第4話「選択ログ」
夜の空気は、少しだけ重かった。
仕事帰りの道。いつもと同じ時間、いつもと同じ帰り道。けれど今日は、足取りがうまく定まらない。
スマートフォンの画面を何度も見て、閉じる。開いて、また閉じる。
さっきの会話が、頭から離れなかった。
「どっちでもいいよ」
そう言ったのは自分のはずなのに、その言葉がずっと胸の奥に引っかかっている。
どっちでもいい、なんてことは、本当はなかった。
ただ、決めきれなかっただけだ。
右に行くか、左に行くか。
続けるか、やめるか。
言うか、言わないか。
どれも大げさな話じゃない。けれど、そのどれもが、確かに“分かれ道”だった。
信号が赤に変わる。
立ち止まる。
ふと、視界の端に光が入った。
見慣れたはずのコンビニ。
けれど、その光はどこか静かで、呼吸をしているみたいに見えた。
気づけば、足がそちらへ向いている。
理由はない。
ただ、少しだけ立ち止まりたかった。
自動ドアが開く。
音は、ほとんどしない。
店内は明るくて、整っていて、どこにでもあるようでいて、どこか違う。
棚に並んでいる商品に、見覚えはない。
未来メモ。
感情リプレイ。
記憶修復パッチ。
名前だけで、なんとなく意味はわかる。けれど、現実に存在するはずのないものばかりだった。
立ち止まる。
少しだけ、笑いそうになる。
「なんだよ、これ……」
小さくつぶやく。
けれど、笑えなかった。
どれも、今の自分に“必要そうなもの”に見えたからだ。
その中で、ひとつだけ。
目に入ったものがある。
――選択ログ。
手のひらサイズの端末のようなものだった。
派手さはない。ただ、静かにそこに置かれている。
気づけば、手に取っていた。
冷たくも、温かくもない、不思議な感触。
画面が、ふっと点く。
文字が浮かび上がる。
【現在の分岐を表示しますか】
一瞬だけ、指が止まる。
けれど、そのまま、触れていた。
画面が切り替わる。
そこに並んだのは――未来だった。
いくつもの選択肢。
いくつもの結果。
仕事を続けた場合。
辞めた場合。
あのとき言った場合。
言わなかった場合。
細かく、具体的に。
現実よりも、少しだけ鮮明に。
息が浅くなる。
こんなものがあれば、間違えないで済む。
そう思った瞬間、別の考えが浮かぶ。
――じゃあ、今までの選択は?
間違っていたのか。
それとも、たまたまうまくいっただけなのか。
画面を見つめる。
どの未来も、それなりに悪くない。
けれど、どれも決定的ではない。
完璧なものは、ひとつもなかった。
指先が、ひとつの選択に触れる。
「変更しますか」
その表示が、静かに現れる。
時間が止まったみたいだった。
店内の音は何も聞こえない。
呼吸だけが、やけに大きい。
変えればいい。
たったそれだけで、少し良い未来に行ける。
それは、悪いことじゃない。
むしろ、正しいことかもしれない。
けれど――
指が、止まる。
変えた未来は、本当に“自分の未来”なのか。
選び直した時点で、それは“選んだこと”になるのか。
それとも、“なかったこと”になるのか。
わからない。
わからないまま、画面を見つめる。
やがて、指を離す。
何も押さなかった。
画面が、静かに消える。
そのとき、自分が息を止めていたことに気づく。
小さく、息を吐く。
少しだけ、肩の力が抜ける。
そのまま、端末を元の場所に戻す。
何も買わないまま、レジへ向かうこともなく、出口へ向かう。
自動ドアが開く。
外の空気が、流れ込む。
一歩、外に出る。
それだけで、なぜか少しだけ現実に戻ってきた気がした。
ポケットに、何かが触れる。
手を入れる。
紙がある。
取り出す。
レシートだった。
買っていないはずなのに。
開く。
選択ログ ¥0
分岐表示数:12
未実行変更:1
保留:継続中
記録状態:未確定
その文字を、しばらく見つめる。
「未確定」
小さく、つぶやく。
それは、不安定な状態のはずなのに。
なぜか、少しだけ安心する言葉だった。
決まっていない。
終わっていない。
まだ、そのままでいい。
レシートを折る。
ポケットにしまう。
顔を上げると、いつもの街がある。
信号が変わり、人が歩き、車が通る。
何も変わっていない。
それでも、ほんの少しだけ違って見える。
歩き出す。
急ぐ理由は、もう少し先でいい気がした。
さっきまで引っかかっていた言葉が、少しだけ軽くなっている。
「どっちでもいい」
あの言葉は、逃げじゃなかったのかもしれない。
決めない、という選択。
保留したまま、持っていくという選択。
それでも、進むことはできる。
角を曲がる前に、ふと振り返る。
あのコンビニは、変わらずそこにある。
静かに、ただ光っている。
その中に、何があるのかはもう見えない。
けれど、もう確かめる必要もなかった。
また必要になれば、きっと見つかる。
そう思える。
前を向く。
夜は続いている。
まだ、終わっていない。
そのまま、歩き出す。




