第六十七話 小さな狐の大きな願い
――翌朝。
ちゅん、ちゅん。
窓の外から聞こえてくる小鳥のさえずり。
冬の柔らかな朝日が、カーテンの隙間から寝室へと差し込んでいた。
「……んぅ……」
小さな声を漏らし、あおいがゆっくりと目を覚ました。
まだ眠気が残っている。
けれど、不思議と身体が温かい。
何より、すぐ近くから聞こえてくる穏やかな寝息が、とても心地よかった。
「……和真……?」
薄く目を開けると、そこには大好きな和真の寝顔があった。
和真はまだ眠っている。
自分を抱き寄せるように回された腕。
触れ合う肌の温もり。
一枚の布団に包まれ、二人はぴったりと寄り添っていた。
「…………」
あおいはしばらく、その寝顔をじっと見つめていた。
そして、ふと昨夜の出来事を思い出す。
「……っ!」
途端に、頬が真っ赤になった。
昨日の夜。
和真と二人きりで過ごした時間。
自分の気持ちを伝え、和真もそれに応えてくれた。
そして、二人は初めて互いのすべてを受け入れ、愛し合った。
思い出すだけで、胸の奥がくすぐったくなる。
「……ふふっ」
自然と笑みがこぼれた。
嬉しい。
ただただ、嬉しかった。
今までだって、和真は優しかった。
甘えれば頭を撫でてくれたし、膝の上に乗せてくれることもあった。
一緒に眠ることだって珍しくない。
けれど、今朝は何もかもが違って感じられた。
同じ布団。
同じ温もり。
そして、すぐ目の前にいる大好きな人。
昨夜の出来事が夢ではなかったのだと、改めて実感する。
「……和真……」
あおいはそっと顔を近づけた。
そして、甘えるように和真の胸元へ頭を擦りつける。
すりすり。
すりすり。
「……大好きじゃ……」
小さく呟き、もう一度。
銀白色の髪が和真の胸元をくすぐり、九本の尻尾が布団の中で嬉しそうに揺れる。
すると――。
「……ん……?」
頭の上から、眠たそうな声が聞こえた。
「……あおい?」
「……あっ」
顔を上げると、和真がゆっくりと目を開けていた。
「……おはよう」
「……お、おはようなのじゃ」
あおいは少し恥ずかしそうに答えた。
しかし、和真の顔を見ると、すぐに嬉しそうな笑顔へと変わる。
「……起こしてしまったかの?」
「いや、大丈夫。ちょうど目が覚めたところだよ」
「そうかえ……」
ほっとしたあおいは、もう一度和真の胸へ頬を寄せた。
「……あおい?」
「……もう少しだけ、こうしていたいのじゃ」
和真は小さく微笑んだ。
「いいよ」
そう答えると、あおいの頭へそっと手を伸ばす。
銀白色の柔らかな髪を、ゆっくりと撫でた。
「……んっ……」
あおいは気持ちよさそうに目を細める。
狐耳がぴくりと動き、九本の尻尾が嬉しそうに揺れた。
「……ふふっ。和真に撫でられるのは、やはりよいものじゃのう」
「いつも撫でてるだろ?」
「それとこれとは別じゃ」
「そうなのか?」
「うむ。今日はいつもより、ずっと嬉しいのじゃ」
そう言って、あおいは和真を見上げた。
その青い瞳には、隠しきれないほどの幸福が浮かんでいた。
「……和真」
「ん?」
「……昨夜のこと、覚えておるかえ?」
少し恥ずかしそうに尋ねるあおい。
和真も一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに優しく微笑んだ。
「忘れるわけないだろ」
「……そうか」
あおいの頬が、また赤くなる。
「……わらわもじゃ」
小さく呟き、和真の胸へ手を添えた。
「昨夜のことは、きっと一生忘れぬ」
和真は何も言わず、あおいの頭を撫で続けた。
その優しさが、あおいには何より嬉しかった。
しばらくして、あおいはゆっくりと顔を上げる。
「……のう、和真」
「どうした?」
「……口づけしても、よいかえ?」
和真は少し驚いた顔をした。
しかし、すぐに笑みを浮かべる。
「ああ、いいよ」
「……ふふっ」
あおいは嬉しそうに目を細めた。
そして、そっと和真へ顔を近づける。
二人の唇が重なった。
触れるだけの短いものではなかった。
あおいは和真の首元へそっと腕を回し、離れたくないという想いを込めるように、長く口づけを交わした。
和真も優しく抱きしめ返す。
静かな寝室。
聞こえてくるのは、窓の外の小鳥の声だけ。
やがて、あおいがゆっくりと顔を離した。
「……和真」
「……うん」
「……愛しておるぞ」
小さな声だった。
けれど、その言葉には迷いがなかった。
「……わらわは、和真を心から愛しておる」
和真はあおいを見つめた。
そして、優しく微笑む。
「……俺も愛してるよ、あおい」
「…………っ!」
あおいの顔が、一瞬で真っ赤になった。
狐耳がぴんと立ち、九本の尻尾が嬉しそうに揺れる。
「……ふ、ふふっ……」
「どうした?」
「……いや、何でもないのじゃ」
そう言いながらも、あおいは笑顔を隠せなかった。
「……ただ、嬉しくてのう……」
和真はそんなあおいを見て、小さく笑った。
「俺も嬉しいよ」
「……本当かえ?」
「ああ」
「……ふふっ」
あおいはもう一度和真へ抱きついた。
「……幸せじゃ……」
それから二人は、しばらく何も話さなかった。
ただ互いの温もりを感じながら、ゆっくりと朝の時間を過ごしていた。
◇◇◇
「……そういえば」
ふと、和真が何かに気づいた。
「……どうしたのじゃ?」
「あれ……」
和真が視線を向けた先。
寝室の隅に、一匹の赤狐が丸くなっていた。
紅月である。
大きな尻尾を身体に巻きつけ、すうすうと気持ちよさそうに眠っている。
「……キツネちゃん?」
和真は思わず首を傾げた。
「……いつの間に?」
その声につられ、あおいも顔を向ける。
「おや、キツネちゃんではないか」
「いつの間に入ってきたんだろう?」
「わらわも気づかなんだ」
二人は顔を見合わせた。
紅月は相変わらず眠っている。
耳が時折ぴくりと動くものの、目を覚ます気配はなかった。
「……よく寝てるな」
「ふふっ。可愛らしい寝顔じゃのう」
「ああ」
和真は小さく笑った。
紅月はここ最近、和真の部屋を自分の寝床にしていた。
普段は和真の布団に潜り込んでくることも多い。
けれど、昨夜は二人が眠りにつくまで、姿を見かけなかった。
「……まあ、いいか」
「そうじゃの」
あおいは頷くと、再び和真へ身体を寄せた。
「……のう、和真」
「ん?」
「……もう少し、眠らぬか?」
「まだ眠いのか?」
「……眠いというより、こうしていたいのじゃ」
あおいは和真を見上げ、少し甘えるように微笑んだ。
「……駄目かえ?」
そんな顔でお願いされては、和真も断れなかった。
「……分かった。もう少しだけな」
「……うむ!」
嬉しそうに返事をすると、あおいは和真の胸へ顔を埋めた。
和真も優しく抱き寄せる。
九本の尻尾が、ふわりと二人を包み込んだ。
「……おやすみ、和真」
「おやすみ、あおい」
そして、二人は再び眠りについた。
その少し後。
「……くぅ?」
部屋の隅で、紅月が片目を開けた。
眠たそうに顔を上げ、布団の方へ視線を向ける。
そこには、ぴったりと寄り添って眠っている二人の姿があった。
「…………」
紅月はじっと二人を見つめた。
和真の腕の中で、幸せそうに眠るあおい。
大好きなご主人に抱きしめられ、嬉しそうな顔をしている。
「……くぅん……」
紅月は小さく鼻を鳴らした。
なんだか、少し羨ましい。
自分もご主人に撫でられるのは大好きだ。
抱っこされるのも嬉しい。
けれど、あおいのように抱きしめ合ったり、言葉を交わしたりすることはできない。
紅月はしばらく二人を眺めていた。
そして、ゆっくりと目を閉じる。
今はまだ、そんな自分の気持ちが何なのか、よく分かっていなかった。
◇◇◇
それから、しばらくして。
「……んんっ……」
和真がゆっくりと目を覚ました。
先ほどよりも、部屋はずいぶん明るくなっている。
「……あおい、そろそろ起きようか」
「……むぅ……」
胸元から、少し不満そうな声が返ってきた。
「……まだ、こうしていたいのじゃ……」
「もう結構寝ただろ?」
「……そうじゃが……」
あおいは顔を上げ、和真を見つめた。
「……今日も、わらわのそばにいてくれるかえ?」
和真は優しく微笑んだ。
「もちろん」
「……本当じゃな?」
「ああ。リビングでも一緒にいられるだろ?」
その言葉を聞いた途端、あおいの表情が明るくなった。
「……ふふっ。では、起きるとするかの」
そう言って、あおいは身体を起こした。
布団の中から出ようとして、ふと自分の姿を見下ろす。
「…………っ!」
昨夜、二人は服を脱いだまま、抱き合って眠っていた。
あおいは慌てて布団を胸元まで引き上げた。
「……ど、どうした?」
和真が驚いて尋ねる。
「……な、何でもないのじゃ!」
耳まで真っ赤になったあおい。
和真も事情を察したのか、少し照れくさそうに頬を掻いた。
「……とりあえず、着替えようか」
「……う、うむ……」
二人はそれぞれ身支度を整えた。
あおいは髪を直し、九本の尻尾を軽く整える。
和真も着替えを済ませ、寝癖を直した。
「……さて、行くか」
「うむ!」
和真が扉へ向かおうとすると、あおいがそっと手を伸ばした。
「……和真」
「ん?」
「……手を繋いでもよいかえ?」
「いいよ」
和真は自然に手を差し出した。
あおいは嬉しそうにその手を握る。
「……ふふっ」
「そんなに嬉しい?」
「当然じゃ」
あおいは和真を見上げた。
「大好きな者と手を繋げるのじゃ。嬉しくないはずがなかろう?」
「……そっか」
和真は照れくさそうに笑った。
あおいも満足そうに微笑む。
二人は手を繋いだまま、寝室を出た。
◇◇◇
「おはよう」
和真がリビングへ入ると、すでに朝食の準備が進んでいた。
キッチンでは酒菜が料理をしており、リディアがその手伝いをしている。
テーブルにはフェンリスとみゆ。
少し離れたソファには、ナディアが座っていた。
「あっ、和真! おはよう!」
最初に気づいたのはフェンリスだった。
「今日はずいぶんゆっくりだったね」
「ああ、ちょっと寝坊した」
「ふふっ。珍しいね」
みゆも楽しそうに笑う。
「おはよう、和真。あおいも」
「うむ。おはようなのじゃ」
あおいは嬉しそうに返事をした。
「……ん?」
そのとき、みゆが何かに気づいた。
和真とあおい。
二人の手が、しっかりと繋がれている。
それだけなら、別に珍しいことではない。
あおいは普段から和真に甘えることが多いし、手を繋ぐことだってよくある。
けれど――。
「…………」
今日のあおいは、いつも以上に幸せそうだった。
そして、和真も。
どこか照れくさそうで、それでいて嬉しそうな表情をしている。
「……あっ」
みゆは何かを察したように、小さく声を漏らした。
隣にいたフェンリスも、二人を見つめる。
「……そっか」
ぽつりと呟いた。
さらに、ソファに座っていたナディアも、ゆっくりと顔を向ける。
「……ふむ」
三人は顔を見合わせた。
そして、自然と微笑んだ。
「……よかったね、あおい」
最初に口を開いたのはフェンリスだった。
「……む?」
あおいが首を傾げる。
フェンリスは優しく笑った。
「すごく幸せそうだから」
「……ふふっ」
その言葉に、あおいは嬉しそうに目を細めた。
「うむ。今朝は、とてもよい朝じゃ」
「そっか」
フェンリスも笑顔で頷く。
みゆは頬杖をつきながら、二人を見つめていた。
「和真も、なんだか嬉しそうだね?」
「えっ?」
「ふふっ。顔に出てるよ?」
「そ、そうかな……?」
「出てる出てる」
みゆが楽しそうに笑う。
すると、ナディアも口を開いた。
「まったく。朝からずいぶん仲がよいではないか」
「……む?」
あおいがナディアを見る。
「何かおかしいかえ?」
「いや、別に悪いとは言っておらん」
ナディアは小さく笑った。
「むしろ、よいことだろう」
「……そうか」
あおいは一度和真を見上げた。
和真もあおいを見つめ返す。
二人は少し照れくさそうに笑った。
そんな姿を見て、フェンリスとみゆも優しく微笑んだ。
もちろん、二人とも和真が大好きだ。
ナディアだって同じである。
けれど、あおいが幸せそうにしていることは、三人にとっても嬉しいことだった。
「……あおい」
フェンリスが声をかける。
「ん?」
「本当によかったね」
「…………」
あおいは一瞬だけ目を丸くした。
そして、ゆっくりと微笑む。
「……うむ。ありがとうなのじゃ」
みゆも楽しそうに笑った。
「でも、和真を独り占めしすぎるのは駄目だからね?」
「……むぅ」
あおいは少し頬を膨らませた。
「それくらい、分かっておるわ」
「本当かなぁ?」
「本当じゃ!」
「あははっ!」
みゆが笑う。
すると、フェンリスも悪戯っぽく笑った。
「僕だって、和真と一緒にいたいんだからね!」
「俺様も忘れてもらっては困るぞ」
ナディアまで口を挟む。
「……まったく、おぬしらは……」
あおいは呆れたように息をついた。
しかし、その顔には笑みが浮かんでいた。
「……分かっておるのじゃ。わらわとて、おぬしらの気持ちを知らぬわけではない」
そして、三人へ向き直る。
「……これからも、仲良くしておくれ」
フェンリスはにっこり笑った。
「もちろん!」
「僕もだよ!」
みゆも嬉しそうに頷く。
「ふん。今さら改まって言うことでもあるまい」
ナディアも満足そうに笑った。
そんな四人を見て、和真はほっと息をつく。
「……なんか、俺だけ置いていかれてないか?」
「気のせいだよ!」
フェンリスが即答した。
「そうそう、気のせい」
みゆも笑う。
「和真は黙って可愛がられておればよい」
ナディアまでそんなことを言い出した。
「いや、俺の意見は!?」
「ふふっ。和真は人気者じゃのう」
あおいが楽しそうに笑った。
「他人事みたいに言うなよ!」
その声に、リビング中から笑い声が上がった。
キッチンにいた酒菜まで肩を揺らしている。
「お前ら、朝から元気だな」
「本当ですね。賑やかで何よりです」
リディアも微笑みながら、朝食の皿を運んできた。
「ほら、飯ができたぞ。いつまでも騒いでないで座れ」
「はーい!」
フェンリスが元気よく返事をする。
和真も席へ向かおうとした。
すると――。
ぎゅっ。
あおいが手を離そうとしない。
「……あおい?」
「……もう少しだけ、繋いでおってもよいかえ?」
上目遣いに尋ねるあおい。
和真は苦笑しながらも頷いた。
「……分かったよ」
「……ふふっ」
あおいは嬉しそうに微笑んだ。
そんな二人を、フェンリス、みゆ、ナディアの三人は再び温かな目で見守っていた。
◇◇◇
――その頃。
「……くぁぁ……」
和真の寝室。
部屋の隅で丸くなっていた紅月が、大きな欠伸をした。
前足をぐっと伸ばし、背中を反らせる。
それから、きょろきょろと部屋を見回した。
「……くぅ?」
ご主人がいない。
あおいもいない。
紅月は首を傾げた。
耳をぴんと立てると、廊下の向こうから楽しそうな声が聞こえてくる。
「……くぅ!」
ご主人の声だ。
紅月は嬉しそうに尻尾を振った。
そして、とことこと歩き始める。
寝室の扉は少し開いていた。
その隙間から廊下へ出ると、リビングへ向かって駆け出した。
ぱたぱたぱた。
「……くぅん!」
「あっ、キツネちゃん!」
最初に気づいたのは和真だった。
紅月は一直線に和真へ駆け寄った。
そして、その足元へ身体を擦りつける。
「おはよう。よく眠れたか?」
「くぅ!」
嬉しそうに返事をする紅月。
和真がしゃがんで頭を撫でると、気持ちよさそうに目を細めた。
「ははっ。相変わらず甘えん坊だな」
「くぅん!」
もっと撫でてほしい。
そんなふうに、紅月は何度も頭を押しつけた。
和真は笑いながら、しばらくその頭を撫でてやる。
しかし――。
「……くぅ?」
ふと、紅月の視線があおいへ向いた。
和真の隣にいるあおい。
その頭には、白く美しい狐耳。
そして、背後には九本の大きな尻尾が揺れている。
「…………」
紅月はじっと見つめた。
狐耳。
狐の尻尾。
けれど、姿は人間。
しかも、ご主人と同じ言葉で話している。
紅月は首を傾げた。
そして、今度はみゆを見る。
みゆの頭には猫耳。
さらに、二本の尻尾がある。
その隣にはフェンリス。
こちらには狼の耳と、大きなふさふさの尻尾。
「……くぅ?」
紅月は再び首を傾げた。
狐。
猫。
狼。
みんな動物の耳と尻尾を持っている。
なのに、二本足で歩き、人間のように話している。
紅月はしばらく三人を交互に見つめていた。
そして――。
「……っ!」
突然、何かに気づいたように耳をぴんと立てた。
紅月は知っていた。
動物が人間の姿へ変わる、不思議な術があることを。
幼い頃、母親が教えてくれたことがあった。
もっとも、紅月自身はまだ一度も成功したことがない。
けれど、目の前の三人を見て、一つの考えが浮かんだ。
――もしかして。
――この三人も、変化の術を使っているのではないか。
紅月は真剣な顔であおいを見つめた。
あおいは和真の隣で楽しそうに笑っている。
みゆも。
フェンリスも。
みんな、ご主人と同じような姿をしている。
それなら、自分にもできるかもしれない。
「……くぅ!」
紅月は小さく鳴いた。
そして、和真の膝からぴょんと飛び降りる。
「ん? どうした?」
和真が首を傾げる。
しかし、紅月は答えない。
代わりに、あおいの方へとことこと歩いていった。
「……おや、どうしたのじゃ?」
あおいが不思議そうに見下ろす。
紅月はじっと、その狐耳を見つめた。
さらに、九本の尻尾へ視線を移す。
「……くぅ?」
「ふふっ。尻尾が気になるのかえ?」
あおいが一本の尻尾をゆっくりと動かす。
すると、紅月はその動きを真剣な顔で追いかけた。
「……くぅ……」
何か特別な動きをしているのだろうか。
それとも、姿を変えるときには何か決まった仕草があるのだろうか。
紅月には分からなかった。
けれど、じっと観察すれば何か分かるかもしれない。
「……?」
あおいは首を傾げた。
「妙に真剣な顔をしておるのう」
「本当だね」
和真も不思議そうに笑う。
「何か気になるものでもあるのかな?」
「さあのう?」
そんな二人の会話をよそに、紅月は今度はみゆの方へ向かった。
「ん? 僕?」
みゆが首を傾げる。
紅月はみゆの猫耳をじっと見つめる。
さらに、その二本の尻尾を観察した。
「……くぅ……」
「どうしたの? 僕の尻尾が気になる?」
みゆが尻尾をゆらゆらと動かす。
紅月の視線も、それに合わせて動いた。
「あははっ! 可愛い!」
みゆは笑いながら、紅月の頭を撫でた。
けれど、紅月はそれどころではない。
続いて、フェンリスの方へ向かう。
「ん? キツネちゃん?」
フェンリスがしゃがむ。
紅月は狼耳を見上げ、それから大きな尻尾を見つめた。
「……くぅ?」
「僕の尻尾も気になるの?」
フェンリスが尻尾を揺らす。
紅月はその動きをじっと観察した。
「ふふっ。今日は変わってるね」
フェンリスは楽しそうに笑った。
しかし、紅月の頭の中は別のことでいっぱいだった。
――きっと、何か秘密がある。
――みんな、どうやって人間の姿になったのだろう。
紅月はもう一度、三人を見渡した。
そして、和真へ視線を戻す。
ご主人と同じ姿になれたら。
きっと、もっとたくさん甘えられる。
名前だって教えられる。
自分の気持ちも、言葉で伝えられる。
紅月は尻尾をぴんと立てた。
「……くぅ!」
小さな胸に、一つの決意が生まれた。
――わっちも、絶対に変化できるようになる!
――そして、ご主人にいっぱい甘えるのじゃ!
そう心に決めた紅月は、もう一度あおいの方へとことこと歩いていった。
まずは、もっとよく観察しよう。
どうすれば、あの姿になれるのか。
何をすれば、変化の術が使えるのか。
誰にも知られないまま。
小さな赤狐の、秘密の挑戦が始まろうとしていた。
紅月は考えていた。
どうすれば、自分も人間の姿になれるのだろう。
あおいには狐の耳と九本の尻尾。
みゆには猫の耳と二本の尻尾。
フェンリスには狼の耳と大きな尻尾。
三人とも動物の特徴を持っているのに、和真と同じように二本足で歩き、言葉を話している。
紅月にとって、それはとても不思議なことだった。
そして、きっと三人とも変化の術を使っているのだと思い込んでいた。
――まずは、よく見てみるのじゃ。
そう心の中で呟き、紅月は再びあおいの元へ向かった。
「……む?」
あおいは和真の隣で温かいお茶を飲んでいた。
紅月はその足元へちょこんと座る。
そして、じーっと見上げた。
「……どうしたのじゃ、キツネちゃん?」
「…………」
返事はない。
ただ、真剣な眼差しで見つめてくる。
「……ふむ?」
あおいは首を傾げた。
すると――。
こてん。
紅月も首を傾げた。
「……おや?」
こてん。
「……ふふっ」
こてん。
あおいが反対側へ首を傾げると、紅月も同じ方向へ首を傾げる。
「……真似をしておるのかえ?」
「くぅ!」
紅月は元気よく鳴いた。
あおいは楽しそうに笑う。
「ふふっ。面白い子じゃのう」
そう言って、お茶を一口飲んだ。
すると紅月は、あおいの手元にある湯呑みをじっと見つめる。
――あれを飲めば変化できるのかえ?
紅月は少し考えた。
しかし、湯呑みを持つことはできない。
そもそも熱そうだ。
――むぅ……難しいのう。
紅月は諦め、今度はあおいの尻尾へ視線を向けた。
九本の大きな尻尾。
その一本が、ゆっくりと左右に動いている。
紅月は自分の尻尾を振ってみた。
ふりふり。
あおいの尻尾が右へ動く。
ふりっ。
紅月も右へ。
左へ。
ふりっ。
もう一度、右へ。
ふりっ。
「……?」
あおいは自分の尻尾を真似している紅月に気づいた。
「……キツネちゃん?」
「くぅ!」
「わらわの尻尾が気になるのかの?」
そう言いながら、あおいは九本の尻尾をふわりと広げた。
紅月の目が丸くなる。
――おおっ!
――なんと見事な尻尾じゃ!
思わず、自分の尻尾も精いっぱい膨らませてみた。
ふわっ。
しかし、一本しかない。
――むむむ……。
もう一度、力を入れる。
ふわふわっ。
当然ながら、増えるはずもなかった。
「……くぅん……」
紅月は少し残念そうに耳を伏せた。
その様子を見たあおいは、優しく微笑んだ。
「ふふっ。おぬしの尻尾も、十分立派じゃぞ?」
そう言って、紅月の頭を撫でる。
紅月は嬉しそうに目を細めた。
けれど、まだ諦めるわけにはいかない。
――次じゃ!
◇◇◇
「ん? キツネちゃん?」
次に紅月が向かったのは、みゆの元だった。
みゆはソファに座り、のんびりとテレビを眺めている。
二本の尻尾が、ソファの端からゆらゆらと揺れていた。
「くぅ!」
「あれ? また来たの?」
みゆが笑いながら手を伸ばす。
紅月は撫でられながらも、みゆの動きをじっと観察していた。
すると、みゆが大きく伸びをした。
「んんーっ!」
両腕を上げ、背筋をぐっと伸ばす。
その様子を見た紅月は、何かを閃いたように耳を立てた。
――なるほど!
――ああして身体を伸ばすのじゃな!
紅月は少し離れた場所へ移動した。
そして、前足を伸ばし、お尻を高く持ち上げる。
ぐぐぐっ。
「……くぅ!」
さらに、後ろ足も伸ばした。
ぐいーっ。
しかし、何も起こらない。
「……くぅ?」
紅月は自分の身体を見下ろした。
四本の足。
赤い毛並み。
一本の尻尾。
何も変わっていない。
――おかしいのう……。
もう一度。
ぐぐぐっ!
今度は勢いをつけすぎてしまった。
ころんっ!
「くきゃっ!?」
紅月は横向きに転がった。
「あははっ!」
それを見ていたみゆが笑い出す。
「何してるの、キツネちゃん!」
「くぅ……」
紅月は少し恥ずかしそうに起き上がった。
「大丈夫?」
みゆが抱き上げる。
そして、優しく頭を撫でた。
「ふふっ。変わった遊びをするんだね」
「……くぅん」
――遊びではないのじゃ……。
しかし、みゆには伝わらない。
「よしよし。痛くなかった?」
みゆが頬を寄せてくる。
紅月は少しだけ嬉しくなった。
けれど、すぐに首を振る。
――いかん、いかん!
――今は変化の秘密を探しておるのじゃ!
紅月はみゆの腕からするりと抜け出すと、再び床へ降りた。
「あれ? もういいの?」
「くぅ!」
元気よく返事をして、次の場所へ向かう。
「……本当に今日は忙しそうだね」
みゆは不思議そうに笑いながら、その後ろ姿を見送った。
◇◇◇
最後に向かったのは、フェンリスの元だった。
フェンリスは自分の大きな尻尾を手入れしていた。
銀色の毛並みを丁寧にブラシで整えている。
「ふんふんふーん♪」
鼻歌を歌いながら、楽しそうに尻尾を梳かす。
そこへ――。
「くぅ!」
「あっ、キツネちゃん!」
フェンリスが顔を上げた。
「どうしたの? 遊びに来た?」
紅月は返事をせず、フェンリスの尻尾をじっと見つめた。
「……ん?」
フェンリスは首を傾げる。
「僕の尻尾が気になるの?」
「くぅ!」
「ふふっ。そうなんだ」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
「触ってみる?」
そう言って、大きな尻尾を紅月の前へ差し出す。
紅月はそっと鼻先を近づけた。
ふわふわ。
とても柔らかい。
自分の尻尾とは、また違った感触だった。
「くぅ……」
「気持ちいいでしょ?」
フェンリスが笑う。
紅月は思わず顔を埋めた。
ふかふか。
ふわふわ。
あまりにも気持ちよくて、そのまま眠ってしまいそうになる。
「……くぅん……」
「あははっ! 気に入った?」
フェンリスは楽しそうに笑った。
しかし――。
はっ!
紅月は慌てて顔を上げた。
――いかん!
――危うく目的を忘れるところじゃった!
紅月はフェンリスの尻尾をもう一度見つめた。
――もしや、あの道具に秘密があるのかえ?
フェンリスが持っているブラシ。
あれで尻尾を手入れすれば、人間になれるのかもしれない。
紅月はブラシへ鼻先を近づけた。
「ん? これ?」
フェンリスがブラシを見せる。
「使ってみたいの?」
「くぅ!」
「そっか。じゃあ、キツネちゃんの尻尾も綺麗にしてあげるね!」
そう言って、フェンリスは紅月を膝の上へ抱き上げた。
「じっとしててね」
さらさら。
柔らかなブラシが、紅月の尻尾を優しく梳かしていく。
「……くぅぅ……」
気持ちいい。
とても気持ちいい。
紅月は思わず目を細めた。
「ふふっ。いい子だね」
フェンリスは丁寧に尻尾の毛並みを整えた。
やがて――。
「はい! 終わり!」
紅月の尻尾は、先ほどよりもふわふわになっていた。
「どう? 綺麗になったでしょ?」
「くぅ!」
紅月は嬉しそうに尻尾を振った。
けれど、自分の身体を見下ろしてみる。
四本足。
赤い毛並み。
一本の尻尾。
――変わっておらぬ……。
どうやら、ブラシも違ったらしい。
紅月は少しがっかりした。
しかし、すぐに顔を上げる。
――まだじゃ!
――きっと、ほかに秘密があるはずじゃ!
そう心に決め、フェンリスの膝から飛び降りた。
「あれ? キツネちゃん?」
「くぅ!」
紅月は振り返って一声鳴くと、元気よく走り去った。
「……?」
フェンリスは首を傾げる。
「……なんだったんだろう?」
◇◇◇
それからも、紅月の観察は続いた。
あおいが歩けば、その後ろをついていく。
みゆが座れば、少し離れたところに座る。
フェンリスが伸びをすれば、自分も伸びをする。
時には、二本足で立とうとして――。
「……くぅっ!」
ぐらぐら。
どてんっ!
見事に転んだ。
「……キツネちゃん?」
たまたま通りかかったひかげが、心配そうにしゃがみ込む。
「大丈夫ですか?」
「……くぅ……」
「ふふっ。何してはるんです?」
ひかげは優しく紅月の頭を撫でた。
紅月は少し考えた。
そして、もう一度後ろ足で立とうとする。
ぐぐっ。
「……くぅ!」
ぐらぐら。
ころんっ。
「あっ!」
ひかげは慌てて手を差し出した。
「危ないですよ」
そっと紅月を抱き上げる。
「もしかして、何か練習してはるんですか?」
「……くぅ!」
紅月は元気よく鳴いた。
「そうなんですか?」
ひかげは少し驚いたように目を丸くした。
けれど、何を練習しているのかまでは分からない。
「ふふっ。怪我せんようにしてくださいね」
そう言って、紅月を優しく床へ降ろした。
「くぅ!」
紅月はお礼を言うように一声鳴くと、再び走り出した。
――よし!
――そろそろ、わっちも試してみるのじゃ!
◇◇◇
昼過ぎ。
空色唐辛子荘の敷地内。
母屋から少し離れた、木々に囲まれた一角。
普段はあまり人が通らない場所だった。
冬の冷たい風が、枝の間を吹き抜ける。
紅月は周囲をきょろきょろと見回した。
右。
左。
後ろ。
誰もいない。
「……くぅ!」
――ここなら、誰にも見られぬ!
紅月は満足そうに頷いた。
そして、少し開けた場所へ移動する。
まずは、四本の足をしっかりと地面につけた。
目を閉じる。
ゆっくりと呼吸を整える。
思い浮かべるのは、今朝見た三人の姿。
あおい。
みゆ。
フェンリス。
みんな、人間のような姿をしていた。
自分だって、きっとできるはずだ。
――わっちも、あの姿になるのじゃ!
紅月は強く念じた。
じっと。
じーっと。
さらに強く。
――人間になるのじゃ!
――変化するのじゃ!
…………。
…………。
「……くぅ?」
そっと目を開ける。
前足を見る。
赤い毛に覆われた、小さな前足。
後ろ足も変わっていない。
尻尾も一本のままだ。
「……くぅん……」
失敗だった。
しかし、紅月は諦めなかった。
――まだじゃ!
――きっと、何かが足りぬのじゃ!
今度は、あおいの姿を思い浮かべる。
美しい銀白色の髪。
狐耳。
九本の尻尾。
そして、和真と手を繋いで歩く姿。
――わっちも、ご主人と手を繋ぎたい!
ぐっと力を込める。
しかし――。
…………。
何も起こらない。
「……くぅ……」
紅月は首を傾げた。
――なぜじゃ?
――何が違うのじゃ?
考えても分からない。
ならば、もう一度。
紅月は再び目を閉じた。
――変化!
…………。
――変化じゃ!
…………。
――変化するのじゃーっ!
「くぅぅぅっ!」
思わず声が漏れた。
けれど、身体は何も変わらなかった。
「……くぅん……」
紅月は少し肩を落とした。
しかし、そのまま座り込んではいられない。
今度は後ろ足で立ってみることにした。
――もしかすると、先に人間の真似をせねばならぬのかもしれぬ!
そう考えた紅月は、ぐっと後ろ足に力を入れた。
前足を持ち上げる。
ぐらぐら。
「……くぅっ!」
なんとか立った。
一瞬だけ。
しかし――。
ぐらっ。
「くきゃっ!?」
どてんっ!
紅月は背中から地面へ転がった。
「……くぅぅ……」
少し痛かった。
けれど、すぐに起き上がる。
身体についた落ち葉を払い、もう一度。
ぐぐぐっ。
ぐらぐら。
どてんっ!
また失敗。
それでも、紅月は諦めない。
何度も。
何度も。
繰り返した。
◇◇◇
――しばらくして。
「……はぁ……はぁ……」
紅月は木の根元に座り込んでいた。
何度も挑戦したせいで、すっかり疲れてしまった。
赤い毛並みには落ち葉がくっつき、尻尾も少し乱れている。
それでも、人間の姿にはなれなかった。
「……くぅん……」
紅月は自分の前足を見下ろした。
小さな肉球。
鋭い爪。
赤い毛並み。
いつもと何も変わらない。
――どうしてじゃろう……。
――母さまは、もっと簡単にできると言っておったのに……。
紅月は幼い頃のことを思い出した。
母親が見せてくれた、不思議な変化の術。
いつか自分にもできるようになる。
そう教えられていた。
けれど、実際にやってみると、何も起こらない。
何かが違うのだろうか。
それとも、まだ自分には早いのだろうか。
「……くぅ……」
紅月は少し寂しそうに耳を伏せた。
そのとき。
ふと、和真の顔が浮かんだ。
自分を助けてくれた人。
怪我をしていたとき、無理に触ろうとせず、ずっとそばにいてくれた人。
温かい場所を用意してくれて、ご飯を食べさせてくれた人。
頭を撫でてくれる、大好きな人。
――ご主人……。
紅月は目を細めた。
和真のことを考えるだけで、胸の奥が温かくなる。
もっと一緒にいたい。
もっと甘えたい。
もっと自分の気持ちを伝えたい。
けれど、今の姿では言葉を話せない。
和真が自分を呼ぶ名前も、本当の名前ではない。
――わっちは、紅月という名があるのじゃ。
――母さまがくれた、大切な名前なのじゃ。
いつか、和真に教えてあげたい。
自分の名前を。
そして、大好きだという気持ちを。
紅月はゆっくりと立ち上がった。
「……くぅ!」
――もう一度じゃ!
――わっちは、まだ諦めぬ!
そう決意すると、再び目を閉じた。
今度は、和真の姿を強く思い浮かべる。
優しい笑顔。
大きな手。
温かな声。
自分を撫でてくれるときの、嬉しそうな顔。
――ご主人……。
――わっちも、人間になりたいのじゃ……。
――ご主人と、もっと一緒にいたいのじゃ……。
ぎゅっと目を閉じる。
胸いっぱいに願いを込めた。
…………。
…………。
しかし。
何も起こらなかった。
「……くぅん……」
紅月はゆっくりと目を開けた。
そこにあったのは、いつもと変わらない小さな前足だった。
◇◇◇
――夕方。
冬の日は短い。
気がつけば、空は少しずつ茜色に染まり始めていた。
紅月は何度も変化を試していた。
立ってみたり。
丸くなってみたり。
尻尾を振ってみたり。
母親の姿を思い出してみたり。
しかし、どれだけ試しても変化できなかった。
「……くぅ……」
とうとう紅月は、ぺたんと地面に伏せてしまった。
疲れた。
お腹も空いた。
けれど、何より悔しかった。
――どうして、できぬのじゃ……。
紅月は前足へ顔を埋めた。
あおいたちは、あんなに自然に人間の姿で暮らしている。
歩いたり。
話したり。
ご主人と手を繋いだり。
自分もそうなりたいのに。
「……くぅん……」
小さく鼻を鳴らす。
すると――。
「……キツネちゃーん!」
遠くから声が聞こえてきた。
紅月の耳がぴくりと動く。
「キツネちゃーん! どこにいるー?」
和真の声だった。
「……っ!」
紅月は勢いよく顔を上げた。
――ご主人!
疲れていたことも忘れ、立ち上がる。
「くぅ!」
元気よく鳴いて、声のする方へ駆け出した。
ぱたぱたぱた。
木々の間を抜ける。
すると、少し離れた場所に和真の姿が見えた。
「あっ!」
和真が紅月に気づいた。
「いたいた! こんなところにいたのか」
「くぅーっ!」
紅月は一直線に駆け寄った。
そして、和真の足元へ飛びつく。
「おっと!」
和真が笑いながらしゃがんだ。
「どうした? そんなに慌てて」
「くぅん! くぅん!」
紅月は嬉しそうに身体を擦りつける。
和真はそんな紅月を抱き上げた。
「……ん?」
ふと、首を傾げる。
「お前、何して遊んでたんだ?」
紅月の毛並みには落ち葉がついていた。
尻尾も少し乱れている。
「こんなに葉っぱつけて」
和真は笑いながら、紅月の身体についた落ち葉を取り除いた。
「くぅ……」
「どこか痛くしたりしてないか?」
心配そうに顔を覗き込む。
紅月は元気よく首を振った。
「くぅ!」
「そっか。それならよかった」
和真は安心したように微笑んだ。
そして、紅月の頭を優しく撫でる。
「そろそろ夕飯だぞ。帰ろうか」
「くぅ!」
紅月は嬉しそうに尻尾を振った。
和真の腕の中は温かかった。
何度も変化に失敗したことも、転んだことも。
今だけは、どうでもよくなるほど心地よかった。
「それにしても、最近ずいぶん元気になったな」
「くぅ?」
「最初に会ったときは怪我もしてたし、人を怖がってたのにな」
和真は懐かしそうに笑った。
「今じゃすっかり甘えん坊だ」
「くぅん!」
紅月は嬉しそうに和真の頬へ鼻先を押しつけた。
「ははっ。くすぐったいって」
和真が笑う。
その笑顔を見て、紅月も嬉しくなった。
――ご主人……。
――わっちは、やっぱりご主人が大好きじゃ。
紅月は和真の胸元へ顔を埋めた。
そして、心の中でもう一度誓う。
――明日も頑張るのじゃ。
――明後日も、その次の日も。
――いつか必ず、人間の姿になってみせるのじゃ!
和真はそんな紅月の決意など知る由もなく、優しく頭を撫でながら母屋へ戻っていった。
◇◇◇
その日の夕食。
紅月はいつものように、みんなと一緒に食事をしていた。
用意された器には、紅月のためのご飯が入っている。
「キツネちゃん、今日はいっぱい遊んだみたいだな」
和真が笑いながら声をかけた。
「くぅ!」
「しっかり食べろよ」
「くぅん!」
紅月は嬉しそうに返事をすると、ご飯を食べ始めた。
しかし、その視線は時折、みんなの方へ向いていた。
箸を持って食事をする和真。
その隣で楽しそうに話すあおい。
みゆはフェンリスと何かを話して笑っている。
ナディアは酒菜と料理の話をしていた。
みんな、言葉を使って気持ちを伝え合っている。
紅月には、それがとても羨ましかった。
――わっちも……。
――みんなと話してみたいのう……。
ご飯を食べるのを止め、じっと和真を見つめる。
「ん?」
和真が気づいた。
「どうした、キツネちゃん?」
「……くぅ」
「もうお腹いっぱいか?」
紅月は首を振った。
「くぅ!」
「そっか。じゃあ、ゆっくり食べな」
そう言って、和真は優しく微笑んだ。
「……くぅん……」
紅月は再びご飯へ顔を近づけた。
やっぱり、言葉が伝わらない。
けれど、諦めるつもりはなかった。
明日こそは。
明日こそ、きっと。
そんな小さな希望を胸に、紅月は夕食を食べ続けた。
――しかし。
この日を境に、紅月の秘密の特訓は、さらに熱を帯びていくことになる。
誰にも知られないまま。
何日も、何日も。
小さな赤狐は、たった一つの願いを叶えるために、挑戦を続けていくのだった。
――それから数日が過ぎた。
紅月の毎日は、すっかり忙しくなっていた。
朝は和真のそばで目を覚まし、みんなと一緒に朝食を食べる。
そして、和真たちがそれぞれの用事を始めると、紅月もこっそり母屋を抜け出す。
向かう先は、敷地の片隅にある木々に囲まれた場所。
あの日から、紅月はそこを自分だけの特訓場所にしていた。
「……くぅ!」
今日こそは。
今日こそ、人間の姿になるのじゃ!
紅月は意気込んで、地面の真ん中へ進んだ。
まずは、目を閉じる。
母親の姿を思い出す。
かつて自分の目の前で、人間の姿へ変わってみせた母親。
あのときは、あまりにも自然だった。
ふわりと光に包まれたかと思えば、次の瞬間には人間の姿になっていた。
だから、きっと自分にもできる。
そう信じていた。
――よし……。
――変化するのじゃ!
ぎゅっと目を閉じる。
身体の奥へ力を込める。
…………。
…………。
「……くぅ?」
そっと目を開けた。
そこには、いつもと変わらない赤い前足。
地面についた小さな肉球。
背後には一本の大きな尻尾。
「……くぅん……」
失敗である。
しかし、紅月は諦めなかった。
――まだじゃ!
――次こそは!
今度は、あおいの姿を思い浮かべる。
狐耳。
九本の尻尾。
綺麗な銀白色の髪。
そして、和真の隣で幸せそうに笑う姿。
――わっちも、あんなふうになりたいのじゃ!
ぐっと力を込める。
…………。
…………。
何も起こらなかった。
「……くぅ……」
紅月は少し考えた。
――もしや、もっと強く念じねばならぬのかえ?
ならば。
「くぅぅぅぅっ!」
全身に力を込めた。
尻尾までぴんと伸びる。
耳も立つ。
身体を小刻みに震わせながら、ありったけの力を振り絞る。
「くぅぅぅぅぅっ!」
…………。
…………。
ぽすん。
とうとう力尽きて、その場に座り込んだ。
「……はぁ……はぁ……」
疲れただけだった。
身体は何も変わっていない。
紅月は自分の前足を見つめた。
そして、がっくりと耳を伏せる。
――むぅ……。
――どうしてできぬのじゃ……。
その疑問に答えてくれる者は、ここにはいなかった。
◇◇◇
別の日。
紅月は新しい方法を試していた。
今度は、二本足で歩く練習である。
――みんな、二本足で歩いておる。
――ならば、わっちも先に二本足で歩けるようになればよいのじゃ!
紅月なりに考えた結果だった。
まずは木の幹に前足をつき、後ろ足だけで立ち上がる。
「……くぅ!」
ここまでは簡単だった。
問題は、この後である。
そっと前足を離す。
ぐらぐら。
「……くぅっ!」
ぐらっ。
どてん!
「くきゃっ!?」
見事に尻餅をついた。
紅月はしばらく呆然としていたが、すぐに起き上がる。
もう一度。
ぐらぐら。
どてん!
また失敗。
さらにもう一度。
ぐらぐら。
「……くぅっ!」
今度は少し長く立っていられた。
――おおっ!
――できたのじゃ!
嬉しくなった紅月は、思わず前足を上げた。
その瞬間。
ぐらっ。
ころころころ。
今度は横向きに転がってしまった。
「……くぅぅ……」
紅月は地面に転がったまま、空を見上げた。
冬の青空。
白い雲が、ゆっくりと流れている。
――人間になるというのは、難しいものじゃのう……。
そんなことを考えながら、しばらく休憩する。
しかし、すぐに起き上がった。
――まだまだじゃ!
こうして、紅月の秘密の特訓は毎日続いていった。
◇◇◇
もちろん、紅月は変化の練習ばかりしていたわけではない。
和真の姿を見つければ、何をしていても駆け寄っていった。
「くぅーっ!」
「おっ、キツネちゃん」
庭で作業をしていた和真が振り向く。
紅月は勢いよく駆け寄ると、その足元へ身体を擦りつけた。
「どうした? また遊んでたのか?」
「くぅん!」
紅月は嬉しそうに尻尾を振った。
そして、和真の足へ前足をかける。
「ん? 抱っこか?」
「くぅ!」
「はいはい」
和真は笑いながら紅月を抱き上げた。
途端に、紅月の尻尾が大きく揺れる。
――ご主人!
――ご主人じゃ!
嬉しくなった紅月は、和真の頬へ顔を擦りつけた。
「ははっ、くすぐったいって」
「くぅん!」
さらに、鼻先を和真の頬へ押しつける。
ぺろっ。
「あっ、こら!」
和真が笑う。
「顔は舐めなくていいって」
「くぅ?」
紅月は不思議そうに首を傾げた。
どうしてだろう。
大好きな相手に顔を寄せたり、舐めたりするのは、狐にとって自然な愛情表現だった。
母親もそうしてくれた。
だから、自分もご主人に同じことをしているだけなのに。
「ほら、頭ならいくらでも撫でてやるから」
和真は紅月の頭を優しく撫でた。
「……くぅぅ……」
紅月は気持ちよさそうに目を細める。
けれど、少しだけ物足りなかった。
あおいたちは、和真の手を握っている。
フェンリスは腕に抱きついている。
みゆは肩を寄せたり、頬をくっつけたりしている。
ナディアだって、時々和真の腕を取って楽しそうに笑っていた。
自分も、あんなふうにしたい。
しかし、小さな前足では手を握れない。
言葉だって伝えられない。
――むぅ……。
紅月は和真の手を見つめた。
そして、そっと自分の前足を乗せてみる。
「ん?」
和真が首を傾げる。
「お手?」
「……くぅ?」
「おお、上手上手!」
和真は嬉しそうに笑った。
そして、紅月の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「くぅぅ……」
紅月は目を細めた。
――違うのじゃ……。
――わっちは、手を繋ぎたいのじゃ……。
けれど、その気持ちはやはり伝わらなかった。
◇◇◇
夜。
空色唐辛子荘の母屋は、昼間の賑やかさが嘘のように静かになっていた。
紅月はいつものように、和真の部屋の隅に敷かれた毛布の上で丸くなっていた。
大きな尻尾を身体に巻きつけ、眠そうに目を細める。
けれど、まだ眠ってはいない。
和真がベッドに腰掛け、本を読んでいたからだ。
「……ふぅ」
和真が小さく息をつく。
すると――。
コンコン。
「和真、入っていい?」
扉の向こうから、フェンリスの声が聞こえた。
「ああ、いいよ」
扉が開く。
そこには、寝間着姿のフェンリスが立っていた。
「えへへ。来ちゃった」
「どうしたんだ?」
「……今日は、和真と一緒にいたくて」
フェンリスは少し照れくさそうに笑った。
和真が隣を空けると、嬉しそうに腰を下ろす。
そして、自然に和真の腕へ抱きついた。
「……ふふっ」
「なんだよ?」
「何でもないよ」
そう言いながら、フェンリスは和真の肩へ頭を預ける。
「……こうしてると、落ち着くんだ」
「そっか」
「うん」
和真は本を閉じた。
そして、フェンリスの頭を優しく撫でる。
「……んっ」
フェンリスは嬉しそうに目を細めた。
しばらくすると、顔を上げて和真を見つめる。
「……和真」
「ん?」
「……大好きだよ」
そう言って、そっと唇を重ねた。
和真も優しく応える。
「……俺もだよ」
「……えへへ」
フェンリスは満足そうに笑い、もう一度和真へ抱きついた。
その様子を、紅月は毛布の上からじっと眺めていた。
「…………」
――いいのう……。
――わっちも、あんなふうにくっつきたいのじゃ……。
紅月はそっと立ち上がった。
そして、ベッドのそばへ歩いていく。
「くぅ……」
「あっ、キツネちゃん」
フェンリスが気づいた。
「起こしちゃった?」
「くぅ!」
紅月は首を振った。
そして、和真の足元へ前足をかける。
「ん? どうした?」
和真が手を伸ばす。
紅月はすぐにその手へ顔を擦りつけた。
「ははっ。お前も甘えたいのか?」
「くぅ!」
「そっかそっか」
和真は笑いながら頭を撫でた。
すると、フェンリスも楽しそうに笑う。
「ふふっ。キツネちゃんも和真が大好きなんだね」
「くぅ!」
「僕と一緒だ!」
そう言って、フェンリスも紅月の頭を撫でた。
二人に撫でられ、紅月は嬉しそうに目を細める。
けれど。
――やっぱり、何か違うのじゃ……。
紅月は和真とフェンリスを見上げた。
人間の姿なら、もっといろいろなことができるのだろうか。
そんな疑問が、胸の中で少しずつ大きくなっていった。
◇◇◇
また別の夜。
「和真ー!」
元気な声とともに、みゆが部屋へ顔を出した。
「……って、もう寝るところ?」
「いや、まだ起きてるよ」
「よかった!」
みゆは嬉しそうに笑うと、和真の隣へ腰を下ろした。
「今日は僕の番!」
「……何の番だよ」
「和真に甘える番!」
悪戯っぽく笑うみゆ。
そして、和真の腕を両手で抱え込んだ。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「今日はいっぱい甘えてもいい?」
「……いつも甘えてるだろ?」
「それはそれ、これはこれ!」
みゆは楽しそうに笑った。
そして、和真の頬へ軽く口づける。
「……ふふっ」
「……まったく」
和真は苦笑しながらも、みゆの頭を撫でた。
すると、みゆは満足そうに目を細める。
そんな二人を、紅月はまた部屋の隅から見つめていた。
――むぅ……。
――今夜も、ご主人は楽しそうじゃのう……。
紅月は自分の前足を見下ろした。
それから、和真の手へ視線を移す。
――人間になれれば、わっちもあんなふうに甘えられるのかえ……?
紅月にはまだ分からなかった。
ただ、あの二人のように楽しそうに笑い合いたかった。
言葉を交わしてみたかった。
何より、和真に自分の気持ちを知ってほしかった。
◇◇◇
さらに別の夜。
「和真、いるか?」
今度はナディアだった。
「いるけど……どうした?」
「ふん。俺様が来てやったのだ。少しは喜べ」
「いや、普通に嬉しいけど」
「……そうか」
ナディアは一瞬だけ嬉しそうな顔をした。
しかし、すぐにいつもの堂々とした表情へ戻る。
「ならば、隣を空けろ」
「はいはい」
和真が隣を空けると、ナディアは当然のように腰を下ろした。
そして、そのまま和真へ身体を預ける。
「……今日は疲れた」
「何かあったのか?」
「大したことではない。少し忙しかっただけだ」
「そっか。お疲れさま」
和真はそう言いながら、ナディアの頭を撫でた。
「……ふん」
ナディアは小さく鼻を鳴らす。
しかし、その手を払いのけることはなかった。
むしろ、少しだけ和真へ身体を寄せる。
「……もう少し撫でていろ」
「はいはい」
「返事は一回でよい」
「はい」
「……まったく」
そう言いながら、ナディアは満足そうに目を閉じた。
しばらくして顔を上げると、和真へそっと口づける。
「……今夜は俺様に付き合え」
和真は少し照れくさそうに笑った。
「分かったよ」
その様子を見ていた紅月は、毛布の上で小さく尻尾を振った。
――みんな、ご主人に甘えるのが上手じゃのう……。
少しだけ羨ましい。
けれど、自分も負けてはいられない。
紅月はそっと立ち上がった。
とことこと和真のそばへ向かう。
「くぅ!」
「ん? キツネちゃんか」
和真が顔を向ける。
紅月は嬉しそうに前足をかけた。
「お前も一緒にいたいのか?」
「くぅん!」
「まったく、お前まで甘えん坊だな」
和真は笑いながら紅月を抱き上げた。
ナディアも小さく笑う。
「ふん。随分と和真に懐いたものだな」
「最初はあんなに警戒してたのにな」
「それだけ安心しているということだろう」
ナディアが紅月の頭へ手を伸ばす。
「よかったな、キツネ」
「くぅ!」
紅月は元気よく返事をした。
大好きなご主人の腕の中。
とても温かかった。
けれど、やはり言葉は伝えられない。
――ご主人。
――わっちは紅月という名なのじゃ。
――いつか、きっと教えてやるからのう。
紅月は和真の胸元へ顔を寄せた。
◇◇◇
そして、また別の夜。
「……和真」
扉の向こうから、あおいの声が聞こえた。
「入っていいぞ」
「うむ」
扉が開き、あおいが顔を覗かせる。
その姿を見た和真は、自然と微笑んだ。
「どうした?」
「……少し、顔が見とうなってのう」
「さっきまで一緒だっただろ?」
「それはそうじゃが……」
あおいは少し恥ずかしそうに視線を落とす。
「……二人きりで過ごしたくなったのじゃ」
和真は小さく笑った。
「そっか。おいで」
「……うむ!」
あおいは嬉しそうに和真の隣へ座った。
そして、そっと手を握る。
「……ふふっ」
「嬉しそうだな」
「嬉しいに決まっておろう?」
あおいは和真を見上げた。
「……こうして和真と過ごせる時間が、わらわは好きなのじゃ」
「俺もだよ」
「……ふふっ」
あおいは幸せそうに微笑んだ。
そして、和真の肩へ頭を預ける。
「……のう、和真」
「ん?」
「……口づけしてもよいかえ?」
和真は頷いた。
あおいは嬉しそうに目を細め、そっと唇を重ねる。
やがて顔を離すと、少し照れくさそうに笑った。
「……愛しておるぞ」
「俺も愛してるよ」
「……うむ」
その言葉を聞いたあおいの尻尾が、嬉しそうに揺れた。
紅月はその様子をじっと見ていた。
――あおいは、いつも幸せそうじゃのう……。
――ご主人と同じ姿なら、あんなふうに言葉を交わせるのじゃな……。
紅月は、自分の小さな前足を見つめた。
そして、そっと目を閉じる。
明日こそ。
明日こそ、変化できるようになりたい。
そう願いながら、紅月は静かに眠りについた。
◇◇◇
それからも、紅月の生活は変わらなかった。
昼間は秘密の特訓。
夜は和真の部屋で眠る。
和真の元には、フェンリス、みゆ、ナディア、あおいが代わる代わる訪れていた。
甘えたり、抱きついたり。
手を繋いだり、口づけを交わしたり。
ときには二人きりで過ごすため、そっと別の部屋へ移動することもあった。
紅月は、そんな彼女たちの姿を毎晩のように眺めていた。
誰もが和真のことを大切に思っている。
そして、和真も彼女たちを大切にしている。
紅月には、男女の恋愛というものはまだよく分からなかった。
けれど、みんなが幸せそうにしていることだけは分かった。
笑っている。
嬉しそうにしている。
和真に抱きしめられると、みんな安心した顔になる。
その光景を見るたびに、紅月は思うのだった。
――わっちも、あんなふうになりたいのじゃ。
――もっと、ご主人に甘えたいのじゃ。
――ご主人と、たくさんお話ししてみたいのう……。
しかし。
どれほど願っても、変化の術は成功しなかった。
ある日は一日中練習した。
別の日には、母親の姿を何度も思い浮かべた。
さらには、あおいやみゆの動きを観察し、同じように身体を動かしてみた。
それでも、結果は同じだった。
赤い毛並み。
四本の足。
一本の尻尾。
何一つ変わらない。
失敗するたび、紅月は少しだけ落ち込んだ。
けれど、和真に抱きしめられれば、また元気になれた。
「よしよし。今日もいっぱい遊んだみたいだな」
「くぅん!」
「明日も元気に遊べよ」
「くぅ!」
その優しい声が、何よりの励みだった。
――うむ!
――明日こそは、きっとできるのじゃ!
そう信じて、紅月は毎日挑戦を続けた。
◇◇◇
――そんなある日の夜。
珍しいことが起こった。
和真の部屋に、誰も訪ねてこなかったのである。
「……ふぅ」
和真はベッドに腰掛け、読みかけの本を閉じた。
時計を見る。
もう、ずいぶん遅い時間だった。
「……今日は静かだな」
思わず、そんな言葉が漏れた。
ここ最近は、毎晩のように誰かが部屋へやってきていた。
けれど、今夜は誰も来ない。
フェンリスも。
みゆも。
ナディアも。
あおいも。
珍しく、それぞれの部屋で休んでいるらしかった。
「……まあ、たまにはいいか」
和真は小さく笑った。
そして、部屋の隅へ視線を向ける。
そこには、いつものように紅月が丸くなっていた。
「……キツネちゃん」
「くぅ?」
紅月が顔を上げる。
「そろそろ寝るぞ」
「くぅ!」
元気よく返事をする紅月。
和真は立ち上がると、紅月のそばへしゃがんだ。
「おやすみ」
そう言って、頭を優しく撫でる。
「……くぅん……」
紅月は気持ちよさそうに目を細めた。
和真は微笑むと、ベッドへ戻った。
部屋の明かりを消す。
そして、布団へ潜り込んだ。
「……おやすみ」
小さく呟き、目を閉じる。
やがて、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
静かな夜だった。
◇◇◇
「…………」
紅月は、まだ起きていた。
毛布の上で丸くなりながら、じっとベッドを見つめている。
和真はもう眠っていた。
今日は、誰もいない。
誰も和真の隣で眠っていない。
「……くぅ?」
紅月はそっと立ち上がった。
とことことベッドへ近づく。
そして、前足をかけて中を覗き込んだ。
和真は気持ちよさそうに眠っている。
「…………」
紅月は少し考えた。
――今夜は、誰もおらぬのじゃな……。
もう一度、部屋を見回す。
もちろん、誰もいない。
紅月は尻尾を小さく振った。
――ならば……。
――今夜は、わっちがご主人と一緒に眠ってもよかろう?
そう思った瞬間、なんだか嬉しくなった。
紅月はベッドへぴょんと飛び乗った。
とことこ。
和真の足元から、ゆっくりと枕の方へ進む。
そして、布団の端へ鼻先を差し込んだ。
もぞもぞ。
もぞもぞ。
小さな身体を器用に動かし、布団の中へ潜り込む。
「……くぅ……」
温かい。
和真の体温が、すぐ近くに感じられた。
紅月はさらに身体を寄せる。
そして、和真の胸元へ頭を押しつけた。
「……くぅん……」
嬉しい。
とても嬉しかった。
いつも抱っこしてもらっているけれど、こうして静かに寄り添うのも大好きだった。
紅月はしばらく、和真の寝顔を見つめていた。
穏やかな表情。
規則正しい寝息。
自分を助けてくれた、大好きなご主人。
紅月はそっと顔を近づけた。
そして――。
ぺろっ。
和真の頬を、小さく舐めた。
「……ん……」
和真がわずかに顔を動かす。
けれど、目を覚ますことはなかった。
紅月は嬉しそうに尻尾を揺らした。
――ご主人……。
――わっちは、ご主人が大好きじゃ……。
もう一度、頬へ顔を擦りつける。
すりすり。
すりすり。
和真は眠ったまま、無意識に紅月の背中へ手を添えた。
「……くぅ……?」
紅月は少し驚いた。
しかし、すぐに嬉しそうに目を細める。
温かい手。
優しい温もり。
それだけで、胸の奥がいっぱいになった。
紅月は、和真のことが大好きだった。
自分を助けてくれた人。
傷ついた身体を癒やしてくれた人。
怖がっていた自分に、優しく手を差し伸べてくれた人。
そして、今では自分が帰る場所になってくれた人。
紅月にとって、和真は特別な存在だった。
――ご主人……。
――わっちは、ずっとそばにおりたいのじゃ……。
紅月はそっと目を閉じた。
そして、もう一度、強く願った。
――人間になりたい。
――ご主人と同じ姿になりたい。
――この小さな前足ではなく、手でご主人に触れてみたい。
――ご主人と、言葉を交わしてみたい。
――わっちの名前を、ちゃんと教えてやりたいのじゃ……。
母親からもらった、大切な名前。
紅月。
その名を、和真に呼んでほしかった。
キツネちゃんではなく。
紅月、と。
そして、自分の言葉で伝えたい。
――わっちは、ご主人が大好きじゃ。
――大好きで、大好きで……。
――たまらぬのじゃ……。
紅月は和真の胸元へ、ぎゅっと身体を寄せた。
目を閉じる。
温かな寝息が聞こえる。
優しい手が、背中に触れている。
その安心感に包まれながら、紅月の意識は少しずつ眠りへと沈んでいった。
――どうか……。
――どうか、明日こそ……。
――人間の姿になれますように……。
小さな願い。
けれど、今までで一番強い願いだった。
紅月はその想いを胸いっぱいに抱いたまま、静かに眠りについた。
そして――。
夜は、ゆっくりと更けていった。
誰も知らない。
この小さな赤狐が、どれほど強く願っていたのか。
そして、その純粋な想いが、やがて大きな変化をもたらすことになるなど。
この夜、まだ誰も気づいていなかった。
――翌朝。
空色唐辛子荘の母屋。
冬の朝日が差し込む廊下を、フェンリスが軽い足取りで歩いていた。
「ふんふんふーん♪」
銀色の髪を揺らしながら、向かう先は和真の部屋。
今日は珍しく仕事も休みだった。
だから、朝から和真にたくさん甘えようと決めていたのである。
「……えへへ」
自然と笑みがこぼれる。
最近は、みゆやナディア、あおいが代わる代わる和真の部屋を訪れていた。
もちろん、自分だって負けてはいない。
けれど、昨夜は珍しく誰も和真の部屋へ行かなかったらしい。
それなら、今朝は自分が一番乗りだ。
「……よーし!」
フェンリスは小さく拳を握った。
そして、和真の部屋の前で立ち止まる。
コンコン。
「和真ー? 起きてる?」
返事はない。
「……まだ寝てるのかな?」
もう一度、軽く扉を叩く。
「和真ー?」
やはり返事はなかった。
「……ふふっ。まだ寝てるんだ」
フェンリスはそっと扉を開けた。
「おはよー……」
声を潜めながら部屋へ入る。
カーテンの隙間から朝日が差し込み、ベッドの上を柔らかく照らしていた。
和真はまだ眠っている。
「……えへへ」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
起こす前に、少しだけ寝顔を眺めよう。
そう思い、ベッドへ近づいた。
しかし――。
「…………ん?」
フェンリスの足が止まった。
和真の隣。
布団から、何か赤いものが覗いている。
「……あれ?」
最初はキツネちゃんかと思った。
紅月は普段から和真の部屋で眠っている。
だから、特に不思議なことではない。
しかし。
よく見ると、何かがおかしい。
赤い毛並みではない。
赤い髪。
しかも、人間の頭だった。
「…………え?」
フェンリスは目を瞬かせた。
一歩、近づく。
そこには――。
見知らぬ赤毛の少女が眠っていた。
見た目は十二歳くらいだろうか。
長い赤毛が枕の上に広がり、頭には狐の耳。
耳の先端は白く、布団の端からは先の白い大きな赤い尻尾が覗いている。
少女は和真の胸元へ顔を寄せ、幸せそうに眠っていた。
そして、何より。
「…………」
フェンリスは固まった。
布団の肩口から見える様子では、少女は服を着ていなかった。
「…………え?」
もう一度、確認する。
知らない女の子。
和真のベッド。
一緒に眠っている。
しかも、服を着ていない。
フェンリスの頭の中で、いくつもの疑問が一気に駆け巡った。
そして――。
「ええええええええええっ!?」
母屋中に響き渡る絶叫が上がった。
◇◇◇
「うわああっ!?」
和真が飛び起きた。
「な、何だ!? 何があった!?」
「か、和真っ!!」
「フェンリス!?」
目の前には、顔を真っ赤にしたフェンリス。
その表情は驚きと困惑でいっぱいだった。
「だ、誰!? その子、誰なの!?」
「……は?」
「隣! 隣を見て!」
「隣……?」
和真は寝ぼけたまま顔を向けた。
そして――。
「…………」
目を瞬かせる。
そこには、赤毛の少女がいた。
和真の胸元へ寄り添い、すやすやと眠っている。
「…………え?」
和真は一瞬、状況を理解できなかった。
もう一度見る。
やはり、知らない少女がいる。
「……誰?」
「僕が聞いてるんだよっ!!」
「いや、待って! 本当に知らない!」
「知らない子が何で和真のベッドにいるの!?」
「俺にも分からないって!」
「しかも服着てないよ!?」
「えっ!?」
和真は慌てて顔を背け、布団を少女の肩まで引き上げた。
「と、とりあえず布団! フェンリス、何か着るもの!」
「そ、それはそうだけど!」
フェンリスも慌てて部屋を見回す。
しかし、当然ながら少女用の服など置いていない。
「どうしよう!? どうすればいいの!?」
「俺に聞かれても!」
その騒ぎの中。
「……んぅ……」
赤毛の少女が、ゆっくりと目を開けた。
まだ眠そうに目を擦ろうとして、ふと自分の手が視界に入る。
「……む?」
少女は首を傾げた。
小さな手。
五本の指。
赤い毛並みに覆われていない、白い肌。
「…………」
少女はじっと自分の手を見つめた。
そして、指を動かしてみる。
にぎにぎ。
ぱっ。
もう一度。
にぎにぎ。
「…………お?」
今度は両手を持ち上げた。
右手。
左手。
どちらにも五本の指がある。
少女の狐耳が、ぴんと立った。
「……おおっ!?」
さらに、布団の中で足を動かしてみる。
二本の足。
人間と同じ形。
少女は目を大きく見開いた。
「おおおおおっ!!」
「うわっ!?」
突然の大声に、和真が驚く。
すると、少女は勢いよく和真へ顔を向けた。
「ご主人っ!!」
「……え?」
「ご主人! ご主人っ!!」
満面の笑み。
そして、次の瞬間。
がばっ!
「うわあっ!?」
少女は布団の中から和真へ勢いよく抱きついた。
「やったのじゃ! やったのじゃーっ!!」
「ちょっ!? 待って! 誰!?」
「ご主人! わっち、できたのじゃ!」
「何が!?」
「変化じゃ! ようやく変化できたのじゃぞ!」
少女は嬉しそうに尻尾を振り回した。
そして――。
ぺろっ。
「うわっ!?」
和真の頬を舐めた。
さらに。
ぺろぺろっ。
「こ、こら! くすぐったいって!」
「ご主人! ご主人!」
少女は構わず和真の顔へ頬を擦りつける。
すりすり。
ぺろっ。
「ちょっ、待っ……!」
「ちょっとおおおっ!!」
フェンリスが叫んだ。
「何してるの!?」
そして、少女の肩へ手を伸ばす。
「と、とにかく離れて!」
「むっ!?」
少女は振り向いた。
金色の瞳が、フェンリスを捉える。
「何をするのじゃ!」
「何って! 和真から離れて!」
「嫌じゃ!」
「ええっ!?」
少女は和真へしがみついた。
「わっちはご主人とくっついていたいのじゃ!」
「ご主人!?」
フェンリスが固まる。
和真も固まった。
「……ご主人?」
「うむ!」
少女は元気よく頷いた。
「わっちのご主人じゃ!」
「……俺?」
「そうじゃ!」
そして、また嬉しそうに抱きつく。
「ご主人! わっち、やっとできたのじゃぞ!」
和真は困惑したまま、少女を見つめた。
赤い髪。
狐の耳。
大きな尻尾。
そして、自分を「ご主人」と呼ぶ。
「……えっと……」
何かが引っかかった。
しかし、それが何なのか、まだ分からなかった。
◇◇◇
「和真っ!!」
突然、廊下から声が響いた。
続いて、扉が勢いよく開く。
「何事じゃ!?」
飛び込んできたのは、あおいだった。
その後ろには、みゆとナディア。
「フェンリスの声が聞こえたけど……」
「朝から何を騒いでおる!」
三人が部屋へ入る。
そして――。
「…………」
「…………」
「…………」
全員が固まった。
ベッドの上。
和真にしがみついている赤毛の少女。
少女の肩まで布団を引き上げ、必死に支えている和真。
そして、今にも泣き出しそうなフェンリス。
「…………和真?」
最初に口を開いたのは、みゆだった。
「……その子、誰?」
「……俺にも分からない」
「……は?」
ナディアが眉をひそめる。
「分からないとは、どういうことだ?」
「起きたら隣にいたんだ!」
「……何じゃと?」
あおいの狐耳がぴくりと動いた。
「和真。どうして見知らぬ娘がおぬしの布団におるのじゃ?」
「だから、俺も聞きたいんだって!」
「……しかも」
みゆが少女を見つめる。
「服、着てないよね?」
「だから布団をかけてる!」
「……和真」
ナディアが低い声で名前を呼んだ。
「俺様にも分かるように説明しろ」
「できるなら俺が一番説明してほしいよ!」
完全に混乱していた。
その間も、少女は和真に抱きついたまま離れようとしない。
「……むぅ!」
少女は頬を膨らませた。
「さっきから何を騒いでおるのじゃ!」
「君のことだよ!」
フェンリスが叫ぶ。
「どこから来たの!?」
「どこからって……」
少女はきょとんとした。
そして、当然のように答える。
「わっちは、ずっとここにおったぞ?」
「……え?」
「昨夜もご主人と一緒に寝ておったではないか」
「ええええっ!?」
フェンリスの叫びが再び響いた。
「か、和真っ!!」
「いや、知らないってば!」
「ずっと一緒だったって言ってるよ!?」
「本当に知らないんだよ!」
「ご主人、何を言うておる?」
少女が不満そうに和真を見上げた。
「わっちを忘れたのかえ?」
「いや、その……」
和真は困ったように少女を見つめる。
「……どこかで会った?」
「むぅっ!」
少女はさらに頬を膨らませた。
「ひどいのう! 毎日あれほど可愛がってくれたというのに!」
「毎日!?」
みゆが目を見開く。
「あの、和真?」
「違う! 何か誤解してる!」
「何が違うのじゃ?」
少女は和真の胸元へ顔を押しつけた。
「わっちはご主人のそばがよいのじゃ!」
そう言って、さらにぎゅっと抱きつく。
「ちょっ! とにかく落ち着いて!」
「嫌じゃ!」
フェンリスとあおいが、少女を引き離そうと手を伸ばした。
「ほら、いったん離れよう?」
「そうじゃ。まずは落ち着くのじゃ」
「いーやーじゃー!」
少女は和真にしがみついた。
赤い尻尾が大きく膨らむ。
「わっちはご主人とくっついていたいのじゃ!」
「だから、離れないと話ができないって!」
「嫌なものは嫌じゃ!」
「こ、こら! 暴れないで!」
フェンリスが慌てる。
あおいも困り果てていた。
「まったく、なんと頑固な娘じゃ……!」
「わっちは頑固ではない!」
「十分頑固じゃろう!」
「むぅぅ!」
少女は尻尾を振り回す。
布団が大きく揺れた。
「うわっ! 布団! 布団が落ちる!」
和真が慌てて押さえる。
朝から、和真の部屋は大騒ぎだった。
◇◇◇
「……あの」
そのとき。
扉の向こうから、控えめな声が聞こえた。
「何の騒ぎですか……?」
ひかげだった。
大声を聞きつけて様子を見に来たらしい。
「和真さん、大丈夫ですか?」
「ああ、ひかげ! ちょっと助けて!」
「……え?」
ひかげが部屋の中を覗く。
そして、目を丸くした。
「……あら?」
見知らぬ赤毛の少女。
大きな狐耳。
先端の白い一本の尻尾。
何より、和真へ必死に抱きつく姿。
「…………」
ひかげは少し首を傾げた。
そして、何かに気づいたように呟く。
「……もしかして……」
「ん?」
和真が顔を向ける。
ひかげは少女をじっと見つめた。
「……キツネちゃん、ですか?」
「…………」
一瞬。
部屋が静かになった。
少女は、ぱっと顔を明るくした。
「うむっ!!」
元気よく頷く。
「そうじゃ! やっと気づいたか!」
「…………え?」
和真が固まった。
フェンリスも。
みゆも。
ナディアも。
そして、あおいまで。
「…………」
全員が少女を見つめる。
赤い髪。
白い耳先。
一本の赤い尻尾。
その先端は白い。
何より、和真への懐き方。
「……え?」
和真はゆっくりと口を開いた。
「……キツネちゃん?」
「うむ!」
「……本当に?」
「そうじゃと言うておろう!」
少女は少し得意げに胸を張った。
「わっちじゃ! ご主人!」
そして、満面の笑みを浮かべる。
「ようやく人間の姿になれたのじゃ!」
「…………」
和真は言葉を失った。
そして。
「えええええええええっ!?」
今度は全員の声が重なった。
◇◇◇
「ちょ、ちょっと待って!」
フェンリスが慌てる。
「本当にキツネちゃんなの!?」
「そうじゃ!」
「えっ!? じゃあ、いつも和真の部屋で寝てたあの狐!?」
「わっちじゃ!」
「えええっ!?」
みゆも目を丸くした。
「じゃあ、昨日まで四本足で歩いてたのに!?」
「うむ!」
「どうやったらそうなるの!?」
「変化したのじゃ!」
「だから、それがどうやって!?」
「……む?」
少女は首を傾げた。
「……頑張ったのじゃ!」
「それだけ!?」
みゆが思わず叫ぶ。
ナディアは額を押さえた。
「まったく……朝から何という騒ぎだ」
あおいは少女をじっと見つめていた。
「……なるほどのう」
「何か分かるのか、あおい?」
和真が尋ねる。
「うむ。おそらく、この子は妖狐なのじゃろう」
「……妖狐?」
「わらわと同じ狐の妖じゃ。ただし、わらわとは少し違うようじゃの」
あおいは少女へ視線を向ける。
「おぬし、以前から変化の術を使えたのかえ?」
「いや!」
少女は元気よく首を振った。
「今日が初めてじゃ!」
「……初めて?」
「うむ! 何日も何日も練習したのじゃぞ!」
少女は得意げに笑った。
「それなのに、ちっともできなんだ!」
「……何日も?」
和真が驚いた。
「じゃあ、最近ずっと外にいたのは……」
「練習しておったのじゃ!」
「遊んでたわけじゃなかったのか……」
「むぅ!」
少女は頬を膨らませる。
「ご主人まで遊びだと思うておったのか!」
「ご、ごめん」
「まったく、困ったご主人じゃのう」
そう言いながらも、少女は嬉しそうに笑った。
「じゃが、もうよい!」
そして、両手を広げる。
「見よ! 立派な手ができたのじゃ!」
にぎにぎ。
ぱっ。
「足も二本になったぞ!」
布団の中で足を動かす。
「これでご主人と手を繋げるのじゃ!」
少女は満面の笑みを浮かべた。
そのあまりにも無邪気な姿に、和真は思わず笑ってしまった。
「……そっか」
そして、優しく頭を撫でる。
「頑張ったんだな」
「……っ!」
少女の狐耳がぴんと立った。
「うむっ!」
尻尾が嬉しそうに揺れる。
「わっちは頑張ったのじゃ!」
「偉いな」
「ふふん!」
少女は得意げに笑った。
その姿は、まるで褒められて喜ぶ子狐そのものだった。
◇◇◇
「……それで」
ナディアが腕を組んだ。
「とりあえず、その子に服を着せるのが先ではないか?」
「……あっ」
全員が固まった。
和真は慌てて顔を背ける。
「そ、そうだった!」
「そうだった、ではない!」
ナディアが呆れる。
「フェンリス、何か持ってこい」
「う、うん!」
フェンリスが慌てて部屋を飛び出した。
すると、少女が不思議そうに首を傾げる。
「……服?」
「そうだよ」
和真は顔を背けたまま答える。
「人間の姿になったら、服を着ないと」
「なぜじゃ?」
「なぜって……」
和真が言葉に詰まる。
「……とにかく、人前では服を着るものなんだ」
「ふむ?」
少女は少し考えた。
「……面倒なものじゃのう」
「面倒でも必要なんだよ」
「ご主人も着ておるからかえ?」
「そうそう」
「……ならば、わっちも着る!」
少女はあっさり頷いた。
「ご主人と同じがよいからの!」
和真は苦笑した。
まったく、分かりやすい理由である。
しばらくして、フェンリスが戻ってきた。
「とりあえず、これ!」
持ってきたのは、少し大きめのパーカーと短いズボンだった。
リディアにも事情を話して、急いで用意してもらったらしい。
「サイズが合うか分からないけど……」
「ないよりはいいよ」
和真はそう答えると、ベッドから立ち上がった。
「じゃあ、着替え終わるまで俺は外にいるから」
「む?」
少女が首を傾げる。
「ご主人もおらぬのか?」
「着替えだからな」
「……一緒では駄目かえ?」
「駄目」
和真は即答した。
「むぅ……」
少女は不満そうに頬を膨らませる。
しかし、フェンリスが優しく声をかけた。
「ほら、僕が手伝ってあげるから」
「……仕方あるまい」
少女は渋々頷いた。
和真が部屋を出ると、フェンリスとあおいが着替えを手伝い始めた。
ところが――。
「むっ!?」
「ちょっと、動かないで!」
「これは何じゃ!?」
「パーカーだよ!」
「頭が引っかかったぞ!」
「耳! 耳を倒して!」
「むぅぅ! 窮屈じゃ!」
「もう少しだから!」
部屋の外まで、賑やかな声が響いていた。
和真は廊下で苦笑する。
「……大丈夫かな」
隣にいたナディアが、小さくため息をついた。
「先が思いやられるな」
「……本当に」
しかし、その顔にはどこか楽しそうな笑みが浮かんでいた。
◇◇◇
しばらくして。
「和真! 入っていいよ!」
フェンリスの声が聞こえた。
和真が部屋へ戻ると、そこには――。
「ふふん!」
得意げに胸を張る赤毛の少女が立っていた。
身長は百三十センチほど。
長い赤毛に、白い先端を持つ狐耳。
背後には、大きな一本の尻尾。
白い毛先が、嬉しそうに左右へ揺れていた。
少し大きめのパーカーは袖が余り、短いズボンもウエストを調整している。
それでも、先ほどよりずっと人間の子供らしく見えた。
「……どうじゃ!」
少女が両腕を広げる。
「わっちも、ご主人と同じになったぞ!」
和真は思わず微笑んだ。
「うん。似合ってるよ」
「……っ!」
少女の尻尾が大きく揺れた。
「本当かえ!?」
「ああ、可愛いよ」
「ふふふっ!」
少女は嬉しそうに笑った。
そして、和真へ駆け寄る。
「ご主人っ!」
「おっと!」
勢いよく抱きついてきた少女を、和真が受け止めた。
「わっち、可愛いかえ!?」
「うん、可愛い可愛い」
「ふふん!」
少女は満足そうに頷いた。
すると、フェンリスが呆れたように笑う。
「もう、本当に和真が大好きなんだね」
「当たり前じゃ!」
少女は即答した。
「ご主人は、わっちの大事なご主人じゃからの!」
その言葉に、和真は少し照れくさそうに笑った。
◇◇◇
それから少しして。
リビングには、空色唐辛子荘の住人たちが集まっていた。
中央のソファには和真。
その隣には、赤毛の少女。
少女は和真の袖をしっかりと握っていた。
反対側にはフェンリス。
さらに、みゆ、あおい、ナディア、ユエ、リディア、酒菜、ひかげ、ピピが集まっている。
「……さて」
最初に口を開いたのはユエだった。
「まず、状況を整理しましょうか」
冷静な声。
しかし、その視線は和真へ向けられていた。
「和真」
「……はい」
「あなた、朝から随分と騒ぎを起こしてくれたわね」
「いや、俺が起こしたわけじゃ……」
「結果として、あなたの部屋が騒ぎの中心になったのは事実でしょう?」
「……それはそうだけど」
和真が困ったように頬を掻く。
すると、フェンリスが口を開いた。
「本当にびっくりしたんだからね!」
「……ごめん」
「起こしに行ったら知らない女の子が隣で寝てるんだよ!?」
「俺だってびっくりしたよ!」
「僕、心臓が止まるかと思ったんだから!」
フェンリスは頬を膨らませた。
みゆも頷く。
「僕も驚いたよ。叫び声が聞こえたから行ったら、あんなことになってるんだもん」
「しかも、本人は何も分かっておらぬ様子じゃったしのう」
あおいも小さくため息をついた。
「……本当に知らなかったんだって」
和真が反論する。
しかし、ユエは腕を組んだまま続けた。
「事情は分かったわ。あなたに非があるわけではないこともね」
「……なら」
「ただし」
ユエの声が少し強くなる。
「この子がこれからも人間の姿で生活するなら、今までと同じ扱いでは駄目よ」
「……ああ」
「着替えも必要。寝床も考えなければならない。何より、この子はまだ人間の生活をほとんど知らないでしょう?」
その言葉に、和真は頷いた。
「……そうだな」
「可愛がるだけではなく、きちんと教えてあげなさい」
「分かったよ」
和真が真剣に答える。
すると、ユエは小さく息をついた。
「……なら、いいわ」
ひとまず説教は終わったらしい。
和真はほっと胸を撫で下ろした。
しかし――。
「……それで」
今度は酒菜が口を開いた。
「一つ聞いていいか?」
「ん?」
「お前、昨夜は本当に何も気づかなかったのか?」
「……ああ」
和真は頷いた。
「キツネちゃんが布団に入ってきたことすら、覚えてない」
「……寝てる間に潜り込んだのか」
「多分な」
すると、少女が元気よく手を上げた。
「うむ! わっちが潜り込んだのじゃ!」
「……やっぱり」
和真が苦笑する。
「だって、ご主人が一人で寝ておったからのう!」
少女は嬉しそうに笑った。
「わっちも一緒に寝たかったのじゃ!」
あまりにも素直な答えだった。
酒菜はしばらく少女を見つめた後、豪快に笑った。
「はははっ! なるほどな!」
「笑い事じゃないよ!」
フェンリスが抗議する。
「いや、悪い悪い」
酒菜は笑いながら肩を揺らした。
「でもまあ、本人にしてみりゃ、いつもと同じつもりだったんだろ?」
「……そうじゃ!」
少女が元気よく頷く。
「わっちは、いつもご主人のそばで寝ておるからの!」
「……まったく」
ナディアが呆れたように息をついた。
「狐のままなら誰も驚かんが、人間の姿では話が違うぞ」
「む?」
少女は首を傾げた。
「何が違うのじゃ?」
「……そこから説明せねばならんのか」
ナディアは額を押さえた。
その様子に、リビングから小さな笑い声が上がった。
◇◇◇
「ところで……」
リディアが少女へ視線を向けた。
「一つ、お聞きしてもよろしいですか?」
「む?」
「あなたには、お名前があるのですか?」
その言葉に、少女の耳がぴんと立った。
「……おおっ!」
ぱっと顔が明るくなる。
「そうじゃ!」
少女は勢いよく立ち上がった。
そして、和真へ向き直る。
「ご主人!」
「ん?」
「わっちには、ちゃんと名前があるのじゃ!」
「……名前?」
「うむ!」
少女は嬉しそうに頷いた。
ずっと伝えたかった。
何度も何度も、伝えようとした。
けれど、狐の姿では言葉にならなかった。
ようやく。
ようやく、伝えられる。
少女は嬉しそうに胸を張った。
「わっちの名は、紅月じゃ!」
「……紅月?」
「うむ! あかつき、と読むのじゃ!」
和真は目を丸くした。
「……紅月」
「そうじゃ!」
少女は満面の笑みを浮かべた。
「母さまがつけてくれた、大切な名前なのじゃぞ!」
その言葉に、リビングが少し静かになった。
和真は少女を見つめる。
そして、優しく微笑んだ。
「……そっか」
そっと頭へ手を伸ばす。
「いい名前だな、紅月」
「…………っ!」
紅月の目が大きく見開かれた。
和真が、自分の名前を呼んでくれた。
初めて。
ずっと呼んでほしかった名前を。
「……ご主人……」
「紅月」
和真がもう一度呼ぶ。
「これからは、ちゃんと名前で呼べるな」
「…………」
紅月の尻尾が、ゆっくりと揺れた。
そして――。
「……うむっ!!」
満面の笑み。
「わっちは紅月じゃ!」
和真へ勢いよく抱きつく。
「ご主人! もう一度呼んでくりゃれ!」
「紅月」
「もう一度!」
「紅月」
「もう一度じゃ!」
「何回言わせるんだよ!」
「何度でも聞きたいのじゃ!」
紅月は嬉しそうに笑った。
その姿を見て、フェンリスも自然と微笑んだ。
「……そっか。紅月っていうんだね」
「うむ!」
「可愛い名前だね!」
みゆも笑顔で頷いた。
「紅月かぁ。いい名前じゃない」
「ふふっ。母親からもらった、大切な名なのじゃな」
あおいも優しく微笑む。
「うむ!」
紅月は嬉しそうに頷いた。
ひかげも、ほっとしたように笑った。
「やっとお名前、教えてもらえましたね」
「そうじゃ!」
紅月は得意げに胸を張った。
「わっちは、ずっと教えとうて仕方なかったのじゃ!」
その言葉に、和真は少し申し訳なさそうに笑った。
「……ごめんな。今までキツネちゃんって呼んでて」
「ふふん! もうよい!」
紅月は笑った。
「これからは紅月と呼んでくれれば、それでよいのじゃ!」
「分かったよ、紅月」
「うむっ!」
嬉しそうな返事。
その笑顔を見て、和真も自然と笑みを浮かべた。
◇◇◇
「さて、名前も分かったところで……」
リディアが再び口を開いた。
「今後の生活について、少し考えなければなりませんね」
「そうだな」
和真が頷く。
すると、紅月が首を傾げた。
「……今後?」
「うん。紅月がこれからどうやって暮らすかって話だよ」
「む?」
紅月は不思議そうな顔をした。
「今までと同じではいかんのか?」
「同じって?」
「ご主人と一緒におって、ご飯を食べて、眠るのじゃ!」
紅月は当然のように答えた。
「それで十分ではないか!」
あまりにも迷いのない答えに、和真は思わず笑った。
「まあ、基本的にはそうなんだけどさ」
「ふむ?」
リディアが優しく説明する。
「人間の姿になった以上、必要なものが増えるんですよ」
「必要なもの?」
「まず、お洋服ですね」
「……服かえ?」
「はい。それから靴や下着、寝間着なども必要です」
「……ふむ」
紅月は自分の服を見下ろした。
少し大きめのパーカー。
長すぎる袖。
動くたびに、袖の中で手が隠れてしまう。
「……確かに、少し大きいのう」
「でしょう?」
リディアが微笑む。
「きちんと身体に合うものを用意しましょう」
すると、みゆが楽しそうに手を上げた。
「はい!」
「……何かしら?」
ユエが顔を向ける。
「僕、紅月の服を選びたい!」
「おっ、いいね!」
フェンリスも乗り気になった。
「僕も手伝うよ!」
「ふふっ。ならば、わらわも一緒に選ぼうかの」
あおいまで楽しそうに笑った。
「……む?」
紅月は三人を見つめた。
「……服を選ぶのかえ?」
「そうだよ!」
フェンリスが笑顔で答える。
「紅月に似合う服を、いっぱい探そう!」
「……いっぱい?」
「うん!」
みゆも頷いた。
「可愛い服とか、動きやすい服とか!」
「……可愛い服……」
紅月は少し考えた。
そして、和真を見上げる。
「……ご主人」
「ん?」
「わっちが可愛い服を着たら、褒めてくれるかえ?」
「もちろん」
「……本当かえ?」
「ああ。似合ってたら、ちゃんと言うよ」
「……ふふふっ!」
紅月の尻尾が大きく揺れた。
「ならば、いっぱい買うのじゃ!」
「おいおい!」
和真が慌てる。
「予算ってものがあるんだからな!?」
「……よさん?」
「お金のこと!」
「……む?」
紅月は首を傾げた。
「……ご主人は、お金が足りぬのかえ?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「ならば、問題あるまい!」
「大ありだよ!」
そのやり取りに、リビングから笑い声が上がった。
◇◇◇
「それから、もう一つ」
あおいが紅月へ顔を向けた。
「紅月。おぬし、狐の姿へ戻ることはできるのかえ?」
「……む?」
紅月は首を傾げた。
そして、少し考える。
「……そういえば」
自分の手を見る。
尻尾を見る。
それから、あおいへ視線を戻した。
「……試しておらなんだ」
「……ふむ」
あおいは頷いた。
「では、少しやってみるかの?」
「うむ!」
紅月は元気よく返事をした。
そして、ソファから降りる。
リビングの中央へ進むと、目を閉じた。
「……よし!」
胸の前で両手を握る。
「今度は、狐になるのじゃ!」
ぎゅっと目を閉じる。
身体へ力を込めた。
…………。
…………。
「……む?」
何も起こらない。
紅月は目を開けた。
自分の手を見る。
人間の手のままだった。
「……おや?」
首を傾げる。
そして、もう一度。
「狐になるのじゃ!」
…………。
…………。
やはり、何も起こらなかった。
「……むむむ?」
紅月は困ったように眉を寄せた。
「……おかしいのう」
もう一度、力を込める。
「むぅぅぅっ!」
尻尾がぴんと伸びる。
耳も立つ。
しかし――。
何も変わらなかった。
「…………」
紅月はしばらく自分の手を見つめた。
そして。
「……戻れぬ」
ぽつりと呟いた。
「……え?」
フェンリスが目を丸くする。
「戻れないの!?」
「……うむ」
紅月は少し困ったように頷いた。
「どうやら、そのようじゃ」
「……ふむ」
あおいが考え込む。
「初めての変化ゆえ、まだ術をうまく扱えておらぬのかもしれぬのう」
「そうなのか?」
和真が尋ねる。
「断言はできぬ。じゃが、変化できた以上、戻る方法もあるはずじゃ」
あおいは紅月へ微笑んだ。
「慌てることはない。少しずつ練習すればよいのじゃ」
「……そうかえ?」
「うむ。わらわも手伝おう」
「……おおっ!」
紅月の表情が明るくなった。
「ならば、頼むのじゃ!」
「ふふっ。任せておくれ」
あおいは優しく微笑んだ。
すると、和真も口を開いた。
「まあ、しばらく人間の姿でも問題ないだろ」
「そうね」
ユエが頷く。
「少なくとも、この家の中なら問題ないわ」
「ただ、外出するときは少し気をつけた方がいいですね」
リディアが続ける。
「耳や尻尾を見られると、騒ぎになるかもしれませんから」
「……確かにな」
和真は紅月を見る。
赤い狐耳。
大きな一本の尻尾。
どちらも、普通の人間にはないものだ。
「外に出るときは、服装も考えないとな」
「フード付きの服とか、よさそうですね」
ひかげが控えめに提案した。
「耳も隠しやすいですし」
「そうですね。尻尾を隠せる上着も探しましょう」
リディアが頷く。
「……ふむ」
紅月は難しそうな顔をした。
「人間の姿というのも、なかなか面倒じゃのう」
その言葉に、ナディアが笑った。
「望んで変化したのではないのか?」
「それはそうじゃが……」
紅月は少し考えた。
そして、和真へ顔を向ける。
「……まあ、よい!」
「ん?」
「ご主人と手を繋げるのじゃから、多少の面倒など構わぬ!」
そう言って、和真の手を握った。
ぎゅっ。
「……ふふん!」
得意げな笑顔。
和真は思わず微笑んだ。
「……そっか」
そして、紅月の小さな手を握り返す。
「じゃあ、これからいっぱい練習しような」
「うむっ!」
紅月は嬉しそうに頷いた。
◇◇◇
「それで、寝る場所はどうする?」
酒菜が尋ねた。
「今までどおり和真の部屋か?」
その言葉に、紅月が勢いよく顔を上げた。
「当然じゃ!」
「……即答だな」
酒菜が笑う。
「わっちはご主人のそばで眠るのじゃ!」
紅月は和真の腕へ抱きついた。
「ほかの場所など嫌じゃぞ!」
「……まったく」
ナディアが苦笑する。
「随分と和真に懐いたものだな」
「……まあ、今までずっと俺の部屋だったし」
和真は紅月の頭を撫でた。
「急に寝る場所を変えるのも可哀想だろ」
「……そうね」
ユエが頷く。
「ただし、寝具は別に用意した方がいいわ」
「そうだな」
「それに、紅月には人間の生活を覚えてもらう必要があるわね」
ユエは紅月へ視線を向けた。
「いい? 紅月」
「む?」
「人間の姿で暮らすなら、着替えや入浴、それから寝るときの決まりも覚えなければならないの」
「……決まり?」
「そうよ。和真が着替えているときは勝手に入らないこと。自分が着替えるときも、きちんと扉を閉めること」
「……ふむふむ」
紅月は真剣な顔で頷いた。
「それから、何でも舐めればいいというものでもないわ」
「……むっ!?」
紅月が驚いたように顔を上げた。
「なぜじゃ!?」
「人間は、狐とは違うのよ」
「……むぅ」
紅月は頬を膨らませた。
「ご主人が好きゆえ、舐めておるだけなのじゃが……」
その言葉に、和真は優しく笑った。
「気持ちは嬉しいよ。でも、これからは言葉でも伝えられるだろ?」
「……言葉?」
「ああ」
和真は紅月の頭を撫でた。
「大好きって言ってくれれば、ちゃんと分かるから」
「…………」
紅月は目を丸くした。
そして、ぱっと笑顔になる。
「……なるほど!」
嬉しそうに尻尾を振る。
「ならば、ご主人!」
「ん?」
「わっちはご主人が大好きじゃ!」
「うん。ありがとう、紅月」
「大好きじゃぞ!」
「うん」
「とーっても大好きなのじゃ!」
「分かった分かった!」
和真が笑う。
すると、紅月はさらに嬉しそうに抱きついた。
「ふふふっ!」
その姿を見て、フェンリスも笑った。
「……本当に甘えん坊だね」
「そうだね」
みゆも楽しそうに頷いた。
「僕たちより、ずっと素直かも」
「……それはどういう意味だ?」
ナディアが顔を向ける。
「んー? 別に?」
みゆが悪戯っぽく笑う。
「……おい」
ナディアが眉をひそめた。
そんな二人のやり取りに、また笑い声が上がった。
◇◇◇
「それでは……」
リディアが手帳を開いた。
「明日は紅月の身の回りのものを買いに行きましょうか」
「賛成!」
フェンリスが元気よく手を上げた。
「僕も行く!」
「僕も!」
みゆも続く。
「ふふっ。わらわも手伝おうかの」
あおいも微笑んだ。
「……じゃあ、俺が車を出すよ」
和真が答える。
「買うものが多くなりそうだしな」
「そうですね」
リディアは頷き、手帳へ必要なものを書き込んでいく。
「洋服、下着、靴、寝間着、日用品、それから寝具も必要ですね」
「あと、髪を整えるものもあった方がいいんじゃない?」
みゆが紅月の長い赤毛を見ながら言った。
「そうですね。ブラシや髪留めも必要でしょう」
「お風呂道具もいるよね!」
フェンリスが続ける。
「そうね。人間の姿なら、自分で身体を洗うことも覚えてもらわないと」
ユエが頷いた。
「……むぅ?」
紅月はみんなの顔を交互に見つめた。
次々と出てくる知らない言葉。
服。
靴。
下着。
寝具。
髪留め。
何だか、ずいぶん大変そうだ。
「……ご主人」
「ん?」
「人間というのは、ずいぶん物入りなのじゃな」
「ははっ。そうだな」
和真は笑った。
「でも、紅月に必要なものだからさ」
「……ふむ」
紅月は少し考えた。
そして、嬉しそうに笑う。
「ならば、わっちも行く!」
「もちろん」
「ご主人も一緒じゃな!?」
「ああ」
「ふふん!」
紅月は満足そうに頷いた。
そして、和真の手をぎゅっと握る。
「楽しみじゃのう!」
「……買い物に行くだけだぞ?」
「それがよいのじゃ!」
紅月は満面の笑みを浮かべた。
「ご主人と手を繋いで歩けるのじゃからな!」
その言葉に、和真は一瞬だけ目を丸くした。
そして、優しく微笑む。
「……そっか」
紅月の頭を撫でる。
「じゃあ、明日は一緒に行こうな」
「うむっ!」
嬉しそうな返事。
大きな尻尾が、左右に揺れた。
◇◇◇
こうして、突然の大騒動はひとまず落ち着いた。
赤狐だった紅月が、初めて人間の姿へ変化した。
それは、空色唐辛子荘の住人たちにとっても、大きな出来事だった。
しかし、当の本人はというと――。
「ご主人!」
「ん?」
「手を繋ぐのじゃ!」
「はいはい」
「ご主人!」
「今度は何だ?」
「抱っこしてくりゃれ!」
「さっきしただろ?」
「もう一度じゃ!」
「……まったく」
和真は苦笑しながら紅月を抱き上げた。
「ふふふっ!」
紅月は嬉しそうに笑う。
その姿を見て、フェンリスが呆れたように呟いた。
「……これ、和真の甘やかす相手が一人増えただけじゃない?」
「……僕もそう思う」
みゆが頷く。
ナディアも腕を組んだ。
「まったく。和真は昔から、こういう相手に弱いからな」
「ふふっ。紅月もよい者を見つけたものじゃのう」
あおいが楽しそうに笑った。
「……笑い事じゃない気がするんだけど」
フェンリスが苦笑する。
すると、紅月が和真の腕の中から顔を向けた。
「む?」
「……どうしたの?」
「おぬしらも、ご主人に甘えればよいではないか!」
「……え?」
フェンリスが目を丸くした。
みゆも首を傾げる。
すると、紅月は得意げに笑った。
「ご主人は優しいからの! きっと、いっぱい撫でてくれるぞ!」
「…………」
フェンリスとみゆは顔を見合わせた。
そして――。
「……そうだね!」
「……確かに!」
二人が同時に笑った。
「和真!」
「僕も!」
「僕も甘えたい!」
「……え?」
和真が固まる。
すると、ナディアまで立ち上がった。
「ふん。俺様も忘れてもらっては困るぞ」
「……ちょっと待て!」
さらに、あおいが楽しそうに微笑んだ。
「ふふっ。わらわも和真のそばがよいのう」
「……あおいまで!?」
そして。
「ご主人!」
紅月が嬉しそうに叫ぶ。
「わっちもじゃ!」
「お前はもう抱っこしてるだろ!?」
「まだ足りぬ!」
「えええっ!?」
和真の悲鳴が、リビング中に響き渡った。
その様子を見ていた酒菜は、大きな声で笑い始めた。
「ははははっ! こりゃ大変だな!」
リディアも困ったように微笑む。
「……和真も、ますます忙しくなりそうですね」
ひかげは小さく笑いながら、紅月の嬉しそうな顔を眺めていた。
「でも……よかったですね」
「……何がだ?」
酒菜が尋ねる。
ひかげは優しく微笑んだ。
「紅月ちゃん、ずっと何か伝えたそうにしてはりましたから」
そう言って、和真の腕の中にいる紅月へ視線を向ける。
「やっと、自分の言葉でお話しできるようになったんですね」
「……ああ」
酒菜は小さく頷いた。
そして、嬉しそうに笑う紅月を見つめた。
「……そうだな」
◇◇◇
その日の夜。
和真の部屋。
紅月は新しく用意してもらった寝間着を着て、和真の隣に座っていた。
まだ少し大きな服。
けれど、紅月はとても気に入っていた。
「……ふふふっ」
「どうした、紅月?」
「何でもないのじゃ」
そう答えながら、紅月は自分の手を見つめる。
五本の指。
人間の手。
今朝まで、ずっと欲しかったもの。
紅月はそっと手を伸ばした。
そして、和真の手を握る。
ぎゅっ。
「……ご主人」
「ん?」
「……わっちは、今とても幸せじゃ」
和真は紅月を見つめた。
紅月は嬉しそうに微笑む。
「ご主人とお話しできる」
「……うん」
「名前も呼んでもらえる」
「……ああ」
「こうして、手も繋げる」
紅月は和真の手をもう一度握った。
「……ずっと、こうしたかったのじゃ」
和真は静かに微笑んだ。
そして、紅月の頭を優しく撫でる。
「……そっか」
「うむ!」
紅月は嬉しそうに目を細めた。
「……ご主人」
「どうした?」
「……わっちは、ご主人が大好きじゃ」
その言葉は、とても素直だった。
恋というものを、紅月はまだ知らない。
誰かを好きになること。
誰かと一緒にいたいと思うこと。
その気持ちに、いろいろな形があることも。
まだ、何も知らなかった。
ただ。
自分を助けてくれた人。
優しくしてくれた人。
帰る場所をくれた人。
その人のそばにいたい。
それだけだった。
「……俺も紅月のこと、大切に思ってるよ」
和真が優しく答える。
「……本当かえ?」
「ああ」
「……ふふっ」
紅月は嬉しそうに笑った。
そして、和真へぎゅっと抱きつく。
「……ならば、これからもよろしく頼むのじゃ!」
「……こちらこそ」
和真は笑いながら、その小さな頭を撫でた。
やがて、紅月は用意してもらった布団へ潜り込んだ。
和真の部屋の中。
すぐ近くには、大好きなご主人がいる。
「……ご主人」
「ん?」
「……明日は、いっぱい手を繋ごうの」
「ああ、約束」
「……ふふっ」
紅月は満足そうに目を閉じた。
九尾の狐でもなく。
猫又でもなく。
狼の獣人でもない。
一本の尻尾を持つ、小さな妖狐。
その名は、紅月。
母親からもらった大切な名前を、ようやく大好きな人に伝えることができた。
そして、明日。
紅月にとって初めての、人間の姿でのお出かけが待っている。
もちろん。
彼女はまだ知らなかった。
人間の世界には、見たこともないものが山ほどあることを。
そして、自分の好奇心が、さらに大きな騒動を引き起こすことになるなど。
「……おやすみ、ご主人」
「おやすみ、紅月」
静かな寝室。
窓の外では、冬の風が優しく木々を揺らしていた。
紅月は幸せそうに微笑みながら、ゆっくりと眠りについた。




