第一話 空色唐辛子荘
ここで登場キャラ大半はアプリ【Days AI】内にてキャラ制作した、うちの子達です。
六年ぶりに歩く故郷の道は、記憶よりも狭く感じられた。
四ノ宮和真は、夜の住宅街を一人で歩いていた。
見覚えのない家が増えている。
昔ながらの小さな商店はコンビニに変わり、空き地だった場所には新しい住宅が並んでいた。
道路も綺麗に舗装され、古びていた街灯も白い光を放つものへ交換されている。
それでも、道を間違えることはなかった。
角を曲がれば、小さな公園がある。
その先の坂道を上り、古い石垣に沿って歩けば、祖父と暮らしていた家へたどり着く。
六年間、一度も忘れなかった帰り道だった。
「じいちゃん、まだ起きてるかな……」
和真は小さく呟いた。
今が何時なのかも分からない。
異世界へ召喚された日に持っていたスマートフォンは、最初の戦いで壊れてしまった。
それでも、周囲の家々から明かりが消え始めていることを考えれば、かなり遅い時間なのだろう。
十五歳のとき、何も言わずに姿を消した孫。
六年ぶりに帰ったら、祖父はどんな顔をするだろうか。
心配をかけたと怒鳴られるかもしれない。
頑固な人だった。
無事を喜ぶより先に、拳骨の一つくらい落としてくる可能性もある。
「それくらいは、我慢しないとな」
和真の口元に、自然と笑みが浮かんだ。
魔物の牙も、魔族の魔法も耐えてきた。
今さら祖父の拳骨を恐れる理由などなかった。
やがて坂道を上りきり、見覚えのある石垣が見えてきた。
もう少し進めば、入口に古い木製の看板がある。
そこには、祖父が所有していたアパートの名前が書かれているはずだった。
『空色唐辛子荘』
少し変わった名前を持つ、八棟の古いアパート。
その奥に建つ一軒家で、和真と祖父は二人きりで暮らしていた。
「……え?」
和真の足が止まった。
記憶にある景色と、目の前に広がる景色が一致しない。
空色唐辛子荘の敷地は、高い工事用の囲いに覆われていた。
入口には、関係者以外の立ち入りを禁じる看板が立てられている。
その向こうには重機が止まり、地面には崩された壁や柱の一部が積まれていた。
夜風を受け、防音シートが低い音を立てて揺れている。
「なんだよ……これ」
和真は工事用の囲いへ近づいた。
八棟あった空色唐辛子荘のうち、四棟が消えていた。
建物があった場所には基礎の一部だけが残り、その周囲には廃材が積み上げられている。
残された四棟にも足場が組まれ、窓や扉には養生が施されていた。
今夜は工事が休んでいるだけだ。
次は残された四棟が取り壊される。
誰かに説明されなくても分かる状態だった。
「空色唐辛子荘……だよな?」
場所を間違えたわけではない。
囲いの隅に、取り外された古い看板が立てかけられていた。
表面は土や埃で汚れている。
それでも、色褪せた文字を読み間違えるはずがなかった。
和真は囲いの隙間から中を覗いた。
残された四棟の向こうに、祖父と暮らしていた家が見える。
家そのものは残っている。
しかし、窓から明かりは漏れておらず、人が暮らしている気配もなかった。
「じいちゃん!」
和真は工事現場の入口を開けようとした。
頑丈な鍵がかかっている。
「じいちゃん! いるのか!」
何度呼んでも、返事はない。
力を込めれば、扉など簡単に壊せる。
魔法を使えば、鍵を外すことも難しくない。
だが、ここは異世界ではなかった。
自分の家だったとしても、事情が分からないまま工事現場へ押し入るわけにはいかない。
「誰か! 誰かいませんか!」
和真の声が、静かな住宅街に響いた。
やがて周囲の家に、次々と明かりがつき始めた。
玄関扉が開き、何人かが外へ顔を出す。
「工事現場に誰かいるぞ」
「若い男みたいだけど……」
「警察を呼んだほうがいいんじゃない?」
警戒する声が聞こえてくる。
その中で、一人の年配の女性が和真を見つめていた。
女性は目を細め、信じられないものを見るように口元を押さえた。
「……和真君?」
六年ぶりに名前を呼ばれ、和真は振り返った。
「はい?」
「和真君なの?」
女性には見覚えがあった。
子供の頃、祖父に連れられて何度か挨拶をした隣家の住人だ。
記憶の中よりも髪が白くなり、顔にも皺が増えている。
「そうです。四ノ宮和真です」
「嘘……」
女性の手から、持っていた携帯電話が落ちかけた。
「本当に、和真君……?」
「今日、帰ってきました。それより、これは何があったんですか? じいちゃんはどこにいるんです?」
和真が工事現場を示すと、女性は何も答えられなくなった。
周囲に集まった住人たちも、騒ぎ始める。
「四ノ宮さんのところの……」
「六年前にいなくなった子?」
「まさか、あの神隠しの?」
「神隠し?」
思いがけない言葉に、和真は眉を寄せた。
「和真君、あなた……今までどこにいたの?」
「どこって……」
異世界にいた。
正直に答えても、信じてもらえるはずがない。
和真が返事に迷っていると、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
一台ではない。
赤い光を回転させたパトカーが二台、続いて救急車まで坂道を上ってくる。
「ちょっと待ってください。どうして救急車まで……」
「あなたがいなくなったとき、大変だったのよ」
女性は震える声で答えた。
「警察も、消防も、近所の人たちも、皆で捜したの。山も、川も、空き家も、それこそ街中を捜したわ。それでも、何も見つからなくて……」
十五歳だった和真は、ある日突然、何の痕跡も残さずに姿を消した。
自分から家出する準備をしていた様子はない。
防犯カメラにも、街を出ていく姿は映っていなかった。
事故。
家出。
誘拐。
人攫い。
あらゆる可能性が疑われ、大規模な捜索が行われた。
それでも、手がかりは一つも見つからなかった。
まるで人が忽然と消えてしまったような失踪だったため、近所ではいつしか神隠しと呼ばれるようになったという。
パトカーが工事現場の前に停車した。
警察官が次々と車から降り、集まった住人たちに下がるよう呼びかける。
「通報にあった男性は、あなたですか?」
「はい」
「お名前を聞いても?」
「四ノ宮和真です」
警察官の表情が変わった。
「四ノ宮……和真さん?」
「そうです」
「生年月日は言えますか?」
和真が答えると、警察官は隣にいた仲間と顔を見合わせ、無線機を手に取った。
救急隊員も近づき、和真の身体に怪我がないか確認を始める。
「痛むところはありませんか?」
「大丈夫です」
「念のため病院へ行きましょう。六年間、どこにいたんですか?」
「それは……」
「一人で帰ってきたんですか? 誰かに連れていかれていたんですか?」
「監禁されていた可能性は?」
質問が次々と飛んでくる。
騒ぎを聞きつけ、外へ出てくる住人も増えていた。
皆が和真を見ている。
驚く者。
怯える者。
携帯電話を向ける者までいた。
「待ってください!」
和真は声を上げた。
「俺は大丈夫です。それより、じいちゃんはどこにいるんですか? この工事は誰が始めたんです?」
周囲が静まり返った。
警察官も救急隊員も、すぐには答えなかった。
隣家の女性が目を伏せる。
「和真君……」
「なんですか?」
「おじいさんは、亡くなったの」
その言葉を理解するまで、時間がかかった。
「……え?」
「あなたがいなくなってからも、ずっと捜していたわ。帰ってくるって、最後まで信じていた。でも……」
その先の言葉は、和真の耳には届かなかった。
工事用の囲いの向こう。
明かりの消えた家を、呆然と見つめる。
もう一度呼べば、祖父が出てくるような気がした。
遅い時間に騒ぐなと怒りながら、玄関を開けてくれる。
そんな光景を思い浮かべた。
だが、いくら待っても家に明かりがつくことはなかった。
「いつ……亡くなったんですか?」
自分のものとは思えないほど、声が掠れていた。
女性は、祖父が亡くなった時期を教えてくれた。
和真が現代日本へ帰還するよりも前。
最後まで、孫の帰りを信じていたという。
六年という時間は、和真だけに流れていたわけではなかった。
◇
和真の帰還は、翌日には大きな騒ぎとなった。
六年前に忽然と姿を消した少年が、二十一歳の青年となって突然帰ってきた。
失踪当時は誘拐や人攫いの可能性も疑われ、警察や消防、地域住民による大規模な捜索が行われている。
地域では神隠しとまで呼ばれた、未解決の失踪事件だった。
その本人が何の前触れもなく現れたのだ。
警察では、何度も事情を聞かれた。
どこにいたのか。
誰と暮らしていたのか。
監禁されていたのか。
暴力を受けていないか。
一人で逃げてきたのか。
ほかにも同じような被害者がいるのではないか。
和真が答えを濁すほど、人には話せないほど酷い目に遭ったのではないかと心配された。
病院でも詳しい検査を受けた。
本人確認のための検査や手続きも行われ、帰ってきた青年が四ノ宮和真本人であることが正式に確認された。
どこから情報を聞きつけたのか、警察署や病院の前には報道関係者まで集まった。
「六年間、どこにいたんですか!」
「誘拐されていたというのは本当ですか!」
「犯人について覚えていることはありますか!」
「おじいさんが亡くなっていたことについて、今のお気持ちは!」
建物から出るたび、無数のカメラと声が押し寄せる。
魔王軍に包囲されたときとは別の意味で、逃げ出したくなった。
異世界へ行っていた。
勇者として戦っていた。
魔王と和解し、境界結界を築いて帰ってきた。
正直に話したところで、信じてもらえるはずがない。
和真は六年間について多くを語らず、記憶を整理する時間が欲しいとだけ伝えた。
その態度が、かえって様々な憶測を呼ぶことになった。
◇
祖父の墓を訪れることができたのは、騒ぎが僅かに落ち着いてからだった。
和真は墓前に座り、長い間、何も言わずに墓石を見つめていた。
謝りたいことは、いくらでもあった。
突然いなくなったこと。
六年も帰れなかったこと。
祖父が苦しんでいたとき、傍にいられなかったこと。
葬儀にも出られず、最期の言葉さえ聞けなかったこと。
「ただいま、じいちゃん」
ようやく出てきたのは、その一言だった。
「遅くなって、ごめん」
返事はない。
「向こうで、いろいろあったんだ」
和真は墓石を見つめたまま、異世界での出来事を少しずつ話した。
突然、勇者として召喚されたこと。
多くの仲間と出会ったこと。
何度も死にかけたこと。
魔王と話し合い、長い争いを終わらせたこと。
他の誰にも話せないことを、祖父にだけは聞いてほしかった。
「俺、ちゃんと帰ってきたよ」
最後まで泣くつもりはなかった。
だが、頬を伝う涙を止めることはできなかった。
◇
帰還してからしばらくは、身分を証明するための手続きに追われた。
行方不明になった時点で止まっていた生活を、二十一歳の現在へ追いつかせなければならない。
公的な書類を整え、銀行口座を使えるようにし、日常生活に必要な契約を一つずつ進めていく。
スマートフォンを契約したのも、その頃だった。
六年前とは機種も機能も大きく変わっており、最初は操作を覚えるだけでも苦労した。
それでも、役所や警察、親族との連絡には欠かせない。
分からないことを調べられるというだけでも、異世界で暮らしていた和真にとっては十分すぎるほど便利な道具だった。
だが、日常を取り戻すための手続きと並行して、もう一つの問題が待っていた。
祖父が残した遺産だった。
祖父と暮らしていた家。
空色唐辛子荘の建物と土地。
街から離れた場所にある山。
そして預貯金。
それらを巡り、両親の兄と妹――和真にとって伯父と叔母にあたる二人との話し合いが始まった。
和真が帰還するまで、二人は老朽化した空色唐辛子荘を解体し、土地を整理するつもりでいた。
すでに八棟のうち四棟は取り壊されている。
残された四棟にも足場が組まれ、解体準備が進められていた。
和真の帰還によって工事はいったん止められたが、契約そのものがなくなったわけではない。
工事を止め続けるだけでも費用が発生する。
「もう四棟も壊したんだ」
話し合いの席で、伯父は強い口調で言った。
「残りだけ取っておいて、どうするつもりだ。建物は古い。残したところで金がかかるだけだぞ」
「それでも、残っている四棟は解体させません」
「今さら帰ってきて、勝手なことを言わないで」
叔母が和真を睨む。
「これまで何もしてこなかったでしょう? お父さんが亡くなったときも、あなたはいなかったのよ」
その言葉に、和真は何も言い返せなくなった。
帰りたくても帰れなかった。
祖父を見捨てたわけではない。
だが、異世界で過ごした六年間を証明することはできない。
「家も土地も山も、預金も、全部自分のものにするつもり?」
「そんなつもりはありません」
「だったら、私たちの権利も認めるべきでしょう」
伯父と叔母は、家や土地、山、預貯金を含めた遺産の分配を求めた。
和真も二人の相続する権利そのものを否定するつもりはなかった。
しかし、祖父と暮らした家と、残された空色唐辛子荘だけは手放したくなかった。
話し合いは一度では終わらない。
双方の主張が合わず、何度も同じ話を繰り返した。
残された四棟の解体工事は、話し合いが終わるまで停止された。
だが、相続の問題も先へ進まない。
帰還直後は連日のように押しかけていた報道関係者の姿が消えても、親族との争いは終わらなかった。
季節だけが過ぎていった。
そして、帰還からおよそ十か月。
和真は一つの決断を下した。
「山を二人に渡します」
話し合いの席で、和真は伯父と叔母へ告げた。
二人が同時に顔を上げる。
「山だけ?」
「はい。二人で分けるか、共同で持つか、売るかは任せます」
和真は用意していた資料を二人の前へ置いた。
「その代わり、祖父と暮らしていた家と土地、それから残っている空色唐辛子荘の四棟は、俺が引き継ぎます」
「預金はどうするつもりだ?」
「決められた分は二人に渡します。残りは、空色唐辛子荘の工事や管理に使わせてください」
叔母が不満そうに眉を寄せる。
「山を押しつけて、自分は土地を取るつもり?」
「押しつけるつもりはありません」
和真は二人から視線を逸らさなかった。
「俺は全部が欲しいわけじゃない。でも、じいちゃんと暮らした家と、空色唐辛子荘だけは手放したくないんです」
「残った四棟も、もう解体する準備ができているんだぞ」
「解体は止めます」
「その費用も、お前が負担することになる」
「分かっています」
「建物を残したところで、住人はもういない。修繕にも金がかかる。それでもか?」
「それでもです」
和真の答えは変わらなかった。
長い沈黙のあと、伯父が資料へ視線を落とす。
叔母と小声で話し合い、何度か条件を確認した。
その日だけで、すべてが決まったわけではない。
山の扱い。
預貯金の分配。
解体工事を止めたことで生じる費用。
話し合わなければならないことは、まだ残っていた。
それでも、そこからは少しずつ話が前へ進み始めた。
そして数日後。
祖父が残した山を伯父と叔母へ渡すことを条件に、十か月近く続いた相続争いは、ようやく決着した。
◇
必要な手続きを終えた日の午後。
和真は工事用の囲いの前に立っていた。
手元には、祖父と暮らした家と、残された空色唐辛子荘の鍵がある。
工事関係者から引き渡されたばかりの鍵を使い、仮設扉を開けた。
帰還した夜は、囲いの外から眺めることしかできなかった場所。
今度は自分の足で、その中へ入っていく。
八棟あった建物は、半分の四棟しか残っていない。
取り壊された場所には基礎の一部と廃材が残り、地面には重機が通った跡が深く刻まれていた。
残された四棟も足場と防音シートに覆われ、窓や扉には解体準備のための養生が施されている。
工事が止まったことで、敷地内は不気味なほど静かだった。
和真は、地面に立てかけられていた古い看板へ近づいた。
表面についた土と埃を手で払い、ゆっくりと起こす。
『空色唐辛子荘』
「半分しか守れなかったな……」
帰ってくるのが、あと少し遅ければ。
この四棟も、祖父と暮らした家も、すべてなくなっていたかもしれない。
それでも、残ったものはある。
「じいちゃん」
和真は古い看板を支えながら、解体途中の敷地を見渡した。
「ここからは、俺が守るよ」
相続争いは終わった。
だが、空色唐辛子荘を残すと決めた和真は、まだ知らなかった。
解体を免れた四棟が、すぐに人を住まわせられる状態ではないことを。
そして、祖父のアパートを受け継ぐことと、経営を続けることが、まったく別の問題であることを。
空色唐辛子荘の引き渡しを受けた翌朝。
和真は、残された四棟のうち、最も入口に近い建物の前に立っていた。
建物全体が足場と防音シートに覆われている。
窓には養生が施され、部屋の扉には解体する順番を示す番号が書かれていた。
昨夜は敷地を眺めるだけで終わった。
実際に建物の中へ入るのは、今日が初めてだった。
「さて……どこから見ればいいんだ?」
手元には、工事関係者から返却された大量の鍵がある。
どの鍵がどの部屋のものなのかは、小さな札で分けられていた。
和真は一階の端にある部屋の鍵を選び、扉へ差し込んだ。
僅かに抵抗があったものの、鍵は問題なく回った。
扉を開けた瞬間、閉め切られていた部屋の空気が流れ出してくる。
「うっ……」
埃と湿気。
それに、古い木材の匂いが混ざっていた。
和真は口元を手で覆いながら、部屋の中へ入った。
窓から差し込む光は、養生の隙間から僅かに漏れているだけだった。
玄関脇にある照明のスイッチを押しても、何も起きない。
「電気は止められてるのか」
スマートフォンの照明をつけ、室内を照らす。
壁紙は変色し、床には埃が積もっている。
台所の蛇口には、取り外し作業の途中だったことを示す札が巻きつけられていた。
浴室や洗面所も、配管の一部が外されている。
すぐに解体する予定だったため、使える設備から先に撤去していたらしい。
和真は部屋の奥まで進み、養生された窓へ手をかけた。
外そうとしたが、固定が強く、簡単には動かない。
力を込めれば外せる。
だが、加減を誤れば窓枠ごと壊してしまう。
「これは業者に任せたほうがいいな」
和真は諦めて手を離した。
それから、四棟の部屋を一つずつ確認していった。
解体準備の進み具合は、棟によって違っていた。
電気や水道が止められている部屋。
流し台や給湯器が取り外されている部屋。
畳や建具が運び出され、何も残っていない部屋。
まだ生活できそうな状態を保っている部屋もあったが、それでも長く放置された影響は大きかった。
雨漏りの跡。
湿気で浮いた壁紙。
錆びついた窓枠。
柔らかく沈む床。
解体準備とは関係なく、建物そのものが老朽化している。
最後の部屋を確認し終えた頃には、昼を過ぎていた。
「残せたのはいいけど……」
和真は外へ出ると、四棟の建物を見上げた。
「これ、本当に住めるようにできるのか?」
◇
その日の午後、工事業者と今後について話し合うことになった。
場所は、祖父がアパートの管理に使っていた部屋だった。
長机の上には、複数の見積書と建物の図面が広げられている。
「まず、費用の負担について確認します」
同席していた専門家が、書類を指しながら説明を始めた。
「すでに取り壊された四棟の解体費用について、和真さんが負担する必要はありません」
和真は黙って続きを待った。
「残された四棟についても、和真さんの同意を得る前に解体準備が進められていました。工事の中止に伴う費用や、解体のために取り外した設備を元の状態へ戻す費用は、工事を進めた伯父さんと叔母さんが負担します」
「前の話し合いでは、俺が払うことになると言われましたけど」
「あれは伯父さん側の主張です。正式に負担が決まっていたわけではありません」
祖父の遺産を巡る話がまとまっていない状態で、伯父と叔母は空色唐辛子荘の解体を進めていた。
和真が行方不明であり、戻る可能性は低いと考えていたのだろう。
しかし、和真が帰還したことで状況は変わった。
和真にも祖父の財産を相続する権利がある。
その意思を確認しないまま進めた解体についてまで、和真が費用を負担する理由はなかった。
「山を二人へ渡す条件にも、その点は入っています」
専門家は合意内容が記された書類を開いた。
「伯父さんと叔母さんは、解体に関係する費用を負担する。和真さんは山に対する権利を二人へ譲る。家と土地、残された四棟は和真さんが引き継ぐ。これで双方が合意しています」
「じゃあ、少なくとも解体を止めた費用まで、俺が払う必要はないんですね」
「はい。ただし、すべての修繕費を二人へ請求できるわけではありません」
「すべてではない?」
「解体準備によって外された設備を戻す費用と、もともと建物にあった傷みを直す費用は別です」
専門家に代わり、工事業者の男性が一枚の見積書を前へ出した。
「こちらが、解体準備を始める前に近い状態へ戻すための費用です。電気と水道の復旧、取り外した設備の再設置、足場や防音シートの撤去などが含まれています」
さらに、別の見積書が並べられる。
「そして、こちらが建物を安全に使うための修繕費です」
和真は二枚目の見積書に書かれた金額を見た。
「……高くないですか?」
「四棟分ですから」
「それにしても……」
「築年数を考えれば、仕方のない部分があります。屋根や外壁だけでなく、配管もかなり古い。床が傷んでいる部屋もあります」
解体準備を始める以前から存在していた傷み。
建物を所有し、今後も使うと決めた以上、その修繕費は和真が負担しなければならない。
「全部直さないと、住人は入れられませんか?」
「一度に四棟すべてを直す必要はありません」
男性は図面の一棟を指した。
「この棟は、ほかの三棟に比べて状態がいい。まずはここから直して、入居できる部屋を作る方法があります」
「一棟ずつですか」
「ええ。家賃収入が得られるようになってから、残りの棟を少しずつ直す。ただし、最初の一棟を使える状態にするだけでも、それなりの費用は必要です」
和真は見積書へ視線を戻した。
祖父が残してくれた預貯金はある。
伯父と叔母へ渡す分を差し引いても、すぐに生活できなくなるわけではない。
だが、修繕費として使える金には限りがあった。
すべてを建物へ注ぎ込めば、和真自身の生活費がなくなる。
「今日は持ち帰って考えます」
「分かりました。修繕する範囲が決まったら、改めて見積もりを作ります」
工事業者たちを見送ったあと、和真は管理室へ戻った。
机の上に見積書を並べ、数字を一つずつ確認する。
何度見ても、金額が減ることはなかった。
◇
空色唐辛子荘の問題は、建物の修繕だけではなかった。
八棟あった建物のうち、四棟はすでに取り壊されている。
残った四棟も解体を前提としていたため、以前の住人は全員退去していた。
現在の家賃収入は、ゼロ。
それでも、土地や建物を所有しているだけで費用はかかる。
税金。
保険。
電気や水道。
敷地の管理。
修繕後に入居者を募集するための費用も必要になる。
「アパートを持ってれば、家賃が入ると思ってたんだけどな……」
和真は机へ突っ伏した。
祖父が生きていた頃、アパートの経営について詳しく聞いたことはなかった。
家賃を集め、壊れた場所を直していれば続けられる。
子供の頃は、その程度にしか考えていなかった。
だが、実際には違う。
住人がいなければ家賃は入らない。
住人を入れるには部屋を直す必要がある。
部屋を直すには金が必要になる。
金を使い果たせば、ほかの棟を直すことも、自分が生活することもできなくなる。
「魔王と話し合うより難しくないか、これ……」
和真は顔を上げ、見積書を睨んだ。
魔王が相手なら、互いの望みを聞き、譲れる場所を探すことができた。
しかし、古くなった建物は話を聞いてくれない。
金が足りないから少し待ってくれと頼んでも、老朽化が止まるわけではなかった。
◇
それから和真は、空色唐辛子荘について調べ始めた。
修繕費を抑える方法。
古いアパートの経営方法。
入居者の募集。
必要になる契約や届け出。
スマートフォンで調べれば、多くの情報が表示された。
しかし、書かれている言葉の意味をさらに調べなければならないことも多かった。
六年前とは、スマートフォン自体が大きく変わっている。
本人確認の手続きを終えたあと、役所や警察、親族との連絡に必要となり契約したものの、使い始めた頃は操作を覚えるだけでも苦労した。
今では連絡や調べ物程度なら問題なく使える。
それでも、画面に表示される情報が正しいのか、自分の状況に当てはまるのかまでは分からなかった。
「管理会社に任せる……それにも金がかかるのか」
調べれば調べるほど、新しい費用が出てくる。
和真はスマートフォンを机へ置き、深く息を吐いた。
魔法なら使える。
壊れた壁を塞ぐことも、重い資材を運ぶこともできる。
異世界で身につけた身体能力を使えば、普通の人間より遥かに早く作業を進められる。
だが、ここは現代日本だ。
電気や水道の工事には、専門の知識や資格が必要になる。
魔法で形だけ直したとしても、安全を証明できなければ人を住まわせられない。
何より、人前で魔法を使うわけにはいかなかった。
六年間行方不明だった人間が、今度は魔法まで使ったとなれば、帰還直後の騒ぎどころでは済まなくなる。
空色唐辛子荘の周辺には住宅も多い。
どこに防犯カメラがあるかも分からない。
誰かに撮影され、インターネットへ投稿される可能性もある。
この世界に戻ってから、和真は一度も魔法を使っていなかった。
魔力を身体の中へ抑え込み、普通の人間として生活する。
それが、自分と周囲を守るために必要なことだった。
◇
八月九日。
相続問題の決着から数日後。
和真は、祖父と暮らしていた家の居間で目を覚ました。
窓から差し込む夏の日差しが、畳の上に伸びている。
身体を起こし、枕元に置いていたスマートフォンで時刻を確認する。
画面には日付とともに、短い通知が表示されていた。
『誕生日おめでとうございます』
「……そうか」
今日で二十二歳だった。
十五歳で異世界へ召喚され、二十一歳で帰還した。
帰還後のおよそ十か月は、本人確認や事情聴取、祖父の遺産を巡る争いでほとんどが過ぎている。
六年ぶりの日本で迎える、最初の誕生日。
しかし、祝ってくれる家族はもういなかった。
「二十二歳、か」
年齢だけを見れば、すっかり大人だ。
だが、日本へ戻ってからの和真は、知らないことばかりだった。
役所での手続き。
銀行口座の管理。
税金。
保険。
アパート経営。
異世界では一人で国境を越え、魔王と向き合うことさえできたのに、今は一通の見積書を前に何時間も悩んでいる。
和真は布団から出ると、仏壇の前に座った。
祖父の写真へ手を合わせる。
「じいちゃん。今日で二十二歳になったよ」
写真の中の祖父は、少し不機嫌そうな顔をしていた。
昔から写真を撮られることが苦手だった。
「せっかく残してくれたのに、どうすればいいのか全然分からない」
相談したいことは、いくらでもあった。
空色唐辛子荘をどう経営していたのか。
どの業者と付き合いがあったのか。
建物を残したいという判断は、本当に正しかったのか。
「でも、壊したくないんだ」
写真へ向かって呟く。
「残ってる四棟だけでも、もう一度、人が住める場所にしたい」
それが祖父の望みなのかは分からない。
ただ、空色唐辛子荘までなくなってしまえば、祖父と過ごした時間まで消えてしまうような気がした。
◇
その日も、和真は朝から敷地の片づけを続けた。
専門的な工事はできない。
それでも、雑草を刈り、放置された細かな廃材を分け、部屋の埃を掃き出す程度なら自分でできる。
人目がないことを確認しながら、異世界で身につけた身体能力を使って作業を進めた。
常人なら二人がかりで運ぶような物も、和真なら一人で持ち上げられる。
ただし、近所から見られないよう力を加減する必要があるため、思うようには進まなかった。
「魔法なら、すぐに終わるんだけどな」
和真は、まとめた廃材を見ながら苦笑した。
結局、夕方まで作業を続けても、片づいたのは一部だけだった。
家へ戻ったあと、再び見積書と預貯金の残額を見比べる。
一棟を最低限住める状態へ戻すだけでも、相当な金額が必要になる。
修繕したとしても、すぐに入居者が見つかる保証はない。
周辺には新しく、設備の整ったアパートがいくつも建っている。
古い空色唐辛子荘を選んでもらうには、家賃を下げるか、ほかにはない魅力を用意する必要があった。
「ほかにはない魅力って言われてもな……」
古い。
駅から近いわけでもない。
部屋が特別広いわけでもない。
今のところ、敷地が広いことくらいしか思いつかなかった。
アパートの周囲には、使われていない畑や古い倉庫も残っている。
祖父が元気だった頃は畑で野菜を育てていたが、今は雑草に覆われ、どこまでが畑だったのかも分からない。
「直すには金がいる。直さなければ家賃は入らない。家賃が入らなければ、残りを直せない……」
考えれば考えるほど、同じ場所を回ってしまう。
和真は見積書を机へ置き、深く息を吐いた。
「少し歩くか」
家にいても、答えが出るとは思えなかった。
せめて今日くらいは、請求書や見積書から離れたかった。
◇
日が沈んだあとの街は、昼間とは違う賑わいを見せていた。
仕事帰りの人々。
店から出てくる家族連れ。
楽しそうに笑いながら歩く若者たち。
和真は目的地も決めず、その中を歩いていた。
異世界にいた頃は、夜道を一人で歩くことなど珍しくなかった。
魔物や盗賊を警戒し、常に周囲の気配を探っていた。
だが、この街には魔物がいない。
剣を持ち歩く必要もない。
魔力を探る必要さえなかった。
誰もが明日の生活を信じ、無防備に夜の街を歩いている。
それは和真が望み続けた、平和そのものだった。
なのに、なぜか自分だけが、その景色から浮いているように感じられた。
楽しそうな家族とすれ違う。
若い女性が、父親らしき男性へ誕生日の贈り物をねだっていた。
和真は無意識に足を止める。
今日が自分の誕生日だと知っている人は、もう誰もいない。
「……帰るか」
誰に聞かせるでもなく呟き、人通りの少ない道へ入った。
そのときだった。
身体の奥に抑え込んでいた魔力が、僅かに震えた。
「……?」
和真は足を止めた。
風が吹いたわけではない。
地面が揺れたわけでもない。
それでも、確かに何かを感じた。
懐かしく、それでいて、この世界には存在しないはずの感覚。
和真はゆっくりと顔を上げた。
「魔力……?」
あり得ない。
現代日本へ戻ってから、およそ十か月。
魔力の痕跡を感じたことなど、一度もなかった。
この世界には魔法がなく、自分以外に魔力を持つ者もいない。
そう思っていた。
だが、確かに感じる。
弱く、不安定な魔力反応。
今にも消えてしまいそうでありながら、必死に何かを求めるような揺らぎ。
和真は目を閉じ、意識を集中させた。
自分の魔力が外へ漏れないように注意しながら、周囲の気配を探る。
反応は街の中心ではない。
人通りの少ない路地の先から届いている。
「誰か、いるのか……?」
和真は周囲を見回した。
通行人たちは、何も感じていない。
当たり前のように和真の横を通り過ぎていく。
魔力反応が、もう一度小さく揺れた。
先ほどよりも弱い。
このまま放っておけば、完全に途切れてしまう。
和真は迷わなかった。
十か月もの間、一度も感じなかった魔力。
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
それでも、この先に何かがいる。
この世界に存在するはずのない、何者かが。
和真は夜の街を駆け出し、消えかけた魔力反応を追った。
魔力反応は、街の奥へ移動していた。
和真は人通りの少ない道を走りながら、僅かに残された魔力の痕跡を追った。
異世界にいた頃なら、自分の魔力を周囲へ広げ、離れた場所にいる相手の位置を探ることができた。
だが、ここは現代日本だ。
周囲には住宅や店舗が並び、道路の角には防犯カメラも設置されている。
魔法を使っている姿を、誰かに見られるわけにはいかない。
和真は自分の魔力を外へ漏らさないよう抑えながら、向こうから漂ってくる反応だけを辿った。
「こっちか」
大通りを外れ、細い路地へ入る。
店の明かりと人々の声が遠ざかり、代わりに室外機の低い音が聞こえてきた。
魔力反応は、さらに奥へ続いている。
一定の場所に留まっているわけではない。
僅かに移動しては止まり、再び動く。
まるで誰かが、身体を引きずりながら歩いているようだった。
「魔物……ではなさそうだな」
反応からは、強い敵意を感じない。
それどころか、内側に大きな力を秘めながら、表面へ漏れ出している魔力は酷く弱っていた。
魔力切れ。
あるいは、それに近い状態。
さらに妙なのは、魔力の性質だった。
和真が六年間を過ごした異世界のものとは、僅かに違っている。
魔力であることは間違いない。
それなのに、身体の外へ漏れ出す流れも、周囲へ広がる感覚も、和真の知るものとは一致しなかった。
「どういうことだ……?」
疑問は残る。
それでも、このまま反応が弱くなれば見失ってしまう。
和真は路地を曲がった。
その直後、少し先から金属製の何かが倒れる音が聞こえた。
「そこか!」
音のした場所へ向かう。
そこには、横倒しになったごみ箱と、散らばった空き缶があった。
人の姿はない。
だが、地面に落ちた空き缶が、まだ僅かに揺れている。
和真はごみ箱の近くへしゃがみ込んだ。
柔らかな土の上に、いくつもの足跡が残されている。
履いているのは、現代日本ではあまり見かけない形の靴らしい。
足跡は一定ではなく、途中で大きく乱れていた。
壁際には靴底を引きずった跡もある。
「かなり弱ってるな……」
誰かが壁へ手をつき、倒れないように身体を支えながら歩いたのだろう。
足跡の近くには、僅かな魔力の痕跡が残されている。
和真は立ち上がり、その跡を追った。
◇
狭い通路の先には、小さな児童公園があった。
昼間なら、子供たちが遊んでいるのだろう。
今は誰もおらず、滑り台やブランコが街灯の下に並んでいる。
夜風が吹くたび、誰も乗っていないブランコが僅かに揺れていた。
魔力反応は、公園の奥から感じる。
和真は足音を抑え、ゆっくりと近づいた。
公園の裏手には、背の低い木々と茂みが集まっている。
その先には細い水路が流れ、さらに向こうには住宅が並んでいた。
魔力の痕跡は、茂みの中で途切れている。
和真は少し離れた場所で足を止めた。
「そこにいるのか?」
日本語で呼びかける。
返事はない。
だが、茂みの中で何かが僅かに動いた。
「怪しい者じゃない。何もしないから、出てきてくれ」
再び呼びかける。
今度は、低い唸り声が返ってきた。
獣のものに近い。
しかし、その直後に聞こえたのは、女性の声だった。
「――――!」
言葉の意味は分からなかった。
「……なんだ?」
和真は眉を寄せる。
異世界で使われていた言葉ではない。
人間や魔族が使っていた言葉とも違う。
耳にしたことすらない言語だった。
茂みの奥から、再び声が聞こえる。
「――! ――――!」
声は掠れていた。
それでも、こちらを威嚇していることだけは伝わった。
「言葉が通じないのか」
和真は相手を刺激しないよう、両手を見える位置まで上げた。
異世界へ召喚された直後、和真も現地の言葉を理解できなかった。
しかし、勇者として与えられた能力を使うことで、異なる言葉を話す相手とも意思を通わせられるようになった。
単に相手の言葉を日本語へ置き換えるものではない。
言葉へ込められた意味を読み取り、自分の言葉も相手が理解できる形へ変える能力だった。
現代日本へ戻ってからは、一度も使っていない。
この世界では、使う必要がなかったからだ。
和真は周囲の気配を探った。
公園には、自分たち以外の人影はない。
近くを歩いてくる者もいなかった。
「少しだけなら……」
身体の奥に抑えていた魔力を、僅かに動かす。
外へ放つのではない。
自分と茂みの中にいる相手を、細い糸でつなぐように能力を発動する。
一瞬、頭の奥が温かくなった。
先ほどまで意味を持たなかった声が、少しずつ言葉として聞こえ始める。
「……近づくな!」
今度は、はっきりと理解できた。
「分かった。ここから動かない」
和真が答えると、茂みの奥が静かになった。
「僕の言葉が……分かるのか?」
「ああ。今は分かる」
「なぜだ」
「言葉を通じさせる能力を使っている」
「能力……?」
相手の声には、強い警戒が残っていた。
「お前は何者だ」
「四ノ宮和真。怪しい者じゃない」
「こんな夜に僕を追ってきた奴が、怪しくないわけがないだろう」
「それは……確かにそうだな」
「認めるな!」
茂みの奥から、再び低い唸り声が聞こえた。
和真はその場から動かず、できるだけ穏やかな声で続ける。
「魔力を感じたんだ」
「魔力?」
「ああ。かなり弱っているみたいだったから、何がいるのか確かめに来た」
「お前からも魔力を感じる」
和真は僅かに目を見開いた。
能力を使うために動かした、ほんの僅かな魔力。
茂みの中にいる相手は、それを正確に感じ取っていた。
「この辺りの者は、誰も魔力を持っていなかった」
「そのとおりだ。この世界で魔力を持っている人間は、たぶん俺だけだ」
「……この世界?」
相手の声が僅かに揺れた。
「ここは、どこだ」
「日本という国だ」
「ニホン……?」
「聞いたことはないか?」
「ない」
「そうか」
「お前は、ニホンの者なのか?」
「ああ。ここで生まれた」
「なら、なぜ魔力を持っている」
「昔、別の世界へ召喚された。その世界で魔法を覚えたんだ」
茂みの奥から、すぐには返事がなかった。
「別の世界……」
「俺も、お前と似たような経験をしている。ただし、俺は元の世界へ戻ってきた側だけどな」
「なら、ここはお前がいた世界なのか?」
「違う。ここが俺の故郷だ」
「では、僕は……」
「お前は、どこから来た?」
長い沈黙が続いた。
やがて、警戒を残した声が返ってくる。
「シルトクレーテ王国」
「シルトクレーテ……」
和真は記憶を探った。
六年間の旅で、多くの国や町を訪れた。
直接訪れていない場所についても、地図や書物である程度は知っている。
だが、シルトクレーテ王国という名前には聞き覚えがなかった。
「どの辺りにある国だ?」
「どの辺りとは、どういう意味だ」
「近くにある国や、大きな町の名前は?」
相手はいくつかの地名を口にした。
しかし、そのどれも和真は知らない。
国の名前だけが変わったとは考えにくかった。
土地の呼び方も、周辺の国も、和真の記憶とはまったく一致しない。
何より、先ほどから感じている魔力の性質が違う。
和真の中に、一つの可能性が浮かんだ。
「まさか……」
「なんだ」
「お前が来た世界と、俺が六年間いた世界は違うのかもしれない」
「何を言っている?」
「シルトクレーテ王国なんて、俺は聞いたことがない。近くにあるという国も町も知らない。それに、お前の魔力は俺がいた世界のものと少し違う」
「違う世界……?」
「ああ」
「ここは、僕がいた世界ではないのか?」
「たぶん違う」
「なら、お前が召喚された世界なのか?」
「それも違う。ここは、どちらとも別の世界だ」
自分で説明しながら、和真も混乱していた。
異世界は、自分が召喚された一つだけだと思っていた。
だが、目の前にいる相手が嘘をついていないのなら、異世界は一つではない。
和真が六年間を過ごした場所とは別の世界から、何者かが現代日本へやってきたことになる。
茂みの中で、何かが大きく動いた。
「そんなはずはない」
女性の声が震えていた。
「僕は戻らなければならない」
「戻る方法に心当たりはあるのか?」
「それは……」
突然、枝が激しく揺れた。
茂みの中から飛び出した影が、和真へ向かってくる。
和真は反射的に身構えた。
だが、襲いかかってきたわけではなかった。
茂みから出てきた女性は、一歩進んだところで足をもつれさせた。
「危ない!」
和真は咄嗟に踏み込み、地面へ倒れる寸前で女性の身体を受け止めた。
「離せ!」
「暴れるな。倒れるぞ」
「支えられなくても、僕は歩ける!」
「その言葉は、立ってから言ってくれ」
女性は和真の腕から離れようとした。
しかし、足にはほとんど力が入っていない。
和真は女性の身体を支えながら、その姿を確認した。
月明かりを受け、長い銀髪が淡く輝いている。
髪の先には、薄い桃色が混じっていた。
頭には、人間には存在しない大きな狼の耳。
腰の後ろには、身体を包み込めるほど大きく、ふさふさとした一本の尾がある。
作り物ではない。
耳は和真を警戒するように伏せられ、大きな尾も力なく地面へ垂れていた。
身につけているのは、黒を基調とした見慣れない衣服だった。
所々が破れ、土や草の汁で汚れている。
足には、異世界の旅装を思わせる丈夫そうな靴を履いていた。
靴底には泥が付着し、表面にも細かな傷がついている。
外から見える範囲に、大きな傷はない。
それでも、体力と魔力を激しく消耗していることは明らかだった。
「狼の獣人……なのか?」
和真の言葉に、女性の表情が険しくなる。
「一緒にするな。僕は牙狼族だ」
「牙狼族?」
「知らないのか?」
「俺がいた世界には、少なくともその呼び方はなかった」
女性は驚いたように和真を見つめた。
和真も同じだった。
姿だけを見れば、異世界で出会った狼の獣人に近い。
しかし、魔力も種族も、和真の知るものとは異なっている。
やはり彼女は、和真がいた異世界から来たのではない。
「それより、怪我は?」
「していない」
「毒は?」
「受けていない」
「なら、魔力切れか」
女性は答えなかった。
沈黙が、そのまま肯定になっている。
単に魔力を使い果たしただけではない。
身体の中で魔力の流れが乱れ、上手く循環していなかった。
異なる世界へ移動した影響なのかもしれない。
「このままじゃ危ない」
「お前には関係ない」
「関係ある。俺が見つけたんだからな」
「意味が分からない」
「俺もよく分かってない」
「なら、放っておけ」
「放っておいたら、ここで倒れるだろ」
「倒れない」
女性は和真の腕を押し退けようとした。
どうにか一人で立とうとする。
しかし、足へ力を入れた途端、再び膝から崩れ落ちた。
和真は慌てて身体を抱き止める。
「全然立ててないじゃないか」
「今のは……地面が悪い」
「普通の公園だけどな」
「うるさい」
狼の耳が、悔しそうに伏せられた。
気の強さは残っている。
だが、今の状態で一人にすることはできなかった。
「とにかく、ここから移動しよう」
「どこへ連れていくつもりだ」
「俺の家だ」
「断る」
「このまま公園にいるつもりか?」
「お前の家へ行くよりはましだ」
「誰かに見つかったら、その耳と尾をどう説明する?」
「説明する必要などない」
「この世界には牙狼族はいないんだ」
女性は僅かに目を見開いた。
「お前みたいな姿をした人はいるかもしれない。でも、それは衣装や作り物だと思われる。本物だと知られたら、何が起きるか分からない」
「僕の耳と尾は作り物ではない!」
「分かってる。俺には本物だって分かる」
「なら、なぜ作り物などと……」
「この世界では、本物の牙狼族がいるなんて誰も信じないからだ」
女性は理解できないという顔で和真を見た。
「だから、今は人に見つからないほうがいい」
「お前は、僕が怖くないのか」
「異世界で色々な種族に会ったからな。狼の耳と尾くらいでは驚かない」
「僕は牙狼族だ」
「分かった。牙狼族だな」
和真が言い直すと、女性は僅かに満足そうな顔をした。
その直後、彼女の腹から小さな音が鳴った。
二人の間に沈黙が落ちる。
女性の顔が、見る間に赤くなった。
狼の耳が伏せられ、大きな尾が身体を隠すように動く。
「……今のは違う」
「何が違うんだ?」
「僕ではない」
「この公園には、俺たちしかいないけど」
「知らない」
女性は顔を逸らした。
警戒心は強い。
それでも、先ほどまでの張りつめた空気は僅かに薄れていた。
「家に食べ物はある」
和真が言うと、女性の狼耳が小さく動いた。
「何もしない。食べて、休んで、動けるようになったら出ていってもいい」
「本当か?」
「ああ」
「見返りは?」
「今は何もいらない」
「そんな都合のいい話があるわけない」
「このままここで倒れられるよりはいい」
女性は疑うように和真を見つめた。
「……信用できない」
「それでいい。今すぐ信用しろとは言わない」
「では、なぜ助ける?」
和真は一瞬、言葉に詰まった。
特別な理由があるわけではない。
ただ、弱っている者を見つけた。
自分なら助けられる。
それだけだった。
「放っておけないからだ」
「それだけ?」
「ああ」
女性は長い間、和真の顔を見つめていた。
嘘を見抜こうとしているのかもしれない。
やがて、諦めたように目を伏せた。
「……分かった」
「家に来るのか?」
「今は、ほかに選べないだけだ」
「それでいい」
和真は女性の身体を支え直した。
「歩けそうか?」
「歩ける」
女性は和真の腕を借りながら、一歩進んだ。
その途端、また膝から力が抜ける。
和真は倒れる前に抱き止めた。
「やっぱり無理だろ」
「今度は足が滑った」
「言い訳が増えてるぞ」
「うるさい」
このまま歩かせれば、家へ着く前に完全に動けなくなる。
和真は女性へ背を向け、その場にしゃがんだ。
「乗ってくれ」
「何をするつもりだ」
「背負っていく」
「嫌だ」
「じゃあ、ここに置いていく」
女性は黙り込んだ。
和真の背中と、自分の足を交互に見る。
しばらく迷った末、渋々と和真の背へ身体を預けた。
大きな尾が地面を引きずらないよう位置を直し、和真はゆっくりと立ち上がる。
見た目よりも軽い。
十分な食事を取れていなかったのかもしれない。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったな」
和真が尋ねると、背中の女性は僅かに身じろぎした。
答えるか迷っているようだった。
やがて耳元で、小さな声が聞こえた。
「フェンリス」
「フェンリス?」
「僕の名前だ」
「そうか。よろしく、フェンリス」
「まだ、よろしくするとは言っていない」
「家まで一緒に行くなら、同じだろ」
「一晩休むだけだ」
「ああ。それでいい」
和真はフェンリスを背負い、夜の公園をあとにした。
二十二歳の誕生日。
空色唐辛子荘の経営に悩み、行く当てもなく夜の街を歩いた先で、和真はこの世界にいるはずのない牙狼族の女性と出会った。
しかも、彼女が来たのは和真が六年間を過ごした異世界ですらない。
さらに別の世界。
その事実が何を意味するのか、今はまだ分からない。
ただ一つ確かなのは、住人を失った空色唐辛子荘へ、最初の来訪者が現れたことだった。
勇者としての役目を終えた四ノ宮和真の新しい物語が、静かに動き始めた。




