諦めと、絶望と、後悔と。
白いシーツの、広げられたベットの上。
掛け布団を膝にかけ、体を起こし、窓から見える景色を眺める。
木々の揺れる姿や、人の流れる風景は、心のどこかを刺激する。
75年、生きてきた生涯に、悔いの無いことはぼくが一番知っていて、これ以上はなかったと、確信をもって言える。
何かを欲しがって、がむしゃらに生きていた子供の頃を、きっと今のぼくは若かったと、そう表現する。
手に入れたいと思うことで、努力の方向が決まり、走り出す。
向かっていく先はみんな同じで、欲しいものを得るためだった。
持っていないものを欲しがるとき、その手には方法と、欲しがる心しかない。
どれだけの努力をしても、手に入らないものはそこに在って。
持ってる人は、きっと不要だと感じていたりする。
伸ばした手のなかに、すっぽりと収まったときの高揚は、努力した時間と比例して。
絶対に届かないと、悟ったときの絶望は、願った心に二乗されて。
もはや、ぼくには資格がない。
願うことにも、希むことにも。
僕の心は折れて、曲がって、疲弊して、使い物にならなくて。
だからこそ、時折こう思う。
「ぼくの、生きる意味は何だったろう」と。
願ったことが、叶ったためしは一度もなく。
努力した先に得たものは、過ぎ去った時間と、その間、それ以外は何もしていなかったと言う徒労感だけ。
それでもきっと、努力したことで何か、得られることがきっとあると。
そう主張する人には何人もあったし。
その言葉一つ一つが、ぼくの心を締め付けて、ぼくの気持ちを踏みにじった。
善意でも、悪意でも、その言葉が表すものはいつも同じで。
むしろ悪意とわかっている言葉の方が、ぼくにとっては心地よいほどで。
痛みを伴う心の傷と、絶望の先にある闇の中で、ぼくが見つけたのは他でもない、希望に見える、逃げ道だけだった。
心を閉ざし、人の言葉を受け流し。
努力をやめて、自分の中に引きこもり。
願うことをやめて、素顔に笑顔を張り付けた。
それからの日々はとても楽しいものになった。
それなりの友達と、それなりに遊び、それなりに暮らした。
それなりの仕事をしてそれなりに生きた。
そして、無難な死を迎えようとしている。
そうか、ぼくの人生はこう終わるのか。
人生を振り返り、着々と重ねた、しんしんと降り積もった諦めが、半世紀生きたぼくの全身を蝕んで、もう解放してくれたりはしないことを、確信した。
逃げ方を覚え、諦め方を知り、絶望を恐れた。
努力をやめ、願いを捨て、心を切り捨てた。
これでよかった、と。
本当にぼくは思えるのだろうか。
思えるように生きただろうか。
何もかもを、許せるだろうか。
これまでの事を、愛せるだろうか。
ぼくは、ぼく自身を、本当に諦め切れたのだろうか。




