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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第七十二話 リディアの休日

 ――カチャン、カチャン。


 金属同士が触れ合う小さな音が、静かな工房に響いていた。


 作業台の上には、分解された小型家電と細かな部品が整然と並べられている。


 その中央で、リディア・ライアットは真剣な表情を浮かべていた。


「……なるほど。原因はここですね」


 青緑色の髪を揺らしながら、金色の瞳を細める。


 左右の機械義手が器用に動き、小さな部品を取り外した。


「これなら交換する必要はありません。接点を修正すれば……」


 小さく独り言をつぶやきながら、作業を続ける。


 これが、リディアの日常だった。


 魔道具の開発、住人たちが使う装置の整備、そして現代の小型家電の修理。


 この世界に来てからというもの、彼女の仕事は増える一方だった。


 もっとも、本人はそれを苦痛だとは思っていない。


 むしろ、好きなことに没頭できる今の生活を気に入っていた。


 ――ただし。


「リディア」


「はい?」


 突然名前を呼ばれ、リディアは顔を上げた。


 工房の入口には、四ノ宮和真が立っていた。


「やっぱりここにいた」


「どうしました?」


「いや、朝ご飯に来ないからさ」


「……朝食?」


 リディアが壁の時計に視線を向ける。


 午前九時を少し過ぎていた。


「もうそんな時間ですか」


「そんな時間って……もしかして、昨日からずっと?」


「正確には昨日の午後三時からですね」


「十七時間!?」


「途中で休憩は取りましたよ」


「どれくらい?」


「……三十分ほど」


「それ休憩って言えるのか?」


 和真が呆れた顔をする。


 しかし、リディアは特に気にした様子もなく、作業台へ視線を戻した。


「あと少しで終わります。先に食べていてください」


「昨日も同じこと言ってたぞ」


「昨日は別の作業でしたから」


「そういう問題じゃないんだけどな……」


 和真は苦笑した。


 このやり取りも、今ではすっかり日常になっている。


 リディアは一度作業を始めると、時間を忘れて没頭してしまう。


 放っておけば食事を抜き、睡眠時間まで削ってしまうのだ。


 もちろん、酒菜やユエも何度か注意している。


 その場では素直に聞くのだが、翌日には元通り。


 本人に悪気がないだけに、余計に厄介だった。


「なあ、リディア」


「はい」


「今日って急ぎの仕事ある?」


「特にはありません。こちらの修理も納期には余裕がありますし、新しい装置の開発も急ぐ必要はありません」


「じゃあさ」


 和真は少し考えてから口を開いた。


「今日は休みにしないか?」


「……休み、ですか?」


「ああ」


「ですが、私は疲れていませんよ?」


「そうじゃなくてさ。たまには工房から出て、気分転換でもどうかなって」


 リディアが首を傾げる。


「気分転換なら、別の装置を作るのも楽しいですよ」


「いや、そうじゃなくて……」


 和真は思わず頭をかいた。


「外に出ようって話」


「外出ですか?」


「ああ。買い物したり、美味しいもの食べたり。そういう普通の休日」


「……なるほど」


 リディアは少し考え込んだ。


 そして、何かに納得したように頷く。


「つまり、和真は私を外へ連れ出したいのですね」


「まあ、そうなるな」


「……二人で?」


「ああ。せっかくだし、二人で行こうと思って」


 その瞬間。


 リディアの機械義手が、ぴたりと止まった。


「…………」


「リディア?」


「……二人で、ですか?」


「うん」


「……そうですか」


 彼女はゆっくりと作業台に工具を置いた。


「分かりました」


「お、いいのか?」


「はい。今日は休みにしましょう」


「ずいぶんあっさりだな」


「和真からのお誘いですから」


 リディアはそう言って、ほんの少しだけ微笑んだ。


「断る理由はありません」


 その表情を見て、和真は一瞬言葉を失った。


 普段のリディアは、落ち着いていて表情の変化も少ない。


 けれど、今の笑顔はどこか嬉しそうだった。


「……そっか。じゃあ、朝ご飯食べてから準備しよう」


「はい」


 リディアは頷くと、手際よく工具を片づけ始めた。


 先ほどまで作業に集中していた姿が嘘のようだった。


 和真はそんな彼女を見ながら、小さく笑った。


「……最初から誘えばよかったかな」


「何か言いました?」


「いや、何でもない」


 こうして、思いがけない二人の休日が始まった。


     ◇ ◇ ◇


 母屋のリビングでは、住人たちが思い思いの時間を過ごしていた。


「おや、珍しいねぇ」


 キッチンから顔を出した酒菜が、リディアを見て笑った。


「今日はずいぶん早く出てきたじゃないか」


「和真に誘われましたので」


「ん?」


 酒菜の視線が和真へ向く。


「誘われた?」


「ああ。今日はリディアと出かけようと思って」


「へぇ……」


 酒菜の口元が、にやりと緩んだ。


「そりゃいいじゃないか」


「……なんだよ、その顔」


「別に? たまには若い二人で出かけるのもいいだろうと思ってね」


「リディアのほうがずっと年上だけどな」


「年齢は関係ないだろ?」


 酒菜は楽しそうに笑った。


 その近くでお茶を飲んでいたユエも、二人へ視線を向ける。


「リディアが自分から工房を離れるなんて、珍しいわね」


「そうでしょうか?」


「ええ。普段は食事に呼んでも、なかなか来ないもの」


「……それは反省しています」


 リディアが素直に頭を下げる。


 その様子に、和真は苦笑した。


「今日は一日、仕事禁止な」


「一日ですか?」


「ああ」


「……分かりました」


「本当に?」


「はい。約束します」


 ユエは二人のやり取りを眺めながら、静かに微笑んだ。


「それなら、和真。今日はリディアをよろしくお願いしますね」


「うん。任せて」


 すると、ソファから小さな声が上がった。


「和真、どこか行くの?」


 フェンリスだった。


「ああ。今日はリディアと買い物に行ってくるよ」


「リディアと?」


「うん」


 フェンリスはリディアを見て、それから和真へ視線を戻した。


「そっか。楽しんできてね!」


「ありがとう」


「お土産は?」


「……フェンリス」


「えへへ、冗談だよ」


 いたずらっぽく笑うフェンリス。


 その隣で、みゆが尻尾を揺らしていた。


「にゃはは。リディアと二人っきりなんだ?」


「そうだけど?」


「ふぅん?」


「……なんだよ」


「別にぃ?」


 みゆは意味ありげに笑った。


 どうやら何か言いたそうだったが、それ以上は追及してこなかった。


 リディアはそんな二人を見つめ、小さく首を傾げる。


「……何かおかしいでしょうか?」


「ううん。全然!」


 みゆは楽しそうに笑う。


「リディアも、いっぱい楽しんできてね!」


「はい。ありがとうございます」


 リディアは静かに頷いた。


 その返事を聞きながら、和真は少しだけ不思議な気持ちになった。


 普段は誰かのために何かを作っているリディア。


 けれど、彼女自身が楽しむために外へ出る姿は、あまり見たことがない。


 今日は、そんな彼女の違う一面が見られるかもしれない。


 和真はそう思っていた。


     ◇ ◇ ◇


 朝食を終えた二人は、それぞれ着替えることになった。


 和真は自分の部屋で冬用の服に着替え、財布とスマートフォンを確認する。


 外は一月らしい寒さだ。


 厚手の上着を羽織り、準備を整えてリビングへ戻った。


「お待たせ」


 そう言いながら顔を上げた和真は、思わず足を止めた。


「……あれ?」


 そこには、いつもと少し違うリディアが立っていた。


 普段の作業服ではなく、落ち着いた雰囲気のニットにロングスカート。


 その上には冬用のコートを羽織っている。


 青緑色の髪も綺麗に整えられ、いつも頭につけているゴーグルはない。


 左右の機械義手は、長袖と手袋で自然に隠されていた。


「……どうでしょうか?」


 リディアが尋ねる。


「あ、いや……」


 和真は一度、彼女を上から下まで見てしまった。


「似合ってるよ」


「そうですか?」


「ああ。なんか新鮮だな」


「……嬉しいです」


 リディアは小さく微笑んだ。


 その表情がいつもより柔らかく見えて、和真は少しだけ目を奪われた。


「……和真?」


「あ、悪い」


「いえ」


 リディアは自分の服へ視線を落とす。


「実は、少し迷ったんです」


「服?」


「はい。普段は作業着ばかりですから。こういう服装で和真と出かける機会は、あまりありませんので」


「そっか」


「……おかしくありませんか?」


「全然。すごくいいと思う」


 和真が笑う。


 すると、リディアは少しだけ頬を赤くした。


「……ありがとうございます」


 そして、ほんの小さな声で付け加える。


「選んでよかったです」


 その言葉は、和真にもしっかり聞こえていた。


 ――俺と出かけるために、選んでくれたんだな。


 そう思うと、なんだか胸の奥が温かくなった。


「じゃあ、行こうか」


「はい」


 二人は並んで玄関へ向かった。


 その背中を、キッチンから酒菜が見送っていた。


「……まったく」


 酒菜は小さく笑う。


「和真も、少しは自分の気持ちに気づいてるのかねぇ」


 その声は、二人には届かなかった。


     ◇ ◇ ◇


 車に乗り込んだ二人は、街の大型ショッピングモールへ向かった。


 冬の空は澄んでいて、日差しも穏やかだった。


 車内には暖房が効いている。


 リディアは助手席から外の景色を眺めていた。


「こうして何も目的を決めずに外出するのも、久しぶりですね」


「そうだな」


「普段は必要な部品の調達か、仕事に関係する用事ばかりですから」


「今日は仕事のこと忘れていいぞ」


「……努力します」


「そこは即答してくれよ」


「私にとっては、少し難しいことですので」


 和真は笑った。


「じゃあ、今日は俺が付き合うよ」


「……何にですか?」


「リディアがやりたいこと全部」


「全部?」


「ああ。買い物でも、食事でも。行きたいところがあれば、遠慮なく言ってくれ」


 リディアは少し驚いたように和真を見た。


「……本当にいいんですか?」


「もちろん」


「では、和真」


「ん?」


「一つお願いがあります」


「何?」


 リディアは少し考えてから口を開いた。


「……今日は、あまり急がずに過ごしたいです」


「急がずに?」


「はい。いつもは時間を効率よく使うことばかり考えてしまいますから」


 リディアは窓の外に視線を戻した。


「今日は、和真とゆっくり過ごしてみたいです」


 その言葉を聞き、和真は小さく頷いた。


「分かった」


 そして、穏やかに笑った。


「じゃあ、のんびりしよう」


「……はい」


 リディアも微笑んだ。


 普段なら、一分一秒を無駄にしないように行動する彼女。


 けれど今日は違う。


 隣にいる和真と、ただ同じ時間を過ごしたい。


 それだけで十分だった。


     ◇ ◇ ◇


 ショッピングモールに到着した二人は、まず館内を歩いてみることにした。


 休日ということもあり、店内は多くの買い物客で賑わっていた。


 家族連れや友人同士、そして仲良く手をつないで歩く恋人たち。


 リディアはそんな人々を眺めながら、和真の隣を歩いていた。


「……和真」


「ん?」


「あちらのお店、見てもいいでしょうか?」


「ああ、もちろん」


 リディアが指さした先には、家電量販店があった。


「…………」


「…………」


 和真は思わず立ち止まった。


「リディア」


「はい?」


「今日は仕事を忘れる約束だったよな?」


「……見るだけです」


「本当に?」


「はい」


 少しだけ間が空く。


「……参考にはするかもしれませんが」


「やっぱり!」


 和真が笑う。


 リディアは少し困ったように眉を下げた。


「すみません。どうしても気になってしまって」


「いや、別に怒ってないよ」


 和真は笑いながら店の入口へ向かった。


「好きなものを見るのも休日だろ?」


「……いいんですか?」


「もちろん」


 リディアは目を瞬かせた。


 そして、嬉しそうに微笑む。


「ありがとうございます、和真」


 その笑顔を見て、和真は思った。


 ――やっぱり、連れ出してよかったな。


 いつも工房で見せる真剣な表情も、何かを完成させた時の満足そうな顔も知っている。


 けれど、こんなふうに無邪気に喜ぶ姿は、あまり見たことがなかった。


 いや。


 自分が今まで、ちゃんと見ようとしていなかっただけなのかもしれない。


 和真はそんなことを考えながら、リディアの後を追った。


 彼女がどんなものを見て、何を面白いと思い、どんな時に笑うのか。


 今日は、それをもっと知りたかった。


 そう思った理由については、まだ自分でもよく分からなかった。


 ただ一つ、確かなことがある。


 ――今日は、リディアと一緒にいてよかった。


 その気持ちだけは、はっきりしていた。


 家電量販店へ入った途端、リディアの足取りが軽くなった。


「……これは」


 入口付近に並んでいた最新型の掃除機を見つけ、早速立ち止まる。


「ずいぶん小型化されていますね。吸引力を維持したまま、ここまで軽量化できるとは……」


「リディア?」


「少し待ってください」


 彼女は展示品を手に取り、興味深そうに眺め始めた。


「なるほど。重心の位置を工夫しているんですね」


「……分かるのか?」


「持てばある程度は分かりますよ」


「さすがだな……」


 和真は苦笑した。


 しかし、リディアはすでに隣の製品へ興味を移していた。


「和真、こちらを見てください」


「今度は何?」


「この調理器具です。加熱温度を細かく制御できるようですね」


「ああ、低温調理器か」


「低温調理器……なるほど。面白いですね」


 リディアは説明書きを読み始めた。


「これなら食材の内部温度を一定に保てます。魔道具に応用すれば、火を使わずに調理できる装置も……」


「リディア」


「はい?」


「仕事」


「…………」


 リディアがぴたりと動きを止めた。


「……すみません」


「いや、いいんだけどさ」


 和真は笑いながら隣に並んだ。


「でも、そんなに気になるなら、ゆっくり見ていこうか」


「……よろしいんですか?」


「もちろん。今日はリディアの休日だからな」


 その言葉に、リディアは少し考えるような表情を浮かべた。


「……休日、ですか」


「ああ」


「では、少しだけ楽しませてもらいますね」


「うん」


 和真は頷いた。


 だが、その『少しだけ』が問題だった。


     ◇ ◇ ◇


 ――三十分後。


「……和真」


「ん?」


「こちらの製品も興味深いですね」


「今度は何だ?」


「小型の衣類乾燥機です」


「へぇ」


「内部の空気循環を工夫しているようです。これなら魔力消費を抑えた乾燥装置が……」


「リディア」


「……はい」


「また仕事になってる」


「…………」


 リディアは気まずそうに目を逸らした。


「……どうも、癖が抜けませんね」


「まあ、好きなことだから仕方ないよな」


 和真が笑う。


 すると、リディアも小さく微笑んだ。


「和真は、退屈ではありませんか?」


「全然」


「本当に?」


「ああ。リディアが楽しそうだから」


「…………」


 彼女は少し驚いたように和真を見上げた。


「……そうですか」


 そして、展示品をそっと元の場所へ戻した。


「では、そろそろ別のお店へ行きましょう」


「もういいのか?」


「はい。十分楽しめましたから」


 そう言って歩き出そうとしたリディアだったが、不意に足を止めた。


「……あ」


「どうした?」


「一つだけ、見忘れたものがありました」


「何?」


「工具売り場です」


「結局そこか!」


 和真が思わず笑う。


 リディアも少しだけ頬を緩めた。


「……冗談ですよ」


「えっ?」


「今日は仕事をしない約束ですから」


 そう言って、いたずらっぽく微笑んだ。


 和真は目を丸くする。


「……リディアも、そういう冗談言うんだな」


「私だって冗談くらい言いますよ」


「いや、なんか新鮮でさ」


「そうでしょうか?」


「ああ」


 和真が笑うと、リディアもつられるように笑った。


 その笑顔は、いつもの工房で見せるものとは少し違っていた。


     ◇ ◇ ◇


 家電量販店を出た二人は、ショッピングモールの中央通路を歩いていた。


「さて、次はどこに行こうか」


「そうですね……」


 リディアは周囲を見渡した。


 洋服店、雑貨店、アクセサリーショップ。


 様々な店が並んでいる。


 普段なら必要なものを購入するためだけに訪れる場所だ。


 こうして目的もなく歩くことは、ほとんどなかった。


「和真は、何か見たいものはありませんか?」


「俺?」


「はい。私ばかりでは申し訳ありませんから」


「別に気にしなくていいよ」


「ですが……」


「じゃあ、そうだな」


 和真は少し考えてから、近くの洋服店を指さした。


「リディアの服でも見に行かない?」


「……私の、ですか?」


「ああ」


「服なら、今着ているもので十分ですが……」


「いや、そうじゃなくてさ」


 和真は笑った。


「せっかくだし、普段と違う服も見てみたいなって」


「……普段と違う服」


 リディアは自分の服装に視線を落とした。


 今日は和真と出かけるために、少し時間をかけて選んだものだ。


 けれど、彼が自分の服に興味を持ってくれるとは思っていなかった。


「……和真は、私に似合う服を選んでくれるんですか?」


「俺でよければ」


「では、お願いします」


「お、おう」


 予想以上に素直な返事だった。


 和真は少し驚きながらも、リディアと一緒に店へ向かった。


     ◇ ◇ ◇


 店内には、冬物の洋服が数多く並んでいた。


 ニットやスカート、ワンピース。


 奥には春物の新作も少しずつ並び始めている。


「……種類が多いですね」


「そうだな」


「皆さん、こういうお店で服を選んでいるんでしょうか?」


「みゆやフェンリスは結構好きそうだな」


「確かに。二人とも服を選ぶのが楽しそうですから」


 リディアは頷いた。


「私は機能性を優先してしまうので、あまり詳しくありません」


「まあ、工房で作業するなら動きやすさが大事だもんな」


「はい。袖が広い服は工具に引っかかる可能性がありますし、装飾の多い服も作業には向きません」


「……今日は工房のこと忘れような?」


「……そうでした」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 その時だった。


「こちらはいかがでしょうか?」


 近くにいた女性店員が声をかけてきた。


 手にしていたのは、柔らかな生地のワンピースだった。


「上品なデザインなので、普段のお出かけにも使いやすいですよ」


「……ワンピースですか」


 リディアは興味深そうに眺めた。


「よろしければ、ご試着されますか?」


「いえ、私は……」


 遠慮しようとしたリディアへ、和真が声をかける。


「着てみたら?」


「……和真?」


「似合うと思うけどな」


 その言葉に、リディアは目を瞬かせた。


 そして、少しだけ頬を赤くする。


「……では、試着してみます」


 店員に案内され、リディアは試着室へ向かった。


 和真は近くの椅子に座って待つことにした。


 しばらくして。


「……和真」


「ん?」


「少し、見てもらえますか?」


 声のした方へ顔を向ける。


 試着室のカーテンが開いていた。


 そこには、先ほどまでとは違う雰囲気のリディアが立っていた。


 柔らかな生地のワンピースは、彼女の落ち着いた雰囲気によく似合っていた。


 身長百六十五センチのすらりとした体型も相まって、普段より大人びて見える。


 いつもの作業着姿からは想像できないほど、女性らしい装いだった。


「…………」


「……和真?」


「あ……」


 和真は一瞬、言葉を忘れていた。


「ご、ごめん」


「……変でしょうか?」


「いや、逆」


「逆?」


「すごく似合ってる」


 リディアの目が、わずかに大きくなった。


「……本当ですか?」


「ああ。綺麗だと思う」


「…………」


 今度はリディアが黙ってしまった。


 そして、ゆっくりと視線を落とす。


「……ありがとうございます」


 その頬は、先ほどよりも赤くなっていた。


 和真も、自分が口にした言葉を思い返す。


 ――綺麗、か。


 思ったことが、そのまま口から出ていた。


 けれど、嘘ではなかった。


 今のリディアは、本当に綺麗だった。


 いつも工房で工具を握り、真剣な表情で作業している彼女。


 その姿も十分魅力的だと思っていた。


 けれど、こうして普段と違う服装をしていると、改めて気づかされる。


 リディアは、ただ頼りになる技術者というだけではない。


 一人の女性なのだと。


「……和真」


「ん?」


「もう一着、試してみてもいいでしょうか?」


「ああ、もちろん」


「では、少し待っていてください」


 リディアは小さく微笑み、再びカーテンを閉めた。


 その後も、何着か試着することになった。


 落ち着いたデザインのニット。


 少し可愛らしい雰囲気のブラウス。


 そして、普段なら選ばないようなスカート。


 そのたびに和真へ感想を尋ねるリディア。


 和真も一着ずつ、真剣に答えていた。


 気づけば、二人ともすっかり服選びに夢中になっていた。


     ◇ ◇ ◇


「……少し、意外でした」


 試着を終えたリディアが、鏡の前でつぶやいた。


「何が?」


「服を選ぶのが、こんなに楽しいとは思っていませんでした」


「そう?」


「はい」


 リディアは鏡に映る自分を見つめた。


「普段は必要なものを買うだけでしたから。試着して、誰かに感想を聞いて……こういう時間は新鮮です」


「そっか」


「それに……」


 彼女は和真へ視線を向ける。


「和真が選んでくれるのも、嬉しいです」


「……そう言ってもらえると、俺も嬉しいよ」


 和真が笑う。


 リディアも静かに微笑み返した。


 結局、試着した中からワンピースとニットを一着ずつ購入することになった。


 会計を済ませ、店を出る。


「いい買い物ができたな」


「はい。大切に着ます」


「でも、工房では着るなよ?」


「分かっています」


 リディアは少し笑った。


「……次に和真と出かける時に、着ようと思います」


「…………」


 和真は一瞬、返事に詰まった。


 けれど、すぐに笑顔を浮かべる。


「じゃあ、また出かけないとな」


「……はい」


 リディアは嬉しそうに頷いた。


     ◇ ◇ ◇


 洋服店を出た二人は、今度は雑貨店へ立ち寄った。


 店内には可愛らしい食器や小物、冬用のマフラーなどが並んでいる。


「こういうお店も、あまり来ないのか?」


「そうですね。日用品は必要な時にまとめて購入しますので」


「じゃあ、今日はゆっくり見ていこう」


「はい」


 リディアは棚に並んだ小物を眺めていた。


 その途中、あるものに目を留める。


「……これは」


「ん?」


 和真が覗き込む。


 そこには、小さな置き時計が並んでいた。


 木製の丸い時計で、文字盤には可愛らしい模様が描かれている。


「時計?」


「はい」


「気に入った?」


「……少し」


 リディアは時計を手に取った。


「工房には時間を確認するための時計しかありませんから」


「……普通、時計ってそういうものじゃないか?」


「そうですね」


 リディアは小さく笑った。


「ですが、こちらは少し違います」


「違う?」


「はい。時間を見るためというより、眺めて楽しむためのものにも思えます」


 そう言いながら、時計をそっと棚へ戻す。


「今まで、こういうものを部屋に置こうと考えたことがありませんでした」


「……そっか」


 和真は時計を眺めた。


 いつも何かを作り続けているリディア。


 彼女の工房には、便利な道具も、珍しい装置も、数えきれないほどある。


 けれど、ただ眺めて楽しむだけのものは、あまりなかった。


「……なあ、リディア」


「はい?」


「これ、買っていかない?」


「……時計をですか?」


「ああ」


「ですが、工房には時計がありますよ?」


「そうじゃなくてさ」


 和真は笑った。


「今日の記念に」


「……記念?」


「リディアの休日の記念」


 リディアは少し驚いたように和真を見た。


「……私の、休日の」


「うん。せっかく二人で出かけたんだし、何か残るものがあってもいいかなって」


 和真は時計を手に取った。


「それに、これを見たら思い出せるだろ?」


「何をですか?」


「仕事を休んで、のんびりした日のこと」


「…………」


 リディアはしばらく時計を見つめていた。


 そして、ゆっくりと手を伸ばす。


「……そうですね」


 その表情が、柔らかくなる。


「では、これをいただきます」


「よし」


「ですが、和真」


「ん?」


「一つ、お願いがあります」


「何?」


 リディアは時計を胸元で大切そうに抱えた。


「……これは、私に買わせてください」


「え?」


「自分で選んで、自分のために買うものにしたいんです」


 和真は少し驚いた。


 けれど、すぐにその意味を理解した。


「……そっか」


「はい」


「分かった。じゃあ、それはリディアの買い物だな」


「ありがとうございます」


 リディアは嬉しそうに微笑んだ。


 今まで、誰かの役に立つものばかり作ってきた。


 住人たちの生活を便利にするため。


 和真たちを守るため。


 自分の技術を役立てるため。


 それは彼女にとって、大切な生きがいだった。


 けれど今日は違う。


 誰かのためではなく、自分自身のために選んだもの。


 それが、こんなにも嬉しい。


 リディアは初めて、そんな気持ちを知った気がした。


     ◇ ◇ ◇


 買い物を終え、二人は再び通路を歩き始めた。


 店内は先ほどよりも混雑している。


 昼食の時間が近づき、飲食店のあるフロアへ向かう客も増えてきたようだった。


「……結構混んできたな」


「そうですね」


 和真は周囲を見渡した。


 家族連れやカップルが行き交い、通路は少し歩きにくくなっていた。


「リディア、こっち」


 和真が声をかける。


「はい」


 彼女が近づこうとした、その時。


 横から小さな子供が走ってきた。


「わっ!」


 和真は咄嗟に足を止める。


 リディアも子供を避けようとしたが、後ろから来た買い物客にぶつかりそうになった。


「おっと」


 和真は反射的にリディアの手を取った。


「大丈夫?」


「……はい」


 彼女を自分の方へ引き寄せる。


 子供はそのまま走り去り、慌てた母親が後を追っていった。


「……危なかったな」


「そうですね」


 リディアは頷いた。


 しかし、その視線は別の場所へ向いていた。


 和真に握られた、自分の手。


 正確には、手袋に包まれた機械義手だった。


「……和真」


「ん?」


「手を……」


「あっ、ごめん!」


 和真は慌てて手を離そうとした。


 しかし。


「……いえ」


 リディアが、そっと握り返した。


「……このままでも、よろしいですか?」


「…………」


 和真は少し驚いた。


 リディアは顔を上げ、静かに見つめてくる。


 その表情は普段と大きく変わらない。


 けれど、頬がほんのり赤くなっていた。


「……人が多いですから」


「あ、ああ」


 和真は頷いた。


「そうだな。はぐれても困るし」


「……はい」


 二人はそのまま歩き始めた。


 手袋越しに伝わる、機械義手の感触。


 普通の人間の手とは少し違う。


 けれど、和真には何の違和感もなかった。


 それは、リディアの手なのだから。


 むしろ、普段より少し小さく握り返してくる力が、彼女の気持ちを伝えているように思えた。


 ――そういえば。


 和真はふと、以前リディアから想いを伝えられた時のことを思い出した。


 あの時、彼女は真剣だった。


 冗談でも、気まぐれでもない。


 自分の気持ちを、まっすぐに伝えてくれた。


 それなのに、和真はまだはっきりとした返事をしていない。


 彼女がそのことを責めたことは、一度もなかった。


 今もこうして隣を歩き、穏やかに笑っている。


 ――俺は、リディアのことをどう思ってるんだろうな。


 もちろん、大切な存在だ。


 頼りになる仲間であり、一緒に暮らす家族でもある。


 困った時にはいつも力を貸してくれる。


 誰かが怪我をすれば必要な道具を作り、住人たちが不便を感じれば改善しようとする。


 その優しさも、努力も、和真は知っていた。


 けれど。


 今日、彼女が普段と違う服装で現れた時。


 ワンピース姿を見た時。


 そして、今こうして手をつないでいる時。


 胸の奥に生まれた気持ちは、ただの仲間に向けるものとは少し違う気がした。


「……和真?」


「え?」


「どうかしましたか?」


「あ、いや……」


 和真は慌てて笑った。


「なんでもないよ」


「……そうですか?」


「ああ」


 リディアは少し不思議そうに首を傾げた。


 けれど、それ以上は追及しなかった。


 代わりに、つないだ手へ視線を落とす。


「……和真」


「ん?」


「今日は、本当に楽しいです」


「そっか」


「はい」


 リディアは穏やかに微笑んだ。


「仕事を休んでよかったと思っています」


「それなら、誘った甲斐があったな」


「……また、誘っていただけますか?」


 和真は彼女を見た。


 そこには、少しだけ期待を込めた金色の瞳があった。


「もちろん」


 自然と返事が出た。


「今度は、リディアが行きたいところを考えておいてよ」


「……いいんですか?」


「ああ。俺も一緒に行きたいし」


「…………」


 リディアは一瞬、足を止めそうになった。


 けれど、すぐに小さく頷いた。


「……はい」


 そして、握っていた和真の手に、ほんの少しだけ力を込めた。


     ◇ ◇ ◇


 しばらく歩いていると、和真のお腹が小さく鳴った。


 ――ぐぅ。


「…………」


「…………」


 リディアが足を止める。


「……和真?」


「……聞こえた?」


「はい」


「……そっか」


 和真は気まずそうに頭をかいた。


 すると、リディアが小さく笑った。


「ふふっ……」


「わ、笑うなよ」


「すみません。ですが……」


 リディアは口元に手を添えた。


「和真らしいと思いまして」


「どういう意味だよ」


「いえ、なんでもありません」


 そう言いながら、もう一度笑う。


 その笑顔につられて、和真も笑った。


「……そういえば、もう昼か」


「そうですね」


「何か食べに行こうか」


「はい」


「リディアは何が食べたい?」


「……そうですね」


 リディアは少し考えた。


 そして、和真を見上げる。


「和真のおすすめを食べてみたいです」


「俺の?」


「はい。今日は和真と一緒に、普段とは違うことを楽しみたいので」


「……なるほど」


 和真は周囲の飲食店を見渡した。


 和食、洋食、中華料理。


 いろいろな店が並んでいる。


 その中で、一軒の店が目に入った。


「あ、あそこなんてどうかな?」


 和真が指さした先には、落ち着いた雰囲気の洋食レストランがあった。


「……洋食屋さんですか?」


「ああ。パスタとかハンバーグとか、いろいろあるみたいだし」


「いいですね」


「じゃあ、あそこにしよう」


「はい」


 二人は並んでレストランへ向かった。


 そして、店の入口に近づいたところで、和真はふと気づいた。


 まだ、手をつないだままだった。


 リディアも、それに気づいているはずだった。


 けれど、彼女は何も言わない。


 ただ、嬉しそうに隣を歩いている。


 ――まあ、いいか。


 和真は小さく笑った。


 今は、このままでいたかった。


 少なくとも、彼女と一緒に過ごす時間が心地いいことだけは確かだった。


 その気持ちに、今すぐ名前をつける必要はない。


 けれど、いつまでも曖昧なままにはできないことも分かっていた。


 和真はそっと、リディアの手を握り直した。


「……和真?」


「ん?」


「……いえ」


 リディアは少し照れたように微笑んだ。


「なんでもありません」


 二人はそのまま店の扉をくぐった。


 まだ、休日は終わらない。


 レストランの扉を開けると、食欲をそそる香りが二人を迎えた。


 焼きたてのパンの香ばしい匂い。


 肉料理の焼ける音。


 そして、店内を満たす温かな空気。


「いらっしゃいませ。二名様でしょうか?」


「はい、二人です」


「かしこまりました。こちらへどうぞ」


 女性店員に案内され、二人は窓際の席へ向かった。


 四人掛けのテーブルだったが、向かい合って座るには十分な広さだった。


 和真が手を離そうとすると、リディアもそっと指をほどいた。


「……ありがとうございました」


「ん?」


「手をつないでいただいて」


「ああ、いや……」


 改めてお礼を言われると、なんだか照れくさい。


「別に、そんな大したことじゃないよ」


「……私には、嬉しいことでしたよ」


 リディアはそう言って微笑んだ。


 和真は返す言葉が見つからず、とりあえず椅子を引いた。


「ほら、座ろう」


「はい」


 リディアは少し楽しそうに笑いながら席についた。


     ◇ ◇ ◇


 コートを脱ぎ、席を整える。


 リディアは手袋を外すと、綺麗に折り畳んでバッグの横へ置いた。


 袖口から覗く金属製の指先。


 細かな関節が動き、メニュー表を器用に開く。


「……いろいろありますね」


「結構種類が多いな」


「和真は何にしますか?」


「俺は……このハンバーグかな」


 和真が指さしたのは、鉄板に乗ったデミグラスハンバーグだった。


「美味しそうですね」


「リディアは?」


「私は……」


 リディアは真剣な表情でメニューを眺めていた。


 その姿を見て、和真は思わず笑ってしまう。


「……どうしました?」


「いや、なんかさ」


「はい?」


「工房で設計図を見てる時と、同じ顔してるなって」


「……そうでしょうか?」


「ああ。すごい真剣」


「料理を選ぶのも大切なことですから」


「そんなに?」


「はい。せっかくの休日ですので、後悔のない選択をしたいと思いまして」


「ははっ! 大げさだなぁ」


 リディアは少し頬を膨らませた。


「和真は笑いすぎです」


「ごめんごめん」


 けれど、リディアもすぐに笑った。


 結局、彼女が選んだのは海老ときのこのグラタンだった。


「グラタンか」


「はい。以前、酒菜さんが作ってくださったものが美味しかったので、こちらも食べてみたくなりました」


「なるほどな」


「それに、写真を見る限りでは具材の組み合わせもよさそうです」


「また分析してる」


「……料理に関しては、よろしいのでは?」


「まあ、それはそうか」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 注文を済ませると、店員がお冷やを運んできた。


 リディアはグラスに手を伸ばし、小さく一口飲む。


「……こういう時間も、いいものですね」


「まだ料理来てないぞ?」


「ふふっ。そういう意味ではありませんよ」


 彼女は穏やかに微笑んだ。


「何もせず、ただ誰かと話しながら過ごす時間です」


「ああ、そっちか」


「はい」


 リディアは店内を見渡した。


 窓際で談笑する老夫婦。


 楽しそうに食事をする家族連れ。


 向かい合って笑う若い恋人たち。


 それぞれが、自分たちの時間を楽しんでいる。


「……少し、不思議です」


「何が?」


「以前の私なら、こうして座っている間にも、次に何を作るか考えていたと思います」


「今は考えてないの?」


「……少しだけ」


「考えてるじゃん!」


「ですが、いつもとは違います」


 リディアは静かに和真を見つめた。


「今は、目の前にいる人との時間を大切にしたいと思っていますから」


「…………」


 和真は思わず彼女を見返した。


 金色の瞳は、まっすぐ自分へ向けられている。


 そこには何の迷いもなかった。


「……そっか」


「はい」


「じゃあ、俺もそうするよ」


 和真が笑う。


「今日はリディアと過ごす日だからな」


「……ありがとうございます」


 リディアは嬉しそうに微笑んだ。


     ◇ ◇ ◇


 しばらくすると、料理が運ばれてきた。


「お待たせいたしました。デミグラスハンバーグと、海老ときのこのグラタンでございます」


「ありがとうございます」


 和真の前には、熱々の鉄板に乗ったハンバーグ。


 リディアの前には、こんがり焼き色のついたグラタンが置かれた。


「おお、美味そう!」


「こちらも、とてもいい香りですね」


 リディアは嬉しそうにグラタンを眺める。


 和真はナイフでハンバーグを切り分け、一口頬張った。


「……うまっ」


「ふふっ。よかったですね」


「うん。リディアのも美味そうだな」


「では、いただきます」


 リディアはスプーンを手に取り、グラタンを少しすくった。


 とろりと伸びるチーズ。


 湯気を立てるホワイトソース。


 慎重に息を吹きかけてから、口へ運ぶ。


「…………」


 その瞬間。


 リディアの表情が、ふわりと緩んだ。


「……美味しいです」


「おっ、よかったな」


「はい。海老の食感もいいですし、ソースも滑らかで……」


 リディアはもう一口食べる。


「……これは、家でも作ってみたいですね」


「また研究?」


「いえ、今度は料理です」


「同じようなもんじゃないか?」


「違いますよ」


 リディアは真面目な顔で答えた。


「自分で食べたいものを作るんですから」


 その言葉に、和真は少し驚いた。


 そして、すぐに笑った。


「……そっか。それならいいか」


「はい」


 リディアも微笑む。


 彼女のそういうところが、和真は好きだった。


 興味を持ったものには、とことん向き合う。


 新しいものを見つければ、自分なりに理解しようとする。


 その真面目さは、工房の外でも変わらない。


 けれど今日は、その姿がいつも以上に可愛らしく見えていた。


「……和真?」


「ん?」


「また私の顔を見ていますよ?」


「えっ?」


「何かついていますか?」


 リディアは口元に手を当てた。


「いや、何もついてないよ」


「では、どうして?」


「……美味しそうに食べるなって思って」


「……そうですか?」


「ああ」


 和真は笑った。


「なんか、見てるこっちまで嬉しくなる」


「…………」


 リディアは少しだけ目を伏せた。


「……そういうことを、自然に言ってしまうんですね」


「え?」


「いえ、なんでもありません」


 そう言いながら、彼女はもう一口グラタンを食べた。


 その頬は、ほんのり赤くなっていた。


     ◇ ◇ ◇


 食事が半分ほど進んだ頃。


「……和真」


「ん?」


「一つ、お聞きしてもいいでしょうか?」


「もちろん」


 リディアはスプーンを置いた。


「和真は、どうして今日、私を誘ってくださったんですか?」


「どうしてって……」


「普段、私が工房にこもっているのは、いつものことですから」


「ああ」


「それなのに、今日はわざわざ外へ連れ出してくれました」


 リディアは少し首を傾げた。


「何か、きっかけがあったのでしょうか?」


 和真は水を一口飲んだ。


 そして、少し考える。


「……まあ、最初は単純に心配だったんだよ」


「心配、ですか?」


「ああ。昨日からほとんど休んでないって聞いてさ」


「……すみません」


「謝らなくていいって」


 和真は苦笑した。


「リディアが仕事好きなのは知ってるし、無理にやめさせたいわけじゃないんだ」


「はい」


「でもさ……」


 和真は言葉を探した。


「たまには、自分のために時間を使ってほしいなって思ったんだよ」


「……自分のために」


「ああ」


 リディアは黙って和真を見つめた。


「リディアって、いつも誰かのために何かしてるだろ?」


「そうでしょうか?」


「そうだよ。みんなが困ってたらすぐに助けてくれるし、俺が何か頼んでも嫌な顔一つしないし」


 和真は少し笑う。


「この前の紅月の腕輪だってそうだしさ」


「……あれは、必要なものですから」


「うん。でも、作ってくれて助かったよ」


 リディアは視線を落とした。


 少し前、紅月が人間の姿へ変化したばかりの頃。


 その姿を維持するための腕輪を用意したのも、彼女だった。


 和真たちにとっては大きな助けだったが、リディア自身は特別なことをしたつもりはなかった。


「……私にできることを、しただけですよ」


「それでも、だよ」


 和真は穏やかに続けた。


「だから今日は、リディアが楽しむ日になればいいなって」


「…………」


「まあ、最初はそれだけだったんだけど……」


 和真は少し照れくさそうに笑った。


「今は、俺も結構楽しんでる」


「……和真も?」


「ああ」


 彼ははっきりと頷いた。


「リディアと二人で出かけるの、思ってた以上に楽しいよ」


「…………」


 リディアはしばらく何も言わなかった。


 そして、ゆっくりと微笑んだ。


「……嬉しいです」


 その声は、少しだけ震えていた。


     ◇ ◇ ◇


 食事を再開してからも、二人の会話は途切れなかった。


 家電量販店で見つけた面白い製品。


 先ほど試着した洋服のこと。


 空色唐辛子荘の住人たちのこと。


 話題は次々と変わっていった。


「そういえば、紅月の腕輪は調子よさそうだな」


「はい。今のところ大きな問題はありません」


「よかった」


「ただ、あの子の場合は……」


「ん?」


「腕輪よりも、使う本人のほうが問題ですね」


「……ああ」


 和真は思わず苦笑した。


 落ち着きのない紅月。


 和真かあおいの姿を見つければ、すぐに駆け寄ってくる。


 少し目を離すだけで、どこへ行くか分からない。


「この前も、工房に入ろうとしていましたから」


「えっ、そうなの?」


「はい。扉の前で何度も私を呼んでいました」


「何しに?」


「和真を探していたようです」


「……やっぱり」


「中にいないと伝えたら、今度はあおいを探しに行きましたよ」


「あいつ、本当に元気だな……」


「ふふっ。そうですね」


 リディアは楽しそうに笑った。


「ですが、あの子が来てから、ずいぶん賑やかになりました」


「確かにな」


「私は、今の空色唐辛子荘が好きですよ」


 その言葉に、和真は顔を上げた。


「……そっか」


「はい」


 リディアは窓の外へ視線を向ける。


「以前は、自分の工房さえあれば十分だと思っていました」


「……うん」


「作りたいものを作って、研究を続ける。それだけでも、私は満足できたと思います」


 彼女は少しだけ笑った。


「ですが、今は違います」


「違う?」


「はい。誰かと食事をしたり、くだらない話をしたり……時には騒がしすぎるくらいの毎日を過ごしたり」


 リディアは和真へ視線を戻した。


「そういう時間も、悪くないと思えるようになりました」


「……そっか」


「それに……」


 彼女は言葉を切った。


 ほんの少しだけ、頬を赤くする。


「……大切にしたい人も、できましたから」


「…………」


 和真は何も言えなかった。


 リディアは微笑んだまま、静かに続ける。


「和真。今日は、改めて何かを伝えようとしているわけではありませんよ」


「……うん」


「以前、お話しした気持ちは変わっていません。ですが、返事を急いでほしいとも思っていません」


 その声音は穏やかだった。


「今日は、こうして一緒に過ごせていることが嬉しいんです」


 和真は彼女を見つめた。


 リディアは、いつもこうだった。


 自分の気持ちを隠すわけではない。


 けれど、それを相手に押しつけることもしない。


 彼女なりに和真を大切にしようとしている。


 そのことが、今なら以前よりもよく分かる気がした。


「……リディア」


「はい?」


「俺さ」


 和真は少しだけ言葉に迷った。


「……まだ、ちゃんと答えられてないよな」


「そうですね」


 リディアは静かに頷いた。


「……ごめん」


「謝らないでください」


「でも……」


「和真には、和真の気持ちがありますから」


 彼女は穏やかに微笑んだ。


「私は、それを大切にしてほしいんです」


「…………」


「もちろん、いつまでも待てると約束するつもりはありませんけどね」


「……えっ?」


 和真が驚いて顔を上げる。


 すると、リディアは少しいたずらっぽく笑った。


「私だって、時々は欲張りになりますよ」


「……リディア?」


「ふふっ。冗談です」


「……なんだよ、びっくりした」


「ですが……半分は本気です」


「えっ?」


 再び驚く和真。


 そんな彼を見て、リディアは楽しそうに笑った。


「今日は、少しくらいわがままを言ってもいい日なのでしょう?」


「……ああ、そうだったな」


「では、もう少しだけ私に付き合ってくださいね」


「もちろん」


 和真は笑って頷いた。


 彼女のそんな一面も、今まで知らなかった。


 そして、もっと見てみたいと思っている自分がいた。


     ◇ ◇ ◇


 食事を終えた二人は、食後の飲み物を注文した。


 和真はコーヒー。


 リディアは温かい紅茶を選んだ。


 窓の外では、冬の日差しがショッピングモールの中庭を照らしている。


 午後になり、買い物客の数も少しずつ増えているようだった。


「……和真」


「ん?」


「今日は、不思議な一日ですね」


「そう?」


「はい。朝は、工房で作業をしているはずでしたから」


「確かに」


「それが、今はこうして和真と食事をして……」


 リディアはカップを両手で包む。


「新しい服まで買ってしまいました」


「いいじゃないか」


「そうですね」


 彼女は小さく笑った。


「しかも、次に着る日が楽しみになっています」


「……また出かける時?」


「はい」


 リディアは穏やかに頷いた。


「今度は、どこへ行きましょうか」


「もう次の予定?」


「……気が早いでしょうか?」


「いや、全然」


 和真は笑った。


「次は少し遠出してみるのもいいかもな」


「遠出ですか?」


「ああ。景色のいい場所とか、温泉とか」


「温泉……」


 リディアは少し考え込んだ。


「それも楽しそうですね」


「だろ?」


「ですが、和真」


「ん?」


「一つだけ、お願いしてもいいですか?」


「何?」


 リディアは少しだけ身を乗り出した。


「次も、二人で行きたいです」


「…………」


 和真は一瞬、動きを止めた。


 その言葉に特別な意味があることは、さすがに分かっていた。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 むしろ。


「……うん」


 和真は静かに頷いた。


「俺も、リディアと二人で行きたいな」


「…………」


 リディアの金色の瞳が、大きく見開かれた。


「……本当ですか?」


「ああ」


「……そうですか」


 彼女はゆっくりと視線を落とした。


 そして、嬉しそうに微笑んだ。


「……楽しみにしていますね」


「うん」


 その笑顔を見て、和真の胸が少しだけ高鳴った。


 ――俺も、楽しみなんだよな。


 リディアと二人で出かける次の休日。


 今度はどんな服を着てくるのだろう。


 何を見て喜ぶのだろう。


 どんな話をするのだろう。


 そんなことを自然と考えている自分に気づき、和真は少し驚いた。


 ――あれ?


 今まで、こんなふうに考えたことがあっただろうか。


 リディアの笑顔を見るのが嬉しい。


 彼女が楽しんでくれると、自分まで楽しくなる。


 そして、また二人で過ごしたいと思っている。


 それは、単に仲間として大切だからなのか。


 それとも……。


 和真はカップを口元へ運んだ。


 コーヒーの苦みが、いつもより少しだけ強く感じられた。


     ◇ ◇ ◇


 レストランを出る頃には、午後二時を少し過ぎていた。


「ごちそうさまでした」


「美味しかったな」


「はい。とても」


 リディアは満足そうに頷いた。


「また食べに来たいですね」


「ああ。今度は別の料理も食べてみたいな」


「……では、次の機会に」


「うん」


 二人は並んで歩き始めた。


 食事前と比べると、館内の人通りも少し落ち着いている。


 和真はリディアの手元へ、ちらりと視線を向けた。


 手袋に包まれた機械義手。


 先ほどまで、当たり前のようにつないでいた手だった。


「……リディア」


「はい?」


 和真は少し迷った。


 けれど、思い切って手を差し出す。


「……手、つなぐ?」


「…………」


 リディアが足を止めた。


 先ほどは、人混みの中で自然とつないだ手。


 けれど、今は違う。


 周囲には十分な余裕がある。


 はぐれる心配もない。


 それでも、和真は自分から手を差し出していた。


「……和真」


「嫌なら、別に……」


「いいえ」


 リディアは静かに首を振った。


 そして、差し出された手をそっと握った。


「……嬉しいです」


 その笑顔を見て、和真も自然と笑みを浮かべた。


「じゃあ、行こうか」


「はい」


 二人は再び歩き始めた。


 今度は、どちらも手を離そうとはしなかった。


     ◇ ◇ ◇


 しばらく歩いていると、リディアがふと足を止めた。


「……和真」


「ん?」


「少し、外へ出てみませんか?」


「外?」


「はい。中庭が綺麗でしたので」


 リディアが指さした先には、ガラス扉の向こうに広がる屋外庭園があった。


 冬の花々が植えられた花壇。


 綺麗に整えられた遊歩道。


 そして、その中央には小さな噴水が見える。


「いいな。行ってみようか」


「はい」


 二人はコートを整え、外へ出た。


 途端に、冷たい冬の空気が頬を撫でた。


「うわっ、寒っ!」


「ふふっ。やはり外は冷えますね」


「リディアは平気そうだな」


「私はこれくらいなら大丈夫ですよ」


「さすがだな……」


 和真は肩をすくめた。


 リディアはそんな彼を見て、少し楽しそうに笑う。


 そして。


「……和真」


「ん?」


「こちらへ」


 彼女はつないでいた手を軽く引いた。


 中庭の奥に、小さなベンチがあった。


 ちょうど日差しが差し込み、そこだけ少し暖かそうに見える。


「少し、座りませんか?」


「ああ、いいよ」


 二人は並んでベンチへ腰を下ろした。


 冬の空は青く澄み渡っている。


 遠くから聞こえる子供たちの笑い声。


 風に揺れる木々の音。


 そして、隣に座るリディアの穏やかな横顔。


 和真は、なんとなくその景色を眺めていた。


 ――こういう時間も、悪くないな。


 何か特別なことをしているわけではない。


 ただ一緒に買い物をして、食事をして、こうして座っているだけ。


 それなのに、不思議と満たされた気持ちになっていた。


「……和真」


「ん?」


 リディアが、少しだけ体を寄せてきた。


「……もう少し、近くに座ってもいいでしょうか?」


 和真は彼女を見た。


 そこには、いつもの落ち着いた表情があった。


 けれど、その瞳には少しだけ甘えるような色が浮かんでいた。


「……いいよ」


 そう答えると、リディアは嬉しそうに微笑んだ。


 そして、和真の肩にそっと寄り添った。


「……温かいですね」


「……そうだな」


 和真は小さく笑った。


 肩越しに伝わる彼女の体温。


 青緑色の髪が、コートの肩口にさらりと触れる。


 普段なら、きっと意識しなかった距離。


 けれど今日は、その近さが妙に気になった。


 ――リディアって、こんなに甘えるんだな。


 そう思いながら、和真は隣の彼女を見下ろした。


 すると、リディアが小さくつぶやいた。


「……幸せです」


「……え?」


「今日、和真が誘ってくれて……本当によかったです」


 彼女は顔を上げずに続けた。


「何かを完成させた時とも、難しい問題を解決できた時とも違う……そんな嬉しさがあります」


「……うん」


「……こういう気持ちも、あるんですね」


 和真は何も言わなかった。


 ただ、そっと彼女の手を握った。


 すると、リディアも静かに握り返してくる。


 しばらくの間、二人は何も話さなかった。


 冬の日差しが、寄り添う二人を優しく照らしていた。


 そして和真は、ようやく自分の中に生まれ始めた気持ちを、少しずつ理解しようとしていた。


 ――俺は、リディアを……。


 その先の言葉は、まだはっきりと形にならなかった。


 けれど。


 彼女が隣にいることが嬉しい。


 また笑ってほしい。


 もっと一緒に過ごしたい。


 今は、その気持ちを大切にしたかった。


第七十二話 リディアの休日


後編


 冬の澄んだ空の下。


 二人はしばらく、ベンチに並んで座っていた。


 リディアは和真の肩に寄り添い、静かに目を細めている。


 つないだ手は、そのままだった。


「……和真」


「ん?」


「少し、変なことを聞いてもいいでしょうか?」


「いいよ。何?」


 リディアは顔を上げた。


「……退屈ではありませんか?」


「え?」


「こうして、何もせずに座っているだけですから」


 和真は思わず笑ってしまった。


「それ、さっきも聞いてただろ?」


「……そうでしたね」


「全然退屈じゃないよ」


「……本当に?」


「ああ。むしろ、結構好きだな。こういう時間」


 和真は空を見上げた。


「何かしなきゃいけないわけでもないし、時間を気にする必要もないしさ」


「……そうですね」


「それに、リディアと一緒だし」


「…………」


 リディアが顔を上げた。


「……和真」


「ん?」


「今の言葉は、少しずるいですよ」


「えっ?」


「……なんでもありません」


 彼女は小さく微笑むと、再び肩へ頭を預けた。


 和真は首を傾げる。


 けれど、すぐにその意味を理解した。


 ――あ。


 確かに、今の言い方は少し特別だったかもしれない。


 だが、不思議と訂正する気にはならなかった。


 リディアと一緒だから楽しい。


 それは、紛れもない本音だったからだ。


     ◇ ◇ ◇


 やがて、冷たい風が吹き抜けた。


「……くしゅんっ」


 和真が小さくくしゃみをする。


 リディアが顔を上げた。


「和真、寒くなってきましたか?」


「ああ、ちょっとな」


「では、そろそろ中へ戻りましょう」


「リディアはいいの?」


「はい。十分、楽しませていただきました」


 そう言って立ち上がろうとする。


 しかし、和真はまだ手を離さなかった。


「……和真?」


「あ、いや」


 和真は少し照れくさそうに笑った。


「もうちょっとだけ、こうしてたいなって」


「…………」


 リディアの動きが止まった。


 金色の瞳が、ゆっくりと見開かれる。


「……和真が?」


「ああ」


「……そうですか」


 彼女は再びベンチへ腰を下ろした。


 そして、先ほどよりも少しだけ体を寄せる。


「……では、あと少しだけ」


「うん」


「ただし、風邪を引かない程度にしてくださいね」


「ははっ、分かった」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 それから数分間、ほとんど言葉を交わさなかった。


 けれど、その沈黙は心地よかった。


 和真は隣のリディアをちらりと見る。


 青緑色の長い髪。


 綺麗な金色の瞳。


 普段は落ち着いているのに、時々驚くほど無邪気に笑う。


 そして、少しだけ甘えん坊な一面もある。


 ――こんな顔もするんだな。


 今日一日で、今まで知らなかった彼女をいくつも見つけた。


 そのどれもが、和真には魅力的に思えた。


 ――もっと知りたい。


 そんな気持ちが、胸の奥で静かに膨らんでいた。


     ◇ ◇ ◇


 中庭を後にした二人は、ショッピングモールの中央広場へ戻った。


 午後三時を過ぎ、館内は再び賑わいを見せている。


「さて、そろそろ帰ろうか?」


「そうですね。夕食までには戻れそうですし」


「うん。あ、でも……」


 和真は何かを思い出したように立ち止まった。


「せっかくだし、最後に一つ寄っていかない?」


「どちらへですか?」


「ちょっとだけ」


 和真が向かった先は、食品売り場の一角にある洋菓子店だった。


 ショーケースには色とりどりのケーキが並んでいる。


「……ケーキ屋さんですか?」


「ああ。みんなにお土産でも買って帰ろうかなって」


「なるほど」


 リディアはショーケースを覗き込んだ。


「美味しそうですね」


「だろ?」


 苺のショートケーキ。


 チョコレートケーキ。


 モンブラン。


 小さなタルトに、色鮮やかなムース。


 見ているだけでも楽しくなるような品揃えだった。


「……あ」


 リディアが小さく声を上げた。


「どうした?」


「こちらのケーキ、綺麗ですね」


 彼女が指さしたのは、苺を飾った小さなタルトだった。


「それ、美味そうだな」


「はい。見た目も可愛らしいです」


「じゃあ、それも買おうか」


「……いいんですか?」


「ああ。リディアが気に入ったんだろ?」


「……はい」


 リディアは嬉しそうに微笑んだ。


 和真は人数を考えながら、いくつかのケーキを注文した。


「紅月の分も忘れないようにしないとな」


「ふふっ。忘れたら大変なことになりそうですね」


「絶対拗ねるぞ、あいつ」


「そうでしょうね」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 その時、リディアはもう一度、苺のタルトへ視線を向けた。


「……和真」


「ん?」


「このタルトは、私がいただいてもよろしいでしょうか?」


「もちろん。最初からそのつもりだよ」


「……ありがとうございます」


 リディアは少し照れたように笑った。


「珍しいな。リディアが自分から欲しいって言うの」


「……そうですね」


 彼女は少し考えた。


「いつもなら、皆さんに選んでいただいてから、残ったものをいただいていたと思います」


「ああ、そうかもな」


「ですが……」


 リディアはショーケースを見つめた。


「今日は、自分の好きなものを選びたいんです」


「うん。それでいいと思うよ」


「……はい」


 その笑顔は、どこか誇らしげだった。


 今まで、自分のためだけに何かを選ぶことは少なかった。


 誰かの役に立つこと。


 必要なものを作ること。


 問題を解決すること。


 それが彼女にとっての喜びだった。


 けれど今日は違う。


 自分が着たい服を選び、自分が食べたいものを選ぶ。


 そんな些細なことが、こんなにも楽しい。


 リディアは、今日という一日を心から楽しんでいた。


     ◇ ◇ ◇


 買い物を終えた二人は、駐車場へ向かった。


 外へ出ると、すでに日差しが傾き始めていた。


「……もうこんな時間か」


「早いものですね」


「朝は結構時間あると思ってたんだけどな」


「私もです」


 リディアは小さく笑った。


「ですが、不思議と短く感じました」


「楽しかったからかな」


「……そうかもしれませんね」


 車へ荷物を積み込み、助手席に乗り込む。


 和真がエンジンをかけると、車内に暖房の風が流れ始めた。


「寒くない?」


「大丈夫ですよ」


「そっか」


 和真はシートベルトを締め、ゆっくりと車を発進させた。


 駐車場を出ると、夕方の街並みが広がっていた。


 しばらくの間、二人は何気ない会話を楽しんでいた。


 そんな中。


「……和真」


「ん?」


「今日は、本当にありがとうございました」


「急にどうした?」


「いえ、改めてお礼を言いたくなりまして」


 リディアは膝の上に置いたバッグへ視線を落とす。


「最初は、少し戸惑っていたんです」


「戸惑ってた?」


「はい。工房から出て、何をして過ごせばいいのか分かりませんでしたから」


「……なるほど」


「ですが、実際に出かけてみると、楽しいことがたくさんありました」


 リディアは微笑んだ。


「服を選んだり、美味しいものを食べたり、ただ一緒に座っていたり……」


「うん」


「どれも、私にとっては新鮮なことばかりでした」


 和真は運転しながら、小さく頷いた。


「そっか。よかった」


「……それに」


「ん?」


 リディアは少しだけ声を落とした。


「和真のことも、少しだけ新しく知れた気がします」


「俺のこと?」


「はい」


「俺、何か変わったことした?」


「いいえ」


 リディアは首を振る。


「ですが、私が楽しそうにしていると、和真も嬉しそうでしたから」


「……ああ」


「それが、嬉しかったんです」


 和真は少し照れくさくなった。


「……まあ、誘ったのは俺だしな」


「ふふっ。そうですね」


 それから少しの沈黙。


 信号が赤に変わり、車がゆっくりと停車した。


 和真は前を見つめたまま、ぽつりと言った。


「……なあ、リディア」


「はい?」


「また、こういう日を作ろうな」


「……はい」


「今度は朝からじゃなくてもいいし、ちょっと出かけるだけでもいいからさ」


「……和真」


「リディアと一緒に行きたい場所、俺も考えとくよ」


 リディアは静かに和真を見つめた。


「……ありがとうございます」


 その声は、とても優しかった。


「私も、楽しみにしています」


 信号が青に変わる。


 車は再び走り始めた。


 和真は前を向いたまま、小さく笑った。


 ――今度は、俺から誘おう。


 今日のように、彼女を休ませるためだけではなく。


 ただ、二人で出かけたいから。


 そんな理由で誘っても、きっといいはずだ。


     ◇ ◇ ◇


 空色唐辛子荘へ戻った頃には、午後五時を少し過ぎていた。


 母屋の玄関を開けると、賑やかな声が聞こえてきた。


「ただいまー」


「ただいま戻りました」


 その瞬間。


「和真ーっ!」


 廊下の奥から、小さな影が飛び出してきた。


「うおっ!?」


 和真が慌てて荷物を持ち直す。


 駆け寄ってきたのは紅月だった。


 大きな一本尻尾を揺らしながら、勢いよく抱きついてくる。


「おかえりじゃ!」


「ただいま、紅月」


「遅いぞ! わっち、ずっと待っておったのじゃ!」


「ごめんごめん」


 和真が笑いながら頭を撫でる。


 紅月は気持ちよさそうに目を細めた。


「わっちも一緒に行きたかったのじゃ!」


「今度は一緒に行こうな」


「本当か!?」


「ああ、約束」


「やったのじゃ!」


 紅月は嬉しそうに尻尾を大きく振った。


 その後ろから、あおいも姿を現した。


「こら、紅月。そんなに勢いよく抱きついたら、和真が転んでしまうじゃろう」


「大丈夫じゃ! 和真は強いのじゃ!」


「強いからといって、何をしてもよいわけではないぞ?」


「むぅ……」


 紅月が少しだけ頬を膨らませる。


 その様子に、和真は笑った。


「まあまあ。大丈夫だったから」


「和真は紅月に甘すぎるのじゃ」


「あはは……」


 あおいは呆れたように笑うと、改めて二人へ視線を向けた。


「それより、二人ともおかえりなのじゃ」


「ただいま」


「ただいま戻りました」


「ふふっ。ずいぶん楽しそうな顔をしておるのう」


 あおいの視線が、リディアへ向く。


「よい休日になったようじゃな?」


「はい。とても楽しかったです」


「そうかそうか。それは何よりじゃ」


 あおいは満足そうに微笑んだ。


「わらわも少し心配しておったのじゃ。リディアは放っておくと、すぐ工房にこもってしまうからのう」


「……すみません」


「謝ることはないぞ。好きなことに夢中になるのは悪いことではないからの」


 そして、少しいたずらっぽく笑った。


「じゃが、たまには和真と出かけるのもよかろう?」


「……はい」


 リディアは頬をほんのり赤くしながら頷いた。


 それを見たあおいは、楽しそうに目を細めた。


「ふふっ。よかったのう」


     ◇ ◇ ◇


 そこへ、みゆとフェンリスもやってきた。


「おかえりー!」


「二人とも、楽しかった?」


「ああ。結構いろいろ回ってきたよ」


「へぇー?」


 みゆがリディアの持つ買い物袋に目を留めた。


「……あれ?」


「どうしました?」


「リディア、それ洋服屋さんの袋じゃない?」


「はい。少し服を買いました」


「えっ!?」


 みゆが目を丸くする。


「リディアが服を!?」


「……そんなに驚くことでしょうか?」


「だって、いつも作業着ばっかりじゃん!」


「それは……そうですが」


 リディアは少し困ったように笑った。


 すると、フェンリスが目を輝かせた。


「どんな服買ったの!?」


「ワンピースとニットを一着ずつです」


「ワンピース!?」


 今度はフェンリスまで驚いた。


「見たい見たい!」


「え、ええ。後でなら……」


「やった!」


 フェンリスが嬉しそうに笑う。


 そこへ、みゆがにやりと口元を緩めた。


「……で?」


「はい?」


「誰が選んだの?」


「……和真です」


「にゃははっ!」


 みゆが楽しそうに笑った。


「やっぱりー!」


「……何がやっぱりなんだよ」


 和真が呆れる。


 しかし、みゆは気にせずリディアへ近づいた。


「ねえねえ、和真に見せたんでしょ?」


「……はい」


「なんて言われた?」


「……似合っていると」


「それだけ?」


「……綺麗だとも、言っていただきました」


「…………」


 一瞬。


 リビングが静かになった。


「……へぇー?」


 みゆの尻尾が、ゆらりと揺れた。


「和真ぁ?」


「……何だよ」


「綺麗って言ったんだ?」


「……言ったけど」


「ふぅん?」


 みゆが楽しそうに笑う。


 フェンリスも、少し頬を膨らませた。


「僕にも今度、服選んでよ!」


「はいはい」


「約束だよ!」


「分かったって」


 和真は苦笑した。


 すると、あおいが口元に手を添えた。


「ふふっ。和真もなかなかやるのう」


「……あおいまで?」


「何を照れておるのじゃ。綺麗なものを綺麗と言うのは、よいことじゃろう?」


「……まあ、そうだけど」


「ならば、堂々としておればよいのじゃ」


 あおいは楽しそうに笑った。


 その隣で紅月が首を傾げる。


「なあ、あおい」


「なんじゃ?」


「リディアは綺麗なのか?」


「もちろんじゃ。とても綺麗じゃぞ」


「ほう……」


 紅月はリディアをじっと見上げた。


 そして、満足そうに頷く。


「うむ! 綺麗じゃ!」


「……ありがとうございます、紅月」


 リディアが微笑む。


「じゃが!」


「……はい?」


「わっちの尻尾も綺麗じゃぞ!」


 そう言って、自慢の大きな一本尻尾を持ち上げた。


「……張り合うところ、そこなのか?」


 和真が思わず突っ込む。


「当然じゃ!」


 紅月は胸を張った。


 その姿に、リビング中から笑い声が上がった。


     ◇ ◇ ◇


「おや、おかえり」


 キッチンから酒菜が顔を出した。


「ずいぶん楽しんできたみたいだねぇ」


「ああ。ただいま」


「ただいま戻りました」


 酒菜は二人の顔を交互に見た。


「……ふふん」


「……なんだよ」


「いや、別に?」


 酒菜は楽しそうに笑った。


「リディア、いい顔してるじゃないか」


「……そうでしょうか?」


「ああ。朝よりずっと柔らかい顔になってるよ」


 その言葉に、リディアは少し驚いた。


「……ありがとうございます」


「で、和真」


「ん?」


「ちゃんと楽しませてやったのかい?」


「それは本人に聞いてくれよ」


「そうだねぇ」


 酒菜がリディアを見る。


「どうだった?」


 リディアは少し考えた。


 そして、穏やかに微笑んだ。


「……とても、幸せな一日でした」


「…………」


 酒菜は一瞬だけ目を丸くした。


 それから、満足そうに笑う。


「そりゃ何よりだ」


 その時。


「……和真?」


 後ろから、ユエの声がした。


「おかえりなさい」


「ああ、ただいま」


「リディアも、おかえりなさい」


「ただいま戻りました」


 ユエはリディアの顔を見ると、少しだけ目を細めた。


「……どうやら、今日は仕事のことを忘れられたようね」


「……途中で何度か思い出しましたが」


「でしょうね」


 ユエは苦笑した。


「でも、少しは休めたのでしょう?」


「はい」


 リディアは頷く。


「おかげさまで、充実した休日になりました」


「それならよかったわ」


 ユエは静かに微笑んだ。


「ただし、今夜は工房に戻らないこと。いいわね?」


「……はい」


「本当に?」


「約束します」


 リディアが真面目に答える。


 すると、和真が横から口を挟んだ。


「俺も見張っとくよ」


「和真まで……」


 リディアは少し困ったように笑った。


 その様子を見て、ユエも酒菜も楽しそうに笑う。


 そして、あおいが小さく頷いた。


「うむ。今夜くらいは、ゆっくり休むのじゃぞ」


「はい。そうさせていただきます」


「それがよい。たまには自分を甘やかすことも大切じゃからの」


 そう言って、あおいは微笑んだ。


 その言葉に、リディアは素直に頷いた。


     ◇ ◇ ◇


 夕食後。


 母屋のリビングでは、買ってきたケーキが並べられていた。


「わっ! ケーキじゃ!」


 紅月が嬉しそうに尻尾を振る。


「紅月、少し落ち着くのじゃ」


 隣にいたあおいが、優しく声をかけた。


「分かっておる!」


「本当かえ? 先ほどから尻尾が大暴れしておるぞ」


「むっ!」


 紅月が自分の尻尾を振り返る。


 ふさふさとした尻尾は、嬉しさを隠せず左右に揺れていた。


「……これは勝手に動いておるのじゃ!」


「ふふっ。そういうことにしておこうかの」


 あおいは笑いながら、紅月の頭を撫でた。


 和真も苦笑しながら箱を開ける。


「ほら、みんな好きなの選んでいいぞ」


「やったー!」


 フェンリスが嬉しそうに声を上げた。


 みゆも早速ケーキを覗き込んでいる。


「にゃはっ! 美味しそう!」


 そんな中、リディアは一つの箱をそっと手元へ引き寄せた。


 中には、苺のタルトが入っていた。


「あれ?」


 フェンリスが首を傾げる。


「リディア、それもう決めてたの?」


「はい。私が選んだものですので」


「へぇー!」


 みゆが目を丸くした。


「珍しいね。リディアが先に選ぶなんて」


「……そうですね」


 リディアは少しだけ笑った。


「ですが、今日は自分の好きなものを選ぶことにしたんです」


「……ふぅん?」


 みゆが和真へ視線を向ける。


「和真、何か言った?」


「まあ、少しだけな」


「なるほどねぇ」


 みゆは楽しそうに頷いた。


 すると、あおいもリディアへ視線を向けた。


「ふふっ。よいことじゃ」


「……あおい?」


「自分の好きなものを選ぶのに、遠慮などいらぬぞ」


 あおいは穏やかに微笑んだ。


「リディアはいつも皆のために頑張っておる。たまには自分の好きなものを独り占めしても、罰は当たらぬじゃろう」


「……ありがとうございます」


 リディアは嬉しそうに笑った。


 そして、タルトを一口食べる。


「……美味しいです」


 その表情は、とても幸せそうだった。


 和真は少し離れた場所から、その姿を眺めていた。


 ――よかった。


 今日、何度目か分からないほど、同じことを思った。


 リディアが笑っている。


 ただそれだけで、嬉しかった。


     ◇ ◇ ◇


 夜。


 ケーキを食べ終え、住人たちがそれぞれの時間を過ごし始めた頃。


 和真は廊下でリディアと顔を合わせた。


「あ、リディア」


「和真」


「もう部屋に戻るの?」


「はい。今日は少し早めに休もうと思います」


「おっ、珍しい」


「……そんなに珍しいでしょうか?」


「かなり」


 和真が笑う。


 リディアも小さく微笑んだ。


「今日は、皆さんに何度も注意されてしまいましたから」


「まあ、普段が普段だからな」


「……反省しています」


 そう言いながら、彼女は少しだけ視線を落とした。


 両手には、今日買った洋服と小さな置き時計の袋がある。


「……和真」


「ん?」


「少しだけ、お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」


「もちろん」


 リディアは静かに微笑んだ。


「……今日、買った時計を置く場所を考えていたんです」


「ああ、あれか」


「はい」


「もう決めた?」


「……実は、まだ少し迷っています」


「工房じゃなくて、自分の部屋に置くんだろ?」


「そうですね」


 リディアは少し考えた。


「……ベッドの近くに置こうと思っています」


「いいんじゃない?」


「はい。朝、目が覚めた時に見える場所に」


 和真は頷いた。


「それなら、休む時間も確認できるな」


「ふふっ。そうですね」


 リディアは小さく笑った。


「ですが……」


「ん?」


「時計を見るたびに、今日のことを思い出しそうです」


「……そっか」


「和真と一緒に選んだ服も、食べた料理も……」


 彼女は顔を上げた。


「手をつないで歩いたことも」


「…………」


 和真の胸が、小さく高鳴った。


 リディアは穏やかに続ける。


「きっと、忘れられない一日になります」


「……俺もだよ」


「……え?」


「俺も、今日のことは忘れないと思う」


 和真は少し照れくさそうに笑った。


「リディアと二人で出かけて、いろんな話してさ」


「……はい」


「すごく楽しかった」


 リディアは静かに和真を見つめていた。


「……私もです」


 その声は、少しだけ震えていた。


     ◇ ◇ ◇


「……あの、和真」


「ん?」


「もう一つだけ、お願いしてもいいでしょうか?」


「いいよ」


 リディアは少し迷ったように視線を落とした。


 そして、ゆっくりと口を開く。


「……少しだけ、抱きしめてもらえませんか?」


「…………」


 和真は目を瞬かせた。


 リディアは頬を赤くしながらも、まっすぐに見つめている。


「……今日の、最後のわがままです」


 その言葉に、和真は小さく笑った。


「……いいよ」


 彼はリディアの持っていた袋を受け取り、廊下の壁際へそっと置いた。


 そして、両腕を広げる。


「おいで」


「…………」


 リディアは一瞬、驚いたような顔をした。


 けれど、すぐに嬉しそうに微笑んだ。


「……はい」


 そっと近づき、和真の胸に体を預ける。


 和真は彼女の背中へ腕を回した。


 青緑色の髪が、胸元にさらりと触れる。


 リディアは両腕を和真の背中へ回し、静かに抱きしめ返した。


「……温かいですね」


「……うん」


 機械義手に抱きしめられる感触は、人間の腕とは少し違う。


 けれど、和真はそのことを特に意識しなかった。


 今、腕の中にいるのはリディアだ。


 頼りになる仲間で。


 いつも誰かのために頑張っていて。


 時々、自分のことを後回しにしてしまう。


 そして今日、何度も可愛らしい笑顔を見せてくれた女性。


 ――……ああ。


 和真は、ようやく少しだけ理解した。


 自分は彼女を、ただ守りたいと思っているわけではない。


 頼りにしているだけでもない。


 こうして抱きしめていることが、嬉しいのだ。


 彼女が自分を求めてくれることが、嬉しい。


 そして、自分もまた彼女に触れていたいと思っている。


 ――俺、リディアのこと……。


 そこまで考えて、和真は目を閉じた。


 まだ、すべてを言葉にすることはできない。


 けれど、以前よりも確かな気持ちが胸の中にあった。


「……和真」


「ん?」


「……今日は、本当にありがとうございました」


「うん」


「また、誘ってくださいね」


「ああ」


 和真は彼女を抱きしめたまま、優しく答えた。


「今度は、俺がリディアと出かけたいから誘うよ」


「…………」


 リディアの腕に、少しだけ力がこもった。


「……それは、嬉しいです」


 和真は小さく笑った。


「楽しみにしてて」


「……はい」


 しばらくして、二人はゆっくりと体を離した。


 リディアは少し名残惜しそうだったが、すぐに穏やかな笑顔を浮かべた。


「……おやすみなさい、和真」


「おやすみ、リディア」


 袋を受け取ったリディアは、部屋へ向かって歩き始めた。


 その後ろ姿を見送りながら、和真は小さく息を吐いた。


「……参ったな」


 思わず、そんな言葉が漏れる。


 今日一日で、リディアのことを随分意識するようになってしまった。


 いや。


 もしかすると、ずっと前から意識していたのかもしれない。


 ただ、自分で気づいていなかっただけで。


 ――リディアのこと、好きなのかもしれないな。


 その考えを、今度は否定しなかった。


 まだ、答えを出すには少し時間が必要だ。


 みゆやナディア、フェンリス。


 そして、あおい。


 今の自分には、大切な人たちがいる。


 だからこそ、誰かの気持ちに中途半端な返事をしたくなかった。


 けれど。


 リディアを恋愛対象として見ていることだけは、もう誤魔化せない。


 和真は静かに微笑んだ。


「……また、二人で出かけたいな」


 その言葉は、誰に聞かせるでもなく、廊下に小さく響いた。


     ◇ ◇ ◇


 一方。


 自分の部屋へ戻ったリディアは、買ってきた荷物を丁寧に整理していた。


 新しく購入したワンピースとニット。


 そして、小さな木製の置き時計。


 彼女は時計を取り出すと、ベッド脇の棚へそっと置いた。


「……ここなら、いいでしょうか」


 少し離れて眺める。


 部屋の雰囲気には、よく馴染んでいた。


「……ふふっ」


 自然と笑みがこぼれる。


 今日一日を思い返す。


 家電量販店で笑われたこと。


 服を選んでもらったこと。


 綺麗だと言ってくれたこと。


 手をつないで歩いたこと。


 そして、最後に抱きしめてもらったこと。


 どれもが、大切な思い出だった。


「……和真」


 小さく名前をつぶやく。


 以前、自分の気持ちを伝えた時。


 彼は困ったような顔をしていた。


 それでも、真剣に向き合ってくれた。


 だからこそ、今もその返事を待っている。


 けれど今日は。


 ほんの少しだけ、何かが変わった気がした。


 中庭で、自分からもう少し一緒にいたいと言ってくれたこと。


 帰り道で、また誘うと約束してくれたこと。


 そして、最後の抱擁。


 あれは、単なる気遣いだけではなかったように思う。


「……期待しても、いいのでしょうか」


 誰もいない部屋で、ぽつりとつぶやく。


 もちろん、まだ分からない。


 和真が自分をどう思っているのか。


 それを確かめるには、もう少し時間が必要なのだろう。


 けれど。


「……今日は、これで十分です」


 リディアは微笑んだ。


 そして、時計へ視線を向ける。


 規則正しく動く秒針。


 いつもなら、時間を見ると次の作業を考えてしまう。


 けれど今夜は違う。


 明日、何を作るか。


 どの装置を整備するか。


 そんなことは、今は考えなくてもいい。


 ただ、今日の楽しかった出来事を思い返していたい。


「……おやすみなさい、和真」


 小さくつぶやき、部屋の明かりを消した。


 柔らかな布団に潜り込み、目を閉じる。


 すると、自然と和真の笑顔が浮かんできた。


 リディアは少しだけ頬を赤くした。


「……困りましたね」


 自分でも驚くほど、彼のことが好きになっている。


 以前から想いは変わらない。


 けれど、今日という一日を過ごしたことで、その気持ちはさらに大きくなっていた。


 ――次は、どこへ行きましょうか。


 そんなことを考えながら、リディアはゆっくりと眠りについた。


     ◇ ◇ ◇


 同じ頃。


 和真は自分の部屋で、ベッドに腰を下ろしていた。


 スマートフォンを手に取る。


 画面には、今日撮った一枚の写真が表示されていた。


 中庭で、リディアと並んで撮った写真。


 少し照れたように微笑む彼女と、その隣で笑う自分。


 写真の中のリディアは、いつもよりずっと柔らかな表情をしていた。


「……可愛いな」


 思わず、そんな言葉が漏れた。


 そして、自分で言ってから少し驚く。


「……俺、何言ってんだ」


 苦笑しながらも、写真から目を離せない。


 今日まで、リディアのことを綺麗だと思ったことはあった。


 頼りになると思ったことも、尊敬したこともある。


 けれど。


 今日ほど、彼女の笑顔を見て胸が温かくなった日はなかった。


 そして、また二人で出かけたいと思ったことも。


「……そっか」


 和真は小さくつぶやいた。


 ようやく、自分の気持ちが少し見えてきた気がした。


 まだ、はっきりと答えを出せるわけではない。


 けれど、以前のように迷っているだけではなかった。


 彼女と過ごす時間を、これからもっと増やしたい。


 その気持ちは、確かだった。


 スマートフォンの画面を閉じ、和真はベッドへ横になる。


「……次は、どこに連れていこうかな」


 思わず笑みがこぼれた。


 今度は、リディアがどんな顔を見せてくれるのだろう。


 また、あの嬉しそうな笑顔を見られるだろうか。


 そんなことを考えるのが、楽しかった。


 工房で過ごす日々も、彼女にとって大切な時間だ。


 けれど、そこから少し離れた場所にも、楽しい世界が広がっている。


 そして、その隣に自分がいられたら。


 ――それも、悪くないよな。


 和真は小さく笑った。


 今日という日は、二人にとって特別な一日になった。


 リディアは、自分のために過ごす休日の楽しさを知った。


 そして和真は、彼女への気持ちに少しだけ気づき始めた。


 まだ、二人の関係に明確な答えはない。


 けれど、その距離は確かに縮まっていた。


 静かな冬の夜。


 空色唐辛子荘の一室では、小さな置き時計が時を刻んでいた。


 それは、リディアが自分のために選んだ、初めての休日の記念。


 そして。


 和真と過ごす、次の休日を楽しみに待つための時計でもあった。

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