第2話「感情保存ボトル」
そのコンビニは、必要なときだけ現れる。
少なくとも、彼女はそう思った。
深夜一時過ぎ。
女は、スマートフォンを握りしめたまま歩いていた。
画面には、ひとつのメッセージ。
――「話したいことがある」
既読はついている。
だが、返事はない。
三時間前に送ったきり、何も動かない。
終わるのかもしれない。
その予感だけが、胸の奥に沈んでいる。
「……どうしたらいいの」
呟いた瞬間、視界に光が差し込んだ。
見覚えのないコンビニ。
白く、均一な光。
なぜか、目を逸らせなかった。
店内は静かだった。
音が、ない。
レジの奥に、店員がひとり立っている。
こちらを見ているが、何も言わない。
女は、ゆっくりと棚へ歩いた。
並んでいるのは、見たことのない商品ばかり。
「三秒だけ先が見えるガム」
「夢共有カード」
「未来メモ」
そして、その隣にあった。
透明な小瓶。
中には、淡く光る液体が入っている。
ラベルには、小さく書かれていた。
「感情保存ボトル」
「……保存?」
手に取る。
軽い。
だが、中の光はゆっくりと揺れている。
裏面には、短い説明。
――“このボトルには、感情を保存できます”
意味は、わからない。
だが、その言葉だけで十分だった。
今、この瞬間の感情を。
消えてほしくない気持ちを。
あるいは――
消えてほしい気持ちを。
女は、しばらくそれを見つめたあと、レジへ向かった。
外に出る。
夜の空気が、少し冷たい。
女は、ボトルを見つめる。
どう使うのか、直感でわかる気がした。
そっと目を閉じる。
胸の奥にある感情を、意識する。
不安。
期待。
執着。
そして――好き、という気持ち。
ボトルの中の光が、わずかに強くなる。
それだけだった。
何かが“抜けた”気がした。
胸が、少しだけ軽くなる。
「……あれ?」
不安が、薄れている。
苦しさが、消えている。
代わりに、静かな空白だけが残った。
女は、そのまま家へ帰った。
翌日。
約束のカフェ。
彼と向かい合って座る。
いつもなら、胸が締め付けられるはずだった。
だが――
何も感じない。
不安も、期待も。
好き、という気持ちすら。
ただ、状況だけを見ている。
「……あのさ」
彼が口を開く。
「正直に言うね」
女は、ただ頷いた。
「別れようと思う」
その言葉は、はっきりと聞こえた。
けれど――
「……わかった」
それだけだった。
涙も出ない。
引き止める気持ちもない。
ただ、受け入れるだけ。
彼の方が、少し驚いた顔をした。
「……いいの?」
「うん」
それ以上、言葉は続かなかった。
帰り道。
女は、あのコンビニの前に立っていた。
ガラス越しに店内を見る。
同じ光。
同じ店員。
そして――
入口の横に、子どもがいた。
静かにこちらを見ている。
「……ねえ」
女は声をかける。
「なんで、こんなに楽なの」
子どもは、少しだけ首を傾げた。
「置いてきたから」
「……え?」
「さっきの、ボトルに」
女は、手の中の小瓶を見る。
淡く光っている。
そこに、何かがある。
確かに、ある。
「じゃあ、これ戻したら……」
言いかけて、言葉が止まる。
子どもは静かに言った。
「そのままにする人もいるよ」
責めるでもなく、促すでもなく。
ただ、“選択”だけを示す。
次の瞬間、子どもの姿は消えていた。
女は、ポケットからレシートを取り出す。
ゆっくりと開く。
『購入商品:感情保存ボトル』
『保存内容:愛情・不安・執着』
『現在状態:未返却』
女は、その場に立ち尽くした。
軽いまま、生きることはできる。
苦しくならない。
迷わない。
だが――
それでいいのかは、わからない。
手の中のボトルは、静かに光っている。
コンビニの光も、同じようにそこにある。
何も教えない。
ただ、“選んだままの世界”を残すだけだ。
女は、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと歩き出す。
ボトルを握ったまま。




