散歩
再び家に戻り支度をして職場へ向かう。
半年もの間着続けているスーツは未だに袖を通す度に違和感を感じる。
(いい加減慣れないかな)
毎朝そう思って家を出る。
誰かに話せば学生気分が抜けていないなどと呆れられそうだ。
電車を降りて対応所へ向かう道で後ろから警笛が鳴らされた。
この道は歩道と車道の区分がついておらず歩行者は端を歩く。
楓も当然端の方を歩き通行の邪魔ではないはずだと怪訝に思い、通り過ぎる車体の内に見知った顔を見つけた。
一瞬だったが副所長の森崎が笑顔で楓に視線を送っていた。
出張から帰ってきたらしい。
走り去る車体に頭を下げたが森崎には見えなかったかもしれない。
午前中は榛野と仕事をした。
溝口は資料室に森崎は副所長室へ閉じ籠っているようて姿を見なかった。
午後になって森崎から呼び出された。
副所長室へ行くのかと思えば手招きをされて事務所の外へ出る。
夏は過ぎたが秋めいた風景にはまだ早い時期だ。
薄っぺらな日射しが降り注ぐ爽やかな大気の中二人で所内を歩く。
木立は高い空へと豊かに枝を伸ばす。
その葉の色づきはいつだろうか。
対応所の不必要に広大な敷地の奥には川も流れる。
舗装されていない道ばかりを選ぶ森崎は「たまにこうして散歩しているの。遠野君もしてみるといいよ」と薦めてくる。
湿り気のある土に靴底が軽く沈み砂利が鳴る。
通れるというだけで本当は道ではないのかもしれない。
ぽつぽつと日常的な会話を繰り返し木立の間を歩く。
森崎は勝手知ったる様子で歩を進める。
視界からは建築物は消え黒い枝と幹の隙間から水色の空しか見えない。
鳥の声が聴こえる。
仕事中にいいのかな、と少しばかり榛野に気兼ねする。
その時丁度森崎が仕事はどうかと問いかけた。
一瞬答えに詰まったがもどかしい思いを口に出した。
「帰還者の役に立ちたいです。未だに何一つできていません」
すると森崎はけらけらと笑い出した。
意外な反応に困惑して立ち止まる。
「君がここに来てから半年しか過ぎていないじゃないの」
「そうです。半年も経ちます」
「たった半年、まだまだ。今はひたすら学ぶ時だよ」
木々の間をすり抜けてきた風に吹かれ頬にかかった髪を押さえる、森崎は薄化粧の顔で微笑む。
「焦ることはないさ」
「すみません」
「謝ることでもない。頼もしいよ」
「はあ」
森崎からすれば楓など小僧に過ぎないだろう、それが頼もしいとはよく分からない、楓は首を傾げた。
「遠野君が今悩む帰還者の問題、なかなか良いところに目をつけたね」
「そうですか」
「うん、君の悩みはきっと前へ進む力となる」
ほんのわずか森崎の目はどこか遠くを見ていた。
再びその目が楓を捉える。
楓は森崎の年齢を知らない。
中学生の息子がいるらしいとは聞いたことがある。
年齢不詳の容姿でそんな歳の子供がいるとは想像すらつかない。
見た目が若すぎるというわけではない、掴みどころがないというべきか。
どの年齢層に混じっても違和感がなさそうである。
どこにいても自然とその場に溶け込んでしまう不思議な特技を持った女性だった。
楓は拙く不器用な話し方で必死に今の現状が帰還者にとって決して良い状態ではないと訴えた。
真剣に耳を傾けていた森崎は頷く。
「じゃあやろうよ。改善しよう。遠野君ならできるよ。自分の理想を現実に。絶対にね」
何故こうも言い切れるのだろう。
いい加減な言葉ではなかった、森崎自身が確信を持っていた。
重圧といったものは感じなかった。
楓は体の奥からふつふつと光が沸き上がるような感覚だった。
たとえ錯覚だとしても走り出せる力の源となるならばそれでいい。
今は素直にその気持ちに従いたい。
「ではまず実際に動かないとね。行動を伴ってこその理想だよね」
「その行動を教えて下さい。これまでに教わった仕事は全て大切ですが、何か足りないと思います」
森崎は内心愉快ともいえる気持ちで目の前の少年期を過ぎ去っていない楓を眺めていた。
森崎のそのような気持ちも知らず楓は腰に手を当てて深々と息を吐く。
「よし、今の制度を変えよう」
大胆な考えに呆気に取られる。
「そこまで考えていなかったかな」
自分の考えの至らなさに身を小さくする。
「責めていないよ。結局はそこに行き着くんだよ。これで君の目標が明確になったでしょう」
制度を変える、途方もない目標に言葉を失う。
「ところで一つ分かった事がある」
「何ですか」
「君と私は似ているね」
楓は目を丸くして森崎を見た。
どこがというのだろう。
「よし、じゃあ戻ろうか」と来た道を引き返す。
歩きながら森崎は強ばった声で「遠野君には見せなければならないものがある」振り返った顔には先程までの笑みはない。
その様子に楓は何を見せられるのか尋ねられなかった。
事務所へ戻った後、溝口と榛野が呼ばれた。
事務所の出入口には鍵を掛け会議中の看板を引き手へ吊り下げた。
会議室の窓を閉め切り天幕をひく。
少し息苦しさを感じたのは空気の循環が止まったせいだけなのか。
室内灯も消し暗くなった室内で森崎が投影機を操作した。
壁に写し出されたものを溝口が淡々と説明を行う。
我慢しようしたが無理だった。
榛野が室内灯を付けたと同時に口を押さえ部屋を飛び出した。
手洗いへ駆け込む楓を森崎が慌てて追いつき介抱をする。
吐き気が止まらない。
気持ちの悪さと情けなさで目を閉じた。
水の流れる音と森崎の手の暖かさにすがるしかない。
唇を噛みしめ拳を固く握る、けれど涙は抑えきれなかった。
あれが俺たちが救えなかった人たちなのか。




