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第4話 同じ名前

更新が止まっていた。


昨日も、今日も、あの連載に新しい話は来ない。最終更新の日付は止まったまま動いていない。


織はスマートフォンを閉じ、自分の原稿に向き直った。文化祭の短編。まだ二千字のまま進んでいない。書こうとすると、あの連載の文体が頭の中に残って、自分の文章と混線する。


整った自分の文章と、整っていないのに芯のあるあの文章。同じ「書く」なのに、体温がまるで違う。どちらが「本物」かと聞かれたら、答えに詰まる。


自分の方が上手い。それは分かる。文法も構成も語彙の選択も、客観的に見れば織の方が上だ。けれど、上手さと本物であることは別の話だった。整った文章が本物から遠ざかることがある。それを証明するかのように、あの連載は不器用なまま読者の胸に刺さる何かを持っている。


机に置いたノートの角が目に入る。昨日、また増えていた。書いた覚えのない文が、罫線の上に薄く残っている。


あの声をもういちど聞くためなら、窓はいくつでも開ける。


前に見つけたものと繋がっている。「いちどだけ消えかけた声を、もういちど聞きたくて窓を開けた」。あのときと同じく、ひらがなの使い方が自分のクセとは違う。でも字の形は自分のものに似ている。


起きているときの自分が書いたのではない。では、眠っている間に? それとも――。


考えるのをやめた。考えても答えは出ない。


代わりに、別のことを思い出した。数週間前の夜のことだ。


* * *


部屋の灯りを落としていた。机の上のスタンドだけがついている。スマートフォンの画面の白さが、不釣り合いなほど明るく感じられた。


その夜、織はあの連載をはじめて読み終えていた。何話あったかは覚えていない。気づくと最新話まで来ていて、画面の下に「次の話を読む」のボタンがなかった。


胸の中に何かが残っていた。


整っていない文章だった。段落の切り方にクセがあって、語彙も豊かではなくて、それなのに読み終えたあとに体温が下がらない。書いた人の手のひらが、画面の裏側に貼りついているみたいだった。


感想を書きたい、と思った。


スマートフォンの感想欄をタップする。白い入力欄。カーソルが点滅している。


そこで指が止まった。


自分のアカウントで書けば、名前が出る。白石織として、知らない誰かの作品の感想欄に名前が載る。それが嫌だった。


織の感想はいつも整っている。整っているから、嘘くさくなる。心を動かされたはずなのに、言葉にした瞬間に上手な感想文になってしまう。それをあの文章に届けるのは、違う気がした。


新しい名前を作ろう、と決めた。自分ではない誰かとして感想を書く。そうすれば、整えなくていい。


アカウント設定の画面を開いた。ペンネームの入力欄。


名前はすでに決まっていた。あの連載の最初の数行を読んだときから、頭の中にあった。この物語を見つけた自分にふさわしいと思える、静かな六文字。


打ち込んだ。


最後の一文字までキーが沈んで、戻ってきた。指の腹に微かな振動が残っていた。


同じ名前を使っている人が、もしいたら。


そう思って、登録ボタンの上で指を止めた。


画面のどこかに「この名前は使われています」という警告が出るかもしれない。そうしたら別の名前を考えよう。そう思いながら、息を止めて、ボタンを押した。


警告は出なかった。


登録完了の通知が出て、画面が切り替わった。プロフィールページの上に、その名前が並んでいる。


通った。


そのことが、少しだけ引っかかった。


表示名の重複を許可する仕様は知っている。だから技術的には問題ない。けれど、通った瞬間に感じたのは安堵ではなく、かすかな違和感だった。通るはずのものが通っただけなのに、胸の奥で何かが音を立てた。まるで、その名前がそこに置かれるのを待っていたかのように。


気のせいだ、と思った。思おうとした。


最初の感想を書く。指が震えそうになった。整えてはいけないと自分に言い聞かせる。読み終えた瞬間に頭に浮かんだ言葉を、そのまま打ち込む。


「なくしたものではなく、最初からなかったことにされそうなものを覚えていたいのですね」


投稿ボタンを押す前に、もう一度読み返した。整っていない。語尾が固い。けれどそれでよかった。整えた瞬間に、これは別人の感想になってしまう。


押した。


感想欄に自分の言葉が並んだ。自分の名前ではない名前で。書き終えたあとに残ったのは、不思議な安堵だった。自分のアカウントから書いた感想より少しだけ正直で、少しだけ自由だった。


それから何度か、感想を残した。更新があるたびに読み、読むたびに書いた。最初は遠くから作品を見渡すような距離感で書いていた。


いつからだろう。距離が変わったのは。


作品を見ているのか、書き手を見ているのか、自分でも曖昧になる瞬間があった。文章の奥に透けて見える書き手の息遣いに、だんだん焦点が合ってきてしまう。それは感想ではなく、覗き込みに近かった。


そのことに気づいたとき、少しだけ怖くなった。


* * *


回想はそこで途切れた。


今。スマートフォンの画面。あの連載のページ。更新は止まったまま。


感想欄をスクロールした。いくつかの短い感想が並んでいる。その中に、ひとつの名前で目が止まった。


見覚えがある。


あるのに、自分の言葉として確信が持てなかった。書いたような気もするし、読んだだけのような気もする。自分の言葉が、自分の手を離れている感覚。


文体も、距離の取り方も、自分のものに近い。でも、感想の末尾に書かれた一文だけが、どうしても自分の口調と重ならなかった。


『でも、あなたはまだ軽い方を書いている』


こんなことを書いただろうか。こんな踏み込み方を、自分がしただろうか。


記憶が曖昧なのは、最近ずっとそうだ。書いたはずの文章の感触だけが残って、いつ打ったか思い出せない。寝不足のせいだと思っていた。


でも、もし寝不足のせいではなかったら。


もし、同じ名前が通った瞬間に感じたあの違和感が、単なる気のせいではなかったとしたら。


ノートを開く。書いた覚えのない一文が、また一行増えていた。


今度は、前より少しだけ字が大きかった。まるで、読ませようとしているみたいに。


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