第七十一話 酒菜の小さな変化
年が明けてから、空色唐辛子荘には少しばかり変化が訪れていた。
もっとも、その変化に気づいている者は、まだほとんどいない。
紅月が和真とあおいに甘えるようになり、母屋は以前にも増して賑やかになった。
朝になれば紅月が和真を起こし、あおいがその世話を焼く。
そんな二人を見て、住人たちはすっかり親子のようだと笑っていた。
しかし、もう一つ。
誰にも知られていない、小さな変化があった。
それは――酒菜のことである。
***
――カチャ、カチャ……。
まだ日が昇りきらない早朝。
母屋の台所では、酒菜が朝食の準備を進めていた。
「……よし。こんなもんか」
右手で包丁を操り、手際よく野菜を切り分けていく。
肩から先のない左腕。
かつては不自由を感じることも多かったが、今では片腕だけでも大抵の料理をこなせる。
鍋の中では味噌汁が湯気を立て、焼き魚の香ばしい匂いが台所に漂っていた。
「……ん?」
ふと、酒菜が手を止める。
廊下から足音が聞こえた。
「おはよう、酒菜」
「おう。和真か。ずいぶん早いな」
台所に顔を出したのは、まだ少し眠たそうな和真だった。
「なんか目が覚めちゃってさ。手伝えることある?」
「別にねえよ。もう大体終わってる」
「そっか。じゃあ、お茶でも淹れようかな」
「……ああ」
いつも通りの会話。
少なくとも、表面上は。
しかし、和真が湯呑みを取り出そうと背を向けた瞬間。
「……和真」
「ん?」
「ちょっとこっち来い」
「どうした?」
呼ばれるまま近づくと、酒菜はちらりと廊下を確認した。
誰もいない。
それを確かめると――。
すっ。
酒菜の右腕が、和真の腰に回された。
「えっ?」
「……少しだけだ」
そのまま、酒菜は和真の胸元に額を寄せた。
「酒菜?」
「……黙ってろ」
いつもの威勢のよさは、どこにもない。
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、その声は驚くほど柔らかかった。
和真は一瞬戸惑ったものの、すぐに優しく彼女の背中に手を添えた。
「……おはよう、酒菜」
「……おう」
しばらく、二人はそのままでいた。
酒菜にとって、誰かにこうして甘えるという行為は、ずいぶん久しぶりのことだった。
夫を失い、子供たちを失い。
すべてを奪われたあの日から、誰かに寄りかかることなど考えもしなかった。
まして、自分から抱きつくなど。
以前の自分なら、鼻で笑っていただろう。
だが、今は違う。
和真の温もりを感じていると、不思議と心が落ち着く。
そして何より――。
「……なあ、和真」
「ん?」
「もうちょっと、このままでいいか?」
「もちろん」
「……そうか」
酒菜は小さく笑った。
それは普段、住人たちに見せる豪快な笑顔とはまるで違う、穏やかなものだった。
しかし――。
「かーずまー!」
「うわっ!?」
突然、二階から元気な声が響いた。
「和真ー! どこじゃー!?」
「……っ!」
酒菜が弾かれたように身体を離した。
「お、おい! 誰か来るぞ!」
「う、うん!」
「何をぼさっとしてやがる! さっさと茶を淹れろ!」
「ええっ!?」
数秒前まで胸に顔を埋めていた人物とは思えない変わり身だった。
酒菜は何事もなかったように鍋へ向き直り、和真も慌てて急須を手に取る。
そこへ――。
「和真!」
パタパタと廊下を走ってきた紅月が、勢いよく台所へ飛び込んできた。
「おお! ここにおったのか!」
「おはよう、紅月」
「おはようじゃ!」
紅月は満面の笑みを浮かべると、和真の腰に抱きついた。
「わっちが起きたら、和真がおらなんだ!」
「ごめんごめん。ちょっと早く目が覚めちゃってね」
「むぅ……起きるなら、わっちも起こしてくれればよいのに」
「気持ちよさそうに寝てたからさ」
「それでもじゃ!」
頬を膨らませる紅月。
そんな様子を見て、酒菜が豪快に笑った。
「はははっ! お前は本当に和真が好きだな!」
「うむ! 大好きじゃ!」
「そいつはよかったな、和真!」
「はは……」
和真が苦笑する。
だが、その直後。
酒菜と目が合った。
「…………」
「…………」
ほんの一瞬。
酒菜の頬が赤く染まった。
そして、すぐに顔を逸らす。
「……ったく。朝から騒がしい奴らだ」
いつもの酒菜だった。
――いや。
和真だけは知っている。
今の酒菜が、少しだけ照れていることを。
***
その後、母屋の食堂には次々と住人たちが集まってきた。
「ふあぁ……おはよう、みんな……」
眠そうに目を擦りながらやって来たフェンリス。
その後ろから、みゆがひょこっと顔を出す。
「おはよー! あっ、和真! もう起きてたんだ!」
「うん。今日は早く目が覚めてね」
「えー、だったら僕も起こしてくれればよかったのに」
「みゆまでそれ言う?」
「だって、和真と一緒にいたいもん」
みゆは当然のように和真の腕に抱きついた。
「むっ!」
すると、反対側にいた紅月が頬を膨らませる。
「和真は今、わっちと一緒なのじゃ!」
「えー? 和真は紅月だけのものじゃないよ?」
「わっちが先じゃ!」
「早い者勝ちなの?」
「そうじゃ!」
「じゃあ、僕も早起きしないとね!」
みゆが楽しそうに笑う。
一方、フェンリスは二人を見て眉を下げた。
「……僕も和真にくっつきたい」
「フェンリスまで!?」
「だって……」
フェンリスが上目遣いで和真を見る。
「最近、紅月ばっかりなんだもん……」
「あはは……」
和真が困ったように笑っていると、奥から声が飛んできた。
「お前ら! 朝っぱらから和真の取り合いしてんじゃねえ!」
酒菜だった。
「ほら! 飯ができてんだ! さっさと座れ!」
「はーい!」
「……うん」
「わかったのじゃ!」
三人が素直に席へ向かう。
そんな光景を見ながら、和真は思わず笑みを浮かべた。
「酒菜がいると助かるよ」
「……っ!」
まただ。
ほんの一瞬、酒菜の表情が緩んだ。
「……ば、馬鹿野郎。これくらい当たり前だろ」
「うん。いつもありがとう」
「……おう」
酒菜は照れ隠しのように背中を向けた。
だが――。
「……ん?」
その様子を、みゆがじっと見ていた。
「……酒菜?」
「あん?」
「なんか今日、機嫌よくない?」
「はあ?」
「いや、なんとなくだけど」
「いつも通りだろ」
「そうかなぁ?」
みゆは首を傾げる。
すると、酒菜が少し強めに言った。
「くだらねえこと言ってねえで、飯食え!」
「はーい」
みゆは笑いながら席についた。
――危ねえ。
酒菜は内心、冷や汗をかいていた。
別に悪いことをしているわけではない。
和真との関係だって、いつかは話すつもりでいる。
しかし。
今はまだ、もう少しだけ。
二人だけの秘密にしておきたかった。
***
「おお、今日は焼き魚か」
遅れてやって来たナディアが、食卓を見渡した。
「うまそうじゃねえか」
「おう。冷める前に食えよ」
「言われなくても食うさ」
ナディアは椅子に座ると、箸を取った。
その隣には、あおいも腰を下ろしている。
「酒菜よ、今日もよい香りじゃのう」
「そうか? まあ、いつも通りだ」
「ふむ。わらわはこの味噌汁が好きじゃ」
「そいつはよかった」
あおいが嬉しそうに味噌汁を口に運ぶ。
そして、和真も焼き魚を一口食べた。
「あ、美味しい」
「……ん?」
「今日の魚、すごくいい感じだね」
「……そ、そうか」
「うん。俺、このくらいの焼き加減が好きなんだ」
「……おう」
酒菜は何気ない顔で頷いた。
だが実際には、和真の好みに合わせて焼き加減を少し調整していた。
本人に気づかれるとは思っていなかったが、喜んでもらえたのなら悪くない。
むしろ――。
かなり嬉しい。
「……へえ?」
そのとき。
みゆが再び酒菜を見た。
「酒菜ってさ」
「あん?」
「今日、和真に優しくない?」
「……は?」
「いや、いつも優しいけどさ。なんか、ちょっと違うっていうか」
「何言ってんだ、お前は」
「んー……」
みゆは箸を止めた。
じーっ。
じーっ。
「……なんだよ」
「別にー?」
にやり。
みゆが笑う。
その笑顔を見た瞬間、酒菜は嫌な予感がした。
「ねえ、和真」
「ん?」
「酒菜と何かあった?」
「ぶっ!?」
和真が味噌汁を吹きそうになった。
「お、おい!?」
酒菜も思わず声を上げる。
だが、その反応がいけなかった。
「……ん?」
フェンリスが顔を上げる。
「和真?」
「い、いや! 何もないよ!」
「……そう?」
ナディアも箸を止めた。
「おいおい。なんだ、その慌てようは」
「慌ててないって!」
「いや、明らかに慌ててるだろ」
「…………」
和真は固まった。
酒菜も固まった。
そして――。
「……ふむ?」
あおいまで首を傾げ始めた。
「和真よ。何か隠しておるのかえ?」
「えっ!? いや、その……」
「…………」
酒菜は思った。
――まずい。
これは、非常にまずい。
まだ朝食が始まって間もないというのに。
早くも秘密がバレかけている。
そんな中。
「……酒菜」
和真が助けを求めるように視線を向けてきた。
酒菜は小さく息を吐いた。
そして――。
「お前らなあ!」
どんっ!
右手を食卓について、いつもの調子で笑い飛ばした。
「朝っぱらから色恋の話か!? 暇な奴らだな!」
「えー? ちょっと聞いただけじゃん!」
「俺と和真が何かあったらどうだってんだ!」
「…………」
「…………」
「…………」
食堂が静まり返った。
酒菜も、言ってから気づいた。
――しまった。
完全に言葉を間違えた。
「……へえ?」
みゆの目が細くなる。
「何かあったら、なんだ?」
ナディアが面白そうに笑う。
「……酒菜?」
フェンリスまで、不安そうに首を傾げた。
「…………」
和真は額に手を当てた。
そして酒菜は――。
「……飯が冷めるぞ」
何事もなかったかのように、味噌汁をすすった。
しかし、その耳は真っ赤だった。
――ズズズ……。
何事もなかったかのように味噌汁をすする酒菜。
しかし、その耳は真っ赤だった。
「……ねえ、酒菜」
「あん?」
「さっきの、どういう意味?」
みゆがにこにこと笑いながら尋ねる。
「さっきの?」
「ほら、和真と何かあったらどうだってんだ、ってやつ」
「……言葉の綾だろ」
「ふーん?」
「なんだよ」
「別にー?」
みゆは楽しそうに尻尾を揺らした。
その隣では、フェンリスが和真と酒菜を交互に見つめている。
「……和真」
「ん?」
「何もないんだよね?」
「えっ? あ、うん……」
和真の返事が、わずかに遅れた。
それを見逃さなかったのがナディアである。
「おいおい、和真。妙に歯切れが悪いじゃねえか」
「そ、そうかな?」
「そうかな、じゃねえよ」
ナディアが口元を歪める。
「ま、別にいいけどな。和真が誰と仲良くしようが、今さら驚きゃしねえさ」
「……ナディア」
「ただし、俺たちに隠し事するってんなら話は別だがな?」
「…………」
和真は思わず視線を逸らした。
酒菜も黙り込む。
――こいつ、勘が鋭すぎんだろ。
内心で悪態をついた、そのときだった。
「酒菜!」
「お、おう! なんだ、紅月!」
「おかわりじゃ!」
紅月が空になった茶碗を高々と掲げていた。
「おう! いっぱい食え!」
「うむ!」
「ほら、貸しな!」
酒菜が茶碗を受け取り、立ち上がる。
そして、これ幸いとばかりに台所へ向かった。
その背中を、みゆがじっと見送る。
「……怪しい」
「え?」
フェンリスが小首を傾げた。
「酒菜、何か隠してるのかな?」
「んー……なんとなくだけどね」
みゆは和真へ視線を向けた。
「和真も怪しいし」
「俺まで!?」
「だって、二人とも変なんだもん」
「そ、そんなことないって」
「…………」
みゆの笑顔が深くなる。
これは、何かある。
そう確信したものの、これ以上問い詰めるつもりはなかった。
単純に、今はまだ面白そうだからだ。
そして和真は、そんなみゆの表情を見て思った。
――これ、絶対に疑われてるよな……。
秘密を隠し通すというのは、想像以上に難しいらしい。
***
朝食が終わると、母屋はいつもの賑やかさを取り戻した。
食器を片づける者。
洗濯物を集める者。
仕事の準備を始める者。
そして――。
「和真ー!」
「はいはい、今度は何?」
「抱っこじゃ!」
「また!?」
「うむ!」
紅月が両腕を広げて立っていた。
和真は苦笑しながら、その小さな身体を抱き上げる。
「よいしょっと」
「むふふっ!」
紅月は満足そうに笑うと、和真の首にぎゅっと抱きついた。
大きな赤い尻尾が嬉しそうに左右へ揺れている。
「紅月、和真も忙しいのじゃぞ?」
そこへ、あおいがやって来た。
「むぅ……」
「少しは自分の足で歩かねばならぬ」
「じゃが、和真に抱っこしてほしいのじゃ」
「まったく……」
あおいが困ったように微笑む。
「和真も甘やかしすぎじゃ」
「あはは……そうかもね」
「そうかも、ではないぞ?」
そう言いながら、あおいは紅月の頭を優しく撫でた。
「ほれ、紅月。わらわと一緒に洗濯物を畳むぞ」
「洗濯物?」
「うむ。昨日教えたであろう?」
「……あっ!」
紅月の目が輝く。
「わっち、覚えておるぞ!」
「ならば、手伝ってくれるかの?」
「うむ!」
紅月は和真の腕から下りると、あおいの手を握った。
「和真! わっちはあおいとお手伝いしてくるのじゃ!」
「うん。頑張ってね」
「任せるがよい!」
二人は仲良く廊下を歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、和真は小さく笑った。
「本当に親子みたいだなぁ……」
「まったくだ」
「うわっ!?」
突然、背後から声がした。
振り返ると、そこには酒菜が立っていた。
「なんだよ。そんなに驚くことねえだろ」
「いや、急に声をかけられたから……」
「ははっ! 相変わらずだな!」
酒菜は豪快に笑う。
いつも通りの姿。
いつも通りの声。
けれど――。
「……なあ、和真」
「ん?」
酒菜が少しだけ声を落とした。
「ちょっと、手ぇ貸してくれねえか?」
「いいよ。何するの?」
「台所の棚を整理したくてな。高いところの荷物を下ろしてほしいんだ」
「ああ、わかった」
「おう。助かる」
二人は並んで台所へ向かった。
***
「これでいい?」
「ああ。そいつを下に置いてくれ」
「はい」
「次はそっちの箱だ」
「これ?」
「そうそう」
和真は酒菜に言われるまま、高い棚から調理器具や保存容器を下ろしていく。
酒菜は片手で扱いやすいように、棚の中を整理していた。
「結構いろいろ入ってるんだね」
「まあな。人数が人数だからよ。気づきゃどんどん増えちまう」
「確かに」
「それに、紅月が来てから食器も増えたしな」
「あはは。そうだね」
何気ない会話を交わしながら作業を続ける。
やがて、一通りの整理が終わった。
「よし。こんなもんだろ」
「うん。だいぶ使いやすくなったね」
「おう。ありがとな」
「どういたしまして」
和真が笑顔を向ける。
すると、酒菜は少しだけ目を伏せた。
「……なあ」
「ん?」
「……誰もいねえよな?」
「え?」
和真が台所の入口を見る。
廊下には誰もいない。
「うん。今は誰もいないみたいだけど」
「……そうか」
酒菜はゆっくりと和真へ近づいた。
そして。
「……ちょっとだけ、いいか?」
「……うん」
和真が頷くと、酒菜は右腕を伸ばした。
その手が和真の服を掴む。
次の瞬間。
こつん。
酒菜の額が、和真の肩に触れた。
「……酒菜?」
「……なんだよ」
「いや……」
「……笑うなよ?」
「笑わないって」
「……ったく」
酒菜は小さく息を吐いた。
「なんつうか……変な感じなんだよな」
「変な感じ?」
「ああ」
和真の服を掴む指に、少しだけ力がこもる。
「今まで、こんなことしようなんて思わなかったんだがな」
「……うん」
「お前とああなってから……どうにも調子が狂いやがる」
酒菜は苦笑した。
「顔を見ると、触りたくなるっつうか……」
「…………」
「二人きりになると、こうしてえなって思っちまうんだよ」
最後のほうは、ほとんど呟きだった。
和真はその言葉を聞き、そっと酒菜の背中に腕を回した。
「……俺は嬉しいよ」
「……そうかよ」
「うん」
「……なら、いいんだけどな」
酒菜は少しだけ身体を寄せた。
片腕しかないため、両腕で抱きしめることはできない。
それでも、右腕を和真の背中へ回し、しっかりと抱き寄せる。
そんな酒菜を、和真も優しく抱きしめ返した。
「……なあ、和真」
「ん?」
「俺さ……」
酒菜は一度言葉を切った。
「……また、こうして誰かに甘える日が来るなんて思ってなかった」
「……うん」
「昔はよ、当たり前だったんだ」
その声が少しだけ遠くなる。
「家族がいて、騒がしくて……誰かに触れることも、触れられることも、何でもねえ日常だった」
和真は黙って聞いていた。
「それが全部なくなって……もう二度と、あんな気持ちになることはねえと思ってた」
「……酒菜」
「だからよ」
酒菜は和真の胸元に顔を埋めた。
「……ありがとな」
小さな声だった。
それでも、和真にははっきりと届いた。
「……こちらこそ」
「……ん?」
「俺も、酒菜がいてくれて嬉しいよ」
「…………」
「いつもみんなのことを考えてくれてるし、俺も何度も助けられてるから」
「……馬鹿野郎」
酒菜は顔を上げなかった。
「そんなこと言われたら、余計に離れられなくなるだろうが……」
和真は小さく笑った。
「別に、今は離れなくてもいいよ?」
「……お前な」
「うん?」
「……本当に、ずるい奴だな」
そう呟いて、酒菜はさらに身体を寄せた。
そして、しばらく経った頃。
「……和真」
「ん?」
「……こっち向け」
「え?」
和真が顔を向ける。
酒菜は少し背伸びをすると――。
ちゅっ。
唇に、短い口づけを落とした。
「…………」
「…………」
先に顔を離したのは酒菜だった。
その頬は、すっかり赤く染まっている。
「……今のは、内緒だからな」
「……うん」
「誰にも言うんじゃねえぞ?」
「もちろん」
「……よし」
酒菜は満足そうに頷いた。
ところが。
「……もう一回」
「え?」
「……だから、もう一回だよ」
和真は思わず目を丸くした。
「酒菜って、こんなに甘えん坊だったんだ?」
「なっ!?」
酒菜の顔が一気に赤くなる。
「ば、馬鹿野郎! 変なこと言ってんじゃねえ!」
「ご、ごめん!」
「ったく……!」
酒菜は恥ずかしそうに顔を逸らした。
しかし、その右手は和真の服を離さない。
「……嫌ならいいけどよ」
「嫌じゃないよ」
「……だったら」
酒菜がちらりと和真を見る。
「……早くしろ」
和真は微笑みながら、彼女の頬にそっと手を添えた。
そして、今度は和真のほうから唇を重ねた。
ほんの短い口づけ。
それだけで、酒菜の表情がふわりと緩んだ。
「……へへ」
思わず漏れた笑み。
自分でも驚くほど、素直な笑顔だった。
だが――。
「酒菜ー!」
「うおっ!?」
突然、廊下から声が響いた。
「どこにいるのー?」
みゆだった。
「や、やべえ!」
酒菜が慌てて和真から離れる。
「和真! そこの箱持て!」
「えっ!? あ、うん!」
「早く!」
「わ、わかった!」
和真は手近にあった空の保存容器の箱を持ち上げた。
酒菜は棚へ向き直り、何事もなかったように作業を始める。
そして、数秒後。
「……あ、いた!」
みゆが台所に顔を出した。
「なにしてるの?」
「見りゃわかんだろ。棚の整理だよ」
「ふーん?」
みゆが二人を見比べる。
「和真も?」
「う、うん。高いところの物を取ってたんだ」
「へえー」
にこにこ。
みゆが笑う。
「……なんだよ」
酒菜が眉をひそめた。
「いや、別に?」
「だったら何でそんな顔してんだ?」
「んー……」
みゆは少し考える素振りを見せたあと、酒菜へ近づいた。
「ねえ、酒菜」
「あん?」
「……顔、赤いよ?」
「…………っ!」
酒菜が固まった。
「……あ?」
「ほら、ほっぺた」
「ばっ、馬鹿野郎! 動いてたから暑いだけだ!」
「そうなの?」
「そうだよ!」
「ふーん……」
みゆは和真を見る。
「和真も赤いけど?」
「えっ!?」
和真が自分の頬に手を当てた。
――しまった。
その反応を見たみゆの目が、楽しそうに細くなる。
「……へえ?」
「み、みゆ?」
「なーに?」
「……何でもない」
「そっかぁ」
みゆはくすくす笑った。
「まあ、いいや。酒菜、洗濯用の大きい籠ってどこにあったっけ?」
「あ? ああ、そいつなら廊下の収納だ」
「ありがと!」
みゆは手を振ると、軽い足取りで台所を出ていった。
その姿が見えなくなった途端。
「……はぁぁぁぁ……」
酒菜が大きく息を吐いた。
「……心臓に悪いな、こりゃ」
「……本当だね」
和真も苦笑する。
「……なあ、和真」
「ん?」
「……しばらく、こういうのは控えたほうがいいか?」
「……どうだろう」
「…………」
酒菜は少しだけ寂しそうに目を伏せた。
そんな彼女を見て、和真は小さく笑う。
「でも、二人きりのときくらいはいいんじゃない?」
「……っ!」
酒菜が顔を上げた。
「……お前、それ本気で言ってんのか?」
「うん」
「……そっか」
酒菜は少し考えたあと、にやりと笑った。
「なら、遠慮しねえぞ?」
「……ほどほどにお願いします」
「はははっ! なんだそりゃ!」
いつもの豪快な笑い声が台所に響く。
しかし、その表情には、以前にはなかった柔らかさがあった。
***
一方、その頃。
廊下を歩いていたみゆは、ふと足を止めていた。
「……んー?」
顎に指を当て、考える。
今朝からの酒菜の様子。
和真の妙な反応。
二人が一緒にいた台所。
そして、あの赤い顔。
「…………」
みゆの尻尾が、ゆらりと動いた。
「……まさかねぇ」
小さく呟く。
だが、すぐに楽しそうな笑みを浮かべた。
「……ちょっと、様子見てみようかな」
みゆは鼻歌交じりに廊下を歩き始めた。
その表情は、いたずらを思いついた猫そのものだった。
――秘密が明らかになる日は、案外近いのかもしれない。
もっとも。
このとき酒菜と和真は、まだ知らなかった。
みゆがすでに、二人の関係を疑い始めていることを。
昼下がり。
空色唐辛子荘の母屋には、穏やかな時間が流れていた。
冬の柔らかな日差しが窓から差し込み、リビングの床を暖かく照らしている。
そんな中、みゆはソファに座りながら、ある人物を観察していた。
「…………」
視線の先にいるのは、酒菜である。
「おい、リディア! この前頼まれた道具、倉庫に置いといたぞ!」
「はい、助かります。あとで取りに行きますので」
「おう! 重てえもんだから気をつけろよ!」
「はい、わかりました。」
いつも通り、豪快に笑う酒菜。
続いて、廊下から顔を出したユエに声をかける。
「ユエ! 夕飯の買い出しなんだが、何か足りねえもんあるか?」
「そうですね。お野菜が少なくなっていましたから、少し買い足しておきたいところです」
「了解! あとで行ってくる!」
「ありがとうございます。ですが、あまり重いものを一度に持たないでくださいね」
「ははっ! 心配すんな!」
相変わらず面倒見がよく、誰に対しても気さくな姉御。
それが、いつもの酒菜だった。
しかし――。
「……和真は?」
ふと、酒菜が周囲を見渡した。
そして、ソファで本を読んでいたみゆに尋ねる。
「おい、みゆ。和真知らねえか?」
「和真?」
「ああ」
「さっき紅月とあおいと一緒に庭へ行ったよ?」
「……そうか」
酒菜は小さく頷いた。
「なんだ。用事でもあるの?」
「いや、別に大したことじゃねえよ」
「ふーん?」
「なんだよ、その顔」
「別にー?」
みゆはにこにこと笑った。
そして、わざとらしく首を傾げる。
「和真に会いたかったの?」
「……は?」
「だって、さっきから和真のこと探してるみたいだったから」
「馬鹿野郎! 買い出しのことで聞きたいことがあっただけだ!」
「へえー」
「なんだよ!」
「何でもないよ?」
みゆは楽しそうに尻尾を揺らした。
酒菜は眉をひそめる。
――こいつ、絶対に面白がってやがる。
そう思ったが、ここで慌てれば余計に怪しまれる。
「ったく。くだらねえこと考えてねえで、少しは手伝え!」
「はーい!」
みゆは笑いながら立ち上がった。
だが、酒菜が背を向けた瞬間。
「……やっぱり、ちょっと変だなぁ」
小さく呟く。
以前の酒菜なら、和真がどこにいようと、そこまで気にすることはなかった。
もちろん、家族のように大切に思っていることは知っている。
だが、今の酒菜は。
何というか――。
「……恋する女の子みたい」
そう呟いた途端、みゆは自分で吹き出してしまった。
「ふふっ……酒菜が?」
想像してみる。
いつも豪快に笑い、誰よりも頼りになる酒菜。
そんな彼女が、和真の前でもじもじしている姿。
「……ふふふっ!」
「おい! 何笑ってやがる!」
「な、何でもないよ!」
みゆは慌てて口元を押さえた。
――でも、もし本当だったら。
みゆは窓の外に目を向けた。
庭では、和真が紅月を肩車している。
その隣で、あおいが楽しそうに笑っていた。
「……和真って、本当に罪な男だよねぇ」
みゆは小さく呟いた。
その声には、呆れと愛情が半分ずつ混ざっていた。
***
「わっち、もっと高くなりたいのじゃ!」
「いや、これ以上は無理だって!」
「むぅ……」
和真の肩の上で、紅月が不満そうに頬を膨らませる。
「和真よ、あまり無理をするでないぞ」
あおいが心配そうに声をかけた。
「大丈夫だよ。紅月もそんなに重くないし」
「そういう問題ではないのじゃ」
「はは……」
そんなやり取りをしていると、縁側のほうから酒菜が現れた。
「おーい! 和真!」
「あ、酒菜。どうしたの?」
「ちょっと買い出しに行こうと思ってな。お前、時間あるか?」
「買い出し?」
「ああ。食材が足りねえんだよ」
「うん。いいよ」
「そうか! じゃあ頼むわ!」
酒菜が嬉しそうに笑った。
その瞬間だった。
「わっちも行く!」
紅月が勢いよく手を挙げた。
「……お?」
「わっちもお買い物に行くのじゃ!」
「いや、お前は……」
酒菜が言葉を詰まらせる。
もちろん、紅月が嫌いなわけではない。
むしろ可愛がっている。
ただ――。
今日は少しだけ、和真と二人で出かけたかった。
だが、そんなことを口にできるはずもない。
「……あー、その」
「紅月よ」
困っている酒菜に代わって、あおいが口を開いた。
「今日はわらわと一緒に、お部屋の片づけをする約束であろう?」
「……あっ!」
紅月が目を丸くした。
「そうじゃった!」
「ほれ、昨日散らかしたものも、まだ残っておるぞ?」
「むぅ……」
紅月は和真の頭に手を置き、少し考え込んだ。
そして――。
「……わかったのじゃ!」
「よい子じゃな」
「じゃが!」
紅月がびしっと和真を指差した。
「和真! お土産を忘れてはならぬぞ!」
「ははっ! わかったよ」
「甘いものがよい!」
「はいはい」
「あと、あおいの分もじゃ!」
「あら、わらわの分までかえ?」
「うむ! あおいも一緒に食べるのじゃ!」
あおいは嬉しそうに微笑んだ。
「ふふっ。ならば楽しみにしておこうかの」
そう言って、紅月を和真の肩から下ろす。
「では、行ってくるがよい」
「うん。行ってきます」
「おう! すぐ戻るからな!」
二人は並んで庭を後にした。
その背中を見送りながら、あおいは首を傾げる。
「……ふむ?」
いつもの酒菜より、少し足取りが軽い気がした。
だが、それ以上は気にせず、紅月の手を取った。
「さて、紅月。片づけの続きじゃ」
「うむ!」
***
車に乗り込み、和真がエンジンをかける。
助手席には酒菜が座っていた。
「それで、今日は何を買うの?」
「ああ。野菜と肉、それから調味料も少しな」
「結構あるね」
「人数が多いからな。すぐなくなっちまう」
「確かに」
和真が笑う。
酒菜もいつも通りに笑った。
しかし、車が敷地を出て、しばらく走った頃。
「……なあ、和真」
「ん?」
「……今日は、二人だな」
「……そうだね」
「…………」
酒菜は窓の外を眺めた。
そして、小さく呟いた。
「……へへ」
「……酒菜?」
「あん?」
「今、笑った?」
「はあ? 笑っちゃ悪いのかよ」
「いや、そうじゃないけど」
「だったらいいだろ!」
そう言いながら、酒菜は少しだけ頬を赤くした。
和真はそんな彼女を横目で見て、小さく笑った。
「……酒菜」
「なんだよ」
「今日、買い出しに誘ってくれてありがとう」
「……は?」
「いや、俺も二人で出かけられて嬉しいなって」
「…………っ!」
酒菜は一瞬、言葉を失った。
そして――。
「……ば、馬鹿野郎」
「え?」
「運転中にそういうこと言うんじゃねえよ……」
「なんで?」
「……こっちが困るんだよ」
酒菜は窓の外に顔を向けた。
その耳は、またしても赤かった。
***
買い物は、意外なほど順調に進んだ。
普段なら、何人もの住人が一緒についてくることが多い。
紅月が走り回ったり、みゆがお菓子をねだったり。
フェンリスが和真の腕に抱きついて離れなかったりと、何かと賑やかになる。
しかし今日は違った。
「和真、そっちの白菜取ってくれ」
「これ?」
「ああ。それでいい」
「他には?」
「んー……人参と大根も頼む」
「了解」
和真が野菜をカートに入れる。
酒菜はその隣で、夕飯の献立を考えていた。
「今日は鍋にするか」
「いいね。寒いし」
「だろ? 紅月も食いやすいようにしとくか」
「喜びそうだね」
「ははっ! あいつ、何でもうまそうに食うからな!」
二人は笑い合う。
そんな何でもない時間が、酒菜には不思議と心地よかった。
食材を選び、献立を考え、他愛のない話をする。
かつて当たり前だった、家族との買い物。
もう二度と戻らないと思っていた時間。
それとまったく同じではない。
失った家族の代わりなど、誰にも務まらない。
それでも。
今、自分の隣で笑っている和真が、たまらなく愛おしかった。
「……和真」
「ん?」
「……いや、何でもねえ」
「そう?」
「ああ」
酒菜は笑った。
そして、ほんの少しだけ和真に近づく。
その右手が、和真の服の裾をつまんだ。
「……酒菜?」
「……人が多いからな」
「え?」
「はぐれねえようにしてるだけだ」
「……そっか」
和真は笑みを浮かべた。
――絶対、違うよね。
けれど、そんなことは言わなかった。
代わりに、カートを押していた手を持ち替え、空いた手を差し出した。
「……こっちのほうがいい?」
「…………」
酒菜は差し出された手を見つめた。
そして。
「……ったく」
小さく笑って、その手を握った。
「……少しだけだぞ」
「うん」
右手を繋いだまま、二人はゆっくりと売り場を歩き始める。
酒菜は少し恥ずかしかった。
自分の年齢を考えれば、こんなことをしている場合ではないのかもしれない。
だが。
――たまには、いいよな。
そう思うことにした。
何より、和真が嬉しそうに笑っている。
それだけで十分だった。
***
買い物を終えた二人は、帰り道に小さな洋菓子店へ立ち寄った。
紅月へのお土産を買うためである。
「どれにするかな……」
ショーケースを眺めながら、和真が悩む。
「紅月は苺が好きそうだから、苺のケーキかな」
「ははっ! あいつなら何でも喜ぶだろ!」
「まあ、そうなんだけどね」
「どうせなら、みんなの分も買ってくか?」
「うん。そうしよう」
二人で相談しながら、人数分のケーキを選んでいく。
その途中。
「……あ」
酒菜が一つのケーキに目を留めた。
小さな苺が飾られた、可愛らしいショートケーキだった。
「酒菜、それがいい?」
「ん? ああ……いや、別に」
「好きなの?」
「……まあ、嫌いじゃねえけど」
「じゃあ、それにしようか」
「お、おい! 俺のは適当でいいぞ!」
「いいじゃん。せっかくだし」
「……ったく」
酒菜は苦笑した。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「……ありがとな」
和真には、その声がちゃんと聞こえていた。
***
帰り道。
車内には穏やかな音楽が流れていた。
助手席の酒菜は、窓の外を眺めながら静かに微笑んでいる。
しばらくして、和真が口を開いた。
「……今日は楽しかったね」
「……おう」
「また二人で買い物に行こうか」
「……いいのか?」
「もちろん」
「…………」
酒菜は和真を見つめた。
そして、少しだけ困ったように笑う。
「……お前、本当にわかってねえな」
「え?」
「……俺がどんだけ嬉しいか、ってことだよ」
「…………」
「こんな歳になって、買い物一つで浮かれちまうなんてな」
自嘲するような笑み。
しかし、和真は首を横に振った。
「歳なんて関係ないよ」
「……あん?」
「好きな人と一緒に出かけるのって、嬉しいもんじゃない?」
「…………っ!」
酒菜が固まった。
「……おい」
「ん?」
「……今、なんつった?」
「え?」
「……いや、その……」
酒菜は珍しく言葉に詰まった。
「……好きな人、って……」
「ああ……」
和真は一瞬考え、それから優しく微笑んだ。
「酒菜のこと、好きだよ」
「…………」
酒菜は完全に黙り込んだ。
そして、ゆっくりと顔を窓へ向ける。
「……馬鹿野郎」
「えっ?」
「……そんなの、知ってるっつうの」
その声は、少し震えていた。
和真がちらりと横を見る。
酒菜は窓の外を見たまま、右手で目元を押さえていた。
「……酒菜?」
「……見るな」
「……うん」
「……ちょっと、嬉しかっただけだ」
和真はそれ以上何も言わず、前を向いた。
酒菜も、しばらく黙っていた。
だが。
やがて、その口元には小さな笑みが戻っていた。
***
夕方。
二人が空色唐辛子荘へ戻ると、案の定、紅月が玄関まで飛んできた。
「和真ー!」
「ただいま、紅月」
「おかえりなのじゃ!」
紅月は和真へ勢いよく抱きついた。
「お土産は!?」
「もちろん買ってきたよ」
「おおっ!」
紅月の目が輝く。
「何じゃ!? 何を買ってきたのじゃ!?」
「ケーキだよ」
「けーき!」
紅月が嬉しそうに飛び跳ねた。
「やったのじゃー!」
その後ろから、あおいが歩いてくる。
「これ、紅月。まずはお礼を言うのじゃ」
「……あっ!」
紅月はぴたりと動きを止めた。
そして、和真と酒菜を交互に見る。
「和真! 酒菜! ありがとうなのじゃ!」
「うん。どういたしまして」
「ははっ! いいってことよ!」
酒菜が豪快に笑う。
いつもの姉御肌。
いつもの頼れる酒菜。
しかし。
「……あれ?」
リビングから顔を出したみゆが、何かに気づいた。
「酒菜、なんか嬉しそうだね?」
「あん?」
「買い物、楽しかった?」
「おう! 久々にゆっくり買い物できたからな!」
「へえー」
みゆは酒菜を見つめる。
そのあと、和真へ視線を移した。
「……和真も?」
「うん。楽しかったよ」
「……ふーん」
にこっ。
みゆが笑う。
「……そっかぁ」
その笑顔に、酒菜の背筋がわずかに伸びた。
――またかよ。
今日はどうにも、みゆに調子を狂わされる。
そんな酒菜をよそに、みゆは楽しそうに言った。
「じゃあさ、今度は僕も一緒に行こうかな?」
「……あ?」
「だって、二人ともそんなに楽しそうなんだもん」
「お、おう! 別に構わねえぞ!」
「本当?」
「ああ!」
「……じゃあ、次は三人だね?」
「…………」
酒菜は一瞬だけ言葉に詰まった。
だが、すぐに笑い飛ばす。
「ははっ! 好きにしろ!」
「やった!」
みゆは嬉しそうに笑った。
しかし、その目は酒菜の表情をしっかり観察していた。
――やっぱり。
いつもの酒菜なら、こんなところで言葉に詰まったりしない。
しかも、今日の買い物から帰ってきた酒菜は、朝よりずっと機嫌がいい。
何かがあった。
それは間違いない。
ただ――。
みゆはちらりと酒菜を見た。
酒菜は紅月の頭を撫でながら、楽しそうに笑っていた。
その笑顔には、以前よりもどこか穏やかなものが混ざっている。
「…………」
みゆは少し考えた。
そして。
――まあ、今はいいかな。
そう思うことにした。
もし本当に何かあったのなら、いつか酒菜自身が話してくれるだろう。
それまでは、少しだけ観察していよう。
……もちろん、からかうのは別の話だが。
***
夕食の準備が始まる頃。
酒菜は台所で鍋の支度をしていた。
和真も隣で野菜を切っている。
「和真、そっちの肉も頼む」
「了解」
「あと、紅月の分は少し小さく切っといてくれ」
「うん」
いつも通りの共同作業。
だが、ふと二人の手が触れた。
「……あ」
「……お」
一瞬、目が合う。
酒菜は少しだけ微笑んだ。
そして、誰にも聞こえないように呟く。
「……今日は、ありがとな」
「……うん」
「……楽しかったぜ」
「俺もだよ」
「……へへ」
酒菜は照れくさそうに笑った。
その直後。
「酒菜ー! お鍋、まだー?」
リビングからみゆの声が響く。
「うるせえ! もうちょっと待ってろ!」
「はーい!」
酒菜はいつもの調子で怒鳴り返した。
しかし、和真のほうを向くと。
「……ったく、騒がしい奴らだな」
そう言いながら、嬉しそうに笑った。
和真もつられて笑う。
そんな二人の姿を――。
「…………」
台所の入口から、みゆがこっそり覗いていた。
いつもなら、何も気にしない光景。
しかし、今のみゆには違って見えた。
和真を見る酒菜の目。
何気ない言葉に浮かべる笑顔。
そして、ほんの少しだけ近い二人の距離。
「……あー」
みゆは小さく呟いた。
「……そういうこと、なのかなぁ」
まだ確信はない。
けれど、もし自分の予想が当たっているのなら。
――酒菜も、和真のことが……。
みゆは静かに微笑んだ。
少しだけ複雑な気持ちもある。
自分だって、和真のことが大好きなのだから。
それでも。
酒菜があんなふうに笑う姿を見るのは、決して嫌ではなかった。
「……ふふっ」
みゆは静かにその場を離れた。
そして、リビングへ戻りながら小さく呟く。
「……でも、隠し事はよくないよねぇ?」
その口元には、いつものいたずらっぽい笑みが浮かんでいた。
――さて。
酒菜が自分から話してくれるのが先か。
それとも、うっかり尻尾を出すのが先か。
みゆには、ちょっとした楽しみが増えたようだった。
――ぐつぐつ、ぐつぐつ。
夕食の時間。
母屋の食堂には、大きな鍋がいくつも並んでいた。
「おおーっ!」
真っ先に歓声を上げたのは紅月だった。
「今日はお鍋なのじゃ!」
「ははっ! 寒い日には鍋が一番だからな!」
酒菜が豪快に笑う。
「ほら、紅月。熱いから気をつけろよ」
「うむ!」
「ちゃんと冷ましてから食えよ?」
「わかっておる!」
そう答えた紅月だったが、次の瞬間には大きな白菜を口へ運ぼうとしていた。
「これ、紅月!」
あおいが慌てて止める。
「まだ熱いぞ!」
「むぅ……」
「ほれ、わらわが冷ましてやるから、少し待つのじゃ」
「うむ!」
あおいが小皿に取り分け、ふうふうと息を吹きかける。
その様子を見た和真が、思わず笑った。
「本当にお母さんみたいだね」
「……か、和真!」
あおいが頬を染める。
「そ、そのようなことを急に言うでない!」
「え? だって、すごく面倒見がいいからさ」
「……まったく、おぬしは……」
そう言いながらも、あおいは嬉しそうだった。
一方、紅月は不思議そうに首を傾げる。
「母上?」
「ん?」
「わっちの母上は、あおいなのか?」
「えっ!?」
今度こそ、あおいが固まった。
「そ、それは……」
「わっちは、あおいが大好きじゃ!」
「……紅月」
「和真も大好きじゃ!」
紅月は満面の笑みで両手を広げた。
「二人とも大好きなのじゃ!」
和真とあおいは顔を見合わせた。
そして、自然と笑みを浮かべる。
「そっか。ありがとう、紅月」
「ふふっ……わらわも大好きじゃぞ」
あおいは紅月の頭を優しく撫でた。
そんな三人を見て、酒菜も穏やかに笑っていた。
――いいもんだな。
家族のような温かさ。
かつて失ったものを思い出すことはある。
それでも、今は悲しみだけではなかった。
この場所には、新しい幸せがある。
そして自分にも――。
「……酒菜?」
「お?」
和真の声で我に返る。
「どうしたの? なんか嬉しそうだけど」
「……ああ」
酒菜は少しだけ笑った。
「いや、何でもねえよ」
「そう?」
「おう!」
そう答えて、鍋に手を伸ばす。
だが、和真と目が合った瞬間。
ほんの一瞬だけ、柔らかな笑みを浮かべた。
その変化に気づいた者が一人。
「…………」
みゆである。
――まただ。
今日だけで何度目だろう。
酒菜が和真を見るたびに、少しだけ表情を変える。
しかも、その表情は以前のものとは違う。
まるで、恋人を見つめるような――。
「……みゆ?」
「ん?」
フェンリスに呼ばれ、みゆは顔を向けた。
「どうしたの? さっきから酒菜ばっかり見てるけど」
「え? ああ、何でもないよ」
「そう?」
「うん!」
みゆはにっこり笑った。
そして、鍋の中から肉を取り分ける。
「はい、フェンリス!」
「ありがとう!」
「和真もいる?」
「あ、うん。お願い」
「はーい!」
みゆはいつもの調子で和真の皿にも肉を取り分けた。
すると――。
「おい、みゆ!」
「ん?」
「お前、自分の分もちゃんと食えよ?」
酒菜だった。
「えー? 食べてるよ?」
「さっきから人の世話ばっかしてんじゃねえか」
「それ、酒菜に言われたくないんだけど?」
「はあ?」
「酒菜だって、ずっとみんなの世話してるじゃん!」
「……そりゃそうだが」
「ふふっ!」
みゆが笑う。
「でも、今日はなんだか楽しそうだね?」
「……またそれかよ!」
「だって本当だもん!」
「ったく!」
酒菜は呆れたように笑った。
しかし、以前ならここで終わっていた会話も、今日は少し違った。
「……まあ、悪い気分じゃねえな」
そう呟いて、酒菜は和真へ視線を向けた。
和真も小さく微笑み返す。
そのやり取りを見て、みゆは確信に近いものを感じ始めていた。
――絶対、何かある。
ただし、証拠はない。
それが何とも、もどかしかった。
***
夕食を終えた一同は、食後のケーキを楽しんでいた。
「おいしいのじゃー!」
紅月が幸せそうに頬を緩ませる。
口元には生クリーム。
あおいがそれを拭ってやりながら、優しく微笑む。
「これ、紅月。口の周りが真っ白じゃぞ」
「む?」
「ほれ、じっとしておれ」
「うむ!」
その隣ではフェンリスが、ケーキを小さく切りながら和真に話しかけていた。
「和真、今度のお休みって何か予定ある?」
「ん? 今のところ特にないけど」
「……じゃあ、僕と一緒にお出かけしない?」
「いいよ」
「本当!?」
フェンリスの顔がぱっと明るくなった。
「えへへ……楽しみだなぁ」
「ちょっと待った!」
そこへ、みゆが割り込んだ。
「僕も和真とお出かけしたい!」
「ええっ!? みゆはこの前一緒に買い物行ったじゃん!」
「買い物とデートは別だよ!」
「そ、それはそうだけど……」
「なら俺も混ぜろよ」
今度はナディアが口を挟む。
「お前らばっかりずるいじゃねえか」
「ナディアまで!?」
和真が思わず声を上げた。
そんな騒ぎを見ながら、酒菜は笑っていた。
「はははっ! お前も大変だな、和真!」
「笑い事じゃないよ……」
「いいじゃねえか! モテモテでよ!」
「他人事だと思って……」
和真が苦笑する。
その様子を見て、酒菜はふと考えた。
――俺も、また二人で出かけてえな。
今日の買い物は楽しかった。
ただ隣を歩くだけで、あんなに嬉しくなるとは思わなかった。
できることなら、今度は買い物ではなく。
二人きりで、どこかへ出かけてみたい。
そんなことを考えた自分に、酒菜は思わず苦笑する。
――ったく。
すっかり欲張りになっちまったな。
***
食後。
住人たちは、それぞれ思い思いの時間を過ごし始めた。
紅月はあおいの膝の上でうとうとし始め、フェンリスはみゆと一緒にテレビを眺めている。
ナディアはソファでくつろぎ、ユエとリディアは何やら話し込んでいた。
そんな中、酒菜は台所で食器を洗っていた。
片手で器を押さえられるように、流し台には滑り止めを敷いてある。
そこへ――。
「酒菜」
「ん?」
和真がやって来た。
「俺も手伝うよ」
「おう。じゃあ、そっちの皿拭いてくれ」
「了解」
二人は並んで片づけを始めた。
カチャ、カチャ……。
水の流れる音と、食器が触れ合う小さな音だけが響く。
しばらくすると、酒菜がぽつりと呟いた。
「……なあ、和真」
「ん?」
「今日、楽しかったな」
「うん。買い物?」
「……それもあるけどよ」
酒菜は少し照れくさそうに笑った。
「こうして一緒に飯作ったり、片づけしたり……そういうのも含めてだ」
「そっか」
「ああ」
和真は拭き終えた皿を棚に戻した。
「俺も楽しかったよ」
「……へへ」
酒菜が小さく笑う。
そして、少し間を置いてから。
「……なあ」
「ん?」
「……今日、もうちょっとだけ二人でいられねえか?」
和真は手を止めた。
酒菜は流し台へ視線を落としている。
「……別に、何かしてえってわけじゃねえんだ」
「うん」
「ただ、その……」
言いにくそうに言葉を探す。
「……少しだけ、甘えてえなって」
最後の言葉は、とても小さかった。
和真は思わず笑みを浮かべた。
「もちろん、いいよ」
「……本当か?」
「うん」
「……そっか」
酒菜は嬉しそうに頷いた。
だが、その直後。
「酒菜ー!」
「うおっ!?」
リビングから声が飛んできた。
「まだ片づけてるのー?」
みゆだった。
「お、おう! もう終わるぞ!」
「手伝おうかー?」
「いらねえ! 和真が手伝ってくれてるからな!」
「……へえー?」
妙に楽しそうな声が返ってきた。
「二人で仲良くお片づけなんだねー!」
「……っ!」
酒菜の顔が赤くなる。
「うるせえ! さっさとテレビでも見てろ!」
「はーい!」
みゆの笑い声が遠ざかっていく。
酒菜は大きくため息をついた。
「……ったく、あいつは……」
「はは……」
「……和真」
「ん?」
「……やっぱり、今は無理かもな」
少し寂しそうな声だった。
和真は考えたあと、そっと言った。
「……じゃあ、みんなが寝てから少しだけ話そうか」
「……お?」
「酒菜がよければだけど」
「…………」
酒菜は目を丸くした。
そして、ゆっくりと笑みを浮かべる。
「……ああ」
嬉しそうな声。
「……約束だからな」
「うん。約束」
そう答えた和真に、酒菜は少しだけ身体を寄せた。
しかし、すぐに離れる。
「……よし! さっさと終わらせるぞ!」
「うん!」
二人は再び片づけを始めた。
その手際は、先ほどまでより少しだけ早くなっていた。
***
夜も更けてきた頃。
「……ふあぁ……」
紅月が大きなあくびをした。
「眠いのかえ?」
あおいが尋ねる。
「……ねむくないのじゃ……」
「ふふっ。そう言いながら目が閉じておるぞ」
「……むぅ……」
紅月は眠たそうに目を擦った。
そして、和真を見つけると両腕を伸ばした。
「……和真ぁ……」
「ん? どうした?」
「……だっこ……」
「はいはい」
和真が抱き上げると、紅月はすぐに胸元へ顔を埋めた。
「……すぅ……」
「……早っ!」
和真が思わず笑う。
あおいもくすくすと笑った。
「まったく、甘えん坊じゃのう」
「本当だね」
「ほれ、和真。わらわが連れていくゆえ、紅月を渡しておくれ」
「うん。お願い」
和真は眠っている紅月をそっとあおいに預けた。
紅月は少しだけ身じろぎしたが、あおいに抱かれると再び静かな寝息を立て始めた。
「では、先に休ませてもらうぞ」
「うん。おやすみ、あおい」
「おやすみじゃ、和真」
あおいは紅月を抱いたまま、静かにリビングを出ていった。
そのあと、ユエやリディアもそれぞれの用事を済ませて引き上げていく。
やがて、リビングに残ったのは和真とみゆ、フェンリス、ナディア。
そして酒菜だった。
「……さてと」
ナディアが立ち上がる。
「俺もそろそろ戻るか」
「おやすみ、ナディア」
「おう。和真、お前も夜更かしすんなよ」
「わかってるよ」
「本当かねえ」
ナディアはにやりと笑うと、リビングを後にした。
続いて、フェンリスが眠たそうに目を擦った。
「……僕もそろそろ寝ようかな」
「そうだね。明日もあるし」
「……和真」
「ん?」
「……おやすみのぎゅー、して?」
和真は微笑んだ。
「うん。おいで」
「えへへ……」
フェンリスが嬉しそうに抱きつく。
和真は優しく抱きしめ返した。
「おやすみ、フェンリス」
「……おやすみ、和真」
フェンリスは名残惜しそうに離れると、みゆへ顔を向けた。
「みゆは?」
「僕? もうちょっと起きてるよ」
「そっか。じゃあ、おやすみ」
「おやすみー!」
フェンリスが出ていく。
すると、みゆがソファから立ち上がった。
「……さて」
酒菜の肩が、ぴくりと動く。
「……僕も寝ようかな」
「お、おう! そうしろ!」
「……ん?」
みゆが首を傾げた。
「酒菜、なんか嬉しそうだね?」
「はあ!? 別に嬉しくなんかねえよ!」
「ふーん?」
みゆはちらりと和真を見る。
「……和真は?」
「えっ?」
「まだ寝ないの?」
「あ、うん。もう少ししたらね」
「……そっかぁ」
みゆはにっこり笑った。
「……じゃあ、おやすみ!」
「うん。おやすみ」
「おう! さっさと寝ろよ!」
「はーい!」
みゆは手を振りながら廊下へ出ていった。
そして。
ぱたん。
扉が閉まった。
「…………」
「…………」
和真と酒菜は、しばらく無言で顔を見合わせた。
「……行ったか?」
「……たぶん」
「……そうか」
酒菜は小さく息を吐いた。
そして。
「……和真」
「うん?」
「……こっち来い」
先ほどまでの豪快な声とは違う、少し甘えたような声だった。
和真が近づくと、酒菜は右手を伸ばした。
その指が和真の服を掴む。
「……ちょっとだけ」
「うん」
酒菜はゆっくりと身体を寄せた。
そして、和真の胸元に顔を埋める。
「……はぁ……」
深く息を吐く。
「……やっとだ」
その言葉に、和真は思わず笑った。
「そんなに待ってたの?」
「……悪いかよ」
「ううん」
「……だったら、黙って抱きしめてろ」
「はいはい」
和真は優しく酒菜の身体を抱きしめた。
酒菜の右腕が、和真の背中へ回される。
そして、ぎゅっと力がこもった。
「……へへ」
小さな笑い声。
「……あったけえな」
「そうだね」
「……なんつうか、安心する」
「うん」
酒菜は目を閉じた。
和真の鼓動が聞こえる。
呼吸の音が聞こえる。
今、確かに自分を抱きしめてくれている。
それだけで、胸の奥が満たされていくようだった。
***
「……なあ、和真」
「ん?」
「……俺、変わったか?」
突然の質問だった。
「変わった?」
「ああ」
酒菜は和真の胸元に顔を寄せたまま続ける。
「お前と結ばれてからさ……なんか、自分でも調子が狂ってんだよ」
「……うん」
「前はよ、誰かに甘えたいなんて思わなかった」
酒菜は苦笑した。
「いや……本当は思ってたのかもしれねえな」
「…………」
「でも、ずっと我慢してたんだ」
右手が、和真の服を握りしめる。
「俺は年上だし、みんなの面倒を見る立場だろ?」
「……そうだね」
「だから、弱いとこなんて見せちゃいけねえって、勝手に思ってた」
酒菜はゆっくりと顔を上げた。
「……でも、お前の前だと駄目だな」
「駄目?」
「ああ」
酒菜は照れくさそうに笑った。
「……甘えたくなっちまう」
和真はその言葉を聞いて、優しく微笑んだ。
「別にいいんじゃない?」
「……あん?」
「酒菜だって、たまには誰かに甘えたいときがあるでしょ?」
「……まあな」
「だったら、俺に甘えてくれたら嬉しいよ」
「…………」
「普段はみんなのことを支えてくれてるんだから、二人のときくらい無理しなくていいと思う」
酒菜は目を伏せた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……お前、本当にずりいな」
「え?」
「……そんなこと言われたら、もっと好きになっちまうだろ」
和真は少し照れくさそうに笑った。
「……それは、俺も嬉しいけど」
「……へへ」
酒菜は再び和真に身体を預けた。
だが、しばらくして。
「……なあ」
「ん?」
「……俺さ、まだちょっと怖えんだ」
和真の表情が変わる。
「……何が?」
「……幸せになることが、だよ」
酒菜は静かに言った。
「一度、全部失ってるからな」
「…………」
「また大事なものができて……それを失うのが、怖えんだ」
その声には、普段の豪快さはなかった。
「でもよ」
酒菜は和真を見上げた。
「……それでも、お前と一緒にいたいって思っちまった」
「……酒菜」
「また誰かを好きになって……家族が欲しいなんて思うようになるとはな」
和真は何も言わず、彼女の言葉を聞いていた。
「……前に話したこと、覚えてるか?」
「……うん」
酒菜が和真に打ち明けた願い。
もう一度、子供を抱きたいという想い。
そして、二人で話し合って出した答え。
「……俺、焦ってたところもあると思うんだ」
酒菜は少し寂しそうに笑った。
「年齢のこともあるし、昔のこともある。だから、あのときは余裕がなかった」
「……うん」
「でもな」
酒菜の表情が柔らかくなる。
「……今は、それだけじゃねえんだ」
「……え?」
「子供が欲しい気持ちは変わらねえ。でも、それと同じくらい……」
酒菜は少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「……お前と一緒にいる時間が、欲しいんだよ」
和真は優しく頷いた。
「……うん」
「買い物したり、飯作ったり、たまには二人で出かけたり……」
酒菜は小さく笑う。
「……こうして抱きしめてもらったりな」
「……酒菜」
「……だからよ」
酒菜は和真の胸元に額を寄せた。
「……これからも、よろしく頼むぜ」
和真は、その身体を少し強く抱きしめた。
「……うん。こちらこそ」
酒菜は嬉しそうに目を閉じた。
しばらく、二人は何も言わずに抱き合っていた。
やがて。
「……和真」
「ん?」
「……キス、してくれねえか?」
和真は少し驚いた。
「……酒菜からお願いするの、珍しいね」
「……うるせえ」
酒菜の頬が赤くなる。
「……嫌ならいいけどよ」
「嫌なわけないでしょ」
「……そっか」
酒菜はゆっくりと顔を上げた。
和真は彼女の頬にそっと手を添える。
そして。
ちゅっ。
唇が重なった。
短く、優しい口づけ。
酒菜は目を閉じ、その温もりを確かめるように少しだけ和真へ身を寄せた。
やがて唇が離れる。
「…………」
「…………」
酒菜は和真を見つめた。
そして。
「……へへ」
照れくさそうに笑った。
「……幸せだな」
それは、とても小さな声だった。
けれど、和真にははっきりと聞こえていた。
「……俺もだよ」
「……おう」
酒菜は再び和真の胸元に顔を埋めた。
その表情は、誰にも見せたことのないほど穏やかだった。
***
――その頃。
「……んー?」
みゆは自分の部屋で、布団に潜り込んでいた。
しかし、なかなか眠れずにいた。
理由はもちろん、酒菜のことである。
「……絶対、何かあるよねぇ」
天井を見上げながら呟く。
今日一日、酒菜の様子は明らかにおかしかった。
和真を見る目。
買い物から帰ってきたときの笑顔。
そして、夜になっても妙に機嫌がよかったこと。
「……んー……」
みゆは寝返りを打った。
もし、酒菜が和真を好きになったのだとしたら。
それ自体は、別に驚くことではない。
むしろ、今までそうならなかったことのほうが不思議なくらいだった。
和真は優しい。
誰に対しても分け隔てなく接する。
それに、酒菜の過去を知っている。
だからこそ、二人が特別な関係になってもおかしくはない。
「……でもなぁ」
みゆは小さく息を吐いた。
「……ちょっとだけ、寂しいかも」
自分でも意外な言葉だった。
和真を独り占めできないことなど、とっくにわかっている。
フェンリスも、ナディアも、あおいも。
みんな和真のことが大好きだ。
それでも、新しく誰かが和真に近づくたび、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
「……僕も、もっと甘えたいなぁ」
みゆは枕を抱きしめた。
そして、ふと思い出す。
今日、酒菜が見せていた笑顔。
あんなに穏やかで、幸せそうな顔。
「……まあ、いっか」
みゆは小さく笑った。
「酒菜が幸せなら、それはそれで嬉しいし」
もちろん、和真を譲るつもりなどない。
それとこれとは別の話である。
「……でも、隠してるなら、いつかちゃんと教えてよね」
誰に言うでもなく呟く。
そして、布団を肩まで引き上げた。
「……おやすみ、和真」
みゆは静かに目を閉じた。
***
一方、母屋のリビングでは。
「……そろそろ戻るか」
酒菜が名残惜しそうに身体を離した。
「そうだね。もう遅いし」
「ああ」
しかし、酒菜の右手は、まだ和真の服を掴んでいた。
「……酒菜?」
「……あん?」
「……手」
「……お?」
酒菜は自分の右手を見る。
そして、慌てて離した。
「……わ、悪い!」
「ははっ」
「笑うんじゃねえ!」
「ごめんごめん」
「……ったく!」
酒菜は顔を赤くしながら、そっぽを向いた。
だが、すぐに小さく笑う。
「……なあ、和真」
「ん?」
「……今度は、ちゃんと二人で出かけねえか?」
「……デート?」
「……っ!」
酒菜が固まった。
「ば、馬鹿野郎! そんな大げさなもんじゃねえ!」
「え? 違うの?」
「……いや……」
酒菜は言葉に詰まった。
そして、しばらく考えたあと。
「……まあ、その……」
ぼそぼそと呟く。
「……デート、でもいいけどよ」
和真は思わず笑みを浮かべた。
「うん。じゃあ、今度二人でデートしよう」
「……おう」
酒菜は照れくさそうに笑った。
「……約束だからな」
「もちろん」
「……へへ」
その笑顔は、今までの酒菜からは想像できないほど可愛らしいものだった。
そして。
「……あ、そうだ」
「ん?」
「……このこと、みんなにはまだ内緒だからな?」
「うん。わかってるよ」
「……悪いな」
「え?」
「別に隠すようなことじゃねえのにな」
酒菜は少し申し訳なさそうに笑った。
「……でも、もう少しだけ二人だけの秘密にしておきてえんだ」
「……うん」
「……駄目か?」
和真は首を横に振った。
「駄目じゃないよ」
「……そうか」
「ただ、ずっと隠しておくわけにはいかないと思う」
「……ああ」
酒菜も静かに頷いた。
「みゆたちにも、ちゃんと話さねえとな」
「うん」
「……そのうち、俺から話すよ」
酒菜は少し考えてから続けた。
「お前に全部任せるわけにもいかねえしな」
「わかった。そのときは俺も一緒に話すよ」
「……おう」
酒菜は嬉しそうに笑った。
そして。
「……最後に、もう一回だけ」
「……ん?」
「……だから、キスだよ」
和真は思わず吹き出しそうになった。
「……酒菜、今日は結構甘えるね」
「……うるせえ!」
酒菜の顔が真っ赤になる。
「……今だけだっつうの!」
「はいはい」
和真は微笑みながら彼女を抱き寄せた。
そして、もう一度だけ唇を重ねる。
今度は酒菜も、右腕を和真の首へ回した。
ほんの少し長い口づけ。
やがて、ゆっくりと離れる。
「……へへ」
酒菜は満足そうに笑った。
「……これで、ぐっすり眠れそうだ」
「よかった」
「……おう」
そして、名残惜しそうに身体を離した。
「……じゃあな、和真」
「うん。おやすみ、酒菜」
「……おやすみ」
酒菜は最後にもう一度だけ笑みを浮かべると、静かにリビングを出ていった。
その足取りは、いつもより少しだけ軽かった。
***
翌朝。
「おらー! いつまで寝てんだ! 飯が冷めちまうぞ!」
母屋に響き渡る、いつもの豪快な声。
「ふあぁ……酒菜、朝から元気だねぇ……」
眠そうにやって来たみゆが、目を擦りながら言う。
「当たり前だろ! 朝は元気よく起きるもんだ!」
「えー……もうちょっと優しく起こしてよ……」
「馬鹿野郎! そんなこと言ってるから寝坊すんだ!」
いつもの酒菜。
豪快で、頼りになって。
少し口は悪いけれど、誰よりも面倒見がいい姉御。
そんな彼女の前に、和真が現れた。
「おはよう、酒菜」
「……おう!」
一瞬だけ、酒菜の表情が柔らかくなる。
「……おはよう、和真」
その声は、いつもより少しだけ優しかった。
和真は小さく笑う。
すると、酒菜は慌てて咳払いをした。
「……ほら! さっさと座れ!」
「はいはい」
「返事は一回でいい!」
「はい!」
和真が笑いながら席につく。
酒菜もいつもの調子で台所へ戻っていった。
その背中を――。
「…………」
みゆがじっと見つめていた。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「……酒菜、やっぱり変わったよね?」
「……えっ?」
和真が固まる。
みゆはにこにこ笑った。
「……なんか、前より可愛くなった気がする」
「…………」
「……ね?」
和真は少し困ったように笑った。
「……そうかもね」
「……ふーん?」
みゆの尻尾が、ゆらりと揺れる。
そして――。
「……ま、いっか!」
みゆは何事もなかったように和真の隣へ座った。
「和真! 今日もいっぱい甘えていい?」
「……いつも甘えてるでしょ?」
「えへへ! そうだけど!」
みゆが楽しそうに抱きつく。
その様子を見ながら、酒菜は小さく笑った。
以前なら、ただ微笑ましく眺めていただろう。
しかし今は、少しだけ違う。
――俺も、あとで甘えさせてもらおうかな。
そんなことを考えてしまう。
そして、その自分が何だかおかしくて、また笑ってしまった。
「……へへ」
「……ん?」
みゆが顔を上げる。
「……酒菜?」
「あん?」
「……今、なんか笑った?」
「別に!」
「……ふーん?」
「ほら! 飯食え!」
「はーい!」
いつもの賑やかな朝。
いつもの空色唐辛子荘。
しかし、その中で。
酒菜だけは、ほんの少し変わっていた。
普段は頼れる姉御。
みんなの世話を焼き、豪快に笑い、弱音なんて滅多に吐かない。
けれど、和真と二人きりになると。
少しだけ甘えん坊になってしまう。
抱きしめてほしくなったり。
手を繋ぎたくなったり。
ときには、自分から口づけをねだったり。
そんな姿を、ほかの住人たちはまだ知らない。
――もっとも。
みゆだけは、そろそろ何かに気づきそうではあったが。
それでも、酒菜は思う。
もう少しだけ。
ほんの少しだけ、この幸せを二人の秘密にしておきたい。
そして今日も。
「おい、和真!」
「ん?」
「……あとで、ちょっと手伝ってくれねえか?」
「いいよ。何を?」
「……それは、あとで教える」
「……え?」
酒菜はにやりと笑った。
「……いいから、来いよ」
和真は少しだけ頬を赤くした。
そんな二人を見て。
「…………」
みゆの耳が、ぴくりと動く。
「……あれぇ?」
何かを察したような声。
しかし、酒菜は気づかないふりをして、朝食の準備を続けた。
――バレるのは、時間の問題かもしれない。
それでも。
今はまだ、このままで。
豪快な姉御の、誰にも見せない小さな変化。
それは、和真だけが知っている。
酒菜の、もう一つの顔だった。




