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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第六話 消せない動画

 ひかげが空色唐辛子荘へ来てから、数日が過ぎた。


 それぞれの部屋で暮らし始めたフェンリスとひかげは、食事や日本語の勉強をする時だけ、和真の住む母屋へ集まっている。


 和真の能力を通せば、二人が異世界の言葉で話しても、その意味は自然に伝わる。


 しかし、それは和真がそばにいる時だけだった。


 これから現代日本で暮らしていくなら、買い物や近所付き合いのたびに、和真が間へ入るわけにもいかない。


 何より、誰かに話しかけられた際、聞いたこともない異世界の言葉を返してしまえば、外国人という説明だけでは済まなくなる可能性がある。


 そこで和真は、文字の読み書きより先に、日常生活で使う言葉を二人へ教えることにした。


 フェンリスは、間違いを気にせず、覚えた言葉をすぐに口にする。


 ひかげは、声に出すまで時間がかかるものの、一度覚えた言葉はほとんど忘れなかった。


 二人の覚え方は正反対だったが、毎日続けてきた勉強は、少しずつ成果を見せ始めていた。


 その日の朝も、三人で朝食を済ませたあと、母屋の居間で日本語の勉強を始めていた。


「カズマ。これは?」


 フェンリスが、ノートに書かれた短い文章を指さす。


「『お腹が空きました』だな」


「おなか、すいた!」


「それでも通じる。普段の会話なら、そっちの方が自然かもしれないな」


「じゃあ、僕、もう覚えた。おなか、すいた!」


「今、本当に空いてるだけじゃないのか?」


「うん!」


 フェンリスが迷いなく答える。


 つい先ほど、朝食を食べ終えたばかりである。


「さっき朝飯を食べただろ」


「勉強、頭つかう。おなか、すく」


「そういう言葉だけは覚えるのが早いな……」


「カズマ、ごはん!」


「命令みたいになってるぞ。せめて『お願いします』をつけような」


「カズマ、ごはん、おねがいします!」


「……間違ってはいないけど」


 和真が苦笑すると、向かい側に座っていたひかげの肩がわずかに揺れた。


 声は聞こえなかったものの、どうやら笑っているらしい。


 フェンリスの狼耳がぴくりと動く。


「ヒカゲ、わらった」


「……わらって、ない」


「わらったよ」


「わらって、ないです」


「『です』をつけても同じだよ」


「……フェンリス、うるさい」


「いま、悪い言葉いった!」


「悪くない。ほんとう」


「カズマ! ヒカゲが、いじわる!」


 フェンリスが助けを求めるように、和真へ顔を向ける。


「二人だけでも、ずいぶん会話できるようになったな」


「いま、そこ?」


「だって、ちゃんと通じてるだろ?」


 以前のひかげなら、フェンリスから話しかけられただけで、和真の後ろへ隠れていた。


 それが今では、片言ながら言葉を返し、時には小さく言い返すことさえある。


 和真の通訳を介さなくても、日本語だけで簡単な会話ができるようになっていた。


 もちろん、まだ言葉の順番を間違えることは多い。


 知らない言葉が出てくれば、身振りに頼ることもある。


 それでも、自分たちの言葉で意思を交わせるようになったのは、大きな進歩だった。


「じゃあ、次はこれだ」


 和真は、テーブルの上に置かれた湯飲みを指さした。


「これは?」


「コップ!」


 フェンリスが即答する。


「惜しい。これは湯飲み」


「ユノミ」


「……ゆのみ」


 ひかげも、小さな声で繰り返す。


「そうそう。じゃあ、これは?」


 今度は、テレビのリモコンを持ち上げた。


「リモコン!」


「正解」


「りも……こん」


「ひかげも正解。じゃあ、テレビをつけてほしい時は?」


 ひかげはしばらく考え、ゆっくりと口を開いた。


「……てれび、つけて、ください」


「うん。それで通じる」


「カズマ、テレビ、つけてください!」


「フェンリスには聞いてないぞ」


「れんしゅう!」


「本当はテレビが見たいだけじゃないのか?」


「……うん」


「やっぱりか」


 ひかげの肩が、再び小さく揺れる。


 今度はフェンリスも怒らず、一緒になって笑った。


「今日はここまでにしよう」


 和真がノートを閉じると、フェンリスが不満そうに首を傾げた。


「もう、おわり?」


「覚えた言葉を、実際に使ってみようと思ってな」


「どこで?」


「朝の散歩だ。近所の人に会ったら、挨拶してみよう」


「僕、できる!」


 フェンリスが勢いよく立ち上がる。


 一方、ひかげはノートを抱えたまま固まっていた。


「……わたしも?」


「無理に長く話さなくていい。『おはようございます』だけで大丈夫だ」


「……むり」


「まだ外にも出てないぞ」


「知らない人、こわい」


「俺とフェンリスも一緒だから」


「僕、いっしょ!」


 フェンリスが、ひかげの手を握る。


「ヒカゲ、言えない時、僕が言う」


「……フェンリス、大きい声」


「げんきな、あいさつ!」


「びっくり、する」


「じゃあ、ヒカゲは小さい声。僕、大きい声!」


「それなら……たぶん」


 ひかげが小さくうなずいた。


 三人は身支度を整え、空色唐辛子荘を出発した。


 近所を歩く時、フェンリスは狼耳や大きな尻尾を隠していない。


 周囲の人々は、それらが本物だとは思っておらず、精巧なコスプレとして受け入れていた。


 ひかげも同じだった。


 長い前髪の間から柔らかな牛耳がのぞき、頭には二本の角がある。服の後ろからは、牛の尻尾がゆっくりと揺れていた。


「ヒカゲ、だいじょうぶ?」


 隣を歩くフェンリスが尋ねる。


「……見られてる」


「だいじょうぶ。僕も、いつも見られる」


「フェンリスは……平気?」


「うん。みんな、僕の尻尾、きれいって言う!」


 フェンリスが誇らしげに、特大の尻尾を揺らす。


「……目立つ」


「ヒカゲの角も、かっこいい!」


「かわいく……ない?」


「かわいい。それから、かっこいい!」


「……そう」


 ひかげは長い前髪の奥へ顔を隠したが、牛の尻尾は嬉しそうにわずかに揺れていた。


 三人が住宅街を歩いていると、前方から犬を連れた年配の女性がやって来た。


 何度か顔を合わせたことのある近所の住人だった。


「おはよう、和真君。今日も早いのね」


「おはようございます。二人に近所を案内しながら、散歩してるんです」


「おはよう、ございます!」


 フェンリスが、教わった通りに頭を下げる。


「はい、おはよう。フェンリスちゃんは今日も元気ね」


「はい! 僕、げんきです!」


 フェンリスの大きな声に、女性が連れていた犬が驚いたように耳を立てた。


 犬はフェンリスの尻尾を見上げ、気になるのか何度も鼻を動かしている。


「それで、そちらの子が新しく来た子?」


 女性の視線が、和真の後ろへ隠れているひかげへ移る。


「はい。獅子宮ひかげです」


「まあ、立派な角ね。耳と尻尾もよくできてるわ」


 当然のようにコスプレだと思っている女性へ、和真は曖昧な笑みを返した。


「ひかげ。挨拶できるか?」


 ひかげの肩が大きく跳ねる。


 和真の服の裾をつかみ、その背中へさらに隠れてしまった。


 それでも、フェンリスが隣から小さな声で呼びかける。


「ヒカゲ。いっしょ」


 フェンリスが、もう一度女性へ頭を下げた。


「おはよう、ございます」


 ひかげはしばらく迷ったあと、和真の背中から少しだけ顔を出した。


「……おはよう、ございます」


「はい、おはようございます。よろしくね、ひかげちゃん」


 女性はそれ以上無理に話しかけず、優しく笑って通り過ぎていった。


 ひかげは、離れていく女性の背中を見つめる。


「……いえた」


「ああ。ちゃんと言えてたぞ」


「ヒカゲ、すごい!」


 フェンリスが嬉しそうに、ひかげの手を握る。


「次、ひとりで言える!」


「……それは、むり」


「僕、いっしょに言う」


「それなら……たぶん」


 ひかげの牛耳が、照れくさそうに動いた。


 散歩を続けていると、今度はゴミ出しに来ていた男性とすれ違った。


「おはようございます!」


 先ほどより自然に、フェンリスが挨拶する。


「……おはよう、ございます」


 ひかげも、和真に促される前に小さく頭を下げた。


 二人の挨拶に、男性も笑顔で応じる。


「おはよう。新しい子も増えて、にぎやかになったな」


 男性が離れたあと、フェンリスが声を弾ませた。


「カズマ! ヒカゲ、ひとりで言った!」


「ああ。俺も聞いてたよ」


「……まだ、こわい」


「怖くても言えたなら十分だ。無理に慣れようとしなくていいからな」


「……うん」


 短い散歩を終えた三人は、空色唐辛子荘へ戻った。


 敷地内は静まり返っている。


 アパートの工事は一旦中止しているため、作業員たちの姿も、機械の音もなかった。


 母屋の横には、解体された4棟分の廃材のうち、和真が再利用や分別処分のために残した物がまとめて置かれている。


 使えそうな木材の一部は、すでに鶏小屋へ再利用していた。


 それでも、古い板材や配管、金属部品、解体時に外された銅線などが残っており、分別した状態で大きなシートの下に保管されている。


「カズマ。これ、まだある」


 フェンリスが、廃材を覆うシートを指さす。


「ああ。使える物と処分する物を、もう少し分けないとな」


「また、小屋つくる?」


「使えそうな木材は取っておくつもりだ。ただ、全部は使えないな」


「僕、運ぶよ」


「その時は頼む。でも、釘が残ってる物もあるから、勝手に触ったら駄目だぞ」


「分かった」


 フェンリスが元気よく答える。


 ひかげは廃材の山を見上げたあと、シートの隙間から見えている太い木材へ目を向けた。


「わたしも……運べる」


「ひかげは力がありそうだもんな」


「……かなり、ある」


「それでも、一人では触らないこと。怪我をしたら困るからな」


「……分かった」


 二人が素直に返事をしたのを確認し、和真は母屋へ戻った。


 その日の夜も、三人は母屋で夕食を食べた。


 食後には短い日本語の勉強を行い、困った時に使う言葉や、JINEで和真へ連絡する方法を改めて確認した。


「分からない時は、『分かりません』。危ない時や困った時は、『助けてください』だ」


「たすけて、ください」


 フェンリスが繰り返す。


「……たすけて、ください」


 ひかげも、小さな声で続けた。


「知らない人に声をかけられて、怖いと思ったら、無理に話そうとしなくていい。すぐにその場を離れて、俺へ連絡すること」


 和真は、二人の前に置かれたスマートフォンを指さした。


 二人はすでに基本的な操作を教わっており、連絡用のJINEも使い始めている。


 まだ日本語で長い文章を入力することは難しい。そのため、和真へ助けを求める文章を、すぐに送信できるよう登録してあった。


「ここを押せば、『助けてください』って俺に届く」


「これ?」


 フェンリスが画面へ触れる。


 直後、和真のスマートフォンから通知音が鳴った。


『たすけてください』


「うん。ちゃんと届いた」


「かんたん!」


「ひかげも一人でできるか?」


「……できる」


 ひかげも、自分のスマートフォンを操作する。


 少し時間はかかったものの、和真のJINEへ同じ文章が届いた。


「ちゃんとできてる。外へ出る時は、必ずスマホを持っていくんだぞ」


「はい」


「分かった!」


 勉強が終わる頃には、時計の針が午後十時を過ぎていた。


「今日はここまでにしよう。二人とも、自分の部屋へ戻ったら、ゆっくり休むんだぞ」


「僕、まだ勉強できる」


「明日もある。無理に詰め込むと、かえって覚えられなくなるぞ」


「じゃあ、明日は?」


「買い物で使う言葉を教えるよ」


「買い物!」


 フェンリスの狼耳が勢いよく立ち上がる。


「まずは勉強だけな。いきなり一人では行かせないぞ」


「むう……」


「ひかげも、よく頑張ったな」


「……まだ、話すの、こわい」


「怖くても、今日は近所の人に挨拶できただろ。焦らなくていい」


「……はい」


 ひかげは、ノートとスマートフォンを大切そうに抱えて立ち上がった。


「フェンリス……おやすみ、なさい」


「おやすみ、ヒカゲ!」


「和真も……おやすみ、なさい」


「ああ。おやすみ」


 三人で母屋を出たあと、フェンリスとひかげは、それぞれ自分の部屋へ戻っていった。


 和真は二人が部屋へ入ったことを確認してから、母屋へ引き返した。


 しばらくして、空色唐辛子荘の敷地は静けさに包まれた。


 フェンリスは、自室の浴室でシャワーを浴びていた。


 和真は母屋の居間で、今日使った教材を片づけている。


 一方、自分の部屋へ戻ったひかげは、すぐには眠らず、机の上にノートを広げていた。


 今日覚えた言葉を、指で一つずつなぞっていく。


「分かりません……助けて、ください……」


 声に出して確認していると、外から微かな音が聞こえた。


 何か硬い物同士がぶつかったような、短い金属音だった。


 ひかげの牛耳がぴくりと動く。


 顔を上げ、音がした方角へ耳を向けた。


 しばらく待ってみたが、それ以上の音は聞こえない。


「……風?」


 ひかげは窓へ近づき、カーテンの隙間から外をのぞいた。


 ひかげの部屋の窓からは、母屋の横にある廃材置き場の一部が見える。


 周囲は暗く、庭に設置された照明だけが、地面を淡く照らしていた。


 最初は人の姿を見つけられなかった。


 しかし、暗闇へ目を凝らしていると、廃材を覆うシートのそばで何かが動いた。


 一人ではない。


 複数の人影が、小さな懐中電灯で廃材の山を照らしている。


 やがて、何かを引きずる音と、男たちの声が聞こえてきた。


「こっちだ。銅線がまだ残ってる」


「木材はいらねえぞ。金になる物だけ持っていけ」


「声がでかい。さっさと積め」


 知らない男たちだった。


 こんな時間に廃材を片づける者が来るとは、和真から聞いていない。


 男たちは、廃材の中から銅線や金属部品を引き抜き、持ってきた袋へ入れていた。


「……どろぼう」


 ひかげは、すぐにスマートフォンを手に取った。


 教わったばかりの操作を思い出し、JINEを開く。


 登録されている『たすけてください』という文章を選び、送信ボタンへ指を伸ばした。


 しかし、緊張で指が震え、うまく押せない。


「……おして」


 自分へ言い聞かせるように呟き、もう一度画面へ指を当てる。


『たすけてください』


 今度は、確かに送信された。


 これで和真が気づいてくれる。


 部屋の中で待っていればいい。


 そう考えた時、外から大きな音が聞こえた。


 男の一人が無理に銅線を引き抜いたことで、積まれていた金属部品が崩れたのだ。


「馬鹿! 静かにしろ!」


「うるせえ。早く拾え!」


 男たちが慌てて部品を拾い始める。


 このままでは、和真が来る前に廃材を持って逃げてしまうかもしれない。


 それは、和真が大切に残している物だった。


 ひかげは窓の前で迷い続けた。


 怖い。


 知らない男たちの前になど、出たくない。


 それでも、和真の物を見て見ぬふりはできなかった。


 ひかげはスマートフォンを握りしめ、自室を出た。


 外階段を下り、建物の前まで進む。


 廃材置き場へ近づくことはせず、アパートの前から男たちへ声をかけた。


「それ……持っていったら、だめです」


 声は小さく、男たちには届かなかった。


 ひかげは震える息を整え、もう一度だけ声を出す。


「持っていったら、だめ!」


 今度は男たちの動きが止まった。


 三人が一斉に振り返り、懐中電灯の光をひかげへ向ける。


「誰だ!」


「……っ」


 突然向けられた光に、ひかげの身体が硬直した。


 逃げなければならない。


 部屋へ戻らなければならない。


 頭では分かっているのに、足が動かなかった。


「なんだ、女か?」


「こんな時間に何してんだ?」


 男たちが廃材置き場から離れ、ひかげへ近づいてくる。


 ひかげは後ろへ下がったが、すぐにアパートの外壁へ背中がぶつかった。


「こ、来ないで……ください」


「外国人か?」


「ここの住人じゃねえの?」


「だったら、ちょうどいい。こいつに黙っててもらえばいいだろ」


 一人の男が、ひかげの逃げ道を塞ぐように立つ。


 別の男が、ひかげの頭にある角へ懐中電灯を向けた。


「何だ、この格好」


「牛のコスプレか?」


 長い髪の間からのぞく牛耳が、怯えたように動く。


 男の視線が、ひかげの後ろで揺れる尻尾へ向けられた。


「すげえな。耳も尻尾も動いてるぞ」


「本物みたいじゃねえか」


 一人が面白がるようにスマートフォンを取り出し、ひかげへレンズを向けた。


「撮っとけよ。こんなの、そうそう見られねえぞ」


「やめて……ください」


「日本語、話せるじゃん」


「その耳、どうなってんだ? もう一回動かしてみろよ」


「やめて……」


 ひかげは両手で角を隠し、その場へしゃがみ込んだ。


 それでも男は撮影をやめず、ひかげを囲むように近づいてくる。


 ひかげは胸元へ抱えたスマートフォンを、強く握りしめた。


 その画面には、少し前に送信したJINEの文章が残っている。


『たすけてください』


 同じ頃、母屋の居間では、和真のスマートフォンから緊急用の通知音が鳴り響いていた。


 緊急用の通知音を聞いた和真は、すぐにスマートフォンを手に取った。


 画面に表示されていたのは、ひかげから届いた短い文章だった。


『たすけてください』


「ひかげ……?」


 つい先ほど、練習で送られてきたものとは違う。


 同じ文章でも、今度は緊急用に設定した通知音が鳴っている。ひかげが自分で助けを求める文章を選び、送信したということだった。


 和真は母屋の窓から、ひかげが暮らすアパートへ目を向けた。


 部屋には明かりがついている。


 しかし、その手前にある廃材置き場で、複数の懐中電灯が動いていた。


「まさか……!」


 和真はスマートフォンを握ったまま、母屋を飛び出した。


 一方、男たちはしゃがみ込んだひかげを取り囲んでいた。


「顔も撮らせろよ」


 スマートフォンを構えた男が、ひかげの前へ回り込もうとする。


 ひかげは長い前髪の奥へ顔を隠し、さらに身体を縮めた。


「やめて……ください」


「何言ってるか聞こえねえよ」


「その前髪、邪魔だな」


 別の男が、ひかげの髪へ手を伸ばす。


「触らないで!」


 ひかげは頭を庇いながら、男の手から逃れた。


「急に大声を出すなよ」


「部屋へ、戻ります……」


 ひかげは震える足に力を入れ、どうにか立ち上がった。


 男たちの間を抜け、自分の部屋へ戻ろうとする。


 しかし、一人の男が進路を塞いだ。


「待てよ。俺たちを見ただろ」


「誰にも……言いません」


「もう連絡したんじゃねえの?」


 男の視線が、ひかげの胸元にあるスマートフォンへ向けられる。


「ちょっと見せろ」


「いや……」


「いいから渡せって」


 男が、ひかげの腕をつかんだ。


 ひかげはスマートフォンを守るように、胸元へ抱きしめる。


「離して……ください」


「大人しく渡せば、何もしねえよ」


「いや……!」


 男が力任せにひかげの腕を引く。


 それでも、ひかげの身体はほとんど動かなかった。


「あ?」


 男がさらに力を込める。


 ひかげ本人は抵抗しているつもりすらなかった。ただ恐怖から、手にしたスマートフォンを離さないようにしているだけだった。


「何だ、こいつ……!」


「女一人に何やってんだよ」


「うるせえ! お前も手伝え!」


 もう一人の男が加わり、二人がかりでひかげの腕を引く。


 腕に痛みを感じたひかげが、反射的に振り払った。


「触らないで!」


「うわっ!」


 二人の男がまとめて弾き飛ばされた。


 一人は地面へ尻餅をつき、もう一人は廃材置き場の手前まで転がる。


 ひかげは、自分が何をしたのか理解できずに固まった。


「……え?」


「この女……!」


 尻餅をついた男が、顔を怒りに染めて立ち上がる。


「調子に乗りやがって!」


 男が拳を振り上げ、ひかげへ近づいた。


「ひかげから離れろ!」


 鋭い声が、敷地内へ響いた。


 男が振り返る。


 母屋から駆けてきた和真が、ひかげと男たちの間へ割って入った。


「和真……」


 ひかげの牛耳が、力なく伏せられる。


 和真は男の振り上げた腕をつかみ、ひかげから引き離した。


「何をしてる」


「離せ!」


「先に答えろ。人の敷地で何をしてるんだ」


「うるせえ!」


 男が腕を振りほどこうとする。


 和真は必要以上に力を込めず、その動きを抑えた。


 異世界で戦ってきた和真にとって、この程度の抵抗を止めることは難しくない。


 それでも、この世界の人間を傷つけないよう、細心の注意を払う必要があった。


「ひかげ。怪我は?」


「腕……つかまれた。でも、だいじょうぶ」


「俺の後ろへ」


「……うん」


 ひかげが和真の背後へ移動する。


 男の手を離した和真は、三人の動きを警戒しながら廃材置き場へ目を向けた。


 足元には、大きな袋がいくつも置かれている。


 袋の口からは、廃材置き場に保管していた銅線や金属部品がはみ出していた。


「それを置いて、敷地から出ろ」


「ゴミを拾ってやっただけだろ」


「廃材でも、俺が所有している物だ。勝手に持ち出せば窃盗になる」


「細かいこと言ってんじゃねえよ」


「それから、撮影をやめろ」


 スマートフォンを構えていた男が、面白がるように笑う。


「別にいいだろ。減るもんじゃねえし」


「本人が嫌がってる」


「こんな格好で外に出てる方が悪いんじゃねえの?」


「ここは俺の敷地だ。勝手に入ってきたのはお前たちだろ」


 和真が一歩前へ出る。


 ただ歩いただけにもかかわらず、男たちは無意識に後ずさった。


「今撮った映像も消してもらう」


「は? 何でお前に言われなきゃならねえんだよ」


「ひかげを囲んで、腕までつかんでいた証拠だからだ」


 その言葉を聞いた男の顔色が変わる。


「おい。こいつ、もう誰か呼んだんじゃねえか?」


「だったら、今のうちにスマホを壊せ」


 男たちの視線が、ひかげの持っているスマートフォンへ向けられた。


 ひかげは怯えながら、和真の背中へ身を寄せる。


「和真……ごめんなさい」


「ひかげは悪くない。スマホを持ったまま、俺の後ろにいて」


「……うん」


 一人の男が、ひかげへ向かって踏み出した。


 和真が進路を塞ぐ。


「それ以上、近づくな」


「邪魔だ!」


 男が和真へつかみかかろうとする。


 その時、アパートの一室から扉の開く音がした。


「ヒカゲ!」


 濡れた銀髪を揺らしながら、フェンリスが部屋から飛び出してくる。


 シャワーを浴びていたフェンリスは、最初の小さな物音には気づかなかった。


 しかし、浴室を出た直後、外からひかげの大きな声が聞こえた。


 急いで身体を拭き、用意していた服へ腕を通したものの、髪を乾かす時間まではなかった。


 フェンリスは外階段を駆け下りると、そのまま男たちへ向かって走り出した。


 水滴を散らしながら敷地を駆け抜ける姿は、普通の人間の目では追い切れないほど速い。


 男が驚いて振り返った時には、フェンリスはすでにひかげの前へ立っていた。


「ヒカゲ、だいじょうぶ!?」


「フェンリス……」


「どこ、痛い?」


「腕……でも、だいじょうぶ」


 ひかげの手首には、男につかまれた赤い跡が残っている。


 それを見た瞬間、フェンリスの狼耳が伏せられ、特大の尻尾が大きく逆立った。


「誰が、やった」


 片言の日本語ではあったが、低く押し殺した声からは、激しい怒りが伝わってきた。


「何だ、こいつもコスプレ女か?」


「こっちの耳も動いてるぞ」


 スマートフォンを持った男が、すぐにレンズをフェンリスへ向ける。


「おい、見ろよ。尻尾もすげえぞ」


「撮るな!」


 和真が止めるより早く、フェンリスの姿が消えた。


 次の瞬間には、撮影していた男の目の前へ立っている。


「なっ……」


 フェンリスが男へ手を伸ばす。


 その目には、明確な怒りが浮かんでいた。


 牙狼族であるフェンリスが力加減を誤れば、人間へ大怪我をさせてしまう。


「フェンリス!」


 和真は素早く間へ入り、フェンリスの手首をつかんだ。


 勢いを殺しきれず、和真の靴が地面を滑る。


 それでも、フェンリスの手が男へ届く寸前で止めることができた。


「離して、カズマ! こいつら、ヒカゲに何かした!」


「分かってる。でも、力を出しすぎるな」


「でも!」


「ひかげは無事だ。まずは、そばにいてやってくれ」


 フェンリスは荒い呼吸を繰り返しながら、男を睨みつける。


 やがて、和真の後ろで震えているひかげに気づき、逆立っていた尻尾を少しだけ下げた。


「……ヒカゲ」


 フェンリスが、ひかげへ駆け寄る。


「もう、だいじょうぶ。僕、いる」


 フェンリスは、ひかげの身体を抱きしめた。


 ひかげは驚いたように固まったが、すぐにフェンリスの服をつかむ。


「フェンリス……冷たい」


「いそいで、来たから」


「……髪、ぬれてる」


「ヒカゲが、だいじだから」


 ひかげの牛耳が、わずかに起き上がった。


 二人の様子を確認した和真は、再び男たちへ視線を向ける。


「盗った物を置いて、そこで大人しくしてもらう。警察にも来てもらうからな」


「警察だと?」


「不法侵入と窃盗だけじゃない。ひかげの腕をつかんだことも、撮影したことも説明してもらう」


「ふざけんな!」


 男の一人が、廃材置き場から鉄パイプを拾い上げた。


 それを見た別の男も、工具袋から大きなバールを取り出す。


 撮影していた男はスマートフォンを片手に持ったまま、足元にあった木の棒をつかんだ。


「三人でやれば、こいつ一人くらいどうにかなるだろ」


「女二人は逃がすなよ」


 その言葉を聞いたフェンリスが、再び立ち上がろうとする。


「フェンリスは、ひかげを頼む」


「でも、カズマ!」


「大丈夫だ。すぐ終わる」


 和真の落ち着いた声に、フェンリスの動きが止まった。


 以前、町で不良たちに絡まれた時も、和真はフェンリスを庇っている。


 その時の姿を思い出したのか、フェンリスはひかげを抱いたまま、渋々うなずいた。


「……分かった。でも、危なかったら僕も行く」


「ああ。その必要はないと思うけどな」


「余裕ぶってんじゃねえ!」


 鉄パイプを持った男が、和真へ襲いかかった。


 横薙ぎに振られた鉄パイプを、和真は半歩後ろへ下がるだけでかわす。


 勢い余って体勢を崩した男の手首をつかみ、そのまま地面へ押さえ込んだ。


「ぐあっ!」


 和真は鉄パイプを取り上げ、男たちの手が届かない場所へ放り投げる。


「てめえ!」


 続けて、バールを持った男が背後から振り下ろす。


 和真は振り返りながら身体をずらした。


 バールが地面を叩き、鈍い音が響く。


 その腕を取り、力の向きを変えると、男の身体が地面へ倒れた。


 もちろん、本気で投げたわけではない。


 怪我をさせないように加減し、動きを止めただけだった。


 それでも男は息を詰まらせ、すぐには起き上がれない。


「な、何なんだよ、お前……」


 最後に残った男が、木の棒を握ったまま後ずさる。


 もう片方の手には、撮影中のスマートフォンが握られていた。


「それを置け」


「近づくな!」


 男が木の棒を振り回す。


 和真はその動きを見切り、真正面から踏み込んだ。


 木の棒が振り下ろされる前に手首を押さえ、そのまま奪い取る。


「返せ!」


「暴れるな」


 和真は男の腕を背中へ回し、地面へ押さえ込んだ。


 手から離れたスマートフォンが、少し離れた地面へ落ちる。


 残る二人は倒れているだけで、拘束されてはいない。


 一人が身体を起こそうとしたため、和真は押さえている男から目を離さずに警告した。


「動くな。次に武器へ手を伸ばしたら、また止める」


「くそ……」


 男は痛む背中を押さえ、その場へ座り込んだ。


 もう一人も和真を警戒し、地面に倒れたまま動こうとしない。


「フェンリス。警察へ電話してくれ。番号は覚えてるか?」


「ひゃく、とお……ばん」


「そうだ。通話ボタンを押したら、俺へ渡してくれ」


「分かった!」


 フェンリスはひかげのそばを離れず、自分のスマートフォンを取り出した。


 画面を操作する指は、まだ怒りで僅かに震えている。


 それでも教わった通りに110と入力し、通話ボタンを押した。


 和真は男を押さえたまま、フェンリスからスマートフォンを受け取る。


『はい、警察です。事件ですか、事故ですか』


「事件です。自宅の敷地に男が三人侵入して、保管していた廃材を盗もうとしていました。住人の女性が囲まれ、腕をつかまれています」


『男たちは、今もその場にいますか?』


「はい。一人は俺が押さえています。残りの二人も近くにいます。武器は取り上げましたが、拘束はしていません」


『けが人はいますか?』


「住人の手首に赤い跡があります。男たちも抵抗した時に倒れましたが、意識はあります」


『危険ですので、これ以上刺激しないでください。可能であれば、女性の方を安全な場所へ移動させてください』


 和真は住所と敷地の入り口を伝え、通話を切った。


「十分ほどで来るそうだ。それまで、そこで大人しくしてろ」


「誰が従うかよ……」


 座り込んでいた男が立ち上がろうとする。


 和真が視線を向けると、男は悔しそうに顔を歪め、再び腰を下ろした。


「フェンリス。ひかげを部屋へ連れていけるか?」


「僕、ここにいる」


「警察が来たら話を聞かれる。ひかげを少し休ませてやってほしい」


 フェンリスが、ひかげへ顔を向ける。


「ヒカゲ、部屋、戻る?」


「……和真の近くが、いい」


 ひかげは和真から離れることが不安なのか、動こうとしなかった。


「分かった。無理に戻らなくていい。二人とも、俺の後ろにいてくれ」


「うん」


「……はい」


 フェンリスは濡れた髪のまま、ひかげへ寄り添った。


 ひかげの手首には、男につかまれた赤い跡が残っている。


「ヒカゲ、痛い?」


「……少し」


「僕、ゆるさない」


「フェンリス。もう何もしなくていい」


「でも……」


「和真が、助けてくれた」


 ひかげが、フェンリスの服を小さくつかむ。


「だから……だいじょうぶ」


「ほんとう?」


「……ほんとう」


 フェンリスは納得できない様子だったが、ひかげのそばから離れず、男たちを睨み続けた。


 数分後、座り込んでいた男の一人が、少しずつ廃材置き場の方へ移動し始めた。


 近くには、取り上げたバールが転がっている。


「そこから動くなと言っただろ」


 和真が声をかけると、男は動きを止めた。


「逃げるつもりなんかねえよ」


「だったら、その場にいろ」


「偉そうにしやがって……」


 男は悪態をつきながらも、元の場所へ座り直した。


 それからしばらくの間、敷地内には張り詰めた沈黙が続いた。


 騒ぎに気づいた近所の家々にも、少しずつ明かりがつき始める。


 窓から様子をうかがう人もいれば、門の近くまで出てくる人もいた。


「和真君、大丈夫なの?」


 朝の散歩で会った年配の女性が、門の外から心配そうに声をかける。


「大丈夫です! 危ないので、そこから近づかないでください!」


「警察は呼んだの?」


「はい。もう向かっています」


 女性は安堵したようにうなずいたが、フェンリスに支えられているひかげを見ると、心配そうに表情を曇らせた。


「ひかげちゃん、怪我をしたの?」


「腕をつかまれました。でも、大きな怪我はなさそうです」


「そう……。朝はあんなに頑張って挨拶してくれたのに、怖かったでしょう」


 ひかげは声を返せなかったものの、女性へ向かって小さく頭を下げた。


 通報から十分ほどが過ぎた頃、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。


 男たちの表情が変わる。


「本当に呼びやがった……」


 一人が立ち上がり、敷地の奥へ逃げようとする。


「止まれ!」


 和真は押さえていた男の腕を離し、逃げようとした男の進路を塞いだ。


 自由になった男も起き上がろうとしたが、フェンリスが鋭い視線を向ける。


「動かないで」


 片言の短い言葉だった。


 それでも、先ほどの速さを見ていた男は、フェンリスを恐れて動きを止めた。


 赤色灯の光が、住宅街の建物を断続的に照らし始める。


 やがて、二台のパトカーが空色唐辛子荘の門の前へ停まった。


 車の扉が開き、複数の警察官が降りてくる。


 警察官たちはすぐに敷地へ踏み込まず、門の外から中の様子を確認した。


「通報した四ノ宮和真さんはいますか!」


「俺です!」


 和真が、逃げようとした男の前に立ったまま答える。


「男は三人います! 武器は地面に置いてありますが、全員まだ拘束していません!」


「分かりました! そのまま無理に動かないでください!」


 警察官たちは互いに合図を送り、男たちの位置と、地面に落ちている鉄パイプやバールを確認する。


 それから慎重に門を通り、空色唐辛子荘の敷地へ入ってきた。


「そこの三人、動かないでください!」


 先頭の警察官が声を上げる。


 男たちは周囲を囲まれ、ようやく抵抗することを諦めた。


 警察官の一人が、地面に置かれている鉄パイプやバールを男たちから遠ざける。


 別の警察官たちは、一人ずつ男へ近づき、身体を確認していった。


「他に刃物や危険な物は持っていませんか?」


「持ってねえよ」


「両手を見える位置に出してください」


「俺たちは何もしてない! こいつに急に襲われたんだ!」


 男の一人が、和真を指さした。


「俺たちはゴミを拾ってただけだ! それなのに、こいつがいきなり投げやがった!」


「詳しい話は一人ずつ聞きます。まずは指示に従ってください」


 警察官たちは男の言葉だけを信じることなく、三人を互いに離れた場所へ移動させた。


 そのうちの一人が逃げようと足を動かしたが、すぐに警察官から肩を押さえられる。


「動かないでください」


「逃げねえよ!」


「では、その場へ座ってください」


 男たちは不満そうに悪態をつきながらも、警察官の指示に従った。


 和真はようやく緊張を解き、ひかげとフェンリスのもとへ戻った。


「二人とも、大丈夫か?」


「僕は、だいじょうぶ」


 フェンリスは答えたものの、濡れた髪からは今も水滴が落ちている。


「フェンリスは一度、部屋へ戻って髪を乾かした方がいい」


「いや。ヒカゲと、いっしょにいる」


「風邪を引くぞ」


「だいじょうぶ」


 フェンリスは譲らず、ひかげの手を握ったままだった。


「ひかげは?」


「……腕、少し痛い」


 和真が確認すると、ひかげの手首には男につかまれた跡が残っていた。


 赤くなっているものの、大きく腫れてはいない。


「念のため、写真を撮っておこう。警察にも見てもらった方がいい」


「……うん」


 和真が手首の跡を撮影していると、女性警察官が近づいてきた。


「通報された四ノ宮さんですね?」


「はい」


「こちらのお二人は?」


「空色唐辛子荘の住人です。腕をつかまれたのが獅子宮ひかげ。もう一人がフェンリス・ルセアートです」


「獅子宮さん、腕を見せてもらってもいいですか?」


 突然話しかけられたひかげが、和真の後ろへ隠れる。


 女性警察官は、ひかげの角や牛耳を一瞬見上げたものの、特に追及しなかった。


 近所の人々と同じく、精巧なコスプレだと思ったらしい。


「怖がらなくて大丈夫です。痛いところを確認するだけですから」


 ひかげには、まだ言葉のすべてを理解することができなかった。


 和真が能力を通して意味を伝えると、ひかげは迷いながら手首を差し出した。


「……ここ、痛いです」


「赤くなっていますね。他につかまれたり、殴られたりした場所はありますか?」


「角……引っぱられました」


「角を?」


 女性警察官が驚いたように、ひかげの頭へ目を向ける。


「これ、かなりしっかり固定されているんですね」


「特殊な作りなので、無理に引っ張ると本人が痛がるんです」


 和真が説明すると、女性警察官は納得したようにうなずいた。


「分かりました。頭に痛みが残るようなら、病院で診てもらってください。手首も、できれば早めに受診した方がいいと思います」


「そうします」


「救急車を呼ぶこともできますが、どうしますか?」


 和真は、ひかげへ顔を向けた。


「病院へ行くか?」


「……和真も、いっしょ?」


「もちろん」


「それなら……行く」


「分かった。今夜は遅いから、事情を聞いてもらったあと、痛みが強くなるようなら救急外来へ行こう」


「……うん」


 女性警察官は、ひかげが日本語に慣れていないことに気づいたらしい。


 言葉を選びながら、ゆっくりと質問を始めた。


「男の人たちが、ここの物を持っていくところを見ましたか?」


「……はい」


「それで、外へ出たんですか?」


「和真の物……持っていったら、だめだから」


「男の人に、何をされましたか?」


「囲まれて……写真、撮られた。腕、つかまれた」


「写真ではなく、動画かもしれません」


 和真が補足する。


「一人が、ずっとスマートフォンを向けていました」


「分かりました。そのスマートフォンは、どれですか?」


「あそこに落ちています」


 和真が指さす。


 廃材置き場の近くには、不審者が落としたスマートフォンが残されていた。


 画面はすでに消えている。


 警察官は素手で触れず、落ちている位置を写真に収めてから回収した。


 続いて、廃材置き場と男たちの袋も確認していく。


「四ノ宮さん。この袋は、あなたの物ですか?」


「袋は男たちが持ってきた物です。中に入っている銅線や金属部品は、母屋の横で保管していました」


「廃材で間違いありませんか?」


「はい。ただ、再利用する物と処分する物を分けて置いていました。勝手に持っていっていい物ではありません」


「分かりました。保管していた状態が分かる写真はありますか?」


「昼間に撮ったものが残っていると思います」


 和真は自分のスマートフォンを確認し、廃材置き場を撮影した写真を見せた。


 鶏小屋を作る際に、使える木材を確認するため撮影していたものだった。


 写真には、銅線や金属部品がシートの下へ置かれていたことも写っている。


「こちらの写真は、あとで確認させてください」


「分かりました」


 その間にも、他の警察官が男たちから一人ずつ事情を聞いていた。


「だから、捨ててあった物を持っていこうとしただけだって!」


「敷地の外へ捨ててあったんですか?」


「中だけど、ゴミだろ!」


「門を通って敷地内へ入ったということですね?」


「それは……」


「所有者へ持っていっていいか確認しましたか?」


「してねえよ。ゴミをもらうのに、いちいち聞くか?」


「敷地内に保管されていた物を無断で持ち出せば、廃材であっても窃盗に当たる可能性があります」


 男は言葉を詰まらせる。


 別の男は、和真から一方的に暴力を受けたと主張していた。


「俺はバールを持ってただけだ! あいつが勝手に投げたんだよ!」


「バールを持って、四ノ宮さんへ近づいたんですね?」


「殴るつもりなんかなかった!」


「地面には、鉄パイプと木の棒も落ちています。三人とも武器になる物を持っていたという話も出ています」


「それは、あいつが嘘をついてるんだ!」


 男たちの主張は、少しずつ食い違い始めていた。


 さらに、門の外にいた近所の住人も、警察官へ声をかける。


「途中からですけど、私も見ていました。男の人たちが棒みたいな物を持って、和真君を囲んでいたんです」


「その時、どなたが先に攻撃したか分かりますか?」


「最初に鉄パイプを振ったのは、あの男の人です。和真君は避けていました」


 ほかの住人も、窓から見えた範囲で状況を説明した。


 複数の証言が集まり、男たちの言い分は次第に通らなくなっていった。


 しばらくして、不審者のスマートフォンを確認していた警察官が、和真のもとへ近づいてきた。


「四ノ宮さん。撮影されていた映像を確認しました」


「ひかげが映っていましたか?」


「はい。獅子宮さんを囲んで撮影している場面と、腕をつかんでいる場面が残っています。その後の争いも一部記録されていました」


 映像には、男たちが鉄パイプやバールを持ち出す場面も映っていた。


 地面へ落ちたあとも撮影が続いており、音声だけではあるが、男たちが和真へ襲いかかったことも確認できるという。


「それなら、和真が悪くないって分かる?」


 フェンリスが不安そうに尋ねる。


 警察官は、片言の言葉を理解し、ゆっくりとうなずいた。


「これから詳しく確認します。ただ、四ノ宮さんが一方的に襲ったわけではないことは分かります」


「よかった……」


 フェンリスの狼耳が安心したように起き上がる。


 しかし、警察官の表情は晴れなかった。


「もう一つ、確認したいことがあります」


「何でしょうか」


「撮影した男は、途中までの動画をSNSへ投稿していたようです」


「投稿……?」


 和真の表情が険しくなる。


「獅子宮さんを撮影し始めてから、四ノ宮さんが現れる少し前までの短い動画です。すでに複数の反応がついています」


「消せますか?」


「本人のアカウントですので、投稿自体は削除させることができます。ただ、すでに保存や転載をされている可能性までは否定できません」


 和真は、ひかげへ視線を向けた。


 ひかげは話のすべてを理解できていないのか、不安そうに首を傾げている。


「何……?」


「さっき撮られた映像が、ほかの人にも見られてるらしい」


「……たくさん?」


「まだ分からない。元の動画は消してもらうから」


 ひかげの牛耳が、力なく伏せられた。


「わたしの……角も?」


「映ってる。でも、みんなはコスプレだと思うはずだ」


「ほんとう?」


「ああ。近所の人たちも、そう思ってるだろ?」


 和真が安心させようとすると、警察官も言葉を添えた。


「動画を確認しましたが、とても精巧な衣装に見えました。撮影されたこと自体は問題なので、削除するよう話します」


 警察官も、ひかげの角や耳が本物だとは考えていない。


 ただし、動画に映っていたのはひかげだけではなかった。


「その後の映像には、こちらの方も映っています」


 警察官の視線が、フェンリスへ向けられる。


「僕?」


「アパートから、かなりの速さで走ってくる場面です」


 フェンリスがひかげのもとへ駆けつけた姿も、男のスマートフォンに記録されていた。


 人間離れした速さに加え、濡れた狼耳や大きく逆立った尻尾まで鮮明に映っている。


「映像だけを見ると、何か特別な撮影をしていたようにも見えますが……」


「二人とも、身体を動かすのが得意なんです。耳や尻尾も、動くように作られた物で」


「そうなんですね。よくできていますね」


 警察官はそれ以上疑うことなく、納得したようにうなずいた。


 現代日本で、本物の獣人が暮らしているなどと考える者はいない。


 どれほど精巧に動いていても、特殊な仕掛けや映像加工だと思われるのが普通だった。


 それでも、動画が多くの人の目に触れることは避けたかった。


 男たちは警察署へ連れていかれ、さらに詳しい事情を聞かれることになった。


 廃材の入った袋や、鉄パイプ、バール、撮影に使われたスマートフォンも、確認のため警察が持っていく。


 パトカーが敷地を出た頃には、日付が変わっていた。


 門の外に残っていた近所の人々も、和真たちの無事を確認すると、それぞれの家へ戻っていった。


「ひかげちゃん、怖かったわね」


 朝の散歩で会った女性が、帰る前にひかげへ声をかける。


「でも、あなたは何も悪くないのよ。今夜はゆっくり休みなさい」


 ひかげはすぐに返事をすることができなかった。


 それでも、震える声で覚えた言葉を返す。


「……ありがとう、ございます」


「ええ。おやすみなさい」


「……おやすみ、なさい」


 女性が帰ったあと、和真はフェンリスとひかげを連れて母屋へ入った。


 ひかげを一人で自室へ戻すことはできない。


 フェンリスも離れようとしなかったため、今夜だけは三人で母屋の居間にいることにした。


 和真は救急箱を持ってくると、ひかげの手首を冷やした。


「痛みは強くなってないか?」


「……だいじょうぶ」


「角は?」


「少し痛い。でも……だいじょうぶ」


「明日、病院で診てもらおう」


「和真も、来る?」


「ああ。一緒に行くよ」


 ひかげは安心したように、小さくうなずいた。


 フェンリスは隣へ座り、冷たいタオルを押さえているひかげの手を握る。


「ヒカゲ。次は、すぐ呼んで」


「……呼んだ」


「JINEだけじゃない。僕も、呼んで」


「フェンリス……お風呂だった」


「それでも呼んで。僕、すぐ行く」


「……うん」


「ひとりで、外に出たらだめ」


「でも……和真の物、盗られると思った」


「物より、ヒカゲがだいじ」


 フェンリスが、覚えたばかりの日本語を一つずつ選びながら続ける。


「木も、鉄も、また手に入る。でも、ヒカゲは……ひとりだけ」


 ひかげの牛耳が、僅かに動いた。


「……フェンリスも、ひとりだけ」


「うん。カズマも、ひとりだけ」


「だから、勝手に危ないことをしない。三人とも約束だな」


 和真が言うと、フェンリスはすぐにうなずいた。


「約束!」


 ひかげも少し遅れて、静かにうなずく。


「……約束」


 その夜、フェンリスはひかげと一緒に母屋の空き部屋で休むことになった。


 和真は二人を部屋へ送り届けたあと、居間へ戻った。


 眠る前に、SNSへ投稿された動画のことを確認しておきたかった。


 警察から教えられた投稿者の名前を検索する。


 元の動画はすでに削除されていた。


 しかし、検索結果には同じ映像を保存し、転載した投稿がいくつか残っている。


『牛角コスプレの女の子、耳まで動いてる』


『これどういう仕組み?』


『尻尾の動きが自然すぎる』


『後から来た狼耳の子、速すぎない?』


『何かの撮影じゃないの?』


『編集でしょ』


 ほとんどの人は、特殊な衣装や映像加工だと思っていた。


 本物の獣人だと信じている者はいない。


 それでも、映像の中では、ひかげの牛耳が恐怖に合わせて細かく動いている。


 後半には、濡れた銀髪を揺らしながら、人間離れした速さで駆けてくるフェンリスの姿もあった。


「完全に消すのは難しいか……」


 和真は転載された動画を一つずつ通報した。


 できることなら、すべて消してしまいたい。


 だが、一度インターネットへ投稿された映像が、どこまで保存されているのかを確認する方法はなかった。


 翌朝。


 和真は居間のソファで、浅い眠りから目を覚ました。


 昨夜、動画の削除依頼を続けているうちに、そのまま眠ってしまったらしい。


 テーブルの上には、開いたままのノートパソコンが置かれている。


 時刻は、午前六時を少し過ぎたところだった。


 和真は身体を起こし、二人が休んでいる部屋へ目を向けた。


 扉が開いている。


「フェンリス?」


 部屋をのぞくと、布団の中ではフェンリスが眠っていた。


 しかし、その隣にいるはずのひかげの姿がない。


 和真はすぐに母屋の中を確認した。


 洗面所にも台所にもいない。


 玄関には、ひかげが履いていた靴がなかった。


「ひかげ……!」


 和真が外へ出ると、空色唐辛子荘の門へ向かって歩く人影が見えた。


 ひかげだった。


 手には、自分の部屋から持ってきた小さな鞄がある。


「ひかげ!」


 呼び止められたひかげの足が止まる。


 それでも、和真の方を振り返ろうとはしなかった。


「どこへ行くつもりなんだ?」


「……分からない」


「分からないって……」


「でも、ここから……出る」


 ひかげの牛耳が、力なく伏せられている。


 和真はひかげの前へ回り込み、その顔をのぞこうとした。


 長い前髪に隠れ、表情は見えない。


「どうして急に出ていくんだ?」


「わたしがいると……迷惑」


「迷惑なんかじゃない」


「昨日も……わたしが外に出たから、和真、襲われた。フェンリスも……撮られた」


「悪いのは、勝手に入ってきた男たちだ。ひかげじゃない」


「でも、動画……消えない」


 ひかげは、和真が居間で見ていた画面を確認していたらしい。


「わたしの角と、耳と、尻尾……みんなに見られた。フェンリスも、見られた」


「ほとんどの人はコスプレだと思ってる。本物だとは考えてないよ」


「いつか……本物って分かるかもしれない」


「だから出ていくのか?」


「わたしがいなければ……もう、迷惑かけない」


 ひかげが、門へ向かって再び歩き出そうとする。


 和真は、その前から動かなかった。


「どいて……ください」


「どかない」


「和真……」


「ひかげは、どこへ行くつもりなんだ。この世界のことも、まだほとんど知らないだろ」


「……どこか」


「一人で生きていける場所があるかも分からないのに、送り出せるわけがない」


「でも……」


「前にも言っただろ。ここにいていいって」


 ひかげの牛耳が、僅かに動く。


「部屋を貸したのも、日本語を教えてるのも、数日で追い出すためじゃない」


「……迷惑じゃない?」


「迷惑じゃない。昨日だって、ひかげは俺の物を守ろうとしてくれたんだろ?」


「でも……勝手に外へ出た」


「それは危なかった。今度からは、俺たちが来るまで待っていてほしい。でも、それと出ていくことは別の話だ」


 和真は、ひかげが持っている鞄へ目を向けた。


「帰ろう。ここが、ひかげの帰る場所だ」


「……帰る、場所」


「ああ。空色唐辛子荘の住人なんだから」


 ひかげは黙り込んだ。


 その時、母屋の方から慌ただしい足音が聞こえてきた。


「ヒカゲ!」


 目を覚ましたフェンリスが、靴を履いて駆けてくる。


 寝起きのため銀髪は乱れ、狼耳も落ち着きなく動いていた。


「どうして、いなくなるの!」


「フェンリス……」


「僕、起きたら、ヒカゲいなかった!」


「……ごめん」


「ごめんじゃない!」


 フェンリスはひかげの前まで来ると、その身体へ抱きついた。


「勝手にいなくなるの、だめ!」


「でも、わたしがいると……」


「ヒカゲは、空色唐辛子荘の住人!」


 片言ながら、フェンリスははっきりと言い切った。


「それから、僕の友達!」


「……友達?」


「うん。だから、いなくなると、僕かなしい」


 ひかげの牛耳が、ゆっくりと起き上がる。


「わたしも……フェンリスの、友達?」


「そうだよ!」


「和真は……?」


「俺も、ひかげを大切な住人だと思ってるよ」


「……友達じゃない?」


「もちろん、友達でもある」


 その返事を聞いたひかげの尻尾が、僅かに揺れた。


 フェンリスは、ひかげが持っていた鞄を奪うように受け取る。


「帰るよ」


「……どこに?」


「空色唐辛子荘!」


 フェンリスがひかげの手を引く。


 ひかげは一度だけ門の外へ顔を向けたあと、静かにうなずいた。


「……うん。帰る」


 三人は、並んで敷地の奥へ戻った。


 朝食のあと、和真は昨夜の出来事を踏まえ、防犯対策を見直すことにした。


 廃材置き場の金属類は、外から簡単に持ち出せない場所へ移す。


 門や敷地内には防犯カメラと人感照明を追加し、フェンリスとひかげの部屋にも、和真へすぐ連絡できる機器を置く。


 そして、どんなに小さな異変でも、一人では確認しに行かない。


 三人でもう一度、そう約束した。


 しかし、和真たちが対策を話し合っている頃。


 昨夜の動画は、すでに彼らの知らない場所まで届いていた。


 町から少し離れた建物の屋上。


 一人の若い女が、スマートフォンの画面を眺めていた。


 映っているのは、怯えながら角を隠すひかげと、驚くほどの速さで駆けつけるフェンリス。


 女は動画を何度も止め、二人の耳と尻尾の動きを確かめる。


「……あの尻尾、本物かもしれない」


 夜風が吹き、女の髪を揺らす。


 その頭には、猫の耳らしき影があった。


 さらに背後では、二本の長い尻尾が、別々の意思を持つように静かに揺れている。


 女は動画を閉じると、空色唐辛子荘がある方角へ顔を向けた。


「ちょっとだけ、確かめてみようかな」


 小さく呟いたあと、女は屋上の縁へ足をかける。


 そして、猫のように軽やかな動きで暗闇へ飛び降り、その姿を消した。

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