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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第五話 獅子宮ひかげ

 空色唐辛子荘に新たな住人が加わった翌朝。


 母屋の玄関から、控えめな呼び鈴の音が聞こえた。


 台所で朝食を作っていた四ノ宮和真は火を弱め、玄関へ向かう。


 扉を開けると、獅子宮ひかげが立っていた。


「……おはようございます」


「おはよう、ひかげ。よく眠れたか?」


「はい。お布団が……柔らかくて、驚きました」


 ひかげは昨日と同じく、転移してきたときの服を着ていた。


 黒を基調とした衣服は暗い髪や二本の牛角に合っているものの、この世界で暮らしていくには着替えが足りない。


 長い前髪の奥から、ひかげが母屋の中を窺う。


「入ってくれ。朝飯はもうすぐできる」


「……お邪魔します」


「ここで暮らすんだから、そんなに畏まらなくてもいいぞ」


「でも……ここは、和真さんのお家なので……」


 ひかげは小さく頭を下げてから、恐る恐る玄関へ足を踏み入れた。


 牛の尻尾も身体に沿わせるように下がっている。


 昨夜は204号室で休ませたが、室内には母屋から運んだ布団しか置かれていない。照明やエアコンなど、改修で取り付けた設備は使えるものの、生活に必要な家具や日用品はほとんどなかった。


「フェンリスは、まだ寝ているんですか?」


「たぶんな。昨日、朝飯の時間は伝えておいたんだけど……」


 二人が台所へ入った直後、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。


「起きてる! 僕もちゃんと起きてるから!」


 寝癖のついた銀髪を揺らしながら、フェンリスが駆け込んでくる。


 大きな狼耳は左右で違う方向を向き、特大の尻尾にもまだ寝癖が残っていた。


 ひかげは驚き、和真の背後へ半歩隠れる。


「……おはようございます」


「おはよう、ひかげ。ごめん、驚かせた?」


「少しだけ……」


「朝から走るなよ。まず顔を洗ってこい」


「今から行くところだったんだよ」


「台所まで来てから言っても説得力がないぞ」


「分かったよ。すぐ戻るから、先に食べないでね」


 フェンリスは欠伸を噛み殺しながら、洗面所へ向かっていった。


 その後ろ姿を眺めていたひかげの牛耳が、ほんの少し持ち上がる。


「……フェンリスは、朝が苦手なんですか?」


「どちらかというと、夜更かしが原因だな」


「カズマ、聞こえてるからね!」


 洗面所から声が飛んでくる。


 和真は苦笑し、ひかげを食卓へ案内した。


「座って待っていてくれ。あとは盛りつけるだけだから」


「……何か、お手伝いします」


「昨日来たばかりなんだ。ゆっくりしていていいぞ」


「何もしない方が……落ち着かなくて……」


 ひかげは両手を胸元で重ね、その場を動こうとしなかった。


 断っても、かえって気を遣わせてしまいそうだ。


「それなら、皿を三枚出してもらえるか?」


「……はい」


 ひかげの牛耳が僅かに動く。


 和真に教えられた食器棚を開き、慎重に皿を取り出した。


 一枚ずつ運んでいる間に、顔を洗ったフェンリスが戻ってくる。


「ひかげ、僕も手伝おうか?」


「大丈夫です。あと一枚なので……」


「そっか。じゃあ、僕は箸を並べるね」


「……お願いします」


 二人はまだ出会ったばかりだ。


 ひかげはフェンリスに対しても緊張しており、必要以上に近づこうとはしない。


 それでも、同じ食卓の準備をする程度なら受け入れられるらしい。


 三人で朝食を済ませると、和真は食卓の上に一枚のメモを置いた。


「今日は、ひかげの生活に必要なものを買いに行こうと思っている」


「……私の、ですか?」


「ああ。まずは着替えだな。それから、204号室で使う家具や日用品も必要だ」


「昨日のお布団だけで……大丈夫です」


「一晩ならな。これから暮らすなら、そういうわけにはいかないだろ」


「でも……私、お金を持っていません」


「それは気にしなくていい。必要なものは俺が用意する」


「そんなにしてもらうのは……」


 ひかげは困ったように俯いた。


 和真はすぐに言葉を重ねず、少し考えてから告げる。


「全部を一度に揃える必要はない。今日は実際に見て、ひかげが必要だと思ったものだけ選べばいい」


「私が……選ぶんですか?」


「ひかげの部屋で、ひかげが使うものだからな」


「何を選べばいいのか……分からないかもしれません」


「そのときは僕も一緒に考えるよ」


 フェンリスが明るく声をかける。


「僕もこっちの服や家具には、まだ詳しくないけどさ。ひかげが好きか嫌いかくらいなら、一緒に考えられるから」


「……好きか、嫌いか」


「それだけでも十分だよ。無理に決めなくてもいいしね」


 ひかげはしばらく考えたあと、小さく頷いた。


「……分かりました」


「それじゃあ、食器を片づけたら出発しよう」


 和真が立ち上がると、ひかげの牛耳が伏せられた。


「外に……行くんですよね?」


「ああ。店へ行かないと、実物を見られないからな」


「人は……多いですか?」


「時間帯や店によるけど、それなりにはいると思う」


「……そうですか」


 ひかげの指が、服の裾を強く握り締める。


 人と会うことを苦手としている彼女にとって、見知らぬ者が大勢いる場所へ出かけるのは簡単なことではない。


「無理なら、今日は行かなくてもいいぞ」


 和真が伝えると、ひかげは迷うように黙り込んだ。


「カズマだけに買ってきてもらうこともできるよ」


 フェンリスも急かさずに続ける。


「でも、ひかげが自分で見たいなら、僕たちも一緒に行く。途中で疲れたら、すぐに休もう」


「……怖いです」


 ひかげは正直に答えた。


「知らない人が、たくさんいる場所は……苦手なので……」


「だったら、無理をしなくても——」


「でも……行ってみます」


 声は小さかったが、その言葉には彼女自身の意思があった。


「自分の部屋に置くものを……自分で見てみたいです」


「分かった。それなら、ひかげのペースで回ろう」


「途中で帰りたくなったら、遠慮しないで言ってね」


「……はい」


 朝食の片づけを終え、三人は外出の準備を整えた。


 ひかげは人目を避けるように、深めのフードがついた上着を羽織った。


 二本の牛角までは隠れなかったが、前髪に加えてフードまで被ると、顔はほとんど見えない。


 玄関を出る直前、ひかげの足が止まる。


「……やっぱり、変ではありませんか?」


「大丈夫だよ。僕も耳と尻尾を出したまま、何度か外へ行ってるから」


「見られたりは……」


「少しは見られるけど、みんな本物だとは思ってないみたい。僕の耳も、作り物だと思われてるよ」


「……作り物」


 ひかげは自分の牛角へ触れる。


「触られたりはしませんか?」


「勝手に触られたことはないよ。もし誰かが近づいてきても、カズマがいるから大丈夫」


「無理に我慢する必要はないからな。嫌なことがあったら、すぐ俺に言ってくれ」


「……分かりました」


 和真が玄関の扉を開ける。


 ひかげは一度だけ深呼吸をしてから、二人に続いて母屋の外へ出た。


 向かったのは、母屋の近くに停めてある一台の軽自動車だった。


 和真は帰還後の十か月間、身元の確認や相続手続きと並行して教習所へ通い、普通自動車免許を取得していた。


 この中古の軽自動車は、祖父の車を勝手に売却していた伯父と叔母が、その詫びと弁償を兼ねて用意したものだ。


 ひかげは初めて見る車を前に、少し離れた場所で立ち止まった。


「……これは、何ですか?」


「車という乗り物だ。今日はこれで店まで行く」


「これに……入るんですか?」


「ああ。見た目より中は広いぞ」


 和真が扉を開けると、ひかげはびくりと肩を震わせた。


 それでも逃げることはなく、開いた扉の向こうを覗き込む。


「先に僕が乗るよ」


 フェンリスが後部座席へ乗り込み、奥へ身体をずらした。


「ひかげは僕の隣。分からないことがあったら教えるから」


「……お願いします」


 ひかげは慎重に座席へ腰を下ろした。


 牛の尻尾を挟まないようにしてから、フェンリスの動きを真似て扉を閉める。


 シートベルトの使い方だけは分からず、差し込み口を前に動きを止めた。


「それを引っ張って、こっちに差すんだよ」


「……こうですか?」


「うん。それで大丈夫」


 金具が音を立てて固定される。


 ひかげは身体にかかったベルトを不思議そうに触った。


「これは……動けないようにするためのものですか?」


「事故が起きたときに、身体を守るためのものだ」


「……事故」


「そんなに怖がらなくていいよ。カズマは安全に運転してくれるから」


「もちろん、そのつもりだ」


 和真が運転席へ乗り、エンジンをかける。


 小さな音とともに車内へ振動が伝わると、ひかげの牛耳が一気に伏せられた。


「動くぞ。気分が悪くなったら、すぐに言ってくれ」


「……はい」


 軽自動車が、敷地内からゆっくりと道路へ出る。


 ひかげは背中を座席へ押しつけ、両手でシートベルトを握っていた。


「大丈夫?」


 隣のフェンリスが尋ねる。


「少し……怖いです」


「僕も最初は驚いたよ。でも、慣れるとすごく便利なんだ」


「フェンリスも……初めは怖かったんですか?」


「うん。だから、無理に平気なふりをしなくても大丈夫だよ」


「……はい」


 速度が安定すると、ひかげの身体から僅かに力が抜ける。


 やがて、窓の外を流れていく景色へ顔を向け始めた。


 舗装された道路。


 色の変わる信号機。


 道路脇に並ぶ店。


 自転車に乗る学生や、犬を連れて歩く人。


 そのどれもが、ひかげにとって初めて見るものだった。


「……たくさん、建物があります」


「ああ。この辺りは住宅や店が多いからな」


「道も……とても平らです」


「この世界の道は、ほとんどがこんな感じだよ。土の道より揺れないんだ」


 フェンリスも、まだ知らないものは多い。


 それでも、自分が教えてもらった範囲で、ひかげの疑問に答えようとしていた。


 ひかげは何度か窓の外へ目を向け、気になったものがあれば小さな声で和真へ尋ねた。


 初めは恐怖しかなかった車にも、少しずつ慣れてきたらしい。


 しばらくして、三人を乗せた軽自動車は大型商業施設の駐車場へ到着した。


 和真は、なるべく入口に近い場所へ車を停める。


 休日ということもあり、駐車場には多くの車が並んでいた。店の入口へ向かう人の姿も多い。


 ひかげは窓の外を見たまま、動かなくなった。


「……人が、たくさんいます」


「思ったより多いな」


 和真はすぐに扉を開けず、後部座席のひかげを振り返った。


「別の店へ行ってもいい。ここまで来たけど、帰っても構わないぞ」


「……迷惑では、ありませんか?」


「ひかげが無理をして具合を悪くする方が困る。だから、遠慮しないで決めてくれ」


 ひかげは、入口へ向かう人々を見つめ続けた。


 すぐには答えが出ない。


 フェンリスも隣で黙り、ひかげ自身が決めるのを待った。


「……行きます」


 やがて、ひかげが小さく答える。


「怖いですけど……服を、見てみたいです」


「分かった。まずは服だけにしよう」


「人が多くて無理そうなら、すぐ車に戻ろうね」


「……はい」


 三人は車を降り、商業施設の入口へ向かった。


 ひかげは和真とフェンリスの間を歩き、擦れ違う人が近づくたびに身体を強張らせる。


 ときおり牛角へ視線を向ける者はいたが、声をかけてくる者はいなかった。


 それでも、ひかげは俯いたまま、二人から離れないようについてくる。


 自動ドアの前まで来ると、扉が左右へ開いた。


「……っ」


 ひかげが足を止める。


「大丈夫。近づくと自動で開くんだ」


「魔法では……ないんですか?」


「機械の仕組みだよ」


「……これも、機械なんですね」


「中に入れば閉まるから、立ち止まらない方がいいよ」


 フェンリスに促され、ひかげは恐る恐る自動ドアをくぐった。


 明るい照明。


 店内に流れる音楽。


 行き交う大勢の客。


 色とりどりの商品。


 ひかげは圧倒されたように足を止めかけたが、和真たちがそばにいることを確かめ、もう一歩だけ前へ進んだ。


 最初に入ったのは、女性向けの衣料品店だった。


 棚やハンガーには、見たこともない形の服が数多く並んでいる。


「どんな服がいい?」


 フェンリスが声を抑えて尋ねる。


「……分かりません」


「好きな色は?」


「黒……でしょうか。暗い色の方が……落ち着きます」


「だったら、黒い服から見てみよう」


 フェンリスは近くにあった黒いロングスカートを手に取る。


 ひかげはすぐに答えず、長い前髪の奥からじっと見つめていた。


「これは……動きやすそうです」


「じゃあ、候補にしようか。すぐに買うって決めなくてもいいよ」


「……はい」


 三人は人の少ない場所を選びながら、店内をゆっくりと進んだ。


 ひかげは黒や暗い紫の服には足を止めるものの、鮮やかな色の服にはあまり関心を示さない。


 フェンリスも無理に勧めず、ひかげが見ているものだけを一緒に確かめた。


 やがて、ひかげが一着のワンピースの前で立ち止まる。


 黒を基調とし、胸元や袖に控えめなレースが施された、丈の長いワンピースだった。


「それが気になる?」


「……少しだけ」


「試着してみる?」


「ここで、服を脱ぐんですか……?」


「試着室っていう、着替えるための場所があるんだよ。外からは見えないから大丈夫」


 ひかげは店の奥にある試着室へ顔を向けた。


 店員が近くにいることに気づくと、すぐに和真の後ろへ隠れてしまう。


「無理に着なくてもいいぞ」


「……でも」


 ひかげは黒いワンピースを見つめたまま、迷っていた。


「僕が一緒に行こうか?」


「……お願いします」


「分かった。カズマはここで待っていて」


「ああ。慌てなくていいからな」


 フェンリスは店員から試着用の札を受け取り、ひかげと一緒に試着室へ向かった。


 和真は少し離れた場所で待つことにする。


 しばらくすると、閉じられたカーテンの向こうから、フェンリスの明るい声が聞こえてきた。


「すごく似合ってるよ」


「……本当ですか?」


「うん。ひかげの雰囲気にぴったりだと思う」


「でも……少し、恥ずかしいです」


「カズマにも見てもらう?」


「そ、それは……まだ……」


「分かった。無理に見せなくていいよ」


 そのやり取りを聞き、和真は試着室の方を振り返らないようにした。


 少しして、元の服へ着替えたひかげとフェンリスが戻ってくる。


 ひかげは黒いワンピースを両手で抱えていた。


「どうだった?」


「……これが、欲しいです」


 声は小さかった。


 それでも、自分の希望を伝えようとしていることは、はっきりと分かった。


「ああ。じゃあ、それは買おう」


「……いいんですか?」


「ひかげが選んだんだろ?」


「はい……」


 伏せていた牛耳が、ほんの少しだけ持ち上がる。


 その後も三人は、人の少ない場所を選びながら、普段着や寝間着を数着ずつ揃えた。


 下着については、ひかげが人前で選ぶことを恥ずかしがったため、今日は無理をせず、後からフェンリスと相談して探すことにした。


 会計を済ませると、和真が紙袋を受け取る。


「俺が持つよ」


「……自分で持てます」


「重くないか?」


「大丈夫です。私が……選んだ服なので」


 ひかげは紙袋を両手で受け取り、胸元へ大切そうに抱えた。


 店へ入る前よりも、声がほんの少しだけ明るく聞こえる。


「このまま家具も見るか? それとも、一度休む?」


「少しだけ……休みたいです」


「分かった。人の少ない場所を探そう」


 三人は衣料品店を出て、休憩できる場所を探し始めた。


 広い通路には相変わらず大勢の人が行き交っている。


 ひかげは何度も立ち止まりそうになりながら、それでも自分で選んだ服の入った紙袋を離さなかった。


 その途中、家電量販店の前を通りかかる。


 店頭の大きな画面から、賑やかな音楽と電子音が流れていた。


 画面の中では、色鮮やかな人物が武器を手に、次々と魔物を倒している。


 その前に置かれた機械を操作しながら、子供たちが楽しそうに声を上げていた。


 ひかげの足が止まる。


 今度は、人の多さに怯えたからではなかった。


 長い前髪の向こうから、画面の中で動き回る人物をじっと見つめている。


「……あれは、何をしているんですか?」


 ひかげの視線の先では、画面の中にいる人物が剣を振るい、大きな魔物と戦っていた。


 しかし、その動きは映像として流れているだけではない。


 画面の前に立つ子供が手元のボタンを押すたびに、人物が跳び、剣を振り、魔物の攻撃を避けている。


「あれはゲームだよ」


「げーむ……?」


「画面の中にいる人物を、自分で動かして遊ぶものだ」


「自分で……動かしているんですか?」


「ああ。手に持っているものが見えるだろ? あれを使って操作しているんだ」


 ひかげは、子供が握っているコントローラーへ顔を向ける。


 画面の人物が攻撃を受けると、子供が悔しそうな声を上げた。すぐに体勢を立て直し、今度は仲間と協力して魔物へ立ち向かっていく。


「……遠くから、操っているように見えます」


「魔法みたいだよね」


 フェンリスも興味深そうに画面を眺めていた。


「僕も、こういうのを見るのは初めてかも」


「テレビで映像を見たことはあっても、ゲームはまだ見せてなかったからな」


「これも機械なの?」


「ああ。今、子供たちが遊んでいるのは家庭用のゲーム機だ」


「家庭用……」


 ひかげは画面から目を離さない。


 休みたいと言っていたことも、人の多さに怯えていたことも、一時的に忘れているようだった。


 和真はそんな彼女の様子に気づき、近くにある試遊台へ目を向けた。


 数台並んでいるうち、一台だけ空いている。


「ひかげもやってみるか?」


「……私が?」


「見るだけでもいいけど、実際に触った方が分かりやすいと思う」


 ひかげは空いている試遊台を見たあと、周囲にいる人々へ顔を向けた。


「でも……失敗したら、見られます」


「誰も気にしないよ。みんな自分が遊んでいる画面を見ているから」


 フェンリスがそう言ったものの、ひかげはすぐには動けなかった。


 興味はある。


 しかし、人前で初めてのものに触ることへの恐怖もあるらしい。


「嫌なら無理にやらなくてもいいぞ」


 和真が伝えると、ひかげは再び試遊台を見つめた。


「……少しだけ、触ってみたいです」


「分かった。俺たちも一緒にいる」


 三人は空いている試遊台へ向かった。


 和真がコントローラーを持ち上げ、ひかげへ差し出す。


「これで画面の中の人物を動かすんだ」


「……どうやって持つんですか?」


「両手で持って、左側にある棒を親指で動かす。そうすれば、画面の人物が歩くはずだ」


 ひかげは紙袋をフェンリスに預け、コントローラーを両手で受け取った。


 壊してしまわないようにしているのか、指先にほとんど力が入っていない。


「そんなに慎重にならなくても大丈夫だよ」


「でも……壊したら……」


「普通に扱えば壊れない。まずは左の親指を動かしてみてくれ」


「……はい」


 ひかげが恐る恐る操作すると、画面の人物が前へ歩き出した。


「……動きました」


「もう少し右へ倒すと、右に進むよ」


「右……」


 画面の人物が右へ進み、近くに置かれていた箱へぶつかる。


 ひかげは慌てて指を離した。


「ぶつけてしまいました……」


「ゲームの中だから大丈夫だよ」


「壊れたりは……」


「何度ぶつかっても壊れないから安心してくれ」


 和真に教えられながら、ひかげは再び人物を動かし始めた。


 初めは真っ直ぐ歩かせることにも苦戦していたが、何度か動かすうちに、少しずつ操作を理解していく。


「次は、このボタンを押してみて」


「……これですか?」


 ひかげがボタンを押すと、画面の人物が勢いよく跳び上がった。


 牛耳が驚いたように立ち上がる。


「跳びました……」


「もう一回押すと、また跳ぶよ」


 ひかげは同じボタンを押した。


 画面の人物が何度もその場で跳び上がる。


「……ふふ」


 小さな笑い声が聞こえた。


 和真とフェンリスが同時にひかげを見る。


 本人も声が出ていたことに気づいたのか、牛耳が一気に伏せられた。


「……すみません」


「どうして謝るんだ?」


「変なことをして……」


「ゲームは楽しむためのものなんだから、笑っていいんだよ」


「そうだよ。僕にもやらせて」


 フェンリスが興味を抑えきれない様子で画面を覗き込む。


 ひかげはコントローラーを渡しかけたが、途中で画面へ顔を戻した。


「……もう少しだけ、いいですか?」


「もちろん。僕はあとでいいよ」


 フェンリスは笑いながら一歩下がった。


 ひかげは再び画面へ向き直る。


 今度はボタンを一つずつ確かめながら、人物を歩かせたり、跳ばせたり、剣を振らせたりしていく。


 敵が現れると慌てて後退し、何もない壁へぶつかった。


「……逃げられません」


「敵の攻撃に合わせて、そのボタンを押すと避けられる」


「こっち……」


 和真に教えられたとおりにボタンを押す。


 画面の人物が横へ転がり、敵の攻撃を避けた。


 ひかげの牛耳が大きく持ち上がる。


「避けました」


「そのまま近づいて攻撃してみてくれ」


「……はい」


 ひかげは慎重に人物を近づけ、剣を振らせた。


 一度目は外れたものの、二度目の攻撃が敵に当たる。


 最後の一撃で敵が光となって消えると、画面に勝利を知らせる表示が現れた。


「倒せたな」


「……私が、倒したんですか?」


「ああ。初めてにしては上手だったぞ」


「本当……ですか?」


 ひかげの口元が、僅かに緩む。


 その後も少しだけ遊び、体験できる範囲を終えると、ひかげは名残惜しそうにコントローラーを元の場所へ戻した。


「どうだった?」


「……不思議でした」


「楽しかった?」


 フェンリスに尋ねられ、ひかげはすぐに答えられなかった。


 否定するように俯いたものの、牛耳は先ほどから持ち上がったままだ。


「……少しだけ」


「少しだけには見えなかったけどな」


「カズマ、それは言わなくていいよ」


「……楽しかったです」


 今度は、先ほどよりもはっきりと答えた。


 ひかげがこの世界のものへ、自分から興味を示した。


 それは和真にとっても嬉しい変化だった。


「こういうものが、家にも置けるんですか?」


「ああ。家庭用のゲーム機なら、テレビへつなげば遊べる」


「204号室でも……?」


「テレビと一緒に用意すればな」


 ひかげは売り場に並ぶゲーム機へ顔を向けた。


 しかし、値札を見つけると、すぐに視線を逸らしてしまう。


「……見るだけで、大丈夫です」


「欲しくないのか?」


「欲しいとは……思います。でも、服や家具まで買っていただくのに……これ以上は……」


「ゲーム機より、パソコンの方がいいかもしれないな」


「ぱそこん?」


 ひかげが首を傾げる。


「ゲームだけじゃなく、いろいろなことができる機械だ。文字を調べたり、映像を見たり、遠くにいる人と話したりもできる」


「さっきのゲームも……できますか?」


「性能の高いものならできる。遊べるゲームの種類も多いし、これから日本語の読み書きを覚えるときにも役立つはずだ」


「そんな機械が……あるんですか?」


「実際に見てみようか」


 三人は休憩を挟んでから、パソコン売り場へ向かった。


 何列にも並んだ画面や、色鮮やかに光る機械を前に、ひかげは圧倒されたように立ち止まる。


「……全部、パソコンですか?」


「形や性能は違うけどな」


「僕には、どれも同じに見えるよ」


 フェンリスが一台ずつ覗き込みながら答える。


「カズマは違いが分かるの?」


「基本的なことならな。ただ、ゲーム用となると店員に聞いた方が早い」


「店員さんと……話すんですか?」


 ひかげが不安そうに一歩下がる。


「話すのは俺だけでいい。ひかげは近くで見ていてくれ」


「……はい」


 和真は店員へ声をかけ、ゲームと普段使いの両方に使えるパソコンを探していると伝えた。


 予算や遊びたいゲームを聞かれたものの、ひかげがどのようなものを好むかは、まだ分からない。


 そのため、幅広いゲームを無理なく動かせ、数年は困らず使えるものを選んでもらうことにした。


 案内されたのは、内部が淡く紫色に光る黒いゲーミングパソコンだった。


 隣には大きな画面が置かれ、見本として幻想的な世界を冒険するゲームが動いている。


「……綺麗です」


 ひかげが、広大な草原を映し出す画面へ近づく。


 色鮮やかな花畑の向こうを、剣を背負った人物が歩いていた。


「これは……先ほどのものと同じですか?」


「同じゲームではないけど、画面の人物を動かして遊ぶところは同じだ」


「この中を……自由に歩けるんですか?」


「ああ。山へ登ったり、町へ行ったり、魔物と戦ったりできる」


「ほかの人と……話さなくても?」


「一人で遊べるゲームも多いぞ」


 その言葉に、ひかげが画面へ向けていた顔を僅かに上げた。


「……一人でも、知らない場所へ行けるんですね」


 人と接することを怖がるひかげにとって、自分の部屋にいながら知らない世界を歩けるというのは、強く心を引かれるものだったらしい。


 和真はパソコン本体の値札を確認する。


 そこへ、画面やキーボード、マウスなどを揃えれば、かなりの金額になる。


 服や家具も買う予定を考えれば、今日の出費は決して小さくない。


「カズマ、結構高いよ」


 フェンリスも値札を見て、小声で告げる。


「ああ。家庭用のゲーム機を買うより、ずっと高いな」


「……やっぱり、いりません」


 二人の会話を聞いたひかげが、すぐに画面から離れた。


「見せてもらえただけで……十分です」


「でも、欲しいんだろ?」


「欲しくありません」


 口ではそう答えているものの、牛耳は伏せられ、顔は画面の方へ向いたままだ。


「ひかげ」


「……はい」


「遠慮する必要はない。服や家具と同じで、ひかげがこの世界で生活していくために使うものだ」


「でも、これは……遊ぶためのものです」


「遊ぶことも生活の一部だよ」


 フェンリスが静かに言う。


「ずっと緊張して、怖いことばかり考えていたら疲れちゃうでしょ。自分の部屋で安心して楽しめるものがあってもいいと思う」


「……私だけ、そんなものを持つのは……」


「パソコンなら、ゲーム以外にも使える。日本語の勉強や、この世界のことを調べるのにも役立つから、無駄にはならない」


 和真はもう一度、パソコンと値札を見比べた。


 安い買い物ではない。


 それでも、ひかげが初めて自分から興味を示したものを、金額だけを理由に諦めさせたくなかった。


「これにしよう」


「……え?」


「ゲーム機も悪くないけど、これからのことを考えるならパソコンの方がいい。画面と必要な道具も一緒に揃える」


「駄目です」


 ひかげが珍しく強い声を出した。


「こんなに高いもの……受け取れません」


「だったら、ひかげのものじゃなくて、空色唐辛子荘の備品ということにしよう」


「……備品?」


「ああ。ひかげが204号室に住んでいる間、貸し出す。いつか自分で買えるようになったら、そのときに返してくれればいい」


 もちろん、和真は返してもらうつもりなどなかった。


 それでも、無条件に贈ると言うよりは、ひかげも受け入れやすいだろう。


「本当に……返してもいいんですか?」


「そのときになったら相談しよう」


「それ、返す時期を決めてないのと同じじゃない?」


 フェンリスが笑う。


 和真は答えず、店員へ必要な機器について相談を続けた。


 パソコン本体。


 大きすぎない画面。


 キーボードとマウス。


 音が外へ漏れにくいヘッドホン。


 機械に詳しくないひかげでも使いやすいよう、初期設定や設置まで依頼することにした。


「色はこれでいいか?」


 和真が尋ねると、ひかげは黒い本体の中で淡く光る紫色を見つめた。


「……綺麗だと思います」


「光る色は変えられるらしいぞ」


「消すことも……できますか?」


「もちろんできますよ」


 店員から答えられたひかげは、驚いたように和真の背後へ隠れた。


 店員は牛角や耳へ一瞬だけ目を向けたものの、衣装の一部だと思ったらしく、それ以上触れることはなかった。


 和真を挟んで説明を聞いたひかげは、しばらく迷ったあと、小さく頷く。


「……黒と、紫がいいです」


「分かった。それで頼もう」


 パソコン一式を決めたあと、三人は同じ施設内にある家具売り場へ向かった。


 最初に選ぶのは、ベッドだった。


 ひかげは一番安いものを選ぼうとしたが、和真に促され、実際にいくつかの寝台へ腰を下ろして確かめる。


「……これは、柔らかすぎます」


「じゃあ、もう少し硬い方がいいんだね」


 フェンリスと一緒に寝心地を比べ、最終的には身体が沈み込みすぎない、広めのベッドを選んだ。


 次は、パソコンを置くための机と椅子。


 ひかげの身体に合わせ、窮屈にならない大きさの机が必要だった。


「これなら、画面を置いても余裕があるな」


「……大きすぎませんか?」


「本を置いたり、文字を書く場所も必要になるだろ?」


「文字の練習も……ここでできますか?」


「ああ。パソコンで調べながら勉強することもできる」


「……それなら、これがいいです」


 椅子は長時間座っても疲れにくいものを選び、カーテンや収納棚、小さなテーブルも加えていく。


 初めは何を聞かれても遠慮していたひかげだったが、何度か選ぶうちに、少しずつ自分の希望を口にするようになった。


「カーテンは、これでいいですか?」


 フェンリスが暗い紫色のカーテンを広げる。


「……もう少し、黒い方が落ち着きます」


「じゃあ、こっちは?」


「それが……好きです」


「うん。ひかげの部屋らしくなってきたね」


 選んだ家具は、後日204号室へまとめて届けてもらうことになった。


 必要なものを一通り決め、和真が配送先を書類へ記入している間、ひかげは購入した服の紙袋を抱えながら、何度もパソコン売り場の方を振り返っていた。


 外へ出る前は、人の多い場所へ行くことをあれほど怖がっていた。


 今も緊張が消えたわけではない。


 それでも、自分の部屋に届くものを想像する余裕が生まれている。


「今日は、これくらいにして帰ろうか」


 手続きを終えた和真が声をかける。


「……はい」


「疲れた?」


「少し……でも」


 ひかげは大切そうに紙袋を抱き直した。


「来てよかったです」


「それならよかった」


「僕もゲームをやってみたいな。パソコンが届いたら、ひかげに教えてもらおうかな」


「私も……まだ、分かりません」


「さっき、僕より先に敵を倒してたじゃないか」


「あれは……和真さんに教えてもらったので……」


「じゃあ、三人で覚えればいい」


 和真がそう言うと、ひかげは小さく頷いた。


「……三人で」


 帰りの車へ向かうひかげの足取りは、来たときよりも僅かに軽くなっていた。


 ただし、服や家具、パソコンを揃えただけでは、まだ現代で安心して暮らせるとはいえない。


 ひかげには、この世界で生活するための身分証がない。


 フェンリスについても、和真の力で身元や住民としての記録は整えたものの、まだ正式なマイナンバーカードを受け取っていなかった。


 さらに、二人が外出先でも連絡を取れるようにするには、それぞれのスマートフォンも必要になる。


 204号室でパソコンを使うなら、空色唐辛子荘へインターネット回線も引かなければならない。


 次に役所が開く平日。


 和真は二人を連れ、残っている手続きを一つずつ済ませることにした。


次に市役所が開いた平日の朝。


 和真はフェンリスとひかげを連れ、市役所を訪れていた。


 休日の商業施設ほどではないものの、受付前には多くの人が順番を待っている。


 ひかげは和真のすぐ後ろに立ち、俯いたまま周囲の気配を窺っていた。


「……ここにも、人がたくさんいます」


「この前のお店よりは少ないよ」


 フェンリスが声を抑えて話しかける。


「僕のときもカズマが全部手伝ってくれたから、ひかげも大丈夫だよ」


「……はい」


 フェンリスもひかげも、和真がかけた魔法によって、この世界の人間と会話できる。


 ただし、その魔法が働くのは和真のそばにいる間だけだ。


「二人とも、俺から離れないようにな」


「分かってるよ」


「……離れません」


 三人は受付で番号札を受け取り、人の少ない端の席へ並んで座った。


 待っている間も、ひかげは何度も自分の角や牛耳へ手を伸ばしていた。


 周囲の者から視線を向けられるたび、長い前髪の奥に隠れるように顔を伏せてしまう。


「そんなに気にしなくて大丈夫だよ」


 フェンリスが自分の狼耳を指さす。


「僕の耳と尻尾だって出たままだけど、誰も何も言ってこないでしょ?」


「……少し、見られています」


「まあ、それは僕も気づいてるけど……」


「本物だとは思われてない。変わった格好をしているくらいにしか見られていないから、気にしなくていい」


 和真に言われ、ひかげは小さく頷いた。


 やがて番号を呼ばれ、三人は窓口へ移動した。


 ひかげの身分を整える方法は、先にフェンリスの記録を作ったときと同じだった。


 和真は勇者として得た力を使い、この世界の仕組みへ静かに干渉する。


 実在する誰かの戸籍を利用するのではなく、この世界に存在しなかった獅子宮ひかげという一人の女性を、新たな住民として認めさせる。


 和真の力が作用すると、市役所の端末に必要な情報が現れた。


 名前は、獅子宮ひかげ。


 住所は、空色唐辛子荘204号室。


 窓口の職員は、端末に表示された内容と手元の書類を見比べる。


「こちらのお名前と住所で間違いありませんか?」


 ひかげの身体が強張った。


 和真へ顔を向けたあと、勇気を振り絞るように答える。


「……はい。間違い、ありません」


「それでは、こちらの内容をご確認ください」


 書類を差し出されたものの、ひかげの手は途中で止まった。


 職員の言葉は理解できても、書かれている日本語までは読めない。


「俺が一緒に確認します」


 和真が書類を受け取り、ひかげにも分かるよう一つずつ説明する。


「ここが名前だ。『獅子宮ひかげ』と書いてある」


「……これが、私の名前」


 ひかげは自分の名前が記された場所へ、そっと指を置いた。


「こっちが住所。空色唐辛子荘の204号室だ」


「私の部屋も……書いてあります」


「ああ。ひかげが、そこに住んでいるという記録だ」


 ひかげは何も言わず、しばらく書類を見つめていた。


 やがて、伏せられていた牛耳が僅かに持ち上がる。


「……覚えたいです」


「自分の名前をか?」


「はい。いつか……自分で書けるようになりたいです」


「これから少しずつ練習しよう」


「……お願いします」


 必要な確認を終えると、ひかげは正式に空色唐辛子荘204号室の住人として登録された。


 そのまま二人のマイナンバーカードも申請する。


 フェンリスはすでに住民としての記録が整っていたため、手続きは問題なく進んだ。


「これが終わったら、僕もちゃんとした身分証を持てるんだよね?」


「ああ。ただし、カードができるまでには時間がかかる」


「今日もらえるんじゃないの?」


「申請したその日には受け取れないんだ」


「人間の町は、便利なのか不便なのか分からないなあ」


「たくさんの人のカードを順番に作るんだから、仕方ないだろ」


 フェンリスが納得しきれない様子で狼耳を倒す。


 隣では、ひかげが申請を終えた書類を見つめていた。


「これがあれば……私は、この世界の人として認めてもらえるんですよね?」


「正確には、今の手続きが終わった時点で、ひかげはここの住人だ。カードは、それを証明するために使うものだな」


「……もう、住人なんですか?」


「ああ」


「空色唐辛子荘の?」


「204号室の住人だよ」


 フェンリスが答えると、ひかげは胸元で両手を重ねた。


「……そうですか」


 その声は小さかったが、どこか安心しているように聞こえた。


 市役所での手続きを終えた三人は、母屋へ戻った。


 その日の午後、和真はインターネット回線の契約を進めることにした。


 今後、空色唐辛子荘に新たな住人が増えることも考え、改修を終えた棟から順番に利用できる環境を整えていく。


 まずは、ひかげが住む204号室を優先して工事を依頼した。


「工事が終われば、買ったパソコンをインターネットにつなげられる」


 母屋の食卓で和真が説明すると、ひかげが小さく首を傾げた。


「いんたーねっとに、つなげる……?」


「世界中にあるたくさんの機械と、情報をやり取りできるようにするんだ。知りたいことを調べたり、新しいゲームを追加したりできる」


「知らない人とも……つながるんですか?」


「ああ。使う場所によってはな」


 ひかげの牛耳が不安そうに下がる。


「知らない人と話さないと……使えませんか?」


「そんなことはない。一人で調べ物をしたり、映像を見たりするだけでも使える」


「……それなら」


「ただし、人を騙す情報や危険なものもある。最初は俺と一緒に使い方を覚えよう」


「分かりました。勝手には……触りません」


「そこまで怖がらなくていいよ。僕も一緒に覚えるからさ」


 フェンリスがひかげの隣から声をかける。


「僕だって、インターネットはまだよく分からないし」


「フェンリスも……初めてなんですね」


「うん。だから三人で覚えればいいよ」


「……はい」


 数日後、204号室へ購入した家具が届けられた。


 人見知りのひかげに代わり、業者への対応は和真が行う。


 広めのベッド。


 黒いカーテン。


 衣服をしまう収納棚。


 小さなテーブル。


 そして、パソコンを置くための机と椅子。


 何もなかった204号室へ家具が運び込まれ、少しずつ生活の場へと変わっていく。


 ひかげは部屋の隅に立ち、作業の邪魔にならないよう身を縮めながら、その様子を見守っていた。


「ベッドはここでいいか?」


 和真が窓から少し離れた場所を示す。


「……はい。窓の近くより、そちらの方が落ち着きます」


「机は予定どおり壁際に置くぞ」


「お願いします」


 フェンリスは業者が取りつけたばかりのカーテンを広げ、窓の前へ立った。


「ひかげ、閉めてみてもいい?」


「……はい」


 黒いカーテンが閉じられると、窓から差し込んでいた明るい光が遮られた。


 照明をつけても、部屋には落ち着いた暗さが残る。


「どう?」


「……落ち着きます」


「やっぱり黒にしてよかったね」


「はい。外から見られている気が……しないので……」


「誰も勝手に覗いたりしないよ。でも、ひかげが安心できるなら閉めておいていいと思う」


「……ありがとうございます」


 家具の搬入が終わった翌日には、ゲーミングパソコン一式も届いた。


 黒い本体。


 大きな画面。


 キーボードとマウス。


 音を聞くためのヘッドホン。


 そして、店頭で試したものと同じ形のコントローラー。


 店の担当者が机へ機器を並べ、初期設定を進めていく。


 本体の電源が入ると、透明な部分の奥から淡い紫色の光が広がった。


「……綺麗です」


 ひかげは部屋の隅から、光る本体をじっと見つめていた。


「店で見たものが、本当にひかげの部屋へ来たね」


 フェンリスも興味深そうに覗き込む。


「中に、小さな魔石がたくさん入っているみたいだよ」


「触るなよ。中には電気が流れているからな」


「分かってるよ。見るだけ」


「……電気は、危険なんですか?」


 ひかげが心配そうに尋ねる。


「普通に使っていれば問題ない。無理に開けたり、水をかけたりしなければ大丈夫だ」


「開けませんし……水もかけません」


「それなら大丈夫だ」


 設置を終えた担当者が帰るまで、ひかげはほとんど和真の後ろから出なかった。


 玄関の扉が閉まると、ようやく肩から力を抜く。


「……終わりましたか?」


「ああ。もう俺たちだけだ」


「では……触ってもいいですか?」


「もちろん。そのためのパソコンだからな」


 ひかげは机の前へ座り、和真に教えられながら電源ボタンを押した。


 静かな音とともに本体が動き始め、画面に明るい映像が表示される。


「文字が……たくさんあります」


「まだ読めないよな。よく使うものは、分かりやすい場所へ並べておく」


 和真はゲームや日本語の勉強に使うものを整理し、ひかげが見つけやすいよう印をつけた。


「この絵が……ゲームですか?」


「ああ。今日は、最初から入れてもらったものを動かしてみよう」


「お店で遊んだものとは……違うんですよね?」


「違うゲームだけど、同じコントローラーで操作できる」


 和真がコントローラーを渡すと、ひかげの牛耳が僅かに持ち上がる。


「これなら……少し分かります」


「僕も見てていい?」


 フェンリスが尋ねると、ひかげはすぐには答えなかった。


 自分の部屋へ誰かを招くことに、まだ慣れていないのだろう。


「……見ているだけなら」


「うん。勝手に触らないよ」


「フェンリスがやるときは……先に言ってください」


「分かった」


 ゲームを起動すると、画面に広い草原が現れた。


 その中央には、武器を持った一人の人物が立っている。


 ひかげはコントローラーを握り、慎重に人物を歩かせ始めた。


「……動きました」


「今度は壁にぶつからないようにね」


「見ていたんですか?」


「もちろん。僕もあとでやりたいから、ひかげの操作を見て覚えてるんだよ」


「失敗したら……恥ずかしいです」


「ゲームの中なら、何度失敗しても大丈夫だ」


 和真がそう言うと、ひかげは小さく頷いた。


 道の途中で小さな魔物が現れる。


 ひかげは慌てて人物を後退させ、近くの木へぶつかった。


「……また、ぶつけました」


「でも、敵の攻撃は避けられたよ」


「次は、そのまま攻撃してみよう。前に使ったボタンだ」


「……これ」


 ひかげがボタンを押す。


 画面の人物が武器を振り、魔物へ攻撃を当てた。


 一度目では倒せず、反撃を受けてしまう。


 ひかげは慌てたものの、今度は自分で距離を取った。


 魔物の攻撃を避け、もう一度近づいて武器を振る。


 最後の一撃が決まると、魔物が光となって消えた。


「……倒せました」


「やったね、ひかげ!」


 フェンリスが声を上げる。


 ひかげは驚いて肩を震わせたが、コントローラーを置くことはなかった。


「……もう一体、探してもいいですか?」


「もちろんだ」


「僕にもあとでやらせてね」


「もう少しだけ……待ってください」


「お店でも同じことを言ってたよ」


「今度は……もう少し上手にできそうなので……」


 画面から流れる音楽を聞きながら、ひかげは再び人物を歩かせ始めた。


 それからしばらくして、フェンリスとひかげのマイナンバーカードが完成したという知らせが届いた。


 三人は再び市役所を訪れ、それぞれのカードを正式に受け取った。


 帰りの車の中で、ひかげは受け取ったばかりのカードを大切そうに見つめていた。


「落とさないようにな」


「……はい」


「それと、誰にでも見せていいものじゃない。普段は鞄の中へしまっておくんだぞ」


「分かりました」


 ひかげはカードを専用の入れ物へしまい、鞄の奥へ慎重に入れた。


「僕もちゃんとしまったよ」


 隣のフェンリスが胸を張る。


「どこに入れたか忘れるなよ」


「忘れないよ!」


「フェンリスなら……少しだけ、ありそうです」


「ひかげまでそんなこと言うの?」


「……すみません」


「謝らなくていいけど、カズマに似てきた気がするなあ」


 その日の午後、三人は携帯電話の販売店へ向かった。


 フェンリスとひかげが、外出先でも和真へ連絡できるようにするためだ。


 料金の支払いは当面、和真がまとめて行うことにし、二人を利用者として一台ずつ契約する。


 本人確認には、受け取ったばかりのマイナンバーカードを使った。


 手続きを終えると、二人の前へ新しいスマートフォンが置かれた。


「これが、僕の?」


「ああ。桃色の方がフェンリスだ」


「じゃあ、黒い方が……私の」


「ひかげが選んだ色だよ」


「……はい」


 二人は自分のスマートフォンを、壊さないよう慎重に受け取った。


 フェンリスは興味を抑えきれず、すぐに画面を指で触り始める。


「カズマ、触ったら絵が動いたよ!」


「強く押さなくても動くからな。落とさないように気をつけろよ」


「分かってるって」


 ひかげは黒い画面に触れることもできず、両手で持ったまま固まっていた。


「……どこを押せばいいんですか?」


「まずは、俺が必要な設定をする。ひかげは見ていてくれ」


「お願いします……」


 和真は二人のスマートフォンへ、通話やメッセージのやり取りができるアプリ「JINE」を入れた。


 自分とフェンリス、ひかげのアカウントを登録し、三人だけのグループも作る。


「連絡を取りたいときは、この緑色の印を押してくれ」


「じぇいん?」


「離れた場所にいる相手へ、文章や絵を送れるものだ。声を聞きながら話すこともできる」


「僕とひかげだけでも使えるの?」


「使える。ただ、俺が近くにいないと二人の言葉は互いに通じない。文字もまだ読めないから、最初はスタンプを使うといい」


「すたんぷ……?」


 和真はJINEの画面を操作し、笑顔で手を振っている動物の絵を選んだ。


 それを三人のグループへ送ると、フェンリスとひかげのスマートフォンが同時に音を鳴らす。


「わっ、何か来た!」


「……私の方にも」


「今送ったのがスタンプだ。文字が読めなくても、絵を見れば意味が分かるだろ?」


「この動物は……挨拶しているんですね」


「ああ。こういうものなら、二人だけでも使える」


 和真は続けて、了承、助けて、母屋へ行く、部屋へ戻るといった意味に使えるスタンプを選び、二人へ教えた。


「困ったときは、このスタンプを俺に送ってくれ」


 和真が助けを求める表情のスタンプを示す。


「文章を打てなくても、何かあったことは分かる。急ぎなら、JINEの通話を使ってもいい」


「場所が分からなくなったときは?」


「今いる場所を送る機能もある。ただ、二人だけで出かけるのは、もう少しこの世界に慣れてからだな」


「分かった」


 フェンリスはJINEの画面を操作し、家の前で手を挙げている動物のスタンプをひかげへ送った。


 ひかげのスマートフォンから音が鳴る。


「これは……?」


「ひかげの部屋へ遊びに行ってもいいか聞いてるんだ」


「今、同じ場所にいますけど……」


「練習だよ、練習」


 ひかげは画面を見つめ、和真に教えられたとおり、了承を示すスタンプを返した。


 今度はフェンリスのスマートフォンから音が鳴る。


「返事が来た!」


「……これで、合っていますか?」


「ああ。ちゃんと伝わっているぞ」


 安心したように、ひかげの牛耳が僅かに持ち上がる。


 その直後、フェンリスが面白がり、笑顔や食べ物、踊る動物のスタンプを次々と送り始めた。


 ひかげのスマートフォンが何度も続けて音を鳴らす。


「フェンリス……多いです」


「あっ、ごめん。いろいろあって面白かったから」


「通知の音を小さくしておこうか」


「……お願いします」


「僕のもお願い。これなら、たくさん送っても驚かないでしょ?」


「音の大きさの問題では……ないと思います」


 ひかげが小さく指摘すると、フェンリスは困ったように狼耳を倒した。


 スマートフォンを契約してから数日後。


 空色唐辛子荘の回線工事が行われ、204号室のパソコンもインターネットへつながった。


 和真は危険なサイトへ不用意に入らないよう設定を整え、ひかげへ基本的な使い方を教えていく。


 だが、調べ物をするにも、画面に並ぶ文字を読む力が必要だった。


 ゲームの説明にも、ひかげには読めない日本語が数多く使われている。


「……和真さん」


「どうした?」


「私、日本語を覚えたいです」


「急にどうしたんだ?」


「ゲームに書いてあることが……読めません。それに、JINEもスタンプだけではなくて……いつか、自分で言葉を送りたいです」


 ひかげはキーボードの上へ、そっと指を置いた。


「自分で読んだり、書いたりできるようになれば……和真さんがいないときでも、もっといろいろなことができます」


「ああ。少しずつ勉強していこう」


「……教えていただけますか?」


「もちろん。そのためにもパソコンを買ったんだからな」


「僕も一緒に教えてもらう!」


 フェンリスが隣から声を上げる。


「フェンリスも?」


「僕だって、話せるだけで文字は読めないからね。ひかげだけ先にJINEで文章を送れるようになったら悔しいし」


「競争では……ないと思います」


「目標があった方が覚えやすいんだよ」


「それなら、二人分の教材を用意しないとな」


 和真が答えると、フェンリスは嬉しそうに尻尾を振った。


 ひかげも、長い前髪の奥から画面へ顔を向ける。


 そこには、自分で選んだ黒と紫のパソコン。


 机の横には、新しいスマートフォン。


 収納棚には、初めて自分で選んだ服が収められている。


 昨夜まで布団しかなかった204号室は、もう空っぽではなかった。


「……私の部屋」


 ひかげが静かに呟く。


「やっと実感できたか?」


「少しだけ……」


 自分の居場所。


 自分で選んだもの。


 そして、知らない世界とつながるための小さな窓。


 そのどれも、ひかげにとって大切なものになり始めていた。


「和真さん」


「ん?」


「本当に……ありがとうございます」


「気にしなくていい。困ったことがあれば、いつでも母屋へ来てくれ」


「僕のところにも来ていいからね」


「フェンリスの部屋は、まだ少し散らかっているけどな」


「カズマ!」


「……少し、ですか?」


「ひかげまで疑わないでよ!」


 フェンリスの声に、ひかげの口元から小さな笑いがこぼれた。


 すぐに恥ずかしそうに俯いたものの、今度は謝らなかった。


 机の上に置かれたスマートフォンから、小さな通知音が鳴る。


 画面には、フェンリスから送られた笑顔のスタンプが表示されていた。


 ひかげは少し迷ったあと、自分でも同じ笑顔のスタンプを選び、三人のJINEグループへ送る。


 和真とフェンリスのスマートフォンが、ほぼ同時に音を鳴らした。


「ひかげから来た!」


「……練習です」


「ちゃんと届いたぞ」


 ひかげはスマートフォンを胸元へ抱え、僅かに口元を緩めた。


 空色唐辛子荘204号室。


 そこはこの日、獅子宮ひかげにとって、ただ眠るためだけの場所ではなくなった。


 彼女が安心して帰ることのできる、初めての自分の部屋になったのだった。

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