第九話 拡散された日常
その日の朝、空色唐辛子荘の前には、見慣れない人影が集まっていた。
最初は二人だけだった。
道路の向こう側に立ち、スマートフォンをこちらへ向けながら、小声で何かを話している。
近所の人ではない。
和真は母屋の縁側からその様子を眺め、嫌な予感を覚えた。
「……朝から何をしてるんだ?」
庭へ出ると、道路にいた二人が一斉に和真へスマートフォンを向けた。
「あっ、動画に映ってた人だ」
「本当にここなんだ!」
声を上げた二人は、隠す様子もなく和真を撮影し始める。
「すみません。撮るのはやめてもらえますか?」
「ここって、あの獣耳の女の子たちが住んでるアパートですよね?」
「尻尾が二本ある子もいるって本当ですか?」
「会わせてもらえません?」
質問だけが次々と飛んでくる。
和真が答えずにいると、一人が空色唐辛子荘の看板と建物を交互に映し始めた。
「やっぱり間違いない。動画と同じ場所だ」
「もう特定されてるよ。住所も出てたし」
その言葉に、和真の表情が険しくなる。
「ここは人が暮らしている場所です。見世物じゃありません。帰ってください」
「ちょっと見るだけですよ」
「道路から撮ってるだけじゃん」
「住人が嫌がっています」
和真が低い声で告げると、二人は不満そうな顔をしながらも、その場を離れていった。
しかし、それで終わりではなかった。
一時間もしないうちに、今度は五人ほどの男女が現れた。
昼前には十人を超え、道路脇へ車を停める者まで現れ始めた。
空色唐辛子荘の看板を撮る者。
アパートを背景に自撮りする者。
動画を配信しながら、フェンリスたちの姿を探す者。
中には、当然のように敷地へ足を踏み入れる者までいた。
「ここから先は私有地です! 入らないでください!」
和真は何度も敷地と道路の間を往復し、そのたびに侵入者を外へ追い出した。
だが、一組を帰している間に別の誰かが入ってくる。
「別に壊したりしませんよ」
「少しくらいいいじゃないですか」
「動画に出たんだから、見られるのは仕方ないでしょ」
誰も、自分が迷惑をかけているとは思っていない。
それどころか、注意する和真の姿まで撮影し、面白そうに笑う者さえいた。
その頃、101号室では、フェンリスが閉め切ったカーテンの隙間から外を睨んでいた。
「……また増えた」
大きな狼耳を伏せ、苛立ったように尻尾を床へ打ちつける。
外から複数の声が聞こえてくる。
「この部屋じゃない?」
「動画に映ってた銀髪の子、ここに住んでるらしいよ」
「カーテン閉まってる。絶対いるって」
窓のすぐ近くから聞こえた声に、フェンリスの耳がぴくりと動いた。
次の瞬間、カーテンの隙間へスマートフォンが押し当てられる。
「――っ!」
フェンリスは反射的に立ち上がった。
その勢いで椅子が後ろへ倒れる。
「何してるんだよ!」
窓を開けようと手を伸ばしたところで、外から和真の声が響いた。
「そこから離れてください! 部屋の中を撮らないで!」
「やばっ、怒られた!」
「走れ、走れ!」
笑い声とともに、窓際から足音が遠ざかっていく。
フェンリスは窓枠を強く握った。
「……追いかけて、一発くらい殴ってもいいよね?」
しかし、自分が外へ出れば、さらに騒ぎが大きくなる。
それを理解しているからこそ、動くことができなかった。
「僕たちは何も悪いことしてないのに……」
悔しそうに呟いた直後、玄関のドアが強く叩かれた。
「すみませーん! 銀髪の狼耳の子、いますかー?」
「尻尾を見せてもらうだけでいいんですけど!」
フェンリスのこめかみに青筋が浮かぶ。
「……和真に止められてなかったら、絶対に外へ出てるからね」
自分へ言い聞かせるように呟き、フェンリスは両手で耳を塞いだ。
騒ぎは隣の102号室にも広がっていた。
最初、みゆは窓の外に集まる人々を面白そうに眺めていた。
「僕って、ひょっとして人気者?」
二本の尻尾を揺らし、少しだけカーテンを開ける。
その瞬間、外にいた数人が一斉に騒ぎ始めた。
「いた!」
「尻尾、本当に二本ある!」
「こっち向いて!」
何台ものスマートフォンが窓へ向けられる。
驚いたみゆは、慌ててカーテンを閉めた。
「ちょ、ちょっと待って! いきなり撮るのはズルいって!」
その声を聞いた人々が、さらに窓へ近づいてくる。
「声もかわいい!」
「窓開けてよ!」
「尻尾触らせて!」
「無理! 絶対に嫌!」
みゆはカーテンを両手で押さえた。
先ほどまでの余裕は完全になくなっている。
やがて窓だけでは足りなくなったのか、今度は玄関のドアが何度も叩かれ始めた。
「猫又ちゃん、いるんでしょ?」
「少し話すだけだから!」
「動画撮らせてよ!」
「うるさい! 帰ってよ!」
みゆが怒鳴っても、外の者たちは笑うばかりだった。
「怒ってるのもかわいい」
「もう一回、尻尾見せて!」
「……何なんだよ、こいつら」
二本の尻尾が、怯えたように身体へ巻きつく。
みゆはドアから距離を取り、部屋の奥へ下がった。
それでもノックは止まらなかった。
さらに、誰かが階段を上る音が響く。
二階へ向かった野次馬たちは、端から部屋番号を確認し始めた。
「牛の角がある子は204号室らしいよ」
「どこで見たの?」
「さっき誰かが書き込んでた」
その声は、204号室の中にいるひかげにもはっきり届いていた。
ひかげはカーテンを閉め、ベッドの端に座っていた。
長い前髪の奥で、怯えたように呼吸を繰り返す。
人と話すだけでも緊張してしまうひかげにとって、知らない人間が大勢押しかけてくる状況は耐え難いものだった。
足音が部屋の前で止まる。
直後、ドアが叩かれた。
「すみませーん」
「牛の角の人、いますか?」
ひかげの肩が大きく跳ねた。
「動画ではよく見えなかったんですよ。少しだけ出てきてもらえません?」
「写真を一枚撮るだけですから」
「…………」
ひかげは口元を押さえ、声が漏れないように耐えた。
返事がないと分かると、今度はドアノブが動く。
鍵がかかっているため開きはしなかったが、何度もガチャガチャと音を立てた。
「鍵かかってる」
「当たり前でしょ」
「裏に回れば窓が見えるんじゃない?」
その言葉を聞いた瞬間、ひかげは震える手でスマートフォンを取り出した。
開いたのは、和真たちとつながっているJINEだった。
何度も文字を打ち間違えながら、短いメッセージを送る。
『たすけてください』
母屋の前で別の野次馬を追い返していた和真のスマートフォンが震えた。
画面を確認した和真は、すぐに二階を見上げる。
204号室の前に、見知らぬ男女が立っていた。
「そこから離れろ!」
普段よりも強い声が敷地内へ響いた。
野次馬たちが驚いて振り返る。
和真は階段を駆け上がると、ひかげの部屋の前へ立ち塞がった。
「ここは住人の部屋です。勝手にドアへ触らないでください」
「話を聞こうとしただけです」
「ドアノブを何度も回すことがですか?」
「開いてたら、呼ぼうと思って……」
「それを不法侵入と言うんです。今すぐ敷地から出てください」
笑顔の消えた和真に見据えられ、野次馬たちはようやく階段を下りていった。
和真は全員が敷地の外へ出たことを確認してから、204号室のドアを軽く叩いた。
「ひかげ、俺だ。もう大丈夫だ」
しばらく返事はなかった。
やがて鍵が開き、ドアがほんの少しだけ動く。
「……和真、さん……」
隙間から姿を見せたひかげの顔は、長い前髪に隠れていた。
しかし、青ざめていることは声だけでも分かった。
「怖かったよな。遅くなってごめん」
「い、いえ……。和真さんは、悪く……ありません」
「今日は母屋に来た方がいい。フェンリスとみゆも呼ぶから」
ひかげは小さく頷いた。
和真はその足で101号室と102号室へ向かった。
フェンリスは怒りを抑えきれない様子だったが、和真が迎えに来たことで、どうにか部屋を出ることに同意した。
みゆも表面上は平気そうに振る舞っていたものの、二本の尻尾は身体へ巻きついたままだった。
三人を母屋へ移動させ、戸締まりとカーテンを確認する。
それでも外からは、野次馬たちの話し声が聞こえていた。
「……ごめん」
和真が頭を下げると、フェンリスがすぐに顔を上げた。
「何で和真が謝るんだよ。悪いのは勝手に入ってきた奴らだろ」
「そうだけど、ここまで広がる前に何とかできていれば……」
「一人で朝から追い払ってたじゃん。和真まで倒れたら、もっと困るよ」
みゆも珍しくフェンリスへ同意する。
「そうだよ。和真が悪いわけじゃない。でも……僕、しばらく102号室には戻りたくないかも」
「わ、私も……一人では、少し……」
ひかげが消え入りそうな声で続けた。
和真は三人の様子を見回した。
このまま追い返し続けるだけでは解決しない。
人が住んでいる部屋を覗き、ドアノブにまで触れる者が現れた以上、もう自分たちだけで対応できる段階ではなかった。
「警察に相談しよう」
その言葉に、フェンリスの耳が不安そうに伏せられる。
「僕たちのこと、怪しまれない?」
「少なくとも、本物だとは思われない。それより、このまま部屋に戻れない方が危険だ」
「……分かった。和真に任せる」
和真はスマートフォンを取り出し、警察へ相談するための番号を調べ始めた。
その間にも、母屋の外から誰かの声が聞こえてくる。
「さっき三人とも、こっちに入っていったよな?」
「母屋にいるんじゃない?」
「裏から見えないかな」
フェンリスが勢いよく立ち上がった。
「もう我慢できない!」
「待て、フェンリス!」
「部屋だけじゃなくて、今度はここまで覗くつもりだろ!」
飛び出そうとするフェンリスを和真が抱えるようにして止める。
「離して、和真! 一発だけ! 本当に一発だけだから!」
「その一発で大騒ぎになるんだよ!」
「だったら半分の力にする!」
「そういう問題じゃない!」
みゆも立ち上がり、フェンリスの大きな尻尾へしがみついた。
「フェンリス、待って! 僕まで映ったら困る!」
「みゆは尻尾を離せ!」
「離したら外に行くでしょ!」
「い、今は……我慢した方が……」
ひかげまで加わり、母屋の中は一気に騒がしくなった。
その向こうでは、何も知らない野次馬が窓へ近づいてくる。
和真はフェンリスを押さえながら、表示された番号へ発信した。
自分たちだけの静かな生活を取り戻すためには、もう誰かの助けが必要だった。
通報から十分ほどして、敷地の前に一台のパトカーが停まった。
赤色灯を見た途端、母屋の周囲にいた野次馬たちが慌てて道路へ戻っていく。
「警察来た。やばいって」
「別に何もしてないし」
「俺たちは道路から見てただけだから」
口々に言い訳をしながら、その場を離れていく者もいた。
パトカーから降りてきた二人の警察官は、散っていく人々を見回したあと、門の前に立つ和真へ近づいてきた。
「通報された四ノ宮さんですか?」
「はい」
「敷地内へ人が入ってきているということでしたね」
「朝から何人も入ってきています。住人の部屋を覗いたり、ドアを叩いたり、ドアノブを回した人もいました」
警察官の表情が変わる。
「ドアノブまで?」
「はい。二階の部屋です。中にいた住人が怖がって、俺に助けを求めてきました」
「壊された物や、盗まれた物はありますか?」
「今のところはありません。でも、注意しても次から次へと入ってきます」
「分かりました。詳しくお話を聞かせてください」
和真は警察官を母屋へ通した。
居間では、フェンリス、ひかげ、みゆが身を寄せるようにして座っていた。
警察官が入ってきた瞬間、三人の身体が強張る。
フェンリスは和真を見ると、声を落として尋ねた。
「……あの人たちが警察?」
「ああ。俺たちを助けるために来てくれた人たちだ」
「分かってるけど……ちょっと緊張する」
ひかげは長い前髪をさらに俯け、みゆは二本の尻尾を身体の後ろへ隠そうとしていた。
警察官は三人の耳や角、尻尾へ一瞬だけ目を向けた。
しかし、動画で騒がれている精巧な衣装だと思ったのか、特に触れることはなかった。
「皆さんが、こちらのアパートの住人ですか?」
「はい」
和真が答えると、警察官は三人を怖がらせないよう、少し離れた場所へ腰を下ろした。
「一人ずつ、何があったか確認させてもらえますか?」
「僕から話す」
最初に口を開いたのはフェンリスだった。
「外から部屋を覗かれた。窓にスマホを押し当てられて、そのあと何度もドアを叩かれた」
「何人くらいいたか覚えていますか?」
「窓のところには三人くらい。外にはもっといた。和真が追い払っても、また別の奴が来てた」
「顔は覚えていますか?」
「見れば分かると思う。でも、似たような奴が多すぎた」
フェンリスは苛立ちを隠さず答えた。
続いて、みゆが話す。
「僕のところにも来たよ。窓から勝手に撮られて、尻尾を見せろとか、触らせろとか言われた」
「ドアを開けましたか?」
「開けてない。ずっと叩かれたけど、ちゃんと鍵もかけてた」
「それで正解です。知らない人が来ても、絶対にドアを開けないでください」
「……うん」
普段よりも素直に頷くみゆを見て、和真は胸が痛んだ。
ひかげはなかなか声を出せなかった。
警察官に急かされることはなかったが、大勢の野次馬を思い出しただけで、呼吸が浅くなってしまう。
和真が隣へ座ると、ひかげはようやく小さな声を絞り出した。
「わ、私の部屋は……ドアノブを、何度も……」
「無理に詳しく話さなくても大丈夫です」
「窓も……裏から見ようって、言っていました。鍵が開いていたら……中に入ってきたかもしれません……」
その言葉に、フェンリスの耳がぴんと立つ。
「やっぱり一発――」
「フェンリス」
「……分かってるよ」
和真に名前を呼ばれ、フェンリスは不満そうに口を閉じた。
三人から事情を聞いた警察官は、無断で敷地内へ入った者が映っていないか確認するため、周囲を見て回った。
しかし、空色唐辛子荘には敷地全体を映せる防犯カメラがない。
野次馬たちが自分で配信していた映像は残っている可能性があるものの、誰がどこまで入ったのか、すぐには確認できなかった。
「今後、同じ人間が入ってきたり、窓を覗いたりした場合は、すぐに通報してください」
「注意して追い返すより、先に連絡した方がいいですか?」
「相手が興奮している場合もあります。四ノ宮さん一人で対応し続けるのは危険です。住人の方々も、しばらくはなるべく一人で外へ出ないでください」
「分かりました」
「こちらでも、しばらく周辺の巡回を増やします」
警察官たちは敷地の外に残っていた者へ声をかけ、道路を塞がないこと、許可なく敷地へ入らないことを注意してから帰っていった。
パトカーが見えなくなる頃には、朝から集まっていた人々の大半が姿を消していた。
「……やっと静かになった」
みゆが畳の上へ寝転がる。
「今日は、もう来ないよね?」
「さすがに警察が来たのを見ただろうから、大丈夫だと思いたいけど……」
和真は窓から外を確認した。
道路の向こう側に、まだ数人が残っている。
警察に注意されたため敷地へは入ってこないが、スマートフォンを手にしてこちらを窺っていた。
フェンリスも窓の隙間から外を見る。
「まだいるじゃん」
「道路にいるだけなら、すぐには追い払えない」
「ずっと見られてるのに?」
「腹は立つけど、今は仕方ない。部屋に戻る時は俺も一緒に行く」
「だったら、今日はここにいる」
フェンリスは迷うことなく答えた。
「僕も」
みゆも畳の上で手を上げる。
ひかげは何も言わなかったが、204号室へ戻る気がないことは、その様子だけで分かった。
「分かった。今日は三人とも母屋で過ごそう」
それから四人は、ほとんど外へ出ずに一日を過ごした。
昼食も夕食も母屋で食べた。
普段なら賑やかな食卓になるはずだったが、窓の外で物音がするたびに、誰かの耳や尻尾が反応する。
特にひかげは、車が敷地の前を通っただけでも肩を震わせていた。
夜になり、道路の人影が消えたのを確認してから、和真は三人をそれぞれの部屋へ送った。
「何かあったら、すぐJINEで呼んでくれ。俺もスマホを手元に置いておくから」
「うん。でも和真、本当に寝ていいからね」
「フェンリスも、何かあっても外へ飛び出すなよ」
「……相手による」
「誰が来てもだ」
「分かったよ」
明らかに納得していない返事だった。
みゆは102号室の前で何度も周囲を見回してから、急いで中へ入った。
ひかげも和真が204号室の前にいることを確かめながら鍵を閉める。
三人を送り届けた和真は母屋へ戻ったが、布団へ入ってもなかなか眠れなかった。
ようやく静かになった。
そう思ったのは、日付が変わる少し前だった。
枕元のスマートフォンが震える。
画面には、フェンリスからの着信が表示されていた。
「もしもし?」
『和真。外に誰かいる』
小さく抑えられた声だった。
和真はすぐに身体を起こした。
「窓から見たのか?」
『見てない。でも、足音がする。さっきから101号室の周りを歩いてる』
「部屋から出るな。今からそっちへ行く」
『僕も――』
「絶対に出るな」
『……分かった』
通話を切った直後、今度はみゆからJINEが届いた。
『誰かドアの前にいる』
続けて、短い動画が送られてくる。
102号室の玄関側から聞こえる、小さなノックの音。
昼間のような騒がしい叩き方ではない。
中に人がいるかを確かめるような、控えめな音だった。
それがかえって不気味だった。
和真は上着を羽織り、母屋を出た。
外灯に照らされた敷地は、一見すると静まり返っている。
だが、101号室と102号室のある建物の陰で、何かが動いた。
「誰だ!」
和真が声を上げると、二人の若い男が飛び出した。
一人はスマートフォンを持ち、もう一人は小型のカメラを抱えている。
「やばい、見つかった!」
「逃げろ!」
「待て!」
二人は和真と反対側へ走り、そのまま道路へ飛び出した。
和真は追いかけようとしたが、警察官から一人で対応しないよう言われたことを思い出し、足を止めた。
代わりにスマートフォンを取り出し、すぐに通報する。
その直後、101号室のドアが開いた。
「和真!」
「出てくるなって言っただろ!」
「だって、和真一人で追いかけようとするから!」
フェンリスは裸足のまま外へ飛び出し、和真のそばまで駆け寄ってきた。
大きな尻尾は膨らみ、耳も周囲の音を拾おうと忙しく動いている。
少し遅れて、102号室のドアも細く開いた。
「……もういない?」
「みゆは中にいてくれ。今、警察を呼んだから」
「分かった……」
みゆは素直にドアを閉じた。
昼間なら冗談の一つでも返していたはずなのに、今はその余裕もない。
やがてパトカーが到着し、周囲の捜索が始まった。
二人の男はすでに逃げたあとだったが、和真が特徴を伝えると、警察官は周辺を確認してくれた。
その夜、三人を各部屋へ戻すことはできなかった。
和真は再び全員を母屋へ集め、居間に布団を敷いた。
「こんなの、いつまで続くんだよ……」
フェンリスが悔しそうに呟く。
「外に出られないだけじゃなくて、部屋でも安心できないなんておかしいだろ」
「僕、昨日まで普通に暮らしてたのに」
みゆは二本の尻尾を抱きしめるようにして座っていた。
ひかげも俯いたまま、小さく頷く。
「巡回は増やしてくれる。動画の騒ぎが落ち着けば、人も減るはずだ」
和真はそう答えたものの、自分でも確信は持てなかった。
翌日も、その次の日も、空色唐辛子荘を見に来る者はいなくならなかった。
警察の巡回中は姿を消し、パトカーが離れると再び現れる。
敷地へ入ろうとする者は減ったが、遠くから部屋の窓を撮影したり、住人が出てくるのを待ったりする者は残り続けた。
三人は一人で部屋へ戻れなくなり、昼間も母屋に集まるようになった。
買い物も和真が一人で済ませる。
フェンリスたちが外へ出れば、また動画を撮られる可能性があるからだ。
空色唐辛子荘で当たり前になりつつあった賑やかな日常は、突然、家の中へ閉じ込められてしまった。
その騒動を、拡散された動画越しに見つめている者がいた。
青緑色の髪を左右で束ね、頭上にゴーグルを載せた女性。
黒を基調とした作業服に包まれた両腕は、肩から指先まで同じ色、同じ材質で作られた機械義手だった。
女性は動画を何度も停止し、画面に映る三人の姿を順番に拡大する。
狼の耳と大きな尻尾。
牛の角と耳。
二本の猫の尻尾。
「……精巧な衣装、ではない」
金色の瞳が、映像のわずかな動きを追う。
耳は周囲の音に反応し、尻尾は感情に合わせて動いていた。
この世界の人間には作り物に見えるのだろう。
しかし、自身も異世界からこの世界へやって来た彼女には、それが本物だと分かった。
「自分と同じ、異世界人……少なくとも三人」
彼女――リディア・ライアットは、この世界へ来てから長い時間をかけて生活の基盤を築いてきた。
文化も常識も、扱われている技術も、自分がいた世界とは大きく違う。
慣れるまでには苦労した。
だからこそ、突然見知らぬ世界へ放り出された者が、どれほど不安を抱えるのかも理解できる。
まして今、動画に映った三人は、大勢の人間から追い回されていた。
「……放置できない」
リディアの視線が、三人を守るように前へ立つ一人の青年で止まる。
四ノ宮和真。
野次馬へ声を荒らげながらも、決して手を出そうとはしていない。
背後にいる三人を映されないよう、自分の身体でカメラを遮っていた。
「…………」
リディアは無言のまま、動画を最初まで戻した。
もう一度、和真が映っている場面で停止する。
なぜか、そこから視線を動かせなかった。
機械義手の指先が、無意識に再生ボタンへ触れる。
同じ場面を繰り返し見たあと、リディアはようやく端末を伏せた。
「……困っている異世界人を助ける。それだけです」
誰に聞かせるわけでもなく、静かに呟く。
それだけが理由だと、自分へ言い聞かせるように。
しかし、立ち上がってから鏡の前で髪を整え、頭上のゴーグルの位置まで直していることには気づいていなかった。
必要な工具を鞄へ詰め、部屋を出る。
目的地は、動画によって場所まで広められてしまった空色唐辛子荘。
そこに暮らす異世界人たちと――画面越しに見ただけで、どうしても気になってしまった青年に会うために。
翌日の昼前。
警察の巡回が終わったばかりの空色唐辛子荘に、一人の女性がやって来た。
青緑色の髪を左右で束ね、頭にはゴーグルを載せている。
黒を基調とした身体に沿う作業服姿で、両腕は肩から指先まで機械で作られていた。
左右で色や材質に違いはなく、細かな部品の配置まで揃った完全な対称構造になっている。
女性――リディアは、道路の向こう側から空色唐辛子荘を観察した。
今日も数人の野次馬が残っている。
敷地へ入ってはいないものの、建物へスマートフォンを向けながら、誰かが出てくるのを待っていた。
「……まだいる」
リディアは小さく呟き、そのまま門へ向かった。
すると、道路脇にいた男が声をかけてくる。
「お姉さんも動画を見て来たの?」
「…………」
「すごい腕だね。それもコスプレ? ここって、そういう人たちが集まる場所なのかな」
男は返事を待たず、リディアの機械義手へスマートフォンを向けた。
「撮影の許可はしていません」
「別に顔は映してないですよ」
「腕も自分の身体の一部です。向けないでください」
淡々と告げられ、男の手が止まる。
リディアは金色の瞳で相手を見ると、さらに続けた。
「先ほど警察が巡回していました。無断撮影と敷地への侵入を続けるなら、次に来た際、自分が状況を説明します」
「いや、俺は入ってないし……」
「なら、問題ありません。そのまま帰ってください」
声を荒らげてはいない。
それでも反論を許さない雰囲気に押され、男は不満そうにスマートフォンを下ろした。
周囲にいた者たちも、リディアの両腕を気にしながら少しずつ離れていく。
全員がいなくなったわけではない。
しかし、敷地の前に集まっていた人影は確実に減っていた。
リディアは門を越えず、その場から母屋を見つめる。
「ここで、間違いない」
動画では何度も見た場所だった。
そして、あの青年が暮らしている場所でもある。
そのことを意識した途端、機械義手の指がわずかに動いた。
「……目的は、異世界人の保護」
もう一度自分へ言い聞かせてから、敷地内へ声をかける。
「すみません。どなたか、いらっしゃいますか」
母屋の中では、フェンリスの耳が声を捉えていた。
「和真。また誰か来た」
居間にいた全員の表情が曇る。
みゆは窓へ近づこうとしたものの、昨日のことを思い出し、すぐに足を止めた。
「今度は女の人みたいだけど……どうする?」
「俺が見てくる。三人はここにいてくれ」
「僕も行く」
フェンリスが立ち上がる。
「昨日みたいな奴だったら、和真一人じゃ大変だろ」
「一人で対応しないように言われたのは俺だけど……フェンリスが出たら、相手の目的を達成させることになるぞ」
「うっ……」
野次馬の目的が自分たちを見ることだと指摘され、フェンリスは動きを止めた。
「だったら、すぐ戻ってきてよ」
「ああ。外には出ないでくれ」
和真は三人を母屋へ残し、玄関へ向かった。
戸を少しだけ開け、外に立っている女性を確認する。
動画を撮影している様子はない。
手には大きな鞄を持っているが、スマートフォンさえ出していなかった。
「何かご用ですか?」
声をかけると、リディアが振り返った。
動画で何度も見た青年が、自分の目の前にいる。
画面越しに見た時から気になっていた。
だが、直接向き合った瞬間、その感情は予想していた以上に大きくなった。
「…………」
「あの?」
返事がないことを不思議に思い、和真が首を傾げる。
リディアは遅れて我に返った。
「……失礼しました」
「もしかして、動画を見て来た人ですか?」
「はい。動画を見て、ここを知りました」
正直に答えた途端、和真の表情が警戒へ変わった。
「申し訳ありませんが、住人には会わせられません。撮影も断っています」
「撮影するつもりはありません」
「それなら、何のために?」
「動画に映っていた方々を、助けるために来ました」
予想外の言葉に、和真はすぐに返事ができなかった。
「助けるって……どういうことですか?」
「ここで話す内容ではありません。他に聞かれる可能性があります」
「あなたが信用できるかも分からないのに、中へ入れることはできません」
「当然の判断です」
リディアは迷わず頷いた。
断られたことに腹を立てる様子もない。
「では、この場で結構です。一つだけ確認します」
「何をですか?」
「動画に映っていた三人は、この世界の人間ではありませんね?」
和真の目つきが変わった。
反射的に周囲へ視線を向ける。
道路の離れた場所には、まだこちらを気にしている者がいる。
「何の話ですか?」
「隠す必要はありません。自分も同じです」
リディアは声を落とし、右の機械義手を軽く持ち上げた。
継ぎ目の一部が淡い光を放つ。
それは電気ではない。
微量ではあるが、確かな魔力だった。
和真はその魔力を感じ取り、リディアを見つめる。
「……魔力?」
「分かるのですね」
リディアは義手の光をすぐに消した。
「自分の名は、リディア・ライアット。種族はドワーフです。この世界で生まれた者ではありません」
「ドワーフ……」
「疑うのは理解できます。ですが、動画に映った耳や尻尾は作り物ではない。自分には分かります」
和真は黙ったまま、リディアの様子を観察した。
嘘をついているようには見えない。
両腕から感じた魔力も本物だった。
何より、本物の耳や尻尾を見抜いたうえで押しかけた者なら、すでに騒ぎ立てていてもおかしくない。
それをせず、わざわざ助けに来たと告げている。
「……少し待っていてください」
「はい」
和真はいったん母屋の中へ戻った。
居間では、フェンリスたちが揃って玄関の方を見ていた。
「遅いよ。誰だったの?」
フェンリスの問いに、和真は声を落として答えた。
「リディア・ライアットという女性だ。自分も異世界から来たドワーフだと言ってる」
「ドワーフ?」
フェンリスの耳が立つ。
ひかげも、俯けていた顔をわずかに上げた。
「この世界に、私たち以外の異世界人が……?」
「本当かどうかは分からない。でも、機械の腕から魔力を感じた。少なくとも、普通の人じゃない」
「機械の腕って何?」
みゆが興味を示す。
「両腕が義手になってる。俺たちを助けるために来たらしい」
「助けるって、どうやって?」
「それはまだ聞いてない。ここへ入れる前に、三人にも確認しようと思って」
フェンリスはしばらく考えたあと、和真の服の裾をつかんだ。
「会うなら、和真のそばにいる」
「私も……和真さんが、一緒なら……」
ひかげも小さく続ける。
「僕も見る。ドワーフって初めてだし、機械の腕も気になる」
「みゆは触るなよ」
「まだ何もしてないじゃん!」
「未完成の物や機械を勝手に触りそうだから言ってるんだ」
「僕を何だと思ってるの?」
「他人からスマホを持ってきたと話した猫又」
「それはもう終わった話だよ!」
みゆが頬を膨らませる。
少しだけいつもの調子が戻ったことで、張りつめていた空気もわずかに和らいだ。
「分かった。全員で話を聞こう。ただし、何かおかしいと思ったら、すぐに俺へ言ってくれ」
三人が頷いたことを確認し、和真は再び玄関を開けた。
「お待たせしました。中へどうぞ」
「ありがとうございます」
リディアは敷地内へ入る前に、靴の裏を軽く確認した。
泥を落としてから母屋へ向かう姿を見て、和真は細かなところまで気にする人なのだと感じる。
玄関で靴を脱ぎ、案内された居間へ入る。
フェンリス、ひかげ、みゆの視線が、一斉にリディアへ集まった。
リディアも三人を順番に確認する。
動画で見た通りだった。
フェンリスの大きな狼耳も、ひかげの牛の角も、みゆの二本の尻尾も、すべて本物だ。
「初めまして。リディア・ライアットです」
淡々と名乗り、頭を下げる。
「自分も異世界から来ました。種族はドワーフです」
「僕はフェンリス・ルセアート。牙狼族だよ」
最初に名乗り返したフェンリスは、警戒したままリディアを見ていた。
「獅子宮……ひかげ、です。ミノタウロス、です……」
「僕は猫又のみゆ。よろしく」
三人の自己紹介を聞き終えたリディアが、最後に和真へ視線を向ける。
「それで、こちらが……」
「四ノ宮和真です」
「……はい。存じています」
「え?」
「動画で名前を呼ばれていたので、覚えました」
リディアはすぐに補足し、視線をそらした。
平静を装っているが、機械義手の指先が意味もなく二度ほど開閉している。
それを見て、みゆが首を傾げた。
「緊張してる?」
「していません」
「でも、さっきから和真のことばかり見てない?」
「必要な情報を確認しているだけです」
「和真の顔に情報があるの?」
「みゆ」
和真が名前を呼ぶと、みゆは楽しそうに笑って口を閉じた。
リディアは無表情を保っていたが、頭上のゴーグルを直す動きが少しだけ速い。
フェンリスはその様子を見逃さなかった。
「……何か怪しい」
「怪しい点があるなら、説明します」
「そういう意味じゃないけど……」
フェンリス自身にも、なぜ気になるのかは分からなかった。
ただ、リディアが和真を見るたび、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
「とりあえず、座ってください」
和真に勧められ、リディアは座布団へ腰を下ろした。
機械義手を膝の上へ揃え、改めて三人を見る。
「動画は確認しました。敷地への侵入、窓からの撮影、部屋への接触も把握しています」
「動画だけで、そこまで分かったのか?」
「野次馬側が自分たちで配信していました。削除された物もありますが、一部は保存済みです」
リディアが端末を取り出し、画面を和真へ見せる。
そこには、フェンリスの部屋の窓へ近づく者や、ひかげの部屋がある二階へ上がる者の姿が映っていた。
「証拠として使える可能性があります。必要なら、警察へ提出できるよう整理します」
「そこまでしてくれるんですか?」
「問題ありません」
リディアは即答した。
「自分もこの世界へ来た当初は、何も分かりませんでした。常識も、技術も、暮らし方も違う。そんな状態で大勢に追い回されれば、生活は成り立たなくなります」
その言葉に、フェンリスたちの警戒が少しだけ薄れる。
リディアは同情を口にするのではなく、自分の経験として話していた。
「リディアは、いつからこの世界にいるの?」
フェンリスが尋ねる。
「十分に生活へ慣れる程度には長くいます。現在は、この世界の技術を学びながら発明や修理をしています」
「その腕も、自分で作ったの?」
みゆが身を乗り出す。
「基本設計も調整も自分です」
「すごい。触っていい?」
「駄目です」
「まだ何もしてないのに断られた!」
「先ほど、和真さんが注意していたので」
「和真、余計なこと言ったでしょ!」
「言わなくても同じ結果だったと思うぞ」
久しぶりに居間へ小さな笑いが生まれる。
リディアは騒がしいやり取りを見ながら、ほんのわずかに目元を和らげた。
動画では追い詰められている姿しか見られなかった。
だが、本来はこうして賑やかに暮らしているのだろう。
この生活を壊させるべきではない。
「それで、俺たちを助けるというのは、証拠を集めることですか?」
和真の質問に、リディアは首を横へ振った。
「それも必要ですが、根本的な解決にはなりません」
「根本的な解決?」
「現在、騒ぎの中心になっているのは、三人の耳と角と尻尾です」
「分かってるよ。でも、これは外せない」
フェンリスが自分の耳へ触れる。
「僕の身体の一部だから」
「理解しています。外す必要はありません」
「じゃあ、どうするの?」
「見えなくします」
あまりに淡々と告げられ、全員が黙り込んだ。
最初に反応したのは、みゆだった。
「……尻尾を切るとかじゃないよね?」
二本の尻尾を抱え、警戒するようにリディアを見る。
「違います。傷つける必要も、形を変える必要もありません」
「でも、見えなくするなんてできるのか?」
和真が尋ねると、リディアは鞄から小さな金属部品を取り出した。
指先ほどの大きさで、中心には薄い青色の石が埋め込まれている。
「光と認識へ干渉し、装着者の一部を周囲から見えなくする。理論上は可能です」
「理論上?」
「まだ完成品はありません」
フェンリスが目を細める。
「失敗したらどうなるの?」
「出力不足なら、耳や尻尾が薄く見えます。調整を誤れば、逆に目立つ可能性もあります」
「逆に目立つのは嫌だよ!」
「そのため、使用前に十分な調整を行います」
リディアは金属部品を手のひらへ載せたまま、三人へ見せる。
「種族ごとに身体構造と魔力の流れが違います。三人を同じ仕組みで隠すことはできません。それぞれに合わせた専用品が必要です」
「作れるのか?」
「作ります」
和真を見つめ、リディアは迷わず答えた。
「それで、この方々が外を歩けるようになるなら」
金色の瞳が和真と重なる。
ほんの数秒の沈黙。
リディアは自分の言葉に別の気持ちが混ざりそうになり、視線を手元の部品へ戻した。
「……異世界人を支援するのは、同じ異世界人として当然の行動です」
「でも、会ったばかりの俺たちに、そこまでしてもらうわけには……」
「費用については、完成後に必要な材料分だけ相談します」
「そういう意味じゃなくて、リディアさんの負担が大きすぎませんか?」
「リディアで構いません」
「え?」
「敬称は不要です。自分も、和真と呼びます」
言い切ってから、リディアの動きが止まる。
少し急ぎすぎたと気づいたが、今さら言葉を戻すこともできない。
「……呼び方を簡略化した方が、会話が効率的なので」
「はあ……。分かりました、リディア」
和真に名前を呼ばれ、リディアの機械義手が小さな駆動音を立てた。
「腕、大丈夫?」
みゆが尋ねる。
「問題ありません。出力が一時的に乱れただけです」
「どうして?」
「原因を確認中です」
リディアは平然と答えたが、自分では原因をよく理解していた。
隣では、フェンリスが頬を膨らませている。
「僕の時より、呼び捨てになるの早くない?」
「そこを比べる必要あるか?」
「何となく気になっただけ」
フェンリスは和真から顔をそらし、大きな尻尾を自分の近くへ引き寄せた。
リディアはそんな二人の様子を見たあと、鞄へ金属部品を戻した。
「道具を完成させるには、作業場所が必要です」
「どのくらいの場所があれば足りますか?」
「現在使用している工房を持ち込めます。空間を拡張する装置があるため、入口を置く場所さえあれば問題ありません」
「工房を持ち込む?」
和真だけでなく、三人も理解できずに首を傾げた。
「外見上は小さな入口ですが、その先に別の空間を固定します。工具や設備も、工房ごと移動できます」
「そんなことまでできるの?」
みゆの目が輝く。
「亜空間に近い仕組みです。ただし、設置には周囲の構造を確認する必要があります」
「それなら、母屋の地下に使っていない場所があります。あとで見てもらえますか?」
「はい」
リディアは即答しかけ、わずかに間を置いた。
「……必要であれば、工房に簡易的な居住設備もあります。調整には時間がかかるため、作業中はここへ滞在した方が効率的です」
「住むつもりなの?」
フェンリスがすぐに反応する。
「常駐した方が、不具合にも対応できます」
「まだ作ってもないのに?」
「完成後の保守も必要です」
「……本当に、それだけ?」
「それ以外に、どのような理由が?」
二人の視線がぶつかる。
リディアは冷静な表情を崩していない。
フェンリスも、まだ自分が何を警戒しているのか説明できなかった。
その間へ、和真が声を挟む。
「工房のことは、場所を確認してから決めましょう。今日は助けに来てくれて、ありがとうございます」
「礼は不要です」
「それでも、誰も助けてくれないと思っていたところに来てくれたんです。俺たちにとっては、本当にありがたいです」
和真が頭を下げる。
リディアはしばらく動かなかった。
動画を見て、困っている異世界人を助けようと思った。
それは嘘ではない。
だが、目の前の青年に会いたかったという気持ちも確かにあった。
今、その青年が自分へ真っ直ぐ感謝を伝えている。
機械義手の内部で、再び出力がわずかに乱れた。
「……問題ありません」
リディアは膝の上で両手を握る。
「自分が守ります」
静かな声だった。
それでも、その言葉には迷いがなかった。
フェンリス、ひかげ、みゆが顔を上げる。
昨日から続いていた騒動は、まだ終わっていない。
外には今も、空色唐辛子荘を見ようとする者が残っている。
警察の巡回だけで、すべてを防ぐこともできない。
それでも、何もできずに耐えるだけだった状況に、初めて解決へつながる道が見えた。
リディアの発明が、本当に耳や尻尾を隠せるのか。
亜空間の工房とは、どのようなものなのか。
まだ誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは、拡散された動画によって壊された日常が、新たな異世界人との出会いまで運んできたことだった。




