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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第六十九話 家族という願い

 紅月が初めての買い物から帰ってきた翌朝。


 空色唐辛子荘の母屋には、いつものように朝食のいい香りが漂っていた。


「ご主人! 早くするのじゃ!」


「分かったから、そんなに引っ張るなって」


「早くせねば、飯がなくなってしまうぞ!」


「なくならないから安心しろ」


 廊下から聞こえてくる賑やかな声。


 和真の服を引っ張りながら歩いているのは、もちろん紅月だった。


 昨日の買い物で新しく買ってもらった服を着て、大きな赤い尻尾を楽しそうに揺らしている。


 リディアに作ってもらった腕輪は、今は外していた。


 外出する際には狐耳や尻尾を隠して普通の人間に見せることができるが、家の中ではその必要がない。


 そもそも紅月自身は、自分の耳や尻尾を隠すことをあまり好んでいなかった。


「ご主人! 今日は何をするのじゃ?」


「そうだな。昨日は買い物で大変だったし、今日は家でのんびりするか」


「むぅ……」


「不満そうだな」


「わっちは遊びたいのじゃ!」


「昨日あれだけ走り回ったのに、まだ元気なのか……」


「当然じゃ!」


 胸を張る紅月。


 昨日、迷子になって泣きそうになっていた少女と同じ人物とは思えないほど元気だった。


 しかし、以前とは一つだけ違うところがあった。


「おお! あおい!」


 居間に入った途端、紅月が和真の服から手を離した。


 そして、朝食の準備を手伝っていたあおいへ駆け寄る。


「あおい!」


「おや、紅月。もう起きたのかえ?」


「うむ!」


 紅月は勢いよくあおいに抱きついた。


「おっと……ふふっ。朝から元気じゃのう」


「わっちは元気じゃ!」


「それは何よりじゃ」


 あおいは優しく微笑むと、紅月の頭を撫でた。


 昨日の出来事以来、紅月は和真だけでなく、あおいにもすっかり甘えるようになっていた。


 それまでは何をするにも和真から離れようとしなかったのだが、今ではあおいを見つけると自分から駆け寄っていく。


 もっとも、和真への甘え癖がなくなったわけではない。


 単純に、甘える相手が一人増えたのである。


「紅月、顔は洗ってきたのかえ?」


「…………」


 紅月の動きが止まった。


 あおいはその顔を見て、すぐに察した。


「……まだなのじゃな?」


「ご主人が早く行こうと言ったのじゃ!」


「おい、俺のせいにするな」


「ご主人が悪いのじゃ!」


「さっきまで俺を引っ張ってたのは誰だよ……」


 和真が呆れたように笑う。


 すると、あおいも小さく笑った。


「仕方のない子じゃのう。ほれ、わらわと一緒に行こうか」


「うむ!」


 差し出された手を紅月が握る。


 そのまま二人は洗面所へ向かった。


 和真はそんな後ろ姿を見つめながら、思わず笑みを浮かべた。


「……すっかり仲良しだな」


「ああ。昨日からずっとあんな調子だ」


 台所から酒菜の声が返ってきた。


「和真がいねえ時は、あおいの後ろをついて回ってたぞ」


「そうなのか?」


「料理の手伝いまでしたがってな。まあ、危なっかしくて見てられなかったが」


「……何か壊した?」


「壊しちゃいねえよ。ただ、皿を運ぼうとして尻尾で椅子を倒しかけた」


「ああ……」


 和真は苦笑した。


 それは容易に想像できた。


「でも、あおいが上手く教えてたぞ。紅月もあおいの言うことなら素直に聞くようになってきたしな」


「助かるなあ……」


「お前も少しは厳しくしろよ?」


「してるつもりなんだけどな……」


「まったく、甘いんだよ」


 酒菜は呆れながらも、どこか楽しそうに笑った。


     ◇


「目を閉じるのじゃ」


「むむ……」


「ほれ、動くでない」


 洗面所では、あおいが濡らしたタオルで紅月の顔を拭いていた。


 昨日、トイレの使い方を教えた時もそうだったが、紅月は人間の生活にまだ慣れていない。


 狐だった頃には必要のなかったことが、人間の姿ではいくつもある。


 あおいは、その一つ一つを辛抱強く教えていた。


「これくらいなら、自分でできるようにならねばのう」


「できるぞ?」


「ならば明日からは自分でやってみるかえ?」


「…………」


「紅月?」


「……あおいがやってくれる方がよい」


「ふふっ。そうかえ」


 あおいは思わず笑ってしまった。


 紅月は満足そうに目を細めている。


 顔を拭き終えると、今度は髪を整えてやる。


「昨日もそうじゃったが、そなたは寝相が悪いのう」


「そうかえ?」


「うむ。髪があちらこちらへ跳ねておるぞ」


「むぅ……」


「少しじっとしておれ」


 あおいは櫛を取り、赤い髪を丁寧に梳いていった。


 紅月は最初こそ落ち着きなく身体を動かしていたが、次第に大人しくなっていく。


 やがて、気持ちよさそうに目を細めた。


「……あおい」


「何じゃ?」


「もう少しやってほしいのじゃ」


「もう十分綺麗になっておるぞ?」


「それでもじゃ」


「……仕方のない子じゃのう」


 そう言いながらも、あおいは櫛を動かし続けた。


 紅月の柔らかな髪が、少しずつ整っていく。


 その時だった。


「……母さまみたいじゃ」


 ぽつりと、紅月が呟いた。


「……母?」


 あおいが手を止める。


 紅月は鏡の中のあおいを見つめていた。


「母さまも、わっちをよく綺麗にしてくれたのじゃ」


「……そうなのかえ?」


「うむ。わっちが泥だらけになって帰ると、いつも綺麗にしてくれた」


 紅月は懐かしそうに笑った。


「わっちは遊びたかったのに、母さまは逃がしてくれなかったのじゃ」


「ふふっ。それはそなたが汚れたまま遊ぼうとするからじゃろう」


「むぅ……母さまと同じことを言うのう」


「そうかえ?」


「うむ!」


 紅月は元気よく頷いた。


 しかし、その表情がふと曇る。


「……母さま、元気にしておるかのう」


「紅月……」


「また会えるかのう……」


 あおいは何も言わず、紅月の頭へそっと手を置いた。


 紅月が母親を慕っていることは、これまでの話からも分かっていた。


 自分の名前を母親からもらったこと。


 母親が人間の姿になるのを見て、自分も変化できるようになりたいと思ったこと。


 そして、人間の姿になれば和真と話せるのではないかと、懸命に練習していたこと。


 紅月にとって、母親は今でも特別な存在なのだ。


「……寂しいかえ?」


「…………」


 紅月は少し考えた。


 そして、小さく頷いた。


「……少しだけじゃ」


「そうか……」


「じゃが、ご主人がおる! あおいもおる!」


 紅月は振り返ると、あおいの身体へぎゅっと抱きついた。


「だから、わっちは寂しくないのじゃ!」


「……紅月」


「あおいは優しいのう。母さまみたいじゃ!」


 無邪気な笑顔。


 そこには、何の遠慮もなかった。


 ただ、自分を大切にしてくれる相手への純粋な好意だけがあった。


 あおいは一瞬、言葉を失った。


 そして、そっと紅月の背中へ腕を回した。


「……そうかえ」


「うむ!」


「……わらわも、そなたと一緒におるのは楽しいぞ」


「本当かえ?」


「もちろんじゃ」


「ならば、今日も一緒に遊ぶのじゃ!」


「ふふっ。朝餉を食べてからじゃな」


「分かったのじゃ!」


 紅月が嬉しそうに笑う。


 あおいも微笑んだ。


 だが、その胸には、これまで感じたことのない不思議な温かさが残っていた。


     ◇


 朝食の席でも、紅月はあおいの隣から離れようとしなかった。


「ご主人! ここに座るのじゃ!」


「そこ?」


「うむ! わっちの隣じゃ!」


「その反対側はあおいか」


「そうじゃ!」


 紅月は得意げに胸を張った。


 和真が右隣に座り、あおいが左隣に座る。


 それだけで紅月は満足そうだった。


「……なんだか、親子みたいだね」


 向かいに座っていたみゆが、楽しそうに笑った。


「親子?」


 和真が首を傾げる。


「そうそう。和真がお父さんで、あおいがお母さん。紅月が子供って感じ」


「……っ!」


 あおいの肩がぴくりと動いた。


「お、お母さん……?」


「だって、さっきからずっと紅月のお世話してるじゃん」


「そ、それは……まだ慣れぬことが多いからじゃ」


「うん。でも、すごく楽しそうだよ?」


「…………」


 あおいは紅月を見る。


 紅月は自分の前に置かれた朝食を、嬉しそうに眺めていた。


「酒菜! これは何じゃ?」


「卵焼きだ。昨日も食べただろ?」


「昨日のものとは違うぞ?」


「今日は少し味を変えてあるんだよ」


「おお!」


 紅月は箸を持ち、さっそく食べ始めた。


「うまいのじゃ!」


「そりゃよかった」


 酒菜が笑う。


 ところが、紅月の箸は野菜のところで止まった。


「……これはいらぬ」


「紅月、好き嫌いは駄目じゃぞ」


 あおいが優しく注意する。


「むぅ……」


「少しずつでよいから食べるのじゃ」


「……あおいが食べればよいではないか」


「そなたの分じゃろう?」


「ご主人!」


「俺に振るなよ」


 和真が笑うと、紅月は頬を膨らませた。


「むぅ……」


 その様子を見て、周囲から小さな笑い声が上がる。


 しかし。


 台所のそばに立っていた酒菜だけは、一瞬動きを止めていた。


 野菜を嫌がる紅月。


 それを優しく諭すあおい。


 困ったように笑う和真。


 その光景が、遠い昔の記憶と重なったのだ。


 ――母ちゃん、これ嫌い!


 頭の奥で、幼い男の子の声がした。


 酒菜の右手が、わずかに震えた。


「……酒菜?」


 和真の声に、はっと我に返る。


「あ? どうした?」


「いや、何かぼーっとしてたから」


「……ああ。ちょっと考え事してただけだ」


「そうか?」


「気にすんな。ほら、冷める前に食え」


 酒菜はいつもの調子で笑った。


 そして、何事もなかったように自分の席へ向かった。


 けれど、その胸の奥では。


 長い間、蓋をしていた記憶が静かに揺れ始めていた。


     ◇


 それから数日。


 紅月とあおいの関係は、ますます親密になっていった。


「あおい! 髪を結んでほしいのじゃ!」


「またかえ? 今朝も結んだばかりじゃろう」


「今度は違うのがよい!」


「ふふっ。では、こちらへおいで」


 朝は髪を整えてもらい。


「あおい! これを見よ!」


「おや、何を持ってきたのじゃ?」


「ご主人に買ってもらったものじゃ!」


「ほう。大切にせねばのう」


「うむ!」


 昼は買ってもらったものを見せびらかし。


「あおい……」


「どうしたのじゃ?」


「眠いのじゃ……」


「そうか。ならば少し休もうかのう」


「……一緒がよい」


「ふふっ。よいぞ」


 眠くなれば、あおいの膝へ頭を預ける。


 そんな日々が続いていた。


 そして、あおい自身にも変化が現れていた。


 最初はただ、紅月の世話をするのが楽しかった。


 しかし、次第にそれだけではなくなっていった。


 紅月が笑えば嬉しくなる。


 何かできるようになれば褒めてやりたくなる。


 困っていれば助けてやりたい。


 眠っている姿を見ると、いつまでも見守っていたくなる。


 それは、単に小さな子供が可愛いという感情とは、少し違っていた。


 ――母親とは、こういう気持ちになるものなのじゃろうか。


 そんなことを考える時間が増えていた。


 そして、その度に思い浮かぶのは和真だった。


 紅月と一緒に遊んでいる和真。


 食事を食べさせている和真。


 眠くなった紅月を抱き上げる和真。


 その姿を見るたび、あおいの胸が温かくなる。


 ある日の午後。


 居間のソファで、紅月が和真の膝に座っていた。


「ご主人! もっと撫でるのじゃ!」


「はいはい」


「むふふっ……」


 和真に頭を撫でられ、紅月は幸せそうに目を細めている。


 あおいは、その隣に腰を下ろしていた。


 しばらく二人を眺めていたが、やがて和真の腕へそっと身体を寄せた。


「……和真」


「ん?」


「わらわも、そちらへ寄ってよいかえ?」


「もう十分近いと思うけど……」


「……もっとじゃ」


「分かったよ」


 和真が少し身体をずらす。


 あおいはその肩へ頭を預けた。


「……ふふっ」


「どうした?」


「何でもないのじゃ」


 あおいは微笑んだ。


 和真の温もり。


 すぐそばで笑う紅月。


 まるで、本当の家族になったような時間。


 その幸せを感じるほどに、あおいの胸には一つの願いが大きくなっていった。


 ――いつか、わらわも。


 和真との子を、この腕に抱いてみたい。


 紅月と同じように笑い、甘え、自分たちを呼んでくれる子供。


 和真と二人で、その成長を見守っていけたなら。


 きっと、どれほど幸せだろう。


「…………」


 あおいは、そっと自分のお腹へ手を添えた。


 今までだって、和真とずっと一緒にいたいとは願っていた。


 離れたくない。


 誰よりもそばにいたい。


 そんな想いは、ずっとあった。


 そして、つい先日。


 ようやく自分の想いを和真へ伝え、二人は互いの温もりを確かめ合った。


 あの夜の幸せは、今でも鮮明に覚えている。


 けれど、紅月がやってきたことで、その先にある未来を考えるようになったのだ。


 ただ一緒に暮らすだけではなく。


 和真と、新しい家族を作る未来を。


「……和真」


「どうした?」


「……今夜も、わらわと一緒におってくれぬか?」


「今夜?」


「うむ……」


 あおいは少し頬を染めた。


「そなたに、いっぱい甘えたいのじゃ」


 和真は小さく笑った。


「最近、本当に甘えん坊だな」


「……嫌なのかえ?」


「そんなことないよ」


「ならば、よいではないか」


 あおいは嬉しそうに目を細め、和真の腕へぎゅっと抱きついた。


 それを見ていた紅月も、負けじと和真にしがみつく。


「わっちもじゃ!」


「おっと……」


「ご主人! わっちも一緒に寝るのじゃ!」


「紅月はいつも一緒だろ?」


「今日も一緒がよい!」


「分かった、分かった」


 和真が苦笑する。


 あおいはそんな二人を見て、くすくすと笑った。


 今夜はまた、紅月が眠るまで二人で世話を焼くことになりそうだ。


 それでも構わなかった。


 むしろ、そんな時間さえ愛おしく思えるようになっていた。


 ――いつか。


 あおいは心の中で、小さく願った。


 ――いつか、和真との子を……。


     ◇


 そんな三人の姿を、少し離れたところから見つめている者たちがいた。


 フェンリスと、みゆ。


 そしてナディアだった。


「……ねえ、フェンリス」


「ん?」


「和真、すっかりお父さんみたいだね」


「……そうだね」


 フェンリスは頷いた。


 その表情には、どこか複雑なものが浮かんでいた。


 和真が紅月を可愛がる姿を見るのは嫌ではない。


 むしろ、ああいう優しいところが好きなのだ。


 ただ、その姿を見るたびに、函館で過ごした夜を思い出してしまう。


 二人で互いの想いを確かめ合った、あの特別な夜。


 そして、それから少しずつ変わっていった和真との関係。


 いつか自分たちにも、あんなふうに甘えてくる子供ができるのだろうか。


「…………」


 フェンリスは自分のお腹へ目を落とした。


 その隣では、みゆも静かに和真たちを眺めていた。


 みゆにとって、和真との子供が欲しいという願いは、今に始まったことではない。


 ずっと前から考えていた。


 和真にも、自分の想いは伝えている。


 そして、フェンリスともその気持ちについて話してきた。


 だからこそ、紅月と楽しそうに過ごす和真の姿が、以前にも増して特別に見えるのだった。


「……やっぱり、いいなあ」


 みゆが小さく呟いた。


「何が?」


「……ああいうの」


 フェンリスが視線を戻す。


 紅月が和真に抱きつき、あおいがその頭を優しく撫でている。


「……うん」


 フェンリスも、静かに頷いた。


「僕も、そう思う」


 その二人の隣で、ナディアは腕を組んだまま黙っていた。


 かつて魔王だった自分が、人間の男と家族を作る。


 以前なら、そんな未来を想像することすらなかっただろう。


 けれど、今は違う。


 和真への想いは、もう隠す必要のないものになっていた。


 そして、もしも二人の間に子供が生まれたなら。


「…………」


 ナディアは小さく口元を緩めた。


「……悪くないな」


「ナディア?」


「いや、何でもない」


 そう答えながらも、その視線は和真から離れなかった。


 三人が抱いた想いは、少しずつ違っていた。


 けれど、思い描く未来には同じ人物がいた。


 四ノ宮和真。


 自分たちが愛する、大切な男。


 その男と家族になりたいという願いが、以前にも増して大きくなり始めていた。


 しかし――


 その光景を見つめていたのは、三人だけではなかった。


     ◇


「……母ちゃん」


 誰にも聞こえないほど小さな声が、酒菜の唇から漏れた。


 台所で夕食の下ごしらえをしていた酒菜は、居間から聞こえてくる笑い声に耳を傾けていた。


 紅月の元気な声。


 それに応える和真。


 優しく笑うあおい。


 どこにでもありそうな、幸せな家族の光景。


 それが、どうしようもなく懐かしかった。


 ――母ちゃん!


 幼い男の子が、笑顔で走ってくる。


 まだ五歳だった息子。


 蓮真。


 野菜が嫌いで、食事のたびに文句を言っていた。


 それでも、酒菜が少し工夫して料理を作ると、嬉しそうに食べてくれた。


 そして、食べ終わると必ず――


 ――母ちゃん! うまかった!


 そう言って笑っていた。


「…………」


 酒菜は包丁を置いた。


 目を閉じる。


 今でも、はっきりと覚えている。


 小さな手。


 無邪気な笑顔。


 自分を呼ぶ声。


 そして、もう一人。


 まだ三歳だった娘、小鈴。


 眠る時は、いつも酒菜の服を握って離さなかった。


 そばを離れようとすると泣き出してしまう、甘えん坊だった。


 そして夫の伊吹は、そんな親子を見ていつも笑っていた。


 あの頃。


 確かに自分は、母親だった。


 守るべき家族がいた。


 帰るべき場所があった。


 毎日が賑やかで、忙しくて。


 時には腹を立てることもあった。


 けれど。


 それが、何よりも幸せだった。


「……蓮真……」


 小さく名前を呟く。


 もう二度と、その声が返ってくることはない。


 酒菜は右手を握りしめた。


 胸の奥に、懐かしさと痛みが同時に広がっていく。


 以前、和真に家族のことを話した夜。


 自分は確かに、あの三人を失った悲しみを口にすることができた。


 飛騨高山への旅行でも、和真の隣にいることで、もう一度誰かと笑って生きていきたいと思えるようになった。


 それでも。


 失ったものが、戻ってきたわけではない。


 忘れたわけでもない。


 そして今。


 紅月を見ていると、どうしようもなく思ってしまう。


 ――もう一度。


 ――もう一度、母親になれたなら。


「…………」


 酒菜は、ゆっくりと居間へ視線を向けた。


 そこには、紅月を抱き上げて笑う和真の姿があった。


 その笑顔を見つめながら。


 酒菜は、自分の胸に芽生えた想いから、目を背けることができなくなっていた。


 ――もう一度、母親になれたなら。


 その願いが胸に浮かんだ瞬間、酒菜は自分でも驚いていた。


「……何考えてんだ、俺は」


 小さく呟き、視線を手元へ戻す。


 夕食の下ごしらえは、まだ途中だった。


 まな板の上には切りかけの野菜が並んでいる。


 酒菜は包丁を握り直し、慣れた手つきで作業を再開した。


 片腕を失ってから、料理をするにも随分と苦労した。


 それでも諦めなかったのは、料理が好きだったからだ。


 自分の作ったものを誰かが美味しそうに食べてくれる。


 それだけで、少しだけ生きている実感が湧いた。


 そして今。


 空色唐辛子荘には、自分の料理を楽しみにしてくれる者たちがいる。


 和真をはじめ、フェンリスやみゆ、あおい、ナディアたち。


 最近では紅月まで加わった。


 かつて家族を失い、生きる意味さえ見失っていた自分が、こうして誰かのために料理を作っている。


 昔の自分なら、想像もできなかったことだろう。


「……母ちゃん、か」


 ふと、口元が緩んだ。


 紅月の無邪気な笑顔を見ていると、どうしても蓮真を思い出してしまう。


 五歳だった息子。


 元気がよくて、少し生意気で、何かあるたび自分の後ろをついて回っていた。


 そして、小鈴。


 三歳だった娘は、兄とは反対に甘えん坊だった。


 酒菜の姿が見えなくなると泣き出し、見つけると両手を広げて駆け寄ってくる。


 どちらも、本当に可愛かった。


 忙しい毎日の中、つい怒鳴ってしまったこともある。


 それでも二人は、何度叱られても笑顔で抱きついてきた。


 ――母ちゃん、大好き!


「…………」


 酒菜の手が止まった。


 あの声を、もう一度聞きたい。


 あの小さな身体を、もう一度抱きしめたい。


 叶わない願いだと分かっている。


 蓮真も小鈴も、もう戻ってこない。


 夫の伊吹も。


 あの日、失ったものはあまりにも大きかった。


 家族を奪われ、復讐を果たした後には何も残らなかった。


 それどころか、奴隷として捕らわれ、自由まで奪われた。


 逃げ出した後も、ただ死に場所を探すように彷徨っていた。


 生きていることに、何の意味があるのか。


 そんなことばかり考えていた。


 けれど――。


「……和真」


 自然と、その名前が口から漏れた。


 この世界で出会った、少しお人好しな青年。


 最初は、ただの変わった奴だと思っていた。


 自分を倒したうえに傷を治し、住む場所まで与えてくれた。


 警戒していた自分に無理に踏み込むこともなく、何かと気にかけてくれた。


 そして、あの夜。


 酒を飲みながら、自分の過去を打ち明けた。


 伊吹のこと。


 蓮真と小鈴のこと。


 家族を失い、何もかもが嫌になったこと。


 普段なら誰にも話せないようなことを、気づけば口にしていた。


 和真は、黙って聞いてくれた。


 哀れむでもなく、無理に励ますでもなく。


 ただ、そばにいてくれた。


 あれがどれほど嬉しかったことか。


「……本当に、変な奴だよな」


 酒菜は小さく笑った。


     ◇


「酒菜!」


「……ん?」


 突然名前を呼ばれ、酒菜は顔を上げた。


 台所の入口に和真が立っていた。


「どうした? 何か手伝おうか?」


「……ああ、和真か」


「さっきから呼んでたんだけど、聞こえてなかった?」


「悪い。ちょっと考え事してた」


「珍しいな」


「俺だって考え事くらいする」


「いや、そういう意味じゃないって」


 和真が苦笑する。


 酒菜はそんな顔を見て、少しだけ肩の力が抜けた。


「……そうだな。なら、そこの皿を出してくれ」


「分かった」


 和真は食器棚から皿を取り出し、調理台へ並べていく。


 その手際は、以前よりも随分とよくなっていた。


「お前も慣れたもんだな」


「毎日誰かの手伝いしてるからな」


「それもそうか」


「酒菜の料理も何度も手伝ってるし」


「ああ。最初は包丁の持ち方から危なっかしかったけどな」


「そこまで酷くなかっただろ」


「どうだかな」


 酒菜が笑う。


 和真も笑った。


 そんな何気ない会話が、今では当たり前になっている。


 かつて家族と過ごしていた頃も、こんな時間があった。


 伊吹が仕事を終えて帰ってくる。


 蓮真が騒ぎながらまとわりつき、小鈴が自分の服を引っ張る。


 その横で夕飯の準備をする。


 何でもない、ありふれた日常。


 失って初めて、それがどれほど幸せだったのか分かった。


「……なあ、和真」


「ん?」


「お前、紅月の世話も随分慣れてきたよな」


「そうか?」


「ああ。あいつ、お前にべったりじゃねえか」


「まあ、最初からそうだったけどな。最近はあおいにも甘えるようになったし、少し助かってるよ」


「……そうだな」


 酒菜は少しだけ微笑んだ。


「見てると、本当の親子みたいだ」


「みゆにも言われたよ」


「ああ、聞いてた」


 和真は小さく笑った。


「でも、紅月には本当のお母さんがいるからな。あおいもその辺は分かってると思う」


「……ああ」


 その言葉に、酒菜は頷いた。


 紅月の母親。


 今どこにいるのかは分からないが、紅月は今でも母親を慕っている。


 だからこそ、あおいも無理にその代わりになろうとはしていないのだろう。


 ただ、紅月が甘えてきた時には、優しく受け止めてやる。


 それが、あおいなりの愛情なのだ。


「……いいもんだな」


「何が?」


「子供がいる生活ってやつは」


 和真は少し考えてから頷いた。


「まあ、毎日大変だけどな」


「ははっ。違いねえ」


「でも、楽しいよ。この間なんて迷子になった時は本当に心配したけど、無事に見つかってよかった」


「そうだな」


 酒菜は和真の横顔を見つめた。


 あんなに心配していたのに、紅月が帰ってくればいつものように笑っている。


 怒るべきところは怒り、甘やかすところは甘やかす。


 少々甘すぎるところもあるが、紅月にとっては何より安心できる存在なのだろう。


 ――こいつなら。


 ふと、そんな考えが浮かんだ。


 ――こいつとなら、もう一度……。


「……酒菜?」


「……っ!」


「どうした?」


「な、何でもねえよ!」


 思わず声が大きくなる。


 和真が驚いたように目を瞬かせた。


「そ、そうか?」


「ああ。ほら、皿を並べたなら、そっちの野菜も運んでくれ」


「分かったよ」


 和真が調理台へ向き直る。


 酒菜はその背中を見つめながら、深く息を吐いた。


 ――何考えてんだ、俺は。


 頬が少し熱い。


 まさか、自分がこんなことを考える日が来るとは思わなかった。


     ◇


 その夜。


 夕食を終えた後も、居間は賑やかだった。


「ご主人! もう一回じゃ!」


「もう何回目だよ……」


「もう一回だけじゃ!」


「さっきも同じこと言ってたぞ」


「今度こそ最後じゃ!」


「本当か?」


「……たぶんじゃ!」


「絶対違うだろ、それ」


 紅月は和真に抱き上げてもらい、嬉しそうに笑っていた。


 最近覚えた遊びらしい。


 和真に抱き上げられ、高いところから景色を見るのが気に入っているようだった。


「おお! 高いのじゃ!」


「危ないから暴れるなよ」


「分かっておる!」


 そう言いながら、尻尾は忙しなく動いている。


 その様子を見て、フェンリスが笑った。


「紅月、楽しそうだね」


「うむ! フェンリスもやるかえ?」


「えっ、僕も?」


「うむ!」


「いや、僕はいいよ!」


 慌てて首を振るフェンリス。


 すると、みゆがにやりと笑った。


「えー? フェンリスも和真に抱っこしてもらえばいいじゃん」


「なっ……!」


 フェンリスの顔が赤くなる。


「べ、別に僕は……!」


「本当はしてほしいんでしょ?」


「そ、そんなこと……!」


「ふふっ。素直じゃないなあ」


「みゆ!」


 みゆが楽しそうに笑う。


 その横では、ナディアが呆れたように腕を組んでいた。


「まったく、騒がしい連中だ」


「ナディアもどう?」


「俺様を子供扱いするな」


「別に子供扱いじゃないよ?」


「分かってて言ってるだろ、お前」


 ナディアはそう返しながらも、口元には笑みを浮かべていた。


 そんな賑やかな光景を、酒菜は少し離れた場所から眺めていた。


 紅月が和真に甘える。


 あおいが隣で優しく見守る。


 フェンリスとみゆがじゃれ合い、ナディアがそれを眺めている。


 いつの間にか、こんなにも賑やかな場所になっていた。


「……家族、か」


 酒菜は小さく呟いた。


 ここにいる者たちは、血の繋がった家族ではない。


 生まれた世界も、種族も、歩んできた人生も違う。


 それでも、こうして同じ場所に集まり、笑い合っている。


 自分も、その輪の中にいる。


 それは、間違いなく幸せなことだった。


 しかし。


 その幸せを感じるほどに、別の願いが胸を締めつける。


 もう一度、子供を抱きたい。


 もう一度、母親と呼ばれたい。


 もう一度、誰かの成長をそばで見守りたい。


 そんな願いが、どうしても消えてくれなかった。


     ◇


 その日の深夜。


 自分の部屋へ戻った酒菜は、なかなか眠ることができずにいた。


 布団に横になり、天井を見上げる。


「…………」


 静かな部屋。


 昼間の賑やかさが嘘のようだった。


 ふと、右手を自分のお腹へ添える。


 かつて、ここに二人の命が宿っていた。


 蓮真と小鈴。


 二人を身ごもっていた頃のことを、今でも覚えている。


 初めて子供を授かったと分かった時。


 伊吹は、驚くほど喜んでいた。


 普段は落ち着いていたあの男が、何度も自分の腹を見つめ、何かにつけて身体を気遣ってきた。


 酒菜が少し重い物を持とうものなら、慌てて飛んできたものだ。


 ――お前は少し心配しすぎなんだよ!


 そう言って笑い飛ばしたことも、一度や二度ではなかった。


 そして、初めて蓮真を腕に抱いた日。


 あの小さな身体の重さ。


 泣き声。


 温もり。


 自分がこの子の母親なのだと、初めて実感した瞬間だった。


 小鈴が生まれた時もそうだった。


 蓮真が妹を見て、恐る恐る手を伸ばした姿が忘れられない。


 伊吹が笑い、自分も笑った。


 あの頃は、そんな幸せがいつまでも続くと思っていた。


「……馬鹿だな、俺」


 酒菜は目を閉じた。


 今さら、何を望んでいるのだろう。


 家族を失った自分が、もう一度子供を欲しがるなんて。


 蓮真と小鈴に申し訳ない。


 伊吹にも。


 そんな気持ちが、胸を締めつけた。


 けれど、それと同じくらい。


 もう一度幸せになりたいという想いも、確かに存在していた。


「……伊吹」


 亡き夫の名前を呼ぶ。


「俺は……どうすりゃいいんだろうな」


 返事はない。


 当然だった。


 もう、あの声を聞くことはできない。


 酒菜はゆっくりと寝返りを打った。


 その時、ふと頭に浮かんだのは、飛騨高山での旅行だった。


 和真と二人で出かけた、一泊二日の旅。


 観光を楽しみ、美味いものを食べ、夜には酒を酌み交わした。


 あの日。


 和真は、自分の悩みを打ち明けてくれた。


 フェンリスとの関係。


 みゆやナディアとのこと。


 自分がどうすればいいのか分からず、悩んでいた。


 普段は誰かを助けることばかり考えている男が、あの夜は珍しく弱音を吐いていた。


 そんな和真を見て、酒菜は放っておけなくなった。


 そして、二人は互いの温もりを感じながら眠った。


 あの夜は、不思議と安心できた。


 失った家族のことを忘れたわけではない。


 それでも、誰かの隣で眠ることが、こんなにも心地よいものだったのかと思った。


「……和真」


 酒菜は、自分の右手を見つめた。


 あの夜、和真を抱き寄せた時の温もりが、まだ残っているような気がした。


 いつからだろう。


 和真を、単なる恩人として見られなくなったのは。


 初めは、借りを返すつもりだった。


 自分を助けてくれた男に、何かしてやりたい。


 それだけだったはずだ。


 しかし、今では違う。


 和真が笑っていれば嬉しい。


 疲れていれば休ませてやりたい。


 悩んでいれば相談に乗ってやりたい。


 そして、時には。


 自分だけを見てほしいとさえ思ってしまう。


「……はあ」


 酒菜は深くため息をついた。


「俺も、随分と変わっちまったな」


 以前の自分なら、こんな気持ちになることすら拒んでいただろう。


 けれど今は、その想いを否定したくなかった。


 和真が好きだ。


 一緒にいると安心する。


 もっとそばにいたい。


 そして――。


「……子供、か」


 もう一度、お腹へ手を添えた。


 もしも、和真との間に子供ができたなら。


 どんな子が生まれるのだろう。


 和真に似た、優しい子だろうか。


 それとも、自分に似て少し気の強い子だろうか。


 鬼人の血を引けば、角が生えてくるのかもしれない。


 小さな角を生やした子供が、和真へ抱きついている姿。


 そんな光景を想像してしまう。


「…………」


 酒菜は思わず顔を覆った。


「……何を想像してんだ、俺は」


 頬が熱くなる。


 しかし、その想像は嫌なものではなかった。


 むしろ。


 胸が温かくなるほど、幸せな光景だった。


 だが、同時に現実的な不安も浮かんでくる。


「……もう二十八なんだよな」


 ぽつりと呟いた。


 まだ若いと言われる年齢かもしれない。


 けれど、酒菜にとっては違った。


 すでに一度、夫を持ち、二人の子供を育てていた。


 その家族を失ってから、長い時間が過ぎたように感じている。


 失ったものを嘆き、復讐に身を投じ、生きることさえ諦めていた時間。


 その間、自分の未来など考えもしなかった。


 もし今からもう一度家族を作るなら。


 和真と気持ちを確かめ合い、将来について話し合い、子供を授かる。


 それには、どれほどの時間が必要なのだろう。


 そもそも、もう一度子供を授かれるのか。


 鬼人である自分と、人間である和真の間に子供ができるのか。


 分からないことばかりだった。


「……くそっ」


 酒菜は小さく悪態をついた。


 年齢だけを理由に焦る必要はない。


 頭では分かっている。


 けれど、また何かを失うのではないかという恐怖が、どうしても消えなかった。


 家族を失った時、自分は何もできなかった。


 守れなかった。


 だからこそ、今度こそ大切なものを守りたい。


 今度こそ、幸せな時間を大切にしたい。


 そして。


 もう、後悔したくなかった。


「……和真」


 酒菜は静かに目を閉じた。


 今すぐ答えを出せるような話ではない。


 それは分かっている。


 けれど。


 このまま何も言わず、時間だけが過ぎていくことにも耐えられそうになかった。


     ◇


 翌朝。


 酒菜はいつもより早く目を覚ました。


 ほとんど眠れなかったせいで、少し身体が重い。


「……ったく」


 布団から起き上がり、顔を洗う。


 鏡に映る自分の顔を見つめた。


 左目に残る傷。


 失われた左腕。


 かつての戦いで負った、消えることのない傷痕。


 その一つ一つが、失った家族の記憶と繋がっていた。


 酒菜は右手で左肩へ触れた。


「…………」


 今の自分を、和真はどう思っているのだろう。


 傷だらけの身体。


 一度結婚し、二人の子供を産んだ過去。


 そして、失った家族への想いを抱えたままの自分。


 こんな自分でも、もう一度誰かの妻になれるのだろうか。


 もう一度、母親になれるのだろうか。


「……弱気になってんじゃねえよ」


 酒菜は自分に言い聞かせた。


 普段なら、こんなことで悩んだりしない。


 欲しいものがあれば、自分から手を伸ばす。


 守りたいものがあれば、全力で守る。


 それが自分だったはずだ。


 なのに。


 相手が和真となると、どうにも調子が狂う。


「……よし」


 酒菜は小さく頷いた。


 まずは、話してみよう。


 和真が子供についてどう考えているのか。


 自分との未来を、どう思っているのか。


 それを聞かなければ、何も始まらない。


 そう決めて、部屋を出た。


     ◇


「……おはよう、酒菜」


「ああ、おはよう」


 和真のいる母屋へ向かうと、ちょうど玄関先で本人と顔を合わせた。


 どうやらゴミを出しに行くところらしい。


「今日は早いな」


「お前こそ、珍しいじゃねえか」


「紅月に起こされたんだよ」


「ああ……」


 酒菜は思わず笑った。


「またか」


「今朝は五時半だぞ。さすがに早すぎるって」


「ははっ! そりゃ災難だったな」


「笑い事じゃないって……」


 和真は困ったように頭を掻いた。


 そんな姿を見ていると、不思議と緊張がほぐれていく。


 酒菜は少しだけ勇気を出した。


「……なあ、和真」


「ん?」


「今日、少し時間あるか?」


「今日?」


「ああ。ちょっと話したいことがある」


 和真は首を傾げた。


「別にいいけど、何かあったのか?」


「……まあ、ちょっとな」


 酒菜は視線を逸らした。


 まさか、今ここで子供が欲しいなどと言えるはずもない。


「……できれば、二人で話したい」


「二人で?」


「ああ」


 その言葉に、和真の表情が少し真剣になった。


「……分かった。何時がいい?」


「夜でいい。夕飯が終わってからで構わねえ」


「分かった。じゃあ、片付けが終わったら声をかけるよ」


「……ああ。頼む」


 和真は小さく頷いた。


 そして、ゴミ袋を持ち直す。


「それじゃ、ちょっと行ってくる」


「ああ」


 和真が歩いていく。


 酒菜はその背中を見送りながら、胸元へ右手を添えた。


 心臓が、少し早く打っている。


「……何緊張してんだ、俺は」


 小さく苦笑した。


 ただ話をするだけだ。


 それなのに、どうしてこんなにも落ち着かないのだろう。


 その時。


「酒菜!」


「うおっ!?」


 突然、後ろから声をかけられた。


 振り返ると、そこには紅月が立っていた。


「何じゃ、そんなに驚いて!」


「いきなり声かけるからだろうが!」


「むぅ……わっちは普通に呼んだだけじゃ!」


「分かった、分かった。で、どうした?」


 紅月は嬉しそうに笑った。


「朝飯はまだかえ?」


「……お前、そればっかりだな」


「腹が減ったのじゃ!」


「ったく、仕方ねえな」


 酒菜は笑って、紅月の頭へ右手を置いた。


 柔らかな赤い髪。


 小さな頭。


 その温もりに、胸がきゅっと締めつけられた。


「……酒菜?」


「……ん?」


「どうしたのじゃ?」


「いや……」


 酒菜は少しだけ微笑んだ。


「何でもねえよ」


「そうかえ?」


「ああ。ほら、朝飯の準備をするぞ」


「うむ!」


 紅月が元気よく頷く。


 そして、酒菜の右手をぎゅっと握った。


「一緒に行くのじゃ!」


「……ああ」


 酒菜は、その小さな手を握り返した。


 かつて、蓮真も小鈴も、こうして自分の手を握っていた。


 もう二度と戻らない温もり。


 けれど今、自分の手の中には確かな温かさがある。


 酒菜は紅月と一緒に歩きながら、静かに決意した。


 ――今度こそ、後悔したくねえ。


 そして、その日の夜。


 酒菜は和真に、自分の胸に芽生えた新たな願いを打ち明けることになる。


 ――その日の夜。


 空色唐辛子荘の母屋では、夕食を終えた住人たちが思い思いの時間を過ごしていた。


「ご主人! まだ寝とうないのじゃ!」


「もう遅いだろ。今日は昼寝もしなかったんだから」


「わっちはまだ元気じゃ!」


「そう言いながら、さっきからあくびしてるぞ?」


「しておらぬ!」


 そう言い張った直後、紅月は大きなあくびをした。


「……ほら」


「むぅ……」


 和真が笑うと、紅月は不満そうに頬を膨らませた。


 その様子を見ていたあおいが、そっと手を差し出す。


「紅月、今日はわらわと一緒に寝ようかのう」


「……あおいと?」


「うむ。そなたが眠るまで、そばにおってやるぞ」


「ご主人は?」


「俺はちょっと酒菜と話があるんだ」


「酒菜と?」


「そう。だから、今日はあおいと先に寝ててくれるか?」


 紅月は和真とあおいを交互に見た。


 以前なら、ここで和真から離れようとはしなかっただろう。


 しかし、今は違う。


「……ならば、あおい!」


「何じゃ?」


「尻尾を貸してほしいのじゃ!」


「ふふっ。よいぞ」


「むふふっ! では、ご主人! おやすみじゃ!」


「ああ、おやすみ」


 紅月は和真に抱きついてから、あおいの手を握った。


 そのまま二人で部屋を出ていく。


 和真はその後ろ姿を見送り、ほっと息をついた。


「……本当にあおいに懐いたな」


「いいことじゃない」


 隣からユエの声がした。


「あの子にとって、安心できる相手が増えたということでしょう」


「そうだな」


「それより、酒菜と話があるんでしょう?」


「ああ。朝、頼まれたんだ」


「そう」


 ユエは少しだけ和真を見つめた。


「……ちゃんと話を聞いてあげなさい」


「ん?」


「何でもないわ。行ってきなさい」


「……分かった」


 和真は少し不思議そうにしながらも、立ち上がった。


     ◇


 酒菜の部屋。


「……はあ」


 酒菜は布団の端に腰を下ろし、深く息を吐いていた。


 夕食の片付けを終えてから、何度も時計を確認している。


 普段なら、こんなことはしない。


 和真と二人で話す機会など、今までにもいくらでもあった。


 それこそ飛騨高山への旅行では、同じ部屋で酒を飲み、抱き合って眠ったことさえある。


 なのに。


「……くそっ。落ち着かねえな」


 酒菜は右手で顔を覆った。


 今日、何を話すつもりなのか。


 自分でも分かっている。


 子供が欲しい。


 もう一度、母親になりたい。


 そして、その相手には和真を望んでいる。


 ただ、それを本人に伝えるとなると、途端に言葉が出なくなってしまう。


「……俺らしくもねえ」


 酒菜は苦笑した。


 かつては将軍として戦場に立ち、数え切れないほどの敵と戦ってきた。


 命のやり取りを前にしても、これほど緊張した覚えはない。


 それなのに。


 二十二歳の青年一人を相手に、こんなにも落ち着かなくなるとは。


「……笑えねえな」


 その時だった。


 ――コン、コン。


「酒菜、俺だけど」


「……っ!」


 酒菜の肩が跳ねた。


「……あ、ああ! 入ってくれ!」


「お邪魔します」


 扉が開き、和真が顔を覗かせる。


「片付け終わったから来たけど、今大丈夫か?」


「ああ。問題ねえよ」


「そっか」


 和真は部屋へ入り、扉を閉めた。


 酒菜は無意識にその姿を目で追っていた。


「……座れよ」


「うん」


 和真が少し離れたところに腰を下ろす。


 その距離が、妙に気になった。


「…………」


「…………」


 沈黙。


 普段なら、こんなことにはならない。


 どちらからともなく話し始め、冗談を言い合う。


 それがいつもの二人だった。


 しかし、今夜の酒菜は違っていた。


「……酒菜?」


「……ん?」


「何かあった?」


 心配そうに見つめられる。


「朝から、ちょっと様子がおかしかったからさ」


「……そうか?」


「うん。昨日も考え事してたみたいだし」


「…………」


 酒菜は小さく息を吐いた。


 やはり、こいつには敵わない。


 普段は鈍感なくせに、こういうところだけ妙に鋭い。


「……なあ、和真」


「うん?」


「こっち来いよ」


「え?」


「いいから」


 酒菜は自分の隣を軽く叩いた。


 和真は少し戸惑いながらも、言われたとおりに移動する。


「これでいい?」


「……ああ」


 すぐ隣に和真が座る。


 肩が触れそうな距離。


 酒菜はその横顔を見つめた。


 ――好きだ。


 改めて、そう思った。


 自分より六つも年下の青年。


 少しお人好しで、誰にでも優しくて、時々放っておけなくなる。


 けれど、本当に大事な時には誰よりも頼りになる。


 そんな男を、自分は好きになってしまった。


「……和真」


「ん?」


「俺のこと、どう思ってる?」


「……え?」


 唐突な質問に、和真が目を瞬かせた。


「どうって……大切な仲間だし、家族みたいな存在だと思ってるよ」


「……家族、か」


「ああ。それに、酒菜には色々助けてもらってるし」


「…………」


 酒菜は、少しだけ俯いた。


 嬉しくないわけではない。


 家族のような存在。


 それは、かつて全てを失った自分にとって、何よりも温かい言葉だった。


 だが、今夜だけは。


 それだけでは足りなかった。


「……それだけか?」


「え?」


「家族みたいな存在。それだけなのかって聞いてんだ」


「……酒菜?」


 和真が戸惑う。


 酒菜はゆっくりと顔を上げた。


「俺は……お前のことが好きだ」


「…………」


「ただの仲間とか、家族みたいな存在とか……もう、そういう気持ちだけじゃねえんだよ」


 言ってしまった。


 胸の奥に隠していた想いを、ついに口にしてしまった。


 酒菜は和真の顔を見つめた。


 和真は驚いたように目を見開いている。


「……酒菜」


「……何だよ」


「それって……」


「言わせんな。もう十分言っただろ」


 酒菜は少しだけ顔を赤くした。


 しかし、視線は逸らさなかった。


「……お前が好きなんだよ。男として」


 和真はしばらく何も言えなかった。


 その沈黙が、酒菜にはひどく長く感じられた。


 ――やっぱり、駄目なのか。


 そんな不安が頭をよぎる。


 だが、今さら引き下がるつもりはなかった。


「……なあ、和真」


「……うん」


「俺を……抱きしめてくれねえか?」


 和真は少し驚いた顔をした。


 けれど、やがて静かに頷いた。


「……分かった」


 そっと腕を伸ばし、酒菜の身体を抱き寄せる。


 酒菜はその胸に顔を埋めた。


「…………」


 温かい。


 飛騨高山で感じた、あの温もり。


 あの夜も、こうして抱きしめ合って眠った。


 けれど、今夜は違う。


 ただ安心したいだけではない。


 もっと近づきたい。


 もっと深く、和真と繋がりたい。


 そして――。


「……和真」


「ん?」


「……俺、子供が欲しい」


 和真の腕が、わずかに止まった。


「……子供?」


「ああ」


 酒菜は顔を上げた。


 目の前に和真の顔がある。


「……もう一度、母親になりてえんだ」


「…………」


「蓮真と小鈴がいた頃みたいに……もう一度、子供を育てたい」


 声が少し震えた。


 酒菜は唇を噛みしめる。


「……最近、紅月を見てると思い出すんだよ」


 小さな手。


 笑顔。


 自分を呼ぶ声。


「蓮真も、あんなふうに元気だった。小鈴も……俺から全然離れようとしなくてな」


「……うん」


「二人とも、俺の大事な子供だった」


 和真は何も言わずに聞いていた。


「……今でも忘れられねえ。あいつらの声も、顔も、全部だ」


 酒菜の右手が、和真の服を握りしめる。


「伊吹のことも……忘れたことなんかねえよ」


「……分かってる」


「けど……」


 酒菜は一度言葉を詰まらせた。


「……俺、また幸せになりてえんだ」


 ようやく絞り出した言葉だった。


「もう一度、子供を抱きしめたい。母ちゃんって呼ばれたい。飯を作ってやって、叱って、笑って……」


 酒菜は和真の胸へ額を押し当てた。


「……そういう毎日を、もう一度過ごしてえんだよ」


 和真の腕に、そっと力がこもった。


「……酒菜」


「……それに」


「うん?」


「その相手が……お前だったらいいって思っちまった」


 酒菜は顔を上げた。


 その頬は赤く染まっている。


「……和真」


「……うん」


「俺と……子供を作ってくれねえか?」


     ◇


「…………」


 和真は言葉を失っていた。


 酒菜が自分を好きだと言ってくれたこと。


 もう一度母親になりたいと願っていること。


 そして、自分との子供を望んでいること。


 そのどれもが、簡単に返事のできるものではなかった。


「……酒菜」


「……何だ?」


「本気、なんだよな?」


「当たり前だろ」


 酒菜は即答した。


「こんなことで冗談なんか言わねえよ」


「……そうだよな」


 和真はゆっくりと息を吐いた。


「でも……少し考えさせてほしい」


「…………」


 酒菜の表情が曇った。


「……俺じゃ、駄目か?」


「違う。そういうことじゃない」


「……じゃあ、何だよ」


「子供を作るって、そんな簡単に決められることじゃないだろ?」


 和真は真剣な表情で言った。


「酒菜のことは大切に思ってる。だからこそ、ちゃんと考えたいんだ」


「…………」


「俺たちには、これからの生活もあるし……生まれてくる子供のことだって考えないと」


「……分かってる」


 酒菜は小さく頷いた。


 分かっている。


 子供を育てる大変さなら、誰よりも知っているつもりだった。


 夜泣き。


 病気。


 食事。


 毎日の世話。


 思いどおりにならないことばかりだ。


 けれど、それ以上の幸せがあることも知っている。


「……分かってるんだよ、そんなこと」


 酒菜は呟いた。


「……でもな、和真」


「うん?」


「俺、怖いんだ」


「……怖い?」


「ああ……」


 酒菜は自分のお腹へ右手を添えた。


「……もう二十八だ」


「……うん」


「まだ若いって言う奴もいるだろうよ。鬼人の俺が、あと何年子供を産めるのかも分からねえ」


 少しだけ俯く。


「でも……いつまで待ってりゃいいんだって、考えちまうんだよ」


「…………」


「今は大丈夫でも、何年かしたらどうなるか分からねえだろ?」


 酒菜の声が震えた。


「……俺は、一度全部失ってんだ」


 和真は静かに頷いた。


「大切なものが、ある日突然なくなるってことを知ってる」


「……ああ」


「だから……もう、後悔したくねえんだよ」


 酒菜は和真を見上げた。


「……せっかく、また誰かを好きになれたんだ」


 その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。


「お前と出会って……もう一度、生きててよかったって思えるようになった」


「……酒菜」


「なのに、今度は欲が出てきちまった」


 酒菜は自嘲するように笑った。


「……お前との子供まで欲しいなんてな」


 そして、和真の服を強く握りしめた。


「……頼む、和真」


「…………」


「俺を……もう一度、母親にしてくれ」


 その言葉とともに、酒菜は和真へ身体を寄せた。


 そして――


 和真の唇に、自分の唇を重ねた。


「……っ!」


 突然のことに、和真が目を見開く。


 酒菜はすぐには離れなかった。


 右手で和真の服を握り、その温もりを確かめるように身を寄せていた。


 しかし、和真がそっと肩へ手を添える。


「……酒菜」


「…………」


 酒菜の動きが止まった。


「……ごめん。一度、話をさせてくれ」


「…………」


 ゆっくりと唇が離れる。


 酒菜は俯いた。


「……悪い」


 小さな声だった。


「……ちょっと、焦りすぎた」


 和真は首を振った。


「気持ちを伝えてくれたのは嬉しいよ」


「……本当か?」


「ああ。でも、酒菜が後で後悔するようなことにはしたくない」


「……俺は後悔なんかしねえよ」


「それでも、ちゃんと二人で決めたいんだ」


 酒菜は黙った。


 しばらくして、握っていた和真の服から手を離す。


「……そうだな」


 小さく息を吐いた。


「……悪かった。お前の気持ちも聞かずに、勝手に突っ走っちまった」


「うん。でも、話してくれてよかった」


 和真はもう一度、酒菜を抱きしめた。


 今度は酒菜も、静かにその胸へ身体を預ける。


     ◇


「……なあ、和真」


「ん?」


「一つ、聞いてもいいか?」


「いいよ」


「……お前、俺のことを女として見られるか?」


 和真は少し驚いた顔をした。


「……酒菜?」


「笑うなよ」


「笑わないよ」


 酒菜は小さく頷いた。


「……俺には左腕がねえ。左目だって、このとおりだ」


 傷の残る目元へ、右手を添える。


「それに、一度結婚して、二人の子供を産んでる」


「…………」


「伊吹のことだって……忘れられねえ」


 酒菜は唇を噛んだ。


「そんな俺を……お前は、一人の女として見られるのか?」


 普段の酒菜なら、決して口にしないような言葉だった。


 自分の傷を恥じたことはない。


 失った腕も、目の傷も、自分が歩んできた証だと思っている。


 けれど、恋をしてしまった今。


 和真にどう見られているのかが、どうしようもなく気になっていた。


 和真は少し考えてから、静かに口を開いた。


「……酒菜」


「……何だ?」


「俺は、酒菜の傷が嫌だと思ったことは一度もないよ」


「…………」


「それに、伊吹さんや子供たちのことを忘れる必要なんかないだろ」


 酒菜が顔を上げる。


「……え?」


「大切な家族だったんだから、忘れられなくて当然だよ」


 和真は穏やかに続けた。


「俺は伊吹さんの代わりにはなれないし、蓮真や小鈴の代わりになる子供を作ることもできない」


「…………」


「でも、これから酒菜と新しい幸せを作ることは……できると思う」


 酒菜の目が、大きく見開かれた。


「……和真」


「それに……」


 和真は少し照れくさそうに頬を掻いた。


「酒菜のこと、綺麗だと思ってるよ」


「…………は?」


「いや、だから……」


「……お前、今なんて言った?」


「綺麗だって……」


「…………」


 酒菜の顔が、一気に赤くなった。


「ばっ……!」


「え?」


「馬鹿野郎! そういうことを平然と言うんじゃねえ!」


「いや、聞いたのは酒菜だろ!?」


「うるせえ!」


 酒菜は右手で顔を覆った。


 心臓が、うるさいほど鳴っている。


 こんなふうに褒められたのは、いつ以来だろう。


 伊吹に言われて以来かもしれない。


「……ったく」


 酒菜は小さく笑った。


「……本当に、お前には敵わねえな」


 その目元から、一粒の涙がこぼれた。


 和真は何も言わず、そっと酒菜を抱き寄せた。


 酒菜も、その胸へ顔を埋める。


「……和真」


「うん?」


「……もう少し、このままでいさせてくれ」


「……ああ」


 部屋には、静かな時間が流れた。


 先ほどまでの焦りが、少しずつ薄れていく。


 和真の温もりを感じながら、酒菜は目を閉じた。


 ――ああ。


 ――俺は、本当にこいつが好きなんだな。


 もう、認めるしかなかった。


 子供が欲しい。


 もう一度母親になりたい。


 その願いは確かにある。


 けれど、それだけではない。


 和真と一緒にいたい。


 和真に愛されたい。


 和真との未来を作りたい。


 そう思っている自分が、確かにいた。


     ◇


 しばらくして。


「……なあ、酒菜」


「……ん?」


「俺からも、一つ聞いていいか?」


「ああ」


 和真は酒菜を抱きしめたまま、静かに尋ねた。


「……酒菜は、子供ができなかったとしても、俺と一緒にいたいと思う?」


「…………」


 その質問に、酒菜は目を見開いた。


 子供ができなかったとしても。


 その言葉が、胸に深く突き刺さった。


 今まで、自分は何を考えていたのだろう。


 もう一度母親になりたい。


 その気持ちばかりが先走っていた。


 けれど、和真は違う。


 子供ができるかどうかではなく、その前にある二人の関係を考えている。


「……馬鹿だな、俺」


 酒菜は小さく呟いた。


「……酒菜?」


「……当たり前だろ」


 顔を上げる。


 その目には、もう迷いはなかった。


「子供ができなくたって、お前と一緒にいたいに決まってる」


「…………」


「俺が好きなのは、お前なんだからな」


 和真は少しだけ微笑んだ。


「……そっか」


「ああ」


 酒菜は和真の胸へ、もう一度顔を埋めた。


「……けど、やっぱり欲しいんだ」


「……うん」


「お前との子供が」


 和真は静かに頷いた。


 そして、しばらく考え込んだ。


 子供を作るということ。


 それは、ただ酒菜の願いを叶えるだけの話ではない。


 新しい命を迎え、育てていくということだ。


 自分には、フェンリスやみゆ、ナディア、そしてあおいとの関係もある。


 そのことを、酒菜も知っている。


 だからこそ、簡単に返事をしてはいけない。


 けれど。


 目の前で自分を見つめている酒菜を、もう悲しませたくないとも思った。


「……酒菜」


「……何だ?」


「俺も、ちゃんと自分の気持ちを話すよ」


 和真は真剣な表情で酒菜を見つめた。


「子供のことも、酒菜とのこれからのことも」


「…………」


「だから、もう少しだけ聞いてくれるか?」


 酒菜はゆっくりと頷いた。


「……ああ」


 そして、和真の右手を自分の右手で握った。


「……聞かせてくれ」


 その声には、先ほどまでの焦りはなかった。


 ただ、愛する男の言葉を待つ、一人の女性の想いが込められていた。


◇


 和真は、酒菜の右手をそっと握り返した。


「……まず、俺の気持ちから話すよ」


「ああ」


「酒菜のことは大切だと思ってる。それはさっきも言ったけど……」


 和真は一度言葉を区切った。


「でも、それだけじゃないんだ」


「……どういう意味だ?」


「飛騨高山に行った時、俺たち、色々話しただろ?」


「ああ……」


 酒菜は小さく頷いた。


 あの旅は、酒菜にとって忘れられないものだった。


 美しい街並み。


 美味い料理。


 そして、旅館で過ごした夜。


 普段は聞けない和真の本音を聞き、自分も胸の内を打ち明けた。


 あの夜から、二人の距離は確かに変わっていた。


「酒菜と一緒にいると、すごく安心するんだ」


「……俺と?」


「うん。何かあった時は頼りになるし、俺が悩んでると話を聞いてくれる。それに、酒菜が笑ってると俺も嬉しい」


「…………」


「だから……酒菜が俺のことを好きだって言ってくれて、嬉しかった」


 酒菜の頬が赤くなる。


「……馬鹿野郎」


「えっ?」


「そういうこと、さらっと言うんじゃねえよ……」


 酒菜は照れ隠しのように視線を逸らした。


 しかし、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。


「……じゃあ、俺のことを好きになってくれる可能性はあるってことか?」


 その問いに、和真は少し困ったように笑った。


「……多分、もう好きなんだと思う」


「…………は?」


「ただ、それがどういう好きなのか、自分でも上手く整理できてなかったんだ」


 和真はゆっくりと言葉を続けた。


「フェンリスやみゆ、ナディア、あおいとのことだって、最初は戸惑うばかりだった。でも、一緒にいるうちに、自分がどう思ってるのか少しずつ分かってきた」


「……ああ」


「酒菜に対しても、そうなんだと思う」


 酒菜は黙って聞いていた。


「一緒に旅行して、色んな話をして……あの夜、酒菜と抱き合って眠った時、すごく落ち着いたんだ」


「…………」


「だから、酒菜とこれからも一緒にいたいって気持ちは本当だよ」


 酒菜の右手に、自然と力がこもった。


「……和真」


「うん?」


「それ、期待してもいいんだよな?」


 和真は小さく頷いた。


「……ああ」


 その返事を聞いた瞬間。


 酒菜は、和真の胸へ勢いよく顔を埋めた。


「……っ!」


「うおっ!?」


「……ったく」


 和真の服をぎゅっと握りしめる。


「……本当に、お前って奴は……」


「酒菜?」


「……嬉しいんだよ」


 くぐもった声だった。


「……すげえ、嬉しい」


 酒菜の肩が、小さく震えていた。


 和真は何も言わず、その身体を優しく抱きしめた。


     ◇


 しばらくして、酒菜がゆっくりと顔を上げた。


「……なあ、和真」


「ん?」


「お前、フェンリスたちのことはどうするつもりだ?」


 その質問に、和真の表情が少し真剣になった。


「……それも考えてた」


「だろうな」


 酒菜は小さく笑った。


「お前があいつらを大切にしてるのは知ってる。俺だって、一緒に暮らしてるんだからな」


「……うん」


「だから、俺一人のものになれなんて言うつもりはねえよ」


 酒菜は和真の胸から少し身体を離した。


「ただな……」


「うん?」


「俺も、お前にとって大切な女の一人になりてえんだ」


 真っ直ぐな言葉だった。


「……もう、遠慮するのはやめた」


「酒菜……」


「俺だってお前が好きなんだ。あいつらに負けるつもりはねえよ」


 そう言って、酒菜は少しだけ笑った。


 いつもの強気な表情が戻っていた。


 しかし、すぐにその笑顔が和らぐ。


「……まあ、だからって、あいつらからお前を奪うつもりもねえけどな」


「……ありがとう」


「礼を言うようなことじゃねえよ」


 酒菜は肩をすくめた。


「ただし、俺のこともちゃんと見ろよ?」


「……ああ」


「約束だぞ」


「うん。約束する」


 和真が頷くと、酒菜は満足そうに微笑んだ。


 だが、話はそれで終わりではなかった。


「……それで、子供のことなんだけど」


「ああ」


 酒菜の表情が、再び真剣になる。


 和真も姿勢を正した。


「酒菜が子供を欲しいって思ってることは、ちゃんと分かった」


「……ああ」


「でも、俺が一つだけ心配してることがある」


「何だ?」


「俺は人間で、酒菜は鬼人だろ?」


「……ああ」


「その……俺たちの間に、子供ってできるのかな?」


 酒菜は少し考え込んだ。


「……どうだろうな」


「分からない?」


「鬼人と人間の間に子供が生まれたって話は聞いたことがある。だから、絶対に無理ってことはねえと思う」


「そっか」


「ただ、俺自身がどうなのかは分からねえ」


 酒菜は自分のお腹へ右手を添えた。


「蓮真と小鈴を産んだ時とは、色々と違うからな」


 和真は静かに頷いた。


「……そうだよな」


「それに、俺の身体も昔とは違う。怪我だってしてるしな」


「……うん」


「だから、もし子供ができなかったとしても……お前のせいにはしねえよ」


 酒菜は少し笑った。


「それだけは、先に言っておく」


 和真は酒菜の右手を握った。


「俺も、酒菜のせいにはしないよ」


「……ああ」


「それに、必要ならリディアに相談してみよう。異世界の種族のことなら、俺よりずっと詳しいだろうし」


「……そうだな」


 酒菜は頷いた。


 ただし、すぐに眉を寄せる。


「でも、あいつに相談したら、変な検査を山ほどされそうだな……」


「……ありそう」


 二人は思わず笑ってしまった。


「しかも、あいつのことだから『詳しく調べる必要があります』とか言いそうだ」


「ははっ。確かに」


「……まあ、身体のことだからな。そこはちゃんと調べるさ」


 酒菜はそう言って、和真の手を握り返した。


     ◇


 話が一段落すると、部屋には静かな時間が流れた。


 酒菜は和真の肩へ頭を預け、ゆっくりと息を吐いた。


「……なあ」


「ん?」


「さっき、俺は焦ってるって言っただろ?」


「うん」


「……あれな、年齢だけが理由じゃねえんだ」


 和真は黙って耳を傾けた。


「確かに俺は二十八だ。昔みたいに、何も考えずに時間を過ごしてられる年齢じゃねえと思ってる」


「……うん」


「けど、本当に怖いのはそこじゃねえ」


 酒菜は自分の右手を見つめた。


「……また、幸せを失うことなんだよ」


「…………」


「伊吹と蓮真、小鈴を失った時、俺はもう二度と家族なんか持たねえと思った」


 酒菜の声が、少し低くなる。


「誰かを大切にすれば、失った時に苦しくなる。だったら、最初から何も持たなきゃいいってな」


「……酒菜」


「でも、お前に会って……ここに来て……」


 酒菜は小さく笑った。


「気づいたら、また欲しくなっちまった」


 和真の顔を見上げる。


「温かい飯を囲んで、笑って、くだらねえことで喧嘩して……」


 その目に、再び涙が浮かんだ。


「……そんな毎日が、また欲しいんだ」


 和真は酒菜の身体を抱き寄せた。


「……うん」


「伊吹たちのことを忘れたいわけじゃねえ。蓮真や小鈴の代わりが欲しいわけでもねえんだ」


「分かってるよ」


「……ああ」


 酒菜は和真の胸へ顔を埋めた。


「……でも、俺の中にはまだ、誰かを育てたいって気持ちが残ってたんだな」


 ぽつりと呟く。


「紅月を見て、やっと気づいた」


 和真は何も言わず、その言葉を受け止めた。


「……俺、もう一度母親になりてえ」


 酒菜が顔を上げる。


「今度は……お前との子供を育てたい」


「…………」


「もちろん、子供ができるかどうかなんて分からねえ。それでも……」


 酒菜の右手が、和真の頬へ触れた。


「……一緒に、その未来を目指してくれねえか?」


 和真は酒菜を見つめた。


 少し潤んだ瞳。


 傷の残る左目。


 普段は強気で、誰よりも頼りになる女性。


 そんな彼女が、今は自分の返事を待っている。


 和真はゆっくりと口を開いた。


「……酒菜」


「ああ」


「俺も、酒菜と家族になりたい」


「…………っ!」


 酒菜の目が見開かれた。


「……本当か?」


「うん」


 和真は頷いた。


「正直、まだ不安はあるよ。俺だって、子供を育てた経験なんかないし」


「……ああ」


「でも、酒菜となら……きっと、いい家族になれると思う」


 その言葉に、酒菜の唇が震えた。


「……和真」


「それに、俺も紅月と過ごしてて思ったんだ」


「……何を?」


「子供って、本当に可愛いなって」


 和真は少し照れくさそうに笑った。


「毎日大変だけど、あんなふうに笑ってくれると、それだけで嬉しくなる」


「……ああ」


「だから、いつか自分の子供を抱いてみたいって気持ちも……少し分かる気がする」


 酒菜は黙って聞いていた。


 和真は、その手を優しく握る。


「……ただ、酒菜」


「何だ?」


「子供ができたら、俺も父親になるんだよな」


「……当たり前だろ」


「うん。だから、ちゃんと責任を持ちたい」


 和真は真剣な表情で続けた。


「酒菜だけに子育てを任せたりしない。夜泣きだって、病気の時だって、俺も一緒に頑張る」


「…………」


「それに、この家には色んな人がいる。フェンリスたちとの関係も、これからちゃんと考えて、向き合っていかなきゃいけない」


 酒菜は小さく頷いた。


「……ああ」


「だから、簡単なことじゃないと思う」


「……そうだな」


「でも……」


 和真は微笑んだ。


「酒菜と一緒に、その覚悟をしていきたい」


 その瞬間。


 酒菜の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。


「……っ!」


「酒菜?」


「……馬鹿野郎」


 声が震える。


「……そんなこと言われたら……」


 酒菜は和真へ抱きついた。


「……嬉しくて、どうしようもねえだろ……!」


 和真はその身体をしっかりと受け止めた。


「……酒菜」


「……ありがとう、和真」


 酒菜は泣きながら笑った。


「……本当に、ありがとう」


     ◇


 どれほど、そうしていただろう。


 やがて、酒菜はゆっくりと顔を上げた。


 涙の跡が残る頬。


 しかし、その表情には先ほどまでの不安はなかった。


「……なあ、和真」


「ん?」


「一つ、確認していいか?」


「うん」


 酒菜は少しだけ頬を赤くした。


「……つまり、お前は俺との子供を作ることに賛成ってことだよな?」


「……っ!」


 和真の顔が赤くなった。


「い、いや、まあ……そういうことになるけど……」


「……けど?」


「……何ていうか、改めて言われると恥ずかしいな」


 酒菜は目を丸くした。


 そして――


「……ぷっ!」


 思わず吹き出してしまった。


「ははっ! 何だよ、それ!」


「いや、笑うなよ!」


「だってお前……さっきまであんな真面目な顔してたくせによ!」


「しょうがないだろ!」


 和真が顔を赤くして反論する。


 酒菜はしばらく笑っていたが、やがてその笑顔が柔らかくなった。


「……なあ、和真」


「……何?」


「俺、今すげえ幸せだ」


「…………」


「こんな気持ちになったの、久しぶりだよ」


 酒菜はそっと和真の頬へ触れた。


「……お前のおかげだ」


「……酒菜」


 そして、ゆっくりと顔を近づける。


「……キスしてもいいか?」


 和真は小さく頷いた。


「……うん」


 二人の唇が、静かに重なった。


 先ほどのように焦って奪うのではなく。


 互いの気持ちを確かめるような、優しい口づけだった。


 唇が離れる。


 酒菜は和真の目を見つめた。


「……なあ」


「……うん」


「……今夜、このまま一緒にいてくれねえか?」


 和真は少しだけ驚いた。


「……ここで?」


「ああ」


 酒菜は頷く。


「……今日は、一人で寝たくねえんだ」


「…………」


「お前と一緒にいたい」


 その声には、もう迷いはなかった。


 和真はしばらく酒菜を見つめた。


 そして、静かに頷いた。


「……分かった」


「……本当か?」


「うん。今日は酒菜と一緒にいるよ」


 酒菜は嬉しそうに微笑んだ。


「……そうか」


 そして、少し照れくさそうに続ける。


「……なら、もう一つだけわがまま言ってもいいか?」


「何?」


 酒菜は和真の右手を握り、自分の胸元へ引き寄せた。


「……今夜、俺を抱いてほしい」


「…………っ!」


 和真の動きが止まった。


「……酒菜」


「……嫌か?」


「いや……嫌じゃない」


「……そうか」


 酒菜は小さく微笑んだ。


「……俺も、もう覚悟はできてる」


 和真はゆっくりと酒菜の手を握り返した。


「……本当に、いいんだな?」


「ああ」


 酒菜は真っ直ぐに和真を見つめた。


「……お前がいいんだ」


 そして、優しく笑った。


「……和真との子供が欲しい」


 和真は静かに頷いた。


「……うん」


 酒菜の身体を、もう一度抱き寄せる。


「……俺も、酒菜との未来を大切にしたい」


 その言葉に、酒菜は幸せそうに目を閉じた。


「……ああ」


 二人は、もう一度唇を重ねた。


 今度は、どちらからともなく。


 互いの温もりを求めるように。


     ◇


 夜は、静かに更けていった。


 酒菜は和真の隣に座ったまま、何度もその顔を見つめていた。


 まるで、今の幸せが夢ではないかと確かめるように。


「……なあ、和真」


「ん?」


「……俺、まだ少し怖いんだ」


「……うん」


「また、大切なものを失うんじゃねえかって」


 和真は酒菜の右手を握った。


「……そっか」


「……でもな」


 酒菜は小さく笑った。


「今は、それ以上に楽しみなんだよ」


「……何が?」


「これからのことが」


 和真は微笑んだ。


「……俺もだよ」


 酒菜は、ゆっくりと和真の胸へ身体を預けた。


「……和真」


「うん?」


「……好きだ」


 小さな声だった。


 けれど、そこには酒菜の全ての想いが込められていた。


 和真はその身体を抱きしめる。


「……俺も、酒菜が好きだよ」


 その返事に、酒菜の目から再び涙がこぼれた。


「……馬鹿野郎」


 泣きながら笑う。


「……何回泣かせりゃ気が済むんだよ」


「……ごめん」


「謝るな」


 酒菜は和真の胸へ顔を埋めた。


「……嬉しい涙なんだからよ」


 和真は何も言わず、その頭を優しく撫でた。


 やがて二人は、寄り添ったまま布団へ入った。


 酒菜は和真の胸に右腕を回し、そっと抱きつく。


「……和真」


「ん?」


「……離れるなよ」


「……ああ」


 和真も、酒菜を抱きしめた。


 その温もりを感じながら、酒菜は静かに目を閉じた。


 あの日、全てを失った。


 夫も、子供も、帰るべき場所も。


 もう二度と幸せにはなれないと思っていた。


 けれど、今。


 自分の隣には、新しく愛した男がいる。


 もう一度、家族を作ろうと言ってくれた男が。


「……伊吹」


 胸の中で、亡き夫の名前を呼ぶ。


 蓮真。


 小鈴。


 お前たちのことは、絶対に忘れない。


 これからも、ずっと大切な家族だ。


 けれど――。


 ――俺、もう一度幸せになってもいいよな。


 酒菜は、そっと和真を抱きしめる腕に力を込めた。


 和真も、それに応えるように抱き返す。


 そして二人は、互いの想いを確かめ合いながら、初めて一つの未来を願って結ばれた。


 それは、失った家族を忘れるためではない。


 新しい命を迎え、共に育てていく未来へ向けて、二人で踏み出した最初の夜だった。


     ◇


 ――翌朝。


 カーテンの隙間から、柔らかな朝日が差し込んでいた。


「……ん……」


 酒菜はゆっくりと目を覚ました。


 最初に感じたのは、身体を包む温かな腕だった。


「…………」


 すぐ目の前に、和真の寝顔がある。


 穏やかな寝息。


 自分を抱きしめたまま、気持ちよさそうに眠っていた。


「……ふっ」


 酒菜は小さく笑った。


「……本当に、寝顔は子供みてえだな」


 昨夜のことを思い出す。


 和真と気持ちを確かめ合い、互いを求め合った夜。


 あんなにも緊張していたのに、今は不思議なほど心が落ち着いている。


 酒菜はそっと右手を伸ばし、和真の頬へ触れた。


「……ありがとな、和真」


 小さく呟く。


 すると――


「……ん……酒菜?」


「……っ!」


 和真が薄く目を開けた。


「……おはよう」


「……あ、ああ。おはよう」


 酒菜は慌てて手を引っ込めた。


 そんな様子を見て、和真が小さく笑う。


「……どうした?」


「な、何でもねえよ」


「……そっか」


 和真は寝ぼけたまま、酒菜をもう一度抱き寄せた。


「……っ!」


「……もう少し、こうしててもいい?」


 その言葉に、酒菜の頬が赤くなる。


「……お前なあ」


「……駄目?」


「……駄目なわけねえだろ」


 酒菜は小さく笑い、和真の胸へ顔を埋めた。


「……好きなだけ、こうしてろ」


「……うん」


 しばらく、二人は何も話さなかった。


 ただ互いの温もりを感じながら、静かな朝を過ごしていた。


 やがて、酒菜がぽつりと呟く。


「……なあ、和真」


「ん?」


「……昨日のこと、後悔してねえか?」


 和真はゆっくりと目を開けた。


「……してないよ」


「……本当か?」


「うん」


 和真は酒菜の顔を見つめた。


「……酒菜は?」


「……俺か?」


「ああ」


 酒菜は少し考えた。


 そして、穏やかに笑った。


「……後悔するわけねえだろ」


 右手で和真の頬を撫でる。


「……今までで、一番幸せな朝かもしれねえ」


「……そっか」


 和真も微笑んだ。


「……よかった」


 酒菜はその笑顔を見つめ、もう一度唇を重ねた。


 短く、優しい口づけ。


 唇が離れると、酒菜は少し照れくさそうに笑った。


「……なあ」


「ん?」


「……また、一緒に寝てくれるか?」


「……もちろん」


「……そうか」


 酒菜は嬉しそうに目を細めた。


「……なら、今夜も頼むかな」


「……えっ?」


「何だよ。嫌なのか?」


「いや、そうじゃないけど……」


「ははっ!」


 酒菜は楽しそうに笑った。


「冗談だよ。……半分くらいはな」


「半分って……」


 和真が苦笑する。


 その姿を見ながら、酒菜は心の中で小さく笑った。


 ――ああ。


 ――やっぱり、こいつと一緒にいたい。


 子供ができるかどうかは、まだ分からない。


 もしかしたら、簡単には授からないかもしれない。


 それでも構わなかった。


 昨日までとは違う。


 もう、一人で焦る必要はない。


 これからは、和真と二人で考えればいい。


 そう思えるだけで、胸が温かくなった。


     ◇


「……さて」


 しばらくして、酒菜が身体を起こした。


「そろそろ朝飯の準備をしねえとな」


「……もう少し寝ててもいいんじゃないか?」


「そうもいかねえだろ。腹を空かせた連中が待ってるからな」


「……確かに」


 二人は思わず笑った。


 特に紅月が起きてしまえば、朝食の催促が始まるのは目に見えている。


「……あいつ、今日も元気なんだろうな」


「間違いないな」


「……ははっ」


 酒菜は布団から出ると、身支度を始めた。


 和真も起き上がり、服を整える。


 その時だった。


「……和真」


「ん?」


 酒菜が振り返る。


 その表情は、どこか穏やかだった。


「……俺、これからもお前と一緒に生きていきたい」


「…………」


「子供ができても、できなくても……」


 酒菜は小さく微笑んだ。


「……お前と一緒に、幸せになりてえ」


 和真は静かに頷いた。


「……うん」


 そして、酒菜へ歩み寄る。


「……俺もだよ」


 酒菜は嬉しそうに笑った。


「……約束だからな」


「ああ。約束だ」


 二人は、もう一度抱きしめ合った。


     ◇


 母屋の居間へ戻ると、すでに何人かが起きていた。


「おお! 酒菜!」


 最初に駆け寄ってきたのは紅月だった。


「腹が減ったのじゃ!」


「……ははっ。朝から元気だな、お前は」


「当然じゃ!」


 紅月は得意げに胸を張った。


 その後ろでは、あおいが少し困ったように笑っている。


「まったく、目が覚めた途端に朝餉の話ばかりじゃ」


「育ち盛りだからな」


 酒菜が笑う。


 そして、紅月の頭へ右手を置いた。


「……よし。今日は特別に、卵焼きを多めに作ってやる」


「本当かえ!?」


「ああ」


「やったのじゃ!」


 紅月は嬉しそうに飛び跳ねた。


 その姿に、酒菜の胸が温かくなる。


 以前なら、こんな光景を見るたびに失った家族を思い出し、苦しくなっていた。


 もちろん、今でも寂しさが消えたわけではない。


 けれど。


 今は、それだけではなかった。


 ――いつか。


 ――俺と和真の子供も、こんなふうに笑ってくれるのかな。


 酒菜は、そっと和真へ視線を向けた。


 和真も、紅月を見て笑っている。


 その横顔を見つめながら、酒菜は小さく微笑んだ。


「……よし!」


 気合いを入れるように声を上げる。


「今日は腕によりをかけて作るか!」


「おお!」


 紅月が嬉しそうに声を上げる。


「酒菜の飯はうまいからのう!」


「ははっ! そうか、そうか!」


 酒菜は楽しそうに笑った。


 その笑顔を見て、和真も自然と笑みを浮かべる。


 そんな二人の様子を、あおいは少し不思議そうに眺めていた。


「……和真?」


「ん?」


「今日は随分と機嫌がよいのう」


「……そうか?」


「うむ。酒菜もじゃ」


「……あ、ああ」


 和真が少しだけ頬を赤くする。


 その反応を見て、あおいは首を傾げた。


「……何かよいことでもあったのかえ?」


「……まあ、ちょっとな」


 和真は曖昧に笑った。


 すると、酒菜が振り返る。


「……あおい」


「何じゃ?」


「……俺、少しだけ前向きになれたんだ」


「……前向き?」


「ああ」


 酒菜は微笑んだ。


「……これからのことを、な」


 あおいは少し不思議そうにしていたが、やがて優しく笑った。


「……そうか。それはよいことじゃな」


「……ああ」


 酒菜は頷いた。


 そして、和真へ視線を向ける。


 和真も、小さく頷き返した。


 言葉にしなくても、伝わるものがあった。


 これから始まる、新しい未来。


 その先にどんな出来事が待っているのかは、まだ分からない。


 けれど。


 酒菜は、もう一度家族を作ることを願っていた。


 そして今、その願いを一緒に叶えようとしてくれる人がいる。


 それだけで、十分だった。


 ――伊吹。


 ――蓮真、小鈴。


 酒菜は心の中で、大切な家族の名前を呼んだ。


 お前たちのことは、これからも絶対に忘れない。


 けれど。


 ――俺、もう一度幸せになるよ。


 そう心の中で告げると、酒菜は新しい一日へ向けて歩き出した。


 窓の外には、冬の澄んだ青空が広がっていた。


 その空の下。


 空色唐辛子荘には、今日も賑やかな笑い声が響いている。


 酒菜はその声を聞きながら、静かに微笑んだ。


 いつか、この笑い声の中に。


 自分と和真の子供の声が加わる日を夢見て。

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