第七十話 紅月と新しい日常
――一月の、とある朝。
空色唐辛子荘の母屋に、元気いっぱいの声が響き渡った。
「ごしゅじーんっ!」
「うわっ!?」
ドンッ!
布団から起き上がろうとしていた和真の胸に、小さな身体が勢いよく飛び込んできた。
赤みがかった髪。
頭の上には狐の耳。
そして、腰から生えた大きな一本の尻尾。
紅月である。
「おはようでありんす!」
「お、おはよう、紅月……」
「今日もよい朝じゃのう!」
「ああ、そうだな。だから、もう少し静かに起こしてくれると助かるんだけど……」
「む?」
紅月は不思議そうに首を傾げた。
「わっちは、ご主人が起きたから嬉しかっただけじゃぞ?」
「うん。それは分かるよ」
「ならば問題なかろう!」
「いや、問題はあるんだけどな……」
和真が苦笑すると、紅月は嬉しそうに尻尾を振った。
ふさふさの尻尾が布団の上を左右に揺れる。
その勢いは、まるで犬のようだった。
もっとも、本人は立派な妖狐である。
「ご主人! 抱っこじゃ!」
「はいはい」
和真が両脇に手を入れて抱き上げると、紅月は満足そうに首へ抱きついた。
「えへへ……」
頬をすり寄せてくる紅月。
その姿を見ていると、とても数日前まで野生の狐として山で暮らしていたとは思えない。
人間の姿になってからというもの、紅月の甘えん坊ぶりは日に日に増していた。
特に和真とあおいに対しては、ほとんど離れようとしない。
最初こそ和真にばかりくっついていた紅月だったが、買い物中に迷子になった一件以来、あおいにもすっかり懐いてしまった。
「さて、朝ご飯に行こうか」
「うむ!」
「じゃあ、下ろすぞ」
「嫌じゃ!」
「……え?」
「抱っこのまま行くのじゃ!」
「またか……」
和真が困ったように笑った、その時だった。
――コンコン。
「和真、起きておるかえ?」
扉の向こうから、あおいの声が聞こえた。
「起きてるよ。入っていいぞ」
「うむ。お邪魔するぞ」
扉が開き、あおいが顔を覗かせた。
すると、それまで和真に抱きついていた紅月の耳が、ぴんっと立った。
「あおいっ!」
「おお、紅月。今日も元気じゃのう」
「うむ! わっちは元気いっぱいじゃ!」
「それは何よりじゃ」
あおいは微笑みながら二人のそばへ歩み寄った。
そして、紅月の寝癖を見つけると、小さく笑った。
「おやおや。髪が跳ねておるではないか」
「む?」
「ほれ、こちらを向いてみよ」
紅月が素直に顔を向ける。
あおいは指先で髪を整えると、狐耳の後ろを優しく撫でた。
「よし。あとで髪を梳いてやろうの」
「ほんとかえ!?」
「もちろんじゃ」
「わーい!」
嬉しそうに尻尾を振る紅月。
その様子を眺めながら、和真は思わず笑みをこぼした。
「すっかり仲良しだな、二人とも」
「ふふっ。紅月はよい子じゃからのう」
あおいはそう言って、紅月の頭をもう一度撫でた。
しかし、次の瞬間。
「ところで紅月。顔は洗ったのかえ?」
「……む?」
「歯は磨いたかの?」
「…………」
「お手洗いは?」
「………………」
紅月の尻尾が、ぴたりと止まった。
あおいはにっこりと微笑んだ。
「まだなのじゃな?」
「……ご主人」
「俺を見ても駄目だぞ」
「むぅ……」
「ほれ、紅月。まずはお顔を洗いに行くぞ」
「……あおいも一緒かえ?」
「もちろんじゃ」
「ならば行く!」
先ほどまでの渋りようが嘘のように、紅月が元気よく返事をした。
和真はその変わり身の早さに呆れながら、二人の後ろ姿を見送った。
そして、ふと思う。
あおいの世話の焼き方が、ここ数日でずいぶん変わった。
以前は和真に甘えることの方が多かったのに、今では紅月の寝癖を直し、着替えを手伝い、食事の作法まで教えている。
まるで本当の母親のようだった。
「……なんか、親子みたいだな」
何気なく呟いた言葉に、自分で少し照れくさくなる。
そんな和真の耳に、廊下から声が届いた。
「紅月! 水を飛ばしてはならぬ!」
「冷たいのじゃー!」
「こらっ! わらわにもかかったではないか!」
「きゃはははっ!」
「笑い事ではないぞ!」
「……大丈夫かな、あれ」
早くも騒がしい一日が始まっていた。
◇
朝食の時間。
母屋の食堂には、いつもの顔ぶれが集まっていた。
台所では酒菜が朝食の仕上げをしており、ユエが食器を並べている。
フェンリスとみゆは先に席についていて、ナディアは温かいお茶を飲んでいた。
リディアは何やら小さな道具を確認し、ひかげはピピと話している。
そんな中。
「ご主人! あそこじゃ!」
「はいはい。いつもの席な」
紅月を抱いた和真が食堂へ入ってきた。
そのすぐ後ろには、あおいもいる。
紅月の髪は綺麗に梳かされ、服もきちんと整っていた。
「おはよう、紅月」
みゆが声をかける。
「おはようでありんす!」
「今日も和真に抱っこされてるんだ?」
「うむ!」
「いいなぁ。僕も抱っこしてもらおうかな」
「駄目じゃ!」
即答だった。
「えー、なんで?」
「今はわっちの番じゃから!」
「ふふっ。じゃあ、あとで交代してね」
「むむむ……」
紅月が真剣な顔で考え込む。
その様子に、みゆは楽しそうに笑った。
「冗談だよ」
「むぅ! からかったのかえ!」
「そうだよ」
「みゆは悪いやつじゃ!」
「ひどいなぁ!」
そんな二人のやり取りを見ていたフェンリスが、少し羨ましそうに和真を見つめた。
「ねえ、和真」
「ん?」
「最近、紅月ばっかり抱っこしてない?」
「そりゃあ、紅月が離れないからな」
「僕だって、抱っこしてほしいんだけど」
「……フェンリスまで?」
「駄目なの?」
じっと見つめてくるフェンリス。
和真が返答に困っていると、隣からあおいが口を開いた。
「フェンリス。紅月はまだ幼いのじゃ。少しは譲ってやらぬか」
「分かってるよ。でもさ……」
「それに、紅月もいつまでも抱っこされておっては、何もできぬぞ」
「む?」
あおいは紅月へ視線を戻した。
「ほれ。朝ご飯は自分の椅子に座って食べるのじゃ」
「ご主人のお膝では駄目かえ?」
「駄目じゃ」
「……あおいのお膝は?」
「それも駄目じゃ」
「むぅぅ……」
紅月は頬を膨らませた。
しかし、あおいは譲らない。
「ご飯を食べる時は、ちゃんと座る。昨日も教えたであろう?」
「……うむ」
「よい子じゃ」
あおいが頭を撫でると、紅月は途端に機嫌を直した。
そして和真の腕から下り、自分の椅子によじ登る。
大きな尻尾を横へ逃がし、ちょこんと座った。
「できたのじゃ!」
「うむ。偉いぞ」
「ご主人! 見ておったかえ!」
「見てたよ。ちゃんと座れたな」
「えへへ!」
紅月は嬉しそうに笑った。
その光景を眺めていたナディアが、お茶を置いた。
「……なあ、和真」
「どうした?」
「お前ら、いつの間に子持ちになったんだ?」
「ぶっ!?」
和真が思わず吹き出した。
「な、何言ってるんだよ!」
「いや、どう見ても父親と母親だろ」
「まあ、確かにそう見えるよね」
みゆも笑いながら頷いた。
フェンリスまで腕を組んで考え始める。
「言われてみれば……あおい、最近すごくお母さんっぽいよね」
「そ、そうかの?」
あおいの狐耳がぴくりと動いた。
どうやら、まんざらでもないらしい。
「ほら、今だって紅月の世話を全部してるじゃん」
「うむ……まあ、まだ知らぬことばかりじゃからのう」
あおいは少し照れながら答えた。
すると、紅月が突然口を開いた。
「かあさま?」
食堂が一瞬、静まり返った。
「……え?」
あおいが目を丸くする。
「かあさま、とは何じゃ?」
紅月はきょとんとしながら首を傾げた。
「ナディアが、ご主人は父親で、あおいは母親と言うたぞ?」
「いや、俺様はそこまで言ってないが……」
「では、あおいはわっちの母さまなのかえ?」
あおいは言葉を失った。
紅月は純粋な瞳で彼女を見つめている。
その姿に、あおいの胸がきゅっと締めつけられた。
紅月には、かつて母親がいた。
今の名前も、その母親からもらった大切なものだと聞いている。
だからこそ、あおいは軽々しく答えることができなかった。
「……紅月」
「む?」
「わらわは、紅月を産んだ母ではないぞ」
「うむ。それは知っておる」
「そうか……」
「でも、あおいは優しいのじゃ!」
紅月は椅子から降りると、あおいのところへ駆け寄った。
そして、その腰にぎゅっと抱きついた。
「ご主人も、あおいも、わっちのことを大事にしてくれる!」
「……紅月」
「だから、わっちは二人が大好きじゃ!」
あおいの表情が、ふわりと緩んだ。
ゆっくりと屈み、紅月を抱きしめる。
「……そうか。ありがとうのう」
「えへへ!」
「わらわも紅月が大好きじゃぞ」
あおいは優しく微笑んだ。
その様子を見ていた和真も、自然と笑顔になる。
しかし。
「なら、ご主人は父さまじゃな!」
「……ん?」
「父さま!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
「どうしたのじゃ、父さま?」
「いや、その呼び方は……!」
慌てる和真。
みゆはとうとう我慢できなくなり、机に突っ伏して笑い始めた。
「あはははっ! 和真、パパになっちゃった!」
「笑うなよ、みゆ!」
「だって、もう完全に親子じゃん!」
「和真、おめでとう」
フェンリスまで笑っている。
「お前まで!?」
その時、あおいがそっと和真の袖を引いた。
「……和真」
「ん?」
「わらわたち、夫婦に見えるのかの?」
「えっ!?」
思わぬ質問に、和真の顔が赤くなる。
あおいもまた、頬を染めていた。
「……そ、それは……」
「ふふっ。冗談じゃ」
そう言いながらも、あおいの尻尾は嬉しそうに揺れている。
そして紅月はというと。
「父さま! 母さま! わっちはお腹が空いたのじゃ!」
すっかり新しい呼び方が気に入ったようだった。
「だから、その呼び方は……!」
和真の抗議は、食堂に響く笑い声にかき消された。
◇
「……朝から賑やかだな、おい」
台所から料理を運んできた酒菜が、呆れたように笑った。
右手には大きなお盆。
左腕のない身体でも、長年の経験からか、料理を運ぶ動作に無駄がない。
「ほら、飯ができたぞ」
「わーい!」
真っ先に喜んだのはピピだった。
翼をぱたぱたと動かしながら、嬉しそうに椅子へ座り直す。
「今日のご飯、何!?」
「焼き魚と卵焼きだ。あと、味噌汁と野菜の煮物」
「やった!」
「ちゃんと野菜も食えよ」
「うん! たぶん!」
「そこは確実に食え」
酒菜のツッコミに、皆が笑う。
その隣で、紅月は運ばれてきた料理をじっと見つめていた。
「……むむ」
「どうした、紅月?」
和真が尋ねる。
「いい匂いじゃ……」
「美味しそうだな」
「うむ!」
紅月は目を輝かせながら箸を手に取った。
しかし。
「……む?」
二本の箸を握りしめ、首を傾げる。
右へ動かす。
左へ動かす。
一本がぽろりと落ちた。
「…………」
拾い上げる。
もう一度持つ。
今度は二本とも落ちた。
「むぅぅぅ!」
とうとう紅月は、箸を睨みつけ始めた。
「この棒、言うことを聞かぬ!」
みゆが吹き出す。
「棒じゃなくて、お箸だよ」
「箸は難しいのじゃ!」
「そうだね。僕も最初は苦労したなぁ」
あおいが隣に座り、紅月の手を取った。
「ほれ、紅月。こう持つのじゃ」
「こうかえ?」
「うむ。上の一本だけ動かしてみよ」
「……むむむ」
紅月は真剣な顔で挑戦する。
しかし、箸はなかなか思うように動かない。
「……できぬ」
「焦らずともよい。ゆっくり覚えればよいのじゃ」
あおいが優しく声をかける。
和真も隣から覗き込んだ。
「紅月、今日はスプーンでもいいんだぞ?」
「嫌じゃ!」
「え?」
「わっちも、みんなと同じように食べたいのじゃ!」
その言葉に、和真は少し驚いた。
紅月は唇を尖らせながら、もう一度箸を持ち直した。
何度も失敗して。
何度も持ち直して。
ようやく、小さな卵焼きの欠片を挟むことができた。
「……!」
紅月の耳がぴんっと立つ。
「と、取れたのじゃ!」
「おお、すごいじゃないか!」
「よくできたのう、紅月!」
和真とあおいが同時に褒める。
すると、紅月は満面の笑みを浮かべた。
「えへへへ!」
そして、その卵焼きを大事そうに口へ運ぶ。
「……ん!」
もぐもぐ。
「おいしいのじゃー!」
尻尾が勢いよく揺れ始めた。
その様子に、酒菜も満足そうに笑った。
「そいつはよかった。おかわりもあるからな」
「ほんとかえ!?」
「ああ。ちゃんと食べ終わったらな」
「うむ!」
元気いっぱいの返事。
だが、次の瞬間。
――パシッ。
「あいたっ!」
紅月の尻尾が、隣にいたフェンリスの頬を直撃した。
「ちょ、紅月! 尻尾!」
「む?」
振り向いた紅月の尻尾が、今度は反対側へ。
――パサッ。
「わっ!」
みゆの顔を覆った。
「ちょっと、前が見えないって!」
「むむ!?」
紅月が慌てて振り返る。
すると、さらに尻尾が大きく揺れた。
「紅月! 落ち着くのじゃ!」
「わ、わっちは何もしておらぬぞ!?」
「尻尾じゃ! 尻尾を止めるのじゃ!」
「止まらぬー!」
嬉しくて仕方がないのか、尻尾はさらに激しく動き始める。
「はははっ! 面白いやつだな!」
ナディアは大笑い。
ひかげは慌てて食器を押さえ、ピピは楽しそうに翼を動かしている。
ユエはというと。
「……紅月」
静かな一言。
その声に、紅月がぴたりと動きを止めた。
「食事中は、尻尾を振り回さないこと」
「……はい」
「返事は?」
「はいでありんす……」
「よろしい」
完全にしょんぼりした紅月。
しかし、あおいがそっと頭を撫でると、すぐに笑顔に戻った。
和真はそんな様子を眺めながら、小さく息をついた。
「……毎朝これだと大変だな」
すると、隣の酒菜が笑った。
「いいじゃねえか。賑やかな方が飯もうまいだろ」
「まあ、そうだけどさ」
「それに……」
酒菜は紅月を見つめた。
その表情が、一瞬だけ柔らかくなる。
「こういう騒がしさも、悪くねえよ」
「……そうだな」
和真は穏やかに頷いた。
酒菜と目が合う。
彼女はほんの少しだけ頬を緩めると、何事もなかったように台所へ戻っていった。
その小さな変化に気づいたのは、和真だけだった。
◇
朝食を終えた後。
紅月は、あおいの膝に座っていた。
いや、正確には。
「紅月。そろそろ下りてくれぬか?」
「嫌じゃ!」
「わらわも片付けを手伝いたいのじゃが……」
「もう少しだけ!」
「……仕方ないのう」
あおいは困ったように微笑んだ。
紅月は嬉しそうに身体を預けている。
そんな二人を見て、和真は苦笑した。
「甘やかしすぎじゃないか?」
すると、あおいがじっと和真を見つめた。
「……和真」
「ん?」
「そなたにだけは言われとうないぞ」
「……はい」
まったく反論できなかった。
その様子を見ていたユエが、静かに口を開いた。
「二人とも甘すぎるのよ」
「うっ……」
「紅月が何かをねだるたびに、どちらかが必ず許してしまうでしょう」
「いや、でも……」
「でも?」
「……可愛いし」
和真がそう答えた瞬間。
ユエは深いため息をついた。
「駄目ね。完全に親馬鹿だわ」
「親馬鹿って……!」
「少なくとも、紅月にとってはそう見えているのでしょう」
そう言って、ユエはあおいへ視線を向けた。
「あおい。あなたも同じよ」
「わ、わらわもかえ?」
「ええ。少しは自分でやらせなさい」
「……うむ」
二人揃って注意される姿は、まるで新米の父親と母親だった。
そして、その中心にいる紅月は。
「むふふ……」
なぜか、とても満足そうに笑っていた。
どうやら、叱られている二人を見ても、自分が原因だとはまったく思っていないらしい。
ユエはそんな紅月を見て、もう一度ため息をついた。
「……先が思いやられるわね」
その言葉が、これから空色唐辛子荘で巻き起こる騒動を予言していたことを。
この時の和真は、まだ知らなかった。
◇
「わっちも、お手伝いするのじゃ!」
突然、紅月が元気よく宣言した。
朝食の片付けが一段落した頃だった。
和真とあおいは、先ほどユエに注意されたばかりである。
紅月に何でもしてやるのではなく、自分でできることを増やしていく。
確かに、それは必要なことだった。
しかし。
「……お手伝い?」
「うむ!」
紅月は胸を張った。
「わっちも、みんなの役に立ちたいのじゃ!」
「おお、それはいいことじゃのう」
あおいが嬉しそうに微笑む。
「じゃあ、何を手伝いたいんだ?」
「むむ……」
紅月は腕を組み、真剣な顔で考え始めた。
そして、台所へ視線を向ける。
「酒菜!」
「あん?」
「わっちも、お料理するのじゃ!」
「……は?」
台所にいた酒菜が振り返った。
紅月は小走りで近づくと、期待に満ちた目で見上げた。
「わっちにも教えてたもれ!」
「料理か……」
酒菜は少し考えた。
紅月はまだ包丁の扱いどころか、火の危険性さえ十分に理解していない。
何より、好奇心が強すぎる。
目を離せば何をするか分かったものではなかった。
「……まあ、簡単なことからならいいか」
「ほんとかえ!?」
「ああ。ただし、俺の言うことはちゃんと聞けよ」
「うむ! 任せるのじゃ!」
「その返事が一番不安なんだよな……」
酒菜は苦笑した。
その様子を見ていた和真が立ち上がる。
「俺も手伝うよ」
「お前は紅月を見ててくれ。俺は昼飯の下ごしらえをするから」
「分かった」
「あおいも頼むぞ」
「うむ。任せるがよい」
こうして、紅月の初めてのお料理教室が始まった。
◇
「まずは手を洗うぞ」
「うむ!」
紅月は元気よく返事をすると、流し台へ向かった。
用意された踏み台に上り、蛇口をひねる。
――ジャーッ!
「ひゃっ!?」
勢いよく出た水に驚き、紅月が飛び退いた。
「水が襲ってきたのじゃ!」
「襲ってねえよ!」
酒菜が思わずツッコむ。
和真は慌てて水量を弱めた。
「紅月、蛇口はゆっくり回すんだ」
「むぅ……」
「ほら、これくらいでいいんだよ」
「なるほど……」
紅月は真剣な顔で頷いた。
そして、もう一度蛇口に手を伸ばす。
今度は上手くいった。
「できたのじゃ!」
「よし。じゃあ石鹸で洗おうな」
「うむ!」
泡を立てながら手をこする紅月。
しかし、次第にその目が輝き始めた。
「……む?」
「どうした?」
「父さま! 泡が増えるのじゃ!」
「そりゃあ、こすれば増えるよ」
「面白いのう!」
ごしごし。
ごしごし。
さらに泡が増える。
「むふふ……」
「紅月?」
「もっと増やすのじゃ!」
「いや、もう十分だぞ?」
「まだまだじゃ!」
泡だらけの手を嬉しそうに動かす紅月。
そして。
――ぶんっ!
「あっ」
手についた泡が飛んだ。
べちゃっ。
「…………」
和真の頬に、白い泡がくっついた。
数秒の沈黙。
「……紅月?」
「…………」
紅月は和真の顔をじっと見つめた。
そして。
「ぷっ……あははははっ!」
盛大に笑い始めた。
「父さまのお顔が泡だらけじゃ!」
「誰のせいだと思ってるんだよ!」
「きゃはははっ!」
笑いすぎて尻尾まで揺れている。
あおいも口元を押さえていたが、とうとう我慢できなくなった。
「ふふっ……和真、そなた……」
「あおいまで笑うなよ!」
「す、すまぬ……ふふふっ」
酒菜は呆れたようにため息をついた。
「……手を洗うだけでこれか」
先行きは、非常に不安だった。
◇
何とか手洗いを終えた紅月は、酒菜に用意された小さなエプロンを身につけた。
あおいが後ろで紐を結んでやる。
「ほれ、できたぞ」
「むふふ!」
紅月は自分の姿を見下ろした。
「どうじゃ、父さま!」
「似合ってるよ」
「母さまも!」
「うむ。とても可愛らしいのう」
「えへへへ!」
褒められた紅月は、その場でくるりと回った。
大きな尻尾がふわりと広がる。
「よし。じゃあ、まずはこいつを洗ってもらうか」
酒菜が用意したのは、昼食用の葉物野菜だった。
「この葉っぱかえ?」
「ああ。土や汚れが残ってることもあるからな。一枚ずつ水で洗ってくれ」
「分かったのじゃ!」
紅月は張り切って野菜を手に取った。
一枚。
二枚。
三枚。
思った以上に丁寧に洗っていく。
「お、上手じゃないか」
和真が褒めると、紅月は嬉しそうに笑った。
「わっちは何でもできるのじゃ!」
「そうかそうか」
その時。
――ぴょこん。
紅月の狐耳が動いた。
続いて、尻尾がゆらゆらと揺れ始める。
和真は嫌な予感がした。
「……紅月?」
「む?」
「尻尾、気をつけような」
「尻尾?」
紅月が振り返る。
――ぱさっ!
「わっ!?」
濡れた尻尾の先が、和真の顔を撫でた。
「……冷たっ!」
「むむ!?」
驚いた紅月が反対を向く。
――ぱしゃっ!
今度は水滴があおいに飛んだ。
「ひゃっ!」
「か、母さま!?」
「こ、紅月! まず落ち着くのじゃ!」
「わ、わっちは何もしておらぬ!」
「尻尾じゃ! また尻尾なのじゃ!」
「止まらぬー!」
尻尾が左右に大きく揺れる。
和真が慌てて紅月の後ろへ回った。
「よし、俺が尻尾を押さえてるから!」
「父さま! くすぐったいのじゃ!」
「動くなって!」
「きゃはははっ!」
「だから笑ってないで!」
その様子を見ていた酒菜は、しばらく無言だった。
やがて、大きく息を吐く。
「……お前ら」
三人が振り返る。
「料理する気、あるのか?」
「…………」
和真とあおいは、そろって目を逸らした。
紅月だけが元気よく答えた。
「あるのじゃ!」
「なら、まず尻尾を落ち着かせろ!」
「むぅ……」
紅月は自分の尻尾を抱え込んだ。
その姿があまりにも可愛らしく、和真は思わず笑いそうになる。
しかし。
「和真、お前もだぞ」
「……はい」
酒菜の一言で、笑いを引っ込めた。
◇
ようやく野菜を洗い終えた頃。
台所にみゆが顔を出した。
「あれ? 何してるの?」
「おお、みゆ。紅月が料理を手伝ってるんだ」
「へえ!」
みゆは興味深そうに紅月を覗き込んだ。
「すごいじゃん、紅月!」
「むふふ! わっちはお料理上手なのじゃ!」
「もう料理できるようになったの?」
「うむ!」
自信満々に胸を張る紅月。
しかし、和真が小声で付け加えた。
「まだ野菜洗っただけだけどな」
「あははっ!」
「父さま!」
「いや、嘘は言ってないだろ?」
「むぅぅ!」
紅月は頬を膨らませた。
すると、みゆが悪戯っぽく笑う。
「じゃあさ、僕に美味しいもの作ってよ」
「よかろう!」
「えっ、本当に?」
「任せるのじゃ!」
紅月は酒菜の方へ振り返った。
「酒菜! わっち、美味しいものを作るのじゃ!」
「だから、今それを手伝ってるだろ」
「もっとすごいやつじゃ!」
「もっとすごいやつ?」
「うむ!」
紅月はしばらく考え込んだ。
そして、突然ひらめいたように叫ぶ。
「おにぎりじゃ!」
「……おにぎり?」
「昨日、母さまが作ってくれたのじゃ!」
あおいが頷いた。
「うむ。昨日の昼に、紅月と一緒に食べたのう」
「あれは美味しかったのじゃ!」
紅月は目を輝かせた。
「わっちも作る!」
酒菜は少し考えた後、頷いた。
「まあ、おにぎりならいいか。ただし、熱い飯は俺が用意する。冷ましてから握れよ」
「うむ!」
「あと、手を綺麗に洗い直せ」
「……またかえ?」
「まただ」
「むぅ……」
こうして、紅月のおにぎり作りが始まった。
◇
「まずは、これくらいのご飯を取って……」
酒菜が小さな器にご飯を取り分ける。
中には、ほぐした鮭が少し混ぜ込まれていた。
十分に冷めたことを確認してから、紅月の前へ置く。
「手で握るのはまだ難しいだろうから、ラップを使おう」
「らっぷ?」
「これだよ」
和真が透明な食品用ラップを見せた。
紅月は興味津々で覗き込む。
「透明な布かえ?」
「布じゃないけど、まあ似たようなものかな」
「不思議じゃのう……」
和真がラップの上にご飯を置き、包んで見せる。
「こうやって、ぎゅっと握るんだ」
「なるほど!」
紅月は真剣な顔で頷いた。
そして、自分の分に取りかかる。
「むむむ……」
ぎゅっ。
ぎゅぎゅっ。
「……むぅ!」
さらに力を込める。
「紅月、そんなに強く握らなくても――」
「できたのじゃ!」
紅月が満面の笑みで持ち上げたもの。
それは。
「…………」
見事なまでに平べったい、おにぎりだった。
しかも、かなり固そうである。
「……紅月?」
「どうじゃ!」
「えっと……」
和真は言葉に詰まった。
隣では、みゆが必死に笑いをこらえている。
「あはっ……だ、駄目……!」
「みゆ?」
「ご、ごめん……でも、それ……!」
みゆはとうとう吹き出した。
「おせんべいみたい!」
「むっ!?」
紅月は自分のおにぎりを見下ろした。
そして、和真が見せた見本と見比べる。
「…………」
丸い見本。
平べったい自分の作品。
「……違うのじゃ」
紅月の耳が、しゅんと垂れた。
「わっち、失敗したのかえ……?」
その声があまりにも悲しそうで、和真は慌てて首を振った。
「いや、失敗じゃないよ!」
「……ほんとかえ?」
「ああ。ちょっと形が違うだけだ」
和真は紅月のおにぎりを受け取った。
「それに、ちゃんと自分で作れたじゃないか」
「……うむ」
「食べてもいい?」
紅月の耳がぴくりと動いた。
「父さまが?」
「ああ。紅月が作ってくれたんだろ?」
「……うむ!」
和真はラップを外し、平べったいおにぎりを一口かじった。
もぐもぐ。
「……うん、美味しい!」
「……!」
紅月の目が大きく見開かれる。
「ほんとかえ!?」
「本当だよ。鮭もちょうどいいし、ちゃんとおにぎりになってる」
「えへへへ!」
紅月は嬉しそうに笑った。
その様子を見て、あおいも微笑む。
「よかったのう、紅月」
「うむ!」
すると、紅月は突然、和真へ抱きついた。
「父さま、大好きじゃ!」
「うわっ!」
危うくおにぎりを落としそうになる和真。
その姿に、みゆが再び笑い始めた。
「もう、完全に親子だね!」
あおいも嬉しそうに頷いた。
「ふふっ。そうじゃのう」
和真は少し照れながら、紅月の頭を撫でた。
そんな三人を、酒菜は静かに見つめていた。
以前なら、こういう光景を見るたびに胸が痛んだかもしれない。
亡くした息子のことを思い出してしまうからだ。
けれど、今は少し違った。
昨夜、和真と向き合い、互いの想いを確かめ合った。
それだけで過去の悲しみが消えるわけではない。
それでも。
これから先のことを、もう一度考えてみようと思えるようになっていた。
「……まったく」
酒菜は小さく笑った。
「お前ら、昼飯の前に腹いっぱいになりそうだな」
「ははっ。確かに」
和真が笑う。
その目が酒菜と合った。
ほんの一瞬。
二人だけが分かるような、穏やかな視線が交わされる。
酒菜は照れ隠しのように顔を背けた。
「ほら、次のを作るぞ」
「うむ!」
紅月は元気よく返事をした。
◇
それからしばらく。
紅月は小さなおにぎりをいくつも作った。
丸いもの。
三角にしようとして四角くなったもの。
なぜか細長いもの。
そして、また平べったいもの。
形は見事にばらばらだったが、紅月は一つ作るたびに嬉しそうに笑った。
「これは母さまの分じゃ!」
「おお、ありがとうのう」
「これは酒菜!」
「おう。ありがとな」
「これはみゆ!」
「やった! 僕のもあるんだ!」
「うむ!」
紅月は次々とおにぎりを並べていく。
やがて、最後の一つを作り終えると、満足そうに両手を腰へ当てた。
「できたのじゃ!」
「お疲れ様、紅月」
和真が頭を撫でる。
あおいも隣で微笑んだ。
「よく頑張ったのう」
「えへへ!」
紅月は嬉しそうに尻尾を振った。
しかし、次の瞬間。
「……む?」
何かに気づいたように、ぴたりと動きを止める。
「どうした?」
「父さま……」
「ん?」
「リディアの分がないのじゃ!」
「ああ、そういえば……」
リディアは朝食の後、作業があると言って地下へ向かっていた。
地下にあるのは、彼女の工房へつながる扉。
その先には、リディアが使う特別な作業空間が広がっている。
「じゃあ、もう一つ作ろうか」
「うむ!」
紅月は張り切ってご飯を取り分けた。
そして、今度は慎重に握り始める。
「むむむ……」
ぎゅっ。
少し力を緩めて。
形を整える。
「……できた!」
そこには、小さいながらも綺麗な三角形のおにぎりがあった。
「おお!」
和真が思わず声を上げる。
「すごいじゃないか、紅月!」
「本当じゃ!」
あおいも嬉しそうに笑った。
紅月は目を輝かせながら、おにぎりを持ち上げた。
「わっち、できたのじゃ!」
「ああ。上手だぞ」
「えへへへ!」
紅月は大事そうにおにぎりを包み直した。
そして。
「父さま!」
「ん?」
「リディアに届けてくるのじゃ!」
「え?」
和真が返事をするより早く、紅月は小さな足で駆け出した。
「あっ、紅月! 待て!」
「行ってくるのじゃー!」
「走るなって!」
ぱたぱたぱたっ!
廊下へ飛び出していく紅月。
慌てて追いかける和真。
その後ろから、あおいの声が響いた。
「紅月! 廊下を走ってはならぬぞ!」
「分かっておるのじゃー!」
「分かっておらぬではないか!」
あおいも慌てて後を追う。
残された台所では、みゆが腹を抱えて笑っていた。
「あはははっ! もう、本当に元気だなぁ!」
酒菜は額を押さえる。
「……あいつら、毎日あんな調子なのか?」
「うん。最近ずっとだよ」
「和真も大変だな……」
酒菜はそう言いながらも、どこか楽しそうだった。
その時、台所の入口からユエが顔を覗かせた。
「……今、紅月が走っていったようだけど」
「ああ。リディアにおにぎりを届けるんだと」
「……リディアに?」
「そうだ」
ユエは数秒、無言になった。
そして。
「……まさか、工房に行ったの?」
「そうみたいだけど……」
みゆが答える。
ユエは静かに目を閉じた。
「……嫌な予感しかしないわね」
その予感は、残念ながら的中することになる。
◇
地下へ続く階段。
紅月は大事なおにぎりを両手で持ちながら、一段ずつ下りていた。
先ほど和真に追いつかれ、階段では走らないと約束させられたからである。
「むむむ……」
「紅月、足元を見てな」
「分かっておる!」
「本当に?」
「父さまは心配しすぎじゃ!」
「いや、お前の場合は心配するよ……」
和真は苦笑した。
その後ろから、あおいもついてくる。
「それに、紅月。工房へ入る時はリディアに許しをもらわねばならぬぞ」
「なぜじゃ?」
「危ない道具もあるからのう」
「む?」
「勝手に触ってはならぬものが、たくさんあるのじゃ」
「……そうなのかえ?」
「うむ」
紅月は少し考えた。
そして、真剣な顔で頷く。
「ならば、わっちはよい子にしておる!」
「そうしてくれると助かるよ」
和真はほっと息をついた。
やがて三人は、地下に設けられた一枚の扉の前へ到着した。
リディアの工房へつながる扉である。
和真が扉を叩く。
――コンコン。
「リディア、いるか?」
少しして、向こうから声が返ってきた。
「はい。和真ですか?」
「ああ。紅月が届け物を持ってきたんだ」
「紅月が?」
扉が開く。
そこには作業着姿のリディアが立っていた。
「どうしました?」
「リディア!」
紅月が元気よく声を上げた。
「む?」
リディアが首を傾げる。
すると紅月は、両手に持っていたおにぎりを差し出した。
「これ、わっちが作ったのじゃ!」
「……おにぎりですか?」
「うむ! リディアの分じゃ!」
リディアは少し驚いた表情を浮かべた。
そして、ふわりと微笑む。
「私に作ってくれたんですか?」
「そうじゃ!」
「ありがとうございます。嬉しいですよ」
「えへへ!」
紅月は満足そうに尻尾を振った。
リディアはおにぎりを受け取ると、丁寧に礼を言った。
「せっかくですから、休憩の時にいただきますね」
「うむ!」
そこまでは、実に微笑ましい光景だった。
しかし。
「……む?」
紅月の視線が、開いた扉の向こうへ向かった。
そこに見えたのは、見慣れない道具の数々。
淡く光る魔道具。
見たこともない機械。
そして、作業台の上に置かれた奇妙な金属の球体。
紅月の目が、きらきらと輝き始めた。
「……リディア」
「はい?」
「あれは何じゃ?」
紅月が指さしたのは、作業台に置かれた銀色の球体だった。
「ああ、あれは試作品ですよ」
「しさくひん?」
「まだ調整中の魔道具です」
「まどうぐ……!」
紅月の耳がぴんっと立つ。
「わっちも見たいのじゃ!」
「えっ?」
和真が嫌な予感に顔を引きつらせた。
あおいも慌てて口を開く。
「紅月、勝手に入ってはならぬぞ!」
「見るだけじゃ!」
「本当に見るだけか?」
「うむ!」
元気いっぱいの返事。
しかし、その大きな尻尾はすでに興奮で左右に揺れていた。
リディアは少し考えた後、微笑んだ。
「危険なものには触れないと約束できるなら、少しだけ見学してもいいですよ」
「ほんとかえ!?」
「はい。ただし、必ず私の言うことを聞いてください」
「分かったのじゃ!」
紅月は両手を上げて喜んだ。
和真は思わず額を押さえた。
「……リディア、大丈夫か?」
「大丈夫ですよ。危険な道具は片付けていますから」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
リディアは不思議そうに首を傾げる。
「?」
和真は紅月を見た。
大きな狐耳。
好奇心いっぱいの瞳。
そして、嬉しさを隠しきれずに揺れる尻尾。
「……頼むから、何も壊さないでくれよ」
「父さま!」
「ん?」
「わっちはよい子じゃ!」
「……そうだな」
和真は苦笑した。
そして、三人はリディアに案内され、工房の中へ足を踏み入れた。
紅月にとって、そこはまるで宝物の山だった。
そして和真にとっては。
新たな騒動の始まりだった。
◇
「わぁぁぁ……!」
工房へ足を踏み入れた紅月は、目を輝かせた。
そこには、見たこともない道具が所狭しと並んでいた。
壁際には大小さまざまな機械。
棚には色とりどりの魔石。
作業台の上では、淡い光を放つ魔法陣がゆっくりと回転している。
そして何より。
「父さま! ここはすごいのじゃ!」
「ああ。初めて見ると驚くよな」
「ここは宝物のお部屋かえ!?」
「宝物っていうか……リディアの仕事場だな」
「お仕事……?」
紅月が不思議そうに首を傾げる。
すると、リディアが微笑んだ。
「私はここで、いろいろな道具を作っているんですよ」
「全部リディアが作ったのかえ!?」
「ええ。もちろん、まだ完成していないものもありますけどね」
「すごいのじゃー!」
紅月は嬉しそうに両手を広げた。
その勢いで、大きな尻尾がぶんっと揺れる。
「おっと!」
和真が慌てて尻尾を押さえた。
「紅月、ここでは尻尾も気をつけような」
「むぅ……また尻尾かえ?」
「そうだよ。大事な道具がいっぱいあるんだから」
「……分かったのじゃ」
紅月は自分の尻尾を抱え込んだ。
あおいがその頭を優しく撫でる。
「よい子じゃ。見るだけでも楽しいであろう?」
「うむ!」
ところが、紅月の目はすでに別のものへ向いていた。
先ほど扉の隙間から見えた、銀色の球体である。
「リディア!」
「はい?」
「あの丸いやつは何じゃ!?」
「ああ、これですか」
リディアは作業台から球体を持ち上げた。
大きさは、大人の拳を二つ合わせた程度。
表面は滑らかな銀色で、中央には小さな青い魔石が埋め込まれている。
「これは、小型の自動掃除魔道具ですよ」
「おそうじ……?」
「そうです。床に落ちた埃や小さなゴミを、自動で集めてくれるんです」
「ほう……!」
紅月は興味津々で覗き込んだ。
「これが掃除をするのかえ?」
「ええ。ただ、まだ試作段階なので、少し調整が必要なんです」
「動くのかえ!?」
「もちろんですよ」
「見たいのじゃ!」
リディアは少し考えた。
そして、作業台の周囲を確認する。
「では、安全な範囲で動かしてみましょうか」
「やったのじゃ!」
紅月が飛び跳ねる。
和真は苦笑しながら、その肩に手を置いた。
「ちゃんとリディアの言うことを聞くんだぞ」
「分かっておる!」
「本当だな?」
「父さまは心配しすぎじゃ!」
「いや、心配する理由が多すぎるんだよ……」
リディアは床の上に専用の敷物を広げた。
その上へ球体を置き、中央の魔石に触れる。
――ウィィン……。
小さな音とともに、球体が浮かび上がった。
「おおおおっ!?」
紅月の耳がぴんっと立った。
「浮いたのじゃ!」
「はい。床から少し浮かせることで、段差を越えられるようにしているんですよ」
「すごいのう!」
球体はゆっくりと前進すると、敷物の上に散らされた小さな紙屑を吸い込み始めた。
すいっ。
すいっ。
「わぁぁぁ!」
紅月は目を輝かせている。
「紙を食べておる!」
「食べているわけではありませんよ」
「では、お腹にしまっておるのかえ?」
「……まあ、そう考えても間違いではありませんね」
「むふふ!」
紅月は球体の動きを夢中で追いかけた。
右へ動けば右へ。
左へ動けば左へ。
そして球体が止まると、紅月もぴたりと止まった。
「……む?」
球体が方向転換する。
紅月も方向転換する。
その様子を見ていた和真が笑った。
「紅月、何してるんだ?」
「この子と遊んでおる!」
「いや、それ掃除道具だからな?」
「む?」
紅月は球体を見つめた。
「……この子、名前はあるのかえ?」
「名前ですか?」
リディアが首を傾げる。
「まだ付けていませんね」
「ならば、わっちが付けるのじゃ!」
「えっ?」
「むむむ……」
紅月は腕を組んで考え始めた。
銀色。
丸い。
ふわふわ浮いている。
そして。
「……まる!」
「…………」
「まるじゃ!」
和真が吹き出した。
「そのまんまだな!」
「むっ! 何がおかしいのじゃ!」
「いや、分かりやすくていい名前だと思うよ」
「そうじゃろう!」
紅月は満足そうに頷いた。
リディアも小さく笑う。
「では、試作品の名前は『まる』にしましょうか」
「ほんとかえ!?」
「はい。可愛らしい名前ですね」
「えへへへ!」
紅月は嬉しそうに球体へ近づいた。
「まる! わっちが名前を付けてやったぞ!」
もちろん、魔道具から返事はない。
しかし。
――ウィン。
球体が紅月の方を向いた。
「……む?」
紅月も首を傾げる。
球体が少し近づく。
「おおっ!」
紅月は一歩下がった。
すると、球体も一歩分だけ進んできた。
「……ついてくるのじゃ!」
リディアが不思議そうに目を細める。
「おや?」
「どうした、リディア?」
「少し待ってください……」
彼女は作業台の計測器を確認した。
そして。
「ああ、なるほど」
「何か分かったのか?」
「この魔道具は、細かなゴミや毛なども認識するように作ってあるんです」
「……毛?」
「はい」
リディアは紅月の背後へ視線を向けた。
そこには。
ふっさふさの、大きな赤い尻尾。
「……まさか」
和真が呟く。
その瞬間。
――ウィィン!
球体が紅月の尻尾へ近づいた。
「むっ!?」
先端から小さな柔らかいブラシが伸びる。
そして。
ふわっ。
尻尾の先を撫でた。
「ひゃうっ!?」
紅月が飛び上がった。
「な、何じゃ!?」
「紅月!?」
球体は再び尻尾へ近づく。
ふわふわ。
「ひゃはははっ!」
紅月は身体をよじった。
「く、くすぐったいのじゃ!」
「ちょっと待て、紅月!」
「まるが! まるがわっちの尻尾を!」
球体は尻尾に付着した細かな埃を取り除こうとしているらしい。
しかし、紅月にはそんな事情など分からない。
「ひゃははっ! やめるのじゃー!」
紅月が逃げる。
球体が追いかける。
「リディア! 止めてくれ!」
「はい。今、停止させます!」
リディアが操作盤へ手を伸ばした、その時だった。
逃げ回る紅月が、開いたままの工房の扉へ向かって走り出した。
「父さまー!」
「紅月! そっちは外だ!」
ぱたぱたぱたっ!
紅月が廊下へ飛び出す。
球体も、その尻尾を追って工房から出てしまった。
「あっ!」
リディアが目を丸くする。
「……しまった」
和真は額を押さえた。
「だから言ったのに……!」
◇
――タタタタタッ!
「ひゃははははっ!」
母屋の廊下に、紅月の笑い声が響き渡る。
その後ろを、銀色の球体がふわふわと追いかけていた。
「まる! もうやめるのじゃー!」
――ウィィン!
「ひゃははっ! くすぐったい!」
紅月は笑いながら走り続ける。
追いかける和真。
その後ろにはあおいとリディア。
「紅月! 止まるのじゃ!」
「止まったらまるが来るのじゃー!」
「わらわが尻尾を守ってやるから!」
「ほんとかえー!?」
「本当じゃ! じゃから止まるのじゃ!」
しかし、紅月は止まらない。
そのまま階段を駆け上がり、一階の廊下へ飛び出した。
ちょうどその時。
「……あれ?」
居間から出てきたピピが、紅月を見つけた。
「紅月! 何してるの?」
「ピピー!」
「ん?」
「まるが追いかけてくるのじゃー!」
「まる?」
ピピが首を傾げる。
すると、紅月の後ろから銀色の球体が現れた。
――ウィィン!
「わあっ!」
ピピの目が輝く。
「何それ! 飛んでる!」
「リディアのまるじゃ!」
「すごい!」
ピピは嬉しそうに翼を広げた。
「僕も遊びたい!」
「遊びじゃないんだよ!」
ようやく追いついた和真が叫ぶ。
しかし、すでに遅かった。
「待ってー!」
ピピが翼を羽ばたかせ、紅月の後を追いかけ始めた。
「きゃはははっ!」
「わーい!」
「二人とも止まれー!」
追いかける和真の声が、母屋に響く。
そして。
「……何してるんですか?」
廊下の先から、ひかげが顔を出した。
手には洗濯物を入れた籠を持っている。
「ひかげー!」
「えっ? 紅月?」
紅月が勢いよく近づいてきた。
その後ろを飛ぶ謎の銀色の球体。
さらに翼を広げたピピ。
最後に必死の形相で走ってくる和真。
「……え?」
ひかげは固まった。
「な、何があったんですか!?」
「ひかげ! ちょっと横に避けて!」
「は、はいっ!」
慌てて壁際へ寄るひかげ。
紅月が通り過ぎる。
ピピも続く。
そして銀色の球体が――。
――ピピッ。
「……ん?」
突然、ひかげの前で停止した。
「えっ?」
球体が向きを変える。
ひかげは不思議そうに首を傾げた。
「……何です、これ?」
次の瞬間。
――ウィィン!
球体がひかげの服へ近づいた。
「ひゃっ!?」
ゴシック調の服についていた小さな糸くずを、ブラシが取り除く。
「ちょ、ちょっと!?」
ふわふわ。
「な、何するんですか!?」
球体が次々と糸くずを探す。
「ひゃあっ! くすぐったいです!」
「ひかげ、大丈夫!?」
和真が慌てて駆け寄った。
そこへ、リディアも追いつく。
「すみません! 今止めます!」
彼女は携帯用の操作器を取り出した。
しかし。
「……あれ?」
画面に表示された文字を見て、リディアが眉を寄せる。
「どうした?」
「工房の外に出たことで、試験用の通信が不安定になっていますね」
「えっ!?」
「直接、本体を停止させます」
「頼む!」
リディアが球体へ近づこうとした、その時。
「わあ! まる、こっち!」
ピピが翼を大きく広げた。
ふわりと羽毛が一枚、床へ落ちる。
――ピピッ!
球体が反応した。
くるりと方向転換し、落ちた羽毛へ向かう。
「おおっ!」
ピピは大喜びだった。
「僕の羽、食べた!」
「掃除してるんだよ!」
「じゃあ、僕も手伝う!」
「いや、待って!」
ピピがぱたぱたと翼を動かす。
すると。
ふわっ。
ふわふわっ。
さらに小さな羽毛が舞った。
球体のセンサーが、次々と反応する。
――ピピピピッ!
「……あ」
リディアが小さく呟いた。
「どうした?」
「掃除対象が増えました」
「…………」
銀色の球体が、突然忙しなく動き始めた。
右へ。
左へ。
上へ。
下へ。
ふわふわと舞う羽毛を追いかけている。
「わああっ! すごい!」
ピピは大興奮だった。
「もっと飛ばそうかな!」
「飛ばさなくていいから!」
和真の叫びが響き渡った。
◇
「……何だ、この騒ぎは」
母屋の居間。
騒がしい声を聞きつけたナディアが、廊下へ顔を出した。
そこに広がっていた光景は、なかなかのものだった。
紅月は和真の背後に隠れ。
ピピは楽しそうに翼を動かし。
ひかげは洗濯籠を抱えて立ち尽くしている。
あおいは紅月を落ち着かせようとし、リディアは銀色の球体を追いかけていた。
「…………」
ナディアは数秒、無言になった。
「……何やってるんだ、お前ら?」
「ナディア! ちょうどいいところに!」
和真が振り返る。
「ちょっと、その丸いやつを捕まえてくれないか!?」
「丸いやつ?」
ナディアが球体を見る。
――ウィィン!
球体は床の上をふわふわと移動していた。
「……あれか?」
「そう!」
「ふん。あんなもの、簡単だろ」
ナディアは余裕の笑みを浮かべた。
そして、球体が近づいてきた瞬間。
ひょいっ。
片手で掴んだ。
「ほらな」
「おおっ!」
和真が感心した声を上げる。
「さすがナディア!」
「当然だ。俺様を誰だと思ってる」
ナディアは得意げに笑った。
しかし。
――ウィィン……。
「……ん?」
球体の底から、小さなブラシが伸びる。
そして、ナディアの服についた埃を取り除こうとした。
ふわふわ。
「……おい」
ふわふわふわ。
「……何してる?」
さらにブラシが動く。
「ちょっと待て」
ナディアの眉がぴくりと動いた。
「俺様の服を勝手に掃除するな!」
その声に驚いた紅月が、和真の背後から顔を覗かせた。
「ナディアもくすぐったいのかえ?」
「違う!」
「む?」
「これは……!」
ふわふわふわ。
「……っ!」
ナディアの肩が小さく跳ねた。
それを見たみゆが、いつの間にか廊下の向こうから顔を出していた。
「……ぷっ」
「みゆ?」
「あははははっ!」
みゆは腹を抱えて笑い始めた。
「ナディア! くすぐったいんじゃん!」
「違うと言ってるだろ!」
「でも、今びくってしたよ!」
「してない!」
「したって!」
紅月まで笑い始めた。
「きゃはははっ! ナディアもまるに遊ばれておる!」
「遊ばれてない!」
そこでリディアがようやく近づいた。
「ナディア、そのまま持っていてください」
「ああ?」
「停止させます」
リディアは球体の中央にある魔石へ指を触れ、短い操作を行った。
――ピッ。
球体の光が消えた。
ブラシも引っ込む。
「……止まりました」
廊下に静寂が戻った。
「…………」
和真は大きく息を吐いた。
「……終わった?」
「はい。もう大丈夫です」
「よかったぁ……」
あおいも胸を撫で下ろした。
ひかげはようやく洗濯籠を持ち直し、ピピは少し残念そうに翼を畳んだ。
「もう終わり?」
「終わりですよ」
「えー! 楽しかったのに!」
「楽しくなかったのは俺だけか……?」
和真が疲れた顔で呟く。
すると。
「父さま!」
紅月が元気よく駆け寄ってきた。
「まる、面白かったのじゃ!」
「……そうか」
「また遊びたい!」
「いや、遊び道具じゃないからな?」
「むぅ……」
紅月が頬を膨らませる。
その様子を見ていたリディアが、少し考え込んだ。
「……でも、悪くないかもしれませんね」
「え?」
「紅月が触れても安全な、遊び用の魔道具を作るのも面白そうです」
「リディア!?」
和真が思わず振り返った。
「いや、これ以上増やさなくても……!」
「危険な機能は付けませんし、動作範囲も制限しますよ」
「そういう問題なのかな……」
「わああっ!」
紅月が大喜びした。
「リディア! 作ってくれるのかえ!?」
「時間ができたら、考えてみますね」
「やったのじゃー!」
紅月が飛び跳ねる。
その尻尾が勢いよく揺れた。
和真は嫌な予感しかしなかった。
◇
「……それで?」
居間へ戻ってきた一同を待っていたのは、ユエだった。
腕を組み、静かに全員を見渡している。
「ずいぶん楽しそうだったわね」
「…………」
和真は目を逸らした。
あおいも目を逸らした。
リディアは少し申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません。私の試作品が、少し予想外の動きをしてしまいまして」
「少し?」
「……はい」
ユエの視線が和真へ向いた。
「和真」
「はい」
「紅月から目を離さないようにすると言っていなかった?」
「いや、目は離してなかったんだけど……」
「それで、この騒ぎ?」
「……ごめん」
和真は素直に謝った。
続いてユエは、あおいを見る。
「あおい」
「……うむ」
「あなたも一緒だったのでしょう?」
「そうじゃ……」
「なら、二人でちゃんと見ていなさい」
「……すまぬ」
完全に叱られる父親と母親である。
その様子を見ていたみゆが、口元を押さえた。
「……ふふっ」
「みゆ」
「はいっ!」
ユエの視線が向いた瞬間、みゆは背筋を伸ばした。
「あなたも途中から騒ぎに加わっていたでしょう?」
「えっ!? 僕は見てただけだよ!」
「笑っていたのは聞こえていたわ」
「笑うくらいいいじゃん!」
「……そうね。そこは別に構わないわ」
「えっ、いいの?」
「ただし、面白がって煽るのはやめなさい」
「……はーい」
みゆは肩をすくめた。
その隣では、ナディアが腕を組んでいた。
「俺様は捕まえただけだぞ」
「ええ。そこは助かったわ」
「当然だ」
ナディアは満足そうに頷いた。
しかし。
「でも、服を掃除されて怒鳴っていたそうね」
「……誰から聞いた?」
ナディアの視線が、みゆへ向いた。
みゆは笑顔で顔を背けた。
「……おい、みゆ」
「何?」
「後で覚えてろよ」
「あははっ! 怖いなぁ!」
居間に笑い声が広がる。
その時だった。
「……ユエ」
小さな声が聞こえた。
ユエが視線を下げる。
そこには、紅月が立っていた。
「どうしたの?」
「……わっちが悪いのじゃ」
その言葉に、和真が驚いた。
「紅月?」
紅月は両手を前で組み、しょんぼりと俯いていた。
大きな狐耳も垂れている。
「わっちが、まると遊ぼうとしたから……みんなが大変になったのじゃ」
「…………」
「父さまと母さまは、悪くないのじゃ……」
紅月の声は、いつもよりずっと小さかった。
和真は思わず膝をつこうとした。
しかし、その前にユエが口を開いた。
「紅月」
「……うむ」
「自分が悪かったと思っているのね?」
「……うむ」
「なら、何をしてはいけなかったのか、分かる?」
紅月はしばらく考えた。
「……走ってはいけなかったのじゃ」
「そうね」
「それと……」
紅月はリディアを見た。
「リディアのお部屋では、ちゃんと言うことを聞かねばならぬのじゃ」
「ええ。その通りよ」
ユエは静かに頷いた。
「でも、失敗したからといって、全部が駄目だったわけではないわ」
「……む?」
「あなたは今日、みんなのためにおにぎりを作ったのでしょう?」
「……うむ」
「それは、とてもいいことよ」
紅月の耳が、少しだけ持ち上がった。
「それに、リディアにも喜んでもらえたのでしょう?」
「……うむ!」
「なら、次はもっと上手にできるようにすればいいの」
「……次?」
「そうよ。失敗したことを覚えて、同じことを繰り返さないようにするの」
紅月は真剣な顔で聞いていた。
そして、小さく頷く。
「……分かったのじゃ」
ユエは少しだけ表情を緩めた。
「よろしい」
すると、紅月は突然顔を上げた。
「ユエ!」
「何?」
「わっち、次はもっとよい子になるのじゃ!」
「ええ。期待しているわ」
「うむ!」
元気いっぱいの返事。
その様子に、和真もあおいもほっと息をついた。
しかし、紅月はまだ何か言いたそうにしていた。
「……父さま」
「ん?」
「怒っておるかえ?」
和真は少し驚いた。
そして、紅月の前にしゃがみ込む。
「怒ってないよ」
「……ほんとかえ?」
「ああ。でも、危ないことをしたら注意するからな」
「……うむ」
「紅月が怪我をしたら、俺もあおいも悲しいから」
その言葉に、紅月の耳がぴくりと動いた。
「……母さまも?」
「もちろんじゃ」
あおいが隣へしゃがみ込んだ。
「紅月は、わらわたちの大切な子じゃからのう」
「……!」
紅月の瞳が大きく開かれた。
そして。
「……えへへ」
嬉しそうに笑った。
「父さま!」
「ん?」
「母さま!」
「どうしたのじゃ?」
「わっち、二人が大好きじゃ!」
そう言って、二人の首へ同時に抱きついた。
「うわっ!」
「おおっ!?」
三人がその場でよろめく。
和真は慌てて紅月を支え、あおいは優しく抱きしめた。
「もう、紅月……」
「ふふっ。本当に甘えん坊じゃのう」
「えへへへ!」
紅月は幸せそうに笑った。
その姿を見ていたユエは、小さく息を吐く。
「……結局、甘やかしているじゃない」
みゆが笑う。
「仕方ないよ。もう、あの二人は完全に親馬鹿だもん」
「俺様もそう思う」
ナディアまで頷いた。
「……やっぱり、そう見える?」
和真が苦笑すると、ひかげがそっと微笑んだ。
「ふふっ……でも、何だか素敵ですね」
「そう?」
「はい。見ているだけで、こっちまで温かい気持ちになります」
その言葉に、あおいは少し照れたように笑った。
「……そう言ってもらえると嬉しいのう」
紅月は二人の間で、満足そうに尻尾を揺らしていた。
◇
それから少しして。
昼食の準備が整った。
食卓には、酒菜が用意した料理と、紅月が作った不揃いなおにぎりが並んでいる。
「わあっ!」
ピピが嬉しそうに声を上げた。
「これ、紅月が作ったの!?」
「うむ!」
「すごい!」
「むふふ!」
紅月は得意げに胸を張る。
そして、次々とおにぎりを配り始めた。
「これはピピ!」
「ありがとう!」
「これはひかげ!」
「ありがとうございます、紅月」
「これはナディア!」
「おう。ありがとな」
「これはユエ!」
「……ありがとう」
ユエは少し驚いたようにおにぎりを受け取った。
その形は、見事なまでに細長かった。
「…………」
ユエが静かに見つめる。
「……紅月」
「む?」
「これは、何の形なの?」
「おにぎりじゃ!」
「……そう」
ユエはそれ以上何も言わなかった。
隣では、みゆが笑いをこらえている。
「……ふふっ」
「みゆ」
「な、何でもないよ!」
紅月は満足そうに頷いた。
そして、最後に和真とあおいのところへ戻ってきた。
「父さま! 母さま!」
「ん?」
「わっち、みんなに配れたのじゃ!」
「うん。よくできたな」
「偉いぞ、紅月」
「えへへへ!」
和真は紅月の頭を撫でた。
あおいもその隣で優しく微笑む。
その光景を見つめながら、酒菜は静かに笑っていた。
空色唐辛子荘に、新しい日常が生まれつつある。
以前から賑やかな場所ではあったが、紅月が加わってから、その騒がしさはさらに増していた。
けれど、不思議と嫌な気持ちにはならない。
むしろ。
誰かが笑い。
誰かが呆れ。
誰かが叱り。
そして、最後にはみんなで食卓を囲む。
そんな何気ない時間が、今ではとても大切に思えた。
和真は紅月を見つめた。
「……なあ、紅月」
「む?」
「今日はもう十分頑張ったんだから、午後は少しゆっくりしような」
「……午後?」
「ああ。お昼寝でもしてさ」
すると、紅月の耳がぴんっと立った。
「お昼寝!」
「そうそう」
「父さまと一緒かえ!?」
「……え?」
「母さまも一緒かえ!?」
和真とあおいが顔を見合わせた。
そして。
「……まあ、少しなら」
「わらわも構わぬぞ」
「やったのじゃー!」
紅月が大喜びする。
そんな三人を見て、みゆがにやりと笑った。
「……ねえ、フェンリス」
「ん?」
「午後も和真、取られちゃったね」
「…………」
フェンリスの表情が固まった。
「……あ」
みゆが笑う。
「あははっ! 今気づいた?」
「ちょっと待ってよ!」
フェンリスが勢いよく立ち上がった。
「和真!」
「ん?」
「僕だって午後は一緒にいたい!」
「えっ!?」
「最近、紅月とあおいばっかりじゃないか!」
和真が困った顔になる。
その横で、紅月が頬を膨らませた。
「駄目じゃ!」
「なんでさ!」
「父さまは、わっちとお昼寝するのじゃ!」
「僕だって和真と寝たいんだけど!」
「むぅぅぅ!」
紅月が尻尾を膨らませる。
フェンリスも負けじと和真を見つめた。
その様子を見ていたナディアが、大笑いした。
「はははっ! 今度は昼寝の取り合いか!」
みゆも楽しそうに笑っている。
「和真、大人気だね!」
「他人事だと思って……!」
和真は頭を抱えた。
あおいは困ったように微笑み、紅月とフェンリスを交互に見つめる。
「……さて、どうしたものかのう」
こうして。
昼食が終わるよりも早く、今度は和真の昼寝を巡る小さな争奪戦が始まってしまったのだった。
「父さまは、わっちとお昼寝するのじゃ!」
「だから、僕だって和真と一緒にいたいんだって!」
「駄目じゃ!」
「なんでさ!」
「駄目なものは駄目なのじゃ!」
食卓を挟んで睨み合う紅月とフェンリス。
もっとも、身長百三十センチほどの紅月が精いっぱい背伸びをしているため、傍から見ると何とも微笑ましい光景だった。
しかし、当人たちは至って真剣である。
「……なあ、二人とも」
「何!?」
「何じゃ!?」
「……いや、何でもない」
和真は早々に口を閉じた。
その様子を見ていたみゆが、楽しそうに笑っている。
「あははっ! 和真、完全に負けてるじゃん!」
「みゆ、笑ってないで助けてくれよ……」
「えー? 面白いから、もう少し見てたいな」
「おい……」
まったく頼りにならなかった。
すると、あおいが紅月の肩にそっと手を置いた。
「紅月。少し落ち着くのじゃ」
「むぅ……」
「父さまは紅月だけのものではないぞ?」
「……む?」
「ここには、和真を大切に思っておる者がたくさんおる。皆と仲良くせねばならぬ」
紅月はきょとんとした。
そして、フェンリスを見上げる。
「……フェンリスも、父さまが好きなのかえ?」
「えっ!?」
突然の質問に、フェンリスの顔が赤くなった。
「そ、それは……!」
「む?」
「……好きだよ」
少し照れながらも、はっきりと答える。
「僕だって和真が大好きなんだから」
「……!」
紅月の耳がぴんっと立った。
「わっちも大好きじゃ!」
「うん。知ってるよ」
「わっちの方が、もっと大好きじゃ!」
「いや、僕だって負けないよ!」
「むぅぅぅ!」
「だから、何で勝負になってるんだよ……」
和真が頭を抱えた。
その隣でナディアが大笑いしている。
「はははっ! 和真、よかったじゃないか。こんなに好かれて」
「笑い事じゃないって!」
「俺様なら、全員まとめて相手にしてやるがな」
「できるわけないだろ!」
「ふん。まだまだだな、和真」
「何が!?」
そんなやり取りを聞いていた酒菜が、とうとう口を開いた。
「……お前ら」
一同の視線が集まる。
「昼飯、冷めるぞ」
「…………」
「昼寝の前に、まず飯を食え」
「……はい」
和真が素直に頷いた。
それを見ていたみゆが、また笑い始める。
「今日の和真、怒られてばっかりだね!」
「誰のせいだと思ってるんだよ……」
「紅月じゃない?」
「えっ!? わっちかえ!?」
紅月が驚いて自分を指さす。
「冗談だよ!」
「むぅ! またからかったのじゃ!」
賑やかな笑い声が、食堂に広がった。
◇
昼食を終えた後。
和真は居間のソファに腰を下ろしていた。
その右隣にはあおい。
そして、膝の上には当然のように紅月が座っている。
「……結局こうなるんだよな」
「むふふ!」
紅月はご機嫌だった。
両腕を和真の首へ回し、頬をすり寄せている。
「父さま、あったかいのじゃ!」
「そうか?」
「うむ!」
和真が頭を撫でると、紅月は満足そうに目を細めた。
あおいもその様子を微笑ましく眺めている。
しかし。
「……ねえ、和真」
「ん?」
正面から声がした。
顔を上げると、フェンリスがじっとこちらを見つめていた。
「……約束、忘れてないよね?」
「約束?」
「僕も一緒にいたいって言ったじゃないか」
「ああ、そうだったな」
「……本当に覚えてた?」
「覚えてるって」
和真は苦笑した。
すると、膝の上の紅月がぴくりと反応した。
「むっ!」
「……紅月?」
「父さまは今、わっちと一緒なのじゃ!」
「分かってるよ」
フェンリスは少し困った顔で笑った。
「でもさ、紅月」
「む?」
「僕だって、和真と一緒にいられないと寂しいんだよ」
「……寂しい?」
「うん」
フェンリスは頷いた。
「和真と一緒にいると嬉しいし、離れてると会いたくなる。紅月もそうだろ?」
「……うむ」
「僕も同じなんだ」
紅月はしばらく黙っていた。
そして、和真の服をぎゅっと握る。
「……でも」
「ん?」
「父さまが、どこかへ行ってしまうのは嫌じゃ……」
その言葉に、和真の表情が変わった。
「紅月……」
「わっちは、父さまと母さまと一緒がよいのじゃ」
紅月の耳が少し垂れる。
「ずっと一緒がよい……」
いつもの元気いっぱいな声とは違う。
小さく、不安そうな声だった。
和真は紅月の背中へ腕を回した。
「大丈夫だよ」
「……む?」
「俺はどこにも行かない。フェンリスと一緒にいたって、紅月のことを忘れたりしないから」
「……ほんとかえ?」
「ああ」
和真は優しく笑った。
「それに、同じ家に住んでるんだから、またすぐ会えるだろ?」
「……うむ」
紅月は少し考えた。
そして、フェンリスへ視線を向ける。
「……フェンリス」
「ん?」
「父さまと一緒にいたいのかえ?」
「うん」
「……寂しいのかえ?」
「……まあ、そうだね」
フェンリスは少し照れくさそうに笑った。
すると、紅月はゆっくりと和真の膝から下りた。
「……むむむ」
腕を組む。
真剣な顔で考える。
そして。
「……少しなら、よいぞ」
「えっ?」
「父さまと一緒にいてもよいのじゃ!」
紅月は胸を張った。
「ただし!」
「ただし?」
「ちゃんと、わっちのところへ返してたもれ!」
「…………」
フェンリスは数秒、紅月を見つめた。
そして。
「……ぷっ」
「あはははっ!」
とうとう笑い出した。
「な、何じゃ!?」
「いや、ごめん! 和真は物じゃないんだから!」
「む?」
「返すとかじゃなくて、また一緒に遊べばいいんだよ」
「……なるほど?」
紅月は首を傾げた。
しかし、すぐに笑顔になる。
「ならば、みんなで遊ぶのじゃ!」
「うん。それがいいね!」
二人は顔を見合わせて笑った。
和真はほっと息をつく。
「……何とか解決したか」
すると、隣のあおいが小さく笑った。
「ふふっ。紅月も、少しずつ覚えておるのう」
「そうだな」
「まだ知らぬことばかりじゃが……」
あおいは紅月を見つめた。
「皆と一緒なら、きっと大丈夫じゃ」
和真は静かに頷いた。
◇
それからしばらく。
紅月はフェンリスと一緒に、居間で遊んでいた。
「フェンリス! こっちじゃ!」
「はいはい。そんなに引っ張らなくても行くよ」
「早く早く!」
紅月が手を引く。
フェンリスは笑いながらついていった。
しかし、次の瞬間。
「むっ!」
紅月がぴたりと止まった。
「どうしたの?」
「……尻尾じゃ!」
「尻尾?」
「母さまが、狭いところでは振り回してはならぬと言っておった!」
紅月は自分の尻尾を抱え込んだ。
その姿に、フェンリスが目を丸くする。
「へえ。ちゃんと覚えてるんだね」
「うむ!」
「偉いじゃないか」
フェンリスが頭を撫でると、紅月は嬉しそうに笑った。
「えへへ!」
そして、ふと思いついたように顔を上げる。
「フェンリス!」
「ん?」
「フェンリスにも尻尾があるのかえ?」
「あるよ」
「ほんとかえ!?」
「ああ。僕も獣人だからね」
「見たいのじゃ!」
「えっ?」
フェンリスが少し驚く。
しかし、紅月の目は期待でいっぱいだった。
「……まあ、いいけど」
フェンリスは周囲を確認した後、獣人としての姿を見せた。
狼の耳と尻尾が現れる。
「おおおおっ!」
紅月が飛び跳ねた。
「狼じゃ!」
「そうだよ」
「わっちと同じじゃ!」
「いや、狐と狼は違うだろ?」
「でも、耳と尻尾があるのじゃ!」
「……まあ、そうだけど」
紅月は嬉しそうにフェンリスの周囲を回った。
そして、尻尾をじっと見つめる。
「……ふさふさじゃ」
「そうだね」
「触ってもよいかえ?」
「優しくならいいよ」
「うむ!」
紅月はそっと手を伸ばした。
ふわっ。
「……!」
その目が大きく見開かれる。
「ふわふわなのじゃ!」
「ははっ。紅月の尻尾もふわふわだろ?」
「わっちのとは違うのじゃ!」
紅月は夢中で尻尾を撫でた。
その様子に、フェンリスも思わず笑ってしまう。
「そんなに気に入った?」
「うむ!」
すると、紅月が突然フェンリスへ抱きついた。
「フェンリスも大好きじゃ!」
「うわっ!?」
予想外の行動に、フェンリスがよろめく。
しかし、すぐに紅月を抱きとめた。
「……もう、急に抱きついたら危ないじゃないか」
「えへへ!」
フェンリスは苦笑しながら、紅月の頭を撫でた。
「……仕方ないなぁ」
そんな二人を見ていた和真は、思わず笑顔になった。
「よかったな、紅月」
「父さま!」
「ん?」
「フェンリスもふわふわなのじゃ!」
「そうだな」
「父さまも触るかえ!?」
「えっ!?」
フェンリスの顔が真っ赤になった。
「ちょ、紅月!?」
「む?」
「そ、それは……!」
フェンリスが和真を見る。
和真も困った顔で見返す。
「……どうする?」
「どうするって聞かないでよ!」
みゆがソファで笑い転げた。
「あはははっ! フェンリス、真っ赤!」
「みゆー!」
再び居間が笑い声に包まれた。
◇
午後二時を少し過ぎた頃。
それまで元気いっぱいだった紅月の動きが、少しずつ鈍くなってきた。
「……ふぁぁ……」
小さな欠伸。
目をこする。
そして、和真の服の裾を引いた。
「……父さま」
「ん?」
「……眠いのじゃ」
「そうか。朝からずっと遊んでたもんな」
「……うむ」
紅月は眠たそうに頷いた。
その隣では、あおいが優しく微笑んでいる。
「ほれ、紅月。そろそろお昼寝にしようかの」
「……母さまも?」
「もちろんじゃ」
「……父さまも?」
「ああ。一緒に寝よう」
その言葉に、紅月は安心したように笑った。
「……えへへ」
和真が抱き上げると、紅月はすぐに首へ腕を回した。
そして、頬を胸元へすり寄せる。
「……あったかいのじゃ」
「はいはい」
和真は小さく笑った。
その姿を見ていたフェンリスが、少しだけ寂しそうな顔をする。
しかし、すぐに笑顔へ戻った。
「……和真」
「ん?」
「僕は、あとでいいから」
「フェンリス?」
「紅月、もう眠そうだしね」
フェンリスはそう言って、紅月の頭を優しく撫でた。
「ゆっくり寝ておいで」
「……うむ」
紅月は目を細めた。
そして。
「……フェンリス」
「何?」
「……あとで、また遊ぼうの」
フェンリスは少し驚いた。
それから、嬉しそうに微笑む。
「ああ。約束だよ」
「……うむ」
和真もフェンリスへ笑いかけた。
「ありがとう。夕方、紅月が起きたら少し一緒に過ごそうか」
「……うん!」
フェンリスの耳が嬉しそうに動いた。
その様子を見ていたみゆが、にやりと笑う。
「よかったね、フェンリス」
「……何だよ」
「いや、別に?」
「絶対何か考えてるだろ!」
「あははっ!」
和真は苦笑しながら、紅月を抱いて部屋へ向かった。
その後ろを、あおいがついていく。
◇
和真の部屋。
昼下がりの柔らかな日差しが、カーテンの隙間から差し込んでいた。
和真は布団を広げ、紅月をそっと下ろした。
「ほら、紅月。横になろうな」
「……うむ」
紅月は素直に布団へ潜り込んだ。
しかし、すぐに顔を上げる。
「……父さま」
「ん?」
「……こっち」
小さな手で、隣をぽんぽんと叩く。
和真は苦笑した。
「はいはい」
隣へ横になると、紅月はすぐに腕へ抱きついた。
そして、反対側を向く。
「……母さまも」
「ふふっ。分かっておる」
あおいも反対側へ横になった。
紅月は二人の間に挟まれると、満足そうに笑った。
「……えへへ」
右には和真。
左にはあおい。
両方の手で、それぞれの服をぎゅっと握っている。
「……これでよいのじゃ」
「そうか」
「うむ……」
紅月の声が、少しずつ小さくなる。
和真はその頭を優しく撫でた。
「今日は楽しかったか?」
「……うむ」
「おにぎりも作ったし、リディアの工房にも行ったもんな」
「……まる……」
「ああ、まるもいたな」
「……また……遊びたい……」
「今度はリディアの許可をもらってからな」
「……うむ……」
紅月は小さく頷いた。
あおいがそっと布団を掛け直す。
「紅月、寒くはないかえ?」
「……大丈夫じゃ……」
「そうか。ならば、ゆっくり眠るのじゃ」
「……母さま」
「何じゃ?」
「……手……」
紅月が小さな手を伸ばした。
あおいはその手を優しく握る。
「ほれ」
「……えへへ……」
紅月は安心したように目を細めた。
そして。
「……父さま……」
「ん?」
「……母さま……」
「ここにおるぞ」
「……ずっと……一緒……」
その言葉を最後に、紅月はゆっくりと目を閉じた。
すぅ……。
すぅ……。
小さな寝息が聞こえてくる。
和真とあおいは顔を見合わせた。
「……寝たな」
「うむ」
あおいは優しく微笑んだ。
「本当に、甘えん坊じゃのう」
「そうだな」
和真は紅月の寝顔を見つめた。
あどけない表情。
時折ぴくぴくと動く狐耳。
そして、布団の中から少しだけ飛び出した大きな尻尾。
今は、すっかり安心しきって眠っている。
「……なあ、あおい」
「何じゃ?」
「紅月が来てから、ずいぶん賑やかになったよな」
「ふふっ。そうじゃのう」
「毎日何かしら騒ぎが起きるし、目を離すとすぐ走り回るし……」
「和真も、ずいぶん振り回されておるのう」
「本当だよ」
二人は小さく笑った。
しかし、和真はすぐに穏やかな表情へ戻った。
「……でも、楽しいんだよな」
「うむ」
「なんかさ。紅月のことを見てると、自然と世話を焼きたくなるんだ」
あおいは静かに頷いた。
「わらわも同じじゃ」
「そうか」
「以前のわらわなら、きっと和真に甘えてばかりおったじゃろうな」
「……まあ、そうかもな」
和真が苦笑すると、あおいも小さく笑った。
「じゃが、今は……」
あおいは紅月の寝顔を見つめた。
「この子が笑っておると、わらわも嬉しいのじゃ」
「……うん」
「お腹が空けば、ご飯を食べさせてやりたい。泣いておれば、抱きしめてやりたい。怖いことがあれば、守ってやりたい」
あおいの声は、とても穏やかだった。
「……不思議なものじゃのう」
「何が?」
「わらわは、長いこと生きてきたというのに……」
あおいは少し照れたように笑った。
「このような気持ちは、初めてなのじゃ」
和真は静かに耳を傾けていた。
「……母親って、こんな感じなのかのう」
あおいが小さく呟く。
和真は少し考えた。
そして、微笑んだ。
「……そうかもしれないな」
「そうかえ?」
「ああ。俺だって父親になったことなんてないから、よく分からないけどさ」
和真は紅月の頭を撫でた。
「この子が笑ってると嬉しいし、危ないことをしたら心配になる。何かできるようになったら、自分のことみたいに嬉しい」
「……うむ」
「たぶん、そういうことなんじゃないかな」
あおいはしばらく和真を見つめていた。
そして、ふわりと微笑む。
「……和真」
「ん?」
「そなたは、よい父親になりそうじゃのう」
「えっ!?」
和真の顔が赤くなった。
「な、何だよ急に!」
「ふふっ。思ったことを言っただけじゃ」
「……そ、そうか」
和真は照れくさそうに視線を逸らした。
そんな和真を見て、あおいは嬉しそうに笑った。
そして、紅月を起こさないようにそっと手を伸ばす。
紅月の上を越え、和真の手に触れた。
「……わらわも」
「ん?」
「そなたと一緒なら、よい母親になれる気がするのじゃ」
「……あおい」
和真は少し驚いた。
しかし、すぐにその手を優しく握り返した。
「……一緒に頑張ろうな」
「……うむ」
あおいは幸せそうに微笑んだ。
二人の間では、紅月が静かに眠っている。
小さな手は、まだ二人の服を握ったままだった。
◇
それから、どれくらい経っただろう。
和真もあおいも、いつの間にか眠っていた。
穏やかな昼下がり。
部屋には三人の寝息だけが響いている。
しかし。
――コンコン。
控えめなノックの音がした。
「……和真?」
扉の向こうから、フェンリスの声が聞こえる。
返事はない。
「……寝てるのかな?」
フェンリスは少し迷った。
そして、そっと扉を開ける。
「……お邪魔しまーす……」
小声で呟きながら、部屋を覗き込んだ。
すると。
「…………」
フェンリスの動きが止まった。
布団の中には、三人が並んで眠っていた。
中央には紅月。
右には和真。
左にはあおい。
紅月は二人の服をぎゅっと握りしめ、幸せそうな顔で眠っている。
あおいもまた、紅月の手を握ったまま眠っていた。
そして和真は、そんな二人を包み込むように腕を伸ばしている。
「……ふふっ」
フェンリスは思わず微笑んだ。
「……本当に、親子みたい」
その声は、とても小さかった。
フェンリスは布団のそばへ静かに座った。
そして、紅月の寝顔を見つめる。
「……よかったね、紅月」
小さく呟いた。
「安心できる場所ができて」
紅月の狐耳が、ぴくりと動いた。
しかし、目を覚ます様子はない。
フェンリスはそっと頭を撫でた。
「……おやすみ」
そう言って立ち上がろうとした、その時。
「……ん……」
和真が小さく身じろぎした。
「……フェンリス?」
「あっ」
目が合う。
「ごめん、起こしちゃった?」
「いや……大丈夫」
和真は眠たそうに目をこすった。
「どうした?」
「……約束、覚えてるかなって」
「ああ」
和真は小さく笑った。
「もちろん覚えてるよ」
「……そっか」
フェンリスは嬉しそうに微笑んだ。
「でも、今はいいよ」
「ん?」
「紅月、すごく気持ちよさそうに寝てるから」
フェンリスはそう言って、紅月を見つめた。
「今日は、もう少し一緒にいてあげて」
「……フェンリス」
「その代わり」
フェンリスは少し頬を赤くした。
「……あとで、僕にもちゃんと甘えさせてよね」
和真は微笑んだ。
「ああ。約束する」
「……うん!」
フェンリスは満足そうに頷いた。
そして、静かに部屋を出ていった。
和真はその背中を見送り、再び紅月の方へ視線を戻した。
「……みんな、優しいな」
小さく呟く。
すると。
「……そうじゃのう」
「……あおい?」
反対側から声がした。
あおいが薄く目を開けていた。
「起きてたのか?」
「今、目が覚めたところじゃ」
「そっか」
あおいは紅月の寝顔を見つめた。
「……紅月は幸せ者じゃのう」
「ああ」
「こんなにも、たくさんの者に大切にされておる」
和真は穏やかに頷いた。
「……そうだな」
そして、少し考えてから付け加えた。
「でも、俺たちも幸せ者だと思うよ」
「……む?」
「こんなに賑やかな毎日を過ごせるんだからさ」
あおいは少し驚いた。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「……そうじゃな」
二人は再び紅月の頭を撫でた。
その時。
「……むにゃ……」
紅月が寝言を呟いた。
「……父さま……」
「ん?」
「……母さま……」
「ここにおるぞ」
あおいが小さく答える。
すると、紅月の口元がふにゃりと緩んだ。
「……だいすき……」
その一言に、和真とあおいは顔を見合わせた。
そして。
「……反則だろ、これ」
「……うむ」
二人は同時に微笑んだ。
◇
夕方。
紅月が目を覚ました時、窓の外は茜色に染まり始めていた。
「……ん……」
小さく目をこする。
そして、左右を見た。
「……む?」
右には和真。
左にはあおい。
二人とも、まだ横になっている。
「……父さま?」
「ん……?」
「……母さま?」
「……おお、紅月。起きたのかえ?」
あおいがゆっくりと目を開けた。
紅月は嬉しそうに笑った。
「おはようでありんす!」
「ふふっ。おはよう、紅月」
和真も身体を起こした。
「よく寝たな」
「うむ!」
紅月は元気よく頷いた。
そして、突然二人へ抱きついた。
「父さま! 母さま!」
「うわっ!?」
「おおっ!?」
「わっち、幸せなのじゃ!」
二人は驚いた顔をした。
しかし、すぐに笑顔になる。
「……そっか」
「ふふっ。それは何よりじゃ」
紅月は満足そうに尻尾を振った。
その姿を見ながら、和真は思った。
この子がやってきてから、まだそれほど時間は経っていない。
それなのに。
もう、紅月のいない日常が想像できなくなっていた。
朝は元気いっぱいに起こされ。
食事中は尻尾で騒ぎを起こし。
何かを見つければ走り出し。
叱られればしょんぼりして。
褒められれば、誰よりも嬉しそうに笑う。
そんな毎日が、いつの間にか当たり前になっていた。
「……さて」
和真が立ち上がる。
「そろそろ下に行こうか」
「うむ!」
「ああ、紅月」
「む?」
「今日は歩いて行こうな」
「……むぅ」
紅月が頬を膨らませる。
「抱っこは?」
「さっきまでずっと一緒に寝てただろ?」
「……むむむ」
紅月は真剣な顔で考えた。
そして、あおいを見る。
「……母さま」
「何じゃ?」
「手を繋いでもよいかえ?」
あおいは優しく微笑んだ。
「もちろんじゃ」
「父さまも!」
「はいはい」
和真も手を差し出す。
紅月は二人の手をぎゅっと握った。
「えへへへ!」
満面の笑み。
そのまま三人は、ゆっくりと部屋を出た。
◇
居間へ戻ると、フェンリスが真っ先に顔を上げた。
「あっ! 和真!」
「お待たせ」
「もう起きたんだ?」
「ああ。紅月も元気いっぱいだよ」
「フェンリス!」
紅月が元気よく駆け寄った。
「遊ぶのじゃ!」
「えっ!?」
「約束したであろう!」
フェンリスは一瞬驚いた。
しかし、すぐに笑顔になった。
「ああ、そうだったね!」
紅月は嬉しそうに頷いた。
そして、和真の方を振り返る。
「父さまも!」
「俺も?」
「うむ!」
すると、みゆが横から顔を出した。
「じゃあ、僕も混ぜてよ!」
「よかろう!」
「やった!」
ピピも翼を広げる。
「僕も!」
「ピピもじゃ!」
「わーい!」
あっという間に、居間が賑やかになった。
その様子を見ていたナディアが、呆れたように笑った。
「……まったく、元気なやつらだな」
「ナディアも遊ぶかえ!?」
「俺様も?」
「うむ!」
ナディアは少し考えた。
そして、にやりと笑う。
「……いいだろう。俺様が遊んでやる」
「やったのじゃ!」
紅月が飛び跳ねる。
すると、その大きな尻尾が――。
――ぱさっ!
「……おい」
ナディアの顔を覆った。
「…………」
「……む?」
紅月が振り返る。
ナディアはゆっくりと尻尾を退けた。
「……紅月」
「な、何じゃ?」
「尻尾だ」
「……あ」
紅月は慌てて尻尾を抱え込んだ。
「す、すまぬ!」
その姿に、ナディアは思わず吹き出した。
「はははっ! 分かればいい!」
みゆも笑い始める。
「紅月、今日ずっと尻尾で怒られてるね!」
「むぅぅ!」
紅月は頬を膨らませた。
しかし、すぐに笑顔に戻る。
「ならば!」
「ん?」
「尻尾を使わぬ遊びをするのじゃ!」
和真は少し考えた。
「……じゃあ、積み木でもするか?」
「つみき?」
「ああ。積んで遊ぶやつ」
「……面白いのかえ?」
「やってみれば分かるよ」
和真は棚から積み木の箱を取り出した。
以前、ピピが興味を持って遊んでいたものだった。
床に広げると、紅月の目が輝き始める。
「おおおっ!」
「ほら、こうやって積むんだ」
和真が一つずつ重ねていく。
紅月は真剣な顔で見つめていた。
そして。
「わっちも!」
積み木を一つ取る。
慎重に重ねる。
また一つ。
また一つ。
「むむむ……」
塔が少しずつ高くなる。
「……おお!」
紅月の耳が立った。
「すごいのじゃ!」
「上手じゃないか」
和真が褒める。
しかし。
「もっと高くするのじゃ!」
「紅月、そろそろ危ないぞ?」
「まだまだじゃ!」
もう一つ。
さらに一つ。
塔がぐらりと揺れる。
「……む?」
全員が息を呑んだ。
そして。
――ガラガラガラッ!
「ああああっ!?」
積み木が崩れた。
紅月は目を丸くする。
「……壊れたのじゃ」
数秒の沈黙。
そして。
「……もう一回!」
元気いっぱいの声が響いた。
和真は思わず笑った。
「……そうだな」
フェンリスも笑顔で頷く。
「今度は僕も手伝うよ!」
「僕も!」
みゆが隣へ座る。
「僕も積む!」
ピピも翼を使いながら参加しようとする。
すると、ナディアが腕を組んだ。
「ふん。そんなもの、俺様ならもっと高くできる」
「ほんとかえ!?」
「当然だ」
紅月の目が輝いた。
「ならば勝負じゃ!」
「いいだろう!」
こうして、今度は積み木大会が始まった。
結果。
最初に塔を崩したのは、意外にもナディアだった。
「…………」
「…………」
全員が静まり返る。
そして。
「……ぷっ」
みゆが吹き出した。
「あははははっ!」
「ナディア、下手じゃん!」
「うるさい!」
「きゃはははっ!」
紅月も大笑いした。
「ナディア! わっちの勝ちじゃ!」
「まだ勝負は終わってない!」
「負け惜しみじゃ!」
「何だと!?」
その騒ぎを聞きつけ、台所から酒菜が顔を出した。
「……お前ら、今度は何してるんだ?」
「積み木大会!」
ピピが元気よく答える。
「……積み木?」
酒菜は床に散らばった積み木を見た。
そして、騒いでいる一同を見渡す。
「……まったく」
呆れたように笑った。
「夕飯までには片付けろよ」
「はーい!」
皆の声が重なった。
紅月も元気よく手を上げる。
「分かったのじゃ!」
その隣で、和真は小さく笑った。
あおいもまた、幸せそうに微笑んでいた。
◇
こうして、空色唐辛子荘の新しい日常は続いていく。
朝から紅月に起こされ。
食事中には尻尾が暴れ。
お手伝いをすれば何かが起こり。
遊び始めれば、いつの間にか皆が巻き込まれる。
そんな騒がしい毎日。
けれど、誰も本気で嫌がってはいなかった。
紅月はまだ、知らないことばかりだった。
人間の暮らしも。
この世界の常識も。
みんなと一緒に生活するための約束も。
これから覚えなければならないことは、山ほどある。
きっと、明日も何かを失敗するだろう。
和真は慌てて追いかけるかもしれない。
あおいは困った顔で叱るかもしれない。
ユエは呆れ、酒菜は苦笑し、ほかの住人たちは笑いながら振り回されるに違いない。
それでも。
紅月には、帰る場所があった。
甘えられる人がいた。
叱ってくれる人がいた。
そして何より。
自分を大切にしてくれる、温かな家族がいた。
「父さまー!」
居間から元気いっぱいの声が響く。
「ん? どうした、紅月?」
「母さまも!」
「何じゃ?」
紅月は二人のところへ駆け寄ると、満面の笑みを浮かべた。
「わっち、明日もお手伝いするのじゃ!」
「……え?」
和真の表情が固まった。
あおいも目を丸くする。
「……紅月?」
「む?」
「……何のお手伝いをするつもりじゃ?」
紅月は少し考えた。
そして。
「リディアと一緒に、まるをもっとすごくするのじゃ!」
「…………」
和真とあおいは顔を見合わせた。
数秒の沈黙。
「……和真」
「……ああ」
二人は同時にため息をついた。
「「……明日も大変そうだな……」」
そんな二人の心配など知る由もなく。
紅月は嬉しそうに尻尾を振っていた。
「えへへへ!」
――今日も、空色唐辛子荘は平和である




