第10話 今日は、帰らない
翌朝、直樹はいつもどおり出勤した。
「行ってくる」
「……うん」
花も学校へ送り出し、一人になってから姉に電話をかけた。
昨夜は連絡先を開いたまま、何度も画面を閉じた。花の迎えを頼んだばかりなのに、これ以上何を頼めるだろうと考えていた。
それでも、朝になっても、帰りたくない気持ちは消えなかった。
「お姉ちゃん。今、話しても大丈夫?」
「うん。シフトのこと?」
「それが……まだ、増やせるか分からなくなっちゃって」
取引を理由に、直樹が店へ連絡したことを話した。
姉は途中で口を挟まなかった。その沈黙があったから、私は制服のことも、外出を潰されたことも話せた。
「わざと?」
「うん。私が困るの、分かっててやってるんだよ」
言い終えたあと、喉が詰まった。
大げさに言いすぎたのではないかと、いつもの癖で考えた。けれど、何も足していない。実際にあったことを話しただけだった。
「ごめん。もっと早く、話せばよかった」
「今、直樹さんは?」
「会社。花も学校に行った」
姉は少し考えてから言った。
「今夜、花と二人で来られる?」
私は顔を上げた。
「……いいの?」
「うん」
「すぐに部屋を借りられるか、分からないんだけど」
「しばらくなら泊まれるよ。その間に、一緒に考えよう」
リビングを見回した。
いつものソファ。直樹の置いたリモコン。三人分の椅子。
新しい部屋の契約ができるまで、ここにいなければいけないと思っていた。仕事が増え、必要なお金を計算できるようになるまで、何とかしのぐつもりだった。
「迷惑、かける……」
「いいから。まず、こっちにおいで」
私は電話を持ったまま泣いた。
姉は急かさずに待っていてくれた。落ち着いてから、花を迎えたあとに向かうことと、必要な荷物を相談した。
電話を切って、旅行鞄を出した。
一度に全部は運べない。まず数日分の衣類を畳み、仕事の制服を入れた。花の学校用品と、暮らしの手続きに必要になりそうな書類をまとめる。
何かを忘れても、また取りに来ればいい。
そう考えるたび、本当にここを出るのだと実感した。
花の服を選んでいると、遠足の日に着た上着が出てきた。
あの朝も、私は弁当を作った。夫が何を食べたかより先に、娘が何を着て笑っていたかを思い出せたことに、少し救われた。
この家のすべてが、嫌な記憶なのではない。
それでも、今の暮らしは続けられない。
*
帰宅した花は、荷物を見ると立ち止まった。
「どこか行くの?」
私は娘の前にしゃがんだ。
「今日から、しばらくおばちゃんの家に泊まろうと思って」
「パパは?」
「パパは、おうちにいるよ」
「一緒に行かないの?」
「うん。パパとママ、少し離れて暮らすことにしたの」
花は私の顔をじっと見た。
ふざけているのでも、旅行の話でもないと、分かったようだった。
「けんか、したから?」
「……うん。ちゃんと話さなきゃいけないことがあるんだ」
娘の目線を追いながら、言い足した。
「花が何かしたからじゃないよ。ママとパパの話だからね」
花はうなずいた。それから、私の腕に手を添えた。
「ママも、おばちゃんの家にいる?」
「いるよ。花と一緒に」
「学校は?」
「今の学校に行けるよ。明日の持ち物も、ちゃんと持っていこうね」
娘の顔が、少しだけ緩んだ。
私が何日も考えていた家賃や勤務の話とは違うことを、この子は心配している。朝になったら私がそばにいるか。いつもの教室へ行けるか。
一つずつ答えて、一緒に学校の鞄を確かめた。
家を出るとき、鍵を掛ける手が一度止まった。
何年も、ここへ帰るために持ち歩いていた鍵だった。
私は花の手を取り、姉の家へ向かった。
*
「来たね。おなか空いた?」
姉は玄関で、花の鞄を受け取った。
「うん」
「ご飯、もうすぐできるよ」
靴を脱ぐ娘の後ろで、私は立っていた。
「お姉ちゃん……」
姉が肩に手を置いた。
「入って。荷物、そこに置いていいから」
言われた場所へ鞄を下ろすと、手に食い込んでいた持ち手の跡が赤く残っていた。
私はその指を開いた。
花が姉と連絡帳を見始めてから、直樹にメッセージを送った。
『花と私は無事です。しばらく別に暮らします。連絡は私にしてください』
送信したあと、すぐに電話が鳴った。
私は廊下へ出て、リビングの戸を閉めた。
「何だよ、これ。今どこにいるんだよ」
「花と一緒に、泊めてもらってる」
「何で勝手に出ていくんだよ。昨日、分かったって言っただろ」
スマートフォンを持ち直した。
「あなたが、何をしたいのか分かったの」
「は?」
「私が働けなくなって、あなたを頼るしかなくなればいいんでしょう」
「家族のことを考えて言ってるんだよ」
「仕事をやめるとは言ってないよ」
夫の声が大きくなった。
「いいから帰ってこい。花も連れて」
目を閉じた。
以前なら、どうして帰れないかを、もう一度初めから説明していたと思う。理解してくれるまで、違う言葉を探し続けたと思う。
でも、説明している間も、姉の家には温かい食事があった。花が待っていた。
「今日は帰らない。今は、これ以上話せないから」
「おい、遥――」
「必要なことは、連絡するね」
電話を切った。
指が震えていた。強くなったから平気なのではなかった。怒鳴られるのは、今も怖かった。
それでも、戸の向こうへ戻ることができた。
「ママ、明日これ、持っていくんだって」
花が連絡帳の一行を指した。
「大丈夫。持ってきてるよ」
「よかった」
「明日の朝、一緒に鞄に入れようね」
娘の隣に座った。
姉が食卓へ料理を運び、私も立って手伝った。花は連絡帳を閉じて、自分で机を拭いた。
まだ、何一つ終わってはいない。勤務の返事も、住む部屋も、夫との話も残っている。
けれど、今夜帰らなくていい。
食事を始めてしばらくすると、スマートフォンがまた震えた。
私は伏せて置いたまま、花の茶碗にご飯をよそった。
「ママも食べようよ」
「うん」
今度は、自分の茶碗も手に取った。





