第十一章 もう大丈夫
健人は、何も聞かずに彼女の肩を支え、部屋まで連れ帰った。加奈はしばらく玄関にへたり込んだまま、口を開かなかった。
やがて立ち上がると、洗面所で顔を洗い、そのままシンクの前に立った。
「今、これをしないと、いけないと思うの……」
何かに手を動かしていないと、立っていられなかったのかもしれない。
加奈は、僕が前に持ってきた新しい洗剤を手に、シンクに溜まっていた数枚のお皿を洗い始めた。
窓からは夜風が入り、澱んでいた空気はもうどこにもない。
「……一ノ瀬くん、ごめんね……さっきは……」
加奈は背中を向けたまま、努めて明るい声を出した。けれど、その肩はまだ微かに震えている。
「あなた達を……見てたら、急に思い出しちゃって。……私たちも、あんな風に、ずっと続いていくんだって、勝手に信じてたから」
僕は、彼女の背中を見つめた。今、この少年の喉を使って「僕だよ、陽太だよ」と叫ぶのは簡単だ。けれど、それを言えば、彼女はまた僕という過去に縛られてしまう。
健人、少しだけ、僕に言葉を預けてくれ。
……いいよ。陽太さんの、本当の言葉でしょ。
僕は、健人の一歩を踏み出した。二人の間にあった、透明な壁を壊すように。
「加奈さん」
名前を呼ぶと、彼女がゆっくりと振り返った。
「その人は、陽太さんでしたっけ……たぶん……すごく後悔してると思います。喧嘩したまま、あなたを一人にしたこと。言いたいことを、一つも言えなかったこと」
加奈の瞳が、大きくなる。
「でも、たぶん……それ以上に、感謝してると思います。あなたといる時間が、一番好きだったって」
飾った言葉じゃない。僕はただ、本当に思っていることを、自分の声で伝えていた。
「だから、もう自分を責めないでください。洗剤がなくなったら買えばいいし、ゴミが溜まったらゴミの日に捨てればいい。……あなたは、一人でも、ちゃんと自分の生活を回していける人だから」
加奈は、こみ上げるものを必死に堪えながら、僕を――僕の向こう側にいる何かを――見つめていた。
「……どうして。どうして、そんなこと知ってるの?」
彼女が震える手で、僕の頬に触れた。高校生の、若くて熱い肌。そこに、かつての恋人の面影を探すように。
「……なんとなく……そう思いました」
僕は、精一杯の嘘をついて笑った。
加奈が、深く、深く息を吐いた。それは、彼女の体の中にずっと溜まっていた、重くて苦しい澱を、すべて吐き出すような呼吸だった。
「……そっか。……そうだよね。私、もう大丈夫だね」
彼女が、初めて、心からの笑みを見せた。
僕が死んでから止まっていた彼女の時計が、カチリ、と音を立てて動き出した。
それと同時に、僕の視界が急激に薄れ始めた。足元から感覚が消えていく。
ああ。……もう、いいんだな。
陽太さん。……そろそろかな……お疲れ様……
僕は最後に、整えられた部屋の景色を、目に焼き付けた。もう、僕がいなくても、この部屋に「砂の味」はしない。彼女は明日、自分の足で新しい洗剤を買いに行くだろう。
力が抜けていく最後の数秒、僕は健人の手を借りて、棚の隅にあった小箱に手を伸ばした。あの日買った生姜も、アイスも、とうに処分されてしまっている。残っていたのは、警察から返却された僕の遺品――その中にあった、あの日のレシートだけだった。今日まで、加奈は一度もその中身を検めていなかった。
カウンターの上のペンを取り、震える健人の指で、裏に一言だけ書き殴る。
『アイス、溶ける前に食べろよ』
それを、玄関のコートかけにかかっていた、加奈のカーディガンのポケットに、そっと滑り込ませた。彼女はまだ、気づいていない。
さよなら……陽太さん……
健人……ずっと幸せにな。
その声が聞こえた時……
ありがとう。健人……
僕は、静かに、健人の体から離れていった。




