第二話 フェンリス・ルセアート
公園を出てから、和真はできるだけ人通りの少ない道を選んで歩いた。
背中には、先ほど出会ったばかりの牙狼族――フェンリスを背負っている。
大きな狼の耳と、身体を覆えるほどの太い尾。
深夜とはいえ、誰かに見られれば騒ぎになる可能性がある。
幸い、住宅街へ入ってからは、まだ誰ともすれ違っていなかった。
「……まだ着かないのか?」
背中から掠れた声が聞こえる。
「もう少しだ」
「さっきも、そう言っていた」
「今度は本当にもう少しだよ」
「信用できない」
「だったら、自分で歩くか?」
フェンリスは答えなかった。
公園では何度か自分の足で立とうとしたが、そのたびに膝から崩れ落ちている。
魔力だけでなく、体力もほとんど残っていないのだろう。
和真の背中へ身体を預けながらも、フェンリスは落ちないために必要な力で服を掴んでいるだけだった。
決して気を許しているわけではない。
「落ちそうなら、もう少し掴んでいいぞ」
「落ちない」
「そうか」
会話はそこで途切れた。
大通りへ続く交差点へ差しかかると、一台の車が二人の前を通り過ぎた。
フェンリスの身体が強張る。
狼の耳が立ち上がり、遠ざかっていく車の音を追うように動いた。
「……今のは何だ?」
「車だよ」
「クルマ?」
「人や荷物を乗せて走る乗り物だ」
「馬も魔獣もいなかったぞ」
「この世界では、あれだけで走るんだ」
「どうやって?」
「詳しく説明すると長くなる。明日、動けるようになったら見せるよ」
「……あれが、街中を走っているのか?」
「ああ。昼間はもっと多い」
フェンリスはしばらく車が消えた方向を見ていた。
さらに歩くと、今度は頭上の街灯へ視線を向ける。
白い光に照らされた狼耳が、僅かに動いた。
「あの光も、魔法ではないのか?」
「魔法じゃない。電気で光ってる」
「デンキ……」
「この世界で色々な道具を動かしている力だと思えばいい」
「魔力とは違うのか?」
「違う」
フェンリスは街灯を見上げたまま黙り込んだ。
理解したというより、知らない言葉を覚えようとしているようだった。
和真も、それ以上は説明しなかった。
今は新しい世界について学ばせるより、身体を休ませるほうが先だ。
やがて、空色唐辛子荘を囲う工事用の囲いが見えてきた。
和真は仮設扉の前で足を止め、ポケットから鍵を取り出す。
「ここか?」
「ああ。この奥に俺の家がある」
「家に入るのに、なぜ壁で囲う必要がある」
「敷地の中が工事中なんだ」
扉の鍵を開け、フェンリスを背負ったまま中へ入る。
敷地内には、足場と防音シートに覆われた四棟の木造アパートが並んでいた。
その横には、途中まで解体された跡地が広がっている。
夜の闇の中には重機が止まり、周囲には資材や廃材が積まれていた。
フェンリスの尾が僅かに持ち上がる。
「あれは、ゴーレムか?」
「どれだ?」
「あの大きな黄色い物だ」
「ああ、重機のことか。建物を壊したり、土を掘ったりする機械だよ」
「キカイ……」
「それも魔法では動いていない」
「この世界には、本当に魔法がないのか?」
「少なくとも、普通に暮らしている人は使えない」
「それなのに、あれほど大きな物を動かせるのか」
フェンリスは重機から目を離さなかった。
警戒しているのか、それとも興味を持っているのか、今の表情だけでは判別できない。
「今は動かないから安心してくれ」
「怖がっているわけではない」
「そうか」
「本当だ」
念を押す声に、和真は何も返さなかった。
敷地の奥まで進むと、祖父と暮らしていた二階建ての母屋が見えてきた。
玄関前でフェンリスをゆっくりと降ろす。
「立てそうか?」
「立てる」
フェンリスは和真の肩から手を離し、自分の足で立とうとした。
しかし、力を入れた途端に身体が傾く。
和真が腕を伸ばすと、フェンリスは反射的にその手を振り払った。
「触るな」
「分かった。そこへ手をついて待っていてくれ」
フェンリスは玄関脇の柱へ手をつき、どうにか身体を支えた。
和真は玄関の鍵を開け、先に家へ入る。
壁のスイッチを押した瞬間、玄関の照明がついた。
「――っ!」
背後でフェンリスが息を呑む。
振り返ると、彼女は柱へ手をついたまま身構えていた。
伏せていた狼耳が立ち、大きな尾も僅かに膨らんでいる。
「何をした?」
「明かりをつけただけだ」
「今の光から、魔力を感じない」
「これも電気だよ。壁にあるスイッチを押すと、明かりがつく」
和真がもう一度スイッチを押す。
明かりが消えた。
再び押すと、玄関が明るくなる。
フェンリスの視線が、照明と和真の指先を何度も往復した。
「……火も使わずに、これほど明るくなるのか」
「ああ」
「デンキというものは、何でもできるのか?」
「何でもは無理だけど、色々な物に使われている」
「お前は、それを操れるのか?」
「俺が操っているわけじゃない。誰でも、このスイッチを押せば使える」
フェンリスは納得できない様子だった。
それでも、今すぐ危険なものではないと判断したのか、ゆっくりと構えを解いた。
「入っていいぞ」
和真が声をかけても、フェンリスはすぐには動かなかった。
明るくなった玄関と、その先に続く廊下を警戒するように見つめている。
「中に、ほかの者はいないのか?」
「いない。今は俺一人で暮らしてる」
「家族は?」
「今はいない」
和真が短く答えると、フェンリスはそれ以上尋ねなかった。
壁に手をつきながら玄関へ入る。
土足のまま上がろうとしたため、和真が呼び止めた。
「そこで靴を脱いでくれ」
「なぜだ?」
「日本では、外で履いた靴のまま家に上がらないんだ」
フェンリスは和真の足元を見た。
玄関に並べられた靴と、その先の床を確認してから、その場へ腰を下ろす。
靴を脱ぐ動作だけでも辛そうだったが、和真は手を出さずに待った。
今のフェンリスへ不用意に触れれば、余計に警戒させるだけだ。
靴を脱ぎ終えると、和真は歩く速度を落として居間へ案内した。
フェンリスは壁や柱へ手をつきながら、どうにかついてくる。
廊下に並ぶ照明や壁のスイッチが気になるらしく、何度も視線を向けていた。
居間へ入ると、和真は畳の上へ座布団を置いた。
「ここに座ってくれ」
フェンリスは座布団を見下ろした。
「これは何だ?」
「その上に座るための物だ」
「床に座るのか?」
「ああ。嫌なら椅子を持ってくる」
「必要ない」
フェンリスは尾を横へ逃がし、座布団の上へ腰を下ろした。
すぐに室内を見回す。
窓。
廊下。
出入口。
家具の配置。
珍しい物を眺めるよりも先に、逃げ道や危険がないか確かめているようだった。
「水を持ってくる」
「待て」
台所へ向かいかけた和真を、フェンリスが呼び止める。
「どこへ行く」
「すぐそこだ。ここからでも見えるだろ?」
和真が台所を示す。
居間との間に扉はなく、フェンリスの位置からでも中の様子を確認できた。
「勝手に何かしたりしないよ」
「そんな心配はしていない」
「そうか」
和真は台所へ入り、コップを一つ取り出した。
蛇口をひねると、水が勢いよく流れ出す。
「……水?」
フェンリスが座布団から僅かに身を乗り出した。
「どこから出している」
「水道だよ」
「そこに水が入っているのか?」
「この中に入ってるわけじゃない。地面の下を通って、家まで水が運ばれてくるんだ」
「井戸から汲まなくてもいいのか?」
「ああ。これをひねれば、いつでも水が出る」
和真が蛇口を閉める。
流れていた水が止まった。
もう一度ひねると、再び水が流れ始める。
フェンリスの耳が、水音へ合わせるように動いた。
「これもデンキか?」
「水を送る途中では使ってるけど、この蛇口そのものは少し違うな」
「違うのか……」
「詳しい仕組みは、俺も説明できない」
和真は水を注いだコップを、フェンリスの前へ置いた。
「飲める水だ」
フェンリスはすぐには手を伸ばさなかった。
透明なコップと、その中の水を見つめる。
それからコップを持ち上げ、匂いを確かめた。
少しだけ口に含み、問題がないと判断したのか、続けて水を飲む。
余程喉が渇いていたらしい。
コップの水は、すぐに半分以下まで減った。
「おかわりは?」
「……もらう」
「ああ」
もう一杯の水を用意したあと、和真は冷蔵庫を開けた。
室内灯がつき、冷たい空気が流れ出す。
居間から見ていたフェンリスの耳が、再び立ち上がった。
「今度は何だ?」
「冷蔵庫だ。食べ物を冷やして保存するための物だよ」
「氷の魔道具か?」
「これも電気で動いてる」
「またデンキか」
「この家の道具は、大体それで動いてると思っていい」
フェンリスは冷蔵庫を睨むように見つめていた。
和真が中から豚肉と野菜を取り出し、扉を閉める。
「中に氷の魔石もないのか?」
「ない」
「それなのに、なぜ冷たい」
「それを説明するには、俺も調べないと無理だな」
「お前も知らない物を使っているのか?」
「使い方さえ分かれば、仕組みを知らなくても困らないからな」
「……変な世界だ」
フェンリスが小さく呟く。
和真はスマートフォンを取り出し、料理の作り方を検索した。
画面に明かりがついた瞬間、フェンリスの視線がそちらへ移る。
「その板も、デンキで動いているのか?」
「よく分かったな」
「この世界の物は、大体デンキなのだろう?」
「覚えるのが早いな」
和真が答えると、フェンリスは僅かに眉を寄せた。
「それで、何をしている」
「料理の作り方を調べてる」
「作り方を知らないのか?」
「詳しくは知らない」
「僕へ食べさせる物だろう?」
「ああ」
「大丈夫なのか?」
「食べられる物にはする」
「安心できない答えだな」
和真自身もそう思った。
それでも、何も食べさせないわけにはいかない。
「野菜炒めなら、そこまで失敗しないはずだ」
「そこまで?」
「休んで待っていてくれ」
「ここから見ている」
「別に構わないけど、面白くはないぞ」
「お前が料理へ何を入れるのか、確認する必要がある」
「……そういうことか」
まだ信用されていない。
出会ってから一時間も経っていないのだから、当然だった。
和真はスマートフォンの画面を確認しながら、豚肉と野菜を切り始めた。
ガスコンロのつまみを回す。
小さな音とともに青い炎がつくと、フェンリスの耳がまた反応した。
「今度は火か」
「これは分かるんだな」
「僕を何だと思っている」
「デンキに驚いてたから」
「火くらい知っている!」
「なら安心だ」
「馬鹿にしているのか?」
「してないよ」
和真はフライパンへ油を入れた。
豚肉を炒め、続いて野菜を加える。
途中までは順調だった。
だが、スマートフォンの画面を確認している間に、肉の一部が焦げ始めた。
「煙が出ているぞ」
「分かってる」
「本当に大丈夫なのか?」
「今のところは」
「今のところ……」
火を弱め、慌てて野菜を混ぜる。
今度は焦がさないことへ意識を向けすぎて、醤油が予定より多く入った。
「あっ」
「今、何か失敗しただろう」
「少し味が濃くなっただけだ」
「それを失敗というのではないか?」
「まだ直せる」
少量の水を加え、味を調整する。
火の通り方にも差ができていたため、何度も混ぜているうちにキャベツはすっかり柔らかくなってしまった。
完成した野菜炒めは、全体的に色が濃い。
肉の一部は焦げ、野菜も形が崩れている。
決して見栄えがいいとはいえなかった。
和真は炊いてあった白米と即席の味噌汁を用意し、野菜炒めと一緒に居間へ運んだ。
「できたぞ」
フェンリスは、テーブルへ並べられた料理を見つめた。
「……黒くないか?」
「少し焦げただけだ」
「本当に食べられるのか?」
「俺も同じ物を食べる」
和真は自分の分を先に口へ運んだ。
醤油の味は少し濃い。
キャベツは柔らかくなりすぎている。
それでも、白米と一緒に食べれば十分においしいと思える味だった。
「うん。見た目よりは悪くない」
「作った本人の言葉とは思えないな」
「食べられない物にはなってないよ」
フェンリスは警戒しながら、和真が食べる様子を見ていた。
すぐには料理へ手をつけようとしない。
和真は急かさず、自分の食事を続けた。
しばらくして、フェンリスが箸へ手を伸ばす。
二本の細い棒を見て、動きを止めた。
「これは、どう使う?」
「食べ物を挟むんだ。こうやって」
和真が箸を動かして見せる。
フェンリスも同じように持とうとしたが、上手く指を動かせず、一本を畳へ落とした。
狼耳が不機嫌そうに伏せられる。
「別の物を持ってくる」
「必要ない。もう一度やる」
「慣れるまでは難しいぞ」
「できないとは言っていない」
フェンリスは再び箸を持った。
何度か挑戦したものの、野菜を掴む前に箸がずれてしまう。
和真は台所からフォークを持ってきて、彼女の前へ置いた。
「今日はこれを使えばいい。箸はあとで練習できる」
フェンリスは箸とフォークを見比べた。
最終的には何も言わず、フォークを手に取る。
野菜炒めを少しだけ刺し、匂いを確かめてから口へ入れた。
ゆっくりと噛み、飲み込む。
「どうだ?」
「……見た目よりは悪くない」
「俺と同じ感想だな」
「少し味は濃いが、食べられる」
「そこは、おいしいと言ってくれてもいいんだぞ」
「そこまでは言っていない」
そう答えながらも、フェンリスはもう一口食べた。
最初よりも迷いは少ない。
その後も言葉を交わすことなく、静かに食事が続いた。
用意した野菜炒めと白米は、どちらも残らなかった。
食べ終える頃には、伏せられていた狼耳が少しだけ元へ戻っていた。
「足りたか?」
「……足りた」
「そうか」
和真が食器を重ねる。
フェンリスはその動きを目で追ったあと、僅かに視線を落とした。
「礼は、今は言わない」
「別に求めてないよ」
「ただ、食事を用意したことは覚えておく」
「ああ。それでいい」
感謝の言葉とは少し違う。
それでも、最初より警戒が僅かに弱まったことだけは分かった。
食器を片づけたあと、和真は母屋の空き部屋へフェンリスを案内した。
六畳ほどの和室には、古い箪笥と小さな机が置かれている。
長く使っていなかったものの、定期的に掃除はしていたため、大きな汚れはない。
「今日はここで休んでくれ」
フェンリスは部屋へ入らず、廊下から中を確認した。
「窓の外は?」
「庭だ。その先に、さっき見たアパートがある」
「ここに鍵はあるのか?」
「内側からかけられる」
和真は襖の内側に後付けされた簡易錠を示した。
「俺は勝手に入らない。心配なら、寝る前に鍵をかけてくれ」
「お前はどこで寝る」
「廊下を挟んだ向かいの部屋だ」
「近いな」
「嫌なら、俺は居間で寝る」
フェンリスはしばらく和真を見つめた。
「……向かいの部屋でいい」
「分かった」
和真は押し入れを開け、来客用の布団を取り出した。
畳の上へ広げると、フェンリスが不思議そうに見つめる。
「それが寝床なのか?」
「ああ。布団っていうんだ」
「床に直接敷くのか」
「下にも一枚敷いてるから、直接じゃない。見た目よりは柔らかいぞ」
フェンリスは布団の端を指先で押した。
沈んだ綿がゆっくりと元へ戻る。
その様子を何度か確かめてから、すぐに手を離した。
「改修工事が終わるまでは、この部屋を使っていい」
「なぜ、工事が終わるまでなんだ?」
「向こうにあるアパートを、人が住める状態へ直している。工事が終わっても元の世界へ戻る方法が見つからなければ、そのときは空いている部屋を使えばいい」
「僕を住まわせるつもりなのか?」
「行く場所が見つかれば、無理にここへ残る必要はない」
和真は敷いた布団から離れ、フェンリスを見る。
「でも、この世界に知っている人はいないんだろ?」
「……いない」
「元の世界へ戻る方法も、今は分からない」
「それは、必ず見つける」
「ああ。見つかるまでは、ひとまずここにいればいい」
「見返りは?」
「その話は、身体が戻ってから考える。今のお前に何かさせるつもりはない」
「僕が危険な者だとは考えないのか?」
「考えてるよ」
和真が迷わず答えると、フェンリスの狼耳が僅かに動いた。
「俺はお前のことを何も知らない。お前だって、俺を信用してないだろ」
「当然だ」
「だったら、お互い様だ。今は必要以上に近づかない。それでいい」
フェンリスはすぐには答えなかった。
部屋の中や窓、廊下に立つ和真を順番に確認する。
「……分かった」
「風呂とトイレは廊下の奥にある。ただ、今日は疲れてるだろ。詳しい使い方は明日の朝に説明する」
「使い方を聞かなければならないのか?」
「たぶん、お前の知ってる物とはかなり違う」
フェンリスは照明へ視線を向けた。
水道や冷蔵庫のことを思い出したのか、反論せずに口を閉じる。
「必要なら呼んでくれ。俺の部屋は向かいだから」
「呼ぶ必要はない」
「分かった」
和真は部屋を出ようとした。
「待て」
フェンリスの声に呼び止められ、足を止める。
「まだ何かあるか?」
「この部屋を借りるのは、元の世界へ戻るまでではない」
「分かってる」
「身体が動くようになるまでだ」
「ああ。今はそれでいい」
和真はそれ以上何も言わず、廊下へ出た。
「おやすみ、フェンリス」
「おやすみとは、何だ?」
「眠る前の挨拶だよ」
「そうか」
少し間を置いてから、フェンリスが答える。
「……おやすみ、和真」
「ああ」
和真が襖を閉める。
直後、内側から簡易錠をかける音が聞こえた。
やはり、まだ信用されてはいない。
当然だと思いながら、和真は居間へ戻った。
空になった二人分の食器を前に、スマートフォンを取り出す。
フェンリスが着ている服は、所々が破れ、土や草の汁で汚れている。
明日も同じ服で過ごさせるわけにはいかない。
かといって、今から店へ買いに行く時間でもなかった。
「とりあえず、外へ出られる服だけでも必要だな」
和真は翌日の午前中に届けてもらえる商品へ絞り、ゆったりとした上着や、腰回りに余裕のあるロングスカートを探し始めた。
耳を隠すための、深めの帽子も必要になる。
正確な寸法は分からない。
今から本人へ聞きに行けば、別の意味で警戒される可能性が高い。
多少大きくても着られるよう、サイズを調整しやすい物を選ぶしかなかった。
必要最低限の服を注文し、画面に表示された金額を確認する。
「……最初から、結構な出費だな」
空色唐辛子荘の改修費だけでも頭を抱えている。
それでも、必要な物を用意しないわけにはいかなかった。
和真はスマートフォンを置き、廊下の向こうへ視線を向ける。
家の中は静かだった。
フェンリスが眠ったのか、それとも今も警戒しているのかは分からない。
公園で出会い、食事と寝る場所を用意した。
今夜は、ただそれだけだ。
二人はまだ、互いのことをほとんど何も知らない。
和真は居間の照明を消し、自分の部屋へ向かった。
◇
翌朝。
枕元に置いていたスマートフォンが鳴り、和真は目を覚ました。
聞き慣れない着信音が、静かな家の中へ響いている。
「……電話?」
眠い目を擦りながら画面を見ると、登録していない番号が表示されていた。
通話に応じる。
「はい、四ノ宮です」
『お荷物をお届けに来たのですが、工事用の囲いがありまして……』
「ああ、すみません。今から入口へ行きます」
昨夜、衣服を注文した際、工事用の仮設入口へ到着したら電話をかけてもらうよう指定していた。
通話を終えて身体を起こす。
部屋を出ると、向かいの襖が僅かに開いていた。
隙間から、フェンリスの赤い瞳がこちらを見ている。
「今の音は何だ?」
「電話だよ」
「デンワ?」
「昨日見せたスマートフォンを使って、離れた場所にいる人と話してたんだ」
「誰もいなかったではないか」
「声だけを届けられるんだよ」
フェンリスは和真の手にあるスマートフォンを見つめた。
「その小さな板で、遠くの者と話せるのか?」
「ああ」
「どこまで届く」
「相手も同じような物を持っていて、使える場所なら、かなり遠くまで」
「国の外でも?」
「届くよ」
フェンリスの狼耳がぴんと立った。
「なら、別の世界にも――」
「それは無理だ」
和真が答えると、立ち上がっていた耳がゆっくりと伏せられた。
「そうか」
「あくまで、この世界の中で使える道具だからな」
「……分かっている」
フェンリスはスマートフォンから視線を逸らした。
和真もそれ以上触れず、廊下を玄関へ向かう。
「外に荷物が届いてる。受け取ってくるから、ここで待っていてくれ」
「僕を一人にするのか?」
「工事用の入口まで行くだけだ。すぐ戻る」
「何の荷物だ?」
「お前が着られそうな服だよ」
「僕の?」
「ああ。今の服は破れてるだろ」
フェンリスは自分の服へ視線を落とした。
黒を基調とした衣服は所々が破れ、土や草の汁で汚れている。
「なぜ、お前が僕の服を用意する」
「その格好のまま、街へ連れていくわけにはいかないからだよ」
「街へ行くのか?」
「生活に必要な物が何もないだろ。今日はそれを揃える」
「僕は頼んでいない」
「分かってる。でも、服一着で暮らすわけにはいかないだろ」
フェンリスは不満そうだったが、ほかに方法がないことも理解しているのか、それ以上は反論しなかった。
「すぐ戻る。家から出ないでくれ」
「命令するな」
「頼んでるんだよ」
和真は玄関で靴を履き、母屋を出た。
工事の止まった敷地を通り抜け、内側から仮設扉の鍵を開ける。
囲いの外では、荷物を持った配達員が待っていた。
本人確認を済ませて荷物を受け取り、再び仮設扉へ鍵をかける。
母屋へ戻ると、フェンリスは玄関近くの廊下に立っていた。
「部屋で待っていてよかったのに」
「家の中を見ていただけだ」
「そうか」
「逃げようとしたわけではない」
「何も聞いてないよ」
和真は荷物を居間へ運んだ。
フェンリスも一定の距離を保ちながらついてくる。
段ボール箱を開けると、注文していた衣服が入っていた。
ゆったりとした上着。
腰回りに余裕のあるロングスカート。
大きめの薄手のカーディガン。
そして、狼耳を隠すための深い帽子。
「とりあえず、外に出る間だけこれを着てくれ」
フェンリスは帽子を手に取り、不思議そうに形を確かめた。
「頭に被るのか?」
「ああ。その中に耳を入れる」
「嫌だ」
「即答するなよ」
「耳を押さえつけられると、周囲の音が聞き取りにくくなる」
「人の多い場所にいる間だけでいい。誰もいないところでは、少しくらい緩めても大丈夫だから」
「尾はどうする」
「……それなんだよな」
和真は大きな尾へ視線を向けた。
身体を包み込めるほど太く、毛量も多い。
ロングスカートを用意したものの、そのまま中へ収めるのは難しそうだった。
フェンリスが尾を抱えるように持ち上げる。
「巻いておくことはできる」
「痛くないのか?」
「長時間でなければ問題ない」
「じゃあ、腰へ巻いて、その上からスカートで隠すしかないか」
「妙なことを考えるな」
「俺だって好きで考えてるわけじゃないよ」
和真は衣服をまとめ、フェンリスへ渡した。
「着替える前に、身体を洗ったほうがいいな」
「水浴びをする場所があるのか?」
「風呂場がある。温かいお湯も出るぞ」
フェンリスの耳が僅かに動いた。
「湯を沸かす必要は?」
「蛇口をひねれば出る」
「昨日の水と同じか」
「似たようなものだな。先に使い方を説明するよ」
和真はフェンリスを浴室へ案内した。
脱衣所へ入ると、洗濯機を見たフェンリスが足を止める。
「この大きな箱は何だ?」
「服を洗うための機械だよ」
「この中で?」
「ああ。水と洗剤を入れて動かすと、自動で洗ってくれる」
「服までキカイが洗うのか」
「手で洗うこともできるけど、普段はこれを使う人が多いな」
フェンリスは洗濯機の蓋を開け、中を覗き込んだ。
「人が一人くらい入りそうだ」
「絶対に入るなよ」
「入らない!」
和真は浴室の扉を開けた。
浴槽には、先ほど起きてすぐに張っておいた湯が入っている。
白い湯気が、浴室の中へ薄く漂っていた。
フェンリスが目を見開く。
「もう湯がある……」
「身体を洗ってから、この中へ入って温まればいい」
「これほどの湯を、毎日使うのか?」
「ああ。湯船に入らず、シャワーだけで済ませる人もいるけどな」
「シャワー?」
「これだよ」
和真は壁に掛けられたシャワーヘッドを手に取り、蛇口をひねった。
勢いよく温水が流れ出す。
フェンリスが一歩後ろへ下がった。
「そこからも湯が出るのか」
「赤いほうへ回すと熱くなる。青いほうへ回すと冷たくなるから、少しずつ調整してくれ」
和真は一度シャワーを止め、並んでいる容器を順番に示した。
「この青い容器が髪を洗う物。白いほうが身体を洗う物だ」
「中には何が入っている」
「汚れを落とすための液体だよ。少し出して、泡立てて使う」
「泡で身体を洗うのか?」
「ああ。使いすぎると流すのが大変だから、少しずつな」
使い方を一通り説明し、脱衣所へ新しいタオルと届いた衣服を置く。
「俺は居間にいる。分からないことがあったら、扉越しに呼んでくれ」
「呼ばなくても使える」
「そうか。じゃあ、ゆっくり入ってくれ」
和真が出ようとすると、フェンリスが脱衣所の扉を確かめた。
「ここにも鍵はあるのか?」
「ああ。内側からかけられる」
「ならいい」
和真が廊下へ出た直後、扉の鍵がかけられた。
◇
和真の足音が遠ざかったことを確かめ、フェンリスは扉から離れた。
見慣れない道具に囲まれている。
昨夜までいた世界とは、何もかもが違う。
火を使わずに光る照明。
ひねるだけで水が出る蛇口。
食べ物を冷やし続ける箱。
遠くにいる者と話せる小さな板。
そして、いつでも温かな湯を使える浴室。
「変な世界だ……」
フェンリスは服を脱ぎ、浴室へ入った。
床は滑らかで、石造りの浴場とは感触が違う。
和真に教えられたとおり、シャワーの蛇口を少しだけひねった。
冷たい水が飛び出し、狼耳と尾が同時に跳ねる。
「冷たっ!」
慌てて赤いほうへ回す。
今度は急に熱くなり、すぐに手を離した。
「少しずつと言っていたのは、これか……」
何度か調整し、ようやく適温に合わせる。
頭から温水を浴びると、銀髪に付着していた土や細かな葉が流れ落ちた。
身体を包む温かさに、強張っていた肩から僅かに力が抜ける。
青い容器を手に取り、上部を押す。
想像していたより多くの液体が手のひらへ出た。
「これを、泡に……」
両手を擦り合わせると、白い泡が次々と増えていく。
フェンリスは驚きながらも、その泡を銀髪へ馴染ませた。
甘く清潔な香りが広がる。
「すごいな……」
髪を洗い終えると、次は大きな尾へ泡をつけた。
毛量が多いため、表面だけでは汚れが落ちない。
両手で毛を分けながら、根元から丁寧に洗っていく。
尾をすべて洗い終える頃には、思っていた以上に時間がかかっていた。
泡を温水で流し、最後に浴槽へ近づく。
爪先で湯の温度を確かめてから、ゆっくりと身体を沈めた。
「……っ」
温かな湯が、疲れの残る身体を包み込む。
湯の中へ大きな尾も沈めると、たっぷりと湯を吸って重くなった。
フェンリスは浴槽の縁へ背中を預け、息を吐く。
知らない世界。
知らない家。
出会ったばかりの、信用できるかも分からない男。
警戒を解いていい理由などない。
それでも、扉の鍵は内側からかけられた。
和真が勝手に入ってくる気配もない。
食事には何も入れられておらず、用意された部屋でも何も起きなかった。
「……まだ、信用したわけじゃない」
誰に聞かせるでもなく呟く。
狼耳から力が抜け、僅かに横へ傾いた。
湯の温かさに包まれている間だけは、少しだけ身体を休めてもいい。
そう考えながら、フェンリスは静かに目を閉じた。
◇
しばらくして、フェンリスは浴槽から上がった。
和真から渡されたタオルで身体と髪の水気を拭き取る。
しかし、問題は大きな尾だった。
何度拭いても、内側の毛に残った水が次々と表面へ染み出してくる。
「……乾かない」
さらに何度かタオルで挟んだものの、完全に乾く気配はなかった。
このままでは、届いたばかりの服まで濡れてしまう。
フェンリスは仕方なく元の服を身体へ掛け、脱衣所の扉を僅かに開けた。
「和真」
少し離れた居間から、足音が近づいてくる。
「どうした?」
「尾が乾かない」
「入ってもいいのか?」
「駄目だ。そこにいろ」
和真は閉じた扉の向こうで立ち止まった。
「タオルだけじゃ無理か?」
「中の毛に水が残っている」
「そうなると思って、脱衣所の棚にドライヤーを置いておいたんだけど」
「どれだ?」
「持ち手がついた、黒い道具があるだろ?」
フェンリスは棚を確認した。
見慣れない形をした道具が、壁の差し込み口へつながっている。
「これを、どう使う」
「持ち手にスイッチがある。それを上へ動かせば、温かい風が出る」
「風までキカイで起こすのか?」
「熱くなりすぎることもあるから、尾から少し離して使ってくれ」
フェンリスは恐る恐るスイッチを入れた。
轟音とともに温風が吹き出す。
「うわっ!」
驚いてスイッチを戻すと、音と風が止まった。
「大丈夫か?」
「急に大きな音がした!」
「そういう道具なんだよ。危険じゃない」
「先に言え!」
「悪い。でも、それを使わないと乾くまでかなり時間がかかるぞ」
フェンリスは黒い道具を睨んだ。
しばらく迷った末、今度は身体から離した状態でもう一度スイッチを入れる。
温かな風が吹き出した。
先ほどより驚きは少ない。
「……本当に、風が出ている」
「それを尾へ当てながら、毛の中まで乾かしてくれ」
「分かった。もう行っていいぞ」
「ああ。終わったら声をかけてくれ」
和真の足音が遠ざかる。
フェンリスは大きな尾を前へ抱え、根元から少しずつ温風を当て始めた。
毛を分けながら乾かしていくと、濡れて細くなっていた尾が、次第に本来の大きさへ戻っていく。
すべて乾かし終える頃には、尾は風を含み、普段以上に膨らんでいた。
「……大きくなりすぎた」
フェンリスは尾を押さえながら、届いた服へ着替えた。
◇
居間へ戻ってきたフェンリスを見て、和真は一瞬言葉を失った。
銀髪は綺麗に乾き、毛先の桃色も鮮やかになっている。
その後ろでは、乾かしたばかりの巨大な尾が普段以上に膨らんでいた。
「ずいぶん、ふわふわになったな」
「見るな」
「見ないと話せないだろ」
「この風を出す道具のせいだ」
「乾けば、そのうち落ち着くと思う」
「これを服の中へ入れるのか?」
「……入るか?」
「入れる」
フェンリスは意地になったように答えた。
尾を腰へ巻きつけ、その上からロングスカートを穿く。
何度か位置を調整し、どうにか中へ収めることはできた。
腰回りは少し膨らんでいるものの、丈の長いカーディガンを羽織れば目立ちにくくなる。
最後に深い帽子を被り、狼耳を中へ押し込んだ。
フェンリスは帽子の位置を何度も直し、不機嫌そうに和真を見る。
「音が聞こえにくい」
「完全に聞こえないわけじゃないだろ?」
「聞こえる。でも、気持ちが悪い」
「人の多い場所を抜けるまで我慢してくれ」
「長かったら外すぞ」
「できるだけ急ぐよ」
外出する前に、和真は簡単な朝食を用意した。
焼いたパンと目玉焼きだけの質素なものだったが、フェンリスは昨夜と同じように、和真が先に食べるのを確認してから口へ運んだ。
途中、焼き上がったパンがトースターから勢いよく飛び出し、フェンリスが身構える場面もあった。
危険な物ではないと説明しても、しばらくトースターへ警戒するような視線を向けていた。
食事を終えると、二人は母屋を出た。
和真が仮設扉の鍵を開け、先に囲いの外を確認する。
通行人の姿がないことを確かめてから、フェンリスを外へ出した。
扉へ再び鍵をかける。
「ここから街まで歩く。身体は大丈夫か?」
「昨日とは違う。これくらいなら歩ける」
「無理そうなら言ってくれ」
「必要ない」
そう答えたフェンリスは、和真より半歩ほど後ろを歩き始めた。
◇
昼間の街は、昨夜とはまるで違っていた。
道路には絶え間なく車が走り、歩道では自転車が行き交っている。
遠くから聞こえるクラクション。
信号機から流れる電子音。
店先のスピーカーから聞こえる音楽。
フェンリスは表情こそ崩さなかったものの、帽子の中に隠した狼耳が動くたび、布地が僅かに持ち上がっていた。
一台の大型トラックが目の前を通り過ぎる。
強い風が吹き、フェンリスのロングスカートが大きく揺れた。
フェンリスは反射的に身を低くする。
「大丈夫か?」
「今のクルマは大きすぎないか?」
「荷物を運ぶための車だからな」
「魔獣よりも速いぞ」
「街の中では、まだ遅いほうだよ」
「もっと速く走れるのか?」
「ああ」
フェンリスは遠ざかるトラックを見つめた。
「……あれと戦うとしたら、脚を狙うべきか?」
「戦わなくていいから」
「もしもの話だ」
「そのもしもは、たぶん来ない」
横断歩道へ着くと、歩行者用の信号が赤になっていた。
和真が足を止める。
フェンリスも隣で立ち止まった。
「なぜ止まる」
「今は車が通る順番だからだ。あの光が青になったら渡る」
「あれが、人とクルマへ命令しているのか?」
「事故が起きないように、通る順番を決めてるんだよ」
やがて信号が青へ変わり、電子音が鳴り始める。
周囲の人々が一斉に歩き出した。
フェンリスは和真から離れないよう、周囲を警戒しながら横断歩道を渡る。
「誰も逆らわないんだな」
「逆らったら危ないからな」
「兵士が見張っているわけでもないのに?」
「守らない人もいるけど、基本的には皆が同じ決まりに従ってる」
「妙なところで統率された国だ」
交差点を抜けると、道路脇に並ぶ自動販売機の前でフェンリスが足を止めた。
色鮮やかな飲み物の写真が並び、内部から低い機械音が聞こえている。
「今度は何だ?」
「飲み物を売ってる機械だよ」
「人が入っているのか?」
「入ってない」
「では、誰が売る」
「お金を入れて、欲しい物のボタンを押せば出てくる」
「店主もいないのに?」
「ああ」
和真が硬貨を入れ、冷たいお茶のボタンを押す。
機械の中から音が鳴り、取り出し口へペットボトルが落ちた。
フェンリスの身体が僅かに跳ねる。
「中で何かが動いたぞ」
「買ったお茶が出てきただけだ」
和真が取り出したペットボトルを見せる。
フェンリスは自動販売機の横や裏側まで確認した。
「本当に誰もいない……」
「この街には、似たような物がたくさんある」
「こんな物を外へ置いて、盗まれないのか?」
「絶対に盗まれないわけじゃないけど、普通は大丈夫だな」
「平和なのか、無防備なのか分からない世界だ」
フェンリスは納得できない様子で自動販売機を振り返りながら、再び歩き始めた。
◇
最初に入ったのは、衣料品を扱う大きな店だった。
二人が入口へ近づくと、自動ドアが音もなく左右へ開く。
フェンリスが即座に足を止めた。
「今、扉が勝手に開いたぞ」
「人が近づいたことを見つけて、自動で開くんだ」
「僕たちを見ている者がいるのか?」
「人じゃなくて、上についてる機械が見つけてる」
フェンリスが入口の上を見上げる。
「デンキか?」
「正解」
「少し分かってきたぞ」
警戒しながらも、フェンリスは和真と一緒に店内へ入った。
広い売り場には、数え切れないほどの衣服が並んでいる。
天井からは明るい光が降り注ぎ、店内放送や音楽が絶えず流れていた。
フェンリスは足を止め、周囲を見回した。
「この服を、すべてここで売っているのか?」
「ああ。好きな物を選んで買える」
「王都の仕立屋より多いぞ……」
和真は、動きやすく、尾を隠しやすそうな服を中心に探した。
腰回りに余裕のあるロングスカート。
丈の長い上着。
身体を締めつけない部屋着。
帽子も、今被っている物より耳を圧迫しにくい形を選ぶ。
「どれがいい?」
「違いが分からない」
「色や形の好みは?」
「動きやすければ何でもいい」
「何でもいいが一番困るんだけどな」
「なら、和真が選べばいい」
「俺に女性の服を選ぶ自信はないよ」
結局、二人で何度も売り場を行き来することになった。
和真が候補を選び、フェンリスが動きやすさを確かめる。
服を試すための個室があると説明したときも、フェンリスは中に誰も隠れていないか確認してから入った。
続いて下着売り場へ向かう。
入口の前で、今度は和真が足を止めた。
「ここからは、女性の店員に頼もう」
「なぜだ?」
「俺が一緒に選ぶ物じゃないからだよ」
「服は先ほど一緒に選んだだろう」
「下着は別だ」
「何が違う」
「違うものは違うんだ」
フェンリスは理解できないという顔をしていた。
和真は女性店員へ声をかけ、フェンリスが外国から来たばかりで、日本語に慣れていないと説明した。
必要なことだけフェンリスへ伝え、しばらく売り場の外で待つ。
戻ってきたフェンリスは、紙袋を片手に持ちながら不満そうに眉を寄せていた。
「かなり時間がかかったな」
「僕の身体を何度も測られた」
「必要なことだから仕方ない」
「お前は、なぜ逃げた」
「逃げたんじゃない。任せたんだ」
「僕だけ置いていっただろう」
「男があの場に残るほうが問題なんだよ」
フェンリスは、やはり納得していない様子だった。
会計では、和真がカードを読み取り機へ触れさせるだけで支払いを終えた。
硬貨も紙幣も渡していないことに気づき、フェンリスが機械とカードを交互に見る。
「金を払っていないぞ」
「払ったよ」
「薄い板を触れさせただけだ」
「この中に、俺が使えるお金の情報が入ってるんだ」
「金貨も銀貨も持ち歩かなくていいのか?」
「ああ」
「奪われたらどうする」
「使えないように止められる」
「では、偽物を作られたら?」
「……その話を始めると長くなるから、次へ行こう」
それから二人は、何軒もの店を回った。
タオル。
歯ブラシ。
櫛。
髪を洗うためのシャンプー。
そのほかの日用品。
フェンリス専用の茶碗や皿、カップ、フォークも用意した。
店へ入るたび、フェンリスは自動ドアや店内放送へ反応し、初めて見る商品を手に取っては用途を尋ねた。
最初は警戒のために周囲を見ていた。
しかし、時間が経つにつれ、その視線には少しずつ好奇心が混じり始めていた。
一方で、和真の両手には買い物袋が増え続ける。
会計を終えるたび、スマートフォンへ届く利用通知の金額も大きくなっていった。
「……かなり使ったな」
「どうした?」
「いや。必要な物だから仕方ない」
「無理に買う必要はないと言ったはずだ」
「服一着で暮らすわけにはいかないだろ。食器だって、いつまでも来客用を使わせるわけにはいかない」
「僕は困らない」
「俺が困るんだよ」
「なぜ和真が困る」
「一緒に暮らす間、必要な物がないと不便だからだ」
フェンリスは何かを言いかけ、結局口を閉じた。
代わりに、和真が持っていた袋の一つへ手を伸ばす。
「僕も持つ」
「身体は大丈夫なのか?」
「もう動ける。すべて和真が持つ必要はない」
「じゃあ、軽い物だけ頼む」
「重い物でも構わない」
「今日は軽い物だけでいい」
和真はタオルや衣服の入った袋を選び、フェンリスへ渡した。
彼女は少し不満そうだったが、それ以上は言わずに袋を受け取った。
◇
必要な買い物が一通り終わり、二人が通りを歩いていたときだった。
フェンリスの足が、突然止まった。
帽子の中に隠された耳が動き、鼻先が僅かに上がる。
「どうした?」
「甘い匂いがする」
「甘い匂い?」
「あっちだ」
フェンリスは迷うことなく、通りの先へ歩き始めた。
「ちょっと待て。勝手に行くな」
「すぐそこだ」
和真が後を追う。
フェンリスが立ち止まったのは、大きなガラス窓のある洋菓子店の前だった。
店内のショーケースには、色とりどりのケーキが並んでいる。
白い生クリーム。
赤い苺。
艶のあるチョコレート。
果物を飾ったタルト。
フェンリスはガラス越しに、並んだケーキを見つめていた。
「これは食べ物なのか?」
「ああ。ケーキっていう甘い菓子だよ」
「すべて食べられるのか?」
「飾りまで食べられる物が多いな」
「花のように見えるぞ」
「職人が綺麗に作ってるんだ」
フェンリスはショーケースから目を離さない。
先ほどまで買い物の疲れを見せ始めていたが、今は赤い瞳がはっきりと輝いていた。
「食べてみるか?」
和真が尋ねると、フェンリスはようやくこちらを見た。
「いいのか?」
「俺も疲れたし、少し休みたい」
「また金を使うことになるぞ」
「ケーキ二つくらいなら大丈夫だよ」
「本当に?」
「ああ」
和真が店の入口へ向かうと、フェンリスもすぐについてきた。
店内には焼き菓子と紅茶の甘い香りが漂っていた。
フェンリスは帽子の下で何度も耳を動かしながら、ショーケースを端から端まで見ていく。
和真はチョコレートケーキを選んだ。
フェンリスは長い時間迷った末、苺の乗ったショートケーキを指差した。
「これにする」
「分かった」
二人分の紅茶も注文し、店の奥にある席へ座った。
ほどなくして、ケーキと紅茶が運ばれてくる。
フェンリスは目の前へ置かれたショートケーキを、食べる前に様々な角度から眺めていた。
「溶けない雪のようだな」
「白いところは生クリームだよ」
「この赤い実は?」
「苺」
「そのまま食べていいのか?」
「ああ。全部一緒に食べるとおいしいぞ」
フェンリスは昨夜よりも少し慣れた手つきでフォークを持った。
慎重にケーキの端を切り、生クリームと苺を一緒に口へ運ぶ。
次の瞬間、帽子の中で狼耳が大きく動いた。
腰へ巻いて隠している尾も反応したらしく、ロングスカートの後ろが僅かに揺れる。
「……なんだ、これは」
「口に合わなかったか?」
「違う」
フェンリスはもう一口、先ほどより少し大きく切り取った。
「甘い。でも、果実は少し酸っぱい。柔らかいところと、ふわふわしたところもある」
「それがショートケーキだよ」
「この世界では、いつでもこれを食べられるのか?」
「店が開いていて、お金があればな」
「王族でもない者が?」
「普通の人でも食べられるよ。毎日食べる物ではないけど」
「これを、普通の者でも……」
フェンリスは信じられないという顔でケーキを見つめた。
それから再びフォークを動かす。
一口ごとに警戒が薄れ、食べ進める速さが少しずつ上がっていった。
和真もチョコレートケーキを口へ運ぶ。
しっかりとした甘さの中に、僅かな苦味がある。
朝から歩き続けた身体には、ちょうどよかった。
フェンリスは紅茶の香りを確かめ、おそるおそる一口飲んだ。
「これは苦いな」
「ケーキと一緒なら合うと思うぞ」
言われたとおり、ケーキを食べたあとにもう一度紅茶を飲む。
「……さっきより悪くない」
「だろ?」
「でも、ケーキのほうがうまい」
「それは好みだな」
二人は、それ以上多くを話さず、それぞれのケーキを食べた。
公園で出会ったばかりの昨夜とは違い、沈黙が張りつめることはなかった。
完全に警戒が解けたわけではない。
和真も、無理にフェンリスの事情を聞こうとはしなかった。
ただ、同じテーブルで甘い物を食べる程度には、二人の間にあった距離が僅かに縮まっていた。
「ごちそうさま」
先に食べ終えたフェンリスが、空になった皿を見つめる。
「その言葉、覚えたのか?」
「和真が昨夜、食事のあとに言っていただろう」
「よく聞いてたな」
「耳には自信がある」
フェンリスは帽子へ手を当て、不満そうに眉を寄せる。
「今は、かなり聞こえにくいが」
「もう少しの我慢だ。人通りが減ったら少し緩めてもいい」
「帰ったら、すぐに外す」
「ああ」
和真も残っていた紅茶を飲み終え、会計を済ませた。
店を出る頃には、空が夕方の色へ変わり始めていた。
街の建物へ西日が差し、道路を走る車の影が長く伸びている。
和真は両手にいくつもの買い物袋を持ち、フェンリスも軽い袋を抱えていた。
「必要な物は、大体揃ったな」
「これほど必要だったとは思えない」
「暮らし始めれば、たぶん足りない物がまだ出てくるよ」
「まだ買うのか?」
「今日はもう買わない。残りは必要になってからだ」
和真は空色唐辛子荘のある方向へ足を向けた。
「そろそろ帰るぞ」
「帰る……」
フェンリスが、その言葉を小さく繰り返す。
和真が振り返ると、彼女は一瞬だけ黙り込んだあと、いつもの警戒を残した表情へ戻った。
「一時的に借りているだけだ」
「分かってるよ」
「ならいい」
フェンリスは買い物袋を持ち直し、和真の半歩後ろを歩き始めた。
行きに見たときは警戒するだけだった車や街灯へ、今度は確かめるような視線を向けている。
二人は夕暮れの街を歩き、空色唐辛子荘への帰路についた。
◇
空色唐辛子荘へ戻る頃には、日はほとんど沈みかけていた。
西の空には僅かに茜色が残り、住宅街の街灯が一つずつ明かりを灯し始めている。
和真は両手にいくつもの買い物袋を提げ、フェンリスも衣服やタオルの入った袋を抱えていた。
工事用の仮設扉へ着くと、和真は一度荷物を地面へ置いた。
鍵を取り出し、扉を開ける。
「先に入ってくれ」
フェンリスが敷地へ入る。
和真も買い物袋を持ち直して中へ入り、仮設扉へ再び鍵をかけた。
周囲に人がいないことを確かめると、フェンリスは真っ先に帽子を脱いだ。
「やっと外せた……」
押さえつけられていた狼耳が勢いよく立ち上がる。
何度か左右へ動かし、周囲の音を確かめていた。
「そんなに窮屈だったのか?」
「和真も一日中、耳を塞いで歩けば分かる」
「俺には、その耳がないからな」
「なら、口を塞いで歩け」
「それは別の話だろ」
フェンリスは和真を睨んだあと、ロングスカートの腰へ手を入れた。
「ここで尾まで出すのか?」
「もう限界だ」
「誰かに見られるかもしれないぞ」
「囲いの中へ入れば大丈夫だと言ったのは和真だろう」
「言ったけど、母屋まで少しくらい我慢できないか?」
「できない」
フェンリスは腰へ巻いていた尾を引き出した。
解放された巨大な尾が、大きく膨らみながら背後へ広がる。
窮屈な状態から解放された反動なのか、左右へ何度も勢いよく振られた。
尾の先が和真の持っていた買い物袋へ当たり、中に入っていた箱が傾く。
「危ない!」
和真は慌てて袋を支えた。
「食器も入ってるんだ。割れたら困る」
「僕の尾が悪いと言うのか?」
「ほかに何があるんだよ」
「そこに袋を置いた和真も悪い」
「置かないと鍵を閉められなかったんだよ」
フェンリスは自分の尾を抱え、僅かに顔を逸らした。
「……次から気をつける」
「ああ。頼む」
素直に謝ったわけではない。
それでも、昨夜なら言わなかった言葉だろう。
和真は買い物袋を持ち直し、母屋へ向かった。
◇
家へ入ると、二人は買ってきた物を居間へ運んだ。
畳の上には、大小いくつもの袋が並んでいる。
「まず、服はお前の部屋へ持っていこう。食器と日用品は分けるか」
「これは、どこへ置く」
フェンリスが、タオルの入った袋を持ち上げる。
「洗面所の棚だな。場所を教えるよ」
和真は買ってきた物を一つずつ取り出し、それぞれの置き場所を説明していった。
タオルは洗面所。
歯ブラシとカップは洗面台。
シャンプーなどは浴室。
衣服はフェンリスが使う部屋の箪笥へ。
食器は台所の棚へ収める。
フェンリスは自分用に買った白いカップを手に取り、表面を確かめた。
「これは、僕だけが使うのか?」
「ああ。柄が違うから、俺の物と間違えないだろ」
「昨日と同じ物を使えばいい」
「あれは来客用だよ」
「僕も客ではないのか?」
「今は客みたいなものだけど、何日ここにいるか分からないからな」
「身体が戻るまでだ」
「ああ。そのあとも帰る方法が見つからなければ、しばらく必要になる」
フェンリスは白いカップへ視線を落とした。
「僕が、すぐにいなくなるとは考えないのか?」
「帰れるなら、それが一番だと思ってるよ」
「なら、これは無駄になるかもしれない」
「そのときは来客用にする」
「……そうか」
フェンリスはカップを棚へ入れた。
和真の使っている物とは少し離れた場所へ、慎重に置く。
続いて皿や茶碗を片づけていると、フェンリスの尾が座卓の上にあった細長い道具へ触れた。
道具が床へ落ちる。
その拍子に、部屋の隅に置かれていたテレビの電源が入った。
『続いて、明日の天気をお伝えします』
突然、知らない女性の声が室内へ響いた。
フェンリスは大きく跳び退き、瞬時に身構えた。
「誰だ!」
「落ち着け!」
画面の中では、女性が日本地図の前に立ち、各地の天気を説明している。
フェンリスは声の主を探し、やがてテレビの画面へ気づいた。
「そこにいるぞ」
「人がいるわけじゃない」
「見えるだろう!」
「遠くにいる人の姿と声を映してるだけだよ」
「さっきのデンワと同じか?」
「少し違う。これはテレビだ」
「また新しい物か……」
フェンリスは警戒を解かないまま、テレビへ近づいた。
画面の横や裏側を確認する。
「この中に閉じ込められているわけではないのか?」
「違うよ。映像を流してるだけだ」
「エイゾウ?」
「離れた場所や、過去に記録した人や景色を、今ここにいるように見せられるんだ」
和真は床に落ちたリモコンを拾い、電源ボタンを押した。
画面が暗くなり、女性の声も消える。
もう一度押すと、再び画面へ映像が現れた。
フェンリスの耳が、テレビから流れる音へ向けられる。
「これも、誰でも使えるのか?」
「ああ。珍しい物じゃない」
「この世界には、遠くを見る能力を持つ者が大勢いるのかと思った」
「人の能力じゃなくて、道具の力だよ」
「道具だけで、これほどのことができるのか……」
フェンリスはテレビの前へ座った。
天気予報が終わり、街の飲食店を紹介する番組へ切り替わる。
画面に大きな料理が映し出された。
フェンリスの視線が止まる。
「これは?」
「料理を紹介する番組だな」
「この者たちは、なぜ食べているだけなのに映されている」
「料理のおいしさを伝えるためじゃないか?」
「食べなければ、味は分からないだろう」
「それはそうだけど、見た人が店へ行きたくなるんだよ」
画面には、大きな器に盛られたパフェが映っていた。
フェンリスの狼耳が僅かに前へ傾く。
「これも、今日食べたケーキと同じ菓子か?」
「似てるけど、あれはパフェだな」
「パフェ……」
「今日はもう食べないぞ」
「食べたいとは言っていない」
「画面から目を離してから言ってくれ」
フェンリスはすぐにテレビから顔を逸らした。
「ただ、どういう物か見ていただけだ」
「そういうことにしておくよ」
和真はリモコンでテレビの電源を消した。
画面が暗くなると、フェンリスは僅かに残念そうな顔をしたものの、何も言わずに片づけへ戻った。
◇
買ってきた物を片づけ終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。
窓の向こうにある工事現場も、夜の闇へ沈んでいる。
「夕飯、どうするかな……」
和真は冷蔵庫の中を確認した。
昨日使った豚肉と野菜が少し残っている。
卵や豆腐もあった。
「また、光る板で作り方を調べるのか?」
後ろからフェンリスの声が聞こえる。
「ああ。そのほうが失敗しにくい」
「昨日は失敗していただろう」
「食べられただろ?」
「見た目よりは悪くなかった」
「なら、成功だよ」
「ずいぶん低い成功だな」
和真はスマートフォンで簡単な料理を探した。
いくつか表示された中から、材料を切って煮込むだけの鍋料理を選ぶ。
「これなら、昨日よりは失敗しないはずだ」
「本当か?」
「煮るだけだからな」
「昨日も似たようなことを言っていなかったか?」
「気のせいだ」
和真が材料を並べ始めると、フェンリスは台所の入口へ立った。
「何をしている?」
「見れば分かるだろ。夕飯を作るんだよ」
「そうではない。僕が何をすればいいか聞いている」
和真は手を止め、フェンリスを見る。
「手伝うのか?」
「僕の食事でもある。何もせずに待つ理由はない」
「料理はできるのか?」
「肉を焼くことくらいはできる」
「それだけ?」
「旅の途中なら、それで十分だ」
「ここでは、もう少し細かく切ってくれ」
和真は包丁とまな板を用意した。
包丁の使い方を説明しようとしたが、フェンリスは慣れた手つきで野菜を切り始める。
速い。
しかも、大きさがほとんど揃っている。
「上手いな」
「これくらいは普通だ」
「俺より上手いかもしれない」
「比べる相手が和真では、自慢にならない」
「失礼だな」
和真は豆腐を切り、鍋へ出汁と材料を入れた。
フェンリスはガスコンロの青い炎を警戒していたものの、昨日ほど驚くことはなかった。
鍋が煮えるまでの間、二人は居間へ戻った。
フェンリスは座布団へ腰を下ろし、大きな尾を横へ逃がす。
和真も向かい側へ座った。
しばらく沈黙が続く。
最初に口を開いたのは、和真だった。
「そういえば、まだ名前を全部聞いてなかったな」
「名前なら、昨日教えた」
「フェンリスだけだろ。ほかにもあるんじゃないか?」
フェンリスは僅かに目を細めた。
「なぜ知りたい」
「これから同じ家で暮らすのに、名前すら知らないのは困る」
「フェンリスで十分だ」
「言いたくないなら、無理には聞かないよ」
和真が引き下がると、フェンリスは黙り込んだ。
まだ話せない事情があるのかもしれない。
出会ったばかりの相手へ、すべてを話す必要はない。
和真も、自分が異世界で経験したことを誰かへ詳しく話したわけではなかった。
無理に尋ねるつもりはなかった。
「……ルセアート」
小さな声が、静かな居間へ落ちた。
「え?」
「フェンリス・ルセアート。それが僕の名前だ」
「フェンリス・ルセアート」
和真が確認するように繰り返す。
フェンリスは真っ直ぐに和真を見ていた。
「妙な名前だと思ったか?」
「いや。覚えやすいと思っただけだ」
「そうか」
「教えてくれてありがとう。俺は四ノ宮和真。昨日も名乗ったけど、四ノ宮が家の名前で、和真が個人の名前だ」
「では、僕と逆なのか?」
「そうなるな。この国では、家の名前を先に言うことが多い」
「シノミヤが家の名で、カズマが名……」
フェンリスは確かめるように何度か繰り返した。
「和真でいいよ」
「なら、僕もフェンリスでいい」
「ああ」
名前を知っただけだ。
それでも、昨日よりは相手のことを一つ多く知ることができた。
「年齢は?」
「二十だ」
「俺より二つ下か」
「和真はいくつだ?」
「昨日、二十二歳になった」
「昨日が誕生日だったのか?」
「ああ」
「その日に、僕を拾ったのか」
「拾ったって言い方はどうなんだ?」
「違うのか?」
「……大きくは違わないかもしれないな」
公園で弱っていたところを見つけ、家まで背負ってきた。
拾ったと言われても、完全には否定できない。
「この国では、誕生日に誰かを拾う習慣があるのか?」
「ないよ。お前が偶然そこにいただけだ」
「そうか」
フェンリスは、少し考えるように目を伏せた。
和真は話題を変える。
「昨日、気がついたらこの世界にいたのか?」
「ああ」
「その前に何があったかは覚えてる?」
フェンリスの尾の動きが止まった。
「……覚えている」
「何があった?」
「それを和真へ話す必要はない」
声に、はっきりとした拒絶が混じる。
「分かった。今は聞かない」
「今後も話すとは言っていない」
「ああ」
和真はそれ以上踏み込まなかった。
少なくとも、フェンリスが元の世界で何らかの事情を抱えていたことだけは伝わってくる。
だが、その事情を聞き出すことより、今後どうやってこの世界で暮らすかを考えるほうが先だった。
「この世界で暮らすには、少し問題がある」
「問題?」
「フェンリスが、この世界の人間だと証明できる物を何も持っていないことだ」
「牙狼族だ。人間ではない」
「今はそこじゃない」
和真は頭を掻いた。
「この国では、名前や年齢、どこで生まれたかを国が記録してる。その記録がないと、住む場所を借りたり、仕事を探したりするときに困るんだ」
「僕はここにいる。姿を見れば、存在していることくらい分かるだろう」
「存在してることと、身元を証明できることは別なんだよ」
「面倒だな」
「俺も帰ってきた直後、色々な手続きに追われたからな」
「和真は、この世界の者なのだろう?」
「それでも、六年間いなかったから大変だったんだ。最初から記録のないフェンリスは、もっと難しいと思う」
「なら、どうする」
「これから考える」
「考えていなかったのか?」
「昨日会ったばかりだからな」
フェンリスが呆れたように息を吐く。
「行き当たりばったりだな」
「公園で倒れそうになってたお前を置いて、先に手続きを調べろとでも言うのか?」
「それは……」
「とにかく、すぐに答えが出る問題じゃない。しばらくは人目を避けながら暮らすしかないと思う」
和真は今後のため、最低限守ってほしいことを説明した。
一人で勝手に街へ出ないこと。
外では狼耳と尾を隠すこと。
人前で魔法や、牙狼族にしかできないことを見せないこと。
困ったことや必要な物があれば、勝手に動く前に相談すること。
フェンリスは不満そうにしながらも、最後まで黙って聞いていた。
「僕からも条件がある」
「何だ?」
「僕が借りている部屋へ、勝手に入らないこと」
「ああ」
「触るときは、先に声をかけること」
「危険なときまで確認する余裕はないぞ」
「そのとき以外だ」
「分かった」
「僕の元いた世界について、無理に聞かないこと」
「それも分かった」
和真が頷くと、フェンリスは少し意外そうな顔をした。
「簡単に認めるんだな」
「断る理由がないからな」
「僕が嘘をついているかもしれないぞ」
「だからって、無理に聞き出すつもりはない。俺だって、人に話したくないことはある」
「……そうか」
台所から、鍋の蓋が小さく鳴る音が聞こえた。
「煮えたみたいだな」
和真が立ち上がる。
フェンリスも続いて立とうとした。
「運ぶのは俺がやる。座って待っていてくれ」
「また何もさせないつもりか?」
「今日はまだ病み上がりみたいなものだろ」
「もう動ける」
「なら、箸と皿を並べてくれ」
「分かった」
フェンリスは台所の棚から、先ほど片づけたばかりの食器を取り出した。
自分用の白い皿と茶碗。
和真が使っている物。
二人分を座卓へ並べる。
和真は完成した鍋を運び、取り皿へ分けた。
今回は焦げてもいない。
見た目も、昨日の野菜炒めよりは整っている。
「今日は普通に見えるな」
「料理の感想としてはどうなんだ、それ」
「昨日と比べれば、かなりいい」
「食べてから判断してくれ」
フェンリスは湯気の立つ野菜を口へ運んだ。
何度か噛み、飲み込む。
「どうだ?」
「悪くない」
「昨日も聞いた気がするな」
「おいしいと言ってほしいのか?」
「作った側としては、そのほうが嬉しいだろ」
フェンリスはもう一口食べた。
「……おいしい」
「無理に言わせたみたいになったな」
「事実だから言っただけだ」
「そうか」
和真も鍋へ箸を伸ばす。
味は少し薄かったが、失敗というほどではない。
二人で切った野菜も、しっかりと火が通っていた。
昨日より僅かに増えた会話とともに、夕食は静かに進んでいった。
◇
夕食を終えたあと、フェンリスは新しく買った衣服を持ち、自分が使う和室へ向かった。
和真も途中まで荷物を運ぶ。
箪笥を開け、空いている引き出しを示した。
「好きに使っていい。入りきらない物は、別の場所を空けるよ」
「これだけあれば十分だ」
フェンリスは買ってきた服を、一着ずつ引き出しへ収めていく。
机の上には、櫛や小さな鏡を置いた。
部屋の隅には、衣服の入っていた紙袋。
昨夜までは布団しかなかった和室に、少しずつフェンリスの物が増えていく。
「改修工事が終わるまでは、この部屋を使ってくれ」
「ああ」
「工事が終わったあとも元の世界へ戻れなければ、アパートの部屋を一つ使えるようにする」
「ただで借りるつもりはない」
「家賃の話は、そのときに考えよう。今は、この世界の金を持ってないだろ」
「働けばいい」
「身元を証明できないと、普通の仕事を探すのは難しい」
「なら、あの建物を直すのを手伝う」
「専門的な工事は、資格を持った人に任せないといけないんだ」
「僕は力仕事ならできる」
「その大きな尾を出したまま、業者と一緒に働くのか?」
「隠せばいい」
「今日、歩いただけでも限界だっただろ」
フェンリスは言葉に詰まった。
「手伝ってもらえることは、そのうち考えるよ。今すぐ全部を返そうとしなくていい」
「借りを作ったままにはしない」
「ああ。覚えておく」
和真は部屋の入口まで下がった。
「それじゃ、おやすみ。何かあったら呼んでくれ」
フェンリスは返事をせず、部屋の中を見回した。
昨日と同じ和室。
同じ布団。
それでも、今夜は箪笥に自分の服が入り、机には自分のために買われた物が置かれている。
「和真」
「どうした?」
「今日のケーキは、悪くなかった」
「そうか」
「また食べたいとは言っていない」
「まだ何も聞いてないよ」
「ただ、悪くなかったと言っただけだ」
「ああ。分かった」
和真が廊下へ出ようとする。
「おやすみ、和真」
今度は、フェンリスのほうから先にその言葉を口にした。
和真は足を止めて振り返る。
「おやすみ、フェンリス」
襖が閉じられる。
少し間を置いてから、内側の簡易錠がかけられた。
まだ、完全に信用されたわけではない。
だが、昨夜よりも二人の間にある壁は、ほんの僅かに低くなっていた。
和真が居間へ戻ると、台所の棚には二人分の食器が並んでいた。
廊下の先からは、フェンリスが箪笥を開け閉めする小さな音が聞こえてくる。
空色唐辛子荘の部屋は、まだ一つも直っていない。
正式な入居者も、まだいない。
それでも、長い間、和真一人しかいなかった敷地に、今夜はもう一人分の生活の音が響いていた。




