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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第三話 芽吹き始める場所

 翌朝から、空色唐辛子荘の敷地には再び重機の音が響き始めた。


 残っている四棟を壊すためではない。


 途中で止められていた解体工事の後片付けをするためだ。


 既に取り壊された四棟の跡地には、砕かれた基礎や屋根材、折れた柱などが残されている。


 作業員たちは、それらを種類ごとに分け、次々とトラックへ積み込んでいった。


 朝から何人もの作業員が敷地を出入りしている。


 母屋の近くまで作業員が来ることもあるため、その間、フェンリスには二階の空き部屋で過ごしてもらうしかなかった。


「悪いけど、作業員が帰るまでは部屋にいてくれ」


 和真が伝えると、フェンリスは窓の外へ目を向けた。


 重機が瓦礫を持ち上げるたび、大きな音と振動が伝わってくる。


 そのたびに、フェンリスの狼耳が落ち着かなそうに動いていた。


「耳と尻尾を見られたら、まずいんだよね?」


「ああ。この世界の人たちは、獣人が本当にいるとは思ってないからな」


「見つかったら、捕まったりする?」


「そこまでは分からない。でも、騒ぎになるのは間違いない」


 フェンリスは自分の特大の尻尾を抱き寄せた。


 昨日の買い出しでは、帽子とロングスカートでどうにか隠し通せた。


 だが、一日中その格好で過ごさせるわけにもいかない。


「分かった。今日はここにいるよ」


「昼飯は俺が持ってくる。何かあったら呼んでくれ」


「うん」


 返事は短かった。


 出会った夜よりは会話が増えたものの、フェンリスはまだ和真へ心を許したわけではない。


 見知らぬ世界へ飛ばされ、知らない男の家で世話になっているのだ。


 警戒するのは当然だった。


 和真を信じてもよいのか。


 フェンリス自身、まだ決めかねているのだろう。


「じゃあ、俺は外にいるから」


「……和真」


 部屋を出ようとしたところで呼び止められる。


「どうした?」


「残ってる建物は、本当に壊さないんだよね?」


「ああ。業者にも確認してある。片付けが終わったら、四棟とも順番に直す予定だ」


「そっか」


 フェンリスは、窓の外に並ぶ古いアパートを見た。


 彼女にとっては、この世界で最初に辿り着いた場所でもある。


「勝手に壊されることはもうないよ」


「……うん。ならいい」


 フェンリスは小さく頷いた。


 和真は部屋を出ると、作業員との打ち合わせへ向かった。


 解体跡地に残された廃材のうち、まだ使えそうな柱や板は敷地の一角へ分けてもらう。


 腐った木材や、使い道のない瓦礫だけを運び出すように頼んだ。


 昼になると、和真は簡単な食事を用意して二階へ運んだ。


 扉を叩くと、少し間を置いてフェンリスの声が返ってくる。


「和真?」


「ああ。昼飯を持ってきた」


 扉が僅かに開き、赤い瞳が廊下を確認する。


 ほかに誰もいないことが分かると、フェンリスは扉を開けた。


「ありがとう」


「外はまだ作業中だ。夕方まではかかりそうだな」


「えー、まだかかるの?」


 フェンリスは食事を受け取りながら、窓の外へ目を向けた。


 部屋には、和真が貸した本や雑誌が何冊か置かれている。


 だが、日本語を読めないフェンリスには、写真や挿絵を眺めることしかできない。


「やっぱり退屈か?」


「ちょっとね。絵を見るのも、もう飽きてきた」


「悪いな」


「和真が謝ることじゃないでしょ。僕が見つからないようにしてくれてるんだよね?」


「まあ、そうだけど」


「だったら我慢するよ。ずっとじゃないんでしょ?」


「ああ。作業員が帰ったら、下へ降りてきていい」


「じゃあ、それまで寝てようかな」


「夜に眠れなくなるぞ」


「そのときは、そのときだよ」


 フェンリスはそう答えたが、尻尾は力なく床へ横たわっていた。


 和真は少し考えてから口を開いた。


「作業が終わったら、少し外を歩くか?」


「外?」


「ああ。昨日は買い物だけで終わったから、町をゆっくり見る時間はなかっただろ」


「夜でも大丈夫なの?」


「人の少ない道を選べばな」


 フェンリスは少し迷ったあと、和真を見た。


「和真も行く?」


「もちろん。一人では行かせられないからな」


「だったら、行ってみたい」


 床に垂れていた尻尾の先が、僅かに持ち上がった。


「分かった。作業が終わったら呼びに来るよ」


「忘れないでよ?」


「忘れないよ」


 和真は食事を渡すと、一階へ戻った。


 夕方まで重機の音は途切れなかった。


 日が沈み始めた頃、作業員たちは重機を止め、翌日の予定を確認してから引き上げていった。


 敷地から人の気配がなくなったことを確かめ、和真はフェンリスを呼びに行った。


 フェンリスは昨日買った帽子を深く被り、その下へ狼耳を押し込んでいる。


 特大の尻尾はロングスカートの内側へ隠していた。


 ただ、完全には収まりきらず、腰の後ろが少し膨らんでいる。


「やっぱり、変じゃない?」


 玄関を出たところで、フェンリスが不安そうに振り返った。


「少し膨らんでるけど、本物の尻尾が入ってるとは思わないよ」


「昨日は見つからなかったし、大丈夫かな」


「尻尾が大きく動かなければな」


「それが難しいんだって。勝手に動くんだから」


「なるべく我慢してくれ」


「はいはい。頑張りますよ」


 フェンリスはスカートの上から尻尾を押さえた。


 二人は空色唐辛子荘を出て、人通りの少ない住宅街を歩き始めた。


 昨日の買い出しで通った町も、夜になると雰囲気が大きく変わっている。


 昼間は人や車の音で騒がしかった道も静まり、等間隔に並ぶ街灯が道路を淡く照らしていた。


 家々の窓から明かりが漏れ、どこからか夕食の匂いが漂ってくる。


「昼とは全然違うね」


 フェンリスが周囲を見回す。


「この辺りは住宅街だからな。夜はみんな家に帰ってる」


「外は静かなのに、家の中から声が聞こえるよ」


「そこまで聞こえるのか?」


「うん。誰かが笑ってる声とか、お皿がぶつかる音とか」


 帽子の内側で、フェンリスの狼耳が音を追うように動いた。


 その動きに合わせ、帽子の上部が僅かに揺れる。


「フェンリス、帽子が動いてる」


「あっ……耳まで止めるのは無理だよ」


 フェンリスは慌てて帽子を両手で押さえた。


 一台の車がそばを通り過ぎる。


 フェンリスは道路の端へ寄ったものの、昨日のように大きく飛び退くことはなかった。


「昨日よりは慣れたみたいだな」


「音が大きいのは、まだ嫌だけどね。あれ、急に走ってきそうで怖いんだよ」


「道路へ出なければ大丈夫だ」


「分かってるよ。赤は止まる、青は進む、でしょ?」


「ちゃんと覚えてたのか」


「当たり前でしょ。僕を子供だと思ってない?」


「思ってないよ」


「本当に?」


「本当だって」


 フェンリスは疑うように和真を見たが、すぐに前へ向き直った。


 和真は人の少ない道を選び、川沿いへ向かうつもりだった。


 しかし、その途中で小さな商店街の前を通る。


 昼間ほどではないものの、飲食店の周辺にはまだ人が残っていた。


 開いた扉から、焼いた肉の匂いが流れてくる。


 フェンリスの足が止まった。


「……何、この匂い」


「焼き鳥だな」


「焼いた鳥のお肉?」


「ああ。小さく切って、串に刺して焼いてある」


「食べたい」


「即答だな」


「だって、すごくいい匂いするよ?」


「夕飯は家に用意してあるぞ」


「一本だけ。ね?」


 フェンリスは期待のこもった赤い瞳で和真を見上げた。


 同時に、スカートの後ろがもぞもぞと動く。


「尻尾」


「あっ」


 フェンリスは慌てて腰の後ろを押さえた。


「分かりやすすぎるだろ」


「仕方ないじゃん。美味しそうなんだから」


「今は人が多い。今日はやめておこう」


「えー……」


「今度、人の少ない時間に買いに来るよ」


「本当に?」


「ああ」


「絶対だからね。忘れたら怒るよ」


「分かったよ」


 フェンリスは名残惜しそうに何度も店を振り返った。


 商店街の中心から少し離れたところで、二人は自動販売機の前に足を止めた。


「何か飲むか?」


「僕が選んでもいい?」


「ああ。ただ、どんな味か分からなかったら聞いてくれ」


 和真が硬貨を入れると、フェンリスは並んでいる飲み物を一つずつ眺めた。


 しばらく悩んだ末、桃の絵が描かれたボタンを指差す。


「これがいい」


「桃のジュースだな」


「甘い?」


「かなり甘いと思う」


「じゃあ、これ」


 フェンリスがボタンを押す。


 取り出し口へ缶が落ちると、その音に肩を僅かに跳ねさせた。


「うわっ……昨日も聞いたのに、まだびっくりする」


「そのうち慣れるよ」


「和真、そればっかり」


 フェンリスは缶を取り出した。


 開け方が分からず、缶の上にある金具を指でつつく。


「これ、どうするの?」


「貸してみろ」


 和真が缶を開けて返すと、フェンリスは匂いを確かめてから一口飲んだ。


「甘い!」


「気に入ったか?」


「うん。これ好き」


「毎日飲むと太るぞ」


「僕はよく動くから平気だよ」


「今日は、ほとんど部屋にいただろ」


「それは和真が出るなって言ったからでしょ?」


「そうだったな」


「もう。人のせいで動けなかったのに、太るって言わないでよね」


 フェンリスが頬を膨らませる。


 その表情は、出会ったばかりの頃には見せなかったものだった。


 和真も自分の飲み物を買い、二人は川沿いへ向かおうとした。


 そのとき、通りの向こうから騒がしい声が聞こえてきた。


 三人の若い男たちが、道いっぱいに広がりながら歩いてくる。


 全員が酒を飲んでいるらしく、足取りは僅かにふらついていた。


 和真は面倒事を避けるため、フェンリスへ小さく声をかける。


「行こう」


「うん」


 二人は自動販売機から離れようとした。


 しかし、男の一人がフェンリスの姿に気づいた。


「おい、見ろよ。すげえ可愛い子いるぞ」


 男たちの視線が一斉にフェンリスへ向けられる。


 顔から胸元へ。


 そこから腰や脚へ。


 二人の男は隠そうともせず、フェンリスの身体を舐めるように眺めた。


「マジじゃん。外国人か?」


「すげえ身体してんな」


「兄ちゃん、彼氏?」


 フェンリスには、男たちの言葉が通じていない。


 それでも、向けられている視線が好意的なものではないことは分かったらしい。


 先ほどまでの明るい表情が消え、缶を両手で抱えながら和真の近くへ寄った。


 和真は三人とフェンリスの間へ立つ。


「すみません。急いでいるので」


「何だよ。話しかけただけだろ」


「本人が嫌がっています」


「言葉も分かんねえのに、何で嫌がってるって分かるんだよ」


 男の一人が笑いながら、和真の肩越しにフェンリスを覗き込んだ。


「ねえ、君、日本語分かる?」


 フェンリスは答えない。


 男はそれを都合よく受け取ったのか、さらに馴れ馴れしい笑みを浮かべた。


「俺たちと遊びに行こうよ。楽しいところ知ってるからさ」


「こんな冴えない奴より、俺らのほうが楽しいって」


「三人でいろいろ教えてやるよ」


 男たちのいやらしい笑い声が重なる。


 言葉の意味までは分からなくても、その声音と視線だけで十分だった。


 フェンリスは眉を寄せ、和真の背中へ隠れるように一歩下がった。


「行くぞ、フェンリス」


 和真がその場を離れようとしたとき、三人のうち中央にいた男が前へ出た。


「待てって。別に取って食おうってわけじゃねえんだから」


 街灯の明かりが、男の顔を正面から照らす。


 短く整えられた暗い髪。


 細い目。


 口元に浮かんだ、人当たりだけはよさそうな笑み。


 その顔を見た瞬間、フェンリスの足が止まった。


「……え?」


 赤い瞳が大きく見開かれる。


 手から缶が滑り落ち、音を立てて地面へ転がった。


「フェンリス?」


 和真が呼びかけても、返事がない。


 フェンリスは目の前の男を見つめたまま、指一本動かせなくなっていた。


 脳裏に、一瞬だけ別の光景が浮かぶ。


 淡く輝く古い魔法陣。


 その外側に立っていた、いくつもの人影。


 誰も手を伸ばそうとはせず、ただこちらを見ている。


 そして、薄暗い遺跡の中でもはっきりと分かった、口元に浮かぶ笑み。


 違う。


 あれはきっと見間違いだった。


 突然の光に目が眩んで、そう見えただけだ。


 仲間たちが、自分を罠へはめるはずがない。


 そう思いたいのに、あのときの笑顔だけは、何度忘れようとしても消えてくれなかった。


「……いや」


 フェンリスの唇から、掠れた声が漏れる。


 顔から血の気が引き、呼吸が浅くなっていく。


 なぜフェンリスが突然怯え始めたのか、和真には分からなかった。


 ただ、目の前の男の顔を見た瞬間に、様子が変わったことだけは分かった。


 男はフェンリスの異変に気づいても、心配するどころか笑みを深めた。


「何だよ。急に大人しくなったじゃん」


「お前、気に入られたんじゃね?」


「やっぱ顔がいい奴は得だな」


 残りの二人が下品に笑う。


 中央の男は調子に乗ったように、フェンリスへ手を伸ばした。


「怖がらなくていいって。俺たち、優しいからさ」


 フェンリスは逃げなかった。


 いや、逃げることすらできなかった。


 男の手が頬へ触れようとする。


 その直前、和真が男の手首を掴んだ。


「触るな」


 低い声だった。


 男の笑みが消える。


「……何だよ」


「嫌がってるのが分からないのか?」


「言葉も通じてねえんだろ。お前が勝手に決めんなよ」


「怯えて動けなくなってる。もう十分だろ」


 和真は男の手を放し、フェンリスを背に庇った。


 自分の服の裾を、震える指が掴んだのを感じる。


「帰るぞ、フェンリス」


 和真はフェンリスを連れ、その場を離れようとした。


 だが、中央の男が和真の肩を掴んだ。


「待てよ。人の手を勝手に掴んどいて、そのまま帰れると思ってんのか?」


 和真は足を止めた。


「先に彼女へ触ろうとしたのは、そっちだろ」


「まだ触ってねえよ」


「同じことだ」


「彼氏気取りかよ。何かむかつくな、お前」


 男が和真を引き寄せ、その胸ぐらを掴もうとする。


 和真は伸ばされた腕を外側へ払い、男の手首を取った。


 そのまま身体を入れ替え、勢いを利用して地面へ投げる。


「ぐあっ!」


 男は背中から路面へ倒れ、肺から空気を吐き出した。


「お前!」


 右側にいた男が拳を振り上げ、和真へ殴りかかる。


 和真は半歩だけ身体をずらして拳を避けた。


 伸びきった腕を掴み、その足を払う。


「うわっ!」


 二人目の男も体勢を崩し、横向きに地面へ倒れた。


「ふざけんな!」


 最後の一人が背後から和真へ掴みかかる。


 和真は身を沈めながら振り返り、その腕を取った。


 背負うように男の身体を浮かせ、前方へ投げる。


「がっ……!」


 三人目の男が路面へ転がった。


 男たちは何が起きたのか理解できない様子で、地面に倒れたまま和真を見上げている。


 異世界で何度も死線を越えてきた和真にとって、酔った三人の動きを見切ることなど難しくなかった。


 ただし、相手は魔物でも敵兵でもない。


 大怪我をさせないよう、投げる方向と力は抑えていた。


「これ以上、彼女に近づくな」


 和真は三人を見下ろし、静かに告げた。


 最初に投げられた男が、痛みに顔を歪めながら立ち上がる。


「こ、この野郎……」


 殴りかかろうと一歩踏み出したものの、すぐに足を止めた。


 残りの二人は、まだ満足に起き上がれていない。


 近くの店からも、何人かがこちらを見ている。


「……覚えてろよ」


 男はそれだけ吐き捨てると、仲間たちを急かした。


 三人は何度も振り返りながら、商店街の奥へ逃げるように去っていった。


 和真は男たちの姿が見えなくなるまで、警戒を解かなかった。


 追ってくる気配がないことを確かめ、ようやくフェンリスを振り返る。


「もう大丈夫だ」


 フェンリスはまだ、その場に立ち尽くしていた。


 顔色は悪く、呼吸も浅い。


 和真の服の裾を掴んだ手は、今も小さく震えている。


「怪我はないか?」


 フェンリスは僅かに首を横へ振った。


「……ない」


「帰ろう」


「うん……」


 二人は空色唐辛子荘へ向かって歩き始めた。


 来るときには夜の町を忙しなく見回していたフェンリスも、帰り道では地面を見つめたままだった。


 和真は何も尋ねなかった。


 なぜあの男を見た瞬間に怯えたのか。


 どうして動けなくなるほど怖がっていたのか。


 気にならないわけではない。


 それでも、今は無理に聞くべきではないと思った。


 フェンリスは和真の斜め後ろを歩きながら、その背中を見つめていた。


 食事も、寝る場所も、和真が用意してくれた。


 昼間に外へ出られない自分を気遣い、夜の町にも連れ出してくれた。


 先ほども、三人の男たちから守ってくれた。


 だからといって、すぐに信用してよいのかは分からない。


 出会ってから、まだ二日ほどしか経っていないのだ。


 和真が本当は何を考えているのかも、フェンリスには分からなかった。


 それでも、少しくらいなら信じてみてもいいのかもしれない。


 そんな気持ちが、僅かに芽生え始めていた。


「……和真」


「ん?」


「さっきの人、昔の仲間にちょっと似てたんだ」


「仲間?」


「うん。一緒に依頼を受けてた人」


「そうか」


 和真はそれだけ答え、何も尋ねなかった。


 フェンリスは不思議そうに横顔を覗き込む。


「それだけ?」


「何が?」


「もっと聞かないの?」


「話したくないなら、聞かないよ」


「気にならない?」


「気にはなる。でも、無理に聞いても仕方ないだろ」


「和真って、変なところであっさりしてるね」


「そうか?」


「普通は、もっと根掘り葉掘り聞くと思うけど」


「フェンリスが話したいなら聞くよ」


「……ずるい言い方」


 フェンリスは少し唇を尖らせた。


 再び沈黙が訪れる。


 静かな住宅街に、二人の足音だけが響いていた。


「僕ね、元の世界では冒険者だったんだ」


 今度はフェンリスのほうから口を開いた。


「やっぱりか。身体の動かし方が普通じゃなかったからな」


「何それ。僕が乱暴みたいじゃん」


「そういう意味じゃないよ」


「本当に?」


「ああ。戦い慣れてるってことだ」


「ならいいけど」


 フェンリスは少しだけ頬を膨らませたあと、前へ向き直った。


「魔物を倒したり、護衛をしたり、遺跡を調べたりしてたんだ。何人かで組んでね」


「さっきの男に似てた人も、その仲間か?」


「……うん」


 今度の返事は小さかった。


「その仲間たちと、古い遺跡に行ったんだ。そこで転移の罠にかかって……気づいたら、この世界にいた」


「転移の罠?」


「床に魔法陣が隠されてたみたい。踏んだ瞬間に光って、身体が動かなくなったんだ」


「仲間たちは?」


「魔法陣の外にいた」


 フェンリスはそこで口を閉じた。


 俯いたまま、スカートの上から尻尾を強く握る。


「僕だけが、魔法陣の中にいたんだ」


「助けてくれなかったのか?」


「……分からない」


 声が僅かに揺れた。


「光が強かったから、よく見えなかったし。みんなも驚いて、動けなかっただけかもしれない」


「そうか」


「そうだよ。きっと、そうなんだ」


 自分に言い聞かせるような言葉だった。


 だが、フェンリスの頭からは、魔法陣の外に立つ仲間たちの表情が消えてくれない。


 誰も驚いてはいなかった。


 誰も助けようとはしていなかった。


 ただ、こちらを見ながら笑っていた。


 そう見えた。


 けれど、認めたくなかった。


「……笑ってるように見えたんだ」


 フェンリスがぽつりと呟く。


「え?」


「何でもない。たぶん、僕の見間違いだから」


 和真は何かを察したようだったが、それ以上尋ねなかった。


「無理に答えを決めなくてもいいんじゃないか?」


「でも……」


「今すぐ確かめられないんだろ?」


「うん」


「だったら、今は分からないままでいいよ」


 フェンリスは黙り込んだ。


「和真なら、仲間を疑う?」


「状況によるかな」


「はっきりしないね」


「見てないことを決めつけたくないだけだよ」


「……そっか」


 自分の話を信じてほしい気持ちはある。


 同時に、仲間たちに裏切られたとは言われたくなかった。


 そんな矛盾した気持ちを、和真は否定しなかった。


「全部は、まだ話せないよ」


「分かってる」


「それでもいいの?」


「ああ。知り合ったばかりなんだから当然だろ」


「和真も、僕に話してないことがある?」


「たくさんあるよ」


「じゃあ、お互い様だね」


「そういうことだな」


 フェンリスの表情が、ほんの僅かに和らいだ。


 和真を完全に信用したわけではない。


 まだ分からないことも多い。


 それでも、出会ったばかりの頃より、隣を歩く距離は少しだけ近くなっていた。


「それと……さっきは、ありがと」


「怪我がなくてよかったよ」


「僕、何もできなかった」


「怖かったんだろ。仕方ないよ」


「僕、けっこう強いんだけどな」


「知ってる。だから、あの三人を殴らなくて助かった」


「殴れるなら殴ってたよ」


「それは困る」


「じゃあ、次も和真が倒してよね」


「次がないほうがいいだろ」


「それはそうだけど」


 フェンリスは小さく息を吐いた。


 先ほどまでの震えは、もうほとんど収まっていた。


 空色唐辛子荘へ戻ると、和真は玄関の鍵を開けた。


「しばらく商店街は避けよう。次は人の少ない川沿いにするか」


「……また連れていってくれるの?」


「フェンリスが行きたいなら」


「行きたい。今日は途中で帰ってきちゃったし」


「分かった」


「焼き鳥も忘れないでね」


「まだ覚えてたのか」


「忘れるわけないでしょ」


 フェンリスは少しだけ笑った。


 それから部屋へ向かいかけ、部屋の前で足を止める。


「おやすみ、和真」


「おやすみ」


 和真を信用してよいのか、その答えはまだ出ていない。


 ただ、もう少しだけ信じてみたい。


 フェンリスの中には、そんな小さな気持ちが芽生え始めていた。


 翌朝。


 和真が朝食の準備をしていると、フェンリスが自分からリビングへ入ってきた。


 これまでは和真が呼びに行かなければ、部屋から出てこないことが多かった。


「おはよう」


「おはよう。今日は早いな」


「外が騒がしくなる前に、下へ来ておこうと思って」


 フェンリスは椅子へ座り、和真の手元を覗き込んだ。


「それ、何作ってるの?」


「卵焼き。昨日よりは上手くできると思う」


「僕も手伝おうか?」


「料理はできるのか?」


「お肉を焼くくらいならできるよ」


「朝から肉は焼かないよ」


「卵だって焼くんでしょ? 似たようなものじゃない?」


「たぶん違うと思う」


「細かいなあ」


 フェンリスは僅かに頬を膨らませた。


 昨夜の恐怖が消えたわけではない。


 それでも、和真へ向ける態度は少しだけ変わっていた。


 一定の距離を保つことが減り、自分から話しかけるようになっている。


 朝食を終えると、フェンリスがテーブルの上に置かれていた新聞を指差した。


「これ、何?」


「新聞だよ。この国で起きたことが書かれてる」


「へえ。何が書いてあるの?」


「天気や政治、近くで起きた事件なんかだな」


「僕にも読める?」


「今は難しいと思う。日本語だから」


「にほんご?」


「この国で使われてる言葉だよ」


 フェンリスは新聞へ視線を戻した。


 文字の並びを目で追うものの、一つも読むことができない。


「僕が和真と話せるのは、和真の力があるからだよね?」


「ああ。お互いの言葉の意味が分かるようになってる」


「じゃあ、和真がいなかったら、誰とも話せないんだ」


「今はな」


「今は?」


「日本語を覚えれば、自分で話せるようになる。読むことも、書くこともできるよ」


 フェンリスは再び新聞を見た。


「難しい?」


「簡単じゃないと思う」


「うわあ……」


「でも、少しずつなら覚えられるよ」


「和真が教えてくれる?」


「ああ。昼間は暇だろ。その時間を使って勉強するか?」


 フェンリスは少し考えたあと、はっきりと頷いた。


「うん。覚えたい」


「じゃあ、まずは挨拶からだな」


 和真はノートと鉛筆を持ってきた。


 最初のページへ、平仮名で「おはよう」と書く。


「これは、さっき言った『おはよう』だ」


「おはよう」


「朝の挨拶だよ」


「和真が今話してる音と、僕に聞こえてる言葉は違うの?」


「ああ。今から通訳の力を少し弱める。俺の発音を真似してくれ」


「分かった。やってみる」


 和真が通訳の力を僅かに弱め、実際の日本語の音を聞かせる。


「おはよう」


「お……はよ?」


「惜しい。最後まで、もう一回」


「おはよう」


「そう。それで合ってる」


「本当に?」


「ああ。ちゃんと言えてるよ」


「ふふん。僕、覚えるの早いでしょ?」


「耳がいいからかな」


「それもあるけど、僕が賢いからだよ」


「はいはい」


「何、その返事」


 フェンリスが不満そうに眉を寄せる。


 和真は笑いながら、次に「こんにちは」と「こんばんは」を教えた。


「朝は、おはよう」


「ああ」


「昼は、こんにちは」


「正解」


「夜は、こんばんは」


「完璧だ」


「これなら、和真の力がなくても言える?」


「言えるよ。相手の返事を理解するには、もっと覚えないといけないけどな」


「じゃあ、それも覚える」


 フェンリスは鉛筆を手に取り、和真が書いた文字を真似し始めた。


 鉛筆そのものに慣れていないため、最初の文字は大きく曲がった。


「……何これ。全然違う」


「最初はそんなものだよ」


「和真の文字みたいに書けない」


「読めるから大丈夫」


「本当に?」


「ああ。ちゃんと『おはよう』に見える」


 フェンリスは自分が書いた文字をしばらく眺めた。


「じゃあ、もう一回書く」


 次の行へ、再び鉛筆を走らせる。


 それから数日間、二人は同じような生活を送った。


 昼間は作業員の目を避け、母屋で日本語を勉強する。


 夜になれば、人通りの少ない道を選んで外を歩いた。


 先日のこともあり、商店街の中心には近づかなかった。


 代わりに川沿いの遊歩道や、田畑の多い郊外、祖父とよく訪れた山の近くを歩いた。


 フェンリスは外へ出るたび、この世界について少しずつ知っていった。


 信号機の色が変わる順番。


 歩道と車道の違い。


 スマートフォンを使えば、遠くにいる人と話せること。


 夜空を横切る飛行機には、大勢の人が乗っていること。


「鉄の塊が空を飛んでるの?」


「そうだよ」


「落ちないの?」


「滅多に落ちない」


「滅多にってことは、落ちることもあるんだよね?」


「まあ……絶対ではないな」


「やっぱり僕、あれには乗らない」


「今すぐ乗る予定はないから安心しろ」


「この先も乗らないからね」


 フェンリスは飛行機が見えなくなるまで、警戒するように空を見上げていた。


 別の夜には、川辺に腰を下ろし、流れる水を眺めた。


「この川、僕がいた村の近くにも少し似てる」


「街の側にも川があったのか?」


「うん。もっと森の中を流れてて、岩も多かったけどね」


「魚はいた?」


「いたよ。子供の頃は、よく素手で捕まえてた」


「素手で?」


「牙狼族なら普通だよ」


「普通なのか……」


「和真にも今度教えてあげようか?」


「遠慮しておくよ」


「えー、楽しいのに」


 フェンリスはそう言って、流れる水へ目を向けた。


 数日前までなら、自分の世界について話すことはほとんどなかった。


 すべてを打ち明けたわけではない。


 それでも、自分から少しずつ話すようになったことは、小さくても確かな変化だった。


 数日後。


 解体跡地の片付けが終わり、最後のトラックが空色唐辛子荘の敷地から出ていった。


「これで、後片付けはすべて終了です」


 現場責任者の男性から報告を受け、和真は綺麗になった跡地を見渡した。


 砕かれた基礎や瓦礫は撤去され、広い更地が残されている。


 まだ使えそうな柱や板材だけは、和真の希望で敷地の一角へまとめてもらっていた。


「残した木材には、釘が残っているものもあります。扱うときは気をつけてください」


「分かりました。ありがとうございます」


 業者を見送ると、母屋の扉が開いた。


 フェンリスが周囲を確かめながら顔を覗かせる。


「もう誰もいないよ」


「本当?」


「ああ」


 フェンリスは帽子を被らずに外へ出た。


 昼間の陽光を浴びた狼耳が、気持ちよさそうに立ち上がる。


「やっと外に出られた!」


「昼間に敷地へ出るのは数日ぶりだな」


「夜と昼じゃ、全然違うよ」


 フェンリスは両腕を伸ばし、広い敷地を歩き回った。


 大きな尻尾も隠す必要がなくなり、背後で自由に揺れている。


 残された四棟のアパートは、近いうちに改修工事が始まる予定だった。


 ただし、業者の予定が空くまでには数日の猶予がある。


 和真はその時間を使い、荒れた敷地を少しでも整えることにした。


 最初に手をつけたのは、アパートの奥にある畑だった。


「……これは時間がかかりそうだな」


 かつて祖父が野菜を育てていた畑は、長年放置され、見る影もなく荒れ果てていた。


 和真の腰近くまで伸びた雑草が一面を覆い、境界を示していた杭もほとんどが倒れている。


 硬くなった土からは、小さな木まで生えていた。


「ここ、本当に畑なの?」


「昔はな。爺ちゃんがいろんな野菜を育ててた」


「今は草しかないよ?」


「だから、これから元に戻すんだ」


「和真一人で?」


「そのつもりだけど」


 和真が倉庫へ向かうと、フェンリスも後ろからついてきた。


「僕も手伝うよ」


「畑仕事をしたことはあるのか?」


「少しくらいならね。それに、僕だけ何もしないのは落ち着かないし」


「気にしなくてもいいんだけどな」


「僕が気にするの。ほら、何をすればいい?」


 守られているだけではなく、自分にもできることがあると示したいのだろう。


「分かった。じゃあ、刈った草を集めてくれ」


「任せて!」


 二人は畑の片付けを始めた。


 和真が草刈り機で伸び放題だった草を刈り、フェンリスが刈られた草を集めていく。


 牙狼族であるフェンリスの身体能力は高かった。


 和真が両腕で抱えるほどの草を軽々と持ち上げ、敷地の端まで運んでいく。


 地面に深く根を張った雑草も、腰を落として力を込めると、土ごと引き抜いてしまった。


「フェンリス、力を入れすぎると畑まで壊すぞ」


「これくらい平気だよ」


「今、地面が揺れたけどな」


「……気のせいじゃない?」


「目を逸らすなよ」


「次は気をつけるって」


 フェンリスは引き抜いた草を抱え、逃げるように歩いていった。


 初日は草を刈るだけで終わった。


 翌日には残った根や石を取り除き、硬くなった土を耕していく。


 魔法を使えば短時間で終わらせられたが、周囲には住宅がある。


 誰に見られているか分からない場所で、大規模な魔法を使うわけにはいかない。


 それでも人目のない場所では、土の精霊にほんの少しだけ力を借りた。


 耕す土を柔らかくしてもらい、地中に埋まっている大きな石の位置を教えてもらう。


「和真、今、誰かと話してた?」


「ああ。土の精霊だよ」


「ここにも精霊がいるの?」


「少ないけどな。少し手伝ってもらった」


 和真の近くへ、淡い光の粒が集まってくる。


 フェンリスの赤い瞳が、その光を追った。


「僕には、ぼんやり光ってるようにしか見えないよ」


「それなら十分だ。普通の人には、その光さえ見えない」


「触ってもいい?」


「精霊が嫌がらなければな」


 フェンリスが恐る恐る手を差し出す。


 光の一つが指先へ近づいたものの、触れる直前に和真のもとへ戻ってきた。


「あっ、逃げた」


「警戒してるんだよ。精霊は人見知りなものが多いから」


「むう……じゃあ、少しずつ慣れてもらう」


 フェンリスは光へ向かって小さく手を振った。


 それから数日かけて、二人は畑を整えていった。


 草に覆われていた土地が耕され、ようやく畑らしい姿を取り戻す。


「ずいぶん綺麗になったね」


「ああ。これなら使えそうだ」


「何を育てるの?」


「最初は季節に合う野菜かな。そのうち果物も育てたい」


「お肉は?」


「畑で肉は育たないぞ」


「それくらい知ってるよ。動物は飼わないの?」


「いずれは飼うつもりだよ」


「本当?」


「ああ。まずは鶏からかな」


 下がっていた尻尾が、一気に持ち上がる。


「鶏って食べられる?」


「最初から食べることを考えるなよ。卵を産んでもらうんだ」


「卵も美味しいからいいよ」


 和真は苦笑しながら、畑の端に置かれていたホースを拾った。


 種や苗を植える前に、水が使えるか確認しておく必要がある。


 ホースを蛇口へつなぎ、栓をひねった。


 しかし、いつまで待っても水は出なかった。


「あれ?」


「出ないね」


 蛇口を閉め、もう一度開く。


 それでも結果は変わらない。


「この蛇口は、敷地にある井戸につながってるはずなんだけど……」


 和真は井戸のポンプを確認した。


 長く使われていなかったため、最初は動かなかったが、簡単な整備をすると、どうにか音を立て始めた。


 ところが、ポンプは空しい音を響かせるだけで、水を汲み上げる気配がない。


「ポンプが壊れてるの?」


「いや。井戸そのものが枯れてる」


「井戸って枯れるんだ」


「地下の水の流れが変わればな」


 以前は畑だけでなく、アパートの庭や共有部分の掃除にも使われていた井戸だった。


 水道水を使えば、畑へ水を撒くこと自体はできる。


 だが、今後さらに畑を広げ、果樹を植え、動物を飼うことまで考えれば、すべてを水道だけで賄うのは難しい。


「川から運んでこようか?」


「毎日運ぶのは大変だよ。それに、勝手に大量の水を汲むわけにもいかない」


「じゃあ、和真が魔法で出せば?」


「俺がいないと水を出せないだろ。それじゃ畑の設備としては不便だ」


「そっか。毎日ここにいるとは限らないもんね」


 和真は枯れた井戸のそばへ腰を下ろした。


 新しい井戸を掘るとなれば、専門の業者へ頼まなければならない。


 費用も時間もかかり、必ず水が出るという保証もない。


「どこかに、使える水場があればいいんだけどな……」


 そう呟いたとき、和真の脳裏に幼い頃の記憶が蘇った。


 祖父に連れられ、何度も山へ入ったことがある。


 山道の奥には、一年を通して水が湧き続ける場所があった。


 夏でも冷たく、透き通った水が流れる小さな湧水場。


 祖父は定期的に山へ入り、周囲の草を刈り、水路に溜まった落ち葉や泥を取り除いていた。


「そうだ。山の湧水がある」


「山に水が湧いてるの?」


「ああ。爺ちゃんが持ってた山に、湧水場があったんだ」


「じゃあ、そこから運ぶ?」


「いや、毎日運ぶのは無理だよ。とりあえず、今も水が出てるか見に行ってみる」


 相続の話し合いで、その山は伯父たちへ譲っている。


 既に和真の土地ではないため、勝手に入るわけにはいかない。


 和真は伯父へ電話をかけ、湧水場の状態を確認したいと伝えた。


 返ってきたのは、好きにすればいいという素っ気ない答えだった。


 山を譲り受けてから、一度も足を運んでいないらしい。


「入ってもいいってさ」


「今ので話してたの?」


 フェンリスがスマートフォンを覗き込む。


「ああ」


「相手はどこにいるの?」


「ここからは少し離れた場所だよ」


「そんな遠くの人と話せるんだ……やっぱり、それすごいね」


「昨日も見ただろ」


「見たけど、不思議なものは不思議だよ」


 フェンリスは興味深そうに画面を覗き込んだ。


「明日、山へ行ってみる」


「僕も行く」


「山道はかなり荒れてるかもしれないぞ」


「だったら、なおさら僕も行ったほうがいいでしょ。森や山なら、和真より慣れてるかもしれないよ?」


「それもそうだな」


「じゃあ決まり!」


「ただし、勝手に先へ行くなよ」


「分かってるよ。和真こそ、僕を置いていかないでね?」


「置いていかないよ」


「なら大丈夫」


 翌朝。


 二人は長袖の服に着替え、山道を進むための道具や飲み物を用意した。


 空色唐辛子荘から目的の山までは、それほど離れていない。


 徒歩でも向かえる距離だった。


 フェンリスが昼間の町を歩くのは、買い出しへ出かけた日以来となる。


 道路を行き交う車にはまだ警戒していたが、夜の散歩を重ねたことで、信号や横断歩道の役割は覚え始めていた。


 信号が青へ変わると、フェンリスが和真を見上げる。


「青になったよ。渡っていいんだよね?」


「ああ。ただし、車が来てないかも確認してくれ」


「右を見て、左を見て、もう一回右」


「よく覚えてたな」


「だから、僕を子供扱いしないでってば」


 少し得意そうに答え、フェンリスは和真と並んで横断歩道を渡った。


 狼耳は帽子で隠し、特大の尻尾はロングスカートの内側へ収めている。


 それでも興味を引かれるものを見つけるたび、尻尾が動いて腰の後ろが不自然に膨らんでしまう。


「フェンリス、尻尾」


「あっ……また動いてた?」


「ああ。かなり分かりやすい」


「止めようとはしてるんだけどなあ」


「この辺りは人が少ないから、まだ大丈夫だよ」


 和真が答えると、フェンリスは周囲を見回した。


 買い物へ行ったときの道とは違い、次第に住宅が少なくなっていく。


「山って、まだ遠いの?」


「もう少しだ」


「帰りに焼き鳥、買ってくれる?」


「まだ覚えてたのか?」


「忘れるわけないでしょ。約束したんだから」


「人が少なければな」


「またそれ?」


「耳と尻尾を隠してるんだから仕方ないだろ」


「じゃあ、人が少なくなるまで待つ」


「食べることになると諦めないな」


「お肉は大事だからね」


 フェンリスが真剣な表情で答える。


 出会った頃よりも、二人の会話は明らかに増えていた。


 それでも、和真を完全に信用したわけではない。


 ただ、初めの頃のように常に距離を取ることはなくなっていた。


 やがて町並みが途切れ、舗装された道路を進んだ先に、祖父が所有していた山の入口が見えてきた。


 そこで和真は足を止めた。


「……やっぱり、こうなってたか」


 かつては人が通れるように整えられていた入口が、伸び放題の草と木の枝に覆われていた。


 古びた案内板には蔓が巻きつき、書かれていた文字もほとんど見えない。


 山道へ入るために設置されていた鎖は地面に落ち、その半分が土と枯れ葉に埋もれている。


「ここが入口なの?」


「ああ。昔は、もっと歩きやすかったんだけどな」


「今は道なんて全然見えないよ?」


 祖父が亡くなってから、誰も手入れをしていないのだろう。


 入口だけでこの有様なら、山道や湧水場がどうなっているかは想像するまでもなかった。


 和真は持ってきた鉈を取り出した。


「湧水場までは、かなり苦労しそうだ」


「僕が前を歩こうか?」


「場所が分かるのは俺だけだ。途中までは俺が進むよ。危ない場所があったら教えてくれ」


「分かった。後ろは僕に任せて」


 フェンリスは帽子を外し、押さえつけられていた狼耳を気持ちよさそうに立てた。


 人の気配や獣の匂いを確かめるように、耳と鼻を動かしている。


「近くに人はいないよ。大きな獣の匂いもしない」


「頼りになるな」


「ふふん。牙狼族を甘く見ないでよね」


 少し得意そうに胸を張ったフェンリスを見て、和真は僅かに頬を緩めた。


 それから目の前を塞ぐ枝へ鉈を振り下ろす。


 祖父と何度も歩いた思い出の道を取り戻すように、二人は荒れ果てた山の中へ足を踏み入れた。


山へ入ってすぐ、二人は足を止めることになった。


 入口を覆っていた草木を抜けても、その先に道らしい道は残っていなかった。


 細い木々の間を蔓が縦横に走り、地面には枯れ枝と落ち葉が厚く積もっている。


 祖父と歩いた頃の記憶を頼りに、和真は鉈で枝を払いながら進んだ。


「和真、本当にこっちで合ってる?」


 背後からフェンリスが尋ねる。


「たぶん」


「たぶんなんだ」


「昔は道があったんだよ。今は跡形もないけどな」


「迷ったらどうするの?」


「そのときは、フェンリスに出口を探してもらう」


「僕に任せる気満々じゃん」


「頼りになるんだろ?」


「まあ、なるけどね」


 フェンリスは少し得意そうに答えた。


 帽子を外した狼耳が、周囲の音を拾うように何度も動いている。


 街にいたときとは違い、山の中では耳も尻尾も隠す必要がない。


 そのおかげか、フェンリスの足取りは随分と軽かった。


「右のほうで水の音がするよ」


「水?」


「すごく小さいけどね。ちょろちょろって」


 和真も耳を澄ませてみたが、風に揺れる木々の音しか聞こえない。


「俺には聞こえないな」


「和真の耳と一緒にしないでよ。僕は牙狼族なんだから」


「それなら、少し右へ寄ってみるか」


「うん。たぶん、そっちのほうが歩きやすいよ」


 和真の記憶でも、山道は途中から小さな沢に沿って続いていた。


 フェンリスの言葉を信じて進路を変えると、しばらくして草木の隙間に浅い窪みが現れた。


 かつて沢だった場所らしく、湿った石が帯状に連なっている。


 流れている水は僅かだったが、湧水場へ続く目印にはなりそうだった。


「本当にあったな」


「だから言ったでしょ?」


「さすがだな」


「ふふん。もっと褒めてもいいよ」


「頼りにしてるよ、フェンリス」


「……急に素直に褒められると、ちょっと困るんだけど」


 得意そうに立っていた狼耳が、僅かに外側へ傾いた。


 和真が沢跡に沿って歩き出すと、フェンリスもすぐあとをついてくる。


 山道は奥へ進むほど険しくなった。


 倒木が行く手を塞ぎ、足元の土が崩れている場所もある。


 和真が枝を払い、フェンリスが周囲の安全を確かめる。


 ときにはフェンリスが倒木を軽々と持ち上げ、その下を和真が通ることもあった。


「それ、重くないのか?」


「ちょっと重いかな」


「ちょっとで済むのか……」


「早く通ってよ。ずっと持ってるのは疲れるんだから」


「ああ、悪い」


 和真が倒木の下を抜けると、フェンリスは後ろへ放り投げた。


 太い幹が地面へ落ち、大きな音が山中へ響く。


「フェンリス」


「何?」


「もう少し静かに置けないのか?」


「置いたつもりだったよ?」


「今のが?」


「うん」


「牙狼族の基準が分からない……」


「和真だって、さっき太い枝を簡単に切ってたでしょ。僕だけ力が強いみたいに言わないでよね」


「俺は鉈を使っただろ」


「でも、ほとんど力を入れてなかったよ」


 フェンリスは赤い瞳を細め、疑うように和真を見た。


「和真って、やっぱり普通の人間じゃないよね」


「異世界へ行く前は普通だったよ」


「今は?」


「普通ではないかもな」


「そこは認めるんだ」


 フェンリスは少し笑うと、和真の横へ並んだ。


 木々の間から差し込む陽光は少なく、山の中は昼でも薄暗い。


 それでも、街中で見せていた不安そうな様子はなかった。


「山の中だと楽しそうだな」


「そう見える?」


「ああ。さっきから尻尾がずっと動いてる」


 指摘され、フェンリスが自分の尻尾を振り返る。


 大きな尻尾は左右へゆったりと揺れていた。


「だって、ここなら隠さなくていいからね。帽子も被らなくていいし」


「街だと窮屈か?」


「ちょっとね。耳を押さえられるのも嫌だし、尻尾が動かせないのも疲れるよ」


「悪いな」


「また謝る」


「でも、我慢させてるのは事実だろ」


「和真のせいじゃないでしょ。それに……」


 フェンリスは少し言葉を止めた。


「夜なら外へ連れていってくれるし、今日は山にも来られたから。ずっと部屋にいるよりはいいよ」


「そうか」


「うん。だから、そんな顔しなくていいって」


「どんな顔だよ」


「申し訳なさそうな顔」


 フェンリスが和真の顔を覗き込む。


 以前なら自分から近づくことはなかった。


 その小さな変化に気づいたものの、和真は何も言わず歩き続けた。


 山へ入ってから、一時間近くが経った頃。


 和真は沢跡の近くに立つ大きな杉を見つけた。


 幹の一部が二つに分かれ、根元には苔に覆われた小さな石が置かれている。


「この木、覚えてる」


「目印?」


「ああ。ここまで来れば、湧水場はもうすぐだ」


「やっと着くんだ」


「疲れたか?」


「全然。でも、お腹は空いた」


「出る前に朝飯を食べただろ」


「山を歩いたから、その分減ったんだよ」


「そんなに早く減るものなのか?」


「減ったんだから仕方ないでしょ」


 フェンリスは持ってきた鞄へ視線を向けた。


「昼飯は着いてからだ」


「まだ何も言ってないよ?」


「顔に書いてある」


「僕の顔に文字なんて書いてないよ」


「そういう意味じゃない」


「じゃあ、どういう意味?」


「食べたそうな顔をしてるってことだよ」


「だって食べたいもん」


 フェンリスは隠すことなく答えた。


「湧水場を確認したらな」


「分かった。じゃあ早く行こう」


 先ほどまで和真の後ろを歩いていたはずのフェンリスが、いつの間にか前へ出る。


「勝手に先へ行くなよ」


「少しくらい平気だよ。水の匂いもするし」


「待てって」


 和真は小さく息を吐き、フェンリスのあとを追った。


 大きな杉から少し進むと、木々の間に開けた場所が見えてきた。


 かつて祖父と訪れた湧水場だった。


 しかし、和真の記憶にある姿とは、あまりにも違っていた。


「……ここなの?」


 先に辿り着いたフェンリスが立ち止まる。


「ああ」


 以前は石で囲まれた窪みから澄んだ水が絶えず湧き出し、小さな水路となって山の下へ流れていた。


 周囲の草は刈られ、落ち葉一つ浮かんでいなかった。


 祖父は山へ来るたびに腰を下ろし、柄杓で汲んだ水を和真へ飲ませてくれた。


 今は石組みの大半が崩れ、窪みの中には落ち葉と泥が溜まっている。


 水路は倒れた枝や土砂で塞がれていた。


 辛うじて石の隙間から水が滲み出しているものの、湧水と呼べるほどの勢いはない。


「ほとんど水がないね」


「ここまで酷くなってたのか……」


 和真は崩れた石組みの前へしゃがみ込んだ。


 泥に手を入れ、溜まっている落ち葉を取り除く。


 その下から僅かに水が染み出したが、すぐに濁って見えなくなった。


「枯れたの?」


「完全には枯れてない。でも、このままじゃ時間の問題だ」


 湧水場だけではない。


 周囲の木々も弱り、枝先には枯れかけた葉が目立っていた。


 以前は鳥や虫の声が絶えなかった場所なのに、今は妙に静かだった。


 祖父が亡くなってから、誰も手入れをしなかったのだろう。


 山を引き取った伯父たちは、相続のときには土地の価値ばかり気にしていた。


 だが、実際に山へ足を運んだことは一度もない。


 先ほどの電話でも、好きにすればいいとしか言わなかった。


 和真は泥の中で手を握り締めた。


「和真?」


「何でもない」


「何でもない顔じゃないよ」


 フェンリスが隣へしゃがむ。


 和真の握った手と、荒れた湧水場を交互に見た。


「ここ、大事な場所だったんだね」


「ああ。爺ちゃんがずっと手入れしてた」


「和真も一緒に来てたの?」


「子供の頃にな。夏になると、よくここで水を飲ませてもらったよ」


「そっか」


 フェンリスはそれ以上聞かなかった。


 代わりに袖をまくり、湧水場へ手を伸ばす。


「何から片付ける?」


「手伝ってくれるのか?」


「そのために来たんでしょ。それに、このままじゃお昼にできないし」


「結局、飯が目的か」


「それだけじゃないよ」


 フェンリスは少し不満そうに頬を膨らませる。


「和真が嫌そうな顔してるから、早く綺麗にしたいだけ」


「……ありがとう」


「だから、素直に言われると困るってば」


 フェンリスは誤魔化すように、泥の中から太い枝を引き抜いた。


 二人は湧水場の片付けを始めた。


 和真が水路を塞ぐ枝や石を取り除き、フェンリスが周囲に積もった落ち葉を運び出す。


 人の手で動かせないほど大きな倒木も、二人なら苦労せずに移動できた。


 一時間ほど作業を続けると、泥の下から古い石組みが姿を現した。


 塞がれていた水路にも、僅かに水が流れ始める。


「出た!」


 フェンリスが嬉しそうに水路を指差す。


「まだ少しだけだけどな」


「さっきより全然いいよ」


「ああ。でも、これだけじゃ足りない」


 湧き出す水の量は、記憶にあるものより遥かに少ない。


 詰まりを取り除いただけでは、元に戻らないほど弱っているらしい。


 和真は石組みの前へ膝をつき、目を閉じた。


「何してるの?」


「この場所の精霊を呼んでみる」


 周囲の気配へ意識を広げる。


 土。


 水。


 木々。


 風。


 山を満たす小さな命の声へ、一つずつ呼びかけていく。


 最初は何の反応もなかった。


 それでも和真が呼び続けると、木々の隙間に淡い光が浮かび始めた。


 一つ。


 二つ。


 やがて数え切れないほどの光が、湧水場の周囲へ集まってくる。


「すごい……」


 フェンリスが赤い瞳を見開いた。


「畑にいた精霊より、たくさんいる」


「この山で暮らしてる精霊たちだよ」


 光の多くは弱く、今にも消えてしまいそうだった。


 その中心で、水面から青白い光がゆっくりと立ち上る。


 幼い子供ほどの大きさをした、半透明の姿。


 長い髪は流れる水のように揺れ、衣服の裾が水面へ溶けている。


『……かず、ま?』


 途切れそうな声が、和真の意識へ届いた。


「俺を知ってるのか?」


『ちいさい、かずま。おおきく、なった』


 和真は驚きながら、幼い頃の記憶を辿った。


 祖父と湧水場へ来るたび、水面に青い光が浮かんでいたことがある。


 当時は木漏れ日か、目の錯覚だと思っていた。


「もしかして、昔からここにいたのか?」


『ずっと、いた。あのひとと、かずま、きていた』


「あの人って、爺ちゃんか?」


 水の精霊は小さく頷いた。


『あのひと、みず、きれいにした。き、そだてた。みんな、すきだった』


「そうか……」


『でも、こなくなった』


 青白い瞳が、和真の後ろを探すように動く。


『あのひと、どこ?』


 和真はすぐに答えられなかった。


 精霊に、人間の死をどのように伝えればよいのか分からない。


 それでも、待ち続けていた相手へ嘘をつく気にはなれなかった。


「爺ちゃんは、亡くなったんだ」


『なくなった?』


「もう、ここへは来られない」


 水の精霊は黙り込んだ。


 周囲へ集まっていた光も動きを止める。


『もう、あえない?』


「ああ」


『そう……』


 精霊の姿が僅かに揺らいだ。


 水面へ小さな雫が落ち、静かな波紋が広がっていく。


 周囲の精霊たちも、悲しむように淡く明滅した。


 祖父は精霊の姿を見ることができなかったはずだ。


 声を聞くこともなかっただろう。


 それでも、長い間この山を手入れし、精霊たちが暮らせる環境を守っていた。


 精霊たちは、そのことを覚えていた。


「遅くなってごめん」


『かずま、わるくない』


「でも、もっと早く来ていれば、ここまで弱らせずに済んだ」


『かずま、いなかった。とおいところ、いた』


「それも分かるのか?」


『みんな、しっていた。かずま、いなくなった。ずっと、まってた』


 和真は言葉を失った。


 自分が異世界へ飛ばされていた六年間。


 祖父が亡くなったあとも、精霊たちはこの場所で待ち続けていたのだ。


「和真、その子は何て言ってるの?」


 フェンリスが小声で尋ねる。


 彼女には、精霊の姿が青白い光としてしか見えていないらしい。


「爺ちゃんを待ってたんだ。それと、俺のことも覚えてた」


「ずっと?」


「ああ」


 フェンリスは光を見つめ、耳を伏せた。


「寂しかったんだね」


 言葉が通じたのか、水の精霊がフェンリスへ顔を向ける。


『おおきい、しっぽ』


「フェンリスのことか?」


『かずまの、ともだち?』


「……今は、一緒に暮らしてる」


『ともだち、ちがう?』


「知り合ったばかりだからな」


「何を話してるの?」


「フェンリスが俺の友達かって聞かれた」


「それで、和真は何て答えたの?」


「知り合ったばかりだって」


「ふうん」


 フェンリスはなぜか少し不満そうに唇を尖らせた。


「間違ってないだろ」


「間違ってないけど、別にいいよ」


「何で拗ねるんだ?」


「拗ねてない」


 大きな尻尾が地面を一度だけ叩いた。


 和真が首を傾げていると、水の精霊から小さな笑い声が届く。


 その声に釣られるように、周囲の光も揺れた。


「この湧水を元に戻せるか?」


 和真が尋ねると、水の精霊は弱々しく首を横へ振った。


『ここ、もう、むずかしい』


「水脈が変わったのか?」


『つち、かたくなった。きのね、しんだ。みずのみち、とおくなった』


 人の手が入らなくなったことで、水路だけでなく、山そのものの環境が変わってしまったらしい。


 今すぐ湧水が完全に枯れるわけではない。


 だが、このままでは精霊も長くは留まれないという。


「別の場所へ移ることはできるか?」


『べつの、ばしょ?』


「俺が今暮らしてる土地に、枯れた井戸があるんだ。その近くには畑もある」


 水の精霊が首を傾げる。


「そこに新しい水の流れを作れないか?」


『かずまの、ばしょ?』


「ああ。爺ちゃんが大切にしてた場所だよ」


 空色唐辛子荘も、祖父が長い間守ってきた土地だ。


 今は建物も畑も荒れているが、これから和真が立て直そうとしている。


「もちろん、嫌なら無理にとは言わない。ここに残りたいなら、俺が定期的に手入れへ来るよ」


 水の精霊は周囲を見回した。


 崩れた石組み。


 弱った木々。


 僅かな水しか流れない沢。


 やがて、周囲に集まった精霊たちへ何かを尋ねるように光を揺らした。


 小さな光たちが、一斉に明滅する。


『みんなも、いく』


「みんな?」


『みず。つち。き。かぜ。あのひとの、ばしょ、いく』


 水の精霊だけではない。


 この湧水場の周辺にいた土や木、風の精霊たちも、空色唐辛子荘へ移りたいらしい。


「山を全部離れても大丈夫なのか?」


『ここにいるの、ここのみんなだけ。やまのおく、ほかのみんな、いる』


 山に住むすべての精霊が移るわけではない。


 祖父が手入れしていた湧水場の周辺に集まり、祖父を慕っていた精霊たちだけが、和真についてくるという。


「分かった。それなら一緒に来てくれ」


『かずま、また、みず、きれいにする?』


「ああ。今度は放っておかないよ」


『やくそく?』


「約束する」


 和真が手を差し出す。


 水の精霊は、その手のひらへ小さな指先を重ねた。


 ひんやりとした感触が伝わってくる。


『いっしょ、いく』


 次の瞬間、湧水場から青白い光が溢れ出した。


「うわっ、何?」


 フェンリスが驚いて和真の腕を掴む。


「大丈夫だ。精霊たちが移動する準備をしてる」


「これ全部、精霊なの?」


「ああ」


「こんなにいたんだ……」


 青い光が水面から立ち上り、その周囲へ緑や茶色、白い光が集まっていく。


 やがて無数の光は小さな渦となり、和真の身体の周りを回り始めた。


 湧水場に残っていた僅かな水が、石の隙間へ吸い込まれるように消えていく。


 地中に残っていた水の流れも、ゆっくりと向きを変え始めた。


 完全に水が止まると、青白い光が和真の胸元へ溶け込む。


 ほかの精霊たちも、そのあとへ続いた。


 和真の中へ入ったというより、和真の魔力を目印に身を寄せているらしい。


「消えちゃったよ?」


「俺についてきてる。空色唐辛子荘へ着いたら出てくるよ」


「そんなこともできるんだ」


「俺も初めて知った」


「大丈夫なの?」


「嫌な感じはしないから、たぶん」


「たぶんなんだ……」


 フェンリスは和真の胸元をじっと見つめる。


「途中でお腹の中から精霊が出てきたりしない?」


「胸元へ集まっただけで、食べたわけじゃないよ」


「本当に?」


「本当だって」


 和真は苦笑しながら、完全に水の止まった湧水場を振り返った。


 先ほどまで僅かに滲んでいた水もなくなり、泥に濡れていた石が乾き始めている。


 これなら、誰が見ても枯れた湧水場にしか見えないだろう。


 精霊が望んで移ったとはいえ、伯父たちへ正直に説明するわけにはいかない。


 精霊の存在を信じるとも思えなかった。


 和真が確認に来たときには、既に湧水は枯れていた。


 そう伝えるしかないだろう。


「もう水は出ないの?」


「ああ。精霊が離れたから、この場所からは出ないと思う」


「じゃあ、和真の親戚には何て言うの?」


「湧水は枯れてたって伝えるよ」


「本当のことは言わないんだ」


「精霊が水脈ごと引っ越したなんて説明しても、信じてもらえないからな」


「それもそうだね」


 フェンリスは納得したように頷いた。


「それより、お昼にしない?」


「切り替えが早いな」


「だって、ずっと我慢してたんだよ?」


「分かったよ」


「やった!」


 二人は大きな杉の根元へ腰を下ろし、持ってきた昼食を広げた。


 和真が作ったおにぎりと、昨夜の残り物を詰めた簡単な弁当だった。


 フェンリスはおにぎりを受け取り、不思議そうに眺める。


「これ、中に何か入ってる?」


「一つは鮭で、もう一つは梅干しだ」


「どっちがお肉?」


「鮭は魚だよ」


「じゃあ、こっちから食べる」


 迷うことなく鮭を選び、大きく齧る。


「美味しい!」


「山で食べると、普段より美味しく感じるよな」


「僕はどこで食べても美味しいと思うけど」


「そうか」


「でも、ここで食べるのも好きだよ。静かだし、帽子もいらないし」


 フェンリスの狼耳が、気持ちよさそうに動いている。


 先ほどまで静まり返っていた山に、少しずつ鳥の声が戻ってきた。


 湧水場の精霊たちは離れたものの、山全体から命が消えたわけではない。


 ここから先は、この場所に残る精霊と自然が、新しい形へ変わっていくのだろう。


 昼食を終え、二人は来た道を引き返した。


 帰りは一度通った道だったため、行きよりも早く進むことができた。


 それでも山を出る頃には、日は大きく傾いていた。


「疲れた?」


 和真が尋ねる。


「ちょっとだけ。でも、まだ歩けるよ」


「無理するなよ」


「和真こそ大丈夫なの?」


「俺は平気だ」


「じゃあ、焼き鳥を買って帰れるね」


「それが目的か」


「約束したでしょ?」


「覚えてるよ」


「本当かなあ」


 疑うように見上げながらも、フェンリスの尻尾は楽しそうに揺れていた。


 人通りが少なくなるまで少し時間を潰し、二人は約束していた焼き鳥を買ってから空色唐辛子荘へ戻った。


 敷地へ入ると、和真の胸元に集まっていた光が一斉に外へ飛び出した。


「出てきた!」


 フェンリスが焼き鳥の袋を抱えたまま、光の行方を目で追う。


 青白い光は真っ直ぐ畑へ向かい、枯れた井戸の周囲を一度だけ回った。


 緑や茶色の光は、耕したばかりの土や敷地に残る木々へ散っていく。


 白い光は風に乗り、四棟のアパートと母屋の周囲を巡り始めた。


「何をしてるの?」


「この土地を調べてるみたいだ」


 和真が枯れた井戸のそばへ近づくと、地面の下から微かな震動が伝わってきた。


 青白い光が井戸の中へ沈んでいく。


 しばらくすると、深い場所から水の流れる音が聞こえ始めた。


「和真、水の匂いがするよ」


「ああ。地下へ新しい流れを作ってる」


 枯れていた井戸の底へ、少しずつ水が溜まり始める。


 初めは濁っていた水も、精霊の光が触れるたびに澄んでいった。


 やがて水位がポンプの吸水口まで届く。


 和真がポンプを動かすと、最初は空しい音を立てていた機械が、今度は力強く水を汲み上げ始めた。


 畑の蛇口から、勢いよく水が飛び出す。


「出た!」


 フェンリスが嬉しそうに駆け寄った。


 手のひらで水を受け、匂いを嗅いでから口へ運ぼうとする。


「待て。まだ飲むなよ」


「どうして?」


「最初は井戸の中の汚れが混じるかもしれない。しばらく流してからだ」


「綺麗に見えるのに」


「念のためだよ。飲めるかどうかも調べないとな」


「むう……」


 フェンリスは残念そうに水を捨てた。


 その横で、乾いていた畑の土へ水が染み込んでいく。


 茶色い光が地面の上を走るたび、硬さの残っていた土が柔らかく解れていった。


 敷地の隅に生えていた木々にも緑の光が宿り、萎れていた葉がゆっくりと持ち上がる。


 荒れていた土地全体が、長い眠りから目を覚まし始めていた。


『ここ、すき』


 井戸の中から、水の精霊の声が届く。


「気に入ったか?」


『あのひとの、におい、のこってる』


「爺ちゃんの?」


『うん。ここ、まもってた』


「そうだな。爺ちゃんが残してくれた場所だ」


『こんど、かずま、まもる?』


「ああ。そのつもりだよ」


『みんなも、てつだう』


 井戸の周囲を青白い光が嬉しそうに回った。


「何て言ってるの?」


「この場所が気に入ったって。それと、みんなで手伝ってくれるらしい」


「僕のことは?」


「大きい尻尾の子も一緒かって」


「また尻尾?」


 フェンリスは自分の尻尾を抱え、不満そうに井戸を覗き込む。


「僕にはフェンリスって名前があるからね」


 言葉が通じたのか、青白い光が尻尾の先へ近づいた。


 フェンリスが手を伸ばすと、今度は逃げることなく指先へ触れる。


「冷たい!」


 驚きながらも、フェンリスは嬉しそうに笑った。


 畑で初めて精霊へ手を伸ばしたときは、触れる前に逃げられていた。


 それを覚えていたのか、フェンリスは得意そうに和真を見上げる。


「今度は逃げられなかったよ」


「気に入られたみたいだな」


「当然でしょ。僕、悪いことしてないもん」


「精霊はそういうところを見てるのかもな」


「じゃあ、和真も悪い人じゃないってこと?」


「どうだろうな」


「そこは違うって言わないんだ」


「自分で決めることじゃないだろ」


「本当に変なところで真面目だね」


 フェンリスは呆れたように言いながら、もう一度精霊へ指を伸ばした。


 翌朝。


 和真は伯父へ電話をかけた。


 山へ入ったことと、湧水場を確認した結果を簡単に伝える。


「湧水はどうだった?」


「もう枯れてたよ。水路も崩れてた」


「そうか。まあ、使う予定もないからな」


 伯父の返事に、残念そうな様子はなかった。


「ほかに何かあったか?」


「いや。道もかなり荒れてたし、奥まで入るのは危ないと思う」


「分かった。だったら、もう放っておいていいだろ」


「……そうだな」


 電話は、それだけで終わった。


 和真はスマートフォンを下ろし、畑へ目を向ける。


 昨日まで枯れていた井戸には、既に澄んだ水が満ちている。


 親戚たちにとって、山の湧水は本当に必要のないものだったのだろう。


 だが、祖父を待ち続けていた精霊たちにとっては違う。


 今度こそ、自分が守らなければならない。


「電話、終わった?」


 母屋からフェンリスが出てくる。


「ああ。湧水は枯れてたって伝えたよ」


「怒られなかった?」


「向こうは興味がないみたいだ」


「そっか。じゃあ、あの子たちはここにいていいんだね」


「ああ」


「よかった」


 フェンリスは井戸のそばへ歩み寄った。


 朝の光を浴びた狼耳が立ち、特大の尻尾がゆったりと揺れる。


 井戸から現れた青白い光が、その周囲を楽しそうに回った。


 畑にはまだ何も植えられていない。


 四棟のアパートも、これから改修を始める段階だ。


 それでも、水が戻り、精霊たちが集まったことで、荒れていた土地には確かな変化が生まれていた。


「これで野菜を育てられるね」


「ああ。果樹も植えられるし、動物を飼う準備もできる」


「動物って、鶏?」


「まずはな」


「いつ連れてくるの?」


「鶏小屋を作ってからだよ。それに、周りの家にも話をしておかないとな」


「すぐには飼えないの?」


「鳴き声や匂いの問題もあるからな。勝手に始めるわけにはいかない」


「人間って、何をするにも大変だね」


「町で暮らすなら仕方ないよ」


「じゃあ、僕も手伝う」


「近所へ話をしに行くのを?」


「うん。鶏を飼いたいって言えばいいんでしょ?」


「その格好のまま行くつもりか?」


 和真が狼耳と尻尾へ目を向ける。


 フェンリスは数秒黙り、それから自分の尻尾を抱えた。


「……帽子、取ってくる」


「それがいいな」


「でも、ちゃんと僕も行くからね」


「ああ。頼むよ」


 水の戻った畑の前で、フェンリスの尻尾が嬉しそうに揺れる。


 空色唐辛子荘で新しい暮らしを始めるために、次は近所の人たちへ話をしなければならなかった。


山へ入ってすぐ、二人は足を止めることになった。


 入口を覆っていた草木を抜けても、その先に道らしい道は残っていなかった。


 細い木々の間を蔓が縦横に走り、地面には枯れ枝と落ち葉が厚く積もっている。


 祖父と歩いた頃の記憶を頼りに、和真は鉈で枝を払いながら進んだ。


「和真、本当にこっちで合ってる?」


 背後からフェンリスが尋ねる。


「たぶん」


「たぶんなんだ」


「昔は道があったんだよ。今は跡形もないけどな」


「迷ったらどうするの?」


「そのときは、フェンリスに出口を探してもらう」


「僕に任せる気満々じゃん」


「頼りになるんだろ?」


「まあ、なるけどね」


 フェンリスは少し得意そうに答えた。


 帽子を外した狼耳が、周囲の音を拾うように何度も動いている。


 街にいたときとは違い、山の中では耳も尻尾も隠す必要がない。


 そのおかげか、フェンリスの足取りは随分と軽かった。


「右のほうで水の音がするよ」


「水?」


「すごく小さいけどね。ちょろちょろって」


 和真も耳を澄ませてみたが、風に揺れる木々の音しか聞こえない。


「俺には聞こえないな」


「和真の耳と一緒にしないでよ。僕は牙狼族なんだから」


「それなら、少し右へ寄ってみるか」


「うん。たぶん、そっちのほうが歩きやすいよ」


 和真の記憶でも、山道は途中から小さな沢に沿って続いていた。


 フェンリスの言葉を信じて進路を変えると、しばらくして草木の隙間に浅い窪みが現れた。


 かつて沢だった場所らしく、湿った石が帯状に連なっている。


 流れている水は僅かだったが、湧水場へ続く目印にはなりそうだった。


「本当にあったな」


「だから言ったでしょ?」


「さすがだな」


「ふふん。もっと褒めてもいいよ」


「頼りにしてるよ、フェンリス」


「……急に素直に褒められると、ちょっと困るんだけど」


 得意そうに立っていた狼耳が、僅かに外側へ傾いた。


 和真が沢跡に沿って歩き出すと、フェンリスもすぐあとをついてくる。


 山道は奥へ進むほど険しくなった。


 倒木が行く手を塞ぎ、足元の土が崩れている場所もある。


 和真が枝を払い、フェンリスが周囲の安全を確かめる。


 ときにはフェンリスが倒木を軽々と持ち上げ、その下を和真が通ることもあった。


「それ、重くないのか?」


「ちょっと重いかな」


「ちょっとで済むのか……」


「早く通ってよ。ずっと持ってるのは疲れるんだから」


「ああ、悪い」


 和真が倒木の下を抜けると、フェンリスは後ろへ放り投げた。


 太い幹が地面へ落ち、大きな音が山中へ響く。


「フェンリス」


「何?」


「もう少し静かに置けないのか?」


「置いたつもりだったよ?」


「今のが?」


「うん」


「牙狼族の基準が分からない……」


「和真だって、さっき太い枝を簡単に切ってたでしょ。僕だけ力が強いみたいに言わないでよね」


「俺は鉈を使っただろ」


「でも、ほとんど力を入れてなかったよ」


 フェンリスは赤い瞳を細め、疑うように和真を見た。


「和真って、やっぱり普通の人間じゃないよね」


「異世界へ行く前は普通だったよ」


「今は?」


「普通ではないかもな」


「そこは認めるんだ」


 フェンリスは少し笑うと、和真の横へ並んだ。


 木々の間から差し込む陽光は少なく、山の中は昼でも薄暗い。


 それでも、街中で見せていた不安そうな様子はなかった。


「山の中だと楽しそうだな」


「そう見える?」


「ああ。さっきから尻尾がずっと動いてる」


 指摘され、フェンリスが自分の尻尾を振り返る。


 大きな尻尾は左右へゆったりと揺れていた。


「だって、ここなら隠さなくていいからね。帽子も被らなくていいし」


「街だと窮屈か?」


「ちょっとね。耳を押さえられるのも嫌だし、尻尾が動かせないのも疲れるよ」


「悪いな」


「また謝る」


「でも、我慢させてるのは事実だろ」


「和真のせいじゃないでしょ。それに……」


 フェンリスは少し言葉を止めた。


「夜なら外へ連れていってくれるし、今日は山にも来られたから。ずっと部屋にいるよりはいいよ」


「そうか」


「うん。だから、そんな顔しなくていいって」


「どんな顔だよ」


「申し訳なさそうな顔」


 フェンリスが和真の顔を覗き込む。


 以前なら自分から近づくことはなかった。


 その小さな変化に気づいたものの、和真は何も言わず歩き続けた。


 山へ入ってから、一時間近くが経った頃。


 和真は沢跡の近くに立つ大きな杉を見つけた。


 幹の一部が二つに分かれ、根元には苔に覆われた小さな石が置かれている。


「この木、覚えてる」


「目印?」


「ああ。ここまで来れば、湧水場はもうすぐだ」


「やっと着くんだ」


「疲れたか?」


「全然。でも、お腹は空いた」


「出る前に朝飯を食べただろ」


「山を歩いたから、その分減ったんだよ」


「そんなに早く減るものなのか?」


「減ったんだから仕方ないでしょ」


 フェンリスは持ってきた鞄へ視線を向けた。


「昼飯は着いてからだ」


「まだ何も言ってないよ?」


「顔に書いてある」


「僕の顔に文字なんて書いてないよ」


「そういう意味じゃない」


「じゃあ、どういう意味?」


「食べたそうな顔をしてるってことだよ」


「だって食べたいもん」


 フェンリスは隠すことなく答えた。


「湧水場を確認したらな」


「分かった。じゃあ早く行こう」


 先ほどまで和真の後ろを歩いていたはずのフェンリスが、いつの間にか前へ出る。


「勝手に先へ行くなよ」


「少しくらい平気だよ。水の匂いもするし」


「待てって」


 和真は小さく息を吐き、フェンリスのあとを追った。


 大きな杉から少し進むと、木々の間に開けた場所が見えてきた。


 かつて祖父と訪れた湧水場だった。


 しかし、和真の記憶にある姿とは、あまりにも違っていた。


「……ここなの?」


 先に辿り着いたフェンリスが立ち止まる。


「ああ」


 以前は石で囲まれた窪みから澄んだ水が絶えず湧き出し、小さな水路となって山の下へ流れていた。


 周囲の草は刈られ、落ち葉一つ浮かんでいなかった。


 祖父は山へ来るたびに腰を下ろし、柄杓で汲んだ水を和真へ飲ませてくれた。


 今は石組みの大半が崩れ、窪みの中には落ち葉と泥が溜まっている。


 水路は倒れた枝や土砂で塞がれていた。


 辛うじて石の隙間から水が滲み出しているものの、湧水と呼べるほどの勢いはない。


「ほとんど水がないね」


「ここまで酷くなってたのか……」


 和真は崩れた石組みの前へしゃがみ込んだ。


 泥に手を入れ、溜まっている落ち葉を取り除く。


 その下から僅かに水が染み出したが、すぐに濁って見えなくなった。


「枯れたの?」


「完全には枯れてない。でも、このままじゃ時間の問題だ」


 湧水場だけではない。


 周囲の木々も弱り、枝先には枯れかけた葉が目立っていた。


 以前は鳥や虫の声が絶えなかった場所なのに、今は妙に静かだった。


 祖父が亡くなってから、誰も手入れをしなかったのだろう。


 山を引き取った伯父たちは、相続のときには土地の価値ばかり気にしていた。


 だが、実際に山へ足を運んだことは一度もない。


 先ほどの電話でも、好きにすればいいとしか言わなかった。


 和真は泥の中で手を握り締めた。


「和真?」


「何でもない」


「何でもない顔じゃないよ」


 フェンリスが隣へしゃがむ。


 和真の握った手と、荒れた湧水場を交互に見た。


「ここ、大事な場所だったんだね」


「ああ。爺ちゃんがずっと手入れしてた」


「和真も一緒に来てたの?」


「子供の頃にな。夏になると、よくここで水を飲ませてもらったよ」


「そっか」


 フェンリスはそれ以上聞かなかった。


 代わりに袖をまくり、湧水場へ手を伸ばす。


「何から片付ける?」


「手伝ってくれるのか?」


「そのために来たんでしょ。それに、このままじゃお昼にできないし」


「結局、飯が目的か」


「それだけじゃないよ」


 フェンリスは少し不満そうに頬を膨らませる。


「和真が嫌そうな顔してるから、早く綺麗にしたいだけ」


「……ありがとう」


「だから、素直に言われると困るってば」


 フェンリスは誤魔化すように、泥の中から太い枝を引き抜いた。


 二人は湧水場の片付けを始めた。


 和真が水路を塞ぐ枝や石を取り除き、フェンリスが周囲に積もった落ち葉を運び出す。


 人の手で動かせないほど大きな倒木も、二人なら苦労せずに移動できた。


 一時間ほど作業を続けると、泥の下から古い石組みが姿を現した。


 塞がれていた水路にも、僅かに水が流れ始める。


「出た!」


 フェンリスが嬉しそうに水路を指差す。


「まだ少しだけだけどな」


「さっきより全然いいよ」


「ああ。でも、これだけじゃ足りない」


 湧き出す水の量は、記憶にあるものより遥かに少ない。


 詰まりを取り除いただけでは、元に戻らないほど弱っているらしい。


 和真は石組みの前へ膝をつき、目を閉じた。


「何してるの?」


「この場所の精霊を呼んでみる」


 周囲の気配へ意識を広げる。


 土。


 水。


 木々。


 風。


 山を満たす小さな命の声へ、一つずつ呼びかけていく。


 最初は何の反応もなかった。


 それでも和真が呼び続けると、木々の隙間に淡い光が浮かび始めた。


 一つ。


 二つ。


 やがて数え切れないほどの光が、湧水場の周囲へ集まってくる。


「すごい……」


 フェンリスが赤い瞳を見開いた。


「畑にいた精霊より、たくさんいる」


「この山で暮らしてる精霊たちだよ」


 光の多くは弱く、今にも消えてしまいそうだった。


 その中心で、水面から青白い光がゆっくりと立ち上る。


 幼い子供ほどの大きさをした、半透明の姿。


 長い髪は流れる水のように揺れ、衣服の裾が水面へ溶けている。


『……かず、ま?』


 途切れそうな声が、和真の意識へ届いた。


「俺を知ってるのか?」


『ちいさい、かずま。おおきく、なった』


 和真は驚きながら、幼い頃の記憶を辿った。


 祖父と湧水場へ来るたび、水面に青い光が浮かんでいたことがある。


 当時は木漏れ日か、目の錯覚だと思っていた。


「もしかして、昔からここにいたのか?」


『ずっと、いた。あのひとと、かずま、きていた』


「あの人って、爺ちゃんか?」


 水の精霊は小さく頷いた。


『あのひと、みず、きれいにした。き、そだてた。みんな、すきだった』


「そうか……」


『でも、こなくなった』


 青白い瞳が、和真の後ろを探すように動く。


『あのひと、どこ?』


 和真はすぐに答えられなかった。


 精霊に、人間の死をどのように伝えればよいのか分からない。


 それでも、待ち続けていた相手へ嘘をつく気にはなれなかった。


「爺ちゃんは、亡くなったんだ」


『なくなった?』


「もう、ここへは来られない」


 水の精霊は黙り込んだ。


 周囲へ集まっていた光も動きを止める。


『もう、あえない?』


「ああ」


『そう……』


 精霊の姿が僅かに揺らいだ。


 水面へ小さな雫が落ち、静かな波紋が広がっていく。


 周囲の精霊たちも、悲しむように淡く明滅した。


 祖父は精霊の姿を見ることができなかったはずだ。


 声を聞くこともなかっただろう。


 それでも、長い間この山を手入れし、精霊たちが暮らせる環境を守っていた。


 精霊たちは、そのことを覚えていた。


「遅くなってごめん」


『かずま、わるくない』


「でも、もっと早く来ていれば、ここまで弱らせずに済んだ」


『かずま、いなかった。とおいところ、いた』


「それも分かるのか?」


『みんな、しっていた。かずま、いなくなった。ずっと、まってた』


 和真は言葉を失った。


 自分が異世界へ飛ばされていた六年間。


 祖父が亡くなったあとも、精霊たちはこの場所で待ち続けていたのだ。


「和真、その子は何て言ってるの?」


 フェンリスが小声で尋ねる。


 彼女には、精霊の姿が青白い光としてしか見えていないらしい。


「爺ちゃんを待ってたんだ。それと、俺のことも覚えてた」


「ずっと?」


「ああ」


 フェンリスは光を見つめ、耳を伏せた。


「寂しかったんだね」


 言葉が通じたのか、水の精霊がフェンリスへ顔を向ける。


『おおきい、しっぽ』


「フェンリスのことか?」


『かずまの、ともだち?』


「……今は、一緒に暮らしてる」


『ともだち、ちがう?』


「知り合ったばかりだからな」


「何を話してるの?」


「フェンリスが俺の友達かって聞かれた」


「それで、和真は何て答えたの?」


「知り合ったばかりだって」


「ふうん」


 フェンリスはなぜか少し不満そうに唇を尖らせた。


「間違ってないだろ」


「間違ってないけど、別にいいよ」


「何で拗ねるんだ?」


「拗ねてない」


 大きな尻尾が地面を一度だけ叩いた。


 和真が首を傾げていると、水の精霊から小さな笑い声が届く。


 その声に釣られるように、周囲の光も揺れた。


「この湧水を元に戻せるか?」


 和真が尋ねると、水の精霊は弱々しく首を横へ振った。


『ここ、もう、むずかしい』


「水脈が変わったのか?」


『つち、かたくなった。きのね、しんだ。みずのみち、とおくなった』


 人の手が入らなくなったことで、水路だけでなく、山そのものの環境が変わってしまったらしい。


 今すぐ湧水が完全に枯れるわけではない。


 だが、このままでは精霊も長くは留まれないという。


「別の場所へ移ることはできるか?」


『べつの、ばしょ?』


「俺が今暮らしてる土地に、枯れた井戸があるんだ。その近くには畑もある」


 水の精霊が首を傾げる。


「そこに新しい水の流れを作れないか?」


『かずまの、ばしょ?』


「ああ。爺ちゃんが大切にしてた場所だよ」


 空色唐辛子荘も、祖父が長い間守ってきた土地だ。


 今は建物も畑も荒れているが、これから和真が立て直そうとしている。


「もちろん、嫌なら無理にとは言わない。ここに残りたいなら、俺が定期的に手入れへ来るよ」


 水の精霊は周囲を見回した。


 崩れた石組み。


 弱った木々。


 僅かな水しか流れない沢。


 やがて、周囲に集まった精霊たちへ何かを尋ねるように光を揺らした。


 小さな光たちが、一斉に明滅する。


『みんなも、いく』


「みんな?」


『みず。つち。き。かぜ。あのひとの、ばしょ、いく』


 水の精霊だけではない。


 この湧水場の周辺にいた土や木、風の精霊たちも、空色唐辛子荘へ移りたいらしい。


「山を全部離れても大丈夫なのか?」


『ここにいるの、ここのみんなだけ。やまのおく、ほかのみんな、いる』


 山に住むすべての精霊が移るわけではない。


 祖父が手入れしていた湧水場の周辺に集まり、祖父を慕っていた精霊たちだけが、和真についてくるという。


「分かった。それなら一緒に来てくれ」


『かずま、また、みず、きれいにする?』


「ああ。今度は放っておかないよ」


『やくそく?』


「約束する」


 和真が手を差し出す。


 水の精霊は、その手のひらへ小さな指先を重ねた。


 ひんやりとした感触が伝わってくる。


『いっしょ、いく』


 次の瞬間、湧水場から青白い光が溢れ出した。


「うわっ、何?」


 フェンリスが驚いて和真の腕を掴む。


「大丈夫だ。精霊たちが移動する準備をしてる」


「これ全部、精霊なの?」


「ああ」


「こんなにいたんだ……」


 青い光が水面から立ち上り、その周囲へ緑や茶色、白い光が集まっていく。


 やがて無数の光は小さな渦となり、和真の身体の周りを回り始めた。


 湧水場に残っていた僅かな水が、石の隙間へ吸い込まれるように消えていく。


 地中に残っていた水の流れも、ゆっくりと向きを変え始めた。


 完全に水が止まると、青白い光が和真の胸元へ溶け込む。


 ほかの精霊たちも、そのあとへ続いた。


 和真の中へ入ったというより、和真の魔力を目印に身を寄せているらしい。


「消えちゃったよ?」


「俺についてきてる。空色唐辛子荘へ着いたら出てくるよ」


「そんなこともできるんだ」


「俺も初めて知った」


「大丈夫なの?」


「嫌な感じはしないから、たぶん」


「たぶんなんだ……」


 フェンリスは和真の胸元をじっと見つめる。


「途中でお腹の中から精霊が出てきたりしない?」


「胸元へ集まっただけで、食べたわけじゃないよ」


「本当に?」


「本当だって」


 和真は苦笑しながら、完全に水の止まった湧水場を振り返った。


 先ほどまで僅かに滲んでいた水もなくなり、泥に濡れていた石が乾き始めている。


 これなら、誰が見ても枯れた湧水場にしか見えないだろう。


 精霊が望んで移ったとはいえ、伯父たちへ正直に説明するわけにはいかない。


 精霊の存在を信じるとも思えなかった。


 和真が確認に来たときには、既に湧水は枯れていた。


 そう伝えるしかないだろう。


「もう水は出ないの?」


「ああ。精霊が離れたから、この場所からは出ないと思う」


「じゃあ、和真の親戚には何て言うの?」


「湧水は枯れてたって伝えるよ」


「本当のことは言わないんだ」


「精霊が水脈ごと引っ越したなんて説明しても、信じてもらえないからな」


「それもそうだね」


 フェンリスは納得したように頷いた。


「それより、お昼にしない?」


「切り替えが早いな」


「だって、ずっと我慢してたんだよ?」


「分かったよ」


「やった!」


 二人は大きな杉の根元へ腰を下ろし、持ってきた昼食を広げた。


 和真が作ったおにぎりと、昨夜の残り物を詰めた簡単な弁当だった。


 フェンリスはおにぎりを受け取り、不思議そうに眺める。


「これ、中に何か入ってる?」


「一つは鮭で、もう一つは梅干しだ」


「どっちがお肉?」


「鮭は魚だよ」


「じゃあ、こっちから食べる」


 迷うことなく鮭を選び、大きく齧る。


「美味しい!」


「山で食べると、普段より美味しく感じるよな」


「僕はどこで食べても美味しいと思うけど」


「そうか」


「でも、ここで食べるのも好きだよ。静かだし、帽子もいらないし」


 フェンリスの狼耳が、気持ちよさそうに動いている。


 先ほどまで静まり返っていた山に、少しずつ鳥の声が戻ってきた。


 湧水場の精霊たちは離れたものの、山全体から命が消えたわけではない。


 ここから先は、この場所に残る精霊と自然が、新しい形へ変わっていくのだろう。


 昼食を終え、二人は来た道を引き返した。


 帰りは一度通った道だったため、行きよりも早く進むことができた。


 それでも山を出る頃には、日は大きく傾いていた。


「疲れた?」


 和真が尋ねる。


「ちょっとだけ。でも、まだ歩けるよ」


「無理するなよ」


「和真こそ大丈夫なの?」


「俺は平気だ」


「じゃあ、焼き鳥を買って帰れるね」


「それが目的か」


「約束したでしょ?」


「覚えてるよ」


「本当かなあ」


 疑うように見上げながらも、フェンリスの尻尾は楽しそうに揺れていた。


 人通りが少なくなるまで少し時間を潰し、二人は約束していた焼き鳥を買ってから空色唐辛子荘へ戻った。


 敷地へ入ると、和真の胸元に集まっていた光が一斉に外へ飛び出した。


「出てきた!」


 フェンリスが焼き鳥の袋を抱えたまま、光の行方を目で追う。


 青白い光は真っ直ぐ畑へ向かい、枯れた井戸の周囲を一度だけ回った。


 緑や茶色の光は、耕したばかりの土や敷地に残る木々へ散っていく。


 白い光は風に乗り、四棟のアパートと母屋の周囲を巡り始めた。


「何をしてるの?」


「この土地を調べてるみたいだ」


 和真が枯れた井戸のそばへ近づくと、地面の下から微かな震動が伝わってきた。


 青白い光が井戸の中へ沈んでいく。


 しばらくすると、深い場所から水の流れる音が聞こえ始めた。


「和真、水の匂いがするよ」


「ああ。地下へ新しい流れを作ってる」


 枯れていた井戸の底へ、少しずつ水が溜まり始める。


 初めは濁っていた水も、精霊の光が触れるたびに澄んでいった。


 やがて水位がポンプの吸水口まで届く。


 和真がポンプを動かすと、最初は空しい音を立てていた機械が、今度は力強く水を汲み上げ始めた。


 畑の蛇口から、勢いよく水が飛び出す。


「出た!」


 フェンリスが嬉しそうに駆け寄った。


 手のひらで水を受け、匂いを嗅いでから口へ運ぼうとする。


「待て。まだ飲むなよ」


「どうして?」


「最初は井戸の中の汚れが混じるかもしれない。しばらく流してからだ」


「綺麗に見えるのに」


「念のためだよ。飲めるかどうかも調べないとな」


「むう……」


 フェンリスは残念そうに水を捨てた。


 その横で、乾いていた畑の土へ水が染み込んでいく。


 茶色い光が地面の上を走るたび、硬さの残っていた土が柔らかく解れていった。


 敷地の隅に生えていた木々にも緑の光が宿り、萎れていた葉がゆっくりと持ち上がる。


 荒れていた土地全体が、長い眠りから目を覚まし始めていた。


『ここ、すき』


 井戸の中から、水の精霊の声が届く。


「気に入ったか?」


『あのひとの、におい、のこってる』


「爺ちゃんの?」


『うん。ここ、まもってた』


「そうだな。爺ちゃんが残してくれた場所だ」


『こんど、かずま、まもる?』


「ああ。そのつもりだよ」


『みんなも、てつだう』


 井戸の周囲を青白い光が嬉しそうに回った。


「何て言ってるの?」


「この場所が気に入ったって。それと、みんなで手伝ってくれるらしい」


「僕のことは?」


「大きい尻尾の子も一緒かって」


「また尻尾?」


 フェンリスは自分の尻尾を抱え、不満そうに井戸を覗き込む。


「僕にはフェンリスって名前があるからね」


 言葉が通じたのか、青白い光が尻尾の先へ近づいた。


 フェンリスが手を伸ばすと、今度は逃げることなく指先へ触れる。


「冷たい!」


 驚きながらも、フェンリスは嬉しそうに笑った。


 畑で初めて精霊へ手を伸ばしたときは、触れる前に逃げられていた。


 それを覚えていたのか、フェンリスは得意そうに和真を見上げる。


「今度は逃げられなかったよ」


「気に入られたみたいだな」


「当然でしょ。僕、悪いことしてないもん」


「精霊はそういうところを見てるのかもな」


「じゃあ、和真も悪い人じゃないってこと?」


「どうだろうな」


「そこは違うって言わないんだ」


「自分で決めることじゃないだろ」


「本当に変なところで真面目だね」


 フェンリスは呆れたように言いながら、もう一度精霊へ指を伸ばした。


 翌朝。


 和真は伯父へ電話をかけた。


 山へ入ったことと、湧水場を確認した結果を簡単に伝える。


「湧水はどうだった?」


「もう枯れてたよ。水路も崩れてた」


「そうか。まあ、使う予定もないからな」


 伯父の返事に、残念そうな様子はなかった。


「ほかに何かあったか?」


「いや。道もかなり荒れてたし、奥まで入るのは危ないと思う」


「分かった。だったら、もう放っておいていいだろ」


「……そうだな」


 電話は、それだけで終わった。


 和真はスマートフォンを下ろし、畑へ目を向ける。


 昨日まで枯れていた井戸には、既に澄んだ水が満ちている。


 親戚たちにとって、山の湧水は本当に必要のないものだったのだろう。


 だが、祖父を待ち続けていた精霊たちにとっては違う。


 今度こそ、自分が守らなければならない。


「電話、終わった?」


 母屋からフェンリスが出てくる。


「ああ。湧水は枯れてたって伝えたよ」


「怒られなかった?」


「向こうは興味がないみたいだ」


「そっか。じゃあ、あの子たちはここにいていいんだね」


「ああ」


「よかった」


 フェンリスは井戸のそばへ歩み寄った。


 朝の光を浴びた狼耳が立ち、特大の尻尾がゆったりと揺れる。


 井戸から現れた青白い光が、その周囲を楽しそうに回った。


 畑にはまだ何も植えられていない。


 四棟のアパートも、これから改修を始める段階だ。


 それでも、水が戻り、精霊たちが集まったことで、荒れていた土地には確かな変化が生まれていた。


「これで野菜を育てられるね」


「ああ。果樹も植えられるし、動物を飼う準備もできる」


「動物って、鶏?」


「まずはな」


「いつ連れてくるの?」


「鶏小屋を作ってからだよ。それに、周りの家にも話をしておかないとな」


「すぐには飼えないの?」


「鳴き声や匂いの問題もあるからな。勝手に始めるわけにはいかない」


「人間って、何をするにも大変だね」


「町で暮らすなら仕方ないよ」


「じゃあ、僕も手伝う」


「近所へ話をしに行くのを?」


「うん。鶏を飼いたいって言えばいいんでしょ?」


「その格好のまま行くつもりか?」


 和真が狼耳と尻尾へ目を向ける。


 フェンリスは数秒黙り、それから自分の尻尾を抱えた。


「……帽子、取ってくる」


「それがいいな」


「でも、ちゃんと僕も行くからね」


「ああ。頼むよ」


 水の戻った畑の前で、フェンリスの尻尾が嬉しそうに揺れる。


 空色唐辛子荘で新しい暮らしを始めるために、次は近所の人たちへ話をしなければならなかった。

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