。
「喧嘩したまま、言いたいことも言えないまま終わるのが、一番怖かった。……進路のこと、莉子が心配してくれてるの分かってたのに、向き合うのが怖くて逃げてただけなんだ」
莉子が息を呑む。
「健人……」
「俺、まだ何になりたいか分かんないけど、莉子と一緒にいたいってことだけは、ちゃんと分かった。だから……これから、ちゃんと考える。莉子を不安にさせないくらい、頑張って……かっこいい大人になるから」
それは、十代の拙くて青い、けれど純度百パーセントの告白だった。莉子は今度こそ、幸せそうに泣きながら健人の胸に飛び込んだ。
それだけのことだった。ちゃんと目を見て、拙くてもいいから自分の言葉で謝ること。たったそれだけのことを、僕は最後まで、加奈にできなかった。
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あの日、洗剤とアイスを届けてくれた高校生のことが、加奈の頭から離れなかった。仕草も、言葉の選び方も、時々見せる目の色も、忘れたいはずの誰かとどうしようもなく重なる。おかしいと分かっていながら、気づけば彼女は、洗剤のお礼を言うという口実を用意して、彼が言っていた「近くのコンビニ」のあたりまで、足を運んでいた。
そして……
――その光景を、少し離れた歩道橋の上から見つめている人影があった。
加奈だった。
口実は口実でしかなく、本当は、あの懐かしさの正体を確かめたかっただけなのかもしれない。
莉子と抱き合う健人の視線が、歩道橋の上の加奈とぶつかった。
加奈は、立ち尽くしていた。自分よりもずっと若い恋人たちが、ぶつかり合い、許し合い、未来を約束する姿。
羨ましさと同時に後悔が溢れてきた。
それは彼女が、陽太との最後の日、手に入れるはずだった光景そのものだった。
加奈の瞳が、じわりと熱くなる。けれど、涙は零れ落ちなかった。ただ、長く忘れていたその感覚に、彼女自身が戸惑っているようだった。
彼女は、逃げるようにその場を去っていった。
僕たちは、それを見ていた。
……追いかけよう、健人。
……うん。陽太さん、今度は俺が背中を押してあげるよ。
健人の心臓が、激しく高鳴る。
莉子に「ごめん、行かなきゃいけないところがあるんだ」と伝えた。
「え?」
莉子は困惑した顔をしたが、健人は「絶対、埋め合わせはするから!」と言い残した。
そして僕たちは走り出した。
全力で走る高校生の体は、風を切り、心肺を痛いほど刺激する。生きていなければ味わえない、喉の渇きと、足の重み。
横断歩道の向こうに、善子が立っていた。走りながらでも、はっきり見えた。彼女の手の中で、アイスはもう、ほとんど原形をとどめていなかった。
「ねえ。もう、ほとんど溶けてるわよ」
初めて、彼女の声からふざけた響きが消えていた。それが、かえって僕の焦りに拍車をかけた。
あとちょっとでいい。あとちょっとだけ、待ってくれ。
善子は何も言わず、ただ小さく頷いた。ゴスロリの話はしなかった。それだけで、事の深刻さが十分すぎるほど伝わった。
善子は、ため息をつきアイスのカップを強く握った。
アイスは、少し固まった。
加奈は、自分のマンションの前でうずくまっていた。
「加奈さん!」
健人の声で、その名前を呼ぶ。加奈が、赤く腫れた瞳でゆっくりと顔を上げた。




