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第12話 私たちの取り分

 玄関を開けると、見慣れた廊下があった。

 花の背の高さについた小さな傷。いつも鞄を置いていた棚。自分で選んだ玄関マット。

 私は姉と中へ入り、必要な衣類と荷物をまとめた。


 直樹は、その間ほとんど話さなかった。

 袋を二つ玄関へ運んだところで、夫が立ち上がった。


「お前のせいで、担当も昇進もなくなったんだぞ!」


 袋を持つ手に力が入った。

 隣に姉がいる。それでも、大きな声を聞くと体が硬くなった。


「私の仕事を潰そうとしたのは、あなたでしょう」

「お前が、あんなことしなければ――」

「だからって、私が困るのを見て笑っていいの?」


 直樹は口を結んだ。

 私は袋を足元へ置いた。手を空けないと、うまく息ができない気がした。


「もう終わりにしたい。離婚します」


 夫の目が動いた。


「……離婚?」

「私は、もう一緒に暮らせない」

「待てよ。そこまですることないだろ」


 そこまで、と直樹は言った。

 私が制服を隠し、友達に会うのをためらい、店長の前で仕事を続けたいと繰り返していた間、この人はどこまで来たつもりだったのだろう。


「やりすぎたよ。悪かった。もう意地悪はしないから」


 今は、意地悪だったと言えるのだと思った。

 私が困っていたときには、善意で洗ったのだと言った。家族を心配して店へ連絡したのだと言った。


「仕事だって、もう反対しない。好きなだけ働けばいい。だから――」

「来月から、勤務を増やすことになったよ」


 直樹が言葉を止めた。


「……え?」


 会社が要求を撤回したあと、店長から連絡があった。研修と勤務の調整ができたので、来月から始めようと言われた。

 私は姉と予定を確かめ、花と住む場所も探した。


「部屋も見つけた」

「いつの間に……」

「今日は、荷物を取りに来たの」


 直樹が私の足元を見た。

 ここで暮らすために持ち込んだものを、私は袋に入れて外へ出そうとしている。

 夫がそのことを見たのは、今が初めてのようだった。


「遥。今度こそ、ちゃんとするから。信じてくれよ」


 私は夫を見た。


「信じたよ。だから、あなたに本当のことを話したの」


 あの二週間が、全部嘘だったとは思っていない。

 花に謝った朝も、私が座るまで待ってくれた夕食も、確かにあった。直樹は、自分でご飯をよそい、娘の最後の一口を残せた。

 できなかったわけではなかった。


「でも、そのあとは、また怒らせたら何をされるんだろうって。そればかり考えてた」


 声を大きくしなくても、言葉は出てきた。


「もう、そんな暮らしには戻りたくない」


 直樹は黙った。

 ここで私が謝れば、話を続けられるのかもしれない。私も悪かったから、とまた差し出せば、直樹はうなずくのかもしれない。

 でも、そのあとに続く暮らしを、私はもう知っていた。


 姉が袋を一つ持った。

 私も残りを持ち上げ、玄関の扉に手を掛けた。


「待ってくれ。俺、これからどうすれば……」


 振り返ると、直樹は廊下に立っていた。


「また三人で、ご飯食べようよ。今度こそ、お前たちの分は残すから」


 最後まで、残すと言うのだと思った。

 私と花が食べるものは、夫が食べたあとに残してくれるものなのだと。


 私は袋の持ち手を握り直した。


「残してもらわなくても、もう、自分たちで食べられるよ」


 扉を開けた。

 姉と並んで廊下を歩いた。後ろから呼ばれるかもしれないと、肩に力が入っていたけれど、足は止めなかった。


     *


 数か月後、離婚が成立した。

 花に関わることや、暮らしを分けるために必要なことを、一つずつ話して決めた。顔を見れば穏やかに話せるという関係には戻れず、やり取りだけで疲れる日もあった。

 それでも、話を終えたあとに帰る場所は、もうあの家ではなかった。


 直樹は内勤へ異動した。

 収入が減り、以前のマンションを引き払ったと聞いた。


     *


 小さなアパートで、直樹は母親が持ってきた料理を机に並べた。

 容器のふたを開ける。肉も、煮物も、一人では十分すぎるほど入っていた。

 いつものようにテレビをつけて、スマートフォンを手に取る。


『頼む。もう一度やり直したい』


 しばらくして届いた返事は、短かった。


『戻るつもりはありません。これからの連絡は、花のことだけにしてください』


 直樹は画面を見つめた。

 料理なら、まだたくさんある。急いで食べなくてもいい。好きなものを最後に残しても、誰にも取られない。


「……遥」


 テレビから笑い声が流れた。

 直樹は箸を持ち上げたが、そのまま置いた。

 目の前には十分な料理があり、向かいには壁があった。


     *


 新しい暮らしは、楽なことばかりではなかった。

 発注の研修で覚えることは多く、仕事を終えると迎えの時間が気になった。姉に助けてもらう日もあったし、夕食を簡単に済ませる日もあった。

 部屋は前より狭い。買い物をするときには、値札をよく見る。


 けれど、足りなくなった弁当を朝から作り直すことはなくなった。

 制服は、前の晩に掛けた場所で乾いている。予定を決めるとき、誰かの機嫌を確かめなくてよくなった。

 花の学校の話を聞く余裕が、少しずつ戻ってきた。


 休日、娘とスーパーへ行った。

 魚売り場で足を止めると、きれいな切り身が並んでいた。


「今日はママ、焼き魚が食べたいな」


 口に出してから、私は花を見た。


「じゃあ、お味噌汁はお豆腐がいい」

「いいね」


 二切れの魚と、豆腐をかごへ入れた。

 それだけで献立が決まった。

 肉に変えなくていい。明日に延ばさなくていい。私が今日食べたいものを、今日、食べられる。


 夕方、魚を焼く匂いが小さな台所に広がった。

 花が二人分の箸を並べ、私は皿に一切れずつ盛りつけた。

 豆腐の味噌汁を運び、娘の向かいに座る。


「お待たせ」

「いただきます!」

「いただきます」


 箸を入れると、焼けた皮の下から白い身がほぐれた。

 一口、食べる。

 香ばしくて、ふっくらして、魚の甘さがした。


「……おいしい」


 思わず笑うと、花も笑った。


「ママ、聞いて。学校でね――」

「うん」


 花は箸を置いて、両手を広げた。

 友達と遊んだときのことを、身振りいっぱいに話し始める。私は箸を止め、娘の顔を見た。


 花の皿には、まだ魚が残っていた。

 私の皿にも。


 話し終えたら、続きを食べればいい。

 今日あったことを、ゆっくり聞いてからでいい。


 私は味噌汁を一口飲んだ。

 まだ、温かかった。

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