表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

第3話 綺麗すぎる

図書室のカウンターから、同じ席が見えた。


窓際の女子生徒。今日もメモ帳を開いている。昨日と同じ前かがみの姿勢。けれど今日は何度も眼鏡に手をやっている。外して、かけ直して、また外す。


確かめている。何を確かめているかは分からないが、何かの境界線を行ったり来たりしている動作に見えた。


織は返却処理を終え、棚車を押して書架の間を通った。本を棚に戻す手つきは正確だった。背表紙の高さを揃え、分類番号を確認し、隣の本との間隔を指一本分に整える。こういう作業は得意だ。正解のある作業。正解のない文章とは違う。


戻りがけに、窓際の席を通りかかる。


「その癖、前から?」


声をかけてから、自分でも唐突だと思った。


相手が顔を上げる。眼鏡の奥の目が少し驚いている。


「え」


「眼鏡触るの。考えてるとき、よくやってるよね」


嫌がられるかもしれないと思った。けれど返ってきたのは防御の声だった。


「……癖ってほどじゃ」


織は「ふうん」とだけ返して、それ以上追わなかった。追うと壊れるものがある。人の仕草を読み取ってしまうのは自分の悪い癖だ。見えたものを全部言葉にする必要はない。


ただ、あの眼鏡の仕草がどうしても気になった。外すとき、少しだけ力が抜ける顔をしている。かけ直すとき、肩に力が入る。まるで視界の解像度が上がること自体に疲れているような。


そういう身体の反応を、織はよく知っていた。自分の文章を読み返すとき、同じことが起きるからだ。一文ずつ推敲して整えていく行為は、解像度を上げ続ける作業に似ている。上がれば上がるほど粗が見え、粗を潰すたびに文章は綺麗になり、綺麗になるたびに自分の息遣いが消えていく。


今朝、教室で文化祭の連絡があった。それを思い出して、織はもうひとつ聞いた。


「文化祭、出さないの?」


自然に聞けたつもりだったが、相手は「出すもの、ないし」と視線を逸らした。


「あるでしょ。今、何か書こうとしてた顔してた」


言ってしまってから、やりすぎたかもしれないと思う。でも止められなかった。あのメモ帳の手つきを知っている以上、「書くものがない」は嘘だと分かる。


話しているうちに、彼女の名前が分かった。尾崎栞。同学年だが、教室で話したことはなかった。


織は企画メモと書きかけの原稿を渡してみた。反応が欲しかった。正確に言えば、いつもと違う反応が欲しかった。「上手い」「読みやすい」。いつも通りの言葉が来ると覚悟していた。


尾崎は数行読んで、手を止めた。


「……上手い」


来た。ここまでは想定通り。


「でも」


「でも?」


「……綺麗すぎる、かも」


織は息を呑んだ。


綺麗すぎる。


たった五文字で、織が何ヶ月もかけて見ないようにしてきたものを正面から照らされた。自分でも知っていた。知っていたのに名前をつけられなかった。それを初対面に等しい相手があっさりと言い当てた。


「やっぱり書く人だ」


声が震えなかったのは、たぶん意地だった。


尾崎が黙る。織はノートを閉じた。


「そういうこと言ってくれる人、いないんだよね。読みやすいとか続き気になるとかは来るけど、綺麗すぎるって言われたの初めて」


自分でも驚くほど正直な言葉が出た。出てしまった以上、もう少しだけ先まで行ってしまおうと思った。


「私ね、最近分かんなくなることがあって」


「何が」


「自分が書いた文なのか、先に読者が欲しがった形をなぞっただけなのか」


尾崎の表情が変わった。


それは理解ではなく、共振に近かった。言葉の意味を理解したのではなく、その言葉が指し示す場所を知っている顔だった。


織は少しだけ笑った。


「たまに、書いたはずの一文の感触だけ残ってて、いつ書いたか思い出せないこともあるし」


言ってから、しまった、と思った。踏み込みすぎた。自分の不調を初対面の相手に晒す理由はない。


尾崎は何か言いかけて、止まった。目の奥に、共感とも恐怖ともつかない色が走ったのが見えた。


「じゃあまた」と立ち上がり、図書室を出た。


帰宅後、自分の原稿を画面で開いた。文化祭用の短編。二千字。綺麗に整っている。誤字もない。構成もきちんとしている。句読点は規則正しく打たれ、一文の長さは三十字前後に揃えてある。段落の頭はきちんとインデントされ、改行の位置も計算されている。


読み返すと、確かに綺麗だった。


綺麗で、透明で、誰のものでもない。


画面を閉じ、スマートフォンを取った。あの連載。最新話が更新されている。


読んだ。


今日と似た場面が書かれていた。図書室。返却カウンター。誰かの仕草を見ている人物。視点は逆だった。見られている側から書かれている。


手が冷たくなった。偶然だと言い聞かせる。図書室を舞台にした場面なんて珍しくない。


けれど、視点人物が眼鏡に手をやる仕草まで書かれていた。今日、織が見ていたものと同じ動作が、向こう側から描かれている。


しかもその場面の地の文に、こんな一行があった。


カウンターの向こう側に見慣れた横顔が見える。


見慣れた。


あの連載の書き手は、カウンターの向こう側にいる誰かを知っている。知っていて、その人物の視線を感じている。


織は画面を見つめたまま、呼吸を整えた。偶然。偶然のはずだ。


でも、もし偶然ではなかったら。


確かめたいとは思わなかった。確かめたら、何かが壊れる気がした。


スマートフォンを伏せて、天井を見上げた。部屋の蛍光灯が白く、均一に、整って光っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ