第十話 亜空間工房
リディアが空色唐辛子荘を訪れてから、一時間ほどが経過していた。
道路の向こうには、まだ何人かが残っている。
先ほどまでより数は減ったものの、完全に諦めたわけではないらしい。
母屋の窓から外を確認した和真は、カーテンを閉め直した。
「地下へ行くなら、外から見られる心配はない。問題は、工房の入口を置けるだけの場所があるかだな」
「入口自体は、それほど大きくありません」
リディアは持参した鞄を傍らへ置き、両腕を使って幅を示した。
「人が通れる程度の扉と、それを固定する枠があれば十分です。ただし、周囲に歪みが出ない場所を選ぶ必要があります」
「歪み?」
みゆが首を傾げる。
「空間を無理に接続すると、入口の周囲へ負荷がかかります。壁が割れる、床が沈む、接続先がずれるなどの問題が起こる可能性があります」
「接続先がずれたら、どうなるの?」
「扉を開けても工房へ入れません」
「それだけ?」
「運が悪ければ、何もない亜空間へつながります」
みゆの二本の尻尾が同時に膨らんだ。
「それ、かなり危ないやつじゃん!」
「通常は起こりません」
「今、運が悪ければって言ったよね?」
「安全装置があります。異常があれば、扉は開きません」
「……絶対?」
「絶対という言葉は、技術者として使いたくありません」
「余計に怖くなったよ!」
みゆはすぐに和真の後ろへ隠れた。
その様子を見たフェンリスも、不安そうに耳を伏せる。
「母屋が急に消えたりしないよね?」
「その規模の事故は想定していません」
「想定してないだけで、起きないとは言ってないよね?」
「フェンリスまで怖がらせてどうするんだよ」
和真が声をかけると、フェンリスはその服の裾をつかんだ。
「だって、何もない場所につながるとか言うから……」
「危険があるなら、地下を見たうえで設置を断ればいい。まずは確認してもらおう」
「和真がそう言うなら……」
フェンリスは頷いたものの、裾をつかんだ手は離さなかった。
ひかげも不安を感じているらしく、長い前髪の奥からリディアの鞄を見つめている。
「それ……鞄の中に、工房が入ってるんですか……?」
「いいえ。工房は別の場所にあります」
「では……どうやって、ここへ……?」
「この中に入っているのは、入口を作るための装置です。工房そのものを移動させるのではなく、扉を通じて接続します」
リディアが鞄を持ち上げる。
見た目は普通の大きな工具鞄だ。
その中へ人が通れる扉が入っているとは思えなかった。
「地下室へ案内します」
和真が立ち上がると、全員が一斉に動き出した。
「全員で来るのか?」
「和真一人を行かせるわけにはいかないだろ」
フェンリスが当然のように答える。
「僕も見たい!」
「みゆは装置に触るなよ」
「まだ何もしてない!」
「さっき触ろうとしただろ」
「腕を触りたかっただけだよ。装置とは別!」
「どちらも勝手に触ってはいけません」
リディアに淡々と注意され、みゆは頬を膨らませた。
「リディアって、結構厳しいね」
「事故を防ぐためです」
その一言を告げた瞬間、リディアの機械義手の指が止まった。
ほんの僅かな変化だったが、和真はそれに気づいた。
工房の危険性を説明していた時よりも、声が少しだけ低くなっている。
「リディア?」
「何でしょうか」
「いや……何でもない」
問いかけようとした和真は、それ以上踏み込まなかった。
まだ出会ったばかりだ。
本人が話そうとしないことを、無理に聞き出すべきではない。
和真を先頭に、五人は母屋の奥へ向かった。
廊下の突き当たりにある扉を開けると、地下へ続く階段が現れる。
「暗いから気をつけてくれ」
照明をつけると、古い木製の階段と、土の壁を補強した地下室が照らし出された。
祖父が道具や保存食を置くために使っていた場所だ。
今では大半の物が片づけられ、棚と空箱が少し残っているだけだった。
地下へ下りたリディアは鞄を床へ置き、周囲を見回した。
床を軽く踏み、壁へ機械義手を触れさせる。
左腕の一部が開き、細い棒状の器具が伸びた。
「わっ」
すぐ近くで見ていたみゆが声を上げる。
「腕から何か出た!」
「測定器です」
「他には何が出るの?」
「刃物、溶接器具、簡易射出装置、魔力線を切断する工具などです」
「格好いい……!」
「だから、触らないでください」
「分かってるってば」
そう答えながらも、みゆは興味を抑えきれず、リディアの周囲を行ったり来たりしている。
一方、ひかげは階段のそばで壁へ背をつけていた。
地下室に五人が入ったことで、少し窮屈に感じているらしい。
「ひかげ、大丈夫か?」
「は、はい……。少し、狭いだけです……」
「無理なら上で待っていていいぞ」
「いえ……和真さんが、いるので……大丈夫です」
ひかげは小さく首を振った。
その言葉を聞いたリディアの測定器が、壁の上で一瞬だけ止まる。
すぐに作業を再開したが、今度は反対側にいたフェンリスが和真の腕へ身体を寄せた。
「僕も和真のそばにいるから平気」
「フェンリスは地下を怖がってなかっただろ」
「さっき、何もない亜空間につながるかもって聞いた」
「通常は起こりません」
「絶対じゃないんだよね?」
「……設置前に三重の確認を行います」
先ほどと同じ質問をされたリディアが、僅かに強い口調で答える。
フェンリスは和真へ寄り添ったまま、じっとリディアを見た。
「ちゃんと確認してよ」
「当然です」
「和真を危ない目に遭わせたら、僕が壊すからね」
「フェンリス」
「装置をだよ」
「装置も壊したら駄目だろ」
和真が注意すると、フェンリスは不満そうに尻尾を揺らした。
リディアは二人を見たあと、測定器を腕の中へ収納する。
「この場所なら、設置できます」
「本当ですか?」
「はい。壁と床は十分に安定しています。魔力の流れにも、大きな乱れはありません」
「この世界にも魔力があるのか?」
「極めて少量ですが存在します。ただし、工房の維持に必要な量を周囲から集めることはできません」
「それなら、どうするんだ?」
「動力源は工房側にあります。こちらの入口を維持する分には問題ありません」
リディアは壁際に残されていた棚へ視線を向ける。
「設置するなら、この棚を動かしてください。壁から1メートルほど空間が必要です」
「分かった」
和真が棚へ手をかける。
中身はほとんど入っていないが、祖父が使っていた頑丈な棚であり、一人で簡単に動かせる重さではない。
それでも和真は、力を隠しながら少しずつ横へ動かした。
「僕も手伝うよ」
フェンリスが反対側へ回る。
「私も……」
ひかげも壁から離れ、棚へ手を添えた。
三人で押すと、棚は音を立てながら横へ移動していく。
みゆも遅れて手伝おうとしたが、すでに必要な場所は空いていた。
「僕の出番がなかった」
「周りの箱を動かしてくれるか?」
「任せて!」
みゆはすぐに気を取り直し、床に残されていた小さな箱を持ち上げる。
ところが、持ち上げた拍子に底が抜け、中に入っていた古い金具が床へ散らばった。
「…………」
「みゆ」
「今のは僕のせいじゃないよ。箱が古かっただけ」
「片づけような」
「はーい……」
しゃがみ込んで金具を拾うみゆの横で、リディアが鞄を開いた。
中には同じ大きさの銀色の棒と、複数の金属板、薄い青色の石が規則正しく収められている。
部品にはそれぞれ番号が刻まれ、少しの乱れもなく並んでいた。
リディアはその中から銀色の棒を四本取り出す。
「これを壁へ固定します」
「穴を開ける必要はありますか?」
「固定用の器具を打ち込みます。不要になれば取り外せますが、小さな跡は残ります」
「それくらいなら大丈夫です」
「分かりました」
リディアの右手首が開き、細い工具が飛び出す。
先端が回転を始めた途端、みゆが再び近づこうとした。
その襟を、和真が後ろからつかむ。
「何で止めるのさ」
「危ないからだよ」
「近くで見たかっただけなのに」
「設置が終わってから見せてもらえ」
「作業中は近づかないでください」
「リディアまで……」
みゆは渋々後ろへ下がった。
リディアは壁へ印をつけ、寸法を何度も確認する。
一度測った場所を反対側から測り直し、さらに別の器具を使って壁の内部まで調べていく。
「ずいぶん慎重なんだな」
「空間接続に小さなずれも許されません」
「でも、さっきも測ってたよね?」
フェンリスが尋ねる。
「あれは設置場所の確認です。現在行っているのは、入口の固定位置を決めるための測定です」
「同じに見える」
「目的が違います」
リディアは淡々と答え、再び同じ場所へ測定器を当てた。
けれど、和真には単に慎重なだけには見えなかった。
位置を確認するたび、リディアの金色の瞳が僅かに揺れている。
間違いがないと分かっていても、それを信じ切れずにいるようだった。
「リディア」
和真が声をかける。
作業へ集中していたリディアの肩が、小さく跳ねた。
「……何でしょうか」
「急がなくて大丈夫だ。外に出られないのは困ってるけど、今日中に完成させてほしいとは思ってない」
「しかし、早く作らなければ、皆さんは――」
「事故が起きる方が困る。何度確認してもいいから、リディアが納得してから進めてくれ」
リディアは答えず、和真を見つめた。
急かされると思っていた。
役に立つと証明しなければ、ここにいる理由を失うとも考えていた。
だが、和真が気にしているのは作業の速さではない。
リディア自身が不安を残したまま進めようとしていることだった。
「……分かりました」
リディアは壁へ向き直る。
「確認を続けます」
「ああ。頼む」
短い返事を受け、機械義手の内部から微かな駆動音が聞こえた。
先ほどまでとは違い、今度は出力が乱れたわけではない。
両腕に組み込まれた冷却機構が、僅かに上昇した熱を逃がしている音だった。
「やっぱり、和真と話すと腕がおかしくなるね」
床へ落ちた金具を拾い終えたみゆが、しゃがんだまま呟く。
「故障ではありません」
「じゃあ、何で?」
「作業による温度上昇です」
「まだ穴も開けてないのに?」
「みゆ。邪魔をしない」
フェンリスが間へ入る。
みゆは口を尖らせたが、それ以上追及しなかった。
リディアは測定を終えると、ようやく最初の固定器具を壁へ打ち込んだ。
続いて四本の銀色の棒を組み合わせ、人が一人通れる大きさの枠を作っていく。
ひかげがその作業を眺めながら、小さな声で尋ねた。
「これが……扉に、なるんですか……?」
「正確には、扉を出現させるための固定枠です」
「今は……向こう側も、壁ですよね……」
「接続に成功すれば、枠の内側だけが工房の入口へ変わります」
「失敗したら?」
みゆが懲りずに口を挟む。
「安全装置が作動し、何も起こりません」
「何もない場所につながるのは?」
「安全装置が三つとも同時に故障し、自分が異常を見落とし、それでも起動させた場合です」
「そんなこと、あるの?」
「起こしません」
それまでよりも強い声だった。
リディアは組み上がった枠の左右へ、薄い青色の石を一つずつ取り付ける。
最後に、手のひらほどの大きさの黒い箱を枠の中央へ置いた。
「これから仮接続を行います。全員、階段まで下がってください」
「リディアは?」
和真が尋ねる。
「自分は装置を起動します」
「危なくないのか?」
「作業者が離れることはできません」
「だったら、俺も残る」
「必要ありません」
「何かあった時、一人より二人の方が対応できる」
「和真には装置の知識がありません」
「装置は分からなくても、魔力の異常なら感じ取れる。危なくなったら、リディアを抱えて階段まで逃げるくらいはできる」
「抱えて……」
リディアの両腕が止まった。
その横で、フェンリスの耳がぴんと立つ。
「待って。だったら僕も残る」
「フェンリスたちは階段まで下がってくれ」
「和真だけ残るのはずるい!」
「ずるいとかじゃなくて、何かあった時に全員が巻き込まれないためだよ」
「なら、和真も下がってよ」
「俺は魔力の流れを見られる。少しは役に立てる」
「でも……」
納得できずにいるフェンリスへ、リディアが視線を向ける。
「和真の提案には合理性があります。異常を感知した場合、すぐに接続を止めます」
「リディアは和真を危ない目に遭わせない?」
「約束します」
フェンリスはしばらく黙ったあと、渋々階段へ下がった。
「絶対だからね」
「はい」
「少しでも変だと思ったら、すぐに戻ってきてよ。和真もだよ」
「ああ、分かってる」
フェンリスはひかげとみゆを連れ、階段の途中まで離れた。
地下室には、和真とリディアだけが残る。
リディアは黒い箱の上へ機械義手を置いた。
「接続を開始します」
小さな音とともに、枠へ取り付けられた二つの石が光り始める。
淡い青色の光が銀色の棒を走り、四角い枠を一周した。
地下室の空気が震える。
枠の内側にある壁が、水面のように揺らぎ始めた。
その瞬間、リディアの金色の瞳が大きく見開かれる。
機械義手の指が、黒い箱へ強く食い込んだ。
「リディア?」
「……問題ありません」
そう答えた声は、先ほどまでとは違っていた。
和真には聞き取れる程度の、僅かな震えが混じっている。
「本当に大丈夫か?」
「数値は正常です。接続位置にも、ずれはありません」
「装置じゃなくて、リディアのことを聞いてる」
「…………」
枠の内側で揺らめく光を見つめたまま、リディアは答えなかった。
空間が歪む音。
青白い光。
機械義手へ伝わる振動。
そのすべてが、忘れようとしても消えなかった光景を呼び起こしていた。
「止めるなら今でもいい」
和真が静かに告げる。
「無理をして完成させなくても、誰もリディアを責めない」
「……止めません」
リディアは黒い箱から手を離さなかった。
「今度は、失敗しません」
「今度は?」
「接続を続けます。異常はありません」
問いには答えず、リディアは機械義手から魔力を送り込んだ。
枠を満たしていた揺らぎが、少しずつ一枚の扉へ変わっていく。
古びた地下室には似合わない、金属製の扉だった。
中央には青い光が縦に走り、その左右へ幾つもの細かな文字が浮かんでいる。
扉が完全な形を取ると、地下室を満たしていた振動が止まった。
「……仮接続、完了しました」
リディアは大きく息を吐く。
その額には、僅かに汗が浮かんでいた。
「もう開けられるのか?」
「いいえ」
和真が扉へ近づこうとすると、リディアはすぐに機械義手を伸ばし、その胸元を遮った。
「まだ、開けないでください」
「確認が残ってるんだな?」
「はい。接続先が工房であることを確かめ、安全装置が正常に働いているか調べます」
「分かった。勝手には触らない」
「ありがとうございます」
リディアは和真との距離が近いことに気づき、慌てて腕を引いた。
階段で待っていた三人も、恐る恐る地下室へ戻ってくる。
みゆは現れた扉を見るなり、目を輝かせた。
「すごい! 本当に壁から扉が出てきた!」
「触らないでください」
「まだ近づいただけだよ!」
「近づく前に伝えました」
「リディア、僕の扱いだけ厳しくない?」
「事故を起こす可能性が最も高いと判断しています」
「会ったばかりなのに、どうして分かるのさ!」
「ここまでの行動から判断しました」
「和真! リディアがひどい!」
「間違ってはいないと思うぞ」
「和真まで!」
みゆの声が地下室へ響き、張りつめていた空気が少しだけ和らぐ。
フェンリスは扉よりも、和真とリディアの様子を交互に見ていた。
「二人とも、本当に何もなかった?」
「接続は成功しました」
「装置のことじゃなくて……」
「俺もリディアも無事だよ」
「ならいいけど」
フェンリスは和真の隣へ移動し、腕が触れそうなほど近くへ立った。
リディアはそれを一度だけ見たあと、扉の中央にある光へ機械義手をかざす。
「これから最終確認を行います。安全が確認できるまで、誰も扉へ触れないでください」
「確認が終わったら、中に入れるの?」
みゆが尋ねる。
「問題がなければ」
「工房の中には何があるの?」
「道具と設備です」
「面白い物は?」
「自分にとっては、すべて面白い物です」
「じゃあ、僕にも面白いかも!」
「触ることは禁止します」
「まだ入ってもいないのに!」
再び頬を膨らませるみゆを横目に、リディアは確認作業を始めた。
耳や角、尻尾を隠す道具を作るための場所。
空色唐辛子荘の地下に現れた金属の扉は、まだ固く閉ざされている。
その向こうに何があるのか、和真たちは知らない。
そして、先ほどリディアが口にした「今度は失敗しない」という言葉の意味も、まだ誰にも分からなかった。
リディアは扉の中央を走る青い光へ、右の機械義手をかざした。
表面に浮かんでいた細かな文字が、一つずつ上から緑色へ変わっていく。
「固定枠、異常なし。接続座標、正常。工房側の封鎖機構も作動しています」
「封鎖機構?」
和真が尋ねる。
「工房側で事故が発生した場合、こちらとの接続を自動で切断する装置です。炎や有害な煙、魔力の暴走が母屋へ流れ込むことを防ぎます」
「工房では、そんな事故が起きるの?」
フェンリスの耳が再び伏せられる。
「起こさないための封鎖機構です」
「でも、前に何かあったんだよね?」
みゆが扉を見ながら口を挟んだ。
「さっき、『今度は失敗しない』って言ってたし」
「…………」
リディアの手が止まる。
和真はみゆの頭へ軽く手を置いた。
「無理に聞くことじゃないだろ」
「でも、気になるじゃん」
「話したくないことは誰にでもある」
「……別に、隠すつもりはありません」
リディアは扉へ向いたまま答えた。
「以前、空間を接続する装置の実験中に事故を起こしました。接続先の座標を誤り、想定以上の魔力が装置へ流れ込んだことが原因です」
淡々とした説明だった。
だが、機械義手の指先は固く握られている。
「その事故で、腕を……?」
和真が静かに尋ねる。
「はい。両腕を失いました」
地下室から、みゆの明るい声が消えた。
ひかげが自分の両腕を抱き、俯く。
「自分以外にも、怪我人を出しました。死者はいませんでしたが、それは結果にすぎません。一歩間違えれば、さらに大きな被害が出ていました」
「だから、何度も確認してたの?」
フェンリスの問いに、リディアは小さく頷いた。
「確認を怠ったつもりはありませんでした。しかし、当時の自分は成功を急いでいました。異常を示す小さな数値を、許容範囲だと判断して作業を続けた。その判断が間違っていました」
リディアは右手で左腕へ触れる。
機械同士がぶつかり、硬い音を立てた。
「この腕を見るたびに思い出します。事故が起きた瞬間と、自分の判断で他人を巻き込んだことを」
「だったら……無理に工房をつながなくてもいいんじゃない?」
フェンリスの声から、先ほどまでの疑いが薄れていた。
「私たちの道具を作るために、また怖い思いをする必要はないよ」
「必要があります」
「どうして?」
「同じ失敗を繰り返さないためです」
リディアはフェンリスへ振り返った。
「事故が怖いからといって、すべての技術を捨てれば、失敗から学んだ意味も失われます。危険を理解し、対策を行い、安全に使用できる形へ完成させる。それが、事故を起こした自分の責任です」
「でも……」
「それに、自分は皆さんを助けると決めました」
リディアの視線が、最後に和真へ向く。
「ここで止めるつもりはありません」
「分かった」
和真はそれ以上止めなかった。
「ただし、少しでも異常を感じたら作業を中断してくれ。今度は一人で判断しなくていい。俺たちもここにいる」
「和真……」
「装置のことは分からないけど、異世界の魔力なら多少は分かる。できる範囲で手伝うよ」
リディアはしばらく和真を見つめたあと、僅かに顔を伏せた。
「……ありがとうございます」
機械義手の内部で、冷却機構が短く作動する。
みゆはその音へ反応したものの、今度は何も言わなかった。
リディアが最終確認を再開する。
浮かんでいた文字がすべて緑色へ変わると、扉の中央で青い光が二つに分かれた。
「確認が完了しました。接続に異常はありません」
「もう開けても大丈夫なのか?」
「はい。ただし、自分が先に入ります」
リディアは扉の横へ機械義手を当てた。
低い駆動音とともに、金属製の扉が左右へ開いていく。
その先に、地下室の壁はなかった。
白い光に照らされた、広大な空間が続いている。
正面には幾つもの作業台が並び、壁際には工具や部品が隙間なく収納されていた。
天井からは複数の機械腕が伸び、その奥には人が入れるほど大きな筒状の装置も見える。
地下室の壁の向こうにあるとは思えない広さだった。
「広っ!」
みゆが扉へ駆け寄ろうとする。
その襟を、今度はフェンリスがつかんだ。
「リディアが先って言っただろ」
「見るだけ!」
「中に入ってから見ればいい」
リディアは扉の境目を越え、一人で工房へ入った。
すぐ近くの操作盤へ触れ、室内の状態を確認する。
「空気、温度、魔力濃度、すべて正常です。入って構いません」
「やった!」
許可が出た途端、みゆが工房へ飛び込んだ。
「走らないでください」
「分かってる!」
「すでに走っています」
リディアに注意され、みゆは急停止した。
続いて和真、フェンリス、ひかげも扉をくぐる。
境目を越えた瞬間、和真は身体の周囲を薄い膜が通り抜けたような感覚を覚えた。
振り返れば、開いた扉の向こうに母屋の地下室が見えている。
「本当に別の場所へつながってるんだな……」
「この工房は、通常の空間から僅かに外れた場所へ固定されています」
「じゃあ、今ここは日本じゃないの?」
「日本の内部とも、外部とも言えます。入口の座標は空色唐辛子荘に固定しましたが、工房そのものに通常の位置はありません」
「よく分からないけど、すごい!」
みゆは理解することを早々に諦め、周囲を見回した。
作業台の上には、金属で作られた小さな動物や、半透明の板、用途の分からない球状の部品が並んでいる。
壁際には剣や盾らしき物まで立てかけられていた。
「これ、触ってもいい?」
「駄目です」
「これは?」
「駄目です」
「じゃあ、あっちは?」
「すべて駄目です」
「一個くらいいいじゃん!」
「どれも試作品です。作動した場合、何が起こるか保証できません」
みゆは伸ばしかけていた手を、すぐに引っ込めた。
「先に言ってよ……」
「最初から触らないよう伝えています」
フェンリスは工房の奥を見ながら、鼻を小さく動かした。
「金属と油の匂いがする」
「換気は行っていますが、完全に消すことはできません。不快ですか?」
「嫌いじゃないよ。初めて嗅ぐ匂いだから、気になっただけ」
「私も……少し、落ち着く匂いです……」
ひかげが小さく続ける。
「鍛冶場に……少し似ています……」
「自分の世界の工房も、鍛冶場から発展した物です。使用している技術は異なりますが、金属を加工する点は変わりません」
「ドワーフは、みんなリディアみたいに発明が得意なの?」
フェンリスが尋ねる。
「個人差があります。鍛冶、建築、魔道具、装飾品など、それぞれ専門が異なります」
「リディアは?」
「魔導機械と義肢、空間制御装置が専門です」
「義肢って、その腕みたいな物?」
「はい」
リディアは両腕を僅かに持ち上げる。
「身体の一部を失った者が使用する、人工の手足です。この両腕も、自分で設計しました」
「自分で自分の腕を作ったのか……」
和真が機械義手を見る。
指先は人間の手と変わらないほど細かく動き、工具まで内蔵されている。
見た目だけではない。
リディアが重い鞄を軽々と運んでいたことを考えれば、力も通常の腕を大きく上回っているはずだ。
「作るのに、どのくらいかかったんだ?」
「現在の形になるまで、三年ほどです。最初に作った物は、指を一本ずつ動かすこともできませんでした」
「三年……」
「改良は今も続けています。完成したとは考えていません」
リディアはそう答えながら、和真の視線が自分の腕へ向いていることを意識していた。
「……不快ですか?」
「え?」
「人の腕とは、大きく異なります」
「全然。むしろ、すごいと思ってる」
和真は迷わず答えた。
「両腕を失って、それでも自分で新しい腕を作ったんだろ。俺には真似できない」
「…………」
リディアの金色の瞳が僅かに見開かれる。
機械義手を恐れる者はいた。
便利な道具として興味を示す者もいた。
だが、腕を作るまでに重ねた努力を見ようとした者は多くない。
「和真は、リディアを褒めすぎ」
二人の間へ、フェンリスが割り込む。
「僕たちの道具を作るんじゃなかったの?」
「そうだった。何から始めるんだ?」
「最初に、三人の身体と魔力の流れを測定します」
リディアは気持ちを切り替えるように作業台へ向かった。
壁の操作盤を動かすと、奥から三本の支柱に囲まれた円形の台がせり上がってくる。
みゆが警戒するように二本の尻尾を揺らした。
「また危なくない装置?」
「測定するだけです。痛みはありません」
「変な光が出たりしない?」
「出ます」
「出るんだ……」
「身体を傷つける光ではありません」
リディアは作業台から三つの薄い金属板を取り出した。
「耳や角、尻尾を消すのではなく、周囲から人間と同じ姿に見えるよう、光と認識へ干渉します。しかし、三人は種族も身体構造も異なります」
金属板の一枚へ、フェンリスの姿が立体的に映し出される。
「フェンリスは狼耳と一つの大きな尻尾。ひかげは牛耳、角、尻尾。みゆは猫耳と二本の尻尾。それぞれ隠す範囲も、流れる魔力の量も違います」
「私の前髪は……そのまま、ですよね……?」
ひかげが不安そうに、自分の目を隠している長い前髪へ触れた。
「はい。隠すのは人間に存在しない部位だけです。髪や衣服、顔には干渉しません」
「よかった……」
ひかげは安心したように胸元へ手を置いた。
「道具は何個つけるの?」
フェンリスが尋ねる。
「一人につき一つです。日常的に使用できるよう、小型の装飾品にします」
「僕、首輪は嫌だよ」
みゆが先に希望を口にする。
「誰も首輪にするとは言っていません」
「でも、猫だからって首につける物を作りそうじゃん」
「装着位置は本人に選んでもらいます。腕輪、首飾り、髪飾り、耳飾りなどが候補です」
「耳を隠すのに、耳飾りをつけるの?」
「装置を起動すれば、耳飾りも含めて見え方を調整できます」
「それなら、僕は腕輪がいい」
「僕も腕輪かな」
フェンリスが自分の手首を見る。
「無くしにくそうだし、動く時も邪魔にならないから」
「私も……同じ物で、大丈夫です……」
ひかげも遠慮がちに答える。
リディアは三人の希望を記録した。
「では、腕輪型で統一します。ただし、内部構造は一人ずつ異なる物になります。他人の物を身につけても正常には作動しません」
「間違えないようにしないとね」
「外見を変えます。色や模様に希望はありますか?」
「僕は赤!」
フェンリスが真っ先に答える。
「私は……黒か、紫が……いいです……」
「僕は水色!」
三人の希望を聞き、リディアは再び記録する。
「分かりました。測定を始めます。最初は誰にしますか?」
三人が円形の台を見る。
誰もすぐには動かなかった。
「痛くないんだよね?」
フェンリスが確認する。
「はい。数十秒、光の中に立つだけです」
「だったら、僕が最初にやる」
フェンリスは和真を一度見たあと、円形の台へ上がった。
「何かあったら、すぐ助けてよ」
「ああ。でも、リディアを信用して任せよう」
「……うん」
リディアが操作盤へ触れる。
「両腕を自然に下ろし、動かないでください。尻尾も可能な範囲で止めてください」
「尻尾は勝手に動く時があるんだけど」
「感情を抑えてください」
「それができたら苦労しないよ」
フェンリスが和真を見る。
直後、大きな尻尾が左右へ揺れ始めた。
「和真を見ない方が測りやすいと判断します」
「どうして!?」
「尻尾の動きが大きくなりました」
「これはたまたま!」
「フェンリス、少しだけ我慢してくれ」
「和真まで……」
フェンリスは不満そうにしながら、和真へ背を向けた。
ようやく尻尾の動きが小さくなる。
リディアが装置を起動すると、三本の支柱から淡い光が伸び、フェンリスの身体を包み込んだ。
「わっ……」
「動かないでください」
「くすぐったい!」
「身体には触れていません」
「でも、耳の周りが変な感じする!」
狼耳が何度も動き、そのたびに操作盤の数値が変化する。
リディアは表示を確認しながら、機械義手を素早く動かした。
「耳の動きも記録します。そのまま続けてください」
「止めろって言ったり、動かせって言ったり、どっちなのさ!」
「尻尾は止めて、耳は自然に動かしてください」
「注文が多いよ!」
不満を口にしながらも、フェンリスは台から下りなかった。
数十秒後、周囲の光が消える。
「測定完了です」
「もう動いていい?」
「はい」
許可を得たフェンリスは、すぐに台から飛び下りた。
そのまま和真のもとへ向かい、自分の耳へ触れる。
「何も変わってない?」
「ああ。いつも通りだよ」
「よかった……」
「次は私が……」
ひかげが勇気を出し、円形の台へ向かう。
だが、途中で足を止めた。
「角……機械に、ぶつかりませんか……?」
「十分な幅があります。身長と角の位置も確認済みです」
「それなら……大丈夫、です……」
ひかげは身体を小さくしながら台へ上がった。
測定が始まると、牛耳が緊張したように震える。
尻尾も脚の後ろへ隠れるように垂れていた。
「力を抜いてください」
「は、はい……」
「ひかげ、大丈夫だぞ」
和真が声をかけた途端、ひかげの尻尾が大きく跳ね上がった。
同時に、操作盤から短い警告音が鳴る。
「えっ……?」
「魔力出力が上昇しました。危険はありませんが、落ち着いてください」
「ご、ごめんなさい……!」
ひかげの顔が赤くなり、長い前髪の奥へさらに隠れようとする。
「和真は測定が終わるまで話しかけないでください」
リディアが淡々と告げる。
「俺のせいなのか?」
「数値上は、その可能性が高いです」
「和真、こっちに来て」
フェンリスが和真の腕を引き、測定台から離れさせる。
「どうしてフェンリスまで……」
「いいから。ひかげの測定が終わらないだろ」
和真が離れると、ひかげの魔力も少しずつ落ち着いていった。
測定は無事に終わり、最後にみゆが台へ上がる。
「僕は一回で終わらせるよ」
「動かないでください」
「任せて!」
自信満々に答えた直後、みゆは周囲から照らされる光を目で追い、首を動かした。
「動かないでください」
「光が気になるんだってば」
「目を閉じても構いません」
「それだと何が起きてるか見えないじゃん」
「見る必要はありません」
二本の尻尾も光を追うように別々の方向へ動いている。
測定値が安定せず、三人の中で最も時間がかかった。
「みゆ。止まってくれ」
和真が注意する。
「止まってるよ!」
「尻尾が動いてる」
「尻尾は別!」
「身体の一部です」
リディアの言葉に、みゆは渋々二本の尻尾を両手で抱えた。
ようやく数値が安定し、最後の測定も終わる。
「必要な情報は集まりました」
リディアは三人分の記録を作業台へ並べた。
「これから試作品を製作します」
「どのくらいかかる?」
「基本構造はすでに作ってあります。三人分の調整を含め、早ければ今日中に完成します」
「今日中に?」
和真が驚いて記録を見る。
「一から作るわけではありません。動画を確認した時点で、必要になる可能性を考え、準備を進めていました」
「ここへ来る前から、作るつもりだったのか?」
「はい」
「俺たちが断るとは思わなかった?」
「その場合は、持ち帰る予定でした」
リディアは作業台の下から、三つの小さな金属ケースを取り出した。
蓋を開けると、中には装飾のない銀色の腕輪が一つずつ収められている。
「これが基礎となる装置です。測定した情報を書き込み、外見と大きさを調整します」
「もうほとんどできてるじゃん!」
みゆが覗き込む。
「まだ起動できません。ここからが最も重要な工程です」
リディアは工房の奥にある作業台へ三つの腕輪を運ぶ。
天井から伸びた機械腕が動き、細い工具や複数の魔石が自動で並べられていった。
「製作中は何が起こるか分かりません。皆さんは、扉の近くで待っていてください」
「手伝えることはないのか?」
和真が尋ねる。
「ありません」
即答したあと、リディアは僅かに言葉を止めた。
「……ただ、近くにいてもらえると助かります」
「分かった。ここで見てるよ」
「ありがとうございます」
リディアは和真へ背を向け、作業台の前に立った。
機械義手の指先が開き、幾つもの細い工具が現れる。
天井の機械腕と両腕を同時に動かしながら、三つの腕輪へ部品を組み込んでいく。
その動きに迷いはなかった。
小さな魔石を削り、髪の毛よりも細い魔力線を接続し、測定した情報を一つずつ装置へ書き込む。
先ほどまで事故の記憶に震えていた姿は、そこにはない。
作業を始めたリディアは、誰よりも冷静で、正確だった。
「すごい……」
フェンリスが思わず呟く。
「腕が何本もあるみたい」
「どれがどう動いてるのか、全然分からないよ」
みゆも今度ばかりは勝手に近づかず、離れた場所から作業を見守っている。
ひかげは並べられていく細かな部品を見ながら、静かに息を呑んだ。
しばらくして、作業台の上で赤い光が灯る。
リディアの手が止まった。
「……フェンリスの試作品ができました」
「もう?」
「外見の仕上げは後ですが、機能の確認はできます」
リディアが振り返る。
その手には、赤い石が一つ埋め込まれた銀色の腕輪が載せられていた。
「最初の起動試験を行います」
フェンリスの狼耳が緊張したように立ち上がる。
「本当に、耳と尻尾が見えなくなるの?」
「成功していれば」
「失敗したら?」
「何も変わらないか、一部だけ薄く見えます。身体への影響が出る出力には設定していません」
フェンリスは腕輪とリディアを交互に見る。
そのあと、和真へ視線を向けた。
「和真も、そばにいて」
「ああ」
和真が隣へ立つと、フェンリスは意を決して左腕を差し出した。
リディアはその手首へ、赤い石のついた腕輪を装着する。
「痛みや違和感があれば、すぐに伝えてください」
「分かった」
「起動します」
リディアが腕輪の石へ触れた。
赤い石の中心に、小さな青い光が灯る。
次の瞬間、フェンリスの身体を淡い光が包み込んだ。
銀髪の上で動いていた大きな狼耳が、輪郭を失っていく。
同時に、背後で揺れていた特大の尻尾も、先端から少しずつ透明になった。
数秒後。
和真たちの前には、どこから見ても普通の人間にしか見えないフェンリスが立っていた。
「……消えた」
和真が驚きながら呟く。
「えっ?」
フェンリスは頭へ手を伸ばした。
何もないように見える場所で、その手が見えない狼耳へ触れる。
「ある。ちゃんと触れるよ!」
背後へ手を回すと、そこには見えなくなった大きな尻尾も残っていた。
「本当に、見えないだけなんだ……」
フェンリスは近くにあった金属板へ、自分の姿を映す。
そこにいるのは、狼耳も尻尾もない銀髪の女性だった。
この世界へ来てから、どうしても隠すことのできなかった部分が消えている。
「これなら……」
フェンリスは映った自分を見つめたまま、赤い瞳を僅かに潤ませた。
「これなら、また和真と外を歩けるの?」
フェンリスは金属板に映る自分から目を離し、和真を振り返った。
「ああ。これなら、普通に外へ出られる」
「本当に?」
「少なくとも、耳や尻尾を見て騒がれることはないよ」
和真が答えると、フェンリスは自分の頭へ何度も触れた。
狼耳は確かに存在している。
手のひらには柔らかな毛の感触も伝わってくる。
それなのに、金属板へ映る姿には人間と同じ耳があり、頭上の狼耳も、背後の大きな尻尾も見当たらなかった。
「変な感じ……。耳はここにあるのに、人間の耳が見える」
「人間の耳を新しく作ったわけではありません」
リディアが腕輪の数値を確認しながら説明する。
「周囲から、そのように見える映像を重ねています。同時に、狼耳と尻尾へ意識が向きにくくなるよう認識にも干渉しています」
「触られたら?」
「存在そのものは消えていないため、触れることはできます」
リディアは見えなくなったフェンリスの尻尾へ手を近づける。
「触れても構いませんか?」
「リディアならいいよ」
「では、失礼します」
機械義手の指先が尻尾へ触れる。
見た目には何もない場所で、リディアの手が柔らかな何かに押し返された。
「きゃっ」
フェンリスの身体が跳ねる。
「急に触られると、くすぐったい!」
「感覚にも異常はありません」
「確認するなら、もう少し優しくしてよ」
「申し訳ありません」
リディアはすぐに手を離した。
「人混みでは、尻尾を踏まれたり、誰かへぶつけたりしないよう注意してください。装置は姿を隠すだけで、身体を小さくする物ではありません」
「僕の尻尾、かなり大きいからなあ……」
フェンリスは見えない尻尾を自分の前へ抱き寄せた。
腕の中には確かに収まっているはずだが、外からは何も持っていないように見える。
「それと、装置を使っている間も耳や尻尾を隠している意識は忘れないでください」
「見えないのに?」
「何もない場所へ手を伸ばせば、不自然に見えます。尻尾で物を動かした場合も同様です」
「そっか。物まで消えるわけじゃないんだね」
「はい。衣服や持ち物は対象外です」
フェンリスは頷きながら、何度か頭へ伸ばしかけた手を止めた。
「慣れるまで、触らないようにしないと」
「その前に、もう少し確認します」
リディアはフェンリスの周囲を一周し、角度を変えながら姿を調べる。
正面、左右、背後。
どこから見ても狼耳や尻尾は見えない。
髪の形にも不自然な部分はなく、本来狼耳がある場所は、最初から何もなかったように銀髪で覆われていた。
「歩いてください」
「ここで?」
「はい。普段通りに動いてください」
フェンリスは作業台の周囲を歩き始めた。
見えない尻尾が左右へ揺れるたび、腕輪の赤い石が僅かに明滅する。
「もっと速く」
「分かった」
今度は軽く走る。
途中で方向を変え、身体を沈めてから一気に跳び上がった。
「フェンリス、工房の中だぞ」
和真が慌てて声をかける。
「これくらいなら平気だよ」
フェンリスは着地すると、その場で身体をひねった。
元冒険者らしい素早い動きだった。
それでも狼耳と尻尾が現れることはない。
「動作中も安定しています」
リディアが数値を確認する。
「魔力の消費も想定範囲内です」
「ずっと使えるの?」
「フェンリス自身の魔力を僅かに利用しているため、基本的に時間制限はありません。ただし、眠る時や入浴時は外してください」
「どうして?」
「睡眠中は魔力の流れが変化します。長時間つけたまま眠ると、起床時に疲労を感じる可能性があります」
「分かった。外へ出る時だけ使う」
「それが安全です」
リディアは腕輪の側面へ工具を当て、出力を僅かに下げた。
「これでフェンリスの調整は完了です」
「じゃあ、次は私?」
ひかげが測定台のそばで、自分の角へ触れる。
「はい。ひかげの装置を仕上げます」
リディアは作業台へ戻り、残る二つの腕輪へ手を伸ばした。
ひかげ用の腕輪には紫色の石。
みゆ用には水色の石が埋め込まれている。
測定した情報を書き込み、内部の魔力線を調整する。
先ほどまでより作業は早かった。
一つ目の装置で基本構造が正常に動くことを確認できたため、残る二つも同じ工程で仕上げられる。
それでもリディアは、作業の節目ごとに必ず手を止めた。
数値を確認し、別の測定器でも同じ結果が出ることを確かめてから、次の部品へ進む。
誰も急かさなかった。
みゆも今度は作業台へ近づかず、和真の隣からリディアの手元を見ている。
「腕がいっぱい動いてるみたいで、やっぱり格好いい」
「静かに見てろよ」
「分かってる。でも、あの天井の腕、一つくらい欲しいな」
「何に使うんだ?」
「寝たままお菓子を取る」
「絶対に渡せません」
作業中のリディアが即答した。
「聞こえてたの?」
「工房内の会話は聞こえています」
「便利そうなのに」
「用途が怠惰すぎます」
「自分で取りに行くより効率的だよ?」
「効率という言葉を、そのような目的で使わないでください」
みゆが不満そうに頬を膨らませる。
そのやり取りに、フェンリスが小さく笑った。
しばらくして、紫色の腕輪が完成する。
「ひかげ、こちらへ」
「は、はい……」
ひかげは緊張した様子でリディアの前へ立った。
差し出された左手首へ腕輪が装着される。
「起動します。動かないでください」
「分かりました……」
紫色の石に青い光が灯った。
ひかげの牛耳と角、細い尻尾が淡い光に包まれる。
輪郭が薄くなり、やがて完全に見えなくなった。
頭部から角が消えたことで、黒髪の形が自然に整えられていく。
長い前髪だけは変わらず、ひかげの目元を完全に覆っていた。
「どうでしょうか……?」
ひかげは自分の頭へ触れず、恐る恐る尋ねる。
「ちゃんと人間に見えるよ」
和真が答える。
「角も耳も尻尾も見えない。でも、ひかげだってすぐ分かる」
「私のまま……ですか?」
「ああ。前髪も髪の色も、そのままだ」
「よかった……」
ひかげは安心したように胸元へ両手を重ねた。
リディアから金属板を受け取り、自分の姿を映す。
角のない自分を見るのは初めてだった。
長い前髪に隠れた顔も、黒を基調とした服装も変わっていない。
違うのは、人間には存在しない特徴だけだった。
「これなら……外でも、見られませんか……?」
「珍しい髪型や服装として見られる可能性はあります。しかし、異世界人だと疑われる理由は大きく減ります」
「それなら……大丈夫です」
「少し歩いてください。角の周囲に違和感がないかも確認します」
ひかげは作業台の周りをゆっくり歩いた。
途中で身体を屈め、頭上を確認する。
「角は……ぶつかりませんよね……?」
「見えないだけで存在しています。低い場所を通る時は、これまで通り注意してください」
「やっぱり……そうですよね……」
「感覚は変わらないため、今までと同じように動けば問題ありません」
歩いても認識への干渉は安定していた。
魔力の出力にも異常はない。
「ひかげの調整も完了です」
「ありがとうございます……」
ひかげが深く頭を下げかける。
見えない角を作業台へぶつけそうになり、リディアが機械義手で額の前を押さえた。
「角は残っています」
「あ……」
「だから、今まで通りでいいと言いました」
「ご、ごめんなさい……」
「謝る必要はありません。慣れるまでは注意してください」
最後に、みゆ用の腕輪が完成する。
「待ってました!」
名前を呼ばれる前に、みゆが作業台へ駆け寄った。
「走らないでください」
「早歩きだよ」
「走っていました」
「細かいことはいいから、早くつけて!」
みゆは左腕を差し出す。
リディアはすぐには装着せず、みゆの顔を見た。
「起動後も、勝手に装置を操作しないと約束できますか?」
「できる」
「内部を開けないと約束できますか?」
「できるよ」
「工具を使って分解しないと約束できますか?」
「僕、工具なんて持ってないし」
「工房から持ち出す可能性があります」
「信用がなさすぎない!?」
「約束できますか?」
「……約束する」
みゆは渋々頷いた。
それを確認し、リディアが水色の腕輪を装着する。
「起動します」
石が光り、みゆの頭にある猫耳と、腰から伸びた二本の尻尾を包み込んだ。
猫耳は髪の中へ溶けるように消え、代わりに人間と同じ耳が髪の横から現れる。
二本の尻尾も見えなくなった。
短い桃色の髪と、跳ねた前髪だけが残っている。
「どう?」
みゆは両手を広げ、その場で一回転した。
「人間に見える?」
「ああ。猫耳も尻尾も見えない」
「本当に?」
みゆは作業台の金属板へ顔を近づける。
「人間の耳がある!」
「映像として、そのように見せています」
「触れるの?」
みゆが人間の耳へ指を伸ばす。
だが、指先は何もない場所を通り抜け、髪へ触れた。
「変なの。見えるのに触れない」
「実際の耳は頭上に残っています」
リディアが答えると、みゆはすぐに猫耳がある場所へ手を伸ばした。
「本当だ。ちゃんとある」
「外では触らないでください」
「分かってるよ」
そう答えながら、みゆは何度も見えない猫耳を撫でている。
「今の行動を見る限り、理解しているとは思えません」
「今は工房の中だからいいでしょ」
「外へ出る前に癖を直してください」
「僕だけ注意が多い!」
「実際に問題となる行動が多いからです」
「和真、リディアがまたいじめる!」
「注意されるようなことばかりするからだろ」
「和真までリディアの味方するの?」
みゆは不満そうに和真の腕へ抱きついた。
その瞬間、見えない二本の尻尾が大きく揺れ、近くに置かれていた小さな金属箱へぶつかる。
箱が床へ落ちる直前、リディアの機械義手が素早く伸びた。
指先で箱を受け止め、元の場所へ戻す。
「今のようなことが起こります」
「…………」
「尻尾が見えないことを忘れないでください」
「はい……」
みゆはようやく反省し、見えない尻尾を身体の前へ抱えた。
三人の装置が完成すると、リディアは改めて腕輪の状態を確認した。
赤、紫、水色。
色は異なるが、形は揃っている。
「三つとも正常に作動しています。ただし、まだ工房内で確認しただけです」
「外でも試す必要があるんだな?」
和真が尋ねる。
「はい。太陽光や街灯、鏡、撮影機器を通した場合にも、正常に見えるか確認します」
「撮影機器にも効くの?」
「光そのものへ干渉するため、通常のカメラなら人間の姿で記録されます。ただし、魔力を検知する装置や特殊な観測機器までは欺けません」
「この世界に、そんな物はないと思う」
「なら、問題ありません」
一行は工房を出て、母屋の地下室へ戻った。
リディアは扉の接続状態をもう一度確認し、異常がないことを確かめてから扉を閉じる。
「工房の入口は、常に閉めておいてください」
「鍵はかかるのか?」
「自分と和真だけが開けられるよう設定します」
「俺も?」
「この母屋の所有者だからです。事故や異常が発生した際、自分しか開けられない状態は危険です」
「分かった。でも、勝手に入ったりはしないよ」
「和真なら、問題ありません」
リディアは即答した。
「僕たちは?」
みゆが尋ねる。
「許可なく入ることは禁止します」
「僕だけじゃなくて?」
「全員です」
「ならいいや」
「何がいいんだよ……」
和真は呆れながら地下室の照明を消した。
母屋へ戻ると、リディアは三人を窓際へ並ばせた。
カーテンの隙間から差し込む日差しを当て、姿を確認する。
太陽光の下でも、耳や角、尻尾が浮かび上がることはなかった。
和真のスマートフォンで撮影しても、画面には人間の姿が映っている。
「写真でも大丈夫だ」
和真が三人へ画面を見せる。
「僕、普通の女の子に見える!」
みゆが嬉しそうに声を上げる。
「僕だって普通だよ」
フェンリスが頬を膨らませる。
「そういう意味じゃないって。人間の女の子ってこと」
「分かってるけど……」
フェンリスは画面に映る自分の姿を見つめた。
隣には角のないひかげと、猫耳のないみゆがいる。
昨日までなら、このような写真を撮ることさえできなかった。
「外に出てみよう」
フェンリスが言った。
「今から?」
「ちゃんと外でも大丈夫か確認するんだろ?」
「敷地の中だけにしよう。道路の向こうに、まだ誰かいるかもしれない」
「うん。それでいい」
和真は先に玄関へ向かい、外の様子を確かめた。
敷地の前に集まっていた者たちは、さらに減っている。
道路の向こうには二人残っているが、母屋へスマートフォンを向けてはいなかった。
「今なら大丈夫そうだ」
玄関を開け、最初に和真が外へ出る。
続いてフェンリス、ひかげ、みゆが恐る恐る敷居をまたいだ。
三人とも、外へ出た直後に足を止める。
昨日から、窓の向こうに誰かがいるだけで身を隠していた。
今も道路の向こうには人がいる。
それでも、こちらへ向けられる視線は以前とは違った。
狼耳にも、牛の角にも、猫耳や二本の尻尾にも目を奪われない。
ただ、母屋から出てきた数人を何となく見ているだけだった。
「……見られてない」
フェンリスが呟く。
「少しは見られてるけど、前とは違うな」
「うん。耳も尻尾も探してない」
フェンリスは和真の隣へ並んだ。
外の空気を吸い、大きく伸びをする。
その背後では、見えない尻尾が嬉しそうに揺れていた。
「外だ!」
みゆも庭へ駆け出す。
「みゆ、走るな!」
「これくらい平気!」
二本の尻尾が見えないまま激しく動き、近くを歩いていたひかげの脚へ触れた。
「ひゃっ……」
ひかげが驚いて足を止める。
「ごめん、ひかげ!」
「だ、大丈夫です……」
「だから、尻尾に注意してください」
玄関前に立つリディアが、すぐに指摘する。
「まだ慣れてないだけだよ!」
「外では、その言い訳は通用しません」
「分かってるってば……」
みゆは歩く速度を落とした。
道路の向こうにいた男の一人が、和真たちへ気づく。
その男は昨日も空色唐辛子荘を見ていた者だった。
「なあ、あの人たち……」
隣にいる者へ声をかけ、フェンリスたちを見る。
和真はいつでも三人を母屋へ戻せるよう、様子をうかがった。
「動画の人じゃないの?」
「違うだろ。耳も尻尾もないし」
「でも、髪とか似てない?」
「コスプレしてないなら、ただの住人じゃないの」
二人はしばらくこちらを見ていたが、スマートフォンを取り出すことはなかった。
やがて興味を失ったように、その場を離れていく。
三人は声が聞こえなくなるまで動かなかった。
「……行った」
フェンリスの声が僅かに震える。
「ああ」
「僕たちを追いかけなかった」
「もう、昨日みたいに隠れなくてもよさそうだな」
和真が答えると、フェンリスは嬉しそうに笑った。
「和真!」
勢いよく抱きつこうとして、途中で足を止める。
道路から見える場所だと思い出したらしい。
代わりに和真の服の裾をつかみ、その隣へ並んだ。
「今度、また買い物に行こう」
「ああ。騒ぎが落ち着いたら、みんなで行こう」
「約束だからね」
「分かってるよ」
「私も……一緒に、行っていいですか……?」
ひかげが遠慮がちに尋ねる。
「もちろん。みゆも一緒だ」
「僕は最初から行くつもりだよ!」
「勝手にどこかへ行くなよ」
「子供じゃないんだから大丈夫!」
「その台詞、前にも聞いた気がするな」
「今度は本当に大丈夫だって!」
賑やかな声が庭へ広がる。
昨日から空色唐辛子荘を覆っていた重苦しい空気が、少しずつ薄れていった。
リディアは玄関前から、その様子を見つめていた。
三人が喜んでいる。
自分の作った物が、追い詰められていた異世界人の生活を取り戻した。
その事実に、胸の奥が僅かに軽くなる。
同時に、和真の隣で笑うフェンリスを見て、別の感情も浮かんでいた。
「リディア」
突然名前を呼ばれ、リディアの肩が小さく跳ねた。
いつの間にか、和真が目の前まで戻ってきている。
「何でしょうか」
「本当にありがとう」
「……礼は不要です」
「それでも言わせてくれ。リディアが来てくれなかったら、三人はまだ外へ出られなかった」
「自分は、できることをしただけです」
「そのできることに、俺たちは助けられたんだ」
和真は真っ直ぐリディアを見る。
「ありがとう、リディア」
再び名前を呼ばれ、機械義手の冷却機構が短く作動した。
「また腕が鳴った」
少し離れた場所にいたみゆが、すぐに気づく。
「外気温による調整です」
「今日はそんなに暑くないよ?」
「日光の影響です」
「さっきまで工房にいたからじゃない?」
「みゆ」
フェンリスが名前を呼ぶ。
「今はいいだろ。せっかくリディアが作ってくれたんだから」
「僕は気になっただけだよ」
「だったら、あとにして」
フェンリスはまだリディアへの警戒を完全には解いていない。
それでも、自分たちを助けてくれたことには素直に感謝しているようだった。
「リディアも、今日はここで食べていくだろ?」
和真が尋ねる。
「自分は、工房へ戻ります」
「もう昼を過ぎてる。何も食べてないんじゃないか?」
「作業を優先していたため、食事は取っていません」
「だったら一緒に食べよう。大した物は作れないけど」
「和真さんは……料理、できません……」
ひかげが小さく訂正する。
「いや、簡単な物なら作れるからな?」
「前に……目玉焼きを、焦がしていました……」
「火が強かっただけだよ」
「なら、僕が作る!」
みゆが手を上げる。
「みゆに任せて大丈夫か?」
「失礼だなあ。簡単な料理くらいできるよ」
「盗ってきた食材は使うなよ」
「もうしないってば!」
「私も……手伝います……」
「ひかげがいるなら安心だな」
「和真、僕は?」
「フェンリスも手伝ってくれるか?」
「もちろん。僕だって料理くらいできるよ」
全員が母屋へ戻り始める。
リディアだけが玄関前に残り、どうするべきか迷っていた。
作業は終わった。
本来なら、工房へ戻って調整内容を記録するべきだ。
それでも、和真ともう少し一緒にいたいという気持ちが、足を止めている。
「リディア?」
玄関から和真が振り返る。
「来ないのか?」
「……食事を取ることには、合理性があります」
「普通に食べたいって言えばいいのに」
みゆが笑う。
「体調を維持するために必要だと判断しただけです」
「はいはい。そういうことにしておくよ」
リディアはみゆを一度見たあと、和真のそばへ向かった。
母屋へ入る直前、道路の方を振り返る。
もう、門の前に立ち止まっている者はいなかった。
拡散された動画が完全に消えたわけではない。
また誰かが訪れる可能性もある。
けれど、三人が耳や角、尻尾を隠せるようになったことで、同じ騒ぎが繰り返される危険は大きく減った。
その日の昼食は、いつもより一人分多くなった。
ひかげとフェンリスが料理を作り、みゆが味見と称して何度もつまみ食いをする。
和真は食器を並べ、リディアは何をすればいいのか分からないまま台所の入り口に立っていた。
「リディア、そこの皿を運んでくれるか?」
「分かりました」
和真に頼まれ、リディアは両手で皿を持ち上げる。
機械義手なら、すべての料理を一度に運ぶこともできる。
それでも今は、他の者と同じように一枚ずつ食卓へ並べた。
やがて五人が席につく。
「いただきます」
和真の声に続き、全員が手を合わせる。
リディアは少し遅れて、同じように機械の両手を合わせた。
空色唐辛子荘の地下には、新たに亜空間工房へ続く扉が設置された。
そして食卓には、新たな異世界人のための席が一つ増えていた。




