第6話(最終話)しおり
更新されていた。
帰宅してスマートフォンを開くと、あの連載に新しい話が載っていた。最終話。
織は制服のまま椅子に座り、読み始めた。
主人公が最後の原稿を書き上げる場面。扉の前にしゃがみ込んで、床に刻まれた細い傷に指先を触れる。誰かが確かにそこにいた証拠。声も姿も戻らない。けれどその傷は、世界が全部を持ち去れなかったことを示している。
全部は取り戻せない。でも消えきらなかったと知ったから泣く。
織も泣いた。
椅子に座ったまま、スマートフォンを膝に置いて、声を出さずに泣いた。
なぜ泣いたのか、すぐには分からなかった。悲しいのではない。嬉しいのでもない。ただ、自分の文章では絶対に書けない種類の文章がそこにあって、その事実が胸を押した。
自分の文章は読みやすい。綺麗だ。誰にでも届く。でも、この最終話の文章は綺麗ではなかった。語彙は足りない。構成にも粗がある。一文の長さはばらばらで、段落の切り方にもクセが残っている。それなのに、読んだ人の胸に刺さる棘のような一文が、何箇所もあった。
それは、書き手が自分を隠さなかったからだ。
整えなかったからだ。
涙を拭いて、もう一度最初から読み直した。今度はゆっくりと。二度目に読むと、一度目には見えなかったものが見える。主人公が泣く場面の前に、呼吸を整えるような短い文が三つ並んでいる。冷たい金属。古い紙の端。呼びかけに返らなかった空気の重さ。どれも説明ではない。手触りだけを残している。
この書き方は教えられてするものではない。身体で覚えるものだ。書き手が自分の痛みを通り抜けた先で、初めてこういう文が出てくる。
織は自分のことを考えた。自分は痛みを通り抜けているだろうか。通り抜ける前に、整えてしまっていないだろうか。
翌日の昼休み。図書室に向かう途中の廊下で、尾崎栞とすれ違った。
いつもなら会釈で終わる。けれど今日は、織の方が一歩だけ横にずれて、尾崎の行く先を半分塞ぐ位置に立った。
「尾崎さん」
声は小さかった。
尾崎が足を止める。
「……読んだ」
それだけ言った。何を読んだかは言わなかった。
尾崎はすこし間を置いて「……ありがと」と返した。自分でも驚いた顔をしていた。
「最後のやつ、好き。全部取り戻さないところ」
その言葉は、昨夜スマートフォンの前で泣きながら思ったことそのままだった。
尾崎が何か言おうとして、言葉が出てこない顔をする。
そこで止まるはずだった。だが口が先に動いた。
「読まれることと、見つけられることは、違うんだって。最近やっと分かった」
言ってから、胸の奥が冷たくなった。
この言葉、どこかで書いたことがある。自分のノートに。いや、ノートではない。もっと別の場所に。画面の上だったような気もする。でもどこだったか思い出せない。
思い出せない、ということそのものが、もう怖くなかった。怖がることに疲れたのかもしれない。あるいは、怖がらなくていいと気づいたのかもしれない。
どちらでもよかった。
尾崎は織の顔を見た。何かを確かめるような目つきだった。けれど織はもう視線を逸らしていた。
「じゃあね」
横にずれた一歩を、そのまま廊下の向こうへ送り出すように歩いていく。
背中に尾崎の視線を感じた。それでいい。見られている、ということは、ちゃんとそこにいるということだから。
* * *
数日が経った。
文化祭の原稿を、全部消した。
消した、というより、白紙に戻した。二千字を超えていた短編。読みやすくて、綺麗で、誰にでも届く文章。それを全部削除した。
正確に言えば、数日かけて何度も読み返してから消した。読み返すたびに、自分の文章が誰かの期待の型に嵌まっているのが見えた。一文目から結末まで、読者が求めるだろう展開をなぞっている。上手い。読みやすい。そして、自分がどこにもいない。
何度目かの読み返しで、ある一文の前で指が止まった。
「彼女は、もう振り返らなかった」
去年の文化祭のときから、織が好きだった種類の文だ。短く、断定的で、余韻が残る。読者の感想にもよく挙がる一文だった。
でも今読み返すと、これは織が書きたかった一文ではなかった。読者がここで「いい」と感じる形を、織が先に拾い上げて置いただけだ。彼女が振り返らないのは、そう書きたかったからではなく、振り返らないほうが綺麗に終わるからだった。
そのことに気づいた瞬間、原稿全体が違って見えた。一文目から最終文まで、すべてに同じ温度の薄いコーティングがかかっていた。読者の手触りに合わせて整えた、見えない膜。
消そう、と思った。
消す瞬間、指先が震えた。二千字は少なくない。何日もかけて書いた文章だ。でも、あの連載の最終話を読んだ夜から、この原稿を完成させる気持ちは消えていた。
画面が真っ白になった。カーソルが点滅している。
不思議と怖くなかった。
白紙の画面は、昔はいつもここから始めていたはずだ。誰かの期待をなぞるのではなく、自分の手触りだけで書いていた頃。上手くなくて、読みにくくて、それでも書くたびに胸が熱くなった頃。
あの頃の自分に戻りたいとは思わない。でも、あの頃の自分が持っていたものを、今の自分の手で取り戻すことはできるかもしれない。
キーボードに指を置いた。何を書くかは決まっていない。決まっていないのに、それがむしろ正しい気がした。
一文目を打ち始める。
整えようとする手が動くたびに、意識して止めた。ここは綺麗にしない。ここは読みやすくしない。ここは、自分のまま書く。
二時間ほど書いて、手を止めた。千五百字。前より短い。でも、前より確かに自分の文章だった。句読点の位置が不揃いで、一文の長さもばらばらだった。段落の切り方にも迷いが残っている。それでいい。迷いが残っている方が、自分の文章だ。
画面を閉じようとしたとき、スマートフォンが震えた。通知ではない。ただの時刻表示の切り替わり。
ふと画面を見る。あるアプリが開いたままだった。
感想欄。
白い入力欄が、画面の下の方で静かに待っていた。カーソルは出ていない。タップすれば出る。
何かを打ち込もうとして――指を止めた。
もう、書かなくていい気がした。
あの連載の書き手は、もう一人ではない。隣に座ってくれる人がいた。カウンター越しに遠くから見たあの光景。缶を両手で包んだまま、ただ隣にいた誰か。あの距離感があるなら、画面越しの言葉はもう必要ない。
それに、感想として届けていた言葉が、いつの間にか自分の管理を離れていた。自分が書いたのかどうかも曖昧な一文が混じっていた。それがどういう意味なのか、まだ分からない。分からないまま、そっと手を引くのが、今の自分にできる誠実さだった。
画面を閉じた。
ノートパソコンの白い画面に向き直る。自分の文章。自分だけの文章。
ふと、頭の中で自分の名前を呼んでみた。しらいし、おり。何千回も呼ばれて、何千回も書いてきた名前。
そのとき、気づいた。
しらい――しおり。
自分の名前の中に、別の名前が隠れている。
しおり。
ずっとそこにあった。生まれたときからそこにあった。なのに、今の今まで気づかなかった。
偶然だ。たぶん偶然。
ノートに現れた書いた覚えのない文も、感想欄で自分の管理を離れた言葉も、結局、何だったのかは分からない。答えは出ない。でも、答えが出ないことを怖がるのは、もうやめてもいい気がした。
親がつけた名前と、たまたま同じ学校にいる誰かの名前が、音の上で重なっているだけ。それ以上の意味はない。
でも、その偶然が、すこしだけ温かかった。
自分の中に誰かの名前が棲んでいる。知らないうちに、ずっと。
窓の外で風が鳴った。四月ではなく、もう五月の風だった。乾いていて、少しだけ明るい。
織はノートパソコンの画面に向き直った。
白い余白。
カーソルの点滅。
そこに、二行目を書き始めた。




