第六十八話 紅月のはじめてのお買い物
――ぴとっ。
「…………」
――ぎゅうううっ。
「……なあ、紅月?」
「なんじゃ、ご主人!」
「そろそろ離れてくれないか?」
「いやじゃ!」
「即答!?」
空色唐辛子荘のリビング。
和真は現在、とんでもない問題に直面していた。
その問題とは――。
「えへへっ! ご主人、あったかいのじゃ!」
自分のお腹にしがみついている、小さな赤毛の少女だった。
紅月。
つい先ほどまで四本足で歩いていた一匹の赤狐は、今や狐の耳と尻尾を持つ、小さな女の子になっていた。
身長は百三十センチほど。
赤い髪に、先端が白い狐耳。
そして、腰の後ろでは一本の大きな尻尾が楽しそうに揺れている。
その姿は、どう見ても可愛らしい狐の少女だった。
問題は、その少女が和真から一切離れようとしないことだった。
「紅月、俺もちょっと動きたいんだけど」
「動けばよいではないか!」
「いや、お前がくっついてるから動きづらいんだよ」
「む?」
紅月は不思議そうに首を傾げた。
そして、何かを思いついたように目を輝かせる。
「ならば、こうじゃ!」
「え?」
ひょいっ。
紅月は和真の体をよじ登るようにして、両腕を首へ回した。
さらに両足まで腰に絡め、器用にしがみつく。
「これなら動けるじゃろ!」
「いやいやいや!?」
「ふふん! わっちは賢いのじゃ!」
得意満面の紅月。
その様子を見ていたみゆが、ソファの上で吹き出した。
「あはははっ! 和真、完全に木だと思われてるよ!」
「木じゃないって!」
「ご主人は木ではないぞ! ご主人じゃ!」
「そこはちゃんと分かってるんだ……」
フェンリスも思わず笑ってしまう。
「でも、すごいね。あんなにしっかりくっついてるのに、全然落ちそうにないよ」
「感心してる場合か!?」
「えへへ。だって可愛いんだもん」
フェンリスは紅月の頭を優しく撫でた。
すると紅月は気持ちよさそうに目を細める。
「くふふ……もっと撫でてもよいぞ!」
「うん、いいよ」
「……お前、本当に遠慮がないな」
和真が苦笑すると、紅月は不思議そうに顔を覗き込んだ。
「えんりょ?」
「そう。何でも好き勝手にするんじゃなくて、相手のことも考えるってこと」
「むむ……?」
紅月の頭の上に、見えない疑問符が浮かんだ。
どうやら理解していないらしい。
すると、隣に座っていたあおいが小さく笑った。
「和真。紅月にはまだ難しい話じゃろう。何せ、昨日まで狐の姿で暮らしておったのじゃからな」
「まあ、そうなんだけどさ」
「ふむ……紅月よ」
「なんじゃ、あおい!」
「和真にも、やらねばならぬことがあるのじゃ。少しの間、離れてやれぬか?」
「いやじゃ!」
「……ほう」
「わっちはご主人と一緒がよいのじゃ!」
そう言って、紅月は和真の首に顔を埋めた。
その尻尾が、ぱたぱたと嬉しそうに揺れる。
あおいは少し困ったように微笑んだ。
「これは、なかなか手強そうじゃのう」
「笑ってないで助けてくれ……」
和真の情けない声が、リビングに響いた。
*
それからしばらくして。
「……紅月」
「なんじゃ?」
「俺、飲み物を取りたいんだけど」
「取ればよいぞ!」
「だから、ちょっと下りてくれない?」
「いやじゃ!」
「……そうか」
和真は諦めた。
紅月を抱えたまま立ち上がり、キッチンへ向かう。
すると――。
「おおおっ!」
紅月が目を輝かせた。
「ご主人! 動いておるぞ!」
「そりゃ動くよ」
「わっちは歩いておらぬのに、進んでおる!」
「抱っこしてるからな」
「すごいのじゃ!」
きゃっきゃっと笑う紅月。
その姿を見ていたナディアが、呆れたように腕を組む。
「おい、和真」
「ん?」
「お前、いつから乗り物になったんだ?」
「俺が聞きたいよ……」
「はっ! ずいぶんと立派な狐の乗り物じゃないか!」
「笑い事じゃないって!」
「ご主人は乗り物なのかえ?」
「違う!」
紅月が真面目な顔で尋ねるものだから、和真も思わず声を大きくしてしまう。
すると紅月は一瞬だけ目を丸くした。
「……ご主人?」
「あ、いや。怒ったわけじゃないぞ」
「そうなのか?」
「ああ」
和真が優しく頭を撫でると、紅月はすぐに笑顔になった。
「ならばよい!」
そして、さらに強く抱きつく。
「ぐえっ!?」
「ご主人、大好きじゃ!」
「分かった! 分かったから首を絞めないでくれ!」
その様子を見ていたユエが、深いため息をついた。
「……先が思いやられるわね」
誰も反論できなかった。
*
そんな騒ぎの最中。
和真は、あることに気がついた。
「……あ」
「どうしたのじゃ?」
「いや、ちょっとトイレに行きたいんだけど」
「といれ?」
「そう。トイレ」
「なんじゃ、それは?」
「……え?」
和真が固まった。
紅月はきょとんとしている。
「……紅月、お前、トイレって分かるか?」
「知らぬ!」
元気いっぱいの返事だった。
「……マジか」
思わず天井を仰ぐ和真。
そこでようやく気づいた。
紅月は、つい昨日まで狐だったのだ。
人間の生活習慣など、知っているはずがない。
「……えっとな。トイレっていうのは……」
「ふむふむ!」
「その……用を足す場所で……」
「よう?」
「……あー……」
どう説明したものか。
和真が言葉に詰まっていると、あおいが口を開いた。
「紅月。人は決められた場所で用を足すのじゃ。家の中では、好きな場所でしてはならぬ」
「ほう!」
「それをするための部屋があるのじゃよ」
「なるほど!」
紅月は大きく頷いた。
どうやら理解したらしい。
「では、ご主人! 行くぞ!」
「……え?」
「わっちも一緒じゃ!」
「いや、待て待て!」
和真が慌てて止める。
「トイレは一人で入るんだよ!」
「なぜじゃ?」
「なぜって……」
「ご主人と一緒では駄目なのかえ?」
「駄目!」
「いやじゃ!」
ぎゅうううっ!
「ぐえっ!?」
さらに強く抱きついてくる紅月。
「わっちはご主人と離れとうない!」
「いや、だから……!」
「一緒がよいのじゃ!」
困り果てる和真。
すると――。
「紅月」
静かな声が響いた。
ユエだった。
「……む?」
「こちらへ来なさい」
「いやじゃ!」
「紅月」
ユエはもう一度、ゆっくり名前を呼んだ。
声を荒らげたわけではない。
けれど、その声音には不思議な迫力があった。
紅月の耳がぴんっと立つ。
「……な、なんじゃ?」
「いい? 和真が好きなのは分かったわ。でも、好きだからといって、何もかも一緒にしてよいわけではないの」
「……むぅ」
「和真だって、一人になりたいときがあるでしょう?」
「……ご主人は、わっちが嫌いなのかえ?」
その言葉に、和真が慌てた。
「違う違う! そんなわけないだろ!」
「ほんとかえ?」
「ああ。本当だよ」
紅月の表情が少し和らぐ。
ユエは続けた。
「紅月。あなたは和真が好きなのよね?」
「うむ! 大好きじゃ!」
「なら、和真が困ることはしたくないでしょう?」
「……うむ」
「トイレは、一人で入るものなの。和真も一人で入る。あなたも一人で入る。それがお約束よ」
「……おやくそく」
「そう。守れるかしら?」
紅月はしばらく考え込んだ。
そして、ちらりと和真を見る。
「……ご主人」
「ん?」
「わっちが一人で入っても……どこにも行かぬか?」
「行かないよ。ちゃんと待ってる」
「……ほんとじゃな?」
「ああ、約束する」
その言葉を聞くと、紅月はようやく腕の力を緩めた。
「……ならば、よい」
するすると和真の体から下りる。
床に足をつけると、少し寂しそうに見上げた。
「ご主人。すぐ戻るのじゃぞ?」
「分かったよ」
和真が頭を撫でる。
紅月は安心したように笑った。
その様子を見ていたユエが、あおいへ視線を向ける。
「あおい。紅月にトイレの使い方を教えてあげてくれる?」
「うむ。わらわに任せるがよい」
あおいは立ち上がり、紅月の前でしゃがんだ。
「紅月。わらわと一緒に来るのじゃ」
「む? あおいも一緒かえ?」
「最初だけじゃ。使い方を教えてやろう」
「わかったのじゃ!」
あおいが差し出した手を、紅月が握る。
ところが――。
「ご主人!」
「ん?」
「絶対にどこにも行ってはならぬぞ!」
「はいはい」
「絶対じゃぞ!」
「分かったって!」
何度も振り返りながら、紅月はあおいに連れられていった。
「……ふう」
和真は大きく息を吐いた。
ようやく自由になった両腕。
実に久しぶりの感覚だった。
すると、みゆがにやにやしながら近づいてくる。
「ねえ、和真」
「……なんだよ」
「今のうちに逃げる?」
「逃げないよ!」
「あははっ! だよね!」
その隣ではフェンリスが、少し羨ましそうに和真を見つめていた。
「……僕も、あれくらいくっついていたいな」
「フェンリスまで!?」
「えへへ。冗談だよ」
そう言いながら、フェンリスは和真の腕にそっと抱きついた。
どうやら半分くらいは本気らしい。
*
一方、その頃。
「よいか、紅月。ここに座るのじゃ」
「ふむ!」
「終わったら、この紙を使うのじゃよ」
「紙?」
「うむ。それから、こちらの水を流すのじゃ」
「おおっ!」
紅月は目を輝かせた。
特に興味を示したのは、水を流すためのレバーだった。
「これはなんじゃ!?」
「水を流すためのものじゃ」
「水が出るのかえ!?」
「うむ」
「やってみたいのじゃ!」
「待つのじゃ。まずは――」
ジャアアアアアッ!
「おおおおおっ!」
「あ、紅月!?」
「水が! 水が流れたぞ!」
紅月は大興奮だった。
そして。
ジャアアアアアッ!
「もう一回じゃ!」
「待つのじゃ!」
ジャアアアアアッ!
「すごいのう!」
「紅月! 水を無駄にしてはならぬ!」
「む? なぜじゃ?」
「水は大切なものじゃからな」
「そうなのかえ?」
「うむ」
紅月は少し考え込んだ。
そして、神妙な顔で頷く。
「……わかったのじゃ」
ようやく理解したらしい。
あおいはほっと胸を撫で下ろした。
だが、次の瞬間。
「では、もう一回だけ――」
「駄目じゃ!」
「むぅ……」
あおいは、早くも自分の役目の大変さを思い知らされていた。
さらに、使い方だけでは終わらなかった。
「紅月。最後に手を洗うのじゃ」
「手?」
「うむ。綺麗にするためじゃよ」
「わっちの手は綺麗じゃぞ?」
「見た目だけの話ではないのじゃ」
「むむ?」
あおいは実際に水を出し、石鹸を使って見せる。
紅月は興味津々だった。
「おお! 泡じゃ!」
「こうして指の間まで洗うのじゃよ」
「ふむふむ!」
紅月も真似をする。
ところが、泡が面白かったらしい。
「見よ、あおい!」
「ん?」
「ふわふわじゃ!」
両手いっぱいの泡を見せびらかす紅月。
「うむ。そうじゃな。では流すのじゃ」
「まだじゃ!」
「……紅月?」
「もっと泡を作るのじゃ!」
あおいは小さくため息をついた。
――どうやら、こちらも一筋縄ではいかないらしい。
*
それから十分ほど後。
「ごしゅじいいいいん!」
「おわっ!?」
リビングへ戻ってきた紅月が、勢いよく和真へ飛びついた。
「お帰り、紅月」
「ただいまじゃ!」
「ちゃんとできたか?」
「うむ! あおいに教わったのじゃ!」
「そっか。偉いな」
和真が頭を撫でると、紅月は満面の笑みを浮かべた。
「えへへへっ!」
少し遅れて、あおいが戻ってくる。
「……ふう」
「あおい、お疲れ」
「うむ……なかなか元気な子じゃのう」
どこか疲れたような顔だった。
和真は思わず苦笑する。
「大変だった?」
「まあのう。覚えは悪くないのじゃが……何にでも興味を示してしまうようじゃ」
「あー……」
「ただ、きちんと教えれば理解してくれる。根気が必要じゃな」
あおいはそう言うと、和真に抱きついている紅月を見た。
紅月は尻尾を揺らしながら、和真の服に頬をすりすりと擦りつけている。
「……それにしても」
「ん?」
「随分と和真に懐いたものじゃのう」
「俺もびっくりしてるよ」
「ふふっ。わらわも負けてはおれぬな」
そう言って、あおいは和真の反対側の腕に抱きついた。
「……あおい?」
「何じゃ?」
「いや、何でもない……」
右には紅月。
左にはあおい。
和真は自分が狐たちの止まり木になったような気がした。
*
そして、その日の夜。
問題はさらに大きくなった。
「ご主人! お風呂じゃ!」
「……お前も入るの?」
「当然じゃ!」
「いや、当然って……」
和真が浴室へ向かおうとすると、紅月が当然のようについてきたのだ。
もちろん、途中であおいとみゆが声をかけた。
「紅月。お風呂は僕たちと入ろうよ」
「いやじゃ!」
「えー。僕と一緒じゃ嫌なの?」
「みゆは嫌いではないぞ!」
「じゃあ、一緒に入ろう?」
「ご主人も一緒ならよい!」
「……あはは。そっかぁ」
みゆも苦笑するしかなかった。
あおいが優しく言い聞かせる。
「紅月。和真も風呂ではゆっくりしたいじゃろう。わらわたちと入らぬか?」
「むぅ……」
紅月は和真を見上げた。
「ご主人は、わっちと入るのが嫌なのかえ?」
「嫌ってわけじゃないけど……」
和真が困ったように頬を掻く。
「お前、まだ人間の体になったばかりだろ? 洗い方とかも覚えないといけないし」
「ならば、ご主人が教えてくれればよい!」
「……そう来たか」
結局、あおいの提案で、和真も一緒に入りながら紅月に入浴の仕方を教えることになった。
ただし、紅月の世話はあおいが中心になって行う。
「よいか、紅月。まずは体を洗ってから湯船に入るのじゃ」
「ふむ!」
「それから、湯の中で暴れてはならぬぞ」
「わかったのじゃ!」
そう言った直後。
ばしゃん!
「おおっ! 水が跳ねたぞ!」
「紅月!?」
「見よ、ご主人!」
ばしゃばしゃっ!
「うわっ! 冷たっ!」
「紅月! 暴れてはならぬと言ったばかりじゃろう!」
「むむっ!?」
紅月はぴたりと動きを止めた。
そして、ちょこんと座る。
「……これでよいか?」
「うむ。よい子じゃ」
あおいが褒めると、紅月は嬉しそうに尻尾を振った。
しかし、その尻尾が湯の中で大きく動き――。
ばしゃっ!
「うわっ!?」
「……紅月」
「わ、わっちは動いておらぬぞ!?」
本人は真剣だった。
そのため、和真もあおいも思わず笑ってしまった。
しばらくすると、紅月もようやく落ち着き、湯船の中で和真の腕にくっついた。
「……ふわぁ」
「気持ちいいか?」
「うむ……あったかいのじゃ……」
紅月はうっとりと目を細めた。
「ご主人と一緒じゃと、もっとあったかいのう……」
「そっか」
和真が頭を撫でる。
すると紅月は、幸せそうに小さな声を漏らした。
「……ずっと、こうしていたいのじゃ」
その言葉を聞いて、あおいは静かに微笑んだ。
紅月がこれほど和真に懐いている理由。
それは単に、初めて出会った人間だからではないのだろう。
傷つき、怯え、逃げ続けていた小さな狐。
そんな紅月のそばに、無理に触れようともせず、ただ静かに寄り添ってくれた人。
きっと紅月にとって、和真は初めて心から安心できた相手なのだ。
あおいはそっと紅月の頭を撫でた。
「……紅月」
「なんじゃ?」
「ここには、そなたを大切に思う者がたくさんおるのじゃよ」
「……たくさん?」
「うむ。和真だけではない。みゆも、フェンリスも、ユエも……皆じゃ」
「……あおいも?」
紅月が尋ねる。
あおいは優しく頷いた。
「もちろんじゃ」
紅月は少し驚いたような顔をした。
そして――。
「……えへへっ」
嬉しそうに笑った。
*
お風呂から上がった後も、紅月の勢いは止まらなかった。
「ご主人! 寝るのじゃ!」
「……まだ早くない?」
「眠いのじゃ!」
「さっきまで元気だっただろ」
「ご主人と寝たいのじゃ!」
紅月は和真の手を引っ張る。
その様子を見たフェンリスが、小さく笑った。
「和真、今日は大変だね」
「本当にな……」
「でも、紅月は和真と一緒に寝てたんだもんね。急に一人じゃ寂しいよね」
「……まあ、そうだな」
和真は紅月を見下ろした。
今までは、小さな赤狐の姿で自分の布団に潜り込んできた紅月。
それが突然、人間の女の子になったのだ。
本人からすれば、姿が変わっただけで何も変わっていないのだろう。
「……仕方ないか」
和真は苦笑した。
「分かったよ。今日は一緒に寝よう」
「ほんとかえ!?」
「ああ」
「やったのじゃあああ!」
紅月は大喜びで飛びついてきた。
その勢いに、和真が思わずよろめく。
「危なっ!?」
「ご主人、大好きじゃ!」
「はいはい」
和真が抱きとめると、紅月は満足そうに笑った。
すると。
「……和真」
「ん?」
あおいが、じっとこちらを見ていた。
「わらわも、一緒でよいかえ?」
「……え?」
「紅月はまだ人の暮らしに慣れておらぬ。夜中に何かあっても困るじゃろう?」
「……ああ、確かに」
「それに……」
あおいは少しだけ頬を染める。
「わらわも、和真と一緒に眠りたいのじゃ」
「……そっか」
和真は微笑んだ。
「もちろん、いいよ」
その返事に、あおいの表情がぱっと明るくなった。
「うむ!」
すると紅月が二人を見比べる。
「むむ?」
「どうした、紅月?」
「ご主人と、あおいと、わっち!」
「そうだね」
「三人一緒じゃな!」
「ああ」
「えへへへっ!」
紅月は嬉しそうに両手を上げた。
その一本の尻尾も、大きく揺れている。
*
夜。
和真の部屋。
布団の中には、和真を挟むようにして、あおいと紅月が横になっていた。
あおいは和真の左側。
紅月は右側。
そして紅月は、当然のように和真の胸元へ潜り込んでいた。
「……紅月」
「なんじゃ?」
「もう少し力を抜いてくれないか?」
「む?」
「ちょっと苦しい」
「……そうなのかえ?」
「ああ」
紅月は素直に腕の力を緩めた。
けれど、離れようとはしない。
「……これならよいか?」
「うん。大丈夫」
「えへへっ」
紅月は満足そうに目を閉じた。
その様子を見ていたあおいが、くすりと笑う。
「まるで親子じゃのう」
「……そうかな?」
「うむ。和真に甘える姿など、まるで幼子のようじゃ」
「実際、まだ子供みたいなものだろ」
「そうじゃな」
あおいは紅月の赤い髪を優しく撫でた。
すると、紅月がうっすらと目を開ける。
「……あおい」
「何じゃ?」
「……あおいも、撫でるのが上手じゃな」
「ふふっ。そうかえ?」
「うむ……」
紅月は眠たそうに瞬きをした。
そして、小さく呟く。
「……ご主人も、あおいも……あったかいのじゃ……」
その声は、次第に小さくなっていった。
「……もう……どこにも……行かぬ……?」
和真は、紅月の頭をそっと撫でた。
「行かないよ」
「……ほんと……?」
「ああ。ここがお前の家なんだから」
「……いえ……」
紅月はその言葉を、小さく繰り返した。
そして。
「……わっちの……いえ……」
嬉しそうに微笑んだまま、静かに寝息を立て始めた。
和真はその寝顔を見つめた。
昨日まで、言葉を交わすことすらできなかった小さな狐。
今ではこうして、自分の気持ちを伝えられるようになった。
その変化が、なんだか不思議だった。
「……なあ、あおい」
「何じゃ?」
「紅月、ちゃんと人間の生活に慣れるかな?」
「ふふっ。そうじゃのう……」
あおいは紅月の寝顔を見つめた。
「しばらくは大変じゃろうな」
「……やっぱり?」
「じゃが、皆で教えてやればよい。時間はたっぷりあるのじゃからな」
「……そうだな」
「それに、わらわも少し楽しみなのじゃ」
「楽しみ?」
「うむ。紅月がこれから、どんなものを見て、何を覚え、どのように成長していくのか……」
あおいは優しく微笑んだ。
「きっと、毎日が賑やかになるじゃろうな」
「……もう十分賑やかだけどな」
「ふふっ。それもそうじゃ」
二人は小さく笑い合った。
その間にも、紅月は和真の服をぎゅっと握りしめている。
まるで、離れてしまわないように。
和真はその小さな手に、自分の手をそっと重ねた。
「……おやすみ、紅月」
小さな寝息が返ってくる。
あおいも目を閉じた。
「おやすみなのじゃ、和真」
「おやすみ、あおい」
こうして、長い一日が終わった。
――翌朝。
「……ん……」
和真は、頬に何か柔らかいものが触れる感覚で目を覚ました。
もふっ。
「…………」
もふもふっ。
「……ん?」
薄く目を開ける。
目の前には、赤く大きな尻尾があった。
「……紅月?」
視線を下げると、自分の胸元に顔を埋めるようにして眠っている、小さな少女の姿があった。
紅月だ。
昨夜と変わらず、人間の姿のまま眠っている。
しかも、両腕は和真の体にしっかり回されていた。
「……戻ってないのか」
和真は小さく呟いた。
昨日、紅月は人間への変化に成功した。
しかし、それから何度試しても元の狐の姿に戻ることができなかったのだ。
あおいによれば、変化の力を使いこなせていないのだろうという話だった。
眠れば戻るかもしれない。
そう考えていたのだが、どうやら今回は違ったらしい。
「……ふわぁ」
隣から小さな欠伸が聞こえた。
顔を向けると、あおいが眠たそうに目を擦っている。
「……おはよう、和真」
「おはよう、あおい」
「……紅月は?」
「まだ寝てるよ。それと、狐には戻ってないみたいだ」
「……ふむ」
あおいは紅月の姿を確かめると、少し考え込んだ。
「やはり、変化の力が安定しておらぬようじゃな」
「大丈夫なのか?」
「心配はいらぬと思うぞ。人の姿になることはできたのじゃ。あとは元に戻る感覚を覚えればよい」
「そっか」
「焦らず、少しずつ練習すればよかろう」
和真は頷いた。
そのとき。
「……むにゃ……」
紅月の耳がぴくりと動いた。
「……ご主人……」
「ん?」
「……どこにも……行くでないぞ……」
寝言だった。
どうやら夢の中でも和真を離すつもりはないらしい。
あおいが小さく笑う。
「ふふっ。相当気に入られておるのう」
「嬉しいけど……身動きが取れないんだよな」
「それは仕方あるまい」
そう言いながら、あおいは反対側から和真に抱きついた。
「……あおい?」
「もう少しだけ、こうしておってもよかろう?」
「……まあ、いいけど」
「ふふっ」
満足そうなあおい。
胸元で眠る紅月。
和真は天井を見上げた。
「……俺、今日も起きられるのかな」
返事の代わりに、紅月の尻尾が顔に乗ってきた。
「……前が見えない」
*
それから三十分後。
「ご主人! お腹が空いたのじゃ!」
「だったら下りてくれ!」
「いやじゃ!」
「昨日と同じじゃないか!」
結局、紅月が目を覚ましても状況は何も変わらなかった。
和真の首に腕を回し、腰に足を絡めたまま離れない。
そんな紅月を抱えて、和真はリビングへと向かっていた。
後ろからは、楽しそうに笑うあおいがついてくる。
「まったく、朝から元気じゃのう」
「元気なのはいいけどさ……」
「ご主人! 早く行くのじゃ!」
「はいはい……」
リビングに入ると、すでに朝食の準備が進んでいた。
「おはよう、和真」
キッチンから顔を出したのはフェンリスだった。
「おはよう、フェンリス」
「……あはは。今日もくっついてるんだね」
「見ての通り」
「おはようなのじゃ!」
「うん。おはよう、紅月」
フェンリスが微笑むと、紅月も嬉しそうに笑った。
その隣では、みゆが食器を並べている。
「おっはよー! あれ? 紅月、まだ人間のままなんだ?」
「そうなんだよ。寝ても戻らなかったみたいで」
「へえ……」
みゆは興味深そうに紅月を眺めた。
「ねえ、紅月。尻尾、触ってもいい?」
「よいぞ!」
「やった!」
みゆが大きな尻尾に手を伸ばす。
もふっ。
「わあ……すっごくふわふわ!」
「くふふ! もっと撫でてもよいぞ!」
「ほんと? じゃあ遠慮なく!」
もふもふもふ。
「ふわぁ……」
紅月は気持ちよさそうに目を細めた。
和真はその隙に、そっと紅月を下ろそうとする。
ところが。
「むっ!?」
ぎゅうっ!
「逃がさぬぞ!」
「いや、逃げないって!」
「ご主人はここじゃ!」
「分かったから!」
みゆが大笑いする。
「あはははっ! 和真、完全に捕まってる!」
「助けてくれよ……」
「えー? 面白いからもう少し見てたいな」
「みゆ!?」
そんなやり取りをしているところへ、ユエがやってきた。
「……あなたたち、朝から何を騒いでいるの?」
「ユエ、助けてくれ」
「今度は何?」
「紅月が下りてくれない」
ユエは和真にしがみつく紅月を見た。
そして、静かに口を開く。
「紅月」
「……む?」
「朝ご飯は、自分の椅子に座って食べるのよ」
「ご主人のお膝では駄目なのかえ?」
「駄目とは言わないけれど、今は自分で食べる練習をしましょう」
「……むぅ」
「和真の隣に座ればいいでしょう?」
紅月の耳がぴくりと動いた。
「……隣?」
「ええ。すぐ隣よ」
紅月は少し考えた。
そして――。
「……ならば、よい!」
ようやく和真から下りた。
「……助かった」
「和真も、何でも言うことを聞かないの」
「いや、聞いてるつもりはないんだけど……」
「結果的に甘やかしているでしょう?」
「……はい」
ユエに言われ、和真は苦笑するしかなかった。
*
朝食の席でも、紅月の好奇心は止まらなかった。
「おおっ!」
目の前に置かれた朝食を見て、紅月が目を輝かせる。
焼き鮭。
卵焼き。
ほうれん草のおひたし。
そして、白いご飯と味噌汁。
「ご主人! ご馳走じゃ!」
「そうだな」
「これも食べてよいのかえ!?」
「もちろん」
「全部か!?」
「自分の分は全部食べていいよ」
「おおおっ!」
紅月は嬉しそうに両手を上げた。
そして、さっそく鮭に手を伸ばす。
「いただくのじゃ!」
「ちょっと待った!」
「む?」
和真が慌てて止める。
「手じゃなくて、お箸を使おうな」
「おはし?」
「これ」
和真は箸を持って見せた。
紅月は不思議そうにそれを眺める。
「……木の棒じゃな」
「まあ、そうだけど」
「これでどうするのじゃ?」
「こうやって食べ物を挟むんだよ」
和真は卵焼きをつまんで見せた。
「おおっ!」
紅月の目が輝いた。
「ご主人! すごいのじゃ!」
「紅月もやってみるか?」
「うむ!」
元気よく箸を握る紅月。
しかし。
「……む?」
箸が二本まとめて動く。
「……むむ?」
卵焼きが逃げる。
「……むむむむっ!」
ころん。
卵焼きが皿の端へ転がった。
「逃げたのじゃ!」
「逃げてないって!」
「この黄色いの、なかなかやるのう!」
紅月は真剣だった。
隣のあおいが、笑いをこらえながら手を添える。
「紅月、力を入れすぎなのじゃ。こうして持つとよい」
「む?」
「上の箸だけを動かすのじゃよ」
「……こうかえ?」
「うむ。そうじゃ」
紅月は慎重に箸を動かした。
そして。
「……おおっ!」
卵焼きをつまむことに成功した。
「ご主人! 見よ!」
「おっ、できたじゃないか!」
「わっちは天才じゃ!」
「ははっ。そうかもな」
和真が褒めると、紅月は得意そうに胸を張った。
その瞬間。
ぽとっ。
「あっ」
卵焼きが落ちた。
「…………」
紅月は箸を見つめた。
続いて卵焼きを見つめる。
「……ご主人」
「ん?」
「……また逃げたのじゃ」
和真は思わず吹き出した。
あおいも肩を震わせている。
結局、その日の朝食はいつもの倍以上の時間がかかったのだった。
*
朝食が終わった頃。
「おはようございます。皆さん」
リビングに入ってきたのはリディアだった。
手には小さな箱を持っている。
「あ、リディア。おはよう」
「おはようございます、和真。紅月も、おはようございます」
「おはようなのじゃ!」
紅月は元気いっぱいに返事をした。
リディアはその姿を見ると、少し安心したように微笑んだ。
「やはり、まだ人型のままなのですね」
「うん。元に戻る方法が分からないみたいで」
「そうですか……」
リディアは少し考えた後、手にしていた箱をテーブルに置いた。
「でしたら、ちょうどよかったです」
「ん?」
「紅月用の腕輪を調整してきました」
「腕輪?」
「はい。皆さんが外出するときに使用しているものと、同じ仕組みです」
箱を開ける。
そこには、小さな銀色の腕輪が入っていた。
余計な装飾のない、子供の手首にも合う細身の腕輪だった。
「紅月はまだ変化を自由に使えませんから、外出するときに狐耳や尻尾が見えていると困るでしょう?」
「ああ、確かに」
「ですので、人間と同じ外見になるように調整してあります」
リディアは紅月の前にしゃがんだ。
「紅月。少し腕を見せてもらえますか?」
「む? これかえ?」
「はい。右腕をお願いします」
紅月は素直に腕を差し出した。
リディアが腕輪を取りつける。
カチリ。
「これで大丈夫です」
「……む?」
紅月は不思議そうに腕輪を眺めた。
「これはなんじゃ?」
「人間の姿になるための道具ですよ」
「わっちはもう人間の姿じゃぞ?」
「ええ。でも、お耳と尻尾が残っていますよね?」
「うむ!」
「それを、普通の人には見えない姿にできるんです」
「……ほう?」
リディアは腕輪に軽く触れた。
すると、淡い光が紅月の体を包み込む。
「おおっ!?」
紅月が驚いて目を丸くした。
次の瞬間。
ぴかっ。
赤い狐耳が見えなくなった。
続いて、大きな尻尾も姿を消す。
「……え?」
和真が目を瞬かせる。
そこには、普通の人間の少女にしか見えない紅月が立っていた。
「おお……!」
あおいが感心したように頷く。
「見事なものじゃのう」
「ありがとうございます」
リディアは微笑んだ。
「これなら外出しても問題ありません」
しかし、肝心の紅月は――。
「…………」
自分の後ろを振り返っていた。
「……む?」
さらに、もう一度振り返る。
「……むむ?」
今度は腰の後ろに手を伸ばした。
「……ない」
そして。
「ないのじゃあああああ!?」
リビングに絶叫が響いた。
「わっちの尻尾がないのじゃ!」
「紅月!? 落ち着いて!」
「ご主人! 大変じゃ! わっちの尻尾がどこかへ行ってしまったのじゃ!」
「いや、ちゃんとあるから!」
「どこじゃ!?」
紅月は慌ててくるくる回り始めた。
まるで自分の尻尾を追いかける狐そのものだった。
「ない! ないぞ!」
「紅月、落ち着けって!」
「ご主人! 探してたもれ!」
和真の服をぎゅっと掴む紅月。
リディアが慌てて説明する。
「紅月、大丈夫ですよ。尻尾はなくなっていません。見えなくなっているだけです」
「……見えぬ?」
「はい。腕輪を外せば元に戻ります」
「……ほんとかえ?」
「ええ。試してみましょうか」
リディアは一度、腕輪を外した。
すると――。
ぽんっ。
赤い狐耳と尻尾が、再び姿を現した。
「おおおおっ!」
紅月は自分の尻尾を抱きしめた。
「戻ったのじゃ!」
「ね? 大丈夫でしょう?」
「うむ!」
紅月は安心したように頷く。
そして、腕輪をじっと見つめた。
「……これをつけると、隠れるのじゃな?」
「そうですよ」
「……面白いのう!」
今度は目を輝かせ始めた。
「もう一回じゃ!」
「え?」
「つけるのじゃ!」
リディアは苦笑しながら腕輪を取りつけた。
狐耳と尻尾が消える。
「おおっ!」
紅月は大喜びだった。
「今度は外すのじゃ!」
「えっと……」
「もう一回じゃ!」
「紅月、遊び道具じゃないんですよ?」
「むぅ……」
頬を膨らませる紅月。
するとユエが口を開いた。
「紅月。その腕輪は、外で暮らすために必要なものなの。遊びに使うものではないわ」
「……む」
「大切にしなさいね」
「……わかったのじゃ」
紅月は素直に頷いた。
そして、腕輪をそっと撫でる。
「……リディア」
「はい?」
「ありがとうなのじゃ!」
その言葉に、リディアは嬉しそうに微笑んだ。
「どういたしまして」
*
「……さて」
和真は紅月の姿を改めて眺めた。
赤い髪の小さな少女。
狐耳と尻尾が隠れたことで、普通の人間の女の子にしか見えなくなっていた。
「これなら外にも出られるな」
「そうですね」
リディアが頷く。
「ただ、紅月にはまだ合う服や靴がほとんどありませんから……」
「ああ、そうだった」
現在、紅月が着ているのは、皆で探して用意した仮の服だ。
サイズは何とか合っているものの、これから人間の姿で生活するなら、きちんと揃える必要がある。
「じゃあ、今日は買い物に行くか」
和真がそう言うと――。
「かいもの?」
紅月の耳が動く……ことはなかったが、表情がぱっと明るくなった。
「なんじゃ、それは!?」
「お店に行って、必要な物を買うんだよ」
「おみせ?」
「服とか、靴とか、色々売ってる場所だな」
「……ほう!」
紅月は真剣な顔で考え込んだ。
そして。
「ご主人!」
「ん?」
「食べ物もあるのかえ!?」
「ああ、もちろん」
「おおおおっ!」
紅月は飛び跳ねた。
「行くのじゃ! 今すぐ行くのじゃ!」
「いや、まだ準備が……」
「早く! 早く行くのじゃ!」
和真の腕をぐいぐい引っ張る紅月。
その様子を見て、みゆがにやりと笑った。
「これは楽しそうだねぇ」
「……みゆ?」
「僕も行く!」
「……え?」
「だって紅月の初めてのお買い物でしょ? 絶対面白いじゃん!」
「遊びじゃないんだけど……」
「分かってるよー!」
明らかに分かっていない顔だった。
するとフェンリスも手を上げた。
「僕も一緒に行きたいな」
「フェンリスも?」
「うん。紅月の服、一緒に選びたいし」
「ああ、それは助かる」
さらに、あおいも立ち上がる。
「無論、わらわも同行するぞ」
「そうだな。あおいがいてくれると助かる」
「ふふっ。任せるがよい」
その言葉に、紅月が嬉しそうにあおいへ抱きついた。
「あおいも一緒じゃ!」
「うむ。一緒じゃよ」
「やったのじゃ!」
紅月は一度あおいに抱きついた後、すぐに和真の元へ戻った。
そして、当然のように腰へ両腕を回す。
「……紅月」
「なんじゃ?」
「買い物に行くなら、自分で歩く練習もしような」
「む?」
「ずっと抱っこしてたら、服も選べないだろ?」
「……むむむ」
紅月は考え込んだ。
そして、ぱっと笑う。
「ならば、ご主人が歩けばよい!」
「だから俺じゃなくて!」
みゆの笑い声がリビングに響いた。
*
買い物へ出発する前に、もう一つ問題が発生した。
「……紅月」
「なんじゃ?」
「靴、履こうか」
「くつ?」
「そう。外を歩くときは必要だから」
「むむ?」
玄関に置かれた小さな靴を、紅月が不思議そうに見つめる。
仮に用意した、子供用のスニーカーだった。
「これを足につけるのかえ?」
「そうだよ」
「……なぜじゃ?」
「足を怪我しないようにするためだな」
「わっちは今まで、そんなものをつけておらぬぞ?」
「それは狐だったからだろ?」
「……む」
紅月は納得したような、していないような顔をした。
それでも和真に促され、靴へ足を入れる。
「……おおっ!」
「どう?」
「足が包まれたのじゃ!」
「まあ、そうだな」
紅月は立ち上がった。
そして、その場で足踏みを始めた。
とん、とん。
「……む?」
とんとん。
「……おお!」
とんとんとん!
「ご主人! 変な感じじゃ!」
「慣れれば大丈夫だよ」
「ふむ!」
紅月は玄関の中を歩き始めた。
最初はぎこちなかったものの、すぐに慣れたらしい。
「おおおっ!」
今度は小走りになる。
「ご主人! 走れるのじゃ!」
「紅月、玄関で走るな!」
「む?」
その瞬間。
つるっ。
「……あっ」
紅月の足が滑った。
和真は咄嗟に体を伸ばす。
「危なっ!」
ぎゅっ。
何とか紅月を抱きとめた。
「……ふう」
和真が安堵の息を吐く。
ところが。
「……ご主人」
「ん?」
「もう一回じゃ!」
「駄目!」
「むぅ……」
紅月は不満そうに頬を膨らませた。
その様子を見ていたあおいが、紅月の前にしゃがんだ。
「紅月。外にはもっと多くの人がおるのじゃ。勝手に走り回ってはならぬぞ」
「……なぜじゃ?」
「ぶつかったり、迷子になったりするからじゃ」
「まいご?」
「和真たちがどこにおるか分からなくなってしまうことじゃよ」
その説明を聞いた途端。
紅月の顔色が変わった。
「……ご主人が?」
「うむ。人が多い場所では、見失ってしまうこともあるのじゃ」
「…………」
紅月はゆっくり和真を見上げた。
そして――。
ぎゅうううっ!
「うわっ!?」
「ご主人!」
「な、なんだ!?」
「絶対に離れぬぞ!」
「……あれ?」
和真があおいを見る。
あおいも少し困ったように笑った。
「……逆効果じゃったかのう」
「そうみたいだな……」
紅月はますます強く抱きついた。
「わっちはご主人を見失わぬ!」
「いや、それは嬉しいけど……」
「ずっと一緒じゃ!」
「……先が思いやられるな」
和真は苦笑した。
*
それからしばらくして。
ようやく買い物へ出発する準備が整った。
同行するのは、和真、紅月、あおい、みゆ、フェンリスの五人。
リディアは腕輪の調整を終えると、いつもの作業へ戻ることになった。
ユエも家に残り、ほかの住人たちと家事を進めるという。
「紅月」
出発直前、ユエが声をかけた。
「なんじゃ?」
「お店では、勝手に物を持っていってはいけないのよ」
「む?」
「欲しいものがあったら、必ず和真たちに相談しなさい」
「……ふむ」
「それから、知らない人についていかないこと。勝手に走らないこと。分かった?」
「うむ!」
紅月は元気よく頷いた。
しかし、ユエはその返事を聞いても安心しなかった。
「……本当に分かっているのかしら」
「大丈夫だよ。俺たちも気をつけるから」
和真がそう言うと、ユエは小さくため息をついた。
「和真。特にあなたが一番甘いのだから、気をつけなさいよ」
「……はい」
そのやり取りを見て、ナディアが笑う。
「ははっ! 今日のお前たちは、買い物どころじゃなさそうだな!」
「縁起でもないこと言うなよ!」
「まあ、せいぜい頑張ることだ!」
「他人事だと思って……」
酒菜も楽しそうに笑っている。
「がははっ! 帰ってきたら土産話を聞かせてくれよ!」
「酒菜まで……」
和真は肩を落とした。
その横では、紅月が目を輝かせている。
「ご主人! 早く行くのじゃ!」
「はいはい」
和真が車の鍵を取り出す。
すると紅月が首を傾げた。
「……む?」
「どうした?」
「ご主人。それはなんじゃ?」
「車の鍵だよ」
「くるま?」
「そう。これから車に乗って行くんだ」
「……くるま」
紅月はその言葉を繰り返した。
そして、玄関の外へ出る。
駐車場に停められた車を見た瞬間――。
「おおおおおおっ!」
紅月の目が輝いた。
「ご主人! 大きな箱があるのじゃ!」
「……箱?」
「これはなんじゃ!? 家かえ!?」
紅月は車へ駆け寄ろうとした。
「紅月! 走らない!」
「むっ!?」
和真が声をかけると、紅月はぴたりと立ち止まった。
そして、慌てて戻ってくる。
「……ご主人」
「ん?」
「……ちゃんと止まったぞ!」
「ああ。偉い偉い」
和真が頭を撫でると、紅月は嬉しそうに笑った。
「えへへっ!」
その様子に、フェンリスも頬を緩める。
「ちゃんと言えば聞いてくれるんだね」
「うん。ただ……」
和真は車を見つめる紅月の表情を見た。
今にも飛び出していきそうな、好奇心いっぱいの顔。
「……興味があるものを見つけると、全部忘れちゃうんだよな」
「あはは……そうだね」
あおいが紅月の手を取る。
「紅月。車に乗るときは、わらわが教えてやろう」
「うむ!」
紅月は嬉しそうに頷いた。
そして、後部座席の扉が開かれる。
「おおっ!」
中を覗き込んだ紅月が、またしても歓声を上げた。
「中に椅子があるのじゃ!」
「そうだよ。ここに座るんだ」
「ご主人もかえ!?」
「俺は運転席だな」
「……む?」
紅月の表情が曇った。
「……一緒ではないのかえ?」
「すぐ前にいるよ」
「……むぅ」
「ほら、ここから俺のことも見えるだろ?」
和真が運転席を指差す。
紅月はじっと眺めた。
そして、少し考えてから頷く。
「……ならば、よい」
あおいに教わりながら座席に腰を下ろす。
続いてシートベルト。
「紅月。これをつけるのじゃ」
「む?」
「走っている間、安全に座っておくためのものじゃよ」
カチリ。
ベルトが固定された。
すると紅月が――。
「……むむむっ!?」
体を動かそうとして、驚いた顔をした。
「ご主人!」
「どうした?」
「捕まったのじゃ!」
「捕まってないって!」
「動けぬぞ!?」
「安全のためだよ!」
みゆが隣で大笑いする。
「あはははっ! 紅月、面白すぎ!」
「みゆ! 笑っておらぬで助けるのじゃ!」
「大丈夫だって! それ、みんなつけるんだよ?」
「……みんな?」
紅月が周囲を見回す。
フェンリスも、あおいも、みゆも。
皆が同じようにシートベルトをしていた。
「……ほう」
少し考え込む紅月。
そして。
「……人間とは、不思議な生き物じゃのう」
妙に感心した声で呟いた。
和真は思わず笑ってしまった。
「まあ、そのうち慣れるよ」
*
エンジンがかかる。
ぶるるん。
「ひゃっ!?」
紅月が飛び上がりそうになった。
「な、なんじゃ!?」
「車のエンジンだよ」
「えんじん!?」
「これから動くからね」
和真はゆっくり車を発進させた。
すると――。
「おおおおおおっ!」
紅月が窓の外を見つめる。
「ご主人! 景色が動いておる!」
「車が動いてるんだよ」
「わっちは歩いておらぬぞ!?」
「そういう乗り物だからね」
「すごいのじゃ!」
紅月は窓に顔を近づけた。
流れていく景色。
すれ違う車。
歩道を歩く人々。
信号機。
電柱。
建物。
その何もかもが、紅月にとっては新鮮だった。
「ご主人! あれはなんじゃ!?」
「信号だよ」
「あの赤いのは!?」
「止まれって意味」
「では青は!?」
「進んでいいって意味」
「黄色は!?」
「もうすぐ赤になるから気をつけろってこと」
「ほう!」
紅月は真剣に頷いた。
しかし、数秒後。
「ご主人! あれはなんじゃ!?」
「……コンビニ」
「あれは!?」
「……郵便ポスト」
「あれは!?」
「……自動販売機」
「あれは!?」
「……バス」
「あれは!?」
「……タクシー」
「あれは!?」
「……普通の車!」
質問が止まらない。
和真は運転に集中しながら、必死に答え続けた。
その様子を見ていたみゆが、とうとう笑いをこらえきれなくなった。
「あはははっ! 和真、先生みたい!」
「先生っていうか、質問攻めだよ!」
「ご主人! あれはなんじゃ!?」
「……今度は何!?」
紅月が指差した先には、大きな看板があった。
そこに描かれていたのは――。
巨大なハンバーガー。
「……おおっ!」
紅月の目が輝いた。
「ご主人!」
「ん?」
「あの大きな食べ物はなんじゃ!?」
「ハンバーガーだよ」
「はんばーがー!?」
「そう」
「食べられるのかえ!?」
「ああ」
「食べたいのじゃ!」
「いや、今朝ご飯食べたばかりだろ!?」
「別腹じゃ!」
「どこで覚えたんだ、その言葉!?」
みゆが、そっと視線を逸らした。
「……みゆ?」
「えへへっ」
「お前か!」
車内に笑い声が響く。
あおいも口元を押さえながら笑っていた。
フェンリスも楽しそうに紅月の頭を撫でる。
「紅月、今日は服を買いに行くんだからね」
「服?」
「うん。可愛い服、いっぱい選ぼうね」
「……かわいい?」
「そうだよ。紅月に似合う服」
「……ほう!」
紅月は少し考え込んだ。
そして、ぱっと笑う。
「ならば、ご主人に選んでもらうのじゃ!」
「俺!?」
「うむ! ご主人が選んだものなら、何でもよいぞ!」
その言葉に、フェンリスが微笑んだ。
「ふふっ。じゃあ、みんなで選ぼうね」
「うむ!」
紅月は満足そうに頷いた。
そして、再び窓の外へ視線を向ける。
「……おおっ!」
また何かを見つけたらしい。
「ご主人! あれはなんじゃ!?」
「……今度は何だ?」
和真の長い一日は、まだ始まったばかりだった。
*
やがて車は、大型ショッピングモールの駐車場へ入った。
「……おおおっ!」
紅月が窓の外を見つめる。
広い駐車場。
並んだ車。
そして、その向こうには巨大な建物。
「……ご主人」
「ん?」
「あれは……なんじゃ?」
「今日買い物する場所だよ」
「……あそこで?」
「ああ」
紅月は建物をじっと見上げた。
その目が、少しずつ輝いていく。
「……大きいのじゃ」
「そうだな」
「あの中に、食べ物も、服も、全部あるのかえ?」
「あるよ」
「……全部?」
「うん。色々なお店が入ってるからね」
紅月は口をぽかんと開けた。
そして――。
「すごいのじゃああああああ!」
車内いっぱいに歓声が響いた。
「ご主人! 早く行くのじゃ!」
「分かった分かった!」
和真は車を停め、エンジンを切った。
その瞬間。
「……むむむっ!」
紅月がシートベルトを引っ張り始めた。
「ご主人! まだ捕まっておるぞ!」
「今外すから!」
あおいが笑いながらベルトを外す。
「ほれ、紅月。慌てるでないぞ」
「うむ!」
紅月は勢いよく立ち上がろうとした。
だが、まだ車内だ。
ごつん!
「……あいたっ!」
「紅月!?」
天井に頭をぶつけてしまった。
「……むぅ」
頭を押さえる紅月。
和真が慌てて様子を見る。
「大丈夫か!?」
「……大丈夫じゃ」
「本当に?」
「うむ!」
そして、紅月は元気いっぱいに笑った。
「わっちは強いのじゃ!」
「いや、そういう問題じゃないんだけど……」
和真は苦笑した。
その横で、あおいが紅月の手を握る。
「紅月。ここからは、わらわか和真の手を離してはならぬぞ」
「うむ!」
「勝手に走ってもいかぬ」
「うむ!」
「欲しいものがあれば、先に相談するのじゃ」
「うむ!」
あおいは満足そうに頷いた。
「よし。よい子じゃ」
紅月は得意そうに胸を張る。
「ふふん! わっちは何でも分かるのじゃ!」
その姿を見た和真は、少しだけ安心した。
……少しだけ。
なぜなら。
車から下りた紅月は、すでにショッピングモールの入口にある、大きなガラス扉を凝視していたからだ。
「……む?」
扉が自動で開く。
ウィーン。
「…………」
閉じる。
ウィーン。
「……おお?」
また人が近づく。
ウィーン。
再び開く。
「……ご主人」
「ん?」
「あの扉……」
「自動ドアだよ」
「……じどうどあ?」
「人が近づくと勝手に開くんだ」
「…………」
紅月はじっと扉を見つめた。
そして。
「……わっちもやってみたいのじゃ!」
「いいよ。一緒に行こうか」
「うむ!」
紅月は和真の手を握り、嬉しそうに歩き始めた。
入口へ近づく。
ウィーン。
「おおおおっ!」
扉が開いた。
紅月は目を丸くする。
「開いたのじゃ!」
「そうだね」
「ご主人! わっちが近づいたら開いたぞ!」
「うん」
「わっちはすごいのじゃ!」
「……いや、自動ドアだからね?」
しかし、紅月は聞いていなかった。
今度は少し離れる。
ウィーン。
扉が閉まる。
「……む!」
また近づく。
ウィーン。
「おおっ!」
また離れる。
ウィーン。
「……くふふ!」
近づく。
ウィーン。
「開いたのじゃ!」
「紅月! もういいから!」
和真が慌てて止める。
通りかかった買い物客が、微笑ましそうにこちらを見ていた。
みゆは腹を抱えて笑っている。
「あはははっ! 駄目、もうお腹痛い!」
「笑ってないで助けてくれ!」
「だ、だって……あははは!」
フェンリスも口元を押さえて笑っていた。
あおいは小さくため息をつく。
「……先が思いやられるのう」
その言葉に、和真も深く頷いた。
「……本当にな」
そして。
ようやく自動ドアを通り抜けた紅月は、目の前に広がる光景を見て立ち止まった。
「…………」
広い通路。
明るい照明。
色とりどりの商品。
行き交う大勢の人々。
そして、あちらこちらから聞こえてくる音楽と話し声。
「……ご主人」
「ん?」
「……ここは」
紅月は、ゆっくりと和真を見上げた。
「……すごいところじゃのう」
「ああ。そうだね」
和真が微笑む。
すると紅月も、ぱっと笑顔になった。
「わっち、ここが好きじゃ!」
「まだ何も見てないだろ?」
「それでも好きじゃ!」
紅月は嬉しそうに和真の手を引いた。
「ご主人! 早く行くのじゃ!」
「分かったって。まずは服を――」
「おおっ! あっちに何かあるぞ!」
「紅月!?」
今にも走り出しそうな紅月を、和真が慌てて引き止める。
「走らないって約束しただろ!」
「……む?」
紅月は一瞬考えた。
そして。
「……そうじゃった!」
にぱっと笑った。
和真は、がくりと肩を落とした。
「……絶対に忘れてただろ」
あおいが苦笑する。
「……これは、目を離せぬのう」
しかし、このときの和真たちはまだ知らなかった。
紅月の好奇心が、ここからさらに加速していくことを。
そして、どれだけ注意していても、ほんの一瞬の隙が大騒動につながるということを。
小さな狐の初めてのお買い物は――。
まだ、始まったばかりだった。
「ご主人! あれはなんじゃ!?」
「……マネキンだよ」
「まねきん?」
「服を飾るための人形だな」
「……人形?」
紅月はショッピングモールの通路に立ち並ぶマネキンを、不思議そうに見つめていた。
そして、恐る恐る近づいていく。
「……む?」
顔を覗き込む。
「…………」
さらに近づく。
「……おぬし」
「紅月?」
「なぜ動かぬのじゃ?」
「人形だからね」
「…………」
紅月は真剣な表情でマネキンを見つめた。
そして。
「……もしもし?」
「だから人形だって!」
和真が苦笑する。
すると紅月は、マネキンの腕をそっと触った。
「……冷たいのじゃ」
「そりゃそうだろ」
「……生きておらぬのか?」
「生きてないよ」
「……ほう」
紅月は感心したように頷いた。
そして、マネキンが着ている服を見上げる。
「……ご主人」
「ん?」
「この者、綺麗な服を着ておるのう」
「そうだな」
「……わっちも着られるかえ?」
「もちろん。今日はそのために来たんだから」
「……ほんとか!?」
「ああ」
その瞬間、紅月の表情がぱっと明るくなった。
「ならば、早く行くのじゃ!」
和真の手を引っ張る。
「分かった分かった!」
そんな二人を見ていたみゆが、楽しそうに笑った。
「ねえ、フェンリス」
「ん?」
「なんだか、本当に親子みたいだね」
「ふふっ。うん、そうだね」
「和真、すっかりお父さんだよ」
「聞こえてるぞ!」
「あははっ!」
その隣では、あおいが紅月の様子を眺めていた。
周囲の何もかもに興味を示し、目を輝かせている小さな少女。
初めて人間の街へ出た頃の自分も、あのような顔をしていたのだろうか。
そんなことを考えながら、あおいは小さく微笑んだ。
「さて、そろそろ服を選びに行くとするかのう」
「そうだね。まずは子供服売り場だな」
和真が頷く。
そして、一行は子供服の専門店へと向かった。
*
「おおおおおおっ!」
店内に入った瞬間、紅月が歓声を上げた。
「ご主人! 服がいっぱいじゃ!」
「そうだな」
「こっちにもあるぞ!」
「うん」
「あっちにもじゃ!」
「紅月、走るなよ?」
「わかっておる!」
そう返事をした直後。
たたたたっ!
「紅月!」
「おおっ! 赤い服じゃ!」
「……聞いてない!」
和真が慌てて後を追う。
紅月は赤いワンピースが飾られた棚の前で立ち止まっていた。
「ご主人! これがよい!」
「おっ、可愛いじゃないか」
「そうじゃろ!」
紅月は得意そうに胸を張った。
そこへフェンリスがやってくる。
「紅月、これも可愛いよ?」
フェンリスが手にしていたのは、白いニットと赤いチェック柄のスカートだった。
「ほら、こういう組み合わせも似合うと思うんだ」
「……おおっ!」
紅月の目が輝いた。
「それもよいのう!」
「でしょ?」
さらに、みゆも別の服を持ってきた。
「じゃーん! こっちはどう?」
淡いピンク色の、フリルがついたワンピースだった。
「……おおおっ!」
「ふふん! 可愛いでしょ?」
「うむ!」
「紅月なら絶対似合うよ!」
紅月は三人が持っている服を順番に見つめた。
そして――。
「……全部欲しいのじゃ!」
「だと思った!」
和真が思わず笑う。
すると紅月は、きょとんとした顔で首を傾げた。
「……駄目なのかえ?」
「駄目ってわけじゃないけど、まずは着てみような」
「着る?」
「そう。試着だよ」
「……しちゃく?」
「買う前に服を着て、似合うか確かめるんだ」
「……ほう!」
紅月は大きく頷いた。
「ならば、全部着るのじゃ!」
「そうだね!」
フェンリスも嬉しそうに笑った。
あおいは少し離れたところから、その様子を眺めていた。
「ふむ……」
「どうした、あおい?」
「いや、紅月に似合う服を考えておったのじゃ」
「何かいいのがあった?」
「うむ。少し待っておれ」
そう言って、あおいは別の棚へ向かった。
和真は紅月の頭を撫でる。
「それじゃ、試着してみようか」
「うむ!」
*
――数分後。
「ご主人! どうじゃ!」
試着室のカーテンが開いた。
そこから現れたのは、赤いチェック柄のスカートに白いニットを合わせた紅月だった。
赤い髪と服の色合いがよく似合っている。
「おお、可愛いじゃないか!」
「ほんとかえ!?」
「ああ。すごく似合ってるよ」
「えへへっ!」
紅月は嬉しそうに笑った。
その場でくるりと回る。
ふわりとスカートが広がった。
「おおっ!」
紅月は自分のスカートを見下ろした。
「ご主人! 広がったのじゃ!」
「そうだね」
「もう一回じゃ!」
くるん。
「おおっ!」
くるくるっ!
「紅月、目が回るぞ!」
「大丈夫じゃ!」
くるくるくるっ!
「……む?」
ぴたり。
「……あれ?」
ふらっ。
「うわっ!」
和真が慌てて抱きとめる。
「だから言っただろ!」
「……むぅ」
紅月は和真の腕の中で、少し目を回していた。
「……ご主人」
「ん?」
「……床が動いておる」
「お前が回ったからだよ!」
みゆが大笑いする。
「あはははっ! 紅月、可愛すぎ!」
「笑いすぎだよ、みゆ」
フェンリスも笑いをこらえながら紅月の髪を整えた。
「でも、この服、本当に似合ってるね」
「うん。僕もそう思う」
みゆが頷く。
そこへ、あおいが戻ってきた。
「ふむ。なかなかよいではないか」
「あおい!」
「じゃが、こちらも試してみぬか?」
あおいが手にしていたのは、淡いクリーム色のワンピースと、赤いリボンのついたカーディガンだった。
「……おおっ!」
紅月の目が輝く。
「綺麗じゃ!」
「ふふっ。そなたに似合うと思ってのう」
「着るのじゃ!」
紅月は元気よく頷いた。
そして、和真の手を引っ張る。
「ご主人! 一緒に着替えるのじゃ!」
「いや、俺はここで待ってるよ!」
「……む?」
「服を着替えるのは、あおいたちに手伝ってもらおうな」
「……ご主人は来ぬのかえ?」
「ああ。ちゃんとここにいるから」
紅月は少し不満そうな顔をした。
しかし、あおいがそっと手を差し出す。
「紅月。わらわと一緒に行こう」
「……むぅ」
「和真に可愛い姿を見せて、驚かせてやろうではないか」
その言葉に、紅月がぴくりと反応した。
「……驚かせる?」
「うむ」
「……ご主人を?」
「そうじゃ」
紅月はしばらく考え込んだ。
そして、にんまりと笑う。
「……くふふ!」
何かを企んでいる顔だった。
「よし! あおい、行くのじゃ!」
「うむ!」
二人は試着室へ入っていった。
和真は、ようやく一息ついた。
「……ふう」
すると、みゆが隣へやってくる。
「和真、どう?」
「何が?」
「紅月との買い物」
「……想像以上に大変」
「あははっ! だよね!」
「もう何回走りそうになったか分からないよ」
「でもさ」
「ん?」
みゆは試着室の方を見た。
「すっごく楽しそうだよね、紅月」
「……ああ」
「昨日まで狐だったんだもん。きっと、見るもの全部が新鮮なんだろうね」
「そうだな」
和真は小さく笑った。
「まあ、大変だけど……あんなに喜んでくれるなら、連れてきてよかったよ」
「ふふっ。和真らしいね」
フェンリスも優しく微笑んだ。
そのとき。
「ご主人!」
試着室から声がした。
「ん?」
「目を閉じるのじゃ!」
「……え?」
「早く!」
「はいはい」
和真は言われた通りに目を閉じた。
かさかさと衣擦れの音。
小さな足音。
「……もうよいぞ!」
目を開ける。
すると――。
「……おお」
目の前に、クリーム色のワンピースを着た紅月が立っていた。
赤いカーディガンを羽織り、髪には小さな白いリボン。
普段の元気いっぱいな姿とは、また違った可愛らしさがあった。
紅月は少し照れくさそうに両手を広げる。
「……どうじゃ?」
和真は自然と微笑んだ。
「うん。すごく可愛いよ」
「……ほんとかえ?」
「ああ。お姫様みたいだ」
その瞬間。
「……おひめさま!?」
紅月の目が輝いた。
「わっちが!?」
「そうだよ」
「……くふふふ!」
紅月は嬉しそうに笑った。
そして。
「わっちは姫になったのじゃあああ!」
両手を上げて大喜びした。
みゆが再び吹き出す。
「あはははっ! お姫様、元気すぎ!」
「ふふっ。紅月らしいね」
フェンリスも笑っていた。
あおいは満足そうに頷く。
「うむ。やはり似合っておるのう」
すると、紅月が和真へ駆け寄った。
「ご主人!」
「ん?」
「抱っこじゃ!」
「……え?」
「姫は抱っこされるものじゃろう!?」
「どこでそんなこと覚えたんだ!?」
和真が目を丸くする。
みゆが、そっと顔を逸らした。
「……みゆ?」
「えへへっ」
「またお前か!」
店内に、楽しそうな笑い声が響いた。
*
それからしばらくして。
ようやく服選びが終わった。
普段着用の服を数着。
暖かい上着。
下着や靴下。
寝間着。
そして、紅月が気に入ったワンピース。
必要なものを一通り揃え、和真たちはレジへ向かった。
「ご主人!」
「ん?」
「この服は、わっちのものになるのかえ?」
「お金を払ったらね」
「……おかね?」
「そう。買い物するときに必要なものだよ」
「……ほう?」
和真は財布から千円札を取り出して見せた。
「これがお金」
紅月はじっと見つめた。
「……紙じゃな」
「まあ、そうだね」
「こんな紙で服がもらえるのかえ?」
「そういう決まりなんだよ」
「……不思議じゃのう」
紅月は感心したように頷いた。
そして。
「ご主人!」
「ん?」
「わっちも、その紙が欲しいのじゃ!」
「……え?」
「たくさん集めれば、いっぱい服がもらえるのじゃろう!?」
「まあ、そうだけど……」
みゆが笑いながら口を挟む。
「紅月、お金ってね、服だけじゃなくてお菓子も買えるんだよ」
「……おかし!?」
「うん!」
紅月の目が輝いた。
「ご主人! わっち、お金持ちになるのじゃ!」
「話が飛躍しすぎだろ!?」
「お菓子をいっぱい買うのじゃ!」
「あははっ! いい夢だね!」
みゆはお腹を抱えて笑った。
和真は思わず額を押さえる。
「みゆ、変なことばっかり教えるなよ……」
「えー? 本当のことだよ?」
「そうだけどさ……」
そんな二人のやり取りをよそに、紅月は真剣に考え込んでいた。
「……ふむ」
そして、突然何かを思いついたように顔を上げる。
「ご主人!」
「今度は何?」
「わっちも働くのじゃ!」
「……は?」
「お金をいっぱいもらうのじゃ!」
「いやいや、まだ早いって!」
「なぜじゃ!?」
「まずは人間の生活を覚えてからだよ!」
「……むぅ」
紅月は不満そうに頬を膨らませた。
その姿を見たあおいが、優しく頭を撫でる。
「焦らずともよい。お金のことも、少しずつ覚えていけばよいのじゃ」
「……あおい」
「まずは、買い物の仕方からじゃな」
「うむ!」
紅月は元気よく頷いた。
*
支払いを済ませると、次は靴売り場へ向かうことになった。
ところが、その途中。
「……む?」
紅月が足を止めた。
「どうした?」
「ご主人。あれはなんじゃ?」
紅月が指差した先。
そこには、上の階へと続くエスカレーターがあった。
「エスカレーターだよ」
「……えすかれーたー?」
「動く階段だな」
「……動く?」
「ああ」
紅月はじっとエスカレーターを見つめた。
そして。
「……おおおっ!」
目を輝かせた。
「階段が勝手に動いておる!」
「そうだね」
「ご主人! あれに乗るのじゃ!」
「いいけど、ちゃんと気をつけろよ?」
「うむ!」
和真は紅月の手を握った。
「あおい、反対側をお願い」
「うむ。任せるのじゃ」
あおいが紅月のもう一方の手を握る。
二人に挟まれた紅月は、嬉しそうに笑った。
「ご主人とあおいと一緒じゃ!」
「そうだね」
「ふふっ。では行くぞ」
エスカレーターの前に立つ。
動いていく段差。
紅月はそれを真剣に見つめていた。
「……むむむ」
「紅月、タイミングを合わせて乗るんだよ」
「……うむ」
じっ。
じーっ。
「……今だ」
和真が声をかける。
しかし。
「……むむっ!?」
紅月は足を出しかけて引っ込めた。
「……怖いのじゃ!」
「大丈夫。俺たちがついてるから」
「……ほんとかえ?」
「ああ」
和真が微笑む。
あおいも優しく頷いた。
「わらわたちと一緒なら大丈夫じゃ」
「……うむ!」
三人はタイミングを合わせ、エスカレーターへ乗った。
「おおおおおおっ!」
紅月が歓声を上げる。
「ご主人! 勝手に上がっておるぞ!」
「そうだね」
「わっちは歩いておらぬのに!」
「うん」
「すごいのじゃ!」
紅月は嬉しそうに笑った。
しかし、途中で下を見た瞬間。
「……ひゃっ!?」
慌てて和真の腕にしがみついた。
「ご主人! 高いのじゃ!」
「大丈夫だって!」
「落ちぬか!?」
「落ちないようにちゃんと立ってような」
紅月は和真の服をぎゅっと握った。
その様子を見たあおいが、くすりと笑う。
「ふふっ。元気な紅月にも、怖いものがあるのじゃな」
「こ、怖くなどないぞ!」
「そうかえ?」
「ちょっと驚いただけじゃ!」
「ふふっ。そういうことにしておこう」
あおいが優しく笑った。
やがて、エスカレーターが終点に近づく。
「紅月、ここで足を前に出すんだよ」
「……うむ!」
和真とあおいに手を引かれ、無事に降りる。
すると紅月は、ぱっと笑顔になった。
「……乗れたのじゃ!」
「よかったな」
「わっちはすごいのじゃ!」
「ああ、偉い偉い」
和真が頭を撫でる。
紅月は嬉しそうに笑った。
そして。
「……ご主人」
「ん?」
「もう一回乗るのじゃ!」
「……え?」
「今度は下りるのじゃ!」
「いや、買い物が先!」
「むぅ……」
紅月は頬を膨らませた。
しかし、あおいに手を引かれると、素直についてきた。
*
次に訪れた靴売り場でも、紅月は大騒ぎだった。
「ご主人! 見よ!」
紅月が小さな靴を両手に持っている。
「これ、光るのじゃ!」
「……光る?」
「うむ!」
紅月は店内に置かれた試し履き用の靴を履いた。
そして。
とんっ!
ぴかっ!
「おおおっ!」
もう一度。
とんっ!
ぴかっ!
「ご主人! 足が光るのじゃ!」
「本当だな」
「すごいのじゃ!」
紅月は嬉しそうに足踏みを始めた。
とんとんとん!
ぴかぴかぴか!
「くふふふ!」
さらに勢いを増す。
とんとんとんとん!
「紅月、そんなに踏み鳴らさなくても!」
「光るのじゃ!」
「分かったって!」
周囲の子供たちが、何事かと振り返る。
みゆは笑いすぎて、すでに涙目だった。
「あはははっ! 駄目、今日ずっと笑ってる!」
「みゆ、そろそろ助けてよ!」
「無理! 面白すぎる!」
フェンリスは紅月の前にしゃがんだ。
「紅月、その靴、気に入った?」
「うむ!」
「じゃあ、これにする?」
「……よいのかえ!?」
「もちろん。サイズが合えばね」
紅月は和真を見上げた。
「……ご主人」
「ん?」
「わっち、これが欲しいのじゃ!」
和真は少し考えた。
歩きやすそうなスニーカー。
サイズも合っている。
何より、紅月がとても気に入っている。
「……うん。いいよ」
「……ほんとか!?」
「ああ」
「やったのじゃああああ!」
紅月は和真に飛びついた。
「ご主人、大好きじゃ!」
「うわっ! 危ないって!」
和真は慌てて抱きとめる。
その姿を見た店員が、思わず微笑んでいた。
「元気なお嬢さんですね」
「あはは……元気すぎるくらいで」
和真は苦笑した。
すると紅月が店員を見上げる。
「おぬし!」
「はい?」
「この靴、すごいのじゃ!」
「ふふっ。気に入っていただけましたか?」
「うむ! 足が光るのじゃ!」
「そうですね」
「おぬしはすごいものを持っておるのう!」
「ありがとうございます」
店員が嬉しそうに笑う。
和真は隣で小さくため息をついた。
……どうやら、初対面の人間にも遠慮がないらしい。
*
服と靴を買い終えた頃には、すでに昼近くになっていた。
「……ふう」
和真はベンチに腰を下ろした。
両手には買い物袋。
隣には紅月。
そして、その紅月は――。
「ご主人!」
「ん?」
「次はどこへ行くのじゃ!?」
まったく疲れた様子がなかった。
「……少し休ませてくれ」
「む?」
「俺、ちょっと疲れた」
「……そうなのかえ?」
「ああ」
紅月は和真の顔をじっと見つめた。
そして。
「……ならば!」
ひょいっ。
和真の膝の上に乗った。
「……え?」
「わっちが温めてやるのじゃ!」
「……紅月?」
「こうすれば元気になるじゃろ!」
ぎゅうっ!
「ぐえっ!?」
「ご主人、元気になれー!」
「首! 首が苦しい!」
フェンリスが慌てて紅月の腕を緩めさせる。
「紅月、そんなに強く抱きついたら和真が苦しいよ」
「……む?」
「優しくね」
「……こうかえ?」
ぎゅっ。
「……うん。それなら大丈夫」
和真はようやく息を吐いた。
「……助かった」
「えへへっ」
紅月は嬉しそうに笑った。
そして、和真の胸元へ頬を寄せる。
「ご主人、元気になったかえ?」
「ああ。ありがとうな」
「くふふ!」
その様子を見ていたあおいが、優しく微笑んだ。
「ふふっ。紅月なりに心配しておるのじゃな」
「……まあ、そうみたいだね」
和真も笑った。
すると、フェンリスが買い物袋を整理しながら口を開いた。
「そろそろお昼にしない?」
「そうだな。紅月もお腹空いたろ?」
「……お昼?」
「ご飯だよ」
その瞬間。
「……おおっ!」
紅月の表情が明るくなる。
「ご飯じゃ!」
「うん」
「ご主人! あれを食べるのじゃ!」
「……あれ?」
「大きな、丸い、肉のやつじゃ!」
和真は少し考えた。
そして、思い出す。
「……ハンバーガー?」
「それじゃ!」
紅月は満面の笑みを浮かべた。
「はんばーがーを食べるのじゃ!」
みゆが楽しそうに手を上げる。
「いいね! 僕も食べたい!」
「じゃあ、フードコートに行こうか」
フェンリスが提案する。
「そうだね。色々あるし、紅月も好きなものを選べるよ」
「うむ!」
紅月は元気よく頷いた。
*
フードコートに着くと、紅月は再び目を輝かせた。
「……おおおおっ!」
広い空間。
たくさんのテーブル。
そして、様々な料理の写真が並んだ店。
「ご主人! ご馳走がいっぱいじゃ!」
「そうだね」
「あれも食べたいのじゃ!」
「うん」
「これもじゃ!」
「……紅月?」
「全部食べるのじゃ!」
「無理だって!」
和真が慌てて止める。
しかし紅月は、あちらこちらの料理を指差していた。
「ご主人! あれはなんじゃ!?」
「ラーメン」
「あれは!?」
「オムライス」
「あれは!?」
「うどん」
「あれは!?」
「カレー」
「……おおおおっ!」
紅月は目を輝かせた。
「全部美味そうじゃ!」
「そうだね」
「……全部食べるのじゃ!」
「だから無理!」
みゆが腹を抱えて笑う。
「あはははっ! 紅月、どんだけ食べたいの!」
「わっちは腹が減っておるのじゃ!」
「朝ご飯、あんなに食べたのに?」
「別腹じゃ!」
「だから誰が教えたんだよ!」
和真がみゆを見る。
みゆはにっこり笑った。
「えへへっ」
「……やっぱりお前か」
そんなやり取りをしているうちに、ようやく注文が決まった。
紅月は予定通りハンバーガー。
和真たちもそれぞれ好きなものを注文し、席へ戻った。
「……おおっ!」
目の前に置かれたハンバーガーを見て、紅月が感激したように声を上げた。
「ご主人! これがはんばーがーかえ!?」
「そうだよ」
「……美味そうじゃ!」
「食べてみな」
「うむ!」
紅月は両手でハンバーガーを持った。
そして――。
がぶっ!
「…………」
もぐもぐ。
「…………」
もぐもぐもぐ。
「……おおおおっ!」
紅月の目が輝いた。
「美味いのじゃああああ!」
「よかったな」
「ご主人! すごく美味いぞ!」
「ははっ。そっか」
「ご主人も食べるのじゃ!」
「いや、俺の分もあるから」
「これを食べるのじゃ!」
紅月は自分のハンバーガーを差し出した。
「……いいの?」
「うむ! 美味しいものは分けるのじゃ!」
その言葉に、和真は少し驚いた。
そして、優しく微笑む。
「……ありがとうな」
「えへへっ!」
紅月は嬉しそうに笑った。
その横で、あおいも穏やかな表情を浮かべていた。
「ふふっ。よい子じゃのう」
紅月は得意そうに頷く。
「わっちはよい子じゃ!」
「そうじゃな」
あおいが頭を撫でる。
紅月は気持ちよさそうに目を細めた。
*
昼食を終えた後。
「さて、そろそろ帰ろうか」
和真がそう言うと――。
「……え?」
紅月が固まった。
「……帰る?」
「うん。必要なものは買えたしね」
「…………」
紅月は周囲を見回した。
たくさんの店。
色とりどりの商品。
行き交う人々。
そして、まだ一度も見たことのないものが、あちらこちらに並んでいる。
「……むぅ」
紅月は不満そうに頬を膨らませた。
「……まだ帰りとうない」
「……紅月?」
「もっと見たいのじゃ!」
「でも、もう結構歩いたぞ?」
「わっちは疲れておらぬ!」
「いや、俺たちが疲れたんだよ……」
和真は苦笑した。
すると、みゆが口を開く。
「ねえ、和真。もう少しだけ見て回らない?」
「……みゆ?」
「ほら、紅月にとって初めてのお出かけなんだしさ」
「それはそうだけど……」
「それに、まだおもちゃ売り場とか見てないよ?」
その言葉に、紅月が反応した。
「……おもちゃ?」
「うん! 面白いものがいっぱいあるんだよ!」
「……おおっ!」
紅月の目が輝く。
「ご主人! 行くのじゃ!」
「……はぁ」
和真は大きく息を吐いた。
そして、苦笑する。
「……分かったよ。少しだけな」
「やったのじゃあああ!」
紅月は大喜びで和真に抱きついた。
みゆが嬉しそうに笑う。
「やったね!」
「みゆも楽しみたいだけだろ?」
「えへへっ。ばれた?」
「……まったく」
和真は呆れながらも笑った。
フェンリスも頷く。
「じゃあ、最後に少しだけ見ていこうか」
「うむ!」
紅月は満面の笑みを浮かべた。
*
おもちゃ売り場は、紅月にとってまさに夢のような場所だった。
「おおおおおおっ!」
入口に並んだぬいぐるみ。
色とりどりのおもちゃ。
小さな人形。
動く車。
音の鳴る玩具。
紅月は目を丸くしていた。
「ご主人! ここはなんじゃ!?」
「おもちゃ売り場だよ」
「……おもちゃ!」
「そう。遊ぶためのものがいっぱいあるんだ」
「……おおおっ!」
紅月は嬉しそうに走り出そうとした。
「紅月!」
和真が声をかける。
すると、ぴたりと止まった。
「……む!」
「走らないって約束しただろ?」
「……そうじゃった!」
紅月は慌てて戻ってくる。
そして、和真の手をぎゅっと握った。
「これならよいじゃろ!」
「ああ。ちゃんとついてきてな」
「うむ!」
紅月は得意そうに頷いた。
しかし。
「……おおっ!」
数歩進んだところで、また別のものに目を奪われた。
「ご主人! あれはなんじゃ!?」
指差した先には、動物のぬいぐるみが並んでいた。
犬。
猫。
熊。
兎。
そして――。
「……む?」
紅月の目が、あるぬいぐるみで止まった。
「……ご主人」
「ん?」
「……あれ」
紅月が指差した先。
そこには、小さな赤い狐のぬいぐるみがあった。
先端が白い耳。
ふわふわの尻尾。
紅月はそれをじっと見つめた。
「……わっち?」
和真は思わず笑った。
「ははっ。確かに似てるな」
「……わっちじゃ!」
紅月は嬉しそうにぬいぐるみを抱き上げた。
「ご主人! わっちがおるぞ!」
「そうだね」
「小さいのう!」
「紅月も狐のときは小さかっただろ?」
「……む?」
紅月は少し考えた。
そして、ぬいぐるみを抱きしめる。
「……ご主人」
「ん?」
「これ、欲しいのじゃ」
その声は、先ほどまでとは少し違っていた。
騒ぐわけでもなく、飛び跳ねるわけでもない。
ただ、大切そうにぬいぐるみを抱えている。
和真は微笑んだ。
「……いいよ」
「……ほんとかえ?」
「ああ。せっかくの初めての買い物だしな」
紅月の顔が、ぱっと明るくなった。
「……ありがとうなのじゃ!」
ぎゅうっ。
ぬいぐるみを抱きしめたまま、和真に抱きつく。
「ご主人、大好きじゃ!」
「ははっ。分かった分かった」
その様子を見ていたフェンリスが、優しく微笑んだ。
「よかったね、紅月」
「うむ!」
あおいも嬉しそうに頷いた。
「ふふっ。大切にするのじゃぞ」
「もちろんじゃ!」
紅月はぬいぐるみを見つめた。
そして、小さく笑った。
「……わっちと同じじゃのう」
*
ところが。
問題が起きたのは、それから少し後のことだった。
和真たちは、ぬいぐるみの会計を終えて店を出た。
紅月は買ってもらった赤狐のぬいぐるみを抱きしめ、機嫌よく歩いている。
「ご主人!」
「ん?」
「この子も、わっちの家に住むのじゃな!」
「そうだね」
「皆に見せるのじゃ!」
「ああ。きっと喜ぶよ」
紅月は嬉しそうに笑った。
そんなとき。
――ピロピロピロッ!
「……む?」
どこからか、楽しげな電子音が聞こえてきた。
紅月が顔を上げる。
「……なんじゃ?」
音のした方へ視線を向けると、通路の向こうにカプセルトイのコーナーが見えた。
色とりどりの機械が、壁一面に並んでいる。
「……おおっ!」
紅月の目が輝く。
その中には、小さな動物の人形が入った機械もあった。
「……あれは!」
紅月が足を止める。
和真もその視線に気づいた。
「ん? ガチャガチャか」
「……がちゃがちゃ?」
「中におもちゃが入ってるんだよ」
「……おもちゃ!?」
「そう。お金を入れて回すと、一つ出てくるんだ」
「……ほう!」
紅月は興味津々だった。
「やってみたいのじゃ!」
「じゃあ、一回だけな」
「ほんとかえ!?」
「ああ」
「やったのじゃ!」
紅月は大喜びした。
和真は手を繋いだまま、カプセルトイのコーナーへ向かった。
あおいたちも後に続く。
ところが、その途中で――。
「あっ、和真!」
フェンリスが声をかけた。
「ん?」
「紅月の買った服、袋を一つ預かるよ。結構重そうだし」
「ああ、助かる」
和真は片手に持っていた買い物袋をフェンリスへ渡そうとした。
紅月と繋いでいた手は、そのままにしていた。
しかし。
「……む?」
紅月の視線は、すでに別のものへ向けられていた。
カプセルトイのコーナー。
その奥にある、小さな動物たちの人形。
さらに、その隣には――。
赤い狐の人形が飾られていた。
「……あっ!」
紅月の目が輝く。
「……わっちじゃ!」
思わず一歩踏み出した。
その瞬間、和真の手が少し引かれる。
「紅月、待って――」
和真が声をかけた。
けれど、紅月はすでに別の方向を見ていた。
ちょうどそのとき、買い物客の一団が通路を横切った。
子供連れの家族。
大きな買い物袋を持った人々。
年始の買い物で、通路はかなり混雑していた。
和真はぶつからないように一歩足を止めた。
紅月も立ち止まった――はずだった。
しかし。
「……あれ?」
紅月の小さな手が、するりと和真の手から抜けた。
目の前の人を避けるため、横へ一歩。
もう一歩。
そして、先ほど見つけた赤狐の人形を目指して、さらに数歩。
「……おおっ!」
紅月は嬉しそうに近づいていった。
その目には、もう目の前のおもちゃしか映っていなかった。
*
「……よし、これで持ちやすくなった」
和真は買い物袋を持ち直した。
「ありがとう、フェンリス」
「ううん。大丈夫だよ」
そして、紅月へ声をかけようとした。
「紅月、それじゃ――」
……返事がない。
「……あれ?」
和真は隣を見た。
そこにいるはずの小さな少女。
しかし――。
「…………」
誰もいなかった。
「……紅月?」
和真は周囲を見回した。
赤い髪の少女。
小さな体。
先ほど買った赤狐のぬいぐるみ。
そのどれも見当たらない。
「……え?」
和真の表情が変わった。
「……紅月?」
もう一度呼ぶ。
しかし、返事はない。
あおいが不思議そうに振り返る。
「どうしたのじゃ、和真?」
「……紅月がいない」
「……何?」
あおいの表情が変わった。
フェンリスも慌てて周囲を見回す。
「えっ!? さっきまで和真と手を繋いでたよね!?」
「ああ……でも、今……」
和真は自分の手を見つめた。
つい先ほどまで、確かに握っていた小さな手。
それが、いつの間にかなくなっていた。
「……嘘だろ」
みゆも慌てて周囲を見回す。
「紅月ー!?」
しかし、返事はない。
通り過ぎる買い物客。
行き交う人々。
どこまでも続くように見える通路。
その中に、紅月の姿はなかった。
「……まずい」
和真の顔から血の気が引いた。
あおいがすぐに口を開く。
「和真、落ち着くのじゃ」
「でも……!」
「まだ遠くへは行っておらぬはずじゃ。手分けして探そう」
「……ああ!」
和真は頷いた。
「フェンリス、みゆ。二人はさっきのおもちゃ売り場の方をお願い!」
「分かった!」
「うん! 僕も探す!」
「あおいは――」
「わらわは向こうの通路を見てくる。和真はこの辺りを頼むぞ」
「分かった!」
あおいは素早く歩き出した。
その表情からは、先ほどまでの穏やかな笑みが消えていた。
*
一方、その頃。
「……おおっ!」
紅月は、ようやく目当てのカプセルトイの前にたどり着いていた。
「……小さい狐じゃ!」
透明なケースの中に、赤い狐の小さな人形が飾られている。
紅月は目を輝かせた。
「……可愛いのう!」
大切そうにぬいぐるみを抱き直す。
「ご主人! 見よ!」
嬉しそうに振り返った。
しかし――。
「…………」
そこには、誰もいなかった。
「……む?」
紅月は首を傾げた。
「……ご主人?」
もう一度周囲を見回す。
知らない人。
知らない人。
知らない人。
どこにも、和真の姿がない。
「……あれ?」
紅月は少し不思議そうな顔をした。
「……ご主人?」
もう一度呼ぶ。
しかし、返事はない。
「…………」
紅月は、来た道を振り返った。
ところが。
右にも通路。
左にも通路。
同じような店が並び、同じような人々が行き交っている。
「……む?」
紅月は少し考えた。
「……こっちじゃったかのう?」
右へ歩く。
しかし、見覚えのあるものはない。
「……違うのじゃ」
今度は左へ向かう。
けれど、そちらにも和真はいない。
「……ご主人?」
紅月はぬいぐるみを抱きしめた。
次第に、胸の奥がざわざわし始める。
「……どこじゃ?」
きょろきょろと周囲を見回す。
「……ご主人?」
声が少し小さくなった。
「……あおい?」
返事はない。
「……みゆ?」
誰も答えない。
「……フェンリス?」
周囲には、知らない人ばかりだった。
「…………」
紅月は立ち止まった。
そのとき。
朝、あおいから教わった言葉が頭をよぎった。
――人が多い場所では、見失ってしまうこともあるのじゃ。
「…………」
紅月の瞳が揺れた。
「……まいご」
小さく呟く。
「……わっち、迷子になったのかえ?」
その言葉を口にした途端。
急に、周囲の景色が怖くなった。
知らない場所。
知らない人。
知らない音。
先ほどまで楽しかったはずのものが、すべて遠く感じられる。
「……ご主人」
紅月はぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
「……どこじゃ……?」
唇が小さく震える。
胸の奥が、きゅっと苦しくなった。
以前、山の中で人間から逃げていたときのことを思い出す。
誰も信じられず。
誰にも頼れず。
ただ、ひたすら逃げていた日々。
けれど、今は違う。
自分には帰る場所がある。
大好きなご主人がいる。
優しくしてくれる、あおいたちがいる。
それなのに――。
「……ご主人……」
姿が見えない。
どこにいるのか、分からない。
紅月の目に、じわりと涙が浮かんだ。
「……やじゃ……」
ぬいぐるみを抱きしめる腕に、力がこもる。
「……わっち……」
ぽろっ。
涙が一粒、頬を伝った。
「……一人は、いやじゃ……」
紅月はその場にしゃがみ込んだ。
小さな体を丸め、赤狐のぬいぐるみに顔を埋める。
「……ご主人……」
声が震える。
「……あおい……」
誰かに聞いてほしくて。
誰かに見つけてほしくて。
紅月は、もう一度だけ顔を上げた。
「……誰か……」
そして、小さな声で呟いた。
「……助けてたもれ……」
*
その頃。
あおいは、人混みの中を歩いていた。
「……紅月」
小さく名前を呼ぶ。
しかし、返事はない。
あおいは周囲を注意深く見回した。
赤い髪。
小さな体。
あの無邪気な笑顔。
きっと、どこかで不安になっているはずだ。
「……まったく」
あおいは小さく息を吐いた。
「手のかかる子じゃのう……」
けれど、その声音に怒りはなかった。
むしろ、心配でたまらないという気持ちが滲んでいた。
あおいは足を止める。
周囲の騒がしさの中、ふと昨日の紅月の言葉を思い出した。
『……あおいも?』
自分も大切に思ってくれるのかと、確かめるように尋ねた小さな声。
あおいは、そっと目を細めた。
「……もちろんじゃ」
誰にも聞こえないほど小さく呟く。
「わらわも、そなたが大切なのじゃよ」
そして、再び歩き始めた。
大切な小さな狐を見つけるために。
今度は、その手をしっかり握ってやるために。
あおいは人混みの向こうへと進んでいった。
――ざわざわ……。
行き交う人々の話し声。
店内に流れる明るい音楽。
子供たちの楽しそうな笑い声。
そのすべてが入り混じるショッピングモールの一角を、あおいは歩いていた。
「……紅月」
周囲を見渡しながら、小さく名前を呼ぶ。
しかし、返事はない。
先ほどまで、あれほど元気に走り回っていた小さな少女。
今頃、どこで何をしているのだろう。
また何か珍しいものを見つけて、夢中になっているだけならよい。
けれど――。
「……泣いておらねばよいが」
あおいの胸に、不安がよぎった。
紅月はまだ、人間の姿になったばかりだ。
人間の街も、店も、買い物も。
何もかもが初めての経験だった。
そして何より、あの子は和真から離れることを極端に嫌がる。
そんな紅月が、知らない場所で一人になってしまったら。
「……早う見つけてやらねばのう」
あおいは足を速めた。
先ほど紅月が興味を示していたのは、カプセルトイの並ぶ一角だった。
まずはそこへ向かおう。
そう考え、通路を曲がったときだった。
「……む?」
あおいは足を止めた。
視線の先。
カプセルトイが並ぶ場所から、少し離れた壁際。
そこに、小さな赤いものが見えた。
赤い髪。
小さな背中。
そして、胸に抱えた赤狐のぬいぐるみ。
「……紅月!」
あおいは思わず声を上げた。
*
「……ぐすっ……」
紅月は、壁際にしゃがみ込んでいた。
腕の中には、和真に買ってもらった赤狐のぬいぐるみ。
それを、ぎゅっと胸に押しつけている。
「……ご主人……」
ぽろぽろと涙がこぼれた。
「……どこじゃ……」
何度周囲を見渡しても、和真の姿は見つからない。
大好きなあおいも、みゆも、フェンリスもいない。
先ほどまで楽しかった買い物。
美味しかったハンバーガー。
可愛い服。
光る靴。
すべてが夢のように楽しかった。
けれど今は、その楽しささえ遠く感じてしまう。
「……わっち……」
紅月は小さく鼻をすすった。
「……ちゃんと……手を握っておれば……」
和真の手から離れてしまった。
あれほど、一緒にいると言ったのに。
自分から離してしまった。
「……ぐすっ……」
再び涙が溢れた。
そのとき。
「……紅月?」
聞き覚えのある声がした。
「…………」
紅月は、ぴくりと肩を震わせた。
ゆっくりと顔を上げる。
涙でぼやけた視界。
その向こうに、一人の少女が立っていた。
長い髪。
優しそうな表情。
そして、自分を見つめる心配そうな瞳。
「……あ……」
紅月は目を見開いた。
「……あおい……?」
そこにいたのは、探し続けていたあおいだった。
「……見つけたぞ、紅月」
あおいは安心したように微笑んだ。
その瞬間。
「……っ!」
紅月の顔がくしゃりと歪んだ。
「……あおい……!」
ぬいぐるみを抱えたまま立ち上がる。
そして――。
「あおいいいいいっ!」
勢いよく駆け出した。
「おっと!」
あおいは両腕を広げ、その小さな体をしっかり受け止めた。
ぎゅうううっ!
「……あおいっ! あおいぃっ!」
「うむ。わらわじゃよ」
「……ひっく……ぐすっ……!」
紅月はあおいの胸に顔を埋めた。
「……怖かったのじゃ……!」
「……そうか」
「……ご主人が……いなくなって……!」
「うむ」
「……探しても……探しても……!」
言葉が涙に途切れる。
あおいは何も言わず、その背中を優しく撫で続けた。
「……一人に……なってしもうた……!」
「……怖かったのう」
「……うわああああん!」
紅月はとうとう声を上げて泣き出した。
あおいの服をぎゅっと握りしめ、離れようとしない。
周囲の買い物客が、何事かと振り返る。
しかし、あおいは気にしなかった。
紅月の背中を何度も撫で、落ち着くまで抱きしめ続ける。
「大丈夫じゃ」
「……ぐすっ……」
「もう一人ではないぞ」
「……あおい……」
「わらわがここにおる」
あおいは紅月の頭をそっと撫でた。
「よう頑張ったのう、紅月」
「……わっち……」
「うむ?」
「……悪い子じゃった……?」
その言葉に、あおいは少し驚いた。
紅月は涙で濡れた顔を上げる。
「……ご主人の手を……離してしもうた……」
「…………」
「……約束……守れなんだ……」
再び目に涙が溜まる。
「……ご主人……怒っておるかのう……?」
あおいは小さく息を吐いた。
そして、紅月の頬に手を添える。
「紅月」
「……む……」
「和真は、そなたを心配しておるのじゃ」
「……心配?」
「うむ。今も必死に探しておる」
「……ご主人が……?」
「そうじゃ」
あおいは優しく微笑んだ。
「怒るよりも、そなたが無事であることを喜ぶじゃろう」
「……ほんとかえ?」
「うむ。間違いない」
紅月はしばらくあおいを見つめていた。
そして、再び胸に顔を埋める。
「……あおい……」
「何じゃ?」
「……もう……離れとうない……」
あおいの表情が柔らかくなった。
「ふふっ。そうかえ」
「……ご主人も……あおいも……」
「うむ」
「……ずっと……一緒がよいのじゃ……」
あおいは小さな背中を抱きしめた。
「わらわも、そなたと一緒にいたいぞ」
「……ほんと……?」
「もちろんじゃ。ただし、離れねばならぬときもある。そのときは、ちゃんと戻ってくるから安心するのじゃ」
「……うむ……」
「それにな、紅月」
「……なんじゃ?」
「また迷子になってしまったら、むやみに歩き回らず、近くのお店の人に助けを求めるのじゃよ」
「……お店の人……?」
「うむ。困ったときに助けてくれる者もおるのじゃ」
紅月は少し考え込んだ。
「……知らぬ人でも……?」
「誰でもよいわけではないぞ。お店で働いておる人に声をかけるのじゃ。知らぬ人に誘われても、勝手について行ってはならぬ」
「……ふむ」
「そして、わらわたちが迎えに来るまで、安全な場所で待つのじゃよ」
「……わかったのじゃ」
紅月は小さく頷いた。
あおいは優しく微笑む。
「よい子じゃ」
そして、紅月の涙を指先でそっと拭った。
「さて。和真にも知らせてやらねばのう」
*
その頃、和真は必死に紅月を探していた。
「……紅月!」
人混みの中を歩きながら、何度も名前を呼ぶ。
けれど返事はない。
「……くそっ」
思わず拳を握りしめた。
自分が目を離さなければ。
ちゃんと手を握っていれば。
こんなことにはならなかったはずだ。
「……どこにいるんだよ……」
焦る気持ちを抑え、周囲を見回す。
そのとき。
――ブルルルッ。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
「……っ!」
慌てて取り出す。
画面には、あおいの名前。
「もしもし! あおい!?」
『和真。紅月を見つけたぞ』
「……っ!」
和真は思わず足を止めた。
「……本当か!?」
『うむ。怪我もしておらぬ。安心するのじゃ』
「……よかった……!」
全身から力が抜けそうになった。
和真は壁際へ寄り、大きく息を吐いた。
「……本当によかった……」
『ふふっ。ずいぶん心配しておったようじゃのう』
「当たり前だろ……!」
声が少し震えた。
「……紅月は?」
『少し泣いてしまったが、今は落ち着いておる』
「……そっか」
『カプセルトイの並んでおるところじゃ。赤い狐の人形がある場所の近くじゃよ』
「分かった! すぐ行く!」
『慌てずに来るのじゃぞ』
「ああ!」
通話を切る。
和真はすぐにみゆとフェンリスへ連絡した。
二人も紅月が見つかったと聞き、心底安心した様子だった。
そして、和真はあおいのいる場所へ向かった。
*
「……あおい」
「何じゃ?」
「……ご主人は……?」
「もうすぐ来るぞ」
「……ほんとかえ?」
「うむ」
紅月はあおいに抱きついたまま、何度も周囲を見回していた。
買ってもらった赤狐のぬいぐるみは、相変わらず大切そうに抱えている。
その目はまだ少し赤かった。
「……ご主人……」
小さく呟いた、そのとき。
「……紅月!」
聞き慣れた声が響いた。
「……っ!」
紅月が勢いよく顔を上げる。
人混みの向こう。
こちらへ向かってくる、一人の青年。
「……ご……」
紅月の唇が震えた。
「……ご主人……?」
青年は、間違いなく和真だった。
「……ご主人っ!」
紅月はあおいの腕から離れようとした。
しかし、すぐに立ち止まる。
「……っ!」
先ほど、あおいに教わったことを思い出したのだ。
勝手に走ってはいけない。
離れてはいけない。
紅月はあおいの服をぎゅっと握った。
「……あおい……!」
「ふふっ。よい子じゃ」
あおいは微笑んだ。
「和真が来てくれる。ここで待つのじゃ」
「……うむっ!」
紅月は大きく頷いた。
そして、和真が目の前まで来た瞬間――。
「ごしゅじいいいいん!」
今度こそ勢いよく飛びついた。
「うわっ!?」
和真は慌てて受け止めた。
ぎゅうううっ!
「ご主人! ご主人っ!」
「紅月……!」
和真はその小さな体を強く抱きしめた。
「……よかった……」
声が震える。
「本当によかった……!」
紅月は和真の首に両腕を回した。
「……ご主人……!」
「ごめんな。ちゃんと手を握ってなくて……」
「……違うのじゃ……!」
紅月は首を横に振った。
「わっちが……勝手に……!」
「紅月……」
「……ご主人の手を……離してしもうた……!」
ぽろぽろと涙がこぼれる。
「……ごめんなさいなのじゃ……!」
その言葉に、和真は胸が締めつけられた。
昨日まで狐だった小さな少女。
まだ何も知らない世界で、一人になってしまったのだ。
どれほど怖かったことだろう。
和真は紅月の頭を優しく撫でた。
「……大丈夫だよ」
「……ぐすっ……」
「もう見つかったんだから」
「……ご主人……怒っておらぬか……?」
「怒ってないよ」
「……ほんと……?」
「ああ。でも、すごく心配した」
紅月は小さく肩を震わせた。
「……ごめんなさい……」
「うん。次から気をつけような」
和真は紅月の顔を覗き込んだ。
「紅月。俺も気をつける。だから、お前も一つ約束してくれるか?」
「……なんじゃ……?」
「知らない場所では、勝手に一人で行かないこと。何か見つけたら、ちゃんと俺たちに教えてくれ」
「……うむ……」
「約束できる?」
紅月は何度も頷いた。
「……できるのじゃ……!」
「よし」
和真は優しく微笑んだ。
「それなら、もう大丈夫だ」
そう言って、もう一度抱きしめる。
すると紅月も、ぎゅっと抱きつき返した。
「……ご主人……」
「ん?」
「……わっち……」
紅月は顔を上げた。
「……もう……一人はいやじゃ……」
「……うん」
「……ご主人と……あおいと……一緒がよい……」
和真はあおいへ視線を向けた。
あおいは穏やかに微笑んでいる。
「……そっか」
和真も笑った。
「じゃあ、三人で一緒にいようか」
「……っ!」
紅月の顔がぱっと明るくなった。
「……ほんとかえ!?」
「ああ」
「……あおいも!?」
あおいが優しく頷く。
「もちろんじゃ」
その瞬間。
「……えへへっ!」
紅月は涙を浮かべたまま笑った。
*
「紅月ー!」
しばらくして、フェンリスとみゆも合流した。
「……フェンリス! みゆ!」
紅月が顔を上げる。
フェンリスは駆け寄ると、紅月の頭を優しく撫でた。
「よかった……本当によかった……!」
「……心配かけたのじゃ……」
「ううん。でも、もう勝手にいなくなっちゃ駄目だよ?」
「……うむ」
紅月は素直に頷いた。
その隣で、みゆが両手を腰に当てる。
「もー! 紅月!」
「……む?」
「すっごく心配したんだからね!」
「……ごめんなさいなのじゃ……」
紅月がしゅんと肩を落とす。
すると、みゆは少し困ったように笑った。
「……もう」
そして、紅月の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「見つかってよかったよ」
「……みゆ……」
「でも、次からはちゃんと手を繋いでね?」
「うむ!」
紅月は元気よく頷いた。
みゆも安心したように微笑む。
「よし! じゃあ、仲直りのぎゅー!」
「……ぎゅー?」
「そう!」
みゆが両腕を広げる。
紅月は少し考えた。
そして、和真の腕から身を乗り出す。
「……ぎゅーなのじゃ!」
みゆに抱きついた。
「わっ!」
みゆは嬉しそうに笑った。
「えへへっ。紅月、可愛い!」
「くふふっ!」
ようやく、いつもの無邪気な笑顔が戻ってきた。
その様子を見て、和真は心から安堵した。
*
「……さて」
和真は買い物袋を持ち直した。
「そろそろ帰ろうか」
「そうだね」
フェンリスが頷く。
みゆも珍しく反対しなかった。
「うん。今日はもう十分楽しんだしね」
「……む?」
紅月が顔を上げた。
「……帰るのかえ?」
「ああ。みんな待ってるからな」
「……ふむ」
紅月は少し考えた。
そして、自分の腕に抱えている赤狐のぬいぐるみを見つめた。
「……ご主人」
「ん?」
「……わっち、もう一つ欲しいものがあるのじゃ」
「……え?」
和真は少し驚いた。
「何かあった?」
「……うむ」
紅月は、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
そして、あおいを見上げる。
「……あおい」
「何じゃ?」
「……手を繋いでたもれ」
「……む?」
あおいが目を瞬かせる。
紅月は少し照れくさそうに笑った。
「……わっち、ご主人とあおいの手を繋ぎたいのじゃ」
その言葉に、あおいの表情が柔らかくなった。
「……ふふっ」
あおいはそっと手を差し出す。
「よいぞ」
「……えへへっ!」
紅月は和真の腕から下りた。
そして。
右手で和真の手を握り。
左手であおいの手を握った。
「……これじゃ!」
紅月は満足そうに笑った。
「……これなら、もう迷子にならぬ!」
和真は思わず微笑んだ。
「ああ。そうだね」
「ふふっ。よい考えじゃ」
あおいも笑った。
すると、みゆが横から顔を覗かせる。
「えー? 僕の手は?」
「……む?」
紅月が首を傾げる。
「……手が足りぬのじゃ」
「あはははっ! そっかぁ!」
みゆは楽しそうに笑った。
フェンリスもくすくすと笑っている。
「じゃあ、僕たちは後ろから見守ってるね」
「うむ!」
紅月は元気よく頷いた。
そして、和真とあおいの手をぎゅっと握る。
「ご主人! あおい!」
「ん?」
「何じゃ?」
「……帰るのじゃ!」
二人は顔を見合わせた。
そして、同時に微笑んだ。
「うん。帰ろうか」
「うむ。皆の待つ家へ帰るのじゃ」
*
帰りの車内。
行きとは打って変わって、紅月は静かだった。
後部座席であおいの隣に座り、赤狐のぬいぐるみを抱えている。
「……紅月?」
フェンリスが声をかける。
「……む?」
「眠い?」
「……眠くないのじゃ……」
そう答えながら、大きな欠伸をする。
「ふわぁぁ……」
みゆが笑った。
「あははっ! 絶対眠いでしょ!」
「……眠くないのじゃ……」
紅月は頑張って目を開けていた。
しかし、数分後。
こてん。
あおいの肩に頭が乗った。
「……むにゃ……」
あおいがそっと顔を向ける。
「……ふふっ」
紅月は、すっかり眠っていた。
その小さな手は、あおいの服の裾を握っている。
まるで、離れないように。
「……和真」
「ん?」
「紅月、眠ってしもうたぞ」
「そっか」
和真は信号待ちの間に、バックミラー越しに後部座席を見た。
あおいに寄りかかって眠る紅月。
その腕には、大切そうに赤狐のぬいぐるみが抱かれている。
「……今日は疲れただろうな」
「うむ。初めてのことばかりじゃったからのう」
「……そうだね」
和真は少しだけ表情を曇らせた。
「……でも、怖い思いもさせちゃったな」
あおいは静かに首を振る。
「和真」
「ん?」
「確かに、迷子になったのは大変なことじゃった」
「……うん」
「じゃが、それもまた紅月にとって大切な経験になったのではないかのう」
「……大切な経験?」
「うむ」
あおいは眠る紅月の髪を優しく撫でた。
「紅月は今日、たくさんのものを知った。服も、食べ物も、乗り物も……そして、離れてしまう怖さもじゃ」
「……そうだな」
「それに、もう一つ知ったことがある」
「……何?」
あおいは微笑んだ。
「困ったとき、迎えに来てくれる者がおるということじゃ」
その言葉に、和真は少し目を見開いた。
「……あおい」
「ふふっ。あの子は、まだ覚えることが山ほどある。わらわたちが少しずつ教えてやればよいのじゃ」
「……そうだな」
和真は微笑んだ。
「ありがとう、あおい」
「何じゃ、急に」
「紅月を見つけてくれて。本当に助かった」
あおいは少し照れくさそうに笑った。
「……礼などいらぬ」
そして、眠る紅月を見つめる。
「わらわにとっても、大切な子じゃからな」
*
夕方。
空色唐辛子荘へ帰宅すると、玄関ではユエたちが待っていた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
和真が答える。
その隣には、紅月。
そして、紅月の両手は――。
右が和真。
左があおい。
二人の手をしっかり握っていた。
「……あら?」
ユエが少し驚いた顔をする。
「紅月、ずいぶん仲良しになったのね」
「うむ!」
紅月は元気よく頷いた。
「ご主人とあおいは、わっちの大切な人なのじゃ!」
「……ふふっ。そう」
ユエは優しく微笑んだ。
すると、奥からナディアが顔を出した。
「おう、帰ったか!」
「ただいま、ナディア」
「ずいぶん遅かったな。買い物はどうだった?」
その質問に、和真は苦笑した。
「……色々あったよ」
「ほう?」
ナディアが興味深そうに眉を上げる。
その後ろから酒菜も現れた。
「がははっ! 何だ何だ、面白い話でもあるのか?」
「面白いっていうか……」
和真が言い淀む。
すると、みゆがにやりと笑った。
「実はねー、紅月が迷子になっちゃってさ!」
「……何?」
ナディアの表情が変わった。
ユエも目を見開く。
「……迷子?」
「うん。でも、あおいが見つけてくれたんだ」
フェンリスが補足する。
「怪我もしてないし、もう大丈夫だよ」
その言葉に、ユエはほっと息を吐いた。
「……そう。無事でよかったわ」
そして、紅月の前にしゃがむ。
「紅月」
「……む?」
「怖かったでしょう?」
紅月は少しだけ俯いた。
「……うむ」
「でも、ちゃんと帰ってこられたのね」
「……うむ!」
ユエは優しく微笑んだ。
「よかったわ」
そして、そっと紅月の頭を撫でる。
「ただし、もう勝手に離れては駄目よ?」
「……わかったのじゃ」
「約束できる?」
「うむ!」
紅月は元気よく頷いた。
その様子を見て、ユエはようやく安心したようだった。
ところが。
「……それと、和真」
「……はい?」
ユエの視線が和真へ向けられる。
「あなたも、もう少し気をつけなさい」
「……はい」
「紅月はまだ、人間の生活を覚え始めたばかりなのよ?」
「……うん」
「目を離してはいけないことくらい、分かるでしょう?」
「……本当にその通りです」
和真は素直に頭を下げた。
その様子を見たナディアが、口元を緩める。
「ははっ! お前、完全に父親の説教を受けているみたいだな!」
「笑い事じゃないって……」
すると酒菜も豪快に笑った。
「がははっ! まったく、子育ては大変だな!」
「だから子供じゃないって……!」
和真が反論しかけたところで。
「ご主人!」
「ん?」
紅月が和真の服を引っ張った。
「……わっちは、ご主人の子供なのかえ?」
「……え?」
和真が固まった。
ナディアが吹き出す。
「ぶはっ!」
酒菜は腹を抱えて笑い始めた。
「がははははっ!」
みゆも笑いをこらえきれない。
「あはははっ! 紅月、そこ聞いちゃう!?」
しかし、紅月は真剣だった。
「……違うのかえ?」
「いや、その……」
和真が困っていると、あおいが優しく口を開いた。
「紅月。和真はそなたの父親ではないぞ」
「……む?」
「じゃが、そなたを大切に思っておるのは確かじゃ」
「……ほう」
紅月は少し考え込んだ。
そして、和真を見上げる。
「……ならば!」
「ん?」
「ご主人は、ご主人じゃ!」
「……まあ、そうだね」
「それでよいのじゃ!」
紅月は満足そうに笑った。
そのあまりに単純な結論に、和真も思わず笑ってしまった。
*
夕食前。
リビングでは、紅月による買い物報告会が始まっていた。
「見よ!」
紅月は買ってもらった光る靴を履き、得意そうに胸を張った。
「この靴、光るのじゃ!」
とんっ!
ぴかっ!
「おお!」
酒菜が目を輝かせる。
「すげえじゃねえか!」
「そうじゃろ!」
とんとんっ!
ぴかぴかっ!
「くふふふ!」
紅月は大喜びだった。
その横では、ナディアが呆れたように笑っている。
「お前たち、そんなもん買ってきたのか?」
「紅月がすごく気に入っちゃってさ」
和真が苦笑する。
「はっ! まあ、本人が喜んでいるならいいんじゃないか?」
「そうだね」
すると紅月は、今度は赤狐のぬいぐるみを持ち上げた。
「そして、これじゃ!」
リディアが興味深そうに覗き込む。
「まあ、可愛らしいですね」
「わっちなのじゃ!」
「……紅月なのですか?」
「うむ!」
紅月はぬいぐるみを自分の顔の横に並べた。
「似ておるじゃろ!」
リディアは微笑んだ。
「ええ。よく似ていますね」
「えへへっ!」
紅月は嬉しそうに笑った。
続いて、買ってもらった服を次々に広げ始める。
「これもじゃ!」
「おお、可愛いですね」
「こっちもあるのじゃ!」
「ずいぶんたくさん買ったんですね」
「うむ! ご主人が買ってくれたのじゃ!」
紅月は得意そうに胸を張った。
その様子を見ていたユエが、小さく笑った。
「……和真、ずいぶん奮発したのね」
「いや、必要なものばかりだよ」
「本当に?」
「……まあ、ちょっと余分なものもあるけど」
和真は苦笑した。
すると紅月が勢いよく振り返る。
「ご主人!」
「ん?」
「今日のお買い物、すごく楽しかったのじゃ!」
「……そっか」
和真は微笑んだ。
「それならよかったよ」
その言葉に、紅月は満面の笑みを浮かべた。
そして――。
「……じゃが」
「ん?」
紅月は少しだけ表情を曇らせた。
「……迷子は、もう嫌なのじゃ」
「……うん」
和真は紅月の頭を優しく撫でた。
「次は気をつけような」
「……うむ!」
紅月は大きく頷いた。
そして、今度はあおいへ駆け寄る。
「あおい!」
「何じゃ?」
「抱っこじゃ!」
「……む?」
あおいが少し驚いた顔をした。
今まで、紅月が自分から抱っこを求める相手は、ほとんど和真だけだった。
しかし今は違う。
「……わらわでよいのかえ?」
「うむ!」
紅月は元気よく頷いた。
「わっちは、あおいも大好きなのじゃ!」
あおいの表情が、ぱっと明るくなった。
「……ふふっ」
そして、紅月をそっと抱き上げる。
「仕方のない子じゃのう」
「えへへっ!」
紅月は嬉しそうにあおいの首へ腕を回した。
その姿を見た和真が、思わず笑う。
「……あおいも大変になりそうだな」
「ふふっ。そうじゃのう」
あおいは紅月の頭を撫でた。
「じゃが、悪い気はせぬぞ」
その言葉に、紅月はさらに強く抱きついた。
「くふふっ! あおい、あったかいのじゃ!」
「そうかえ?」
「うむ!」
嬉しそうに頬をすり寄せる紅月。
その様子を見ていたみゆが、にやりと笑った。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「今度はあおいも捕まっちゃったね」
「……そうだな」
フェンリスもくすくすと笑っている。
「ふふっ。でも、二人とも幸せそうだよ」
和真はあおいと紅月を見つめた。
確かに、その通りだった。
*
そして、その日の夜。
「ご主人!」
「……はい」
「あおい!」
「何じゃ?」
「二人とも、こっちに来るのじゃ!」
和真の部屋。
紅月は、布団の真ん中にちょこんと座っていた。
腕には、今日買ってもらった赤狐のぬいぐるみ。
そして、満面の笑みを浮かべている。
「……紅月」
「なんじゃ?」
「今日はどこで寝るつもり?」
「ここじゃ!」
即答だった。
「……やっぱり」
和真が苦笑する。
すると、紅月は布団をぽんぽんと叩いた。
「ご主人はこっち!」
「……うん」
「あおいはこっちじゃ!」
「……ふむ」
あおいが楽しそうに笑う。
「今日は紅月が真ん中なのじゃな?」
「うむ!」
紅月は得意そうに頷いた。
「わっちが二人を守るのじゃ!」
「……守る?」
和真が目を瞬かせる。
「そうじゃ!」
紅月は胸を張った。
「ご主人も、あおいも、もう迷子にならぬようにするのじゃ!」
「……いや、迷子になったのはお前だろ?」
「むむっ!?」
紅月は一瞬固まった。
そして、少し考え込む。
「……そうじゃった」
和真が思わず吹き出した。
「あははっ!」
あおいも口元を押さえて笑っている。
「ふふっ。まったく、面白い子じゃのう」
「むぅ……」
紅月は頬を膨らませた。
しかし、すぐに笑顔になる。
「まあよい!」
そして、両手を広げた。
「早く寝るのじゃ!」
「はいはい」
和真は紅月の右側へ。
あおいは左側へ。
三人は並んで布団に入った。
すると紅月は、すぐに和真の腕へ抱きついた。
「ご主人!」
「ん?」
「……ぎゅーじゃ!」
「はいはい」
和真が優しく抱きしめる。
紅月は嬉しそうに笑った。
しかし、次の瞬間。
「……あおい!」
「何じゃ?」
「……こっちもじゃ!」
「……ふふっ」
あおいも紅月へ腕を伸ばした。
すると紅月は、二人の間で幸せそうに目を細めた。
「……えへへっ」
右には和真。
左にはあおい。
大切な赤狐のぬいぐるみも、胸元に抱えている。
「……あったかいのじゃ……」
紅月は小さく呟いた。
和真が優しく頭を撫でる。
「……今日は楽しかったか?」
「……うむ」
「そっか」
「……すごく……楽しかったのじゃ……」
紅月は眠たそうに瞬きをした。
「……服も……靴も……美味しいものも……いっぱいあったのじゃ……」
「そうだね」
「……じゃが……」
「ん?」
紅月は、和真の服をぎゅっと握った。
「……一番嬉しかったのは……」
「……何?」
紅月は少しだけ目を開けた。
そして、和真とあおいを交互に見つめる。
「……ご主人と……あおいが……」
その声は、次第に小さくなっていった。
「……わっちを……見つけてくれたことじゃ……」
和真は少し驚いた。
あおいも静かに目を細める。
「……紅月」
「……むにゃ……」
紅月は、あおいの手をぎゅっと握った。
「……あおい……」
「何じゃ?」
「……ありがとう……なのじゃ……」
その言葉に、あおいは優しく微笑んだ。
「……どういたしまして、紅月」
そして、小さな手を握り返す。
「……また明日も、一緒じゃよ」
「……うむ……」
紅月は幸せそうに微笑んだ。
そして、ゆっくりと目を閉じる。
やがて、小さな寝息が聞こえ始めた。
*
「……寝たね」
和真が小さく呟いた。
「うむ」
あおいも静かに頷く。
二人の間では、紅月がすっかり眠っていた。
右手は和真の服を握り。
左手はあおいの手を握っている。
その寝顔は、とても穏やかだった。
「……なあ、あおい」
「何じゃ?」
「今日は本当にありがとう」
「……またその話かえ?」
「ああ」
和真は小さく笑った。
「だって、本当に助かったからさ」
あおいは少しだけ頬を染めた。
「……まったく」
そして、紅月の寝顔を見つめる。
「わらわも、あの子が見つかって安心したのじゃ」
「……うん」
「それに……」
あおいは、紅月の手をそっと撫でた。
「紅月がわらわにも甘えてくれるようになったのは、少し嬉しいのう」
「……そうだね」
和真も微笑んだ。
「昨日までは俺にばっかりくっついてたもんな」
「うむ」
「でも、今日からはあおいにもべったりだ」
「ふふっ。そうじゃな」
あおいは少し楽しそうに笑った。
「……じゃが、和真」
「ん?」
「一つ問題があるぞ」
「……問題?」
あおいは紅月を見下ろした。
そして、くすりと笑う。
「……これから、わらわも自由に動けなくなるやもしれぬ」
「……あ」
和真は、ようやく気づいた。
紅月は現在、自分とあおいの両方をしっかり捕まえている。
しかも、眠っているのに手を離そうとしない。
「……確かに」
「ふふっ」
「……大変だな、これ」
「そうじゃのう」
二人は顔を見合わせた。
そして、小さく笑い合った。
そのとき。
「……むにゃ……」
紅月が寝返りを打った。
和真の服を握っていた手が少し緩む。
しかし、次の瞬間。
ぎゅうっ!
「……うわっ!?」
和真の腕を抱きしめ直した。
さらに。
ぎゅうっ!
「……おっと」
あおいの手まで引き寄せる。
まるで、二人を絶対に離さないと言わんばかりだった。
「……ご主人……」
「……ん?」
「……あおい……」
紅月は寝言を呟いた。
「……大好き……なのじゃ……」
その言葉に、二人は思わず顔を見合わせた。
そして。
「……おやすみ、紅月」
「……よい夢を見るのじゃぞ」
二人は優しく微笑んだ。
*
こうして。
紅月の初めてのお買い物は、無事に終わった。
人間の生活。
初めての車。
初めてのショッピングモール。
初めての洋服。
初めての靴。
初めてのハンバーガー。
そして――。
初めての迷子。
楽しいことも。
怖いことも。
嬉しいことも。
紅月にとっては、すべてが初めての経験だった。
けれど、その一日の中で、紅月は大切なことを一つ覚えた。
自分には、帰る場所がある。
大好きなご主人がいる。
そして――。
もう一人。
自分を見つけ、優しく抱きしめてくれる、大切な人がいる。
それからというもの。
空色唐辛子荘では、新たな光景が日常になった。
「ご主人! 抱っこじゃ!」
「はいはい」
「あおい! わっちも一緒に行くのじゃ!」
「ふふっ。よいぞ」
「ご主人! あおい! どこにおるのじゃ!」
「ここだよ!」
「わらわもおるぞ!」
「やったのじゃあああ!」
和真の隣には、いつも紅月。
そして、あおいの隣にも紅月。
どちらか一人が部屋を離れようとすれば、すぐに後を追いかける。
時には和真に抱きつき。
時にはあおいに抱っこをせがみ。
そして、二人が一緒にいれば、その真ん中へ飛び込んでいく。
そんな紅月の姿に、住人たちは毎日のように笑わされることになった。
もちろん、問題がすべて解決したわけではない。
食事の作法。
着替え。
お風呂。
トイレ。
人との接し方。
そして、まだ自由に使えない変化の力。
紅月には、覚えなければならないことが山ほどあった。
けれど、それを教える人たちも、たくさんいる。
少しずつ。
一つずつ。
失敗して、叱られて、褒められて。
そうやって、紅月は人間の暮らしを覚えていくのだろう。
そして今日もまた――。
「ご主人!」
「……今度は何?」
「わっち、お菓子が食べたいのじゃ!」
「さっき食べただろ!?」
「別腹じゃ!」
「だからそれはみゆが教えた言葉だろ!」
「くふふふっ!」
リビングに、楽しそうな笑い声が響く。
その隣で、あおいも小さく笑った。
「ふふっ。まったく、賑やかな子じゃのう」
すると紅月が、ぱっと振り返る。
「あおい!」
「何じゃ?」
「……大好きなのじゃ!」
突然の言葉に、あおいが目を丸くした。
しかし、すぐに優しく微笑む。
「……わらわもじゃよ、紅月」
「えへへっ!」
紅月は嬉しそうに笑い、あおいへ飛びついた。
そして、和真へ手を伸ばす。
「ご主人もじゃ!」
「はいはい」
和真も笑いながら、その小さな手を握った。
――こうして、空色唐辛子荘に。
また一つ、新しい家族の形が生まれたのだった




