第五話 獅子宮ひかげ
空色唐辛子荘に新たな住人が加わった翌朝。
母屋の玄関から、控えめな呼び鈴の音が聞こえた。
台所で朝食を作っていた四ノ宮和真は火を弱め、玄関へ向かう。
扉を開けると、獅子宮ひかげが立っていた。
「……おはようございます」
「おはよう、ひかげ。よく眠れたか?」
「はい。お布団が……柔らかくて、驚きました」
ひかげは昨日と同じく、転移してきたときの服を着ていた。
黒を基調とした衣服は暗い髪や二本の牛角に合っているものの、この世界で暮らしていくには着替えが足りない。
長い前髪の奥から、ひかげが母屋の中を窺う。
「入ってくれ。朝飯はもうすぐできる」
「……お邪魔します」
「ここで暮らすんだから、そんなに畏まらなくてもいいぞ」
「でも……ここは、和真さんのお家なので……」
ひかげは小さく頭を下げてから、恐る恐る玄関へ足を踏み入れた。
牛の尻尾も身体に沿わせるように下がっている。
昨夜は204号室で休ませたが、室内には母屋から運んだ布団しか置かれていない。照明やエアコンなど、改修で取り付けた設備は使えるものの、生活に必要な家具や日用品はほとんどなかった。
「フェンリスは、まだ寝ているんですか?」
「たぶんな。昨日、朝飯の時間は伝えておいたんだけど……」
二人が台所へ入った直後、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「起きてる! 僕もちゃんと起きてるから!」
寝癖のついた銀髪を揺らしながら、フェンリスが駆け込んでくる。
大きな狼耳は左右で違う方向を向き、特大の尻尾にもまだ寝癖が残っていた。
ひかげは驚き、和真の背後へ半歩隠れる。
「……おはようございます」
「おはよう、ひかげ。ごめん、驚かせた?」
「少しだけ……」
「朝から走るなよ。まず顔を洗ってこい」
「今から行くところだったんだよ」
「台所まで来てから言っても説得力がないぞ」
「分かったよ。すぐ戻るから、先に食べないでね」
フェンリスは欠伸を噛み殺しながら、洗面所へ向かっていった。
その後ろ姿を眺めていたひかげの牛耳が、ほんの少し持ち上がる。
「……フェンリスは、朝が苦手なんですか?」
「どちらかというと、夜更かしが原因だな」
「カズマ、聞こえてるからね!」
洗面所から声が飛んでくる。
和真は苦笑し、ひかげを食卓へ案内した。
「座って待っていてくれ。あとは盛りつけるだけだから」
「……何か、お手伝いします」
「昨日来たばかりなんだ。ゆっくりしていていいぞ」
「何もしない方が……落ち着かなくて……」
ひかげは両手を胸元で重ね、その場を動こうとしなかった。
断っても、かえって気を遣わせてしまいそうだ。
「それなら、皿を三枚出してもらえるか?」
「……はい」
ひかげの牛耳が僅かに動く。
和真に教えられた食器棚を開き、慎重に皿を取り出した。
一枚ずつ運んでいる間に、顔を洗ったフェンリスが戻ってくる。
「ひかげ、僕も手伝おうか?」
「大丈夫です。あと一枚なので……」
「そっか。じゃあ、僕は箸を並べるね」
「……お願いします」
二人はまだ出会ったばかりだ。
ひかげはフェンリスに対しても緊張しており、必要以上に近づこうとはしない。
それでも、同じ食卓の準備をする程度なら受け入れられるらしい。
三人で朝食を済ませると、和真は食卓の上に一枚のメモを置いた。
「今日は、ひかげの生活に必要なものを買いに行こうと思っている」
「……私の、ですか?」
「ああ。まずは着替えだな。それから、204号室で使う家具や日用品も必要だ」
「昨日のお布団だけで……大丈夫です」
「一晩ならな。これから暮らすなら、そういうわけにはいかないだろ」
「でも……私、お金を持っていません」
「それは気にしなくていい。必要なものは俺が用意する」
「そんなにしてもらうのは……」
ひかげは困ったように俯いた。
和真はすぐに言葉を重ねず、少し考えてから告げる。
「全部を一度に揃える必要はない。今日は実際に見て、ひかげが必要だと思ったものだけ選べばいい」
「私が……選ぶんですか?」
「ひかげの部屋で、ひかげが使うものだからな」
「何を選べばいいのか……分からないかもしれません」
「そのときは僕も一緒に考えるよ」
フェンリスが明るく声をかける。
「僕もこっちの服や家具には、まだ詳しくないけどさ。ひかげが好きか嫌いかくらいなら、一緒に考えられるから」
「……好きか、嫌いか」
「それだけでも十分だよ。無理に決めなくてもいいしね」
ひかげはしばらく考えたあと、小さく頷いた。
「……分かりました」
「それじゃあ、食器を片づけたら出発しよう」
和真が立ち上がると、ひかげの牛耳が伏せられた。
「外に……行くんですよね?」
「ああ。店へ行かないと、実物を見られないからな」
「人は……多いですか?」
「時間帯や店によるけど、それなりにはいると思う」
「……そうですか」
ひかげの指が、服の裾を強く握り締める。
人と会うことを苦手としている彼女にとって、見知らぬ者が大勢いる場所へ出かけるのは簡単なことではない。
「無理なら、今日は行かなくてもいいぞ」
和真が伝えると、ひかげは迷うように黙り込んだ。
「カズマだけに買ってきてもらうこともできるよ」
フェンリスも急かさずに続ける。
「でも、ひかげが自分で見たいなら、僕たちも一緒に行く。途中で疲れたら、すぐに休もう」
「……怖いです」
ひかげは正直に答えた。
「知らない人が、たくさんいる場所は……苦手なので……」
「だったら、無理をしなくても——」
「でも……行ってみます」
声は小さかったが、その言葉には彼女自身の意思があった。
「自分の部屋に置くものを……自分で見てみたいです」
「分かった。それなら、ひかげのペースで回ろう」
「途中で帰りたくなったら、遠慮しないで言ってね」
「……はい」
朝食の片づけを終え、三人は外出の準備を整えた。
ひかげは人目を避けるように、深めのフードがついた上着を羽織った。
二本の牛角までは隠れなかったが、前髪に加えてフードまで被ると、顔はほとんど見えない。
玄関を出る直前、ひかげの足が止まる。
「……やっぱり、変ではありませんか?」
「大丈夫だよ。僕も耳と尻尾を出したまま、何度か外へ行ってるから」
「見られたりは……」
「少しは見られるけど、みんな本物だとは思ってないみたい。僕の耳も、作り物だと思われてるよ」
「……作り物」
ひかげは自分の牛角へ触れる。
「触られたりはしませんか?」
「勝手に触られたことはないよ。もし誰かが近づいてきても、カズマがいるから大丈夫」
「無理に我慢する必要はないからな。嫌なことがあったら、すぐ俺に言ってくれ」
「……分かりました」
和真が玄関の扉を開ける。
ひかげは一度だけ深呼吸をしてから、二人に続いて母屋の外へ出た。
向かったのは、母屋の近くに停めてある一台の軽自動車だった。
和真は帰還後の十か月間、身元の確認や相続手続きと並行して教習所へ通い、普通自動車免許を取得していた。
この中古の軽自動車は、祖父の車を勝手に売却していた伯父と叔母が、その詫びと弁償を兼ねて用意したものだ。
ひかげは初めて見る車を前に、少し離れた場所で立ち止まった。
「……これは、何ですか?」
「車という乗り物だ。今日はこれで店まで行く」
「これに……入るんですか?」
「ああ。見た目より中は広いぞ」
和真が扉を開けると、ひかげはびくりと肩を震わせた。
それでも逃げることはなく、開いた扉の向こうを覗き込む。
「先に僕が乗るよ」
フェンリスが後部座席へ乗り込み、奥へ身体をずらした。
「ひかげは僕の隣。分からないことがあったら教えるから」
「……お願いします」
ひかげは慎重に座席へ腰を下ろした。
牛の尻尾を挟まないようにしてから、フェンリスの動きを真似て扉を閉める。
シートベルトの使い方だけは分からず、差し込み口を前に動きを止めた。
「それを引っ張って、こっちに差すんだよ」
「……こうですか?」
「うん。それで大丈夫」
金具が音を立てて固定される。
ひかげは身体にかかったベルトを不思議そうに触った。
「これは……動けないようにするためのものですか?」
「事故が起きたときに、身体を守るためのものだ」
「……事故」
「そんなに怖がらなくていいよ。カズマは安全に運転してくれるから」
「もちろん、そのつもりだ」
和真が運転席へ乗り、エンジンをかける。
小さな音とともに車内へ振動が伝わると、ひかげの牛耳が一気に伏せられた。
「動くぞ。気分が悪くなったら、すぐに言ってくれ」
「……はい」
軽自動車が、敷地内からゆっくりと道路へ出る。
ひかげは背中を座席へ押しつけ、両手でシートベルトを握っていた。
「大丈夫?」
隣のフェンリスが尋ねる。
「少し……怖いです」
「僕も最初は驚いたよ。でも、慣れるとすごく便利なんだ」
「フェンリスも……初めは怖かったんですか?」
「うん。だから、無理に平気なふりをしなくても大丈夫だよ」
「……はい」
速度が安定すると、ひかげの身体から僅かに力が抜ける。
やがて、窓の外を流れていく景色へ顔を向け始めた。
舗装された道路。
色の変わる信号機。
道路脇に並ぶ店。
自転車に乗る学生や、犬を連れて歩く人。
そのどれもが、ひかげにとって初めて見るものだった。
「……たくさん、建物があります」
「ああ。この辺りは住宅や店が多いからな」
「道も……とても平らです」
「この世界の道は、ほとんどがこんな感じだよ。土の道より揺れないんだ」
フェンリスも、まだ知らないものは多い。
それでも、自分が教えてもらった範囲で、ひかげの疑問に答えようとしていた。
ひかげは何度か窓の外へ目を向け、気になったものがあれば小さな声で和真へ尋ねた。
初めは恐怖しかなかった車にも、少しずつ慣れてきたらしい。
しばらくして、三人を乗せた軽自動車は大型商業施設の駐車場へ到着した。
和真は、なるべく入口に近い場所へ車を停める。
休日ということもあり、駐車場には多くの車が並んでいた。店の入口へ向かう人の姿も多い。
ひかげは窓の外を見たまま、動かなくなった。
「……人が、たくさんいます」
「思ったより多いな」
和真はすぐに扉を開けず、後部座席のひかげを振り返った。
「別の店へ行ってもいい。ここまで来たけど、帰っても構わないぞ」
「……迷惑では、ありませんか?」
「ひかげが無理をして具合を悪くする方が困る。だから、遠慮しないで決めてくれ」
ひかげは、入口へ向かう人々を見つめ続けた。
すぐには答えが出ない。
フェンリスも隣で黙り、ひかげ自身が決めるのを待った。
「……行きます」
やがて、ひかげが小さく答える。
「怖いですけど……服を、見てみたいです」
「分かった。まずは服だけにしよう」
「人が多くて無理そうなら、すぐ車に戻ろうね」
「……はい」
三人は車を降り、商業施設の入口へ向かった。
ひかげは和真とフェンリスの間を歩き、擦れ違う人が近づくたびに身体を強張らせる。
ときおり牛角へ視線を向ける者はいたが、声をかけてくる者はいなかった。
それでも、ひかげは俯いたまま、二人から離れないようについてくる。
自動ドアの前まで来ると、扉が左右へ開いた。
「……っ」
ひかげが足を止める。
「大丈夫。近づくと自動で開くんだ」
「魔法では……ないんですか?」
「機械の仕組みだよ」
「……これも、機械なんですね」
「中に入れば閉まるから、立ち止まらない方がいいよ」
フェンリスに促され、ひかげは恐る恐る自動ドアをくぐった。
明るい照明。
店内に流れる音楽。
行き交う大勢の客。
色とりどりの商品。
ひかげは圧倒されたように足を止めかけたが、和真たちがそばにいることを確かめ、もう一歩だけ前へ進んだ。
最初に入ったのは、女性向けの衣料品店だった。
棚やハンガーには、見たこともない形の服が数多く並んでいる。
「どんな服がいい?」
フェンリスが声を抑えて尋ねる。
「……分かりません」
「好きな色は?」
「黒……でしょうか。暗い色の方が……落ち着きます」
「だったら、黒い服から見てみよう」
フェンリスは近くにあった黒いロングスカートを手に取る。
ひかげはすぐに答えず、長い前髪の奥からじっと見つめていた。
「これは……動きやすそうです」
「じゃあ、候補にしようか。すぐに買うって決めなくてもいいよ」
「……はい」
三人は人の少ない場所を選びながら、店内をゆっくりと進んだ。
ひかげは黒や暗い紫の服には足を止めるものの、鮮やかな色の服にはあまり関心を示さない。
フェンリスも無理に勧めず、ひかげが見ているものだけを一緒に確かめた。
やがて、ひかげが一着のワンピースの前で立ち止まる。
黒を基調とし、胸元や袖に控えめなレースが施された、丈の長いワンピースだった。
「それが気になる?」
「……少しだけ」
「試着してみる?」
「ここで、服を脱ぐんですか……?」
「試着室っていう、着替えるための場所があるんだよ。外からは見えないから大丈夫」
ひかげは店の奥にある試着室へ顔を向けた。
店員が近くにいることに気づくと、すぐに和真の後ろへ隠れてしまう。
「無理に着なくてもいいぞ」
「……でも」
ひかげは黒いワンピースを見つめたまま、迷っていた。
「僕が一緒に行こうか?」
「……お願いします」
「分かった。カズマはここで待っていて」
「ああ。慌てなくていいからな」
フェンリスは店員から試着用の札を受け取り、ひかげと一緒に試着室へ向かった。
和真は少し離れた場所で待つことにする。
しばらくすると、閉じられたカーテンの向こうから、フェンリスの明るい声が聞こえてきた。
「すごく似合ってるよ」
「……本当ですか?」
「うん。ひかげの雰囲気にぴったりだと思う」
「でも……少し、恥ずかしいです」
「カズマにも見てもらう?」
「そ、それは……まだ……」
「分かった。無理に見せなくていいよ」
そのやり取りを聞き、和真は試着室の方を振り返らないようにした。
少しして、元の服へ着替えたひかげとフェンリスが戻ってくる。
ひかげは黒いワンピースを両手で抱えていた。
「どうだった?」
「……これが、欲しいです」
声は小さかった。
それでも、自分の希望を伝えようとしていることは、はっきりと分かった。
「ああ。じゃあ、それは買おう」
「……いいんですか?」
「ひかげが選んだんだろ?」
「はい……」
伏せていた牛耳が、ほんの少しだけ持ち上がる。
その後も三人は、人の少ない場所を選びながら、普段着や寝間着を数着ずつ揃えた。
下着については、ひかげが人前で選ぶことを恥ずかしがったため、今日は無理をせず、後からフェンリスと相談して探すことにした。
会計を済ませると、和真が紙袋を受け取る。
「俺が持つよ」
「……自分で持てます」
「重くないか?」
「大丈夫です。私が……選んだ服なので」
ひかげは紙袋を両手で受け取り、胸元へ大切そうに抱えた。
店へ入る前よりも、声がほんの少しだけ明るく聞こえる。
「このまま家具も見るか? それとも、一度休む?」
「少しだけ……休みたいです」
「分かった。人の少ない場所を探そう」
三人は衣料品店を出て、休憩できる場所を探し始めた。
広い通路には相変わらず大勢の人が行き交っている。
ひかげは何度も立ち止まりそうになりながら、それでも自分で選んだ服の入った紙袋を離さなかった。
その途中、家電量販店の前を通りかかる。
店頭の大きな画面から、賑やかな音楽と電子音が流れていた。
画面の中では、色鮮やかな人物が武器を手に、次々と魔物を倒している。
その前に置かれた機械を操作しながら、子供たちが楽しそうに声を上げていた。
ひかげの足が止まる。
今度は、人の多さに怯えたからではなかった。
長い前髪の向こうから、画面の中で動き回る人物をじっと見つめている。
「……あれは、何をしているんですか?」
ひかげの視線の先では、画面の中にいる人物が剣を振るい、大きな魔物と戦っていた。
しかし、その動きは映像として流れているだけではない。
画面の前に立つ子供が手元のボタンを押すたびに、人物が跳び、剣を振り、魔物の攻撃を避けている。
「あれはゲームだよ」
「げーむ……?」
「画面の中にいる人物を、自分で動かして遊ぶものだ」
「自分で……動かしているんですか?」
「ああ。手に持っているものが見えるだろ? あれを使って操作しているんだ」
ひかげは、子供が握っているコントローラーへ顔を向ける。
画面の人物が攻撃を受けると、子供が悔しそうな声を上げた。すぐに体勢を立て直し、今度は仲間と協力して魔物へ立ち向かっていく。
「……遠くから、操っているように見えます」
「魔法みたいだよね」
フェンリスも興味深そうに画面を眺めていた。
「僕も、こういうのを見るのは初めてかも」
「テレビで映像を見たことはあっても、ゲームはまだ見せてなかったからな」
「これも機械なの?」
「ああ。今、子供たちが遊んでいるのは家庭用のゲーム機だ」
「家庭用……」
ひかげは画面から目を離さない。
休みたいと言っていたことも、人の多さに怯えていたことも、一時的に忘れているようだった。
和真はそんな彼女の様子に気づき、近くにある試遊台へ目を向けた。
数台並んでいるうち、一台だけ空いている。
「ひかげもやってみるか?」
「……私が?」
「見るだけでもいいけど、実際に触った方が分かりやすいと思う」
ひかげは空いている試遊台を見たあと、周囲にいる人々へ顔を向けた。
「でも……失敗したら、見られます」
「誰も気にしないよ。みんな自分が遊んでいる画面を見ているから」
フェンリスがそう言ったものの、ひかげはすぐには動けなかった。
興味はある。
しかし、人前で初めてのものに触ることへの恐怖もあるらしい。
「嫌なら無理にやらなくてもいいぞ」
和真が伝えると、ひかげは再び試遊台を見つめた。
「……少しだけ、触ってみたいです」
「分かった。俺たちも一緒にいる」
三人は空いている試遊台へ向かった。
和真がコントローラーを持ち上げ、ひかげへ差し出す。
「これで画面の中の人物を動かすんだ」
「……どうやって持つんですか?」
「両手で持って、左側にある棒を親指で動かす。そうすれば、画面の人物が歩くはずだ」
ひかげは紙袋をフェンリスに預け、コントローラーを両手で受け取った。
壊してしまわないようにしているのか、指先にほとんど力が入っていない。
「そんなに慎重にならなくても大丈夫だよ」
「でも……壊したら……」
「普通に扱えば壊れない。まずは左の親指を動かしてみてくれ」
「……はい」
ひかげが恐る恐る操作すると、画面の人物が前へ歩き出した。
「……動きました」
「もう少し右へ倒すと、右に進むよ」
「右……」
画面の人物が右へ進み、近くに置かれていた箱へぶつかる。
ひかげは慌てて指を離した。
「ぶつけてしまいました……」
「ゲームの中だから大丈夫だよ」
「壊れたりは……」
「何度ぶつかっても壊れないから安心してくれ」
和真に教えられながら、ひかげは再び人物を動かし始めた。
初めは真っ直ぐ歩かせることにも苦戦していたが、何度か動かすうちに、少しずつ操作を理解していく。
「次は、このボタンを押してみて」
「……これですか?」
ひかげがボタンを押すと、画面の人物が勢いよく跳び上がった。
牛耳が驚いたように立ち上がる。
「跳びました……」
「もう一回押すと、また跳ぶよ」
ひかげは同じボタンを押した。
画面の人物が何度もその場で跳び上がる。
「……ふふ」
小さな笑い声が聞こえた。
和真とフェンリスが同時にひかげを見る。
本人も声が出ていたことに気づいたのか、牛耳が一気に伏せられた。
「……すみません」
「どうして謝るんだ?」
「変なことをして……」
「ゲームは楽しむためのものなんだから、笑っていいんだよ」
「そうだよ。僕にもやらせて」
フェンリスが興味を抑えきれない様子で画面を覗き込む。
ひかげはコントローラーを渡しかけたが、途中で画面へ顔を戻した。
「……もう少しだけ、いいですか?」
「もちろん。僕はあとでいいよ」
フェンリスは笑いながら一歩下がった。
ひかげは再び画面へ向き直る。
今度はボタンを一つずつ確かめながら、人物を歩かせたり、跳ばせたり、剣を振らせたりしていく。
敵が現れると慌てて後退し、何もない壁へぶつかった。
「……逃げられません」
「敵の攻撃に合わせて、そのボタンを押すと避けられる」
「こっち……」
和真に教えられたとおりにボタンを押す。
画面の人物が横へ転がり、敵の攻撃を避けた。
ひかげの牛耳が大きく持ち上がる。
「避けました」
「そのまま近づいて攻撃してみてくれ」
「……はい」
ひかげは慎重に人物を近づけ、剣を振らせた。
一度目は外れたものの、二度目の攻撃が敵に当たる。
最後の一撃で敵が光となって消えると、画面に勝利を知らせる表示が現れた。
「倒せたな」
「……私が、倒したんですか?」
「ああ。初めてにしては上手だったぞ」
「本当……ですか?」
ひかげの口元が、僅かに緩む。
その後も少しだけ遊び、体験できる範囲を終えると、ひかげは名残惜しそうにコントローラーを元の場所へ戻した。
「どうだった?」
「……不思議でした」
「楽しかった?」
フェンリスに尋ねられ、ひかげはすぐに答えられなかった。
否定するように俯いたものの、牛耳は先ほどから持ち上がったままだ。
「……少しだけ」
「少しだけには見えなかったけどな」
「カズマ、それは言わなくていいよ」
「……楽しかったです」
今度は、先ほどよりもはっきりと答えた。
ひかげがこの世界のものへ、自分から興味を示した。
それは和真にとっても嬉しい変化だった。
「こういうものが、家にも置けるんですか?」
「ああ。家庭用のゲーム機なら、テレビへつなげば遊べる」
「204号室でも……?」
「テレビと一緒に用意すればな」
ひかげは売り場に並ぶゲーム機へ顔を向けた。
しかし、値札を見つけると、すぐに視線を逸らしてしまう。
「……見るだけで、大丈夫です」
「欲しくないのか?」
「欲しいとは……思います。でも、服や家具まで買っていただくのに……これ以上は……」
「ゲーム機より、パソコンの方がいいかもしれないな」
「ぱそこん?」
ひかげが首を傾げる。
「ゲームだけじゃなく、いろいろなことができる機械だ。文字を調べたり、映像を見たり、遠くにいる人と話したりもできる」
「さっきのゲームも……できますか?」
「性能の高いものならできる。遊べるゲームの種類も多いし、これから日本語の読み書きを覚えるときにも役立つはずだ」
「そんな機械が……あるんですか?」
「実際に見てみようか」
三人は休憩を挟んでから、パソコン売り場へ向かった。
何列にも並んだ画面や、色鮮やかに光る機械を前に、ひかげは圧倒されたように立ち止まる。
「……全部、パソコンですか?」
「形や性能は違うけどな」
「僕には、どれも同じに見えるよ」
フェンリスが一台ずつ覗き込みながら答える。
「カズマは違いが分かるの?」
「基本的なことならな。ただ、ゲーム用となると店員に聞いた方が早い」
「店員さんと……話すんですか?」
ひかげが不安そうに一歩下がる。
「話すのは俺だけでいい。ひかげは近くで見ていてくれ」
「……はい」
和真は店員へ声をかけ、ゲームと普段使いの両方に使えるパソコンを探していると伝えた。
予算や遊びたいゲームを聞かれたものの、ひかげがどのようなものを好むかは、まだ分からない。
そのため、幅広いゲームを無理なく動かせ、数年は困らず使えるものを選んでもらうことにした。
案内されたのは、内部が淡く紫色に光る黒いゲーミングパソコンだった。
隣には大きな画面が置かれ、見本として幻想的な世界を冒険するゲームが動いている。
「……綺麗です」
ひかげが、広大な草原を映し出す画面へ近づく。
色鮮やかな花畑の向こうを、剣を背負った人物が歩いていた。
「これは……先ほどのものと同じですか?」
「同じゲームではないけど、画面の人物を動かして遊ぶところは同じだ」
「この中を……自由に歩けるんですか?」
「ああ。山へ登ったり、町へ行ったり、魔物と戦ったりできる」
「ほかの人と……話さなくても?」
「一人で遊べるゲームも多いぞ」
その言葉に、ひかげが画面へ向けていた顔を僅かに上げた。
「……一人でも、知らない場所へ行けるんですね」
人と接することを怖がるひかげにとって、自分の部屋にいながら知らない世界を歩けるというのは、強く心を引かれるものだったらしい。
和真はパソコン本体の値札を確認する。
そこへ、画面やキーボード、マウスなどを揃えれば、かなりの金額になる。
服や家具も買う予定を考えれば、今日の出費は決して小さくない。
「カズマ、結構高いよ」
フェンリスも値札を見て、小声で告げる。
「ああ。家庭用のゲーム機を買うより、ずっと高いな」
「……やっぱり、いりません」
二人の会話を聞いたひかげが、すぐに画面から離れた。
「見せてもらえただけで……十分です」
「でも、欲しいんだろ?」
「欲しくありません」
口ではそう答えているものの、牛耳は伏せられ、顔は画面の方へ向いたままだ。
「ひかげ」
「……はい」
「遠慮する必要はない。服や家具と同じで、ひかげがこの世界で生活していくために使うものだ」
「でも、これは……遊ぶためのものです」
「遊ぶことも生活の一部だよ」
フェンリスが静かに言う。
「ずっと緊張して、怖いことばかり考えていたら疲れちゃうでしょ。自分の部屋で安心して楽しめるものがあってもいいと思う」
「……私だけ、そんなものを持つのは……」
「パソコンなら、ゲーム以外にも使える。日本語の勉強や、この世界のことを調べるのにも役立つから、無駄にはならない」
和真はもう一度、パソコンと値札を見比べた。
安い買い物ではない。
それでも、ひかげが初めて自分から興味を示したものを、金額だけを理由に諦めさせたくなかった。
「これにしよう」
「……え?」
「ゲーム機も悪くないけど、これからのことを考えるならパソコンの方がいい。画面と必要な道具も一緒に揃える」
「駄目です」
ひかげが珍しく強い声を出した。
「こんなに高いもの……受け取れません」
「だったら、ひかげのものじゃなくて、空色唐辛子荘の備品ということにしよう」
「……備品?」
「ああ。ひかげが204号室に住んでいる間、貸し出す。いつか自分で買えるようになったら、そのときに返してくれればいい」
もちろん、和真は返してもらうつもりなどなかった。
それでも、無条件に贈ると言うよりは、ひかげも受け入れやすいだろう。
「本当に……返してもいいんですか?」
「そのときになったら相談しよう」
「それ、返す時期を決めてないのと同じじゃない?」
フェンリスが笑う。
和真は答えず、店員へ必要な機器について相談を続けた。
パソコン本体。
大きすぎない画面。
キーボードとマウス。
音が外へ漏れにくいヘッドホン。
機械に詳しくないひかげでも使いやすいよう、初期設定や設置まで依頼することにした。
「色はこれでいいか?」
和真が尋ねると、ひかげは黒い本体の中で淡く光る紫色を見つめた。
「……綺麗だと思います」
「光る色は変えられるらしいぞ」
「消すことも……できますか?」
「もちろんできますよ」
店員から答えられたひかげは、驚いたように和真の背後へ隠れた。
店員は牛角や耳へ一瞬だけ目を向けたものの、衣装の一部だと思ったらしく、それ以上触れることはなかった。
和真を挟んで説明を聞いたひかげは、しばらく迷ったあと、小さく頷く。
「……黒と、紫がいいです」
「分かった。それで頼もう」
パソコン一式を決めたあと、三人は同じ施設内にある家具売り場へ向かった。
最初に選ぶのは、ベッドだった。
ひかげは一番安いものを選ぼうとしたが、和真に促され、実際にいくつかの寝台へ腰を下ろして確かめる。
「……これは、柔らかすぎます」
「じゃあ、もう少し硬い方がいいんだね」
フェンリスと一緒に寝心地を比べ、最終的には身体が沈み込みすぎない、広めのベッドを選んだ。
次は、パソコンを置くための机と椅子。
ひかげの身体に合わせ、窮屈にならない大きさの机が必要だった。
「これなら、画面を置いても余裕があるな」
「……大きすぎませんか?」
「本を置いたり、文字を書く場所も必要になるだろ?」
「文字の練習も……ここでできますか?」
「ああ。パソコンで調べながら勉強することもできる」
「……それなら、これがいいです」
椅子は長時間座っても疲れにくいものを選び、カーテンや収納棚、小さなテーブルも加えていく。
初めは何を聞かれても遠慮していたひかげだったが、何度か選ぶうちに、少しずつ自分の希望を口にするようになった。
「カーテンは、これでいいですか?」
フェンリスが暗い紫色のカーテンを広げる。
「……もう少し、黒い方が落ち着きます」
「じゃあ、こっちは?」
「それが……好きです」
「うん。ひかげの部屋らしくなってきたね」
選んだ家具は、後日204号室へまとめて届けてもらうことになった。
必要なものを一通り決め、和真が配送先を書類へ記入している間、ひかげは購入した服の紙袋を抱えながら、何度もパソコン売り場の方を振り返っていた。
外へ出る前は、人の多い場所へ行くことをあれほど怖がっていた。
今も緊張が消えたわけではない。
それでも、自分の部屋に届くものを想像する余裕が生まれている。
「今日は、これくらいにして帰ろうか」
手続きを終えた和真が声をかける。
「……はい」
「疲れた?」
「少し……でも」
ひかげは大切そうに紙袋を抱き直した。
「来てよかったです」
「それならよかった」
「僕もゲームをやってみたいな。パソコンが届いたら、ひかげに教えてもらおうかな」
「私も……まだ、分かりません」
「さっき、僕より先に敵を倒してたじゃないか」
「あれは……和真さんに教えてもらったので……」
「じゃあ、三人で覚えればいい」
和真がそう言うと、ひかげは小さく頷いた。
「……三人で」
帰りの車へ向かうひかげの足取りは、来たときよりも僅かに軽くなっていた。
ただし、服や家具、パソコンを揃えただけでは、まだ現代で安心して暮らせるとはいえない。
ひかげには、この世界で生活するための身分証がない。
フェンリスについても、和真の力で身元や住民としての記録は整えたものの、まだ正式なマイナンバーカードを受け取っていなかった。
さらに、二人が外出先でも連絡を取れるようにするには、それぞれのスマートフォンも必要になる。
204号室でパソコンを使うなら、空色唐辛子荘へインターネット回線も引かなければならない。
次に役所が開く平日。
和真は二人を連れ、残っている手続きを一つずつ済ませることにした。
次に市役所が開いた平日の朝。
和真はフェンリスとひかげを連れ、市役所を訪れていた。
休日の商業施設ほどではないものの、受付前には多くの人が順番を待っている。
ひかげは和真のすぐ後ろに立ち、俯いたまま周囲の気配を窺っていた。
「……ここにも、人がたくさんいます」
「この前のお店よりは少ないよ」
フェンリスが声を抑えて話しかける。
「僕のときもカズマが全部手伝ってくれたから、ひかげも大丈夫だよ」
「……はい」
フェンリスもひかげも、和真がかけた魔法によって、この世界の人間と会話できる。
ただし、その魔法が働くのは和真のそばにいる間だけだ。
「二人とも、俺から離れないようにな」
「分かってるよ」
「……離れません」
三人は受付で番号札を受け取り、人の少ない端の席へ並んで座った。
待っている間も、ひかげは何度も自分の角や牛耳へ手を伸ばしていた。
周囲の者から視線を向けられるたび、長い前髪の奥に隠れるように顔を伏せてしまう。
「そんなに気にしなくて大丈夫だよ」
フェンリスが自分の狼耳を指さす。
「僕の耳と尻尾だって出たままだけど、誰も何も言ってこないでしょ?」
「……少し、見られています」
「まあ、それは僕も気づいてるけど……」
「本物だとは思われてない。変わった格好をしているくらいにしか見られていないから、気にしなくていい」
和真に言われ、ひかげは小さく頷いた。
やがて番号を呼ばれ、三人は窓口へ移動した。
ひかげの身分を整える方法は、先にフェンリスの記録を作ったときと同じだった。
和真は勇者として得た力を使い、この世界の仕組みへ静かに干渉する。
実在する誰かの戸籍を利用するのではなく、この世界に存在しなかった獅子宮ひかげという一人の女性を、新たな住民として認めさせる。
和真の力が作用すると、市役所の端末に必要な情報が現れた。
名前は、獅子宮ひかげ。
住所は、空色唐辛子荘204号室。
窓口の職員は、端末に表示された内容と手元の書類を見比べる。
「こちらのお名前と住所で間違いありませんか?」
ひかげの身体が強張った。
和真へ顔を向けたあと、勇気を振り絞るように答える。
「……はい。間違い、ありません」
「それでは、こちらの内容をご確認ください」
書類を差し出されたものの、ひかげの手は途中で止まった。
職員の言葉は理解できても、書かれている日本語までは読めない。
「俺が一緒に確認します」
和真が書類を受け取り、ひかげにも分かるよう一つずつ説明する。
「ここが名前だ。『獅子宮ひかげ』と書いてある」
「……これが、私の名前」
ひかげは自分の名前が記された場所へ、そっと指を置いた。
「こっちが住所。空色唐辛子荘の204号室だ」
「私の部屋も……書いてあります」
「ああ。ひかげが、そこに住んでいるという記録だ」
ひかげは何も言わず、しばらく書類を見つめていた。
やがて、伏せられていた牛耳が僅かに持ち上がる。
「……覚えたいです」
「自分の名前をか?」
「はい。いつか……自分で書けるようになりたいです」
「これから少しずつ練習しよう」
「……お願いします」
必要な確認を終えると、ひかげは正式に空色唐辛子荘204号室の住人として登録された。
そのまま二人のマイナンバーカードも申請する。
フェンリスはすでに住民としての記録が整っていたため、手続きは問題なく進んだ。
「これが終わったら、僕もちゃんとした身分証を持てるんだよね?」
「ああ。ただし、カードができるまでには時間がかかる」
「今日もらえるんじゃないの?」
「申請したその日には受け取れないんだ」
「人間の町は、便利なのか不便なのか分からないなあ」
「たくさんの人のカードを順番に作るんだから、仕方ないだろ」
フェンリスが納得しきれない様子で狼耳を倒す。
隣では、ひかげが申請を終えた書類を見つめていた。
「これがあれば……私は、この世界の人として認めてもらえるんですよね?」
「正確には、今の手続きが終わった時点で、ひかげはここの住人だ。カードは、それを証明するために使うものだな」
「……もう、住人なんですか?」
「ああ」
「空色唐辛子荘の?」
「204号室の住人だよ」
フェンリスが答えると、ひかげは胸元で両手を重ねた。
「……そうですか」
その声は小さかったが、どこか安心しているように聞こえた。
市役所での手続きを終えた三人は、母屋へ戻った。
その日の午後、和真はインターネット回線の契約を進めることにした。
今後、空色唐辛子荘に新たな住人が増えることも考え、改修を終えた棟から順番に利用できる環境を整えていく。
まずは、ひかげが住む204号室を優先して工事を依頼した。
「工事が終われば、買ったパソコンをインターネットにつなげられる」
母屋の食卓で和真が説明すると、ひかげが小さく首を傾げた。
「いんたーねっとに、つなげる……?」
「世界中にあるたくさんの機械と、情報をやり取りできるようにするんだ。知りたいことを調べたり、新しいゲームを追加したりできる」
「知らない人とも……つながるんですか?」
「ああ。使う場所によってはな」
ひかげの牛耳が不安そうに下がる。
「知らない人と話さないと……使えませんか?」
「そんなことはない。一人で調べ物をしたり、映像を見たりするだけでも使える」
「……それなら」
「ただし、人を騙す情報や危険なものもある。最初は俺と一緒に使い方を覚えよう」
「分かりました。勝手には……触りません」
「そこまで怖がらなくていいよ。僕も一緒に覚えるからさ」
フェンリスがひかげの隣から声をかける。
「僕だって、インターネットはまだよく分からないし」
「フェンリスも……初めてなんですね」
「うん。だから三人で覚えればいいよ」
「……はい」
数日後、204号室へ購入した家具が届けられた。
人見知りのひかげに代わり、業者への対応は和真が行う。
広めのベッド。
黒いカーテン。
衣服をしまう収納棚。
小さなテーブル。
そして、パソコンを置くための机と椅子。
何もなかった204号室へ家具が運び込まれ、少しずつ生活の場へと変わっていく。
ひかげは部屋の隅に立ち、作業の邪魔にならないよう身を縮めながら、その様子を見守っていた。
「ベッドはここでいいか?」
和真が窓から少し離れた場所を示す。
「……はい。窓の近くより、そちらの方が落ち着きます」
「机は予定どおり壁際に置くぞ」
「お願いします」
フェンリスは業者が取りつけたばかりのカーテンを広げ、窓の前へ立った。
「ひかげ、閉めてみてもいい?」
「……はい」
黒いカーテンが閉じられると、窓から差し込んでいた明るい光が遮られた。
照明をつけても、部屋には落ち着いた暗さが残る。
「どう?」
「……落ち着きます」
「やっぱり黒にしてよかったね」
「はい。外から見られている気が……しないので……」
「誰も勝手に覗いたりしないよ。でも、ひかげが安心できるなら閉めておいていいと思う」
「……ありがとうございます」
家具の搬入が終わった翌日には、ゲーミングパソコン一式も届いた。
黒い本体。
大きな画面。
キーボードとマウス。
音を聞くためのヘッドホン。
そして、店頭で試したものと同じ形のコントローラー。
店の担当者が机へ機器を並べ、初期設定を進めていく。
本体の電源が入ると、透明な部分の奥から淡い紫色の光が広がった。
「……綺麗です」
ひかげは部屋の隅から、光る本体をじっと見つめていた。
「店で見たものが、本当にひかげの部屋へ来たね」
フェンリスも興味深そうに覗き込む。
「中に、小さな魔石がたくさん入っているみたいだよ」
「触るなよ。中には電気が流れているからな」
「分かってるよ。見るだけ」
「……電気は、危険なんですか?」
ひかげが心配そうに尋ねる。
「普通に使っていれば問題ない。無理に開けたり、水をかけたりしなければ大丈夫だ」
「開けませんし……水もかけません」
「それなら大丈夫だ」
設置を終えた担当者が帰るまで、ひかげはほとんど和真の後ろから出なかった。
玄関の扉が閉まると、ようやく肩から力を抜く。
「……終わりましたか?」
「ああ。もう俺たちだけだ」
「では……触ってもいいですか?」
「もちろん。そのためのパソコンだからな」
ひかげは机の前へ座り、和真に教えられながら電源ボタンを押した。
静かな音とともに本体が動き始め、画面に明るい映像が表示される。
「文字が……たくさんあります」
「まだ読めないよな。よく使うものは、分かりやすい場所へ並べておく」
和真はゲームや日本語の勉強に使うものを整理し、ひかげが見つけやすいよう印をつけた。
「この絵が……ゲームですか?」
「ああ。今日は、最初から入れてもらったものを動かしてみよう」
「お店で遊んだものとは……違うんですよね?」
「違うゲームだけど、同じコントローラーで操作できる」
和真がコントローラーを渡すと、ひかげの牛耳が僅かに持ち上がる。
「これなら……少し分かります」
「僕も見てていい?」
フェンリスが尋ねると、ひかげはすぐには答えなかった。
自分の部屋へ誰かを招くことに、まだ慣れていないのだろう。
「……見ているだけなら」
「うん。勝手に触らないよ」
「フェンリスがやるときは……先に言ってください」
「分かった」
ゲームを起動すると、画面に広い草原が現れた。
その中央には、武器を持った一人の人物が立っている。
ひかげはコントローラーを握り、慎重に人物を歩かせ始めた。
「……動きました」
「今度は壁にぶつからないようにね」
「見ていたんですか?」
「もちろん。僕もあとでやりたいから、ひかげの操作を見て覚えてるんだよ」
「失敗したら……恥ずかしいです」
「ゲームの中なら、何度失敗しても大丈夫だ」
和真がそう言うと、ひかげは小さく頷いた。
道の途中で小さな魔物が現れる。
ひかげは慌てて人物を後退させ、近くの木へぶつかった。
「……また、ぶつけました」
「でも、敵の攻撃は避けられたよ」
「次は、そのまま攻撃してみよう。前に使ったボタンだ」
「……これ」
ひかげがボタンを押す。
画面の人物が武器を振り、魔物へ攻撃を当てた。
一度目では倒せず、反撃を受けてしまう。
ひかげは慌てたものの、今度は自分で距離を取った。
魔物の攻撃を避け、もう一度近づいて武器を振る。
最後の一撃が決まると、魔物が光となって消えた。
「……倒せました」
「やったね、ひかげ!」
フェンリスが声を上げる。
ひかげは驚いて肩を震わせたが、コントローラーを置くことはなかった。
「……もう一体、探してもいいですか?」
「もちろんだ」
「僕にもあとでやらせてね」
「もう少しだけ……待ってください」
「お店でも同じことを言ってたよ」
「今度は……もう少し上手にできそうなので……」
画面から流れる音楽を聞きながら、ひかげは再び人物を歩かせ始めた。
それからしばらくして、フェンリスとひかげのマイナンバーカードが完成したという知らせが届いた。
三人は再び市役所を訪れ、それぞれのカードを正式に受け取った。
帰りの車の中で、ひかげは受け取ったばかりのカードを大切そうに見つめていた。
「落とさないようにな」
「……はい」
「それと、誰にでも見せていいものじゃない。普段は鞄の中へしまっておくんだぞ」
「分かりました」
ひかげはカードを専用の入れ物へしまい、鞄の奥へ慎重に入れた。
「僕もちゃんとしまったよ」
隣のフェンリスが胸を張る。
「どこに入れたか忘れるなよ」
「忘れないよ!」
「フェンリスなら……少しだけ、ありそうです」
「ひかげまでそんなこと言うの?」
「……すみません」
「謝らなくていいけど、カズマに似てきた気がするなあ」
その日の午後、三人は携帯電話の販売店へ向かった。
フェンリスとひかげが、外出先でも和真へ連絡できるようにするためだ。
料金の支払いは当面、和真がまとめて行うことにし、二人を利用者として一台ずつ契約する。
本人確認には、受け取ったばかりのマイナンバーカードを使った。
手続きを終えると、二人の前へ新しいスマートフォンが置かれた。
「これが、僕の?」
「ああ。桃色の方がフェンリスだ」
「じゃあ、黒い方が……私の」
「ひかげが選んだ色だよ」
「……はい」
二人は自分のスマートフォンを、壊さないよう慎重に受け取った。
フェンリスは興味を抑えきれず、すぐに画面を指で触り始める。
「カズマ、触ったら絵が動いたよ!」
「強く押さなくても動くからな。落とさないように気をつけろよ」
「分かってるって」
ひかげは黒い画面に触れることもできず、両手で持ったまま固まっていた。
「……どこを押せばいいんですか?」
「まずは、俺が必要な設定をする。ひかげは見ていてくれ」
「お願いします……」
和真は二人のスマートフォンへ、通話やメッセージのやり取りができるアプリ「JINE」を入れた。
自分とフェンリス、ひかげのアカウントを登録し、三人だけのグループも作る。
「連絡を取りたいときは、この緑色の印を押してくれ」
「じぇいん?」
「離れた場所にいる相手へ、文章や絵を送れるものだ。声を聞きながら話すこともできる」
「僕とひかげだけでも使えるの?」
「使える。ただ、俺が近くにいないと二人の言葉は互いに通じない。文字もまだ読めないから、最初はスタンプを使うといい」
「すたんぷ……?」
和真はJINEの画面を操作し、笑顔で手を振っている動物の絵を選んだ。
それを三人のグループへ送ると、フェンリスとひかげのスマートフォンが同時に音を鳴らす。
「わっ、何か来た!」
「……私の方にも」
「今送ったのがスタンプだ。文字が読めなくても、絵を見れば意味が分かるだろ?」
「この動物は……挨拶しているんですね」
「ああ。こういうものなら、二人だけでも使える」
和真は続けて、了承、助けて、母屋へ行く、部屋へ戻るといった意味に使えるスタンプを選び、二人へ教えた。
「困ったときは、このスタンプを俺に送ってくれ」
和真が助けを求める表情のスタンプを示す。
「文章を打てなくても、何かあったことは分かる。急ぎなら、JINEの通話を使ってもいい」
「場所が分からなくなったときは?」
「今いる場所を送る機能もある。ただ、二人だけで出かけるのは、もう少しこの世界に慣れてからだな」
「分かった」
フェンリスはJINEの画面を操作し、家の前で手を挙げている動物のスタンプをひかげへ送った。
ひかげのスマートフォンから音が鳴る。
「これは……?」
「ひかげの部屋へ遊びに行ってもいいか聞いてるんだ」
「今、同じ場所にいますけど……」
「練習だよ、練習」
ひかげは画面を見つめ、和真に教えられたとおり、了承を示すスタンプを返した。
今度はフェンリスのスマートフォンから音が鳴る。
「返事が来た!」
「……これで、合っていますか?」
「ああ。ちゃんと伝わっているぞ」
安心したように、ひかげの牛耳が僅かに持ち上がる。
その直後、フェンリスが面白がり、笑顔や食べ物、踊る動物のスタンプを次々と送り始めた。
ひかげのスマートフォンが何度も続けて音を鳴らす。
「フェンリス……多いです」
「あっ、ごめん。いろいろあって面白かったから」
「通知の音を小さくしておこうか」
「……お願いします」
「僕のもお願い。これなら、たくさん送っても驚かないでしょ?」
「音の大きさの問題では……ないと思います」
ひかげが小さく指摘すると、フェンリスは困ったように狼耳を倒した。
スマートフォンを契約してから数日後。
空色唐辛子荘の回線工事が行われ、204号室のパソコンもインターネットへつながった。
和真は危険なサイトへ不用意に入らないよう設定を整え、ひかげへ基本的な使い方を教えていく。
だが、調べ物をするにも、画面に並ぶ文字を読む力が必要だった。
ゲームの説明にも、ひかげには読めない日本語が数多く使われている。
「……和真さん」
「どうした?」
「私、日本語を覚えたいです」
「急にどうしたんだ?」
「ゲームに書いてあることが……読めません。それに、JINEもスタンプだけではなくて……いつか、自分で言葉を送りたいです」
ひかげはキーボードの上へ、そっと指を置いた。
「自分で読んだり、書いたりできるようになれば……和真さんがいないときでも、もっといろいろなことができます」
「ああ。少しずつ勉強していこう」
「……教えていただけますか?」
「もちろん。そのためにもパソコンを買ったんだからな」
「僕も一緒に教えてもらう!」
フェンリスが隣から声を上げる。
「フェンリスも?」
「僕だって、話せるだけで文字は読めないからね。ひかげだけ先にJINEで文章を送れるようになったら悔しいし」
「競争では……ないと思います」
「目標があった方が覚えやすいんだよ」
「それなら、二人分の教材を用意しないとな」
和真が答えると、フェンリスは嬉しそうに尻尾を振った。
ひかげも、長い前髪の奥から画面へ顔を向ける。
そこには、自分で選んだ黒と紫のパソコン。
机の横には、新しいスマートフォン。
収納棚には、初めて自分で選んだ服が収められている。
昨夜まで布団しかなかった204号室は、もう空っぽではなかった。
「……私の部屋」
ひかげが静かに呟く。
「やっと実感できたか?」
「少しだけ……」
自分の居場所。
自分で選んだもの。
そして、知らない世界とつながるための小さな窓。
そのどれも、ひかげにとって大切なものになり始めていた。
「和真さん」
「ん?」
「本当に……ありがとうございます」
「気にしなくていい。困ったことがあれば、いつでも母屋へ来てくれ」
「僕のところにも来ていいからね」
「フェンリスの部屋は、まだ少し散らかっているけどな」
「カズマ!」
「……少し、ですか?」
「ひかげまで疑わないでよ!」
フェンリスの声に、ひかげの口元から小さな笑いがこぼれた。
すぐに恥ずかしそうに俯いたものの、今度は謝らなかった。
机の上に置かれたスマートフォンから、小さな通知音が鳴る。
画面には、フェンリスから送られた笑顔のスタンプが表示されていた。
ひかげは少し迷ったあと、自分でも同じ笑顔のスタンプを選び、三人のJINEグループへ送る。
和真とフェンリスのスマートフォンが、ほぼ同時に音を鳴らした。
「ひかげから来た!」
「……練習です」
「ちゃんと届いたぞ」
ひかげはスマートフォンを胸元へ抱え、僅かに口元を緩めた。
空色唐辛子荘204号室。
そこはこの日、獅子宮ひかげにとって、ただ眠るためだけの場所ではなくなった。
彼女が安心して帰ることのできる、初めての自分の部屋になったのだった。




