第11話 送ったのは、君だろう
妻と娘がいなくなった家で、直樹は朝、二度寝しかけた。
台所から物音がしなかった。食器の音も、花を急かす声もなく、時計を見てようやく体を起こした。
冷蔵庫には食材が残っていたが、すぐ口に入れられるものは少なかった。
遥に電話をしようとして、やめた。
昨夜も、帰るように言っている途中で切られた。こちらが何度頼んでも同じことしか言わない。
それでも、いつまでもよその家にいるわけにはいかないだろう。仕事が増えないのなら、暮らしの見通しだって立たないはずだ。
少し冷静になれば帰ってくる。
そう考えて出社した直樹を、営業部長の三浦が会議室へ呼んだ。
机の上には、見覚えのあるメールが置かれていた。
その横に、取引先本部から届いた照会がある。
「先方の本部から、確認が来ている。どういう話になってるんだ?」
直樹は椅子に座ったまま、書類を見た。
「妻のことで、店長に少し相談をしていまして」
「相談?」
「家庭で、ちょっと問題がありまして。今は勤務を増やす時じゃないと、伝えただけなんです」
三浦はメールを直樹の前へ寄せた。
「これは、君が送ったんだな」
「はい」
「特売への協力を見直すと書いてあるけど、誰に確認した?」
直樹は書面から目を上げた。
「それは……店長に、分かってもらうためで」
「会社として、そういう話はしていないよな」
答えられなかった。
メールを打ったときには、それほど長い文章ではないと思った。店長が読めば意味が分かり、勤務の話を止めれば済む。
いま机に載っている同じ一文は、その説明では収まらないものに見えた。
「奥さんの勤務と、うちの特売協力を、どうして一緒にしたんだ?」
「こちらの事情も、少しは聞いてもらいたかったんです。今まで、ずっと協力してきた先ですし」
「だから、協力をやめると言ったのか」
「実際にやめるつもりはありませんでした」
三浦は、もう一枚の紙を寄せた。
「先方は、そうは受け取っていない。会社としての方針だと言われたと、記録も来ている」
店舗側が残した電話の記録だった。
御社として決まった話かと聞かれ、自分がどう答えたか。直樹は覚えていた。
「そんな、本部にまで……」
「こちらでも確認する。それまで、先方への個別の連絡は控えてくれ」
「私から店長に説明すれば、分かってもらえます」
「今は、私が窓口になる。君からは連絡しないように」
もう一度言おうとして、三浦の顔を見てやめた。
何年も自分が担当してきた店なのに、その店へ連絡することさえ止められた。
「……はい」
*
会議室を出たあと、直樹は人のいない廊下へ向かった。
遥の名前を押す。数回の呼び出しのあと、声が聞こえた。
「お前、店に何を言ったんだよ」
遥は少し黙った。
「勤務を増やしたいのは私の希望だって。夫から連絡があっても、私に確認してほしいって言ったよ」
「先方の本部から、うちの部長に連絡が来たぞ」
「店長、会社に確認してるって言ってた」
「何で止めなかったんだよ」
自分の声が廊下に響いた。
「……何を?」
「こんな大ごとにすることないだろ。お前がシフトを増やさないって言えば、それで済むんだよ」
「私、増やしたいって何度も言ったよ」
直樹は壁の時計を見た。
こんな話をしている間にも、営業部では仕事が進んでいる。いつもなら自分に回ってくる取引先の確認が、今日は部長のところへ行く。
「俺の立場がどうなるか、分かってんのか」
電話の向こうで、遥が息を吸った。
「私が仕事に行けなくなるのは、よかったの?」
「それとこれとは――」
「違うって言うんだね」
続きを遮られ、直樹は口を閉じた。
自分は、家族が暮らせるだけ稼いでいる。遥は今の勤務のままでもいい。そう説明しようとしたが、さっき三浦に聞かれた言葉が頭に残っていた。
誰に確認した。
遥に確認したところで、同じ返事しか来ない。それは、もう分かっていた。
だから店長に頼んだのだ。
「……もういい」
電話を切った。
画面が暗くなっても、直樹はしばらくその場を動けなかった。
*
数日後、再び会議室へ呼ばれた。
三浦の前に置かれた書類は、前回より増えていた。
「社内で確認したが、君の要求を認めた者はいなかった。先方には謝罪して、要求は撤回した」
「……申し訳ありません」
「担当者を変えてほしいと言われている」
直樹は顔を上げた。
「担当を?」
「あの取引先は、外れてもらう」
「待ってください。ずっと俺が担当してきた先ですよ」
商品を納めて終わりではなかった。特売前に在庫を調整し、急な注文に応じ、店長と話を重ねてきた。売り場のどこに何があるかだって知っている。
あの店は、自分の仕事の実績の一つだった。
「その君が、会社の方針だと言って、私的な要求をしたんだ」
「もうしません。店長にも謝りますから」
「先方は、それでは任せられないと言っている」
直樹は机の上に視線を落とした。
取引先を失うわけではない。担当を外れるだけだ。ならば、ほかの仕事で埋め合わせれば。
考えながら、どうしても確かめなければいけないことを口にした。
「……昇進の話は、どうなるんですか」
「今回は見送る。ほかの担当についても、引き継ぎを進めてくれ」
直樹は三浦を見つめた。
昇進すると思っていた。その収入があれば、遥も仕事を増やす必要はないと言った。
ついこの前、家で口にした言葉だった。
「まず、今回の件で何が問題だったのか、書面にまとめて出してほしい」
三浦が言った。
直樹の口から、考えるより先に言葉が出た。
「妻が、余計なことを言わなければ――」
三浦の指が、メールの送信者欄に置かれた。
「送ったのは、君だろう」
そこには、自分の名前があった。
遥はこのメールを打っていない。送信を押したのも、会社の方針だと答えたのも、直樹だった。
書面には、そのことだけがはっきり残っていた。
会議室を出て、自分の席へ戻った。
引き継ぐ資料をまとめるように言われたが、最初のファイルを開けないまま座っていた。
昼になり、周囲の人が食事に出ていく。誘う声に、今日はいいと答えた。
スマートフォンに、遥からメッセージが届いた。
『週末、姉と荷物を取りに行きます』
直樹は、その短い文章を何度も読んだ。
週末には会える。
会えば話ができる。電話では切られてしまったが、家で向かい合えば、今度こそ。
戻ってくるとは一言も書かれていないことを、直樹は考えないようにした。





