序章 帰還
人間領と魔族領を分かつ荒野に、巨大な光の壁が立ち上がっていた。
大地の果てまで続く境界結界。
人間と魔族、どちらか一方を閉じ込めるためのものではない。
強い敵意を持つ者や軍勢の侵入を阻み、長く続いた争いを終わらせるために、四ノ宮和真が築いた結界だった。
「これで終わりだ」
和真が両手を下ろすと、足元に広がっていた魔法陣が静かに消えていく。
身体の中から力が抜け、僅かによろめいた。
それでも倒れることなく踏みとどまり、目の前に完成した結界を見上げる。
「まさか、本当にやり遂げるとはな」
背後から聞こえた声に、和真は振り返った。
そこには、かつて倒すべき敵として教えられていた魔王が立っていた。
「言っただろ。俺は本気だって」
「人間と魔族の争いを、どちらかが滅びるまで続けるのではなく、境界を作ることで終わらせる。ずいぶんと強引な方法だ」
「他にいい方法が思いつかなかったんだよ」
「勇者らしからぬ答えだな」
「俺は最初から、立派な勇者じゃない」
和真は肩を竦めた。
十五歳で突然この世界へ召喚され、勇者として戦い続けて六年。
人間たちからは、魔王を倒せと教えられた。
魔族は人間の敵であり、言葉を交わす必要などないのだと。
だが、実際に魔王と向き合い、互いの話を聞けば、すべてが教えられたとおりではないことが分かった。
人間には人間の事情があり、魔族には魔族の事情がある。
どちらか一方だけが正しく、もう一方がすべて悪いわけではなかった。
だから和真は、魔王を倒さなかった。
何度も剣を交え、その後は何度も言葉を交わした。
そうして二人は、長い争いを終わらせるために和解した。
「この結界がある限り、大きな争いは起こせない」
和真は光の壁を見つめながら言った。
「小さな問題まで全部なくせるわけじゃない。互いを嫌っている奴もいるし、結界を壊そうとする奴だって出てくるかもしれない」
「永遠の平和など存在しない、か」
「ああ。あとは、この世界に残る人たちが考えることだ」
「無責任だとは思わないのか?」
「俺一人が全部決め続けるほうが、よっぽど無責任だろ」
魔王は一瞬黙り、やがて小さく笑った。
「お前は最後まで、妙な勇者だったな」
「そっちこそ、妙に話の分かる魔王だったよ」
二人の間に、もう敵意はなかった。
友と呼ぶには、あまりにも多くのものを背負っている。
それでも、互いに背中を任せられる程度には相手を信じていた。
荒野を吹き抜ける風が、和真の外套を揺らした。
やがて魔王が、静かな声で尋ねる。
「本当に帰るのか?」
「ああ」
和真は迷わず答えた。
この世界には、多くの思い出がある。
ともに旅をした仲間。
助けてくれた人たち。
守れなかった人たち。
命を懸けて戦った場所も、二度と訪れたくない場所もあった。
六年間は、決して短い時間ではない。
それでも、和真には帰りたい場所があった。
「向こうで、お前を待っている者がいるのか?」
「じいちゃんがいる」
和真の両親は、彼がまだ幼い頃に亡くなっている。
妻を亡くして一人になっていた祖父に引き取られ、それからは二人きりで暮らしてきた。
突然いなくなった自分を、祖父はきっと今も探している。
「俺がいなくなって、どれくらい経っているかは分からないけどな」
「こちらと同じだけ時間が流れているとは限らない」
「分かってる」
帰った瞬間に、召喚された日の続きが始まるかもしれない。
反対に、何十年、何百年もの時間が過ぎている可能性もある。
元の世界がどうなっているのか。
祖父が無事なのか。
和真には確かめる方法がなかった。
だからこそ、帰らなければならない。
「ここに残る道もあるぞ」
魔王の言葉に、和真は僅かに目を伏せた。
何度も考えた。
この世界で生きていくこともできる。
勇者としてではなく、一人の人間として受け入れてくれる者もいる。
だが、それでも和真の答えは変わらなかった。
「帰るよ」
「そうか」
魔王は引き留めなかった。
和真も、それ以上の言葉を口にしなかった。
二人は並んで荒野を歩き、元の世界へつながる転移魔法陣の前まで来た。
白い光を放つ魔法陣を見下ろし、和真は腰の剣に触れる。
この剣を手にした日から、長い旅が始まった。
嬉しいことより、苦しいことのほうが多かったかもしれない。
それでも、無駄な六年間だったとは思わない。
「四ノ宮和真」
魔王に本名を呼ばれ、和真は振り返る。
「お前が作ったこの平和を、私も守ると約束しよう」
その言葉に、和真は安心したように笑った。
「任せた」
「随分と軽い返事だな」
「今さら堅苦しい挨拶なんていらないだろ」
「それもそうだ」
和真は転移魔法陣の中央へ進んだ。
足元から白い光が立ち上がり、その身体を包んでいく。
魔王の姿も、境界結界も、異世界の空も、少しずつ光の向こうへ霞んでいった。
「世話になったな、魔王」
「こちらの台詞だ、勇者」
和真は一度だけ、異世界の景色を目に焼きつけた。
「じゃあな」
魔法陣の光が弾けた。
◇
最初に聞こえたのは、車の走る音だった。
続いて、遠くから踏切の警報音が聞こえてくる。
和真は閉じていた目をゆっくりと開いた。
石造りの城も、荒野を駆ける魔物もない。
頭上には電線が伸び、その向こうに夜空が広がっていた。
道路脇では、自動販売機が白い光を放っている。
湿気を含んだ空気。
アスファルトの匂い。
走り去っていく車のエンジン音。
どれも六年間、何度も思い出したものだった。
和真は呆然とその場に立ち尽くす。
通りを歩いていた男性が、異世界の装備を身につけた和真を見て、驚いたように足を速めた。
その反応さえ、今は懐かしく感じる。
和真は自分の両手を見下ろした。
夢ではない。
幻でもない。
本当に、元の世界へ戻ってきたのだ。
「……帰ってきた」
口にした途端、胸の奥から様々な感情が込み上げてきた。
喜び。
安堵。
そして、これから何が待っているのか分からない不安。
和真は顔を上げ、懐かしい街並みを見渡した。
記憶にある景色とは、少しだけ違っている。
だが、確かにここは日本だった。
「じいちゃん……」
十五歳でいなくなった孫が、二十一歳になって戻ってきた。
どんな顔をされるだろう。
怒鳴られるかもしれない。
それとも、何も言わずに迎えてくれるだろうか。
和真は六年ぶりの我が家を目指し、静かな夜道を歩き始めた。
異世界での勇者の物語は、これで終わった。
だが、四ノ宮和真の新しい物語は――まだ始まったばかりだった。




