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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第八話 猫又は距離が近すぎる

 翌朝。


 四ノ宮和真が母屋の台所で朝食を作っていると、背後から何者かが近づいてきた。


 足音はほとんど聞こえない。


 しかし、床を擦る二本の尻尾の音までは隠せていなかった。


「みゆ。料理中は近づくなよ」


「えっ?」


 背後から伸びかけていた両腕が止まる。


「なんで分かったの?」


「尻尾の音が聞こえてる」


「あちゃあ……失敗した」


 みゆは悪びれる様子もなく笑った。


 注意されたにもかかわらず、そのまま和真の背中へ抱きつく。


「おい。危ないって言っただろ」


「僕、お腹空いた」


「それと抱きつくことに何の関係があるんだ?」


「お腹が空くと、誰かにくっつきたくならない?」


「ならない。離れろ」


「もう少しだけ」


「駄目だ。火を使ってるんだぞ」


 和真はフライパンを火から外し、背中へ張りついているみゆを振り返った。


 昨日会ったばかりとは思えないほど、みゆには遠慮がない。


 両腕を和真の腹へ回し、頬まで背中へ押しつけている。


 二本の猫の尻尾も、上機嫌に揺れていた。


「みゆ! 和真の邪魔をするな!」


 居間から駆け込んできたフェンリスが、みゆの肩を掴んだ。


「邪魔してないよ」


「料理中に抱きついたら危ないだろ!」


「じゃあ、料理が終わったらいいの?」


「そういう問題じゃない!」


「どういう問題?」


「それは……」


 フェンリスは答えに詰まった。


 危ないから注意するだけなら、料理中でなければ問題ないことになってしまう。


 それでも、みゆが和真へべったりとくっついている姿を見ていると、なぜか落ち着かなかった。


「と、とにかく近すぎるんだ!」


「フェンリスには関係ないよね?」


「同じところに住んでるんだから関係ある!」


「ふうん?」


 みゆは楽しそうに目を細める。


 フェンリス自身にも、どうしてこれほど気になるのか分かっていないらしい。


 みゆの肩を掴んだまま、言い返す言葉を探している。


「朝から騒ぐな。あと、みゆは本当に離れろ」


「はーい」


 ようやく離れたみゆだったが、今度は和真の服の裾をつまんだ。


 完全に離れるつもりはないらしい。


「みゆは……すごいですね」


 台所の入口から、小さな声が聞こえた。


 長い前髪で目元を隠したひかげが、皿を手に立っている。


「何が?」


「その……初めて会った人と、すぐに仲良くなれて……」


「ひかげも、くっついてみる?」


「えっ!?」


 ひかげの牛耳が跳ね上がった。


「な、何を言っているんですか……!」


「僕みたいに、和真へぎゅって」


「で、できません!」


 ひかげは皿を抱えたまま、慌てて居間へ戻っていった。


 その尻尾は落ち着かなそうに左右へ揺れている。


「余計なことを言うな」


「でも、ちょっと羨ましそうだったよ?」


「ひかげは人と話すのが苦手だから、お前の遠慮のなさに驚いただけだ」


「そうかなあ?」


「そういうことにしておけ」


 和真はみゆの手を服から外し、出来上がった料理を皿へ盛りつけた。


 しばらくして、四人分の朝食が食卓へ並んだ。


 和真がご飯をよそう間に、フェンリスとひかげが皿を配っていく。


 みゆは椅子へ座り、並んだ料理を物珍しそうに眺めていた。


「そういえば、いつの間にか母屋でみんなそろって食べるのが当たり前になったな」


 和真が何気なく口にすると、フェンリスが顔を上げた。


「駄目だった?」


「いや。そんなことは言ってない」


「よかった。僕、みんなで食べるの好きだから」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


 ひかげも小さく頷く。


「私も……一人で食べるより、落ち着きます」


「僕も!」


 みゆが勢いよく手を挙げた。


「お前は今日が初めてだろ」


「今日から毎日好きになる」


「意味が分からない」


「じゃあ、これからも朝と夜はみんなで食べようよ」


 みゆに言われ、和真は三人の顔を順番に見る。


 フェンリスは返事を待つように見つめ、ひかげも前髪の奥から顔を向けている。


「それぞれ予定もあるだろうから、絶対とは言わない。ただ、食べられる日は一緒に食べるか」


「決まり!」


「お前が決めるのか?」


「だって、和真も嫌じゃないんでしょ?」


「……まあな」


 フェンリスの尻尾が嬉しそうに揺れる。


 ひかげの口元も、僅かに緩んでいた。


 こうして母屋で食事を取ることは、四人の間で自然な習慣になった。


 朝食後、四人はそのまま居間に集まった。


 和真はテーブルの上にメモ帳を置き、向かいに座るみゆを見る。


「今日は、みゆの生活に必要なものを買いに行く」


「買い物!」


 みゆの猫耳がぴんと立った。


「服も欲しい!」


「服だけじゃない。布団、食器、洗面道具、着替え。それから、部屋で使う細かいものも必要だな」


「魚!」


「なんでそこに魚が入るんだ?」


「今日から102号室で暮らすなら、食べ物も必要でしょ?」


「食事は母屋で一緒に食べるって、たった今決めたばかりだろ」


「おやつに魚を食べるかもしれない」


「部屋に生魚を置くな」


「じゃあ干物」


「それも匂いが残るからやめろ」


 みゆが住むことになったのは、1階の102号室だった。


 昨日のうちに簡単な掃除は済ませたものの、家具も生活用品もほとんどない。


 最低限のものだけでも、今日中にそろえる必要があった。


「それから、スマホも契約する」


「僕の?」


「ああ。持ってないと、離れているときに連絡できないからな」


「やった!」


 みゆが立ち上がり、テーブル越しに和真へ飛びつこうとする。


 しかし、その前へフェンリスが素早く腕を差し込んだ。


「また抱きつこうとしただろ!」


「お礼だよ」


「言葉で言えばいい!」


「フェンリス、さっきから邪魔ばっかり」


「お前がすぐにくっつこうとするからだ!」


「フェンリスも和真にくっつきたいの?」


「なっ……!」


 フェンリスの狼耳が勢いよく立った。


「そ、そんな話はしてないだろ!」


「じゃあ、僕がくっついてもいいよね?」


「よくない!」


「だから、なんで?」


「お前が和真を困らせてるからだ!」


 フェンリスは強引に話を終わらせる。


 その尻尾は、苛立ったように大きく揺れていた。


 和真には、フェンリスがなぜそこまで怒っているのか分からない。


 おそらく、まだ出会ったばかりのみゆを警戒しているのだろう。


「フェンリス。落ち着け」


「でも、みゆが……」


「俺が嫌なときは自分で止める。それより、みゆもフェンリスをからかうな」


「はーい」


 みゆは返事だけは素直にすると、今度は隣に座るひかげの腕へ抱きついた。


「み、みゆ……?」


「和真が駄目なら、ひかげにする」


「わ、私ならいいんですか……?」


「ひかげは柔らかくて落ち着くから」


「や、柔らか……」


 ひかげの顔が前髪の奥まで赤くなっていく。


 それでも、みゆを押し退けようとはしなかった。


「ひかげも一緒に買い物へ行くか?」


「わ、私も……ですか?」


「ああ。みゆの服は、俺よりフェンリスとひかげに選んでもらった方がいいだろ」


「僕が選ぶよ!」


 フェンリスが勢いよく手を挙げる。


「変な服を選ばれたら困るからな!」


「僕、自分で選べるよ?」


「この世界の服をよく知らないだろ?」


「見れば分かるって。それに、可愛い服がいっぱいあるんでしょ?」


「服を選ぶなら……私も少し、手伝えます」


 ひかげがおずおずと申し出た。


「本当?」


「は、はい……。みゆに似合いそうなものを……」


「楽しみ!」


 みゆはひかげの腕に抱きついたまま、嬉しそうに二本の尻尾を揺らした。


 午前十時を過ぎた頃、四人は車で街へ向かった。


 助手席にはフェンリス。


 後部座席には、ひかげとみゆが座っている。


 最初こそ窓の外を夢中で眺めていたみゆだったが、しばらくすると後部座席の中央から身を乗り出してきた。


「和真、これすごいね!」


「前へ乗り出すな。危ないぞ」


「馬車より速いし、あんまり揺れない!」


「ちゃんと座って、ベルトをしてろ」


「はーい」


 返事は素直だったが、数秒後には運転席の背もたれへ両腕を回していた。


「みゆ!」


 フェンリスが振り返る。


「和真の運転の邪魔をするな!」


「邪魔してないよ。近くで見てるだけ」


「それが危ないって言ってるんだ!」


「フェンリスだって隣に座ってるじゃん」


「僕はちゃんと座ってる!」


「じゃあ、僕も次はそこに座る」


「駄目だ!」


「なんで?」


「僕が座るからだ!」


「早い者勝ちだったの?」


「そういう意味じゃない!」


 言い争う二人の声を聞きながら、和真は前を向いたまま息を吐いた。


「ひかげ。悪いけど、みゆを座らせてくれ」


「は、はい……」


 ひかげは隣から、みゆの服の裾をそっと引いた。


「みゆ……危ないそうなので、座りましょう」


「ひかげが隣にいてくれる?」


「も、元から隣に座っています……」


「じゃあ、ひかげにくっついてる」


「えっ……」


 ひかげが答える前に、みゆはその肩へ頭を預けた。


 二本の尻尾が座席の上で楽しそうに揺れる。


「ひかげ、温かい」


「み、みゆも……温かいです」


 ひかげは戸惑いながらも、みゆが座席からずれないように身体を支えた。


 その様子を鏡越しに確認し、和真は僅かに口元を緩める。


 みゆは、元いた世界へ戻る方法が分からない。


 親しい者がいるのか、帰りを待っている者がいるのか。それさえ、まだ詳しく聞けていなかった。


 明るく振る舞ってはいるが、不安がないはずはない。


 見知らぬ世界へ放り出され、一人で街をさまよっていたのだ。


 誰かへ必要以上にくっつこうとするのも、単なるいたずらだけではないのかもしれない。


「和真」


 不意に、みゆが運転席の背もたれ越しに呼びかけてきた。


「今度はなんだ?」


「僕、ここにいてもいいんだよね?」


 先ほどまでとは違う、静かな声だった。


「ああ。戻る方法が見つかるまでは、空色唐辛子荘で暮らせばいい」


「戻る方法が見つかったら?」


「そのときは、みゆが決めればいい」


「帰りたくないって言ったら?」


 和真はすぐには答えなかった。


 前方の信号が赤へ変わり、ゆっくりと車を止める。


「ここで暮らしたいなら、そのための方法を一緒に考える」


「追い出さない?」


「決まりを守るならな」


「分かった」


 みゆは素直に頷いた。


 しかし、すぐにいつもの笑顔へ戻る。


「じゃあ、和真にもいっぱいくっつく」


「今の話から、どうしてそうなるんだ?」


「追い出されないなら、遠慮しなくていいでしょ?」


「少しは遠慮しろ」


「みゆ! 和真を困らせるな!」


 フェンリスの声が再び車内へ響く。


 みゆは楽しそうに笑いながら、ひかげの肩へ戻った。


 信号が青へ変わる。


 再び走り出した車の中で、みゆは流れていく街並みを眺めていた。


 店の看板。


 歩道を行き交う人々。


 道路を走る何台もの車。


 どれも、みゆにとっては初めて見るものばかりだった。


「あっ! 魚って書いてある!」


「読めるのか?」


「僕たちの世界と、言葉も文字も同じみたい」


「言葉だけじゃなく、文字まで同じなのか……」


「魚、買おう!」


「あそこは今日行く店じゃない」


「じゃあ帰りに寄ろう!」


「生活用品が先だ」


「魚も生活に必要だよ!」


 和真は再び騒がしくなった車内で苦笑しながら、最初の目的地へ車を走らせた。


 最初に到着したのは、家具や日用品、衣類まで扱っている大型店だった。


 車を降りたみゆは、巨大な建物を見上げたまま動かなくなった。


「ここ、全部お店なの?」


「そうだ」


「お城より大きくない?」


「さすがに城ほどじゃないだろ」


「中に魚もある?」


「まだ魚を諦めてないのか?」


 自動扉が開いた瞬間、みゆの猫耳と二本の尻尾が一斉に跳ね上がった。


「扉が勝手に開いた!」


「自動扉だ」


「じどうどあ?」


「人が近づいたのを機械が見つけて、勝手に開けてくれるんだ」


 みゆは扉の前から離れ、もう一度近づいた。


 扉が閉じかけて、再び開く。


 一歩下がる。


 扉が閉じる。


 再び近づく。


 また開く。


「すごい! 僕のこと分かってる!」


「遊ぶな。ほかの客の邪魔になる」


「もう一回だけ!」


「駄目だ」


 和真がみゆの腕を掴み、店内へ連れていく。


 それを見たフェンリスが、なぜかむっとした顔をした。


「みゆだけ手を引いてもらってる」


「放っておいたら、ずっと入口で遊んでるだろ」


「僕は遊んでないよ。調べてたの」


「何を?」


「何回まで開いてくれるのか」


「たぶん何回でも開く」


「じゃあ、帰りに確かめる」


「確かめなくていい」


 店内へ入ると、みゆはさらに目を輝かせた。


 棚には大量の商品が並び、天井からはいくつもの案内板が下がっている。


 あちらこちらから聞こえる音楽や店内放送にも、猫耳が忙しなく動いていた。


「和真、あれは?」


「掃除機」


「あっちは?」


「炊飯器」


「あの光ってるのは?」


「照明だ」


「全部、魔道具?」


「この世界では家電って呼んでる。魔力じゃなくて、電気で動く道具だ」


「全部欲しい!」


「全部は買わない」


「じゃあ半分」


「一つずつ必要なものを選ぶぞ」


 和真は入口に置かれていた買い物用のカートを押し始めた。


 その横へ、みゆがぴったりと並ぶ。


 反対側には、フェンリスが並んだ。


「フェンリス、狭いよ」


「みゆが離れればいいだろ」


「僕は和真に商品のことを聞かないといけないから」


「僕だって教えられる!」


「じゃあ、あれは?」


 みゆが棚に並ぶ商品を指差す。


「えっと……」


「洗濯用の柔軟剤だ」


 和真が答えると、みゆが得意そうに笑った。


「フェンリス、分かってないじゃん」


「今覚えたから、次からは分かる!」


「競争するな」


 三人の少し後ろを歩いていたひかげは、そのやり取りを眺めながら、小さく笑っていた。


 最初に選んだのは、みゆが102号室で使う布団だった。


 みゆは展示されている布団へ近づき、手のひらで何度も感触を確かめる。


「ふかふか……」


「寝るだけなら、このくらいで十分だろ」


「和真の布団と同じ?」


「俺のものとは違う」


「じゃあ、和真と同じのがいい」


「なんでだ?」


「夜、どっちの部屋で寝てるか分からなくなっても困らないでしょ?」


「どうして俺の部屋で寝る前提なんだ?」


「間違えるかもしれない」


「母屋と102号室をどうやって間違えるんだ」


 みゆが冗談めかして笑う。


 しかし、フェンリスは笑わなかった。


「みゆ。絶対に和真の部屋へ勝手に入るなよ」


「絶対?」


「絶対だ!」


「そこまで言われると、入りたくなるね」


「入るな!」


「二人とも店の中で騒ぐな」


 和真は手頃な値段の布団一式をカートへ載せた。


 続いて枕を選ぶことになったが、みゆは一つずつ抱き締め、なかなか決めようとしなかった。


「これも柔らかい。こっちもいい匂いがする」


「枕に匂いはついてないだろ」


「新品の匂い」


「早く選べ」


「和真の腕と、どっちが寝やすいかな?」


「俺の腕を枕にするな」


「まだしてないよ?」


「するつもりだったのか?」


 和真が呆れる横で、フェンリスの尻尾が不機嫌そうに左右へ揺れた。


「これにしろ!」


 フェンリスが近くにあった枕を一つ取り、みゆへ押しつける。


「固い」


「ちゃんと寝られる!」


「フェンリスが使えば?」


「これはみゆの買い物だろ!」


「みゆには……こちらの方が、いいかもしれません」


 ひかげが別の枕を手に、二人の間へ入った。


「高さを変えられると書いてあります。中身を抜けば、好きな高さに……」


「ひかげ、詳しいね」


「ね、寝具を見るのは好きなので……」


「じゃあ、ひかげが選んだのにする!」


 みゆは迷わず枕を受け取り、カートへ載せた。


 ひかげの牛耳が、嬉しそうに僅かに動く。


「ありがとう、ひかげ」


「い、いえ……」


「お礼に抱きついていい?」


「えっ?」


 返事を待たず、みゆはひかげへ抱きついた。


 ひかげは驚いて固まったものの、今度は逃げなかった。


 その両手が行き場をなくし、みゆの背中近くで何度も動く。


 やがて、ためらいがちにみゆの肩へ触れた。


「ひかげも、少し慣れてきたな」


 和真が言うと、ひかげの顔が赤くなる。


「な、慣れてはいません……」


「でも、さっきより力が抜けてるよ?」


「そ、それは……」


「ひかげも僕にくっつきたかった?」


「違います!」


 ひかげは慌ててみゆから離れた。


 みゆはその反応が面白いらしく、二本の尻尾を大きく揺らしている。


 見知らぬ世界へ来た翌日とは思えないほど、楽しそうだった。


 布団や洗面道具、食器などを選び終える頃には、カートの中が商品で埋まっていた。


 それでも、みゆの買い物はまだ終わっていない。


「次は服!」


 衣料品売り場を見つけたみゆが、弾むように駆け出す。


「走るな!」


 和真が呼び止めるものの、みゆは止まらない。


 色とりどりの服が並ぶ売り場へ飛び込み、その場でくるりと振り返った。


「ひかげ、フェンリス! 早く!」


「今行きます……!」


「勝手に一人で行くな!」


 二人もみゆを追いかけていく。


 和真は商品でいっぱいになったカートを押しながら、その後を追った。


 みゆの服を選ぶだけで、どれほど時間がかかるのか。


 その後には、スマホの契約も待っている。


 和真は店へ入ってから何度目か分からないため息をつきながら、楽しそうに服を見比べる三人のもとへ向かった。


衣料品売り場へ到着した和真は、早くも来たことを後悔しかけていた。


「みゆ、これはどう?」


「可愛い!」


「こちらも……似合うと思います」


「それも着る!」


「お前たち、少しは値段も見てくれ」


 フェンリスとひかげが次々と服を持ってくるたび、みゆは迷わず受け取っていく。


 みゆの両腕には、すでに何着もの服が積み重なっていた。


「全部買うつもりか?」


「駄目なの?」


「必要なものを選ぶとは言ったけど、好きなだけ買っていいとは言ってない」


「じゃあ和真が選んで」


「俺が?」


「和真が僕に着てほしい服」


 みゆは抱えていた服をフェンリスへ預け、和真の腕へ抱きついた。


「おい。またそれか」


「和真が選んでくれるまで離れない」


「服くらい自分で選べるだろ」


「この世界の服、まだよく分からないもん」


「さっきは見れば分かるって言ってただろ」


「やっぱり分からなくなった」


 明らかに嘘だった。


 みゆは和真の腕へ頬を寄せ、楽しそうに二本の尻尾を揺らしている。


「みゆ!」


 大量の服を抱えたフェンリスが、低い声を出した。


「選んでほしいなら、離れて頼めばいいだろ!」


「フェンリス、僕の服を落としそうだよ」


「誰のせいだ!」


 フェンリスの腕から、積み上がった服の一番上がずり落ちる。


 ひかげが慌てて受け止めた。


「あ、危なかったです……」


「ご、ごめん、ひかげ」


「僕が持つよ」


「原因を作ったお前が言うな!」


 みゆは和真から離れると、フェンリスが抱えていた服の半分を受け取った。


「それで、どれにする?」


「まずは必要な枚数を決めるぞ。普段着を何組かと、寝るときの服。それから下着や靴下も必要だな」


「下着も和真が選んでくれるの?」


「それは二人と選べ」


「僕が見る!」


 フェンリスが即座に答える。


「どうしてフェンリスがそんなに必死なの?」


「和真に選ばせるわけにいかないからだ!」


「わ、私も手伝います……」


 ひかげも小さく手を挙げた。


「じゃあ、三人で行こう!」


「俺はここで待ってる」


「和真も来る?」


「行かない」


「残念」


「何が残念なんだ?」


 みゆは笑いながら、フェンリスとひかげを連れて売り場の奥へ向かった。


 和真がカートのそばで待っていると、三人は思っていたより早く戻ってきた。


 ただし、みゆの手には服だけでなく、猫の絵が描かれた大きなクッションまで抱えられている。


「それはどこから持ってきた?」


「向こうにあった」


「服じゃないだろ」


「102号室に置く」


「さっき布団を選んだときには見向きもしなかったのに、なんでここで増えてるんだ?」


「この猫、僕に似てない?」


 みゆがクッションを自分の顔の横へ並べる。


 丸い猫の顔が描かれているだけで、似ているかどうかは分からない。


「耳があるところは似てるな」


「それだけ?」


「ほかに何を言えばいいんだ?」


「可愛いところとか」


「自分で言うのか?」


 和真が呆れると、みゆはクッションで口元を隠しながら笑った。


「一つだけならいい?」


「値段は?」


「これ」


 みゆが値札を見せる。


 予想していたほど高くはない。


「部屋でちゃんと使うならな」


「使う!」


「すぐ飽きるなよ」


「和真だと思って抱いて寝る」


「なら戻してこい」


「冗談だってば」


 みゆはクッションを抱えたまま、和真から距離を取った。


 その横では、フェンリスが不満そうに頬を膨らませている。


「みゆばっかり、いろいろ買ってもらってる」


「今日はみゆの生活用品をそろえに来たんだから、当たり前だろ」


「分かってるけど……」


「フェンリスも必要なものがあるなら言ってくれ」


「別にない」


 そう答えながらも、フェンリスの視線はみゆのクッションへ向いている。


「フェンリスも欲しいの?」


「いらない」


「狼のクッションもあったよ?」


「だから、いらないって」


「和真に買ってもらえるのに?」


「……どこにあった?」


 フェンリスの尻尾が僅かに動く。


「こっち!」


 みゆが売り場の奥を指差すと、フェンリスは迷いながらもそちらへ歩き始めた。


 少し遅れて、ひかげも二人の後を追う。


「ひかげも何か欲しいのか?」


「わ、私は……見るだけです」


 そう答えたひかげだったが、しばらくして戻ってきたときには、黒い牛の小さなぬいぐるみを胸元へ抱えていた。


 フェンリスは大きな狼のクッションを持っている。


「二人とも買うのか?」


「みゆが和真に買ってもらうなら、僕も……」


「わ、私は自分で払います……」


 ひかげはぬいぐるみを大切そうに抱え直した。


「生活用品と一緒に会計するから、今日はまとめて出すよ」


「で、でも……」


「ひかげには買い物も手伝ってもらったからな。それくらいなら気にしなくていい」


「あ、ありがとうございます……」


 ひかげは小さく頭を下げた。


 牛のぬいぐるみを抱く腕に、少しだけ力が入っている。


「和真、僕も手伝ったよ!」


「フェンリスにも買うって言っただろ」


「やった!」


 フェンリスは嬉しそうに狼のクッションへ頬を寄せた。


 その様子を見ていたみゆが、にやりと笑う。


「フェンリス、いらないって言ってたのに」


「うるさい!」


「みゆ。あまりからかうな」


「はーい」


 返事とは裏腹に、みゆの二本の尻尾は楽しそうに揺れていた。


 三人が選んだ服を確認し、必要なものだけに絞る。


 普段着に使えるシャツや短パン、動きやすいスカート。


 寝るときに着る部屋着や、下着、靴下。


 みゆは派手な服ばかり欲しがったが、フェンリスとひかげが普段使いしやすいものも選んでいた。


「これも欲しい」


 みゆが最後に持ってきたのは、猫耳のついたパーカーだった。


「お前には本物の耳があるだろ」


「耳が四つになる」


「変じゃないか?」


「この世界では、僕の耳も作り物だと思われるんでしょ?」


「外ではそういうことにしてもらう」


「だったら、こっちの耳が本物だって言えばいいよ」


 みゆはパーカーのフードをかぶり、ついている猫耳を指差した。


 その下から、本物の猫耳が横へ飛び出している。


「余計に目立つぞ」


「可愛いから大丈夫」


「何が大丈夫なのか分からない」


「私は……似合っていると思います」


 ひかげが小さく言った。


「本当?」


「はい。みゆは明るい服も似合いますが、こういう服も……可愛いです」


「じゃあ、これも買う!」


「一着増えたな……」


「ひかげが選んでくれたから、大切に着る」


 みゆが嬉しそうに笑うと、ひかげも僅かに口元を緩めた。


 出会ってまだ一日しか経っていないが、二人は少しずつ打ち解けているようだった。


 会計を済ませたあとは、商品を車へ運ぶことになった。


 布団や日用品に加え、それぞれが選んだクッションやぬいぐるみもある。


 かなりの量になっていたが、和真が重いものをまとめて抱えた。


「僕も持つよ」


 みゆが布団へ手を伸ばす。


「それなら、こっちの袋を頼む」


「和真の方がいっぱい持ってる」


「このくらいなら平気だ」


「やっぱり力持ちなんだね」


「お前たちの前で力を使うことは隠してないからな。ただし、街中では驚かれない程度にする」


「僕も力持ちだよ?」


「それは分かってる。だから、その大きな袋を頼む」


「任せて!」


 みゆは衣類と食器が入った袋を軽々と持ち上げた。


 細身の身体からは想像しにくい力だった。


「みゆ、すごい……」


 ひかげが感心したように声を漏らす。


「ひかげも持てるでしょ?」


「わ、私も……普通の人よりは……」


「じゃあ今度、力比べしようよ」


「やりません……」


「楽しそうなのに」


「店の前で始めるなよ」


 和真が念を押すと、みゆは笑いながら車へ向かった。


 荷物を積み終えた四人は、次の店へ移動した。


 目的地は、以前フェンリスやひかげのスマホを契約した携帯電話の販売店だった。


 車が駐車場へ入ると、ひかげが首を傾げる。


「ここ……前に来たお店ですね」


「ああ。事情を一から説明しなくて済むからな」


「僕のスマホ、ここにあるの?」


 後部座席から、みゆが身を乗り出す。


「まだお前のものはない。これから選ぶんだ」


「一番いいのが欲しい」


「最初から高いものを選ぶな」


「じゃあ、和真と同じもの」


「俺と同じにする必要もないだろ」


「使い方を聞きやすいから」


「それなら同じ種類でもいいけど……」


「僕と同じでも教えられるよ!」


 助手席のフェンリスが会話へ割り込んだ。


「僕のスマホ、使いやすいから同じのにしよう!」


「フェンリスとおそろい?」


「そうだよ。分からないことがあったら僕が教える」


「でも、フェンリスも全部は使えてないよね?」


「使えてる!」


「昨日、写真を撮ろうとして自分の顔をずっと映してたよ」


「あれは確認してただけだ!」


 フェンリスの顔が赤くなる。


 みゆは楽しそうに笑いながら車を降りた。


 店内へ入ると、以前対応してくれた店員が和真たちに気づいた。


 フェンリスやひかげの姿を覚えていたらしく、僅かに驚いた顔をしたあと、営業用の笑顔で迎える。


「本日は機種変更でしょうか?」


「いえ。もう一台、追加で契約したくて」


「追加の回線ですね。ご利用になるのはこちらの方ですか?」


「僕!」


 みゆが元気よく手を挙げる。


 猫耳と二本の尻尾を見た店員の視線が一瞬だけ止まった。


 しかし、フェンリスの狼耳やひかげの角をすでに見ているためか、すぐに笑顔へ戻る。


「とてもよくできた尻尾ですね」


「本物だよ」


「みゆ」


 和真が呼び止める。


「本物みたいによくできてるでしょ?」


 みゆは言い直し、二本の尻尾を持ち上げて見せた。


「自分で動かせるんですか?」


「うん。僕の自慢」


「珍しい衣装ですね」


 店員は完全に精巧なコスプレ用品だと思っているらしい。


 それ以上深く尋ねることなく、和真たちを受付へ案内した。


 スマホの契約は、和真名義の追加回線として進められることになった。


 店員から説明を受ける間も、みゆは展示されている端末を次々と触っている。


「和真、これがいい」


「一番高いやつじゃないか」


「写真が綺麗だって書いてある」


「もう少し手頃なもので十分だ」


「こっちは?」


「それも高い」


「じゃあ、これ」


「なんで高い順に選ぶんだ?」


「長く使うなら、いいものがいいでしょ?」


「どこでそんな考え方を覚えたんだ……」


 和真が価格を確認していると、フェンリスが別の端末を持ってきた。


「これ、僕が使ってるのと同じ種類だよ」


「本当?」


「色は違うけど、使い方はほとんど同じだと思う」


 みゆは端末を受け取り、画面を何度か操作した。


「これにする」


「決めるの早いな」


「フェンリスに聞けるなら、これでいい」


「最初から僕の言うことを聞けばよかったんだ」


 フェンリスは得意そうに胸を張った。


 先ほどまでみゆへ腹を立てていたことなど、すっかり忘れているようだった。


「色はどうする?」


 店員に尋ねられ、みゆは並んでいる見本を見比べた。


「水色!」


「意外だな。桃色を選ぶと思った」


「水色、好きだよ。それに、ここの名前にも入ってるでしょ?」


「空色唐辛子荘か」


「うん。僕も今日から、ここの住人だから」


 みゆは迷いなく水色の端末を選んだ。


 二本の尻尾が、椅子の後ろでゆっくりと揺れている。


 その様子を見た和真は、それ以上何も言わずに契約を進めた。


 契約手続きが終わるまでの間に、四人はスマホのケースも選んだ。


 みゆが選んだのは、透明なケースだった。


「随分普通だな」


「中に好きなものを挟めるんだって」


「何を挟むんだ?」


「みんなで撮った写真」


「まだ一枚も撮ってないだろ」


「これから撮るんだよ」


 みゆは当然のことのように答えた。


「空色唐辛子荘の前で、四人一緒に撮ろう」


「僕も?」


「当たり前でしょ?」


「わ、私も入るんですか……?」


 ひかげが不安そうに尋ねる。


「ひかげも住人なんだから、一緒だよ」


「でも、写真は……」


「前髪で目は見えないし、そのままで大丈夫だよ。嫌なら無理には言わないけど」


 みゆに言われ、ひかげは少し考えた。


「みんなと一緒なら……撮ってみたいです」


「決まり!」


 みゆは嬉しそうに笑った。


 すべての手続きが終わり、みゆへ新しいスマホが渡された。


 店員から受け取ったみゆは、箱を両手で大切そうに抱える。


「これ、本当に僕の?」


「ああ。ただし、料金は俺が払うことになるんだから、大事に使えよ」


「分かった!」


「勝手に有料のものを買ったり、知らない相手に個人情報を教えたりするな。外で耳や尻尾が本物だと話すのも駄目だ」


「分かってるって」


「あと――」


「和真、心配しすぎ」


「お前は昨日来たばかりだろ。心配もする」


 その言葉を聞いたみゆは、一瞬だけ目を丸くした。


 すぐに笑顔を浮かべると、箱を片手で抱え、空いた腕を和真へ伸ばす。


「ありがとう、和真!」


 抱きつかれる寸前、和真はみゆの額を手のひらで押さえた。


「言葉だけでいい」


「けち」


「店の中だぞ」


「外ならいい?」


「そういう意味じゃない」


「また始まった……」


 フェンリスが二人の間へ身体を入れる。


「スマホを買ってもらったんだから、ちゃんと和真の言うことを聞けよ」


「フェンリスも和真の言うことを聞いてる?」


「もちろん!」


「この前、夜にこっそり母屋へ行こうとしてなかった?」


「な、なんで知ってるんだ!?」


「窓から見えた」


「みゆ!」


 フェンリスが真っ赤になって声を上げる。


 ひかげは驚いたように顔を上げた。


「母屋へ……何をしに行こうとしたんですか?」


「ち、違う! 喉が渇いたから、水をもらおうと思っただけだ!」


「自分の部屋にも水はあるでしょ?」


「うるさい!」


「騒ぐなら外に出るぞ」


 和真は店員へ頭を下げ、三人を連れて店を出た。


 駐車場へ戻ると、みゆはさっそく箱を開けた。


 和真に初期設定をしてもらい、フェンリスやひかげと同じ連絡用アプリのJINEを入れる。


「まずは連絡先を交換するぞ」


「和真が最初!」


 みゆは和真の連絡先を登録すると、すぐに何かを打ち込み始めた。


 数秒後、和真のスマホが鳴る。


『和真』


 名前だけの短いメッセージだった。


「何だ、これ?」


「届くか試した」


 続けて、もう一度通知音が鳴る。


『かずま』


「同じだろ」


『和真ー』


「伸ばしても同じだ」


『見てる?』


「目の前にいるんだから、口で話せ」


『見てる?』


「同じものを送るな」


『返事して』


「今、返事してるだろ」


「JINEで返して」


「面倒だな……」


 和真が仕方なく『見てる』と送り返すと、みゆの猫耳が嬉しそうに立った。


「返ってきた!」


「当たり前だろ」


「もっと送って」


「今は設定が先だ」


「じゃあ、あとでいっぱい送るね」


「必要な連絡だけにしろよ」


 和真が注意している間にも、スマホは立て続けに鳴り続ける。


『ありがとう』


『スマホ大切にする』


『和真も大切にする』


『魚食べたい』


「途中から関係ないものが混ざってるぞ」


「全部大切なことだよ」


 みゆは新しいスマホを胸元へ抱え、満足そうに笑った。


「僕とも交換するよ!」


 フェンリスが自分のスマホを取り出す。


 ひかげも少し遅れて、みゆと連絡先を交換した。


 グループに、みゆはすぐに猫の絵を送る。


「これ、何?」


 フェンリスが首を傾げる。


「すたんぷ、だって」


「こんなのも送れるんだ」


「フェンリスも送ってみなよ」


「これでいいのか?」


 フェンリスが狼の絵を送る。


 続けて、ひかげが黒い牛の絵を送った。


「ひかげ、それ可愛い!」


「さ、さっき見つけました……」


 みゆは猫の絵を連続で送る。


 フェンリスも負けじと狼の絵を送り返す。


 ひかげは少し迷ったあと、二人の間へ牛の絵を一つ送った。


 和真のスマホが何度も鳴り続ける。


「お前たち。目の前にいるのに、グループで遊ぶな」


「和真も何か送って」


「送らない」


「一人だけ仲間外れになるよ?」


「それなら通知を切る」


「駄目!」


 三人の声が重なった。


 和真はため息をつきながら、適当に選んだ唐辛子の絵を一つだけ送る。


 みゆが目を輝かせた。


「空色唐辛子荘の唐辛子!」


「たまたま見つけただけだ」


「これ、みんなで使おう!」


 みゆが嬉しそうにスマホを掲げる。


 フェンリスとひかげも、それぞれ同じ絵を探し始めた。


 昨日まで三人だった生活へ、みゆが加わった。


 それだけで、同じ買い物も、同じ車の中も、以前よりずっと騒がしくなっている。


 和真は三人を見ながら、呆れたように息を吐いた。


 けれど、その口元には僅かな笑みが浮かんでいた。


 帰り道、みゆとの約束どおり、四人は食料品店にも立ち寄った。


 鮮魚売り場を見つけたみゆは、買い物カートから手を離し、一目散に駆けていく。


「魚!」


「走るな!」


「和真、これ! これ食べたい!」


 みゆが指差したのは、大きな一尾の魚だった。


「一人で食べる量じゃないだろ」


「みんなで食べればいいよ」


「調理するのは俺なんだぞ」


「僕も手伝う」


「魚を捌けるのか?」


「食べるのは得意」


「それは手伝うとは言わない」


 みゆは売り場を行ったり来たりしながら、次々と魚を指差していく。


「これは?」


「今日は買わない」


「こっちは?」


「駄目だ」


「干物!」


「部屋には持っていかせないぞ」


「母屋で食べる!」


「一つだけだからな」


「やった!」


 みゆは干物の入った袋を両手で持ち、宝物のようにカートへ入れた。


 その直後、菓子売り場を見つけて足を止める。


「和真、あれは?」


「お菓子だ」


「買う!」


「魚を選んだばかりだろ」


「魚はご飯。お菓子はおやつ」


「さっき魚をおやつにすると言ってなかったか?」


「気が変わった」


 みゆは迷うことなく菓子売り場へ向かった。


 フェンリスも興味を引かれたらしく、そのあとを追う。


「僕も見る!」


「わ、私も……少しだけ……」


 ひかげまで二人についていった。


「一人一つまでだからな!」


 和真が後ろから呼びかける。


 しかし、三人が戻ってきたときには、それぞれの腕に複数のお菓子が抱えられていた。


「一つって言っただろ」


「僕はこれとこれ!」


 みゆが三つの商品を見せる。


「フェンリスも二つ持ってるよ」


「みゆが三つなら、僕は二つで我慢してる!」


「そういう計算じゃない」


「わ、私は一つです……」


 ひかげが差し出したのは、大きな袋に入った菓子だった。


「確かに一袋だけど……」


「だ、駄目でしょうか?」


 ひかげが不安そうに牛耳を伏せる。


「いや。一つには違いないな」


「ありがとうございます……」


「ひかげだけずるい!」


「みゆが小さい袋を三つ選んだんだろ」


「じゃあ僕も大きいの一つにする」


「今持ってるものを戻してからにしろ」


「和真、一緒に選んで」


 みゆは三つの菓子を和真へ押しつけ、その腕を引っ張った。


「自分で選べ」


「どれがおいしいか分からない」


「俺も全部食べたことがあるわけじゃない」


「じゃあ、二人で新しい味に挑戦しよう」


「どうして俺も食べることになってるんだ?」


「一緒に食べた方がおいしいでしょ?」


 みゆは当然のように和真の腕へ抱きついた。


 すぐにフェンリスが二人の間へ割って入る。


「だから近いって言ってるだろ!」


「またフェンリスが怒った」


「怒ってない! 注意してるだけだ!」


「尻尾が膨らんでるよ?」


「これは元からだ!」


 フェンリスの大きな尻尾は、普段より明らかに膨らんでいた。


 ひかげは大きな菓子袋を抱えたまま、三人の様子を眺めている。


 みゆのように迷わず和真へ近づけることが、やはり少し羨ましいらしい。


 空いている和真の反対側へ一歩近づこうとして、すぐに立ち止まる。


 ひかげには、みゆと同じ行動をする勇気はなかった。


「ひかげも選ぶの手伝って」


 そんなひかげに気づいたみゆが、和真から離れて手招きした。


「私も……ですか?」


「うん。ひかげが選んだものなら、きっとおいしいよ」


「では……これが、いいと思います」


 ひかげは棚から一つの袋を選んだ。


 猫の形をした小さな焼き菓子だった。


「猫だ!」


「可愛いと思って……」


「これにする!」


 みゆは迷わず、持っていた三つの菓子を棚へ戻した。


 ひかげから受け取った焼き菓子を、大切そうにカートへ入れる。


「帰ったら一緒に食べようね」


「は、はい……」


 ひかげの尻尾が嬉しそうに揺れた。


 すべての買い物を終え、四人が空色唐辛子荘へ戻った頃には、すでに夕方になっていた。


 車の後ろには、みゆの生活用品や服、布団、食料品が隙間なく積まれている。


「こんなに買ったの、初めて!」


 車を降りたみゆは、新しいスマホを手に102号室を見上げた。


「全部お前の部屋へ運ぶぞ」


「僕も運ぶ!」


「買ったものは自分でも片づけろよ」


「和真も手伝ってくれる?」


「最初からそのつもりだ」


「じゃあ、一緒にやろう!」


 みゆは嬉しそうに和真の腕へ抱きつく。


「荷物が運べないだろ。離れろ」


「少しだけ」


「みゆ!」


 フェンリスの声が駐車場へ響いた。


「買い物が終わったのに、まだくっつくのか!」


「買い物が終わったから、くっついてるんだよ」


「意味が分からない!」


「僕は楽しいよ?」


 みゆは和真の腕から顔を出し、笑顔を浮かべた。


 買い物へ行き、知らないものを見て、新しい服や布団を選んだ。


 自分のスマホも手に入れた。


 そして、帰る場所として102号室が待っている。


 フェンリスに怒られることも、ひかげが遠慮がちに見ていることも、みゆにとってはすべてが新鮮だった。


 誰かと一緒に騒ぎながら過ごす時間が、楽しくて仕方がないらしい。


「和真、早く僕の部屋に行こう!」


「言い方を考えろ」


「僕と二人で片づけよう」


「僕も行く!」


 フェンリスが即座に声を上げた。


「わ、私も……手伝います」


 ひかげも控えめに続く。


「みんなで来るの?」


「その方が早く終わるだろ」


「そっか」


 みゆは三人を順番に見たあと、嬉しそうに笑った。


「じゃあ、みんなで僕の部屋を作ろう!」


 こうして四人は大量の荷物を抱え、102号室へ向かった。


 だが、その夜。


 新しい布団まで用意してもらったはずのみゆが、自分の部屋で大人しく眠ることはなかった。


102号室へ運び込まれた荷物は、あっという間に部屋の中を埋め尽くした。


「どこから片づける?」


 みゆは部屋の中央に立ち、周囲を見回す。


「まずは布団だな。暗くなる前に必要なものだけ使えるようにする」


「服は?」


「その袋にまとめてある。あとで収納に入れればいい」


「お菓子は?」


「一番最後だ」


「魚は?」


「母屋の冷蔵庫へ入れた」


「忘れないでね」


「忘れない」


 和真が布団の袋を開けている間に、フェンリスは洗面道具をまとめ、ひかげは買ってきた服を種類ごとに分けていく。


 みゆも手伝おうとしていたが、新しいものを見つけるたびに手を止めていた。


「この服、やっぱり可愛い」


「それはあとで片づけるから、今は袋から出さなくていい」


「着てみてもいい?」


「片づけが終わってからにしろ」


「じゃあ、こっちのクッションを置く」


 みゆは猫の顔が描かれた大きなクッションを抱え、部屋の中を歩き回る。


 窓際へ置いてみたあと、首を傾げる。


 次に壁際へ移動させ、再び首を傾げた。


「どこに置いても同じじゃないか?」


「一番落ち着く場所を探してるの」


「布団の横でいいだろ」


「和真が決めて」


「なら布団の横だ」


「分かった」


 みゆは満足そうにクッションを置いた。


 自分で決めるより、和真に決めてもらうことが楽しいらしい。


 その様子を見ていたフェンリスが、僅かに眉を寄せる。


「自分の部屋なんだから、自分で決めればいいだろ」


「フェンリスも置く場所を決めてくれる?」


「僕が?」


「うん。この小物入れ、どこがいいと思う?」


「それなら……棚の上かな」


「じゃあ、そこにする」


 みゆは素直に小物入れを棚へ置いた。


 フェンリスの尻尾が、少しだけ嬉しそうに動く。


「ひかげも何か決めて」


「わ、私もですか?」


「みんなで僕の部屋を作るんでしょ?」


「では……服は、こちらへ入れると使いやすいと思います」


 ひかげは収納の引き出しを開け、畳んだ服を一枚ずつ入れていった。


「ひかげ、服を畳むの上手だね」


「家にいた頃は……自分でしていたので……」


「僕にも教えて」


「はい。端を合わせて……こうです」


 みゆはひかげの隣へ座り、手元を覗き込む。


 教えられたとおりに服を畳もうとしたが、袖が片方だけ飛び出した。


「あれ?」


「もう少し……こちらを内側へ入れます」


「こう?」


「はい。上手です」


「できた!」


 みゆは少し形の崩れた服を両手で持ち上げる。


「和真、見て!」


「見てる。ちゃんとできたな」


「次も僕が畳む!」


 褒められたことが嬉しかったらしく、みゆは次の服へ手を伸ばした。


 最初こそ時間がかかっていたが、数枚畳む頃には少しずつ形が整っていく。


 ひかげも隣で手伝いながら、みゆの作業を静かに見守っていた。


 一時間ほどかけて、ようやく102号室で生活できる状態になった。


 布団の横には猫のクッション。


 棚の上にはフェンリスが置き場所を決めた小物入れ。


 収納には、ひかげと一緒に畳んだ服が並んでいる。


 みゆは部屋の中央で一回転し、満足そうに二本の尻尾を広げた。


「僕の部屋だ!」


「ああ。今日からここがみゆの部屋だ」


「和真は、いつでも来ていいよ」


「用事があるときにな」


「夜でもいいよ?」


「夜は寝ろ」


「一人だと寂しくなるかも」


 みゆは笑いながら言った。


 冗談のように聞こえたが、和真には少しだけ引っかかった。


 昨日まで見知らぬ街を一人でさまよっていたのだ。


 急に部屋を与えられたからといって、すぐに安心して眠れるとは限らない。


「本当に何かあったら、スマホで連絡しろ」


「何もなくても送っていい?」


「必要な用があるときだけにしてくれ」


「寂しいっていうのは必要な用?」


「それは……程度によるな」


「じゃあ、寂しくなったら送る」


 みゆは新しいスマホを取り出し、大切そうに両手で持った。


「俺が寝ていて返事できないときは、明日の朝まで待つんだぞ」


「分かった」


「勝手に母屋へ来るなよ」


「分かってるって」


 返事は素直だった。


 しかし、みゆの二本の尻尾は、何かを企んでいるようにゆっくりと揺れていた。


「写真、撮るんじゃなかった?」


 102号室を出たところで、みゆが思い出したように声を上げた。


「暗くなる前に撮るか」


「空色唐辛子荘の前!」


 みゆは新しいスマホを手に、敷地の入口へ向かって駆け出した。


「走ると転ぶぞ!」


「大丈夫!」


「さっき店でも同じことを言っただろ!」


 和真たちがあとを追うと、みゆは空色唐辛子荘の看板の前で待っていた。


「ここで撮ろう!」


「誰がスマホを持つんだ?」


「置いて撮れるみたい」


 みゆは覚えたばかりの操作で時間を設定し、近くの安定した場所へスマホを立てかけた。


 何度も位置を調整し、画面を確認する。


「みんな、もっと近くに来て!」


「このくらいでいいだろ」


「離れすぎ」


 みゆは和真の腕を引き、看板の中央へ立たせた。


 その右側へフェンリス、左側へひかげを並ばせる。


 最後に自分が和真の前へ入った。


「みゆ。近すぎないか?」


「全員入らないと駄目だから」


「まだ余裕があるだろ」


「時間なくなるよ。笑って!」


 みゆが振り返り、和真の腕を抱える。


「またくっついてる!」


 フェンリスがみゆの肩へ手を伸ばした。


「フェンリスもこっち!」


「うわっ!」


 みゆはフェンリスの腕も掴み、自分の近くへ引き寄せる。


 驚いたフェンリスが、和真の肩へぶつかった。


「す、すみません……」


 ひかげが一人だけ離れかけたため、みゆの二本の尻尾がその腕へ巻きつく。


「ひかげも逃げない!」


「し、尻尾で引っ張らないでください……!」


 四人が中央へ集まった瞬間、スマホから撮影音が鳴った。


「あっ」


 みゆは全員から離れ、スマホを確認する。


 画面に写っていたのは、満面の笑みを浮かべるみゆ。


 驚いた顔で和真へぶつかっているフェンリス。


 尻尾に腕を引かれ、慌てているひかげ。


 そして、三人に囲まれて困ったように笑っている和真だった。


「撮り直すか?」


「ううん。これがいい」


「みんな、変な顔になってるぞ」


「だからいいんだよ」


 みゆは写真を大切そうに見つめた。


「みんながいるって分かるから」


 その言葉に、フェンリスは怒るのをやめた。


 ひかげも画面を覗き込み、僅かに口元を緩める。


「僕たちにも送って」


「はい!」


 みゆは四人のグループへ写真を送った。


 すぐに三人のスマホから通知音が鳴る。


「初めての写真……」


 ひかげは届いた写真を、じっと見つめていた。


「私も……保存しておきます」


「僕も!」


 フェンリスも嬉しそうに画面を見る。


「和真も保存してね」


「グループに残ってるだろ」


「ちゃんと保存して」


「分かったよ」


 和真が写真を保存すると、みゆは満足そうに笑った。


 その日の夕食には、みゆが選んだ干物が食卓へ並んだ。


「おいしい!」


 みゆは一口食べるたびに猫耳を動かし、幸せそうに頬を緩めている。


「そんなに気に入ったのか?」


「うん! 毎日これでもいい!」


「毎日は飽きるだろ」


「僕は飽きないよ」


「ほかの二人が飽きる」


「僕は肉も食べたい」


 フェンリスがすぐに答える。


「わ、私は……野菜もあった方が……」


「ひかげは野菜が好きなの?」


「好きというより……食事は偏らない方がいいと思います」


「じゃあ、魚と肉と野菜を全部食べる」


「食べる量が増えただけだろ」


 和真が呆れると、みゆは楽しそうに笑った。


 夕食後には、ひかげが選んだ猫の形の焼き菓子を四人で分けた。


 みゆは食べる前に一つずつスマホで撮影し、何枚も写真を残していく。


「同じものを何枚撮るんだ?」


「角度が違うよ」


「ほとんど同じに見える」


「和真も持って」


「なんでだ?」


「一緒に撮るから」


 みゆは焼き菓子を持った和真の手だけを撮影した。


「手しか写ってないぞ」


「和真と一緒に食べたって分かればいいの」


 続けてフェンリスとひかげにも菓子を持たせ、それぞれの手元を撮る。


 三枚の写真を眺めたみゆは、満足そうに頷いた。


「これで忘れない」


「今日のことを?」


「うん。初めてみんなで買い物に行った日」


 みゆにとっては、何気ない一日も残しておきたい思い出らしい。


 和真はそれ以上何も言わず、みゆが撮影を終えるまで待った。


 食事と片づけを終え、それぞれが自分の部屋へ戻る時間になった。


「じゃあ、みゆ。今日はちゃんと102号室で寝ろよ」


「分かってる」


「寂しくなったら、まずJINEで連絡すること」


「分かったってば」


「母屋へ勝手に入るな」


「和真、僕のこと信用してないの?」


「お前が何か企んでる顔をしてるからだ」


「そんな顔してないよ」


 みゆは笑顔のまま答えた。


 フェンリスは疑うようにみゆを見つめる。


「本当に帰るんだろうな?」


「帰るよ」


「和真の部屋へ忍び込んだりしないよな?」


「しないって」


「絶対だぞ」


「フェンリスは心配しすぎ」


「お前が信用できないんだ!」


「二人とも、もう遅いから帰れ」


 和真に促され、三人は母屋を出た。


 みゆは玄関先で大きく手を振る。


「和真、おやすみ!」


「ああ。おやすみ」


「また明日ね!」


「朝食の時間に遅れるなよ」


「分かった!」


 みゆはフェンリスとひかげのあとを追い、母屋から離れていった。


 和真は三人の姿が見えなくなったことを確認し、玄関の鍵を閉めた。


 それから一時間ほど経った頃。


 風呂を済ませた和真は、自分の部屋でベッドへ入る準備をしていた。


 そのとき、居間の方から小さな物音が聞こえた。


 何かが床へ落ちたような、僅かな音だった。


「……何だ?」


 和真は部屋を出て、暗い廊下を進む。


 母屋の中に人の気配はない。


 窓も玄関も施錠されている。


 居間を確認しても、特に変わったところは見当たらなかった。


「気のせいか?」


 そう呟いた直後、背後で何かが動いた。


 和真が振り返る。


 しかし、誰もいない。


 僅かな魔力の気配だけが、廊下の奥へ移動した。


「……みゆ」


 和真が名前を呼ぶと、押し入れの中から小さな物音が返ってきた。


 和真は押し入れの前へ立ち、扉へ手をかける。


「出てこい」


 返事はない。


「今出てきたら、怒らない」


 少し間が空いた。


 やがて扉が僅かに開き、その隙間から猫耳が覗く。


「……本当に?」


「理由による」


「怒らないって言ったのに」


「まだ怒ってない。まず出てこい」


 扉がゆっくりと開き、中から部屋着姿のみゆが現れた。


 胸元には、買ったばかりの猫のクッションを抱えている。


「どうやって入った?」


「最初からいた」


「最初から?」


「夕食のあと、帰ったふりをして隠れた」


「フェンリスたちと一緒に外へ出ただろ」


「そのあと、忘れ物をしたって言って戻ってきたの」


「俺は見てないぞ」


「和真が玄関を閉める前に、こっそり入ったから」


 猫又らしい素早さで、和真の視界を避けたらしい。


「どうしてそんなことをした?」


「和真の部屋で寝てみたかった」


「自分の部屋に新しい布団があるだろ」


「あるよ」


「なら、そこで寝ろ」


「でも、静かだった」


 みゆの声が少しだけ小さくなる。


「102号室に戻ったら、急に一人になったから」


 先ほどまで立っていた猫耳が、ゆっくりと伏せられた。


「昨日までは、一人でも平気だったんだよ。でも今日、みんなとずっと一緒にいたから……一人になったら、昨日より静かに感じた」


「だからって、母屋に隠れるのは駄目だ」


「分かってる」


「本当に寂しかったなら、JINEで連絡しろって言っただろ」


「送ろうと思ったよ。でも、和真が駄目って言ったら嫌だったから」


「駄目だと言われそうなことをしてる自覚はあったんだな」


「少しだけ」


 みゆは猫のクッションへ顔を埋める。


 和真は額へ手を当て、息を吐いた。


「今日は102号室まで送る」


「もう少しここにいたら駄目?」


「駄目だ」


「和真の部屋を見るだけ」


「駄目」


「床で寝る」


「もっと駄目だ」


「じゃあ、和真の隣」


「一番駄目だ」


「けち」


 みゆが頬を膨らませた、そのときだった。


 玄関の方から、扉を強く叩く音が響いた。


「和真! 開けて!」


 フェンリスの声だった。


「どうしてフェンリスが……」


 和真が玄関を開けると、フェンリスが勢いよく飛び込んできた。


 その後ろには、寝間着の上から上着を羽織ったひかげも立っている。


「みゆは!?」


「居間にいる」


「やっぱり!」


 フェンリスは廊下を駆け、居間にいるみゆを見つけた。


「みゆ!」


「見つかっちゃった」


「見つかっちゃったじゃない! 和真の部屋へ忍び込むつもりだっただろ!」


「まだ部屋には入ってないよ」


「まだってことは、入るつもりだったんだろ!」


「どうして分かったの?」


「匂いだよ! 102号室へ行ったら、お前の匂いが部屋の前で途切れてたんだ!」


 新しく買ったものを見せてもらおうと102号室を訪ねたところ、返事がなかった。


 不審に思ったフェンリスが匂いをたどり、母屋まで来たらしい。


「フェンリス、僕の部屋に来たの?」


「悪いか!」


「もしかして、僕が一人だと寂しいと思った?」


「ち、違う! お前が和真に何かしそうだったから見に行っただけだ!」


「やっぱり心配してくれたんだ」


「違うって言ってるだろ!」


 フェンリスの顔が赤くなり、大きな尻尾が膨らむ。


 その後ろから、ひかげが静かに居間へ入ってきた。


「みゆ……本当に、和真さんの部屋で寝るつもりだったんですか?」


「うん」


「そう……ですか」


 ひかげは胸元で指を絡め、俯いた。


 何かを考えているらしく、牛耳が僅かに動いている。


「ひかげも一緒に寝る?」


「えっ!?」


 ひかげの顔が一気に赤くなった。


「わ、私は、そんな……!」


「みゆ! ひかげまで巻き込むな!」


 フェンリスがみゆの肩を掴む。


「今日は僕が102号室まで連れていく!」


「やだ」


「やだじゃない!」


「フェンリスも泊まればいいじゃん」


「どうして僕が、お前の部屋に泊まるんだ!」


「一人が嫌だから」


「そんな理由で和真の部屋に忍び込むな!」


「フェンリスならいいの?」


「僕ならって……」


 フェンリスが再び言葉に詰まる。


 みゆは二本の尻尾を揺らしながら、その顔を覗き込んだ。


「一緒に寝てくれる?」


「……今日だけだからな」


「いいの?」


「一人が嫌なんだろ! その代わり、絶対に和真の部屋へ来るな!」


「やった!」


 みゆがフェンリスへ抱きつく。


「うわっ! 急に来るな!」


「フェンリス、温かそう」


「離れろ!」


「ひかげも来る?」


「私も……ですか?」


「三人ならもっと楽しいよ」


 ひかげはしばらく迷っていた。


 みゆとフェンリスが同じ部屋で過ごす姿を想像し、自分だけ戻るのが少し寂しくなったらしい。


「ご、迷惑でなければ……」


「迷惑じゃない!」


 みゆはフェンリスから離れると、今度はひかげへ抱きついた。


「これで三人!」


「み、みゆ……苦しいです……」


「お前は誰にでも抱きつくのか!」


「楽しいから」


「その前に、和真へ謝れ!」


 フェンリスに言われ、みゆはひかげから離れた。


 和真の前へ立ち、猫のクッションを抱えたまま頭を下げる。


「勝手に母屋へ入って、ごめんなさい」


「次からは絶対にするなよ」


「うん。今度からJINEで聞く」


「返事がなかったら自分の部屋で待つこと」


「分かった」


「あと、夜中に何十通も送るな」


「何通ならいい?」


「一通だ」


「三通」


「一通」


「二通」


「交渉するな」


「じゃあ、一通送って、返事が来たらいっぱい送る」


「……必要な話だけにしろよ」


「はーい」


 みゆは素直に頷いた。


 少なくとも今夜は、母屋へ忍び込むことを諦めたらしい。


「それじゃあ、戻るぞ」


 フェンリスはみゆの腕を掴み、玄関へ向かう。


「和真、おやすみ!」


「二度目だな」


「今度は本当に帰るよ」


「俺が102号室まで送る」


「信用されてない」


「当たり前だ」


 和真は三人と一緒に母屋を出た。


 月明かりの下を歩き、102号室までみゆを送り届ける。


 部屋へ入ると、みゆはさっそく新しい布団へ飛び込んだ。


「ふかふか!」


「買ったばかりなんだから、大事に使えよ」


「フェンリス、こっち!」


「僕まで同じ布団で寝るのか?」


「三人なら入れるよ」


「狭いだろ!」


「私たちは……別に布団を敷いた方が……」


 ひかげが予備の寝具を探そうとする。


 みゆは布団の上へ座り、二本の尻尾で左右の場所を叩いた。


「今日はみんなで寝ようよ」


「だから狭いって!」


「楽しいよ?」


「寝るだけだろ!」


「寝る前にお話ししよう」


 みゆの言葉に、ひかげの牛耳が僅かに動く。


「お話……ですか?」


「うん。フェンリスとひかげのこと、もっと知りたい」


「私のことを聞いても……面白くないと思います」


「僕は知りたいよ」


 みゆは迷いなく答えた。


「これから一緒に暮らすんだから」


 ひかげは驚いたように顔を上げる。


 前髪に隠れて目元は見えないが、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。


「では……少しだけなら……」


「ひかげまで乗り気になるなよ」


 そう言いながらも、フェンリスは帰ろうとはしなかった。


「和真も泊まる?」


「俺は母屋へ戻る」


「けち」


「お前たち三人で話すんだろ」


「じゃあ、明日の朝にまた会おうね」


「ああ。母屋で朝食にするから、寝坊するなよ」


「分かった!」


 三人が部屋に残ったことを確認し、和真は102号室を出た。


 和真が母屋へ戻って間もなく、スマホが一度だけ鳴った。


 画面には、みゆからのメッセージが届いていた。


『おやすみ。また明日』


 その下には、新しい布団の上で寄り添う三人の写真が添えられている。


 中央で笑うみゆ。


 頬を膨らませながらも逃げていないフェンリス。


 少し照れたように、猫のクッションを抱えるひかげ。


 和真は写真を確認し、短く返事を送った。


『おやすみ。今度はちゃんと寝ろよ』


 すぐに既読がつく。


『はーい』


 それ以上、メッセージは届かなかった。


 102号室では、みゆが和真からの返事を眺めながら笑っていた。


「嬉しそうだな」


 隣に座るフェンリスが、僅かに眉を寄せる。


「うん」


「ただの返事だろ?」


「返してくれるってことは、僕のことを見てくれてるってことでしょ?」


「そういうものなのか?」


「そういうものだよ」


 みゆはスマホを枕元へ置き、布団の中へ潜り込んだ。


 左にはフェンリス。


 右にはひかげ。


 少し狭かったが、一人で眠るよりずっと温かい。


「今日は楽しかった」


「お前が騒いでばかりだったんだろ」


「フェンリスも楽しそうだったよ?」


「僕は疲れた!」


「ひかげは?」


「私は……」


 ひかげは少し考えたあと、小さく答えた。


「楽しかったです」


「よかった」


 みゆの二本の尻尾が、布団の上で嬉しそうに揺れる。


「明日も何かしようね」


「まずは部屋を片づけろ」


「もう片づけたよ」


「和真の部屋へ行こうとするな」


「今日は行かなかったよ」


「行く直前だっただろ!」


「次は見つからないようにする」


「反省してないじゃないか!」


 フェンリスの声が102号室へ響く。


 ひかげが布団の中で、小さく笑った。


 怒られても、呆れられても、みゆは楽しそうだった。


 知らない世界。


 知らない街。


 昨日までは、どこへ行けばいいのかも分からなかった。


 それが今は、自分の部屋がある。


 一緒に食事をする相手がいる。


 明日の朝に会う約束もある。


 フェンリスが本気で怒り、ひかげが隣で笑ってくれる。


 和真は、自分がここにいてもいいと言ってくれた。


「僕、ここに来てよかったかも」


 みゆが呟く。


「何か言った?」


 フェンリスが聞き返した。


「何でもない」


 みゆは猫のクッションを抱き寄せ、目を閉じる。


「おやすみ、フェンリス。ひかげ」


「おやすみ」


「お、おやすみなさい……」


 三人の声が、静かな102号室へ重なった。


 みゆにとって空色唐辛子荘は、まだ来たばかりの見知らぬ場所だった。


 それでも、その騒がしさと温かさは、すでに手放したくないものになり始めていた。

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