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第5話 なかったね

朝、洗面台の鏡を見たとき、自分の顔の輪郭がわずかに薄い気がした。


光の加減だと思った。蛍光灯の角度が変わったのかもしれない。朝の顔はいつも少しむくんでいるし、疲れが出ているだけだ。そういうことにした。


制服に着替えて家を出る。通学路の景色はいつも通りだった。けれど、いつも通りのはずの景色が、今日は少しだけ遠い。透明な膜を一枚隔てているみたいだ。


最近の織にも、一枚足りない感覚がある。


文化祭の原稿は進んでいる。進んでいるのに、書くたびに文章が自分から離れていく。読者が喜ぶ形に整えれば整えるほど、書いた本人の影が文章から消えていく。推敲するたびに文は正確になり、正確になるほど体温が下がる。


上手くなるほど、自分がいなくなる。


それは書き手として成長しているのか、それとも擦り減っているのか。もう区別がつかなかった。


あの連載は、まだ止まっている。


止まってから何日経ったのか、もう数えたくなかった。


止まっているという事実が、予想以上に重い。毎日のように更新されていた場所が沈黙していると、部屋の空気まで薄くなる。あの文章を読んでいる間だけは、自分の文章との差に苦しみながらも、「書くこと」の芯に触れている感覚があった。それがなくなると、芯そのものを見失いそうになる。


昇降口で靴を履き替えているとき、隣の下駄箱に尾崎栞がいた。


いつもなら会釈して通り過ぎる。今日は、口が先に動いた。


「昨日、なかったね」


言ってから心臓が跳ねた。なぜ「更新」という言葉を使わなかったのだろう。あの連載を読んでいると、暗に認めたことになる。いや、そもそもあの連載と尾崎栞を結びつけている時点で、踏み込みすぎている。


でも、確信はなかった。あの連載の書き手が尾崎だという確証は、一つもない。文体と手つきが似ているだけだ。それだけのことを、こうして声にしてしまった自分が怖い。


尾崎は少し間を置いて返した。


「……今日は、まだ分からない」


分からない。その曖昧さが、かえって正直に聞こえた。


「分からないのが正解のときもあるよ」


自分に言い聞かせるように言って、先に歩き出した。


教室に入っても、昇降口での自分の声が耳に残っていた。なぜあの一言を言ったのか。

あの連載が止まったことを、なぜ「なかった」という欠落の言葉で表現したのか。更新が「なかった」のではなく、もっと大きな何かが「なくなった」気がしたから、あの言い方になったのかもしれない。


一時間目の授業で、織はノートに向かって手を動かしていた。板書を写しているはずだった。けれどふと目を落とすと、罫線の端に小さな文字が並んでいた。


窓を開けたのに、声は届かなかった。


また増えている。しかも今度は授業中だ。周りに人がいる。誰にも見られていない隙に、自分の手が勝手に動いたのか。それとも、動いたという記憶だけが後から貼り付いたのか。


消しゴムで消した。消しゴムのカスを手のひらで払う。手が冷たかった。


これで三回目だ。どの一文も同じ特徴を持っている。ひらがなの多い、やわらかい文体。自分の字に似ているが、起きている自分の字ではない。そして、すべてに「声」と「窓」のモチーフが含まれている。


声を聞きたい。窓を開ける。届かない。


誰の声だろう。何の窓だろう。自分の中にいる、起きていない方の自分が、誰かの声を求めて窓を叩いているみたいだ。


昼休み。図書室のカウンターに立つ。


いつもの作業を淡々とこなす。返却、バーコード、棚車。手順があることだけが今の支えだ。


本棚の間から、ふと奥の席が見えた。


尾崎栞と橋田掛が並んで座っていた。


尾崎が何かを話している。声は聞こえない。ここからでは表情も正確には読めない。けれど、尾崎の肩が僅かに震えていた。泣いているのか、声を抑えているのか。橋田は何も言わず、ただ隣に座っていた。缶を両手で包んだまま。


織はバーコードリーダーを握ったまま、しばらくその光景を見つめていた。


尾崎が誰かに話せたのだ。


そのことだけが、声も言葉もなく、カウンター越しに伝わってきた。ひとりで抱えていたものを、誰かに渡すことができたのだ。


橋田は何も解決していないだろう。隣に座っているだけだ。でも、隣に座っているだけで十分な瞬間がある。


少し離れた場所からその光景を見ているだけで、織の中の何かもほどけそうになった。あんなふうに誰かの隣に座って、声を出さずに横にいることができたら。あんなふうに誰かに横にいてもらえたら。


橋田は何も言わず、ただそこにいた。それだけのことが、なぜか長く目に残った。


織は視線を手元に戻した。自分はどうだろう。自分が抱えているものを、誰かに話したことがあるだろうか。


ノートに現れる書いた覚えのない文。記憶の薄い夜。読んだはずの感想の中に混じる、自分のものか分からない一文。


誰に話す。誰に、どう説明する。


自分でも分からないことを、他人に説明する言葉を、織は持っていなかった。


放課後の図書室。最後の返却作業を終え、カウンターの椅子に座ったまま、しばらくぼんやりしていた。


窓の外の光が橙色に傾いている。本棚の影が長く伸びて、床のタイルに縞模様を作っていた。


ここは書かれたものが集まる場所だ。


何百冊もの本が並んでいる。その中に、読まれずに眠っている本がある。背表紙だけが見えていて、中身を知る人がいない本。でもそこに書かれた言葉は、本が閉じられている間も消えていない。


書いたものは消えない。読まれなくても。


その当たり前のことが、今日は少しだけ染みた。


でも、書いた覚えのない文は、誰のものなのだろう。消えないとして、その言葉は誰の本棚に収まるのだろう。


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