第十二章 成仏
陽が落ちた後の部屋には、穏やかな静寂が満ちていた。窓から入り込む夜風が、洗濯物の石鹸の香りを微かに運んでくる。
加奈は、健人が帰った後の玄関に立ち、寒さに肩をすくめて、コートかけにかけていたカーディガンに袖を通そうとした。その時、ポケットの中から何かが滑り落ち、床に小さな「音」を立てた。レシートの裏に殴り書きされたメモだった。
『アイス、溶ける前に食べろよ』
ただ、それだけ。
そのレシートの表側には、あの日の日付と、「生姜」の文字が並んでいた。警察から返された、彼の遺品箱にしまったまま、一度も開けていなかったはずのものだ。
加奈はメモを胸に抱き、声を殺して笑った。次の瞬間、堰を切ったように涙があふれ出す。葬儀の日も、あの荒れた部屋でも、一度も流せなかった涙だった。笑いながら泣くという器用なことを、彼女は生まれて初めてしているような気がした。
✦ ✦ ✦
公園のベンチ。
健人は、莉子の隣でぼんやりと夜空を見上げていた。
体は軽い。ついさっきまで自分の中にいた、あの「もう一人の重み」は、もうどこにもない。
「健人? どうしたの、急に黙り込んで」
莉子が不安そうに顔を覗き込む。
健人は夜風に揺れる木々を見つめた。そこにはもう誰もいない。けれど、確かに何かが、静かに消えていった気配だけが残っている。
「……ちゃんと好きだったって、言うのが下手だっただけだと思うよ」
莉子は不思議そうに首を傾げ、「何それ、変なの」と笑いながら彼の手を握った。
ベンチの近くを通りかかった老人が、杖をつく拍子に缶詰を数個落とした。転がる金属音に気づいた時にはもう、健人と莉子は同時に腰を上げていた。
「あ!大丈夫です。拾います」
莉子が老人の背中にそっと手を添えながら、缶詰を拾い上げる。健人もそれに続いて、もう一つ転がったのを追いかけた。
「おお、すまないねえ。ありがとう」
老人が目を細めて礼を言い、ゆっくりと去っていく。
……あれ。前の俺なら、絶対スルーしてたのにな。
莉子は拾った缶詰を老人に手渡しながら、健人の方を見て、小さく笑った。
「私、こういうの好きだよ」
健人は「そうか」とだけ答えて、また夜空を見上げた。
強い風が吹き抜けた。
どこかで、アイスの空き袋が、かすかに鳴った。
✦ ✦ ✦
人は突然去り、
伝えきれなかった言葉だけが残る。
溶ける前のアイスが、
静かに液となって広がるように。
それでも、風はそっと運ぶ。
最後の、確かに温かい何かを。
── 了 ──




