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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第四話 新たな住人

 解体工事の後片付けが終わり、空色唐辛子荘の敷地から重機の音が消えてから、しばらくが過ぎた。


 先に改修を始めていた2棟は、外壁や屋根だけでなく、室内の補修もほとんど終わっている。


 まだ誰も住んでいないため、以前と変わらず静かではあるものの、荒れ果てていた頃とはまるで違う。傷んでいた廊下や階段は補修され、雑草に覆われていた建物の周囲も綺麗に整えられていた。


 そして今日、フェンリスが暮らす部屋を正式に決めることになった。


「好きな部屋を選んでいいぞ」


 和真がそう告げると、フェンリスは改修を終えた1棟目の前に立ち、建物を見上げた。


「本当に、僕が選んでいいの?」


「ああ。実際に暮らすのはフェンリスなんだから、俺が勝手に決めるわけにはいかないだろ」


「でも、どこも綺麗にしてもらったし……僕は寝る場所があれば、それだけで十分なんだけど」


「これから長く暮らすかもしれない場所だぞ。遠慮しなくていい」


「そう言われてもなあ……」


 フェンリスは困ったように眉を下げ、大きな尻尾をゆっくり揺らした。


 いくつかの部屋を見て回った末、彼女が選んだのは1棟目の101号室だった。


 母屋から最も近い、1階の角部屋である。


「ここがいい」


「やっぱり1階が楽だからか?」


「それもあるけど……」


 フェンリスは玄関から少し身を乗り出し、母屋の方を見る。


 それから、どこか照れくさそうに狼耳を伏せた。


「母屋に近いから。何かあったら、すぐ和真を呼べるでしょ?」


「まあ、それはそうだな」


「べ、別に、一人になるのが嫌とかじゃないからね」


「まだ何も言ってないぞ」


「顔に書いてある」


「書いてないって」


 和真が苦笑すると、フェンリスは拗ねたように頬を膨らませた。


 だが、その尻尾は嬉しそうに左右へ揺れている。


「それじゃ、101号室で決まりだな」


「うん。今日から、ここが僕の部屋……」


 フェンリスは室内を見回し、確かめるように小さく呟いた。


 改修されたばかりの部屋には、まだ家具が何もない。


 白い壁紙と新しい床。小さな台所と、空っぽの居間。奥には寝室として使える部屋もあるが、今のままでは暮らせなかった。


「よし。部屋も決まったし、家具を買いに行くか」


「え?」


「ベッドにテーブル、冷蔵庫も必要だな。あとはカーテンと照明、それから食器棚も――」


「ちょ、ちょっと待って!」


 和真がスマートフォンへ必要な物を入力し始めると、フェンリスが慌てて腕へしがみついた。


「そんなに買ったら、またお金がかかるでしょ!」


「家具がなかったら生活できないだろ」


「床で寝ればいいよ。前にいた世界じゃ、野宿なんて何度もしてきたし」


「せっかく部屋があるのに、どうして床で寝るんだよ」


「毛布があれば平気だって。冷蔵庫も、和真の家にある物を使わせてもらえば――」


「毎回、母屋まで取りに来るつもりか?」


「それは……ちょっと面倒かも」


「だろ?」


 言い返せなくなったフェンリスが、耳をぺたりと伏せる。


 彼女はこの世界の物価を完全には理解していない。それでも、和真がアパートの修繕や敷地の整備に、かなりの金額を使っていることは分かっていた。


 自分のために、これ以上負担をかけたくない。


 その気持ちが表情へはっきりと表れていた。


「必要経費だから気にするな」


「和真、何でもそれで済ませようとしてない?」


「必要な物は必要なんだから、仕方ないだろ」


「でも……僕、まだ何も返せてない」


 フェンリスは和真の腕から手を離し、俯いた。


「助けてもらって、住む場所まで用意してもらって……服も食べ物も、全部、和真に頼ってる。これ以上甘えたら、僕は本当に何もできなくなりそうで……」


「じゃあ、いつか返してくれればいい」


「いつか?」


「ああ。今すぐじゃなくていい。フェンリスがこの世界で暮らせるようになって、余裕ができてからでいいんだ」


 和真はそう言うと、伏せられていた狼耳の間へ軽く手を置いた。


「それまでは、俺に頼れ」


「……そういう言い方、ずるいよ」


「何がだ?」


「断れなくなる」


 フェンリスは俯いたまま、小さく笑った。


 こうして押し切られる形で、フェンリスは家具を揃えることを受け入れた。


 二人が向かったのは、町外れにある大型の家具店だった。


 広い店内には、フェンリスが見たこともないほど多くの家具や家電が並んでいる。


 最初こそ周囲の客を気にして帽子を深く被っていたが、展示されている部屋を見て回るうちに、徐々に緊張が薄れていった。


「和真、見て。このベッド、すごく柔らかい」


「気に入ったなら、それにするか?」


「値札を見てから言って!」


 試しに腰を下ろしていたフェンリスが、慌てて立ち上がる。


「こっちの安いのでいいよ。僕、そんなに寝相悪くないし」


「尻尾まで入るか?」


「……ちょっと狭いかも」


「なら、大きい方だな」


「だから高いって!」


 ベッドを決めるだけで、二人はしばらく売り場を行ったり来たりした。


 テーブルは食事と日本語の勉強に使える少し大きめの物。冷蔵庫はフェンリス一人で使うには余裕のある物を選んだ。


 ほかにも電子レンジ、炊飯器、カーテン、食器、収納棚などを揃えていく。


 会計に表示された金額を見た瞬間、フェンリスの尻尾が固まった。


「和真……やっぱり、いくつか返してこよう」


「もう会計が終わったから駄目だ」


「今なら間に合うよ!」


「必要な物しか買ってないだろ」


「一人で使う金額じゃないって!」


「最初に揃える時は、どうしてもこれくらいかかるんだよ」


 和真は平然と支払いを済ませてしまった。


 店を出た後も、フェンリスは何度も申し訳なさそうに和真の横顔を見上げていた。


 やがて、何かを決意したように両手を握る。


「僕、ちゃんと働く」


「焦らなくてもいいぞ」


「焦ってない。僕も、この世界でできることを増やしたいんだ」


 その言葉どおり、フェンリスは日本語の勉強へ以前より熱心に取り組むようになった。


 和真の能力を通せば、二人は今までどおり問題なく会話できる。


 しかし、それだけでは和真のいない場所で日本人と話すことができない。


 フェンリスは文字の練習から始め、テレビや動画で言葉を覚えた。分からない単語があれば、すぐに和真へ尋ねる。


 元々、耳が良いうえに覚えも早かった。


 しばらくすると、簡単な日常会話なら和真の能力に頼らず、聞き取って話せるまでになっていた。


「いらっしゃいませ」


「ありがとうございました」


「これで、合ってる?」


「ああ。かなり自然になったな」


「本当?」


 和真が頷くと、フェンリスの耳がぴんと立った。


 その頃には身元を確認できる書類も、和真が魔法を駆使することで、どうにか用意できていた。


 何もないところから戸籍を作るのは、魔法を使える和真にとっても簡単なことではなかった。


 それでも、この世界でフェンリスが暮らしていくためには、いつまでも身元不明のままではいられない。


 何度も下調べを重ね、できる限り不自然にならない形を整えた結果、ようやく働くために必要な準備が揃ったのである。


 そしてフェンリスは、空色唐辛子荘の近所にある小さな酒屋で、短時間のアルバイトを始めた。


 店主には、海外で暮らしていたため日本語にまだ慣れていないと説明してある。


 大きな狼耳と尻尾は相変わらず精巧なコスプレだと思われていたが、近所では既にフェンリスの姿を見慣れた者も多い。


 最初は珍しがられたものの、今では店先に彼女が立っていても、大きな騒ぎにはならなくなっていた。


「ありがとうございました!」


 少しぎこちない発音で客を見送ったフェンリスが、店の前で待っていた和真のもとへ駆け寄ってくる。


「お疲れさま。今日はどうだった?」


「失敗しなかったよ。お客さんとも、ちゃんと話せた」


「すごいじゃないか」


「えへへ……店長にも褒められた」


 得意そうに胸を張るフェンリスを見て、和真も自然と笑顔になる。


 出会った頃は、見知らぬ世界へ来た不安を抱え、いつも和真のそばから離れようとしなかった。


 今も寂しがりであることに変わりはない。


 それでも、自分から一歩を踏み出せるようになってきている。


「初めてのお給料が入ったら、和真に何か買ってあげる」


「自分のために使えばいいだろ」


「駄目。僕が決めたの」


「だったら、安い物にしてくれよ」


「何を買うかは秘密。楽しみにしてて」


 上機嫌で隣を歩くフェンリスの尻尾が、時折、和真の脚へ触れる。


 その距離は以前よりも近い。


 二人の間にあった警戒や遠慮も、少しずつ薄くなっていた。


 このまま穏やかな毎日が続いていく。


 和真は、どこかでそう思い始めていた。


 しかし、その日の夕方。


 空色唐辛子荘へ戻った和真は、敷地へ足を踏み入れた瞬間、異常な魔力の揺らぎを感じ取った。


「……またか?」


 立ち止まった和真の表情が険しくなる。


 フェンリスも一瞬遅れて異変に気づき、狼耳を立てた。


「和真、この感じ……」


「ああ。フェンリスが転移してきた時と似てる」


 だが、魔力が発生しているのは屋外ではない。


 改修を終えた1棟目。


 その2階からだった。


 二人は急いで階段を上る。


 近づくほど、空間を歪ませるような魔力が強くなっていく。


 やがて和真は、誰も住んでいないはずの204号室の前で足を止めた。


 扉の奥から、微かに何かが軋むような音が聞こえる。


「フェンリスはここにいてくれ。俺が中を確認する」


「僕も行く」


「何が起きているか分からないんだぞ」


「だから一緒に行くんだよ。和真だけ危ない目に遭わせられない」


 フェンリスは一歩も引こうとしなかった。


 その時、室内から重い物が床へ落ちるような音が響いた。


 二人が同時に扉を見る。


 和真はすぐに取っ手へ手をかけたが、開ける前に小さく息を吐いた。


「分かった。ただし、俺から離れるな」


「うん」


 和真が静かに扉を開ける。


 しかし、薄暗い室内には誰の姿もなかった。


 窓が開き、カーテンが風に揺れている。


 床の中央には、何かを引きずったような痕が残されていた。


 そして開け放たれた窓の向こう。


 狭いベランダに、長い黒髪の人影が立っていた。


 その頭には、人間にはない大きな角が生えている。


 柔らかそうな牛の耳と、細長い尾も見えた。


 彼女は果ての見えない街を見下ろし、全身を震わせていた。


眼下には無数の建物が並び、その間を見たこともない鉄の箱が行き交っている。


 遠くから絶え間なく響く走行音。


 規則正しく点滅する信号機。


 空を横切る鳥。


 そして、そのすべてを覆うように、どこまでも高く、果ての見えない空が広がっていた。


「なに……ここ……」


 女性の口から、掠れた声が漏れる。


 壁がない。


 行き止まりもない。


 どこまで進めば、この世界の果てへたどり着けるのか。それすら分からない。


 彼女がこれまで知っていたのは、冷たい石壁に囲まれた迷宮だけだった。


 暗く狭い通路。


 湿った空気。


 何重にも閉ざされた扉。


 誰かから深く恨まれた者だけが送り込まれる、外へ出ることのできない呪われた迷宮。


 彼女は、その最奥で生きてきた。


 与えられていた役目は、迷宮へ送られた罪人を裁くこと。


 巨大な斧を振るい、逃げ惑う者を追い詰める処刑人。


 ミノタウロスの守護者として、それ以外の生き方など何一つ知らなかった。


 感情は必要ない。


 慈悲も必要ない。


 迷宮へ送り込まれた罪人を裁く。


 ただそれだけが、自分の存在する理由だった。


 だが、ある日。


 本来ならば、決して迷宮へ来るはずのない者が現れた。


 罪を持たない、ひとりの人間の女性だった。


 彼女は何度も家族の名を呼び、ここから帰りたいと泣いていた。


 誰かを傷つけたわけでもない。


 何かを奪ったわけでもない。


 ただ理不尽な恨みを向けられたことで、誤って迷宮へ送り込まれてしまったのである。


 迷宮の掟は絶対だった。


 罪なき者を誤って裁いた場合、守護者はその者が最後に抱いた願いを叶えなければならない。


 その女性の願いは、ただ一つ。


 迷宮を出て、元いた場所へ帰りたい。


 家族のもとで、穏やかに暮らしたい。


 しかし、彼女の身体は既に命を失いかけていた。


 そこで守護者は、自らの存在を捨てることを選んだ。


 自身の魂と力を女性の身体へ移し、その命をつなぎ止めたのである。


 だが、融合は完全ではなかった。


 人間の姿を得た身体には、守護者だった頃の特徴が残った。


 頭から伸びる牛の角。


 柔らかな牛の耳。


 そして、細長い牛の尻尾。


 それでも、元の世界へ帰ることができればよかった。


 そう思って発動させた転移は、大きく失敗した。


 気づいた時には、見覚えのない部屋の中へ倒れていた。


 そして窓の向こうに広がっていたのは、彼女が想像したことすらない、あまりにも広大な世界だった。


「広い……」


 目の前の景色が揺れる。


「広すぎる……」


 どこにも壁がない。


 囲まれていない。


 自分がどこにいるのかさえ分からない。


 何かにつかまっていなければ、果てのない空へ吸い込まれてしまいそうだった。


「いや……ここ、どこなん……?」


 呼吸が次第に浅くなる。


 足へ力が入らない。


 遠くにあるはずの建物が一斉に迫ってくるように感じられ、彼女は頭を抱えてしゃがみ込んだ。


「怖い……」


 柔らかな牛耳が小さく震える。


「怖い……怖い……!」


「おい、大丈夫か!」


 突然背後から聞こえた声に、彼女の身体が大きく跳ねた。


 反射的に立ち上がり、逃げるように室内へ飛び込む。


 そこには、見知らぬ男性が立っていた。


 混乱した思考を、迷宮の守護者として刻み込まれた本能が塗り潰していく。


 侵入者。


 自分を害するかもしれない存在。


 排除しなければならない。


 彼女は両手を伸ばし、何もない空間を強く握った。


 かつてならば、その手には巨大な斧があった。


「来ないで……!」


 斧を構えたつもりで腰を落とし、和真へ向き直る。


 しかし、その両手には何もない。


「あれ……?」


 戸惑いながら、自分の手を見る。


 以前の太く強靱な腕ではなかった。


 そこにあるのは、人間と変わらない肌をした細い腕だった。


「わたしの……手……?」


 視線を下ろす。


 大きく隆起していた筋肉も、硬い獣毛もない。


 身体の形そのものが、守護者だった頃とはまるで違っている。


 自分が救おうとした人間の身体。


 そこに残されているのは、角と牛耳、尻尾だけだった。


「人間に……なったん……?」


 彼女は呆然と呟いた。


 魂を移したことで、ミノタウロスとしての身体を失った。


 その事実を、今になって初めて理解したのである。


 一方、和真も目の前の状況に言葉を失っていた。


 見知らぬ女性が突然現れたことにも驚いている。


 しかし、それ以上に問題なのは、彼女が何も身につけていないことだった。


「ご、ごめん!」


 和真は慌てて背を向けた。


 急な行動に、彼女の肩がびくりと揺れる。


「な、なんで……後ろ向くん……?」


「なんでって、その……服を着てないからだ」


「服……?」


 和真に言われ、彼女は改めて自分の姿を確かめた。


 転移の際に失われたのか、身を守っていた鎧も、身体へ巻いていた布もない。


 その事実を理解した途端、顔が一気に赤くなった。


「い、いやあああっ!」


 床へしゃがみ込み、両腕で身体を隠す。


「見た……?」


「見てない!」


「絶対、見た……!」


「本当に見てないから!」


「嘘や……こっち向いとったもん……!」


「部屋に入った時は仕方ないだろ! 今は見てない!」


「和真、どうしたの?」


 騒ぎを聞きつけたフェンリスが、廊下から204号室を覗き込んだ。


 直後、その赤い瞳が大きく見開かれる。


 床にしゃがみ込んでいる見知らぬ女性。


 その女性へ背を向け、両手を上げている和真。


 状況を理解したフェンリスの表情が、見る見るうちに険しくなった。


「和真」


「待て。誤解だ」


「とりあえず、部屋から出て」


「違うんだ。俺が入った時には、もうこの状態で――」


「説明は後で聞くから、早く出て」


 フェンリスは笑顔だった。


 しかし、狼耳はぴんと立ち、大きな尻尾の毛が膨らんでいる。


「ほら、早く」


「……分かった」


 和真は女性の方を見ないよう注意しながら、後ろ向きに204号室から出た。


 フェンリスはすぐに扉を閉める。


 それから、怯えている女性を刺激しないよう、その場へゆっくりしゃがみ込んだ。


「もう大丈夫。和真は外に出したから」


「……誰?」


「僕はフェンリス・ルセアート。牙狼族っていう狼の獣人だよ」


 フェンリスは自分の狼耳を片手で示し、女性を怖がらせないように微笑んだ。


「僕も君と同じで、この世界とは違う場所から来たんだ。今は、このアパートで和真に面倒を見てもらってる」


「違う……世界……?」


「うん。僕がいた世界にも、こんなに高い建物や、勝手に走る鉄の箱なんてなかったよ」


「じゃあ……あれが何か、知らんの……?」


「今は少し分かるけど、最初は僕も何も知らなかった。だから、君が混乱する気持ちは分かるよ」


 女性が僅かに顔を上げる。


 長く伸びた暗い前髪が目元全体を覆い、その奥にある目はまったく見えなかった。


 それでも、フェンリスの狼耳と尻尾には気づいたらしい。


 張り詰めていた肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。


「君の名前を聞いてもいい?」


「名前……」


 女性は繰り返したあと、俯いた。


「ない……」


「ないの?」


「守護者に……名前なんて、いらんかったから……」


 自分を指し示す言葉はあっても、それは個人へ与えられた名前ではなかった。


 迷宮の守護者。


 処刑人。


 ミノタウロス。


 彼女は生まれてから一度も、自分だけの名前を持ったことがなかった。


「そっか……」


 フェンリスはそれ以上問い詰めなかった。


「じゃあ、今は無理に答えなくていいよ。僕の名前も、ゆっくり覚えてくれればいいから」


「フェン……リス……」


「うん。フェンリス」


 女性が確認するように小さく呼ぶと、フェンリスは笑顔で頷いた。


「そのままだと寒いよね。服を持ってくるから、ここで待ってて」


「行かないで……」


 立ち上がろうとしたフェンリスの上着を、女性が咄嗟につかんだ。


 指先が小さく震えている。


「ご、ごめん……」


「謝らなくていいよ」


「一人は……怖い……」


「分かった。僕はここにいる」


 フェンリスは女性のそばへ座り直すと、閉じた扉へ向かって声を上げた。


「和真、僕の部屋から服を持ってきて! 下着もお願い!」


「俺が取りに行くのか?」


「ほかに誰がいるの!」


「どれを持ってくればいいんだよ!」


「寝室の棚に入ってるから、適当に一式!」


「適当が一番困るんだけど……」


 扉越しに聞こえる二人のやり取りに、女性が僅かに顔を動かした。


「さっきの人……か...ず...ま、っていうん……?」


「そうだよ。四ノ宮和真。少しお人好しすぎるけど、悪い人じゃない」


「怖く……ない?」


「大丈夫。僕もこの世界へ来た時、和真に助けてもらったんだ」


「フェンリスも……?」


「うん。僕も帰る場所がなくて、何をすればいいか分からなかった。でも和真は、僕を追い出さなかった」


 女性は何も答えなかった。


 ただ、閉ざされた扉を長い前髪の奥から見つめている。


 しばらくすると、和真が持ってきた衣服が扉の前へ置かれた。


 フェンリスは扉を僅かに開け、外へ腕だけを伸ばして服を受け取る。


「少し小さいかもしれないけど、今はこれで我慢してね」


「……ありがとう」


 フェンリスが用意したのは、ゆったりとしたシャツと長いスカートだった。


 服の着方が分からず戸惑う女性を手伝い、どうにか身につけさせる。


 女性はフェンリスよりも背が高く、身体つきも異なる。


 特に胸元はかなり窮屈そうだった。


「苦しくない?」


「ちょっと……苦しい。でも、大丈夫……」


「ごめんね。後で身体に合う服を用意しよう」


「わたしの……服……?」


「うん。このままじゃ困るでしょ?」


 女性は返事をせず、借りたシャツの裾を強く握った。


 ここにいてもいいのか。


 服を受け取ってしまってもいいのか。


 そんな不安が、俯いた姿から伝わってくる。


 フェンリスは無理に話を聞こうとはせず、ゆっくり扉を開けた。


「和真、もう入っていいよ」


 廊下で待っていた和真が、恐る恐る室内を覗く。


「本当に大丈夫か?」


「もう服は着てるから」


「さっきのは事故だからな?」


「分かってるよ。ちょっと驚いただけ」


「尻尾を膨らませながら言われても説得力がないんだけど」


 和真が204号室へ戻ると、女性はすぐにフェンリスの背後へ隠れた。


 身体の大半は隠しきれていない。


 それでも彼女は、少しでも和真から見えなくなるよう身を縮めている。


「怖がらせて悪かった。改めて、俺は四ノ宮和真だ」


「……しの、みや……?」


「呼びにくかったら、和真でいい」


「かず……ま……」


 女性が小さな声で名前を繰り返す。


 フェンリスは、そんな彼女を安心させるように微笑んだ。


「和真は大丈夫だよ。僕もこの世界で暮らせるように、いろいろ助けてもらったから」


「助けて……くれるん?」


「まずは何が起きたのか、話せる範囲で聞かせてほしい。ただ、今すぐ話したくないなら無理に話さなくていい」


 和真は不用意に近づかず、その場へ膝をついた。


「ここがどこなのかも、分からないんだろ?」


 女性が小さく頷く。


「帰る場所はあるか?」


 その身体が固まった。


「……ない」


 震える声が、静かな室内へ落ちる。


「戻れない……もう、どこにも……」


 呼吸が再び乱れ始める。


 開け放たれていた窓から、夕暮れの街が見えていた。


 女性の意識も、無意識にその景色へ引き寄せられる。


「いや……」


 牛耳が震え、両腕で頭を抱える。


「広い……怖い……」


 和真はすぐに立ち上がり、窓を閉めた。


 続けてカーテンを引く。


 果ての見えない街と空が遮られ、204号室は薄暗くなった。


 それでも女性の震えは止まらない。


 逃げる場所を探すように室内を見回したあと、空の押し入れへ駆け寄った。


 扉を開き、その狭い空間へ身体を押し込む。


 そして内側から扉を閉めてしまった。


「えっ、ちょっと!」


 フェンリスが追いかけようとするが、和真が静かに手で制した。


「今は、そのままにしておこう」


「でも……」


「広い場所が怖いんだ。狭くて暗い場所の方が落ち着くんだと思う」


 二人は押し入れの前へ座った。


 和真が無理に扉を開けることはなかった。


 追い出そうとも、問い詰めようともしない。


 ただ、彼女が落ち着くのを静かに待った。


 やがて、押し入れの中から掠れた声が聞こえてくる。


「……怒らないの?」


「何をだ?」


「勝手に……ここへ来たから……」


「好きで来たわけじゃないんだろ?」


「……うん」


「なら、怒る理由はない」


 しばらく沈黙が続いた。


 和真は閉ざされた扉へ向かい、穏やかな声で続ける。


「今すぐ出てこなくてもいい。話したくないことも、無理に話さなくていいから」


「……追い出さない?」


「追い出さない」


「本当に……?」


「ああ」


 再び沈黙が訪れる。


 その隣で、フェンリスも優しく声をかけた。


「僕も最初は怖かったよ。知らない場所で、これからどうなるのか何も分からなかった」


「フェンリスも……?」


「うん。でも、和真がそばにいてくれた。だから君も、一人じゃないよ」


 押し入れの扉が、ほんの僅かに開いた。


 暗闇の中から、長い前髪に隠された顔が覗く。


 彼女はしばらく二人の様子を窺ったあと、震える手を外へ伸ばした。


 その指先が、和真の服の裾を小さくつまむ。


「ちょっとだけ……ここに、いて……」


「ああ。分かった」


 和真は、その手を振り払わなかった。


「落ち着くまで、ここにいる」


 広すぎる世界へ迷い込んだ名もなき女性は、暗く狭い押し入れの中で、初めて小さな安心を見つけていた。


押し入れから伸びた細い指は、和真の服の裾をつかんだまま離れなかった。


 和真も無理に手をほどこうとはせず、押し入れの前へ座り続ける。


 フェンリスもその隣に腰を下ろし、閉ざされた扉を静かに見守っていた。


 どれほどの時間が過ぎただろう。


 外から聞こえていた車の音が少なくなり、204号室は次第に静けさへ包まれていった。


 やがて、押し入れの中から小さな音が聞こえる。


「……お腹、空いた」


 あまりにもか細い声に、和真とフェンリスは顔を見合わせた。


「何か食べられそうか?」


「分からん……」


「嫌いな物はある?」


「虫……」


「虫は食べ物に入れないから安心して」


 フェンリスが苦笑すると、押し入れの扉が僅かに開いた。


 暗い隙間から、長い前髪に覆われた顔が覗く。


「ほんまに……?」


「ああ。少なくとも、今日の夕飯に虫が出ることはない」


「今日だけみたいな言い方しないでよ。これからも出さないからね」


 フェンリスに指摘され、和真は困ったように頭を掻いた。


 そのやり取りを見た彼女の肩から、少しだけ力が抜ける。


「温かい物を持ってくるよ。ここで食べるか?」


 和真が尋ねると、彼女は小さく頷いた。


「じゃあ、僕も手伝ってくる。すぐ戻るから待っててね」


 フェンリスが立ち上がる。


 押し入れの中の女性は不安そうに服の裾を握り締めたが、今度は引き止めなかった。


「和真は……?」


「俺も夕飯を持ってくる」


「戻って……くる?」


「ああ。必ず戻ってくる」


 和真がそう答えると、彼女は迷った末に、服の裾から指を離した。


「……待ってる」


 二人は一度、母屋へ戻った。


 急いで夕食の準備を始めたものの、和真は相変わらず料理が得意ではない。


 結局、フェンリスが酒屋の帰りに買っていた総菜と、和真がどうにか炊いた米、即席の味噌汁を204号室へ運ぶことになった。


 部屋へ戻ると、彼女はまだ押し入れの中にいた。


「戻ったぞ」


 和真が声をかけると、扉がゆっくり開く。


 彼女は和真とフェンリスが本当に戻ってきたことを確かめてから、恐る恐る押し入れの外へ出た。


 ただし、部屋の中央には来ようとしない。


 壁際へ座り、角が当たらないよう注意しながら身体を小さく丸めた。


「これ、食べられる?」


 フェンリスが差し出した皿には、白いご飯と小さく切った唐揚げが載っている。


「白い……」


「お米だよ。こっちは鶏肉」


「鳥……?」


「僕も最初に食べた時は驚いたけど、おいしいよ」


 フェンリスが先に唐揚げを一つ口へ入れてみせる。


 彼女はしばらく様子を窺ったあと、教えられたとおり箸を持とうとした。


 しかし、うまくつかめない。


「……難しい」


「無理に箸を使わなくていいぞ。こっちの方が使いやすい」


 和真はスプーンとフォークを差し出した。


 彼女は和真の手へ視線を向けたあと、少し迷いながらフォークを受け取る。


 唐揚げを一つ刺し、恐る恐る口へ運んだ。


「……おいしい」


「よかった」


「柔らかい……温かい……」


 もう一つ、唐揚げを口へ運ぶ。


 今度は先ほどよりも迷いがなかった。


 食事を進めるうちに、縮こまっていた牛耳が少しずつ起き上がっていく。


 味噌汁を一口飲んだ時には、細い尻尾も僅かに揺れていた。


「慌てなくていいから、ゆっくり食べてね」


「うん……」


 彼女は小さく答え、黙々と食事を続けた。


 やがて、皿の上にあった料理をすべて食べ終える。


「ごちそうさま……でした」


「お粗末さまでした。って言っても、ほとんど買ってきた物だけどな」


「和真は料理が苦手なんだよ」


「余計なことを教えなくていい」


「でも、本当でしょ?」


 二人のやり取りを聞きながら、彼女は空になった皿を見つめていた。


「……ありがとう」


「気にしなくていいよ」


 フェンリスが皿を受け取ろうとすると、彼女はそれを渡さずに立ち上がった。


「これ……どこに持っていくん?」


「僕が片付けるよ」


「わたしが……やる」


「でも、場所が分からないでしょ?」


「教えてくれたら……できるから」


 フェンリスは一瞬驚いたあと、優しく微笑んだ。


「じゃあ、一緒に片付けようか」


「……うん」


 何も分からない場所でも、ただ世話をされるだけではいたくない。


 その小さな行動から、彼女の優しさと真面目さが伝わってきた。


 食器を母屋へ運んだあと、三人は再び204号室へ戻った。


 夜になったことで窓の外は暗くなっていたが、彼女はカーテンへ近づこうとはしなかった。


 和真は部屋の中央へ座り、少し離れた壁際にいる彼女へ尋ねる。


「話せる範囲でいい。どうしてここへ来たのか、聞かせてもらえるか?」


 彼女は借りたスカートの裾を握り締めた。


「わたしは……迷宮の守護者やった」


「迷宮?」


「悪いことをした人を……裁く場所。わたしは、そこから出たらあかんかった。ずっと奥で……来た人を裁く。それが役目やった」


 途切れがちな言葉を、和真とフェンリスは黙って聞いた。


「でも……罪のない人が来た」


 彼女の声が、さらに小さくなる。


「本当は来るはずのない人やった。でも、わたしは……守護者やから。迷宮の命令には、逆らえんかった」


「その人を裁いたのか?」


 和真が静かに尋ねる。


 彼女はゆっくり頷いた。


「間違って、罪のない人を裁いた守護者は……その人の願いを叶えなあかん」


「その人は、何を願ったの?」


「家族のところへ……帰りたいって。幸せに暮らしたいって……」


 フェンリスの表情が曇る。


「でも、その人の身体は……もう助からんかった。だから、わたしの魂と力を……その人の身体に移した」


「それで、今の姿になったのか」


「たぶん……」


 彼女は自分の手を見下ろした。


「元の身体は、もっと大きくて……強かった。今みたいな姿やなかった」


「角と耳と尻尾だけが残ったんだな」


「うん……」


 異なる世界へ移動した際に、転移の座標がずれた。


 その結果、本来帰るはずだった世界ではなく、空色唐辛子荘の204号室へ現れたらしい。


 和真のいた異世界とも、フェンリスの世界とも違う。


 また一人、帰る方法の分からない異世界人が、この場所へたどり着いたのである。


「それで……これからどうしたい?」


 和真が尋ねると、彼女は答えに詰まった。


「分からん……」


「帰りたいか?」


「帰る場所……ないから」


「迷宮には?」


 その言葉を聞いた途端、彼女の身体が強張った。


「戻りたくない……」


 押し殺すような声だった。


「もう……誰も傷つけたくない。誰かを裁くのも、殺すのも……嫌や」


 膝の上で握られた手が、小さく震えている。


「わたしは……守護者失格やから……」


「そんなことないよ」


 フェンリスがすぐに否定した。


「罪のない人を助けようとしたんでしょ? 自分の身体まで捨てて」


「でも……助けられんかった」


「それでも、助けようとした。僕は、その気持ちは間違ってないと思う」


「フェンリス……」


「僕も元の世界では、いろんな者から逃げてたんだ。最初は自分が弱いからだと思ってた。でも、和真がここにいていいって言ってくれた」


 フェンリスは和真へ顔を向ける。


「今度は僕も、この人に同じことをしてあげてもいいよね?」


「ああ。そのつもりだ」


 和真は迷わず答えた。


「行く場所がないなら、ここに住むか?」


 彼女の牛耳がぴくりと動いた。


「……ここに?」


「このアパートは、まだ部屋が余ってる。ちょうど今いる204号室も空室だ」


「でも……わたし、何も持ってない」


「フェンリスも最初はそうだった」


「働くことも……何も分からん」


「それは、これから覚えればいい」


「迷惑……かけるかもしれん」


「もう一人増えたくらいで、今さら驚かないよ」


 和真が苦笑すると、フェンリスも大きく頷いた。


「僕も手伝うよ。この世界のことも、日本語も、一緒に覚えよう」


「ほんまに……ここにいても、いいん……?」


「ああ」


「追い出さない?」


「追い出さない」


「わたしが……怖くないん?」


 和真は彼女の角や牛耳へ一度目を向けた。


「俺には角のある知り合いもいたし、フェンリスには狼耳と尻尾がある。今さら、そのくらいで怖がったりしない」


「僕の尻尾をそのくらいって言わないでよ。すごく立派なんだから」


「そういう意味じゃない」


「じゃあ、どういう意味?」


「今はそこを気にするところじゃないだろ」


 二人のやり取りを見ていた彼女の口元が、僅かに緩んだ。


 笑ったというほど大きな変化ではない。


 それでも、和真は彼女が初めて見せた表情を見逃さなかった。


「ここに住むなら、一つ困ることがあるな」


「困る……?」


「名前だ」


 彼女の表情が再び曇る。


「わたしには……ないから」


「今までなかったなら、これから作ればいい」


「名前って……作れるん?」


「最初の名前は、誰かが考えて付けるものだからな」


 和真は腕を組み、しばらく考え込んだ。


 目の前の女性は、明るい場所よりも、暗く狭い場所に安心を感じている。


 窓の外に広がる世界を恐れ、押し入れの中へ逃げ込んだ。


 しかし、彼女が求めているのは、何も見えない暗闇ではない。


 誰かのそばで、身を休められる静かな場所なのだろう。


「ひかげ……は、どうだ?」


「ひかげ……?」


「ああ。強い日差しから守ってくれる、日の陰って意味だ。暗闇とは違って、誰かが休んだり、落ち着いたりできる場所でもある」


 女性は、初めて聞くその言葉を確かめるように繰り返す。


「ひ……かげ……」


「嫌なら、別の名前を考えるけど」


 彼女は首を横に振った。


 長い前髪が顔の前で小さく揺れる。


「嫌やない……」


「気に入った?」


 フェンリスに尋ねられ、彼女は小さく頷いた。


「わたし……ひかげ……」


 自分だけへ与えられた言葉を、何度も胸の中で確かめる。


 迷宮の守護者でもない。


 処刑人でもない。


 ミノタウロスとだけ呼ばれる存在でもない。


「ひかげ……わたしの、名前……」


「ああ。今日から君の名前だ」


 和真がそう告げると、ひかげは長い前髪に隠れた顔をさらに俯かせた。


 牛耳が小さく震え、頬が僅かに赤くなっている。


「か、和真が……付けてくれた……」


「気に入らなかったら、後から変えてもいいからな」


「変えへん……」


 ひかげはすぐに答えた。


「この名前が、いい……」


「じゃあ、決まりだね」


 フェンリスが笑顔で手を差し出す。


「改めて、よろしくね。ひかげ」


 ひかげは差し出された手を見つめた。


 すぐに握ることはできなかったが、迷った末に自分の手を重ねる。


「よ、よろしく……お願いします」


「そんなにかしこまらなくていいよ。僕たち、同じアパートの住人になるんだから」


「住人……」


「そう。ひかげは、空色唐辛子荘の新しい住人だよ」


 その言葉に、ひかげの尻尾が僅かに揺れた。


 それから彼女は和真の方へ顔を向ける。


「和真も……よろしく、お願いします」


「ああ。よろしく、ひかげ」


 名前を呼ばれた瞬間、ひかげの肩が小さく跳ねた。


 恥ずかしそうに俯きながらも、その口元には微かな笑みが浮かんでいる。


 こうして、空色唐辛子荘に二人目の異世界人が加わった。


 とはいえ、204号室には家具が何もない。


 今夜は母屋の空き部屋で眠ってもらおうと和真は考えたが、それを伝えた途端、ひかげは首を横へ振った。


「ここが……いい」


「でも、布団もないぞ」


「押し入れがあるから……」


「押し入れで寝るつもりか?」


「狭くて、暗いから……落ち着く」


 和真が困ったようにフェンリスを見る。


「今日はそれでもいいんじゃない?」


「身体を痛めそうだけどな……」


「なら、布団を持ってきて押し入れに敷いてあげようよ」


「布団が入るか?」


「少しくらい曲げれば入るでしょ」


 二人が相談していると、ひかげが不安そうに和真の服の裾をつまんだ。


「ここ……わたしの部屋なん?」


「ひかげが嫌じゃなければ、そうするつもりだ」


「わたしの……部屋……」


 101号室を初めて自分の部屋だと喜んだフェンリスと同じように、ひかげも204号室をゆっくり見回した。


 何も置かれていない、空っぽの部屋。


 それでも彼女にとっては、初めて自分のために与えられた場所だった。


「ここが、いい……」


「分かった。204号室は、今日からひかげの部屋だ」


 和真がそう告げると、ひかげは胸元で両手を握った。


「ありがとう……和真」


 その声は小さく、途切れがちだった。


 けれど、初めて名前を呼んだ時よりも、僅かに温かさが混じっていた。


 その後、三人は母屋から布団と毛布を運び込んだ。


 結局、ひかげの希望どおり、布団は押し入れの中へ収められた。


 角が当たらないよう枕の位置を調整し、厚手の毛布も用意する。


 フェンリスは心配そうに押し入れの中を覗き込んだ。


「本当にここで寝るの?」


「うん……落ち着く」


「苦しくなったり、怖くなったりしたら、すぐ呼んでね。僕は下の101号室にいるから」


「いち、まる、いち……」


「101号室。母屋に一番近い部屋だよ」


「覚える……」


 ひかげはフェンリスの部屋番号を、忘れないよう何度も繰り返した。


 和真も押し入れの前へしゃがみ込む。


「俺は母屋にいる。窓から見える大きな家だ。何かあったら、フェンリスを呼ぶか、母屋まで来てくれ」


「外に……出るん?」


「廊下と階段だけだ。無理なら大きな声で呼んでもいい」


「大きな声……苦手……」


「なら、明日、呼び出せる物を用意する」


 この世界には、押すだけで音を鳴らせる呼び鈴もある。


 ひかげが一人でも助けを求められるよう、明日には設置しようと和真は考えた。


「それじゃ、おやすみ。ひかげ」


「おやすみ」


 フェンリスも手を振り、和真と一緒に部屋を出ようとする。


 その時。


「待って……」


 二人が振り返る。


 押し入れから半分だけ顔を出したひかげが、長い前髪の奥から和真を見つめていた。


「また……明日も、来る?」


「ああ。朝になったら様子を見に来る」


「フェンリスも……?」


「もちろん。明日は一緒に朝ご飯を食べよう」


「……分かった」


 ひかげは小さく頷いた。


「また、明日……」


「ああ。また明日」


 二人が204号室を出ると、ひかげは押し入れの中へ戻った。


 扉を完全には閉めず、僅かな隙間を残す。


 その隙間から、カーテンの閉じた薄暗い部屋を見つめる。


 怖くない。


 ここには、自分を裁こうとする者はいない。


 巨大な斧を握る必要もない。


 明日になれば、また誰かが来てくれる。


「ひかげ……」


 彼女は、和真から与えられた名前を小さく口にする。


「わたしの……名前……」


 その響きを確かめるように何度も繰り返しながら、ひかげは毛布を胸元まで引き上げた。


 暗く狭い押し入れの中。


 かつての迷宮によく似ているはずなのに、ここには冷たい孤独がなかった。


 こうして空色唐辛子荘の204号室に、新たな住人が加わった。


 迷宮の処刑人として生きてきた、名もなき守護者。


 新しい世界で初めて自分の名を得た、獅子宮ひかげ。


 彼女がゲームと出会い、現実とは正反対の顔を見せるようになるのは、もう少し先のことだった。

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