表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/6

第2話 織り目

ノートの三行目に、書いた覚えのない一文があった。


白石織は、授業の終わった教室の自席でそれを見つけた。見開きの左ページには文化祭の企画メモ。右ページの冒頭には昨日の夜に書いた短い文章。そこまでは自分の記憶通りだ。


問題はその下だった。


いちどだけ消えかけた声を、もういちど聞きたくて窓を開けた。


織の字に似ている。筆圧も、文字の傾きも、自分のクセと重なる。けれど「いちど」をひらがなで書く習慣は自分にはない。漢字にする。いつもそうしてきた。


いつ書いたのだろう。昨夜、原稿を閉じたのが十一時過ぎ。そのあとは布団に入ったはずだ。はずだ、としか言えないのが少し引っかかる。最近、眠りと目覚めの境界がときどき甘い。


消しゴムで消すべきか迷って、やめた。消すと何かが失われる気がして、代わりにページの端を小さく折った。


教室には残っている生徒がまばらにいる。窓の外は四月の空が高く、風は乾いていた。


織は文化祭の企画書に視線を戻した。有志文芸展示。今年で三回目だ。去年より規模は小さくしたいと思っている。冊子と展示だけ。読んだ人が足を止められる形にしたい。


企画書の右上に、図書委員の名前が印刷されている。白石織。活字で見ると、自分の名前なのに少しだけ他人みたいだ。


しらいし、おり。


頭の中で音だけなぞると、さらに遠い。名前って不思議だ、と場違いなことを考えた。


書きかけの原稿がある。二千字ほど進んでいる。テーマは決まっていて、構成もできていて、結末も見えている。あとは整えるだけだ。


整えるだけ。


その言い方が、最近は嫌いだった。


書こうとしてパソコンを開く。一文目を打つ。指は迷わない。文字は最初から整った形で出てくる。読み返す。誤字を直す。語順を入れ替える。一文の長さを揃える。

三回目の推敲には、もう一文目にあったはずのざらつきが消えている。


整えるたびに、自分の手の温度が下がる。文章は綺麗になり、綺麗になるたびに、書いた本人の影が薄くなる。それでも手は止まらない。


手が止まらないことが、いちばん怖い。


去年の文化祭で展示した短編は評判がよかった。来場者が足を止めて最後まで読んでくれた。

「読みやすかった」

「世界観が綺麗」

「続き書かないんですか」

感想はどれも温かかった。


温かかったのに、家に帰ってから妙に冷えた気持ちになったのを覚えている。


読みやすい。綺麗。続きが気になる。


全部、嬉しいはずの言葉だ。それなのに、その言葉を並べると自分の文章の輪郭が浮かぶどころか、誰の文章でもない透明な板みたいに見えた。読みやすい文章は世の中にいくらでもある。綺麗なだけの文章も。


自分にしか書けないものが、そこにあっただろうか。


最近はそのことを考える時間が長くなっている。書こうとしてパソコンを開く。

一文目を打つ。読み返す。整える。整えた瞬間に、何かが抜け落ちる。

一文目にあったはずのざらつきが、二回目の推敲で消えている。三回目にはもう、その文が自分のものだったかどうかも分からなくなる。


上手くなるほど、自分がいなくなる。


その恐怖に名前をつけられないまま、織は毎日を過ごしていた。


図書室の返却当番の時間が近い。ノートを閉じ、鞄に入れ、教室を出た。


カウンターに立つと、気持ちが少し切り替わる。本のバーコードを読み、棚に戻し、返却カードを確認する。決められた手順を丁寧にこなす時間は、文章のことを考えなくて済む。手順があること自体が、ときどき救いになった。


ただ、今日はカウンターの向こう側に見慣れない姿があった。


窓際の席にひとり、女子生徒が座っている。眼鏡をかけた、少し前かがみの姿勢。机の上にメモ帳を開いて、何かを書いている。


書いている、というより、置いている。一文字ずつ慎重に紙の上に降ろすような手つきだった。


織はバーコードを読みながら、視界の端でその手元を追っていた。


書く人だ、と思った。根拠はない。ただ、書くことを習慣にしている人の手つきには共通する何かがある。迷うのと考えるのを同時にやっている、あの独特のリズム。


自分の手つきとは違う。織の手は迷わない。一文目から整った形で出てくる。出てくるからこそ苦しい。けれど、あの窓際の手つきには迷いがそのまま残っている。消さずに、迷ったまま次の字を置いている。


電子音が静けさに響いた。ピッ、ピッ。返却は三冊で終わった。


もう一度だけ窓際を見る。女子生徒は顔を上げない。メモ帳の上でペンが止まっていた。書けなくなったのか、次を考えているのか、遠目には分からない。


そのとき、胸の奥にかすかな痛みが走った。


あの手つきには、自分の文章にはないものがあった。ためらい。自分の文章は迷わない。迷わないから読みやすい。けれど、迷わない文章は同時に、読む人の足を引っかける突起を持たない。するりと通り抜けて、何も残さない。


帰宅してからも、あの手つきが頭に残っていた。


夜十時。自室の机に座り、スマートフォンを開いた。


ブックマークの中に、最近見つけた連載がある。更新頻度は高い。文章は整っていない。段落の切り方にクセがある。語彙は豊かではない。けれど、読むたびに温度が伝わってくる。書いた人の手のひらがそのまま紙の裏に貼りついているみたいだった。


最新話を開いた。


主人公が階段の踊り場で立ち止まっている場面だった。上にも下にも行けるのに、どちらにも踏み出せない。その停滞を、書き手は説明しなかった。ただ足音が遠ざかる描写と、窓から入る風の冷たさだけで、動けない時間の長さを見せていた。


上手くはない。段落の終わりに同じ助詞が続く箇所がある。読みやすくはない。一文の長さにばらつきがある。


けれど、読み終えたとき、胸の底に何かが残った。上手さでも美しさでもない何か。書いた人が、この場面を自分の体で通り抜けたことが伝わってくる手触り。文章の温度、と呼ぶしかないもの。


織の文章には、それがない。


読み終えたあと、画面を消す前に視線が下へ滑った。


感想欄。


まだ何も書かれていない白い空白。


何かを書きたい、と思った。感想なのか、自分の文章なのか、それすら判然としない衝動だった。指先が画面に触れかけて、止まった。


何を書く。何を書けば、この文章に釣り合う言葉になる。「読みやすかった」「世界観が綺麗」――自分が言われて冷えた言葉を、そのまま渡すわけにはいかない。


スマートフォンを伏せて、机に突っ伏した。


窓の外で風が鳴っている。四月の終わりにしては少し冷たい風だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ