第七話 猫又みゆ
朝、和真が母屋を出ると、酒屋の前掛けを着けたフェンリスがアパートから出てきた。
「おはよう、和真!」
「ああ、おはよう。今日は早いんだな」
「朝から荷物がいっぱい届くんだって。店長に、できれば早めに来てほしいって頼まれたんだ」
フェンリスは楽しそうに答え、大きな尻尾を揺らした。
酒屋で荷物運びのアルバイトを始めてから、働きに出る日はいつも機嫌がいい。
「また一人で全部運ぼうとするなよ」
「しないって。今日はちゃんと、一つずつ運ぶから」
「昨日も同じことを言ってなかったか?」
「昨日は箱だったから、三つでも一つみたいなものだよ」
「三つは三つだ」
「細かいなぁ」
フェンリスが頬を膨らませる。
そこへ、近所の女性が買い物袋を手に通りかかった。
「あら、フェンリスちゃん。今日もお仕事?」
「うん! 行ってきます!」
「頑張ってね」
「はーい!」
フェンリスは元気よく手を振った。
狼耳と尻尾を見ても、女性は特に気にした様子もなく歩いていく。
「和真、帰る前にJINEするね」
「ああ。気をつけてな」
「行ってきます!」
フェンリスは酒屋へ向かって駆け出した。
朝日を受けた大きな尻尾が、遠ざかりながら楽しそうに揺れている。
和真はその背中を見送ったあと、ひかげの部屋へ向かった。
今日は、ひかげが初めて動画配信をする日だった。
呼び鈴を押すと、少しして扉が僅かに開く。
「……和真?」
「ああ。準備はできたか?」
「……たぶん」
「確認してもいいか?」
ひかげは小さくうなずき、和真を部屋へ招き入れた。
机の上には、パソコンとマイクが置かれている。
画面に映っていたのは、ひかげ本人ではなかった。
小さな角と柔らかそうな牛耳を持つ、可愛らしい牛娘の姿が表示されている。
大きな瞳はしっかりと見えており、明るく親しみやすい顔立ちをしていた。
ひかげが首を動かすと、画面の牛娘も同じ方向へ首を傾ける。
「ちゃんと動いてるな」
「……変じゃない?」
「大丈夫だと思う。可愛くできてるよ」
「……かわいい?」
「ああ」
ひかげの牛耳が少し持ち上がる。
画面の牛娘も嬉しそうに微笑んだ。
「表情まで動くんだな」
「……私の顔を、読み取ってるから」
「前髪で目が隠れてても平気なのか?」
「……口と、顔の動きが分かれば……ある程度は」
ひかげ本人の姿は、配信画面には表示されない。
視聴者から見えるのは、牛娘の姿とゲーム画面だけだ。
そのおかげか、ひかげは普段よりも落ち着いているように見えた。
「今日は何をするんだ?」
「……この前のゲーム」
ひかげが選んだのは、畑を耕し、作物や動物を育てながら暮らすゲームだった。
「最初から長くやろうとしなくていいからな。疲れたら、すぐに終わっていい」
「……うん」
「コメントも、全部読まなくていい。答えられるものだけで大丈夫だ」
「……誰も、来なかったら?」
「普通にゲームを楽しめばいいだろ」
「……誰か来るのも、怖い」
「どっちなんだ」
「……分からない」
ひかげの牛耳が下がる。
画面の牛娘も困った顔になり、耳を伏せた。
「顔に出てるぞ」
「……えっ」
ひかげが慌てて顔を上げる。
画面の牛娘も大きな瞳を見開いた。
「嫌なら、今日はやめてもいいんだぞ?」
「……やる」
少し迷ったものの、ひかげは首を横に振った。
「……やってみたい」
「分かった」
ひかげは椅子に座り直し、マウスを握る。
しかし、配信開始のボタンへカーソルを合わせたまま動かない。
「……押したら、始まる?」
「ああ」
「……止められる?」
「いつでも止められる」
「……変な人が来たら?」
「無視するか、追い出せばいい。困った時は俺を呼んでくれ」
「……和真が、追い出す?」
「ああ。任せろ」
ひかげの牛耳が僅かに持ち上がった。
画面の牛娘も、ほっとしたような表情を浮かべる。
「……押す」
「ああ」
「……本当に押す」
「ゆっくりでいいぞ」
「……押した」
配信が始まった。
画面には、可愛らしい牛娘とゲーム画面が表示される。
ひかげは姿勢を正したまま、完全に固まっていた。
画面の牛娘も、緊張した顔で動かない。
「まずは挨拶してみたらどうだ?」
和真がマイクから離れた場所で小声をかける。
ひかげはマイクへ顔を近づけた。
「……こんにちは」
声が小さすぎたのか、音量の表示が僅かに動いただけだった。
「もう少しだけ大きく」
「……こんにちは」
今度は、しっかりと声が入った。
しかし、視聴者数は零人のままだ。
ひかげは気まずそうにゲームを始めた。
畑へ水をやり、飼っている牛へ餌を与えていく。
「……この子、かわいい」
独り言のように、ひかげがつぶやいた。
その直後、視聴者数が一人に変わる。
ひかげの牛耳がぴんと立った。
画面の牛娘も、大きな瞳を見開いて固まった。
『初配信?』
最初のコメントが流れる。
ひかげは助けを求めるように和真へ顔を向けた。
「返事、できそうか?」
「……うん」
ひかげはマイクへ向き直った。
「……初めて、です」
『牛娘かわいい』
『声もかわいい』
『緊張してる?』
視聴者数が二人、三人と少しずつ増えていく。
ひかげの牛耳が忙しなく動き、画面の牛娘の耳も同じように揺れていた。
「……見られてる」
「配信だからな」
「……隠れたい」
「ひかげ本人は映ってないぞ」
「……この子も、私だから」
「止めるか?」
ひかげは画面に流れるコメントを見つめた。
『牛に牛が餌あげてる』
『この牛に名前ある?』
「……ミルク」
『かわいい名前』
『仲間?』
ひかげはゲームの中の牛をじっと見つめる。
「……仲間」
短い返事にも、すぐに新しいコメントが届いた。
ひかげの肩から、少しだけ力が抜ける。
「もう大丈夫そうか?」
「……たぶん」
「じゃあ、俺は外にいる。何かあったら呼んでくれ」
「……近くにいる?」
「ああ。すぐ戻れるところにいるよ」
「……分かった」
ひかげが小さく手を振った。
画面の牛娘は、笑顔で大きく手を振っている。
本人との動きの差に、和真は思わず笑いそうになった。
「……何?」
「いや、何でもない。頑張ってな」
「……うん」
和真は静かに部屋を出た。
◇
同じ頃。
一人の少女が住宅街を歩いていた。
人の間を縫うように進む足取りは軽く、ほとんど音がしない。
頭では猫耳がぴこぴこと動き、腰から伸びた二本の猫尻尾が、それぞれ別の方向へ揺れている。
「こっちで合ってるよね?」
少女――みゆは、手元のスマートフォンに表示された地図と、目の前の道を交互に見比べた。
きっかけは、偶然見つけた短い動画だった。
そこに映っていたのは、大きな狼耳と尻尾を持つ銀髪の女性。
そして、牛の角と耳を持つ、長い前髪の女性だった。
動画を見た者たちは、二人を衣装の完成度が高い外国人だと思っているらしい。
しかし、みゆにはすぐに分かった。
あれは作り物ではない。
狼の女性は、周囲の音に合わせて耳を動かしていた。
牛の女性の耳も、話しかけてきた相手の声を追うように動いている。
尻尾の動きも自然だった。
同じ亜人だからこそ、見ただけで本物だと分かった。
「絶対、仲間だよね」
みゆの二本の尻尾が、同時に持ち上がる。
同じ世界から来た者かどうかまでは分からない。
それでも、この世界で初めて見つけた自分以外の亜人だった。
動画には、二人の居場所につながる名前も映り込んでいた。
空色唐辛子荘。
みゆはその名前を頼りに、ここまでやって来た。
「狼の人と、牛の人かぁ」
右の尻尾が大きく揺れ、少し遅れて左の尻尾も同じ方向へ動く。
「どっちも強そう。仲良くなれるかな?」
言葉とは裏腹に、迷っている様子はまったくなかった。
断られたら、もう一度声をかければいい。
逃げられたら、追いかければいい。
それでも逃げるなら、先回りすればいい。
「へへっ、楽しみ」
みゆは軽い足取りで角を曲がった。
しばらく進むと、動画で見たものと同じ看板が目に入る。
「あった!」
猫耳が勢いよく立ち、二本の尻尾が揃って跳ね上がった。
みゆが駆け出そうとした時、敷地内を歩いている和真の姿が目に入った。
「ねぇねぇ!」
呼びかけられた和真が振り返る。
見知らぬ少女が、通りの向こうから駆けてくる。
頭には猫耳。
腰からは二本の猫尻尾が伸びていた。
和真が驚く間もなく、少女は目の前で急停止した。
それほどの速度で走ってきたにもかかわらず、足音はほとんど聞こえなかった。
「君、ここの人?」
みゆが和真の顔を下から覗き込む。
「近い、近いって」
「ん〜?」
注意されても、みゆは離れない。
初対面とは思えない距離だった。
「ここに、狼の人と牛の人がいるでしょ?」
和真の表情が僅かに強張る。
「どうして二人を知ってるんだ?」
「動画で見たから」
みゆはスマートフォンの画面を和真へ突き出した。
「この二人、ここにいるんだよね?」
「それを聞いて、どうするつもりだ?」
「会う!」
「何のために?」
「仲間かもしれないから!」
みゆは迷わず答えた。
笑顔は明るく、敵意も感じられない。
しかし、和真はすぐに警戒を解かなかった。
走ってきた時の速さ。
ほとんど聞こえなかった足音。
近づかれる直前まで、僅かな魔力しか感じ取れなかった。
目の前の少女は、無意識のうちに気配を消している。
「お前も、異世界から来たのか?」
その言葉を聞いた瞬間、みゆの表情が変わった。
目を大きく見開き、二本の尻尾が揃って立ち上がる。
「やっぱり知ってるんだ!」
次の瞬間、みゆは和真の両手を握っていた。
「おい、待て」
「僕はみゆ! 猫又みゆ!」
「分かったから、少し落ち着け」
「ねぇねぇ、あの二人は? 今いる? どこ?」
「質問は一つずつにしてくれ」
「じゃあ、狼の人は?」
「今は仕事に行ってる」
「仕事?」
「近くの酒屋で荷物を運んでる」
「じゃあ、牛の人は?」
「今は配信中だ。邪魔できない」
「配信?」
「画面を通して、ほかの人と話したり、ゲームを見せたりするんだ」
みゆは首をかしげる。
二本の尻尾も、左右から疑問符を描くように曲がった。
「牛の人が画面の中に入ってるの?」
「入ってない」
「じゃあ、小さくなってる?」
「なってない。別の姿を画面に映してるんだ」
「別の姿?」
「可愛い牛娘の姿だよ」
「見たい!」
みゆがアパートへ向かって駆け出そうとする。
和真は、その肩を慌ててつかんだ。
「待て。今は邪魔するな」
「ちょっと見るだけ!」
「初めての配信で緊張してるんだ。突然入ったら驚くだろ」
「僕、静かにできるよ?」
「さっきから一度もできてないだろ」
「ええー」
みゆの猫耳が伏せられ、二本の尻尾も力なく下がった。
あまりにも分かりやすい落ち込み方に、和真は僅かに警戒を緩める。
「配信が終われば会える。それまでは、ここへ来た事情を聞かせてくれ」
「本当?」
「ああ。ただし、ひかげが会いたくないと言ったら無理に近づくなよ」
「ひかげ?」
「牛の人の名前だ」
「ひかげかぁ。可愛い名前だね」
みゆは嬉しそうに笑う。
「狼の人は?」
「フェンリス」
「フェンリスと、ひかげ」
二人の名前を覚えるように繰り返し、みゆは大きくうなずいた。
「大丈夫。僕、誰とでも仲良くなれるから!」
「そういう問題じゃないんだけどな……」
「じゃあ、フェンリスが帰ってくるまで待ってる!」
「待つのはいいが、その前に話を聞かせてもらうぞ」
「長くなるよ?」
「構わない」
「僕、長い話は苦手なんだよね」
「自分の話だろ」
「じゃあ、短く話すね」
みゆは人差し指を立てた。
「僕もよく分かんない。逃げて、追われて、変な光に飛び込んだら、こっちにいた」
明るい声だった。
だが、その一瞬だけ、みゆの笑顔から感情が消えた。
猫耳が伏せられ、二本の尻尾の動きも止まる。
「誰に追われていたんだ?」
「昔の仲間」
「仲間?」
「もう仲間じゃないけどね」
みゆはすぐに笑顔へ戻った。
「この世界へ来たのは、いつだ?」
「何日か前」
「それから、どこで寝泊まりしてた?」
「いろいろ」
「いろいろって……」
「屋根があるところとか、誰も来ないところとか」
何でもないことのように笑うみゆを見て、和真は眉を寄せる。
「食事は?」
「優しい人にもらったり、自分で見つけたり」
「今朝は食べたのか?」
「まだ」
答えた直後、みゆの腹から小さな音が鳴った。
猫耳がぴたりと止まる。
二本の尻尾も、その場で固まった。
「……今のは違うから」
「何が違うんだ」
「僕じゃないよ?」
「ほかに誰もいないだろ」
「猫かも」
「猫又なら目の前にいるな」
「うぅ……」
みゆは恥ずかしそうに腹を押さえた。
和真は小さく息を吐く。
「とりあえず、何か食べるか?」
「いいの?」
「ああ。話はそれから聞く」
みゆの猫耳が勢いよく立った。
二本の尻尾も、それぞれ大きく揺れ始める。
「君、優しいね!」
「放っておけないだけだ」
「同じじゃん」
みゆは満面の笑みを浮かべ、和真の腕へ抱きついた。
「ねぇ、名前は?」
「四ノ宮和真」
「和真かぁ」
確かめるように名前を繰り返し、さらに身体を寄せる。
「近いって」
「いいじゃん別に〜」
「歩きにくいだろ」
「僕は平気だよ?」
「俺が歩きにくいんだ」
和真が腕を離そうとしても、みゆは簡単には離れなかった。
「へへっ、捕まえられる?」
「捕まってるのは俺の方だろ」
「そうとも言うね」
無邪気に笑うみゆを連れ、和真は母屋へ向かう。
「フェンリスは、いつ帰ってくるの?」
「夕方だと思う」
「まだまだじゃん」
「それまでは大人しくしてろよ」
「和真が構ってくれるならね」
「先に事情を聞く」
「話したら遊んでくれる?」
「内容による」
「むぅ。和真って意外と固いね」
みゆは不満そうに頬を膨らませた。
それでも、和真の腕から離れようとはしない。
「……置いていかないでよ?」
先ほどまでとは違う、小さな声だった。
和真が足を止める。
みゆはすぐに笑顔へ戻った。
「なーんてね!」
「置いていったりしない。飯を食べさせるって言っただろ」
「本当?」
「ああ」
「そっか」
みゆはようやく腕を離した。
しかし、今度は和真の服の裾をつかむ。
「これはいいでしょ?」
「まあ、それくらいなら」
「へへっ」
二本の尻尾が、再び楽しそうに揺れ始める。
和真はまだ、みゆが何者なのかを知らない。
なぜ追われていたのか。
どのような世界で生きてきたのか。
明るい笑顔の奥に、何を隠しているのか。
ただ一つ分かるのは、この猫又の少女もまた、帰る場所を失っているということだった。
母屋へ入ると、和真はみゆを居間で待たせ、台所へ向かった。
「そこに座っててくれ。勝手に歩き回るなよ」
「分かった!」
「本当に分かってるか?」
「分かってるってば」
みゆは座卓の前へ腰を下ろした。
直後、二本の尻尾が別々に動き始める。
一本は畳を撫で、もう一本は座布団の端を持ち上げようとしていた。
「尻尾も大人しくさせてくれ」
「これは勝手に動くから無理」
「さっきまで自分で動かしてただろ」
「細かいことを気にすると疲れるよ?」
「誰のせいだと思ってるんだ」
和真は冷蔵庫から卵と残っていた野菜を取り出した。
炊飯器には、朝炊いたご飯が残っている。
手早く卵と野菜を炒め、味噌汁を温め直した。
その間も、みゆは台所の方をじっと見つめていた。
「ねぇねぇ、まだ?」
「今作ってる」
「いい匂いがする」
「もう少し待ってろ」
「一口だけ味見してあげようか?」
「座ってろ」
「はーい」
返事だけは素直だった。
和真が料理を運び始めると、みゆの猫耳がぴんと立つ。
ご飯、味噌汁、卵と野菜の炒め物を並べると、二本の尻尾が揃って激しく揺れ始めた。
「これ、全部食べていいの?」
「ああ。ただし、急いで食べるなよ」
「いただきます!」
みゆは箸を手に取ると、すぐに卵を口へ運んだ。
その目が大きく見開かれる。
「おいしい!」
「そうか」
「これ、和真が作ったの?」
「ああ。簡単なものだけどな」
「すごいじゃん!」
よほど腹が減っていたのか、みゆは次々に料理を口へ運んでいく。
「だから、急いで食べるなって。喉に詰まらせるぞ」
「だいひょうぶ」
「口に入れたまま話すな」
和真が水を差し出すと、みゆは素直に受け取った。
半分ほど飲み、大きく息を吐く。
「生き返ったぁ……」
「最後にまともな食事をしたのはいつだ?」
「二日くらい前かな」
「その間は、何を食べてた?」
「パンとか、お菓子とか。お店の前にいたら、何人かがくれたよ」
「今度は本当にもらったんだろうな?」
「本当だってば。僕を見て、撮影か何かで迷子になったと思ったみたい」
「その格好なら、そう思われても不思議じゃないか」
「僕は迷子じゃないよ」
「空色唐辛子荘を探して、住宅街を歩き回ってたんだろ。十分迷子だ」
「ちゃんと着いたから迷子じゃないもん」
みゆは不満そうに頬を膨らませながらも、食べる手は止めなかった。
皿が空になる頃には、二本の尻尾も満足そうにゆっくり揺れていた。
「ごちそうさまでした!」
「足りたか?」
「もう一杯食べられるよ?」
「遠慮がないな」
「いいじゃん。おいしかったんだから」
和真は残っていたご飯を、みゆの茶碗へ半分ほどよそった。
「これを食べながらでいいから、いくつか聞かせてくれ」
「僕のこと?」
「ああ。まず、この世界へ来たのはいつだ?」
「三日前……だと思う」
「思う?」
「来た時は夜だったし、この世界の時間の数え方も知らなかったから」
「それから、ずっと一人だったのか?」
「うん」
「どこで寝てた?」
「誰も使ってなさそうな建物とか、屋根のある場所」
「危ないだろ」
「僕は平気だよ。誰かが近づけば、すぐに分かるから」
みゆは得意げに猫耳を動かした。
「それでも、一人で寝泊まりを続けるのは駄目だ」
「じゃあ、ここに住んでいい?」
「まだ決めてない」
「むぅ……」
「まずは、みゆが何者なのかを知らないとな」
和真は向かい側へ座った。
「お前のいた世界は、フェンリスやひかげの世界とは別なのか?」
「たぶん。僕も二人の世界を知らないから、絶対とは言えないけど」
「俺がいた異世界とも違いそうだな」
「和真も、違う世界にいたの?」
「ああ。今は戻ってきてるけどな」
「じゃあ、僕と同じだね」
「俺はこの世界で生まれた。みゆとは少し違う」
「でも、違う世界に行ったことはあるんでしょ?」
「まあ、それはそうだな」
みゆは嬉しそうに笑い、ご飯を一口食べた。
和真は、みゆと会話を始めた時から感じていた疑問を口にする。
「そういえば、みゆは最初から俺の言葉を理解できていたな」
「うん。普通に分かるよ」
「俺の能力が働いている感じもしない。お前の世界でも、元から同じ言葉を使っていたのか?」
「そうだよ。みんな、こうやって話してた」
「文字も読めるのか?」
「読めるよ。看板も地図も読めた」
「文字まで同じなのか……」
「そんなに変?」
「フェンリスとひかげの世界では、言葉も文字も違ったからな」
「じゃあ、二人とはどうやって話してるの?」
「俺には、違う言葉を理解したり、相手に言葉を伝えたりできる力がある。ただ、二人ともこの世界で生活できるように日本語を勉強中だ」
「にほんご?」
「この国で使われている言葉の名前だ」
「僕の世界では、そんな名前じゃなかったよ。でも、話し方も文字も同じ」
言葉と文字が同じでも、文化や道具まで同じわけではない。
みゆは冷蔵庫も炊飯器も、初めて見る物のように眺めていた。
「会話や読み書きができたなら、道を尋ねることはできたんだな」
「うん。でも、知らない言葉もいっぱいあったよ」
「知らない言葉?」
「でんしゃとか、こんびにとか、けいさつとか。字は読めても、それが何なのか分からなかった」
「この世界にしかない物や仕組みは分からないってことか」
「そう。それに、あれも」
みゆは隣へ置いていたスマートフォンを持ち上げた。
「すまほ。これ、すごいね。触るだけで絵が動くし、遠くの場所まで分かるんだよ」
「誰に使い方を教わった?」
「見て覚えた」
「持っている人の操作を見てたのか?」
「うん。みんな同じような板を触ってたから、何をしてるのかなって」
「それで、そのスマホはどうしたんだ?」
「もらった」
みゆは即答した。
しかし、二本の尻尾が不自然にぴたりと止まる。
和真は黙ってみゆを見つめた。
「……何?」
「今、明らかに尻尾が止まったぞ」
「気のせいじゃない?」
「誰にもらったんだ?」
「知らない人」
「知らない人がスマホをくれたのか?」
「その人は、僕に気づいてなかったけど」
「それは、もらったとは言わない」
「机に置いてあったから、いらないのかなって」
「どこの机だ?」
「街のお店」
「持ち主は?」
「近くにいたよ」
「完全に盗んでるじゃないか!」
和真が声を上げると、みゆは両耳を押さえた。
「声が大きいよ!」
「誰のせいだ!」
「だって、これがあれば色々調べられると思ったんだもん!」
「だからって盗んでいい理由にはならないだろ!」
「ちゃんと返すつもりだったよ」
「持ち主も知らないのに、どうやって返すんだ」
「探せば見つかるよ」
「探されてるのはお前の方だ!」
和真は額へ手を当てた。
「そのスマホを取ったのは、いつだ?」
「昨日の夕方」
「空色唐辛子荘を探し始める前か?」
「うん。これを手に入れてから、いろいろ触ってたら動画が出てきたの」
「その動画に、フェンリスとひかげが映っていたのか」
「そう!」
みゆの二本の尻尾が再び動き始める。
「最初は驚いたよ。狼の人と牛の人が、この世界にもいるって思ったから」
「それで、動画に映っていた看板から、空色唐辛子荘を探したのか?」
「うん。地図っていうのを使えば、場所が分かるって気づいたんだ」
「一晩中探してたのか?」
「途中で少し寝たよ。朝になってから、また探し始めた」
昨日スマートフォンを盗み、その後で動画を発見した。
動画に映り込んでいた名前を地図で検索し、今朝になって空色唐辛子荘へたどり着いた。
時間の流れに不自然なところはなさそうだった。
しかし、別の問題が残っている。
「それにしても、よくスマホを使えたな。普通は鍵がかかってるだろ」
「数字を押せば開いたよ」
「どうして番号を知ってるんだ?」
「持ち主が押してるところを見たから」
「一度見ただけで覚えたのか?」
「うん。指の動きも数字の並びも、全部見えてたから」
みゆは当然のように答えた。
あれほど素早く動き、気配まで消せる少女だ。
観察力や記憶力が優れていても不思議ではない。
ただ、使い方が完全に犯罪者のものだった。
「そんなところで特技を使うな」
「便利だったよ?」
「褒めてない」
「むぅ」
その時、みゆが持っていたスマートフォンが震えた。
二人が同時に画面を見る。
着信だった。
画面には、登録された相手の名前が表示されている。
「これ、前にも鳴ってたか?」
「何回か鳴ってたよ。うるさいから止めた」
「勝手に切るな」
「だって、押しても知らない人の声がするだけでしょ?」
「その知らない人が、持ち主を探してるんだ」
和真はみゆからスマートフォンを受け取った。
着信は切れてしまったが、画面には何件もの不在着信が残っている。
「これは返すぞ」
「ええっ」
「当たり前だ」
「でも、これがないと動画を見られないよ?」
「盗んだ物を使い続けるのは駄目だ」
「地図も見られなくなる」
「もう目的地には着いただろ」
「遊ぶ時にも使いたい」
「必要なら、あとで別の方法を考える」
みゆはスマートフォンと和真の顔を交互に見つめた。
二本の尻尾が名残惜しそうに端末へ伸びる。
「……怒ってる?」
「怒ってる」
「僕のこと、追い出す?」
先ほどまで勢いよく動いていた二本の尻尾が下がった。
「盗むのが悪いことなのは分かってるよ。でも、僕のいたところじゃ、必要な物は自分で取るしかなかったんだ」
「この世界では違う」
「そんなの、来たばっかりの僕には分からないよ」
「だったら今から覚えてくれ。欲しい物があっても、勝手に持っていったら駄目だ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「頼むか、働いて金を稼いで買う」
「頼んだら、くれる?」
「相手にもよる。何でももらえるわけじゃない」
「面倒だね」
「それがこの世界の決まりだ」
みゆは不満そうに口を尖らせた。
「ただ、何も教えずに追い出したら、また同じことをするだろ」
和真の言葉に、みゆが顔を上げる。
「追い出さないの?」
「まず、スマホを持ち主へ返す。それから、もう盗まないと約束しろ」
「返したら、ここにいていい?」
「それはまだ決めてない。フェンリスとひかげの意見も聞く」
「むぅ……」
「勝手に住むつもりだったのか?」
「だって、仲間がいるなら一緒にいたいじゃん」
「俺たちにも都合がある」
「部屋、いっぱいあるよ?」
「よく見てるな」
「僕、目はいいからね」
みゆは得意げに胸を張った。
「持ち主には俺から連絡する。みゆも一緒に謝るんだ」
「僕も?」
「当たり前だ。持ってきたのはみゆだろ」
「和真だけで返してきてよ」
「駄目だ。悪いことをしたなら、自分で謝る」
「……捕まらない?」
「それは相手次第だ。でも、逃げたり嘘をついたりしたら、もっと悪くなる」
「けいさつっていう人が来る?」
「場合によってはな」
「警察って、何?」
「この世界の兵士みたいなものだ。悪いことをした人を捕まえる」
みゆの表情が一瞬で変わった。
猫耳が伏せられ、二本の尻尾が身体へ巻きつく。
「嫌だ」
「だったら、きちんと返して謝るんだ」
「僕、捕まりたくない」
「俺も一緒に行く」
逃げ出しかけていたみゆの足が止まる。
「和真も?」
「ああ。一人にはしない」
「……本当?」
「本当だ」
みゆはしばらく和真の顔を見つめた。
やがて座り直し、右手を小さく上げる。
「分かった。スマホは返す」
「もう盗まないと約束できるか?」
「お腹が空いても?」
「俺たちに相談しろ」
「欲しいものがあっても?」
「まず相談だ」
「退屈でも?」
「それは自分で何とかしろ」
「和真が遊んでくれればいいじゃん」
「話を逸らすな」
「……分かったよ。もう盗まない」
「本当だな?」
「うん。約束する」
「なら、信じる」
和真が答えると、みゆは目を瞬かせた。
「それだけ?」
「何がだ?」
「本当に信じるの?」
「約束を破ったら、その時は本気で怒る」
「今よりも?」
「今よりもだ」
「それは嫌だなぁ」
そう言いながらも、みゆの口元には小さな笑みが浮かんだ。
和真が履歴に残っている相手へ電話をかけようとした、その時だった。
外から控えめな足音が近づいてくる。
続いて、母屋の呼び鈴が鳴った。
「……和真?」
扉の向こうから、ひかげの小さな声が聞こえた。
「ひかげか。配信は終わったのか?」
「……うん。終わったから……報告に来た」
その名前を聞いた瞬間、みゆの猫耳が勢いよく立った。
二本の尻尾も、左右へ大きく広がる。
「牛の人!」
「待て!」
和真が止めるより早く、みゆは玄関へ駆け出した。
足音もなく廊下を抜け、一瞬で扉の前へ到達する。
「みゆ、いきなり開けるな!」
「大丈夫だって!」
みゆが勢いよく扉を開けた。
扉の前に立っていたひかげの牛耳が、驚きで跳ね上がる。
「……えっ?」
ひかげが固まった。
みゆもまた、目の前に現れた本物の角と牛耳を見て動きを止める。
数秒間、二人は無言で見つめ合った。
先に動いたのは、みゆだった。
「本物だ!」
二本の尻尾を勢いよく振りながら、みゆがひかげへ飛びつこうとする。
「ひっ……!」
ひかげは短い悲鳴を上げ、和真の背後へ逃げ込んだ。
「だから驚かせるなって言っただろ!」
「だって、本当に牛の人がいたから!」
みゆは和真の横から顔を出し、その背後へ隠れたひかげを覗き込む。
「ねぇねぇ! 僕はみゆ! 猫又なんだ!」
「……ねこ、また?」
「うん! 尻尾が二本あるでしょ?」
みゆは二本の尻尾を左右へ広げて見せた。
ひかげは和真の服をつかんだまま、前髪の奥からみゆを観察している。
「……本物?」
「もちろん! ひかげの角と耳も本物だよね?」
「……うん」
「やっぱり仲間だ!」
みゆが再び距離を詰めようとする。
和真はその額を手で止めた。
「近づくな」
「なんで?」
「ひかげが怖がってる」
「僕、何もしないよ?」
「会ったばかりの相手に飛びつこうとしただろ」
「挨拶だよ」
「それはみゆの挨拶だ。ひかげにはひかげの距離がある」
みゆは不思議そうに首をかしげた。
それから、和真の背後に隠れているひかげを見る。
「……近いの、嫌?」
先ほどまでよりも、少しだけ静かな声だった。
ひかげは迷いながら、小さくうなずく。
「……まだ、怖い」
「そっか」
みゆの猫耳が少し下がった。
それでも無理に近づかず、その場へしゃがみ込む。
「じゃあ、ここから話す」
「……うん」
「僕は猫又みゆ。動画でひかげを見つけて、会いに来たんだ」
「……動画?」
「ひかげとフェンリスが映ってたよ」
「……あの時の」
「僕、この世界でずっと一人だったんだ。だから二人を見つけて、仲間かもしれないって思って来たの」
ひかげの牛耳が僅かに動く。
「……みゆも、違う世界から?」
「うん。ひかげとは別の世界みたいだけどね」
「……一人?」
「そうだよ」
明るく答えたみゆだったが、二本の尻尾は床へ下がったままだった。
ひかげは、和真の背後から少しだけ身体を出す。
「……寂しかった?」
みゆの笑顔が僅かに揺らぐ。
「僕は平気だよ。一人には慣れてるから」
「……私は、寂しかった」
「えっ?」
「……一人で来た時、怖かった」
ひかげの手は、まだ和真の服をつかんでいる。
それでも、自分からみゆへ話しかけていた。
「……だから、少しだけ……分かる」
みゆは何も言わず、ひかげを見つめた。
二本の尻尾がゆっくりと持ち上がる。
「じゃあ、仲良くしてくれる?」
「……急に近づかないなら」
「分かった!」
「大声も……少し怖い」
「小さくする!」
そう答えた声がすでに大きく、ひかげの肩が跳ねた。
「あっ、ごめん」
みゆは両手で口を押さえる。
ひかげはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
ほんの僅かな変化だった。
しかし、それを見たみゆの二本の尻尾が嬉しそうに揺れ始める。
「ねぇねぇ、ひかげ」
「……なに?」
「僕と遊ぼ?」
「まだ早い」
和真が間に入ると、みゆは再び頬を膨らませた。
「いいじゃん別に〜」
「その前に、盗んだスマホを返す」
「……盗んだ?」
ひかげの牛耳が止まる。
みゆは気まずそうに視線を逸らした。
「もらったの」
「持ち主に黙って持ってきたんだろ」
「和真、それは今言わなくてもよくない?」
「ひかげにも事情を話す必要がある」
「……泥棒?」
ひかげが少しだけ和真へ身を寄せる。
「もうしない! 和真と約束したから!」
みゆは慌てて両手を振った。
「だから嫌いにならないでよ。ね?」
二本の尻尾が不安そうに揺れる。
ひかげは、みゆの様子をしばらく見つめた。
「……返すなら」
「返す!」
「……もう、取らないなら」
「取らない!」
「……なら、少しだけ……話す」
「本当?」
みゆが反射的に立ち上がる。
ひかげの身体が強張ったのを見て、すぐにその場へ座り直した。
「ここから動かないから!」
ひかげは小さくうなずき、ようやく和真の服から手を離した。
まだ友達と呼べるほどの距離ではない。
それでも、孤独を知る二人の間に、最初の細い糸が結ばれようとしていた。
和真は、履歴に残っていた相手へ電話をかけた。
数回の呼び出し音のあと、女性の声が聞こえてくる。
『もしもし?』
「突然すみません。このスマートフォンの持ち主の方ですか?」
『えっ? そのスマホ、見つかったんですか?』
電話の向こうで、女性の声が大きくなる。
みゆの猫耳がぴくりと動き、二本の尻尾が身体へ巻きついた。
「はい。今、こちらで預かっています」
『娘のスマホなんです。昨日からずっと探していて……。どこにあったんでしょうか?』
「昨日、娘さんが立ち寄ったお店は分かりますか?」
『駅前の喫茶店だと思います。そこで使ったのが最後だと言っていました』
みゆが話していた場所と一致している。
「分かりました。では、その喫茶店でお返しします。娘さんにも来てもらえますか?」
『はい。すぐに連絡します。本当にありがとうございます』
「それと……少し謝らなければならないことがあります。詳しいことは、直接お話しします」
『謝ること?』
「申し訳ありません。スマホに壊れたところはありませんので、それだけは安心してください」
和真は待ち合わせの時間を決め、電話を切った。
「一時間後、昨日の店で返すことになった」
「……本当に行くの?」
「ああ」
「僕も?」
「一緒に謝るって約束しただろ」
みゆの二本の尻尾が床へ下がる。
「今から逃げたら?」
「探す」
「僕、逃げるの得意だよ?」
「俺も追いかけるのは得意だ」
「へへっ。捕まえられる?」
「試すなよ」
和真が真顔で答えると、みゆは頬を膨らませながらも立ち上がった。
「分かったよ。行けばいいんでしょ」
その様子を見ていたひかげが、控えめに声をかける。
「……みゆ」
「なに?」
「……ちゃんと、返した方がいい」
「ひかげもそう思う?」
「……うん。取られた人、困ってるから」
みゆは手元のスマートフォンを見下ろした。
「……分かってるよ」
返事からは、先ほどまでの軽さが消えていた。
「ひかげはどうする?」
和真が尋ねると、ひかげは少し考えてから自分の部屋の方を見る。
「……私は、戻る」
「分かった。夕飯の時にまた声をかけるよ」
「……みゆも、いる?」
「それはスマホを返してから考える」
ひかげは小さくうなずいた。
それから、みゆへ顔を向ける。
「……また、あとで」
「うん!」
みゆが駆け寄りそうになる。
しかし、ひかげの身体が僅かに強張ったのを見て、その場で踏みとどまった。
「ここから見送るね!」
「……ありがとう」
ひかげが部屋へ戻っていく。
その背中が見えなくなるまで、みゆは約束どおり動かなかった。
「ちゃんと我慢できたな」
「僕だって、やればできるよ」
「最初からやってくれ」
「褒めてくれてもいいじゃん」
「戻ってきたらな」
「絶対だよ?」
◇
待ち合わせ場所の喫茶店までは、歩いて二十分ほどだった。
みゆは和真の隣を歩きながら、周囲のものへ忙しなく視線を向けている。
走り抜ける車。
信号機。
自動販売機。
店先から聞こえる音楽。
目に入るもののほとんどが珍しいらしく、猫耳も絶えず動いていた。
「あれは?」
「自動販売機」
「何するもの?」
「お金を入れると、飲み物が出てくる」
「中に人がいるの?」
「いない」
「じゃあ、誰が飲み物を渡すの?」
「機械が自動で出すんだ」
「すごい!」
みゆが自動販売機へ駆け寄ろうとする。
和真は服の襟をつかみ、その場へ引き止めた。
「今はスマホを返すのが先だ」
「少し見るだけだよ」
「帰りにな」
「じゃあ、帰りに何か買ってね」
「どうしてそうなるんだ」
「僕、お金持ってないもん」
「だからって俺が買うとは言ってない」
「いいじゃん別に〜」
口では不満を言いながらも、みゆは逃げなかった。
しばらく歩き、二人は駅前の喫茶店へ到着した。
店の前では、若い女性が落ち着かない様子で立っていた。
和真がスマートフォンを取り出すと、女性がすぐに駆け寄ってくる。
「そのスマホ、私のです!」
「確認をお願いします」
和真が差し出すと、女性は端末の外側と画面を確かめた。
「間違いありません。よかった……」
安心した声を聞き、みゆの猫耳が少し下がった。
和真は女性へ頭を下げる。
「すみません。実は、拾ったわけではありません」
「えっ?」
「この子が、昨日ここから勝手に持っていきました」
女性がみゆを見る。
みゆは和真の背後へ隠れようとした。
「隠れるな。自分で話すんだ」
「……うぅ」
二本の尻尾を身体へ巻きつけながら、みゆが前へ出る。
しばらく黙っていたが、やがて女性へ深く頭を下げた。
「勝手に持っていって、ごめんなさい」
「あなたが?」
「うん。これがあれば、探し物ができると思ったから」
「だからって、人の物を持っていったら駄目でしょう」
「……分かってなかった」
「分かってなかったって……」
「でも、今は分かった。もうしない」
みゆは顔を上げずに答えた。
「本当に、ごめんなさい」
女性は困惑したまま、和真とみゆを交互に見る。
すぐに許せることではない。
昨日から探し回り、家族にも心配をかけている。
怒るのは当然だった。
「警察に届けようと思っていました」
その言葉を聞き、みゆの身体が強張る。
二本の尻尾が、さらに強く身体へ巻きついた。
それでも逃げ出さず、その場へ立ち続ける。
「……ごめんなさい」
「みゆ」
和真が隣へ並ぶ。
「この子がしたことは、悪いことです。必要なら、俺も一緒に警察へ行きます」
「和真も来るの?」
「一人にしないと言っただろ」
みゆが驚いた顔で和真を見上げる。
女性は二人の様子をしばらく見つめたあと、スマートフォンを胸元で握った。
「壊れてはいないんですよね?」
「はい。勝手に触って、動画や地図を見ています。通信料などが増えていたら、俺が支払います」
「通信料は定額なので、大丈夫です」
女性は小さく息を吐いた。
「今回は、スマホも戻ってきましたし、警察には言いません」
「本当?」
「ただし、次に同じことをしたら駄目です」
「うん。もう取らない」
「本当に約束できますか?」
「約束する」
女性はまだ納得しきれていない様子だったが、最後に小さくうなずいた。
「分かりました」
「ありがとうございます」
和真が頭を下げる。
みゆも、もう一度深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
女性はスマートフォンを持ち、喫茶店の中で待っている家族のもとへ戻っていった。
その姿が扉の向こうへ消えると、みゆは大きく息を吐いた。
「怖かったぁ……」
「自分でやったことだろ」
「そうだけど……」
「逃げなかったのは偉かったよ」
和真がそう言うと、みゆの猫耳がぴんと立った。
「今、褒めた?」
「ああ」
「もう一回言って」
「調子に乗るな」
「一回だけじゃ足りないよ」
「帰るぞ」
「ねぇねぇ、もう一回!」
みゆは和真の腕へ抱きついた。
二本の尻尾が嬉しそうに大きく揺れている。
「近いって」
「頑張ったんだから、これくらいいいじゃん」
「分かったから、歩く時は離れろ」
「じゃあ、手をつなぐ」
「どうしてそうなる」
「僕が逃げないように」
「もう返し終わっただろ」
「また何か見つけて、どこかに行っちゃうかもしれないよ?」
「自分で言うな」
結局、みゆは和真の手を握ったまま歩き始めた。
◇
帰り道、約束どおり自動販売機の前へ立ち寄った。
「いっぱいある!」
「一本だけだからな」
「どれがおいしい?」
「好みによる。甘いものが好きなら、これかな」
和真が桃のジュースを指さす。
「じゃあ、それ!」
硬貨を入れ、ボタンを押す。
下の取り出し口へ缶が落ちると、みゆの猫耳が大きく跳ねた。
「出てきた!」
「そういうものだからな」
「どうなってるの?」
「中に飲み物が入っていて、選んだものが下に落ちてくるんだ」
「開けてもいい?」
「ああ」
みゆは和真から開け方を教わり、缶の蓋を開けた。
慎重に一口飲んだ直後、その目が輝く。
「甘い!」
「気に入ったか?」
「うん! これ、すごく好き!」
右の尻尾が大きく揺れ、左の尻尾が和真の腕へ巻きついた。
「尻尾でつかむな」
「嬉しいと勝手に動くんだもん」
「便利な言葉だな、それ」
みゆは桃のジュースを大切そうに両手で持ち、少しずつ飲みながら歩いた。
空色唐辛子荘へ戻ると、ひかげが自分の部屋の前に立っていた。
和真たちの姿を見つけ、牛耳を僅かに動かす。
「……返せた?」
「うん!」
みゆはひかげへ駆け寄りかけ、途中で足を止めた。
今度は、ひかげが驚かないだけの距離を残している。
「ちゃんと謝ったよ」
「……怒られた?」
「少しだけ。でも、許してくれた」
「……よかった」
「和真も僕のこと褒めてくれたよ!」
「返すのが当然だってことは忘れるなよ」
「でも褒めたのは本当でしょ?」
「逃げずに謝ったことだけはな」
「へへっ」
みゆが得意げに胸を張る。
ひかげは、みゆが持っている缶へ顔を向けた。
「……それは?」
「桃のじゅーす! 和真に買ってもらったんだ」
「……おいしい?」
「すっごく甘いよ。飲む?」
みゆが缶を差し出しかける。
途中で何かに気づき、自分の口をつけた場所を見た。
「……これ、同じところから飲んでも大丈夫?」
先ほどまでなら、何も考えずに押しつけていただろう。
ひかげは少し迷ったあと、小さく首を横に振る。
「……今度、一緒に買う」
「うん! 一緒に行こう!」
みゆの声が大きくなり、ひかげの肩が僅かに跳ねた。
「あっ、ごめん。静かにするんだった」
「……少しくらいなら、大丈夫」
ひかげが小さく笑う。
みゆの二本の尻尾が嬉しそうに左右へ広がった。
◇
夕方。
フェンリスから、仕事が終わったというJINEが届いた。
和真は夕食の準備を始め、フェンリスとひかげへ母屋へ来るよう連絡した。
みゆは手伝うと言ったものの、包丁を逆手で握ったため、すぐに取り上げられていた。
「この持ち方の方が使いやすいのに」
「料理で使う持ち方じゃない」
「切れれば同じじゃん」
「違う。みゆは皿を並べてくれ」
「はーい」
みゆは両手に皿を重ね、危なげなく座卓へ運んでいく。
和真が料理を仕上げた頃、玄関の扉が開いた。
「ただいま!」
「おかえり」
フェンリスが居間へ入ってくる。
その直後、大きな狼耳がぴくりと動いた。
赤い瞳が細められ、鼻先が僅かに動く。
「知らない匂いがする」
仕事帰りの笑顔が消えた。
和真が説明するより早く、みゆが台所から顔を出す。
「狼の人!」
「誰?」
フェンリスは反射的に身構えた。
みゆは気にすることなく駆け寄っていく。
「僕はみゆ! 猫又だよ!」
「待って」
フェンリスが片手を前へ出す。
みゆは、その手の僅か手前で足を止めた。
「いきなり近づかないで。まだ君のことを何も知らない」
「フェンリスにも近づいたら駄目なの?」
「ひかげよりは平気だけど、初対面で飛びつかれるのは困るよ」
「飛びつくって、まだ言ってないよ?」
「飛びつくつもりだったでしょ」
「なんで分かったの?」
「動きを見れば分かる」
みゆが楽しそうに笑う。
「フェンリス、強いね」
「君も普通じゃないね」
二人は互いの動きを探るように見つめ合った。
明るい表情を浮かべながらも、みゆの足はすぐに動ける位置へ置かれている。
フェンリスも自然な姿勢のまま、みゆが飛びかかってきた場合に備えていた。
「二人とも、戦うなよ」
和真が間へ入る。
「僕は戦うつもりなんてないよ」
「僕も遊びたいだけ」
「同じ一人称で話すと、少しややこしいな……」
和真が頭をかく。
そこへ、ひかげも母屋へやって来た。
「……フェンリス」
「ひかげ。この子のこと、知ってるの?」
「……今日、来た」
「動画を見て、二人を探してきたらしい」
和真は、みゆが異世界から来たことや、この世界では最初から言葉が通じていたことを説明した。
昨日盗んだスマートフォンで動画を見つけ、空色唐辛子荘を探してきたことも隠さず話す。
「盗んだの?」
フェンリスの尻尾が止まる。
「もう返したよ!」
「返せば盗んでもいいわけじゃないよ」
「分かってる。もうしないって約束したもん」
「和真と?」
「うん!」
フェンリスが和真を見る。
「本当に大丈夫なの?」
「少なくとも、逃げずに持ち主へ謝った。まだ、この世界の決まりを何も知らないんだ」
「だからって、何でも許すのは違うと思う」
「ああ。だから、これから覚えてもらう」
フェンリスはしばらくみゆを見つめた。
みゆも珍しく黙ったまま、フェンリスの返事を待っている。
「……もう盗まない?」
「盗まない」
「僕たちの物も?」
「取らないよ」
「和真の物も?」
「取らないってば」
フェンリスは念を押すように尋ねたあと、ようやく構えを解いた。
「なら、僕はいいよ」
「本当?」
「まだ信用したわけじゃないからね。これからの行動を見て決める」
「分かった!」
みゆが一歩近づく。
「だから、いきなり飛びつかないで」
フェンリスが再び手を伸ばし、みゆの額を押さえた。
「むぅ……」
「少しずつなら仲良くしてあげる」
「じゃあ、尻尾を触ってもいい?」
「駄目」
「どうして?」
「初対面の相手に触らせるわけないでしょ」
「僕の尻尾は触っていいよ?」
「そういう問題じゃない」
「いいじゃん別に〜」
みゆが頬を膨らませ、二本の尻尾を激しく揺らす。
その様子を見て、フェンリスの口元に小さな笑みが浮かんだ。
「本当に猫みたい」
「猫又だからね!」
「じゃあ、ご飯にしよう。話は食べながらでいいだろ」
和真が促し、四人は座卓を囲んだ。
みゆがこの家へ来た事情については、すでに大まかに聞いている。
しかし、和真にはまだ確かめていないことがあった。
「みゆ。元の世界では、何をしてたんだ?」
箸を動かしていたみゆの手が止まった。
「いろいろ」
「昼間も同じ答えだったな」
「昔のことは、もういいじゃん」
「誰かに追われていたんだろ」
「もう追ってこられないよ。世界が違うんだから」
「それでも、話せる範囲で教えてほしい。何も知らないまま住ませるわけにはいかない」
「住んでいいの?」
「まだ決定じゃない」
「むぅ……」
みゆはしばらく迷っていた。
二本の尻尾が床の上で静かに揺れる。
「僕は、ギルドにいたんだ」
「冒険者ギルド?」
フェンリスが尋ねる。
みゆは首を横に振った。
「人を消す仕事をするところ」
部屋の空気が変わった。
ひかげの牛耳が伏せられ、フェンリスの表情から笑みが消える。
「人を消すって……」
「殺すってこと」
みゆは何でもないことのように答えた。
だが、その声に先ほどまでの明るさはなかった。
「僕はそこで育てられた。走り方も、隠れ方も、戦い方も、全部そこで覚えたんだ」
「暗殺者だったのか?」
「そう呼ばれてたよ」
和真は、初めて会った時の動きを思い出した。
音のない足取り。
魔力と気配の薄さ。
スマートフォンの暗証番号を一度見ただけで覚えた観察力。
すべて、暗殺者として身につけたものだった。
「どうして逃げたんだ?」
「やりたくなくなったから」
「それだけ?」
「それで十分でしょ」
みゆは笑おうとした。
しかし、口元は僅かに震えている。
「命令された相手を消して、戻って、また次の命令を待つ。ずっとそれだけだった」
二本の尻尾が、みゆの身体へ寄り添うように丸まった。
「何も考えるなって言われてた。考えたら動けなくなるから」
「……それでも、考えたのか?」
「ある時、僕が消すはずだった人に、子供がいたんだ」
誰も口を挟まなかった。
「その子がね、僕を見て言ったんだ。お姉ちゃんも一緒に遊ぶって」
みゆは座卓へ視線を落とす。
「僕を殺しに来た人だって知らないから、笑ってた」
「それで、その人を殺せなかったのか?」
「うん。初めて命令を破った」
「その結果、ギルドに追われたんだな」
「裏切り者は消す。それが決まりだったから」
みゆの二本の尻尾が止まった。
「逃げて、逃げて、追いつかれそうになって……気づいたら、この世界にいた」
昼間に聞いた時よりも、少しだけ詳しい事情だった。
それでも、みゆが何人を手にかけてきたのか。
ギルドでどのような扱いを受けていたのか。
本人は話そうとしなかった。
「僕が怖い?」
みゆが三人の顔を順番に見る。
「僕、人を殺したことがあるよ」
明るく振る舞おうとしていた表情が、今にも崩れそうになっている。
「そんな僕でも、ここにいていい?」
最初に答えたのは、フェンリスだった。
「今も誰かを殺したいの?」
「思わない」
「和真やひかげを傷つける?」
「絶対に傷つけない」
「なら、僕は追い出さなくてもいいと思う」
「フェンリス……」
「昔何をしていたかだけで全部を決めたら、逃げてきた意味がなくなるでしょ」
フェンリスは和真を見る。
「ただし、また盗んだり、誰かを傷つけたりしたら駄目だからね」
「うん」
ひかげも、前髪の奥からみゆを見つめていた。
「……私も、いいと思う」
「本当?」
「……少し、怖いけど」
正直な言葉に、みゆの猫耳が下がる。
「……でも、みゆは近づかないって言ったら、止まってくれたから」
ひかげが自分の尻尾を握りながら続ける。
「……悪い人なら、止まらないと思う」
「ひかげ……」
「……ゆっくりなら、仲良くしたい」
みゆの目が潤む。
しかし、すぐに顔を伏せ、両手で目元を擦った。
「泣いてないから」
「まだ何も言ってないぞ」
「僕は泣かないもん」
二本の尻尾だけが正直に動き、ひかげの方へゆっくり伸びていく。
途中で止まった一本の先へ、ひかげの牛の尻尾が恐る恐る触れた。
みゆが顔を上げる。
ひかげは何も言わず、すぐに自分の尻尾を戻した。
それでも、みゆには十分だった。
「和真」
「ああ」
「僕、ここにいていい?」
「守ってもらう決まりが三つある」
「三つ?」
「人の物を盗まない。許可なく誰かの部屋へ入らない。力を使って人を傷つけない」
「向こうから襲ってきた時は?」
「逃げられるなら逃げる。無理なら、自分や誰かを守るために必要な分だけだ」
「難しいなぁ」
「守れないなら住ませられない」
みゆは少し考えたあと、右手を上げた。
「分かった。守る」
「本当だな?」
「約束する。だから――」
二本の尻尾が期待するように立ち上がる。
「僕も、ここに住んでいい?」
「ああ。まずはしばらく様子を見る。それで問題がなければ、正式に住めばいい」
みゆの目が大きく見開かれた。
「本当に?」
「ああ」
「やったぁ!」
立ち上がったみゆが、和真へ飛びつく。
和真は受け止めきれず、そのまま後ろへ倒れ込んだ。
「おい!」
「へへっ! 捕まえた!」
「飛びつくなって言っただろ!」
「和真には言われてないもん!」
「今言った!」
和真の胸元へ頬を寄せ、みゆは嬉しそうに笑っている。
フェンリスの尻尾が大きく膨らんだ。
「ちょっと、いつまでくっついてるの?」
「いいじゃん別に〜」
「よくない!」
フェンリスがみゆの襟をつかみ、和真から引き離す。
「和真は僕をここまで連れてきてくれたんだよ?」
「僕にはご飯を作ってくれたよ」
「僕なんて一緒に買い物にも行ったことがあるから!」
「僕も今日、一緒に歩いたよ?」
「僕は何回も一緒に歩いてる!」
「それなら僕も、これからいっぱい歩くもん」
「張り合うな!」
和真の声が居間へ響く。
ひかげは二人のやり取りを眺めながら、小さく笑っていた。
◇
夕食後、和真はみゆへ空いている部屋を一つ貸すことにした。
布団や生活に必要な物は、ひとまず余っている物を使う。
着替えや日用品については、明日改めて用意することになった。
「ここ、僕が使っていいの?」
「ああ。ただし、まだ仮だからな」
「ベッドもある!」
「今日はそこで寝てくれ」
みゆは部屋の中を一周し、窓を開け、収納を確かめ、浴室まで覗いて戻ってきた。
「すごいね。誰にも追い出されない?」
「約束を守っている限りはな」
「鍵も閉めていい?」
「もちろんだ」
「和真でも、勝手に入ってこない?」
「入らない」
「僕が和真の部屋に行くのは?」
「許可なく入るなって、さっき決めただろ」
「窓からなら?」
「入り口の問題じゃない!」
みゆが楽しそうに笑う。
「冗談だよ」
「本当だろうな」
「半分くらい」
「全部冗談にしてくれ」
和真が部屋を出ようとすると、みゆが服の裾をつかんだ。
「……もう行くの?」
「俺は母屋に戻る。フェンリスとひかげも、それぞれの部屋へ戻っただろ」
「ここで一人?」
「ああ。でも、すぐ近くだ」
「……そっか」
みゆは笑っている。
しかし、二本の尻尾は力なく下がっていた。
「怖いのか?」
「怖くないよ」
「寂しい?」
「平気だって。一人で寝るのは慣れてるから」
「無理に平気なふりをしなくてもいい」
「じゃあ、和真もここで寝る?」
「それは駄目だ」
「即答なんだ」
「当たり前だろ」
みゆは頬を膨らませた。
「何かあったら、俺のスマホへ連絡してくれ」
「僕、スマホ持ってないよ?」
「……そうだったな」
「大声で呼べば聞こえる?」
「たぶんな」
「じゃあ、和真って呼ぶ」
「緊急の時だけにしてくれ」
「寂しくなった時は緊急?」
「緊急じゃない」
「僕にとっては緊急だよ」
和真は少し考え、部屋の照明を指さした。
「今日は電気をつけたまま寝てもいい。扉の鍵も閉めておけ。それでも不安なら、近くにいるフェンリスかひかげに相談するんだ」
「和真じゃなくて?」
「母屋まで来るより近いだろ」
「むぅ……」
「明日、みゆが使うスマホも考える。連絡できるようになれば、少しは安心できるだろ」
「僕のスマホ?」
「すぐに新しい物を用意できるかは分からない。前に使っていた端末が残っていないか探してみる」
「それ、ちゃんともらっていいやつ?」
「ああ。今度は本当にもらっていい物だ」
「へへっ。楽しみにしてる」
二本の尻尾が少しだけ持ち上がった。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ、和真」
和真が部屋を出ようとした時、背後から声が届く。
「ねぇ、和真」
「どうした?」
「……僕を見つけてくれて、ありがとう」
「見つけたのは、みゆの方だろ」
「そうだけど」
みゆは窓の外へ顔を向けた。
「ここへ来てから、ずっと知らない人しかいなかった。話は通じるのに、僕のことを知ってる人は一人もいなかった」
二本の尻尾が、みゆの身体へ静かに寄り添う。
「だから、あの動画で二人を見つけた時、すごく嬉しかったんだ」
「そうか」
「和真にも会えたしね」
みゆは振り返り、口元から小さな牙をのぞかせた。
「僕、もう一人じゃないんだよね?」
「ああ」
「ここにいれば、明日もみんなに会える?」
「会えるよ」
「そっか」
みゆはベッドへ飛び込み、布団を抱き締めた。
二本の尻尾が嬉しそうに左右へ揺れる。
「じゃあ、明日は僕と遊んでね!」
「約束はできない」
「いいじゃん別に〜」
「時間があったらな」
「絶対だからね!」
和真は苦笑しながら、今度こそ部屋を出た。
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
みゆはしばらく笑顔のまま、天井を見つめていた。
やがて笑みが薄れ、片手を目元へ重ねる。
「……あったかいなぁ」
誰にも聞こえない声が、静かな部屋へこぼれた。
命令を待つ必要はない。
眠っている間に襲われる心配もない。
明日になれば、また会える人がいる。
みゆは布団の中で身体を丸めた。
二本の尻尾が自分を包むように寄り添う。
「僕は、ずっと一緒にいるよ」
そうつぶやくと、みゆはこの世界へ来て初めて、安心して目を閉じた。




