第1話 かける
ノートを伏せて立ち上がる尾崎の動きが、視界の端に入った。
目で追ったわけじゃない。鞄に教科書を詰めながら窓の外を眺めていたら、たまたま入ってきた。それだけのことだ。
午後の終わりの教室。窓から差す光が、机の縁を白く縁取っている。残っている生徒の声が低く床に溜まっていた。
尾崎は伏せたノートを鞄に押し込んだ。普段なら机の上に出しっぱなしにして、図書室まで持っていく。今日は違う。鞄の奥に押し込んで、上から教科書を被せて、念入りに隠していた。
何を書いていたのかは知らない。
ただ、隠す手つきに見覚えがあった。
去年の冬、弟が学校で何か抱えていた時期があった。中学一年。帰ったらすぐ部屋に上がって、飯のときだけ降りてきて、ほとんど話さない夜が続いた。親がそれとなく聞いても「別に」しか返さなかった。
ある夜、たまたま開いたドアの隙間から、机に向かう弟の背中が見えた。ノートに何か書いていて、俺の気配に気づいたのか、さっと手を被せた。誰にも見せたくない、と背中で言っていた。
声をかけなかった。
かけてよかったのか、かけないほうがよかったのか、今でも分からない。弟は数か月かけてゆっくり戻ってきた。何があったのかは聞かなかった。聞けるタイミングは、もう過ぎていた。
石みたいに残っている、そのことが。
尾崎が教室を出る。俺は数分遅れて出た。図書室には行かない。同じタイミングで現れたら、追いかけているのが見えてしまう。
廊下を歩きながら、自分の手を眺めた。
軽口は得意だ。誰の隣にも座れるし、場の温度を下げない。クラスで誰とでもそこそこ話せる。それは自分の長所だと思っている。
でも、本当に必要な言葉は、いつも出てこない。
「なんかあった?」と聞くのは簡単だ。
でも弟のときも今も、そうしなかった理由を正直に言えば、聞いた俺が安心するだけだからだ、たぶん。相手のためじゃなかった。
聞かれて答えやすい質問を投げる。それが俺の悪い癖だ。
廊下の端まで来て、窓の外を見た。桜はもう散っていて、葉桜の濃い緑が風に揺れている。雨ではない日だ。なのに、先週の傘を思い出す。
正確には、俺の傘が壊れた日。二年使っていて、骨の一本が前から軋んでいた。たまたまあの日に折れた。
たまたまだ。
何度そう思っても、あの瞬間の尾崎の顔が残っている。傘が壊れた瞬間、尾崎の表情がほんの一瞬、固まった。何かを見つけた人の顔だった。何を見つけたのかは聞かなかった。聞いたら、触れてはいけないものに触れる気がした。
聞かないのも、俺の悪い癖だ。
聞きすぎず、聞かなさすぎず、ちょうどいい距離で隣にいる。それは器用さに見えるかもしれない。でも俺にとっては、踏み込めない理由にしているだけだ。
* * *
放課後の図書室。
図書委員の白石織がカウンターで本を分類していた。手つきは正確で無駄がない。俺は書架の影に立って、雑誌のラックを眺めるふりをしながら、奥の自習席に目をやった。
尾崎は窓際にいた。
ノートは出していない。スマートフォンの画面を何度も見て、眼鏡を外したり、かけたりしていた。外すと表情が緩んで、かけ直すと肩に力が入る。その繰り返しを、もう何度も見ている。
答えが出ない何かを確かめようとしている、という顔だった。
雑誌を一冊抜いて、めくった。読んでいるふりをするには、ちょうどいい距離だ。
声をかけるか。
かけたほうが尾崎は楽になるかもしれない。かけないほうが守られるかもしれない。どっちも本当で、どっちも嘘だ。俺には判断する材料が足りない。
弟のことを思い出す。声をかけなかった夜のことを。今でも後悔はしている。でも、かけていたとして正解だったとも限らない。踏み込んだことで、弟が完全に閉じてしまった可能性もあった。
かけることが正しいとは限らない。
かけないことが正しいとも限らない。
ページを繰る指が、いつの間にか止まっていた。
尾崎が画面を伏せた。膝の上に置いて、両手でこめかみを押さえた。深く息を吐く。肩が上下するのが見えた。
そのとき、尾崎の隣を白石が通った。
カウンターへ戻る途中だった。貸出カードを抱えて、窓際の席の横を通り抜ける。一瞬、尾崎の方を見た。でも白石は立ち止まらなかった。そのまま通り抜けて、カウンターに戻っていった。
息を吐いた。
あの距離の取り方ができる人は、たぶん俺にはなれない。俺はいつも揺れる。かけるかかけないかで。白石は揺れずに、ただ通った。無関心じゃないけど、踏み込まない。それは俺とは違う種類の、別の選択だった。
雑誌をラックに戻して、図書室を出た。
尾崎には声をかけなかった。
後悔するかもしれない。あるいは、かけていたら後悔したかもしれない。どっちかは分からないまま、廊下を歩いた。
* * *
帰り道。
コンビニで缶のカフェオレを二本買った。一本は自分のため。もう一本は、いつかのため。
冷蔵ケースから出した缶は冷たかった。両手で包むと、手のひらの温度が缶に移っていく。逆じゃない。缶の冷たさが手に来るんじゃなくて、手の熱が缶に吸われる。物理でそう習った気がする。実感もそうだ。
缶の温度が、手のほうに合わせてくれる。
そういう合わせ方が、人の隣にもできたらいいと思う。声じゃなくて、ただ手のひらをつけているだけで、相手の温度に合っていく。それができたら、もう少し何かが変わるかもしれない。
家まであと十分。空が藍色に変わっていく。
帰ったら宿題がある。明日は数学の小テスト。そういう日常が尾崎の周りにも続いていればいいと思う。何が起きているのかは知らないが、続いていれば、いつか別の入り口が開く。俺が踏み込まなくても、尾崎が自分で出口を見つけるかもしれない。
それまで、隣にいる。
声をかけられないなら、せめて、見ていられる場所にいる。それが今の俺にできる、ぎりぎりのことだ。
スマートフォンを取り出して、メモアプリを開いた。
何を書くわけでもない。ただ白い画面にしておく。書きたいことがあるわけじゃないけど、書ける場所を持っていることが、今は少しだけ安心だった。
弟も、そういう夜を持っていたのかもしれない、と初めて思った。
スマートフォンをポケットに戻した。カフェオレを飲み干して、空き缶を鞄に押し込んだ。次にゴミ箱を見つけたら捨てる。
明日もまた、教室で尾崎の隣に座る。
軽口で、距離を保ったまま、温度だけを合わせて。
それしかできない。でも、それは何もしないよりは、たぶんいい。
同じ放課後の、少しだけ別の場所で。




