第5話「感情転送パッチ」
夜のコンビニは、前より少しだけ静かだった。
静か、というより――
“音が減った”ような感覚に近い。
自動ドアが開く音も、
冷蔵庫の低い唸りも、
どこか遠くに押しやられている。
それでも店は、変わらずそこにあった。
まるで、“必要な人の前にだけ現れる場所”のように。
男は、無言で店に入った。
三十代半ば。
スーツはくたびれ、ネクタイは緩んでいる。
一日が長すぎた、という顔だった。
いや、正確には――
“ここ最近ずっと長い”という顔。
レジの前を通り過ぎる。
店員はいない。
けれど、不思議と困らない。
ここでは、それが普通だった。
棚を見て回る。
どの商品も、少しだけ現実からずれている。
理解できるようで、できない。
でも、“今の自分に必要なもの”だけは、はっきりと分かる。
その中で、足が止まる。
小さな箱。
中には、透明なシートのようなものが入っている。
ラベルには書かれている。
「感情転送パッチ」
説明は、それだけ。
だが、触れた瞬間に理解する。
――貼ればいい。
――そして、“誰かに送る”。
何を?
それも、分かる。
“感情”。
男は、しばらくその場で立ち尽くした。
胸の奥に、重たいものがある。
言葉にならない、もやのようなもの。
怒りかもしれない。
疲れかもしれない。
諦めかもしれない。
全部が混ざって、固まっている。
それを――
“渡せる”。
レジへ向かう。
会計の音は鳴らない。
ただ、受け取った、という感覚だけが残る。
店の外に出る。
夜風が、少し強い。
男は、ポケットからパッチを取り出す。
透明なそれは、ほとんど見えない。
一枚、指でつまむ。
そして――
自分の腕に貼る。
一瞬だけ、体の奥が軽くなる。
抜けた。
何かが、確かに。
次に、スマートフォンを取り出す。
画面には、送信先のリスト。
名前が並んでいる。
同僚。上司。取引先。
そして――
一つ、指が止まる。
「自分」
一瞬、意味が分からなくなる。
だが、直感的に理解する。
これは、“未来の自分”だ。
送ることもできる。
今のこの感情を、
明日の自分に。
指が、震える。
もし送れば。
明日の自分は、この重さを最初から抱える。
でも、代わりに――
今の自分は、軽くなる。
もう一つ、名前に目がいく。
上司の名前。
今日、怒鳴られた相手。
理不尽な言葉を浴びせてきた相手。
これを送れば。
少しは分かるかもしれない。
この重さを。
画面を見つめる。
風が吹く。
夜が、静かに流れていく。
指が動く。
送信。
送り先は――
上司ではなかった。
未来の自分でもなかった。
“未指定”。
送信ボタンを押した瞬間、
パッチがふっと消える。
どこへ行ったのかは、分からない。
男は、その場に立ち尽くす。
体は、軽い。
驚くほどに。
さっきまであったものが、
確かに消えている。
だが――
胸の奥に、別の感覚が残る。
空白。
何もない場所。
それが、少しだけ怖い。
振り返る。
コンビニのガラスに、自分の姿が映る。
その向こう。
店の外に、子どもが立っている。
こちらを見ている。
何も言わずに。
男は、一瞬だけ目を逸らす。
もう一度見たとき、
子どもはもういなかった。
ポケットに、紙の感触。
レシート。
感情転送パッチ ¥0
転送先:未指定
転送内容:未定義
残留感情:空白
最後の一行で、指が止まる。
“空白”。
それが何を意味するのか、
男にはまだ分からなかった。
ただ一つ。
確かなことがある。
何かを手放すということは、
何かを失うということでもある。
風が吹く。
夜は、少しだけ深くなっていた。




