第六十五話 小さな赤狐の帰る場所
――ザッ、ザザッ!
静かな山の中を、一匹の赤狐が必死に駆け抜けていた。
鮮やかな赤朱色の毛並み。
白い胸元と耳先。
そして、身体に不釣り合いなほど大きな、先端の白い尻尾。
紅月だった。
「はっ……はっ……!」
小さな口から荒い息が漏れる。
背後を振り返る。
もう追っ手の姿は見えない。
人間たちの声も、足音も聞こえなくなっていた。
それでも紅月は走るのをやめなかった。
また捕まるかもしれない。
そう思うだけで、身体が勝手に動いてしまう。
「……くぅっ!」
草むらへ飛び込み、木々の間を縫うように走る。
小さな身体だからこそ通り抜けられる隙間を選び、できるだけ人間の通れない場所へ向かった。
しばらくして、ようやく大きな倒木の陰へ潜り込む。
「はぁ……はぁ……」
紅月はその場に伏せ、荒い呼吸を繰り返した。
耳だけは立てたまま、周囲の音を探る。
風の音。
木の葉が擦れる音。
遠くで鳴く鳥の声。
人間の気配は、もう感じられなかった。
「……くぅん」
ほっとした途端、全身から力が抜けた。
紅月は自分の前脚へ鼻先を近づける。
昨日まで痛かった身体。
歩くことさえつらかった脚。
けれど、今は痛みがない。
あの人間が触れてくれた場所は、すっかり治っていた。
紅月は目を閉じる。
すると、あのときの光景が蘇った。
傷つき、動けなくなっていた自分。
近づいてくる人間たち。
恐ろしくて、必死に牙を剥いた。
あの男が手を伸ばしてきたときも、思い切り噛みついた。
なのに。
男は怒らなかった。
逃げようとする自分へ、何度も優しく声をかけてくれた。
そして、温かな何かが身体を包み込んだ。
痛みが消えた。
苦しさがなくなった。
それまで張り詰めていたものがほどけ、気がつけば眠ってしまっていた。
目を覚ましたとき、男たちはもういなかった。
けれど、食べ物と水が置かれていた。
自分のために残してくれたものだった。
「……こん」
紅月は小さく鳴いた。
もう一度、あの人間に会いたい。
どうしてそう思うのか、自分でもよく分からなかった。
人間は怖い。
あの男だって人間だ。
それなのに、不思議とあの手は怖くなかった。
紅月は身体を起こした。
そして、暗い山の向こうを見つめる。
あの男たちは、山を下りていった。
自分を追いかけてきた人間たちとは反対の方角だ。
どこへ行ったのかは分からない。
それでも。
「……こんっ!」
紅月は再び歩き始めた。
◇ ◇ ◇
山を下りる道のりは、思っていたよりもずっと長かった。
何度も道を間違えた。
草むらを抜けた先が崖になっていて、引き返したこともあった。
小さな沢を見つけ、喉を潤した。
石の上に座って少し休み、また歩き始める。
空腹だった。
眠かった。
何より、一匹きりでいることが心細かった。
それでも、紅月は足を止めなかった。
やがて、山道の先に人間の住む場所が見えてきた。
家。
道路。
明かり。
そして、時折走り抜ける車。
「……っ!」
突然聞こえたエンジン音に驚き、紅月は慌てて茂みへ飛び込んだ。
しばらくじっとしていると、車は遠くへ走り去っていった。
「……くぅ」
恐る恐る顔を出す。
知らないものばかりだ。
山の中とは違う匂い。
知らない音。
人間の気配。
紅月は警戒しながら、家々の裏手を進んだ。
時折、犬の鳴き声が聞こえる。
そのたびに足を止め、身を低くした。
遠くで人間の声がすれば、物陰に隠れてやり過ごす。
何度も同じ場所を歩いてしまった。
知らない道へ入り込み、戻れなくなりかけたこともあった。
いつしか夜が明け、空が明るくなっていた。
「……くぅん」
紅月は小さな身体を丸め、民家の裏に積まれた木材の陰へ潜り込んだ。
疲れた。
もう、歩きたくない。
あの男には会えないのだろうか。
そんなことを考えながら、鼻先を前脚の間へ埋める。
けれど、そのとき。
――ふわり。
朝の風が吹き抜けた。
紅月の耳が動く。
「……?」
鼻をひくつかせた。
もう一度。
「くん……くん……」
何か、知っている匂いが混じっている。
昨日、あの男の近くで感じた匂い。
ほんのわずかだった。
他の匂いに紛れて、すぐに分からなくなってしまいそうなほど。
それでも紅月には、覚えがあった。
「……こん?」
ゆっくりと顔を上げる。
風上の方へ鼻先を向けた。
「くん、くん……!」
間違いない。
あの男の匂いだ。
「こんっ!」
紅月は勢いよく立ち上がった。
疲れていた身体に、再び力が戻る。
匂いを確かめながら、建物の間を進む。
途中で分からなくなれば立ち止まり、風が吹くのを待った。
少し進んでは、また確かめる。
それを何度も繰り返した。
すると、次第に覚えのある匂いが増えてきた。
あの男だけではない。
銀色の髪をした少女。
猫の耳を持った少女。
空を飛んでいた少女。
昨日、あの男と一緒にいた者たちの匂いだ。
「こんっ、こんっ!」
紅月は思わず嬉しそうに鳴いた。
近い。
あの人間たちが、近くにいる。
もう少し。
あと少し。
そして、ついに。
紅月は大きな敷地の前で足を止めた。
そこには古い母屋と、住人たちが暮らすアパートが建っていた。
敷地には木々が植えられ、朝の柔らかな日差しが差し込んでいる。
「……こん?」
紅月は首を傾げた。
知らない場所だった。
けれど、ここから漂ってくる匂いには覚えがある。
間違いなく、あの男たちの匂いだった。
「……くぅん」
紅月はそっと敷地へ足を踏み入れた。
警戒しながら周囲を見回す。
人間の姿はない。
静かだった。
少しだけ安心し、さらに奥へ進んでいく。
そのとき。
「コッコッコッ」
「……?」
聞き慣れない声がした。
紅月の耳がぴんと立ち上がる。
「コケッ、コケッ」
どうやら母屋の裏手から聞こえてくるらしい。
紅月は興味を引かれ、そちらへ歩いていった。
すると。
「……こん?」
そこには、鶏小屋があった。
柵の向こうでは、何羽もの雌鶏が元気に動き回っている。
紅月は目を丸くした。
鳥だ。
それも、たくさんいる。
「……くん、くん」
美味しそうな匂いがした。
思わずお腹が鳴る。
山の家に置かれていた食べ物を口にして以来、何も食べていない。
紅月はそろそろと鶏小屋へ近づいた。
柵の前に座り、じっと中を見つめる。
「……こん」
一羽の雌鶏がこちらを向いた。
「コッ?」
「……こん?」
しばらく見つめ合う。
次の瞬間。
「コケエエエエッ!!」
「――っ!?」
突然の鳴き声に、紅月は飛び上がった。
それにつられるように他の雌鶏たちも騒ぎ出す。
「コケッ! コケコケッ!」
「コケエエッ!」
「こ、こんっ!?」
紅月は慌てて後ずさった。
何もしていない。
ただ見ていただけなのに。
どうしてこんなに騒ぐのだろう。
紅月は困ったように首を傾げた。
そのとき。
「……何の騒ぎ?」
背後から声が聞こえた。
紅月の身体がびくりと震える。
ゆっくり振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。
ユエだった。
朝の用事を済ませに来たユエは、騒がしい鶏小屋に眉をひそめていた。
「朝から随分うるさいわね……って」
その視線が、柵の前に座る赤狐へ向けられる。
「……狐?」
「……こん?」
ユエは目を瞬かせた。
鶏小屋。
騒ぐ雌鶏たち。
その前にいる、一匹の狐。
状況を見れば、考えられることは一つだった。
「ちょっと、あんた!」
「……っ!」
「まさか、うちの鶏を狙ってたんじゃないでしょうね?」
紅月は驚いて後ずさった。
知らない人間だ。
しかも、こちらへ近づいてくる。
「グルルル……!」
紅月は牙を剥いた。
ユエは立ち止まる。
「威嚇したって駄目よ。ここには大切に育ててる鶏がいるんだから」
「グルルル……!」
「だから、落ち着きなさいって」
ユエが一歩近づく。
紅月は一歩下がる。
「……まったく。朝から面倒なことになったわね」
ユエはため息をついた。
その間も紅月は、逃げる隙を探していた。
怖い。
また捕まる。
せっかくあの人間の匂いを見つけたのに。
ここまで来たのに。
「……くぅっ!」
紅月は身を翻して走り出そうとした。
しかし。
「――あっ、こら!」
ユエの反応は早かった。
疲れて動きの鈍った紅月が逃げ切るより先に、その身体をひょいと抱え上げる。
「捕まえた!」
「こ、こんっ!?」
突然身体が宙へ浮いた。
紅月は驚き、四本の脚をばたばたと動かす。
「こんっ! こんっ!」
「ちょっと! 暴れないの!」
「グルルルッ!」
「痛っ! 爪を立てないでってば!」
ユエは身体を引っかかれながらも、落とさないように紅月を抱え直した。
「もう……!」
改めて腕の中の狐を見る。
鮮やかな赤朱色の毛。
白い胸元。
ふわふわの大きな尻尾。
よく見ると、随分と綺麗な狐だった。
「……それにしても、珍しい毛色ね」
「……くぅっ!」
「はいはい。分かったから暴れないで」
ユエは困ったように眉を寄せた。
野生の狐なら、このまま外へ逃がすべきだろう。
けれど、鶏小屋を狙われては困る。
それに、この狐の様子も少し気になった。
ひどく疲れているように見えるのだ。
身体は痩せ気味で、毛並みには枯れ葉や土が付いている。
何より、必要以上に人間を怖がっている。
「……何か事情でもあるのかしら」
ユエは小さく呟いた。
「とりあえず、和真に相談するか」
その名前を口にしたときだった。
「……っ!」
紅月の動きが止まった。
ぴんと耳が立つ。
そして、じっとユエの顔を見つめた。
「……?」
ユエは首を傾げる。
「何よ。急に大人しくなって」
「……こん?」
「和真に相談するって言っただけでしょ?」
「……こんっ!」
紅月の尻尾が小さく揺れた。
その様子にユエはますます不思議そうな顔をする。
「……まさか、和真を知ってるの?」
「こんっ! こんっ!」
「……え?」
紅月は必死に鳴いた。
もちろん、ユエにはその意味までは分からない。
けれど、先ほどまで逃げようとしていた狐が、今は明らかに何かを訴えている。
「……何なのよ、もう」
ユエは困惑しながらも、紅月を抱えたまま歩き始めた。
「とにかく、和真に見てもらいましょう」
アパートへ向かう。
その腕の中で、紅月はじっと前を見つめていた。
近づくにつれ、あの懐かしい匂いが強くなっていく。
優しかった人間。
自分を助けてくれた人間。
あの人がいる。
「……くぅん」
紅月は小さく鼻を鳴らした。
その尻尾は、いつの間にか嬉しそうに揺れ始めていた。
◇ ◇ ◇
その頃。
空色唐辛子荘のアパートでは、和真がようやく目を覚ましたところだった。
「……ん……」
カーテンの隙間から、柔らかな朝日が差し込んでいる。
いつもなら、そろそろ起きている時間だ。
けれど、今日は身体が妙に重かった。
いや、正確には。
「……動けない」
和真は小さく呟いた。
右腕には、銀髪の狼娘。
左腕には、猫又の少女。
二人がそれぞれ和真に抱きついたまま、幸せそうな寝息を立てていた。
「……すぅ……和真ぁ……」
フェンリスが寝言を漏らし、さらに身体を寄せてくる。
その反対側では、みゆが和真の胸元に頬を擦り寄せた。
「んにゃ……もう少し……」
和真は天井を見つめた。
昨夜のことが、鮮明に思い出される。
二人に誘われ、どちらか一人にしようとしたこと。
みゆがそれを許さず、フェンリスまで巻き込んでしまったこと。
そして、散々戸惑った末に、三人で愛し合ったこと。
「……はぁ」
思わず顔が熱くなった。
ベッドの脇には、昨夜脱いだ服が置かれている。
布団の中では、二人の素肌の温もりが伝わってきた。
何より、互いの身体を重ねたあとも、三人はずっと抱き合って眠っていた。
和真は改めて二人の寝顔を見つめる。
みゆは満足そうに口元を緩めていた。
フェンリスも、普段以上に幸せそうな顔をしている。
そんな二人を見ていると、自然と笑みがこぼれた。
「……まったく」
小さく呟き、二人を起こさないように髪を撫でる。
すると。
「……んふふ」
左側から笑い声がした。
「……みゆ?」
「おはよ、和真」
みゆが片目を開け、悪戯っぽく笑った。
「起きてたのか?」
「さっきからね」
「だったら起きてくれよ。身動き取れないんだけど」
「やだ」
即答だった。
「……おい」
「だって、まだこうしてたいもん」
みゆはそう言うと、和真の胸元へ頬を寄せた。
「それに……」
「ん?」
「昨日の和真、すっごく優しかったから」
「……っ!」
和真の顔が一気に赤くなる。
みゆはそんな反応を楽しむように、くすくすと笑った。
「ねえ、和真」
「……何だよ」
「昨日、幸せだった?」
少しだけ真面目な声だった。
和真はみゆを見つめる。
昨夜の出来事。
初めこそ戸惑ってばかりだったが、二人がどれほど自分を大切に思ってくれているのか、改めて感じることができた。
「……ああ。幸せだったよ」
そう答えると、みゆの頬がほんのり赤くなった。
「……そっか」
そして、嬉しそうに目を細める。
「僕もだよ」
みゆは少し身体を起こすと、和真の頬へそっと口づけた。
「……大好き」
「……俺も、みゆのこと大切に思ってるよ」
「んふふ。知ってる」
満足そうな笑顔だった。
すると。
「……むぅ」
右側から不満そうな声が聞こえた。
「……僕もいるんだけど」
フェンリスだった。
いつの間にか目を覚ましていたらしい。
銀色の髪を少し乱したまま、頬を膨らませている。
「おはよう、フェンリス」
「……おはよ」
「よく眠れたか?」
「……うん」
答えながら、フェンリスは和真の腕へぎゅっと抱きついた。
「すっごく……」
そこで言葉を止める。
そして、昨夜のことを思い出したのだろう。
みるみるうちに顔が赤くなっていった。
「……あぅ」
フェンリスは慌てて和真の胸元へ顔を隠す。
その様子を見て、みゆが楽しそうに笑った。
「フェンリス、昨日はあんなに甘えてたのに、朝になったら恥ずかしいの?」
「み、みゆっ!」
「だって本当のことでしょ?」
「そ、それは……!」
フェンリスは真っ赤になったまま、ちらりと和真を見る。
昨夜は夢中だった。
和真が自分を抱きしめてくれて。
何度も名前を呼んでくれて。
みゆと三人で、ずっと温もりを分け合っていた。
思い出すだけで、胸がいっぱいになる。
「……和真」
「ん?」
「……昨日のこと、後悔してない?」
小さな声だった。
和真は少し驚いたあと、優しく首を横に振った。
「してないよ」
「……本当?」
「ああ」
和真はフェンリスの頬へ手を添えた。
「ただ、二人の気持ちをちゃんと考えなきゃいけないとは思ってる」
「……うん」
「これからも、ちゃんと向き合っていきたいから」
フェンリスは和真をじっと見つめた。
そして、嬉しそうに微笑む。
「……僕も」
そっと身体を起こし、和真の唇へ短く口づけた。
「大好きだよ、和真」
和真も微笑み返す。
「ありがとう、フェンリス」
すると、反対側からみゆが口を挟んだ。
「ねえ、和真」
「……今度は何だ?」
「僕にももう一回」
「さっきしただろ?」
「フェンリスだけずるい」
「みゆ……」
「ほら、早く」
みゆが唇を尖らせる。
和真は苦笑しながらも、その額に軽く口づけた。
「……これでいいか?」
「むぅ。そこじゃないのに」
「朝から勘弁してくれ……」
みゆとフェンリスが顔を見合わせる。
そして、二人揃って笑い出した。
昨夜のことを思い返せば、まだ恥ずかしい。
それでも、こうして三人で迎える朝は、とても穏やかだった。
◇ ◇ ◇
それから少しして。
三人はようやくベッドから抜け出した。
和真が着替えを済ませている間、みゆとフェンリスは並んで腰掛けていた。
みゆはまだ眠そうに尻尾を揺らしている。
一方のフェンリスは、時折和真を見ては嬉しそうに微笑んでいた。
「……何だよ、フェンリス」
「えへへ。何でもない」
「絶対何かあるだろ」
「……幸せだなって思っただけ」
「……そっか」
和真も少し照れたように笑った。
すると、みゆがフェンリスの耳元へ顔を寄せる。
「ねえ、フェンリス」
「ん?」
「昨日、三人でよかったでしょ?」
「……っ!」
フェンリスの尻尾がぴんと立ち上がる。
「そ、それは……!」
「僕はすっごく楽しかったよ?」
「みゆっ!」
「フェンリスは?」
「……うぅ」
フェンリスはしばらく俯いた。
けれど、やがて小さく頷く。
「……僕も、幸せだった」
その答えに、みゆは満足そうに笑った。
「でしょ?」
「で、でも!」
「ん?」
「次は……ちゃんと二人きりの時間も欲しいからね!」
みゆは一瞬きょとんとしたあと、楽しそうに笑った。
「うん。それは僕も同じ」
「……え?」
「三人もいいけど、和真を独り占めしたい日もあるもん」
フェンリスは少し驚いたあと、ほっとしたように笑った。
「……そっか」
「そうだよ」
みゆはフェンリスの肩へ軽く触れた。
「だから、これからも仲良く取り合おうね?」
「……そこは譲ってくれないんだ」
「もちろん!」
二人が笑い合う。
そんな様子を見ていた和真は、思わず苦笑した。
「……俺の意見は?」
「もちろん聞くよ?」
「うん!」
二人が同時に答える。
だが、その笑顔を見ていると、どうにも自分が押し切られる未来しか想像できなかった。
「……はぁ」
和真は小さくため息をついた。
そのときだった。
――コンコン。
突然、部屋の扉がノックされた。
「和真、起きてる?」
ユエの声だった。
「ん? 起きてるぞ」
「ちょっと見てほしいものがあるんだけど」
「見てほしいもの?」
和真は首を傾げる。
「入っていいぞ」
「じゃあ、開けるわよ」
――ガチャ。
扉が開いた。
そこには、一匹の赤狐を抱えたユエが立っていた。
「……え?」
和真が目を丸くする。
みゆとフェンリスも、ユエの腕の中を見て固まった。
「……あっ!」
「その子……!」
そして。
「――こんっ!!」
紅月の耳が勢いよく立ち上がった。
部屋の奥。
そこにいたのは。
自分を助けてくれた、あの人間だった。
間違いない。
あの顔。
あの声。
あの匂い。
「こんっ! こんっ!」
紅月は突然暴れ始めた。
「ちょっ!? 何!?」
ユエが驚く。
「こら、暴れないで!」
けれど、紅月は止まらなかった。
和真へ向かって前脚を伸ばし、必死に身体を動かす。
「こんっ! こんっ!」
「……まさか」
和真はすぐに気づいた。
「お前……昨日の狐か!?」
その声を聞いた瞬間。
「――こんっ!!」
紅月はユエの腕から勢いよく飛び出した。
「わっ!?」
ユエが声を上げる。
和真も慌てて両腕を広げた。
「危ないっ!」
――ぽふっ!
紅月の小さな身体が、和真の胸へ飛び込んだ。
「……っと!」
和真は何とか受け止める。
すると紅月は、そのまま和真の胸元へ顔を押しつけた。
「くぅん……くぅん……!」
尻尾をぶんぶん振りながら、何度も鼻を鳴らす。
やっと見つけた。
ずっと探していた。
怖かった。
寂しかった。
もう会えないかと思った。
けれど、ここにいた。
あの温かい人間が、ここにいた。
「……お前」
和真は驚いたまま、腕の中の赤狐を見つめた。
そして、そっと背中を撫でる。
「……よく来たな」
「くぅぅん……!」
その声を聞くと、紅月はさらに強く顔を押しつけた。
和真の服に鼻先を擦りつけ、離れようとしない。
「……はは。そんなにくっつかなくても大丈夫だよ」
「こんっ!」
紅月は顔を上げた。
そして、和真の顎をぺろりと舐める。
「うわっ!」
「こんっ! こんっ!」
嬉しそうな鳴き声。
大きな尻尾が休むことなく左右に揺れていた。
その光景を見て、みゆが思わず笑みを浮かべる。
「……すごいね」
「うん……」
フェンリスも目を丸くしていた。
「昨日はあんなに怖がってたのに……」
みゆは和真の腕の中へ顔を近づける。
「ねえ、君。僕たちのこと覚えてる?」
「……こん?」
紅月が顔を向けた。
鼻をひくつかせる。
そして、みゆの匂いを確かめた。
「……くん、くん」
「ふふ。覚えてる?」
「こんっ!」
紅月は小さく鳴いた。
みゆの顔が明るくなる。
「やっぱり覚えてるんだ!」
続いて、フェンリスがそっと手を伸ばした。
「……僕のことも覚えてる?」
紅月はフェンリスを見る。
銀色の髪。
狼の耳。
そして、あの男と一緒にいた少女。
「……くん」
そっと鼻先を近づける。
フェンリスの指先の匂いを確かめると、短く鳴いた。
「こんっ」
「……えへへ」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
「よかった。元気になったんだね」
すると。
「……ちょっと待ちなさい」
ユエが三人へ声をかけた。
その表情は、非常に困惑していた。
「どういうこと?」
「……え?」
「昨日の狐って何? あんたたち、この狐を知ってるの?」
和真はようやくユエへ顔を向けた。
「ああ、そういえばユエには話してなかったな」
「話してなかった、じゃないわよ」
ユエは腰に手を当てる。
「私、さっきまでこの子を鶏泥棒だと思ってたんだから」
「……鶏泥棒?」
和真が首を傾げる。
みゆが吹き出した。
「ぷっ……!」
「ちょっと、みゆ! 笑い事じゃないのよ!」
「ご、ごめん……でも、鶏泥棒って……!」
「実際、鶏小屋の前にいたの! 雌鶏たちも大騒ぎだったんだから!」
ユエが少し頬を膨らませる。
和真は腕の中の紅月を見下ろした。
「……お前、鶏を狙ってたのか?」
「……こん?」
紅月は不思議そうに首を傾げた。
その仕草があまりにも無邪気で、和真は思わず笑ってしまう。
「……まあ、腹は減ってるよな」
「くぅん」
まるで返事をするように、紅月が鼻を鳴らした。
すると、ユエは改めて和真を見る。
「それで? ちゃんと説明してくれる?」
「ああ。昨日、山の家で見つけたんだ」
「山の家?」
「うん。怪我をして動けなくなってたから、治療したんだよ」
和真は昨日の出来事を簡単に説明した。
紅月を発見したこと。
酷く怯えていたこと。
傷を治療し、食料と水を置いて帰ってきたこと。
それを聞いたユエは、腕を組んだ。
「……なるほどね」
そして、紅月を見る。
「じゃあ、この子はあんたを追いかけてきたってこと?」
「……多分」
「多分って……」
「だって、昨日は山の上にいたんだぞ? まさかここまで来るとは思わないだろ」
ユエはため息をついた。
「……それはそうだけど」
その間も、紅月は和真から離れなかった。
和真が少し腕の位置を変えようとすると、慌てて服へ前脚をかける。
「こんっ!」
「大丈夫。下ろさないから」
「……くぅん」
和真が背中を撫でると、ようやく安心したように身体を預けた。
ユエはその様子をじっと見つめる。
「……随分懐かれたものね」
「俺もびっくりしてるよ」
「和真、噛まれたんでしょ?」
「昨日はな」
「なのに、今日はこれ?」
ユエは呆れたように笑った。
「まったく。あんたって、本当に変な子に好かれるわよね」
「……変な子って」
和真が苦笑する。
すると、みゆがすかさず口を挟んだ。
「僕たちも含まれてる?」
「……そこは自分で考えなさい」
「えー?」
みゆが楽しそうに笑った。
フェンリスもつられて笑う。
和真はそんな三人を見ながら、腕の中の小さな赤狐へ視線を戻した。
「……それにしても、本当にどうしたんだ?」
紅月は首を傾げる。
「昨日の場所にいれば、安全だと思ったんだけどな……」
和真はそっと頭を撫でた。
すると紅月は、気持ちよさそうに目を細める。
「……くぅん」
そして、そのまま和真の腕の中で丸くなろうとした。
どうやら、相当疲れているらしい。
みゆがその様子に気づく。
「和真、この子、すごく疲れてるんじゃない?」
「……ああ。そうみたいだな」
フェンリスも心配そうに覗き込んだ。
「昨日からずっと歩いてきたのかな……」
「かもしれないな」
和真は紅月の身体をそっと抱え直す。
痩せた身体。
少し汚れた毛並み。
何より、あれほど嬉しそうに尻尾を振っていたのに、今は眠そうに目を閉じかけている。
「……よし」
和真は小さく頷いた。
「とりあえず、何か食べさせよう」
「うん!」
フェンリスがすぐに頷く。
「僕、何か持ってくる!」
「待って、フェンリス。何でも食べさせていいわけじゃないよ」
みゆが声をかけた。
「まずは酒菜に相談しようよ」
「あ、そっか」
和真も頷いた。
「そうだな。ユエ、悪いんだけど、酒菜に事情を話してくれるか?」
「……分かったわ」
ユエは紅月を見つめる。
「ただし、和真」
「ん?」
「この子をどうするかは、ちゃんと考えなさいよ」
「……ああ」
「野生の狐なら、簡単に飼えるものじゃないんだから」
和真は静かに頷いた。
それは分かっている。
けれど。
「……くぅん」
紅月が小さく鳴いた。
和真の服へ顔を埋め、安心したように目を閉じる。
その姿を見てしまうと。
「……今すぐ追い返すなんて、できないよな」
思わず、そんな言葉が漏れた。
みゆは優しく微笑んだ。
「……うん」
フェンリスも頷く。
「せっかくここまで来たんだもんね」
ユエは三人の顔を順番に見た。
そして、もう一度ため息をつく。
「……まったく」
けれど、その表情は先ほどよりも少し柔らかかった。
「とにかく、まずはご飯と休憩。それから考えましょう」
「ありがとう、ユエ」
「お礼はまだ早いわよ」
ユエはそう言って、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
和真は腕の中の紅月を見つめた。
「……お前、本当にすごいな」
「……くぅ?」
「山の上から、ここまで来たんだろ?」
紅月は眠そうに目を開ける。
そして、和真の顔をじっと見つめた。
もう逃げなくていい。
もう探さなくていい。
やっと見つけた。
あの温かい手。
安心できる声。
紅月は小さく鼻を鳴らす。
「……くぅん」
そして、和真の胸元へ顔を埋めた。
和真はそんな紅月の背中を、ゆっくりと撫で続けた。
窓の外では、穏やかな朝日が差し込んでいた。
長い夜を越え、小さな赤狐はようやく安心できる場所へたどり着いたのだった。
◇ ◇ ◇
「……それで、この子が?」
「ああ。昨日、山の家で見つけた狐だよ」
母屋の居間。
和真の腕の中で丸くなっている赤狐を見て、酒菜は目を丸くしていた。
その隣では、ユエが呆れたように腕を組んでいる。
「まさか、山からここまで追いかけてくるなんてね」
「俺も驚いてるよ」
「しかも、うちの鶏小屋の前にいたんだから」
「それはもう聞いたって」
和真が苦笑すると、ユエは紅月へ視線を向けた。
「本当に鶏を狙ってたんじゃないでしょうね?」
「……こん?」
紅月は不思議そうに首を傾げる。
そんな仕草に、酒菜が思わず笑った。
「ははっ! 随分と可愛らしい鶏泥棒じゃねぇか」
「酒菜まで……」
「冗談だよ、冗談」
酒菜は笑いながら台所へ向かった。
「とりあえず、腹が減ってるんだろ? 少し待ってろ。狐でも食えるものを用意してやる」
「助かるよ」
「ああ。ただし、うちの鶏には手ぇ出すなよ?」
「……こんっ!」
紅月は短く鳴いた。
まるで抗議するような声に、和真は思わず笑ってしまった。
「ははっ。分かった、分かった」
すると、廊下から元気な足音が聞こえてきた。
「カズマー!」
勢いよく顔を出したのはピピだった。
「狐が来たって本当!?」
「ああ、本当だよ」
「どこ!? どこ!?」
「ここ」
和真が腕の中を見せる。
するとピピの顔がぱっと明るくなった。
「あーっ! 昨日の子!」
「こんっ?」
紅月も顔を上げた。
見覚えのある少女。
昨日、空を飛び回りながら歌っていた少女だ。
「元気になったんだね!」
ピピが嬉しそうに近づく。
しかし。
「……グルル」
「わっ!」
紅月が小さく唸った。
思わず立ち止まるピピ。
「……あれ?」
「ピピ、急に近づいたら驚くだろ」
「えー? 昨日も会ったのに……」
「まだ怖いんだよ。ゆっくり慣れてもらおう」
「……うん」
ピピは少し残念そうに頷いた。
それでも、すぐに笑顔へ戻る。
「じゃあ、僕、ここで見てる!」
そう言って、少し離れた椅子へ腰掛けた。
紅月はしばらくピピを警戒していたが、和真が背中を撫でると、ようやく力を抜いた。
「……くぅん」
「大丈夫だよ」
和真の優しい声。
その温もりに、紅月は安心したように目を細めた。
◇ ◇ ◇
それからしばらくして。
「……あら?」
居間に入ってきたリディアが、和真の腕の中を見て足を止めた。
「和真さん、その子は?」
「ああ、昨日山で助けた狐なんだけど……」
和真が事情を説明すると、リディアは驚いたように目を瞬かせた。
「まあ……山から、ここまで?」
「そうなんだよ」
「それは大変でしたね……」
リディアは少し離れたところから紅月を見つめる。
「傷はもう大丈夫なんですか?」
「ああ。昨日、回復魔法で治したからな」
「そうでしたか。でも、随分疲れているようですね」
「一晩中歩いてきたのかもしれない」
リディアは心配そうに頷いた。
「まずは休ませてあげた方がよさそうですね」
すると、今度はひかげが居間へ入ってきた。
「……あれ?」
ひかげは和真の腕の中を見て、足を止める。
「……狐さん?」
「ああ。昨日、山で助けた子なんだ」
「……まあ」
ひかげは目を丸くした。
そして、そっと近づく。
「……可愛いですね」
「だろ?」
「……はい」
ひかげは少し屈み、紅月と目線を合わせた。
「……初めまして」
「……こん?」
紅月は首を傾げた。
初めて見る女性だ。
頭には牛の角があり、耳も普通の人間とは違っている。
不思議な匂いがした。
けれど、先ほどの少女のように急に近づいてこない。
ひかげは少し離れたところで、静かに微笑んでいた。
「……怖がらなくて、ええですよ」
「……くん」
紅月は鼻をひくつかせる。
そして、ゆっくりと首を伸ばした。
ひかげは動かず、その様子を見守る。
「……くん、くん」
しばらく匂いを確かめたあと。
「……こん」
紅月は短く鳴いた。
ひかげの顔が、少し明るくなる。
「……ふふ。よろしくお願いしますね」
和真も微笑んだ。
「ひかげには、あまり警戒しないみたいだな」
「……そうなんですか?」
「ああ。ピピはさっき唸られてたから」
「えーっ! それ言わなくてもいいじゃん!」
椅子に座っていたピピが頬を膨らませる。
その様子に、居間から笑い声が上がった。
◇ ◇ ◇
「ほら、できたぞ」
しばらくして、酒菜が小さな皿を持って戻ってきた。
中には、味付けをせずに茹でた鶏肉が細かくほぐされている。
「とりあえず、これなら食えるだろ。骨も皮も取ってある」
「ありがとう、酒菜」
「熱くないように冷ましてあるからな」
酒菜は皿を卓の上へ置いた。
途端に。
「……っ!」
紅月の耳が立ち上がった。
鼻がひくひくと動く。
「……くん、くん!」
美味しそうな匂い。
お腹が空いている。
とても、とても空いている。
紅月は和真の腕の中で身を乗り出した。
「おっと」
和真は慌てて抱え直す。
「食べたいのか?」
「こんっ! こんっ!」
「ははっ。分かったよ」
和真は床に清潔な敷物を用意し、その上へ紅月をそっと下ろした。
しかし。
「……くぅっ!」
紅月はすぐに振り返り、和真の脚へ前脚をかけた。
「ん?」
「くぅん……」
「……離れたくないのか?」
紅月は和真を見上げる。
そして、何度も小さく鼻を鳴らした。
その様子を見たフェンリスが、くすっと笑う。
「……和真、すっごく好かれてるね」
「そうみたいだな」
みゆも楽しそうに尻尾を揺らした。
「僕たちがいるのに、また甘えん坊が増えちゃったね」
「……みゆ」
「んふふ。冗談だよ」
和真は苦笑しながら、その場へ腰を下ろした。
「ほら、俺はここにいるから」
「……くぅん」
「ご飯、食べていいんだぞ」
皿を紅月の前へ置く。
紅月は和真と皿を交互に見つめた。
そして、恐る恐る鼻先を近づける。
「……くん、くん」
ぱくり。
「……!」
次の瞬間。
ぱくっ、ぱくぱくっ!
紅月は夢中になって食べ始めた。
「おお……」
和真が思わず声を漏らす。
「相当腹が減ってたんだな」
「そうでしょうね。一晩歩き続けたのなら……」
リディアが心配そうに呟いた。
酒菜は腕を組みながら満足そうに頷く。
「いい食いっぷりじゃねぇか」
「……可愛い」
ひかげが小さく微笑む。
ピピも嬉しそうに身を乗り出した。
「ねえねえ、カズマ! 僕もご飯あげたい!」
「今はそっとしておこうな」
「はーい!」
紅月はそんな声など聞こえていないかのように、夢中で鶏肉を食べていた。
やがて皿が空になると、満足そうに口元を舐める。
「……こんっ」
そして、すぐに和真の膝へ前脚をかけた。
「……もう食べたのか?」
「くぅん」
「早いなぁ」
和真が抱き上げると、紅月は当然のように膝の上で丸くなった。
大きな尻尾を身体へ巻きつけ、安心したように目を細める。
その様子を見て、みゆが笑った。
「……完全に和真の膝が気に入ったみたい」
「だな」
和真は紅月の頭を優しく撫でる。
「……よく頑張ったな」
「……くぅん」
紅月は小さく鳴いた。
そして、和真の手へそっと頬を擦り寄せた。
◇ ◇ ◇
「……ところでさ」
食事が終わり、紅月が落ち着いた頃。
みゆがふと思いついたように口を開いた。
「この子、名前はあるのかな?」
「……名前?」
和真が首を傾げる。
「うん。ずっと狐って呼ぶのも変じゃない?」
「確かに……」
フェンリスも頷いた。
「名前、つけてあげたいね」
その言葉に、ピピが勢いよく手を上げた。
「僕、考える!」
「早いな、ピピ」
「だって可愛い名前がいいもん!」
ピピは嬉しそうに笑った。
「えっとね……赤いから、アカ!」
「……そのまんまだな」
酒菜が笑う。
「えーっ! 分かりやすいじゃん!」
しかし。
「……こん?」
紅月が顔を上げた。
そして。
――ふるふる。
小さく首を横に振った。
「……あれ?」
和真が目を瞬かせる。
「今、首を振った?」
「振ったね」
みゆも不思議そうに紅月を見る。
ピピは頬を膨らませた。
「えーっ!? アカ、嫌なの!?」
「……こんっ」
――ふるふる。
もう一度、首を横に振る。
「……あはは」
酒菜が吹き出した。
「どうやら気に入らなかったみたいだな!」
「むぅ……」
ピピは不満そうに口を尖らせた。
すると、フェンリスが遠慮がちに手を上げる。
「じゃあ……ルビーとか?」
「ルビー?」
「うん。綺麗な赤い毛だから、宝石みたいだなって」
和真は紅月を見る。
「どうだ? ルビー」
――ふるふる。
「……駄目か」
フェンリスは少し残念そうに笑った。
「可愛いと思ったんだけどなぁ……」
みゆが楽しそうに口を開く。
「じゃあ、僕はアカネ!」
「茜?」
「うん。夕焼けみたいな色だし」
「……こん」
――ふるふる。
「あれぇ?」
みゆが目を丸くする。
「これも駄目?」
紅月はじっとみゆを見つめたあと、もう一度首を横に振った。
「……随分はっきりしてるね」
みゆはくすくす笑った。
次に、リディアが口を開いた。
「でしたら……コハク、というのはいかがでしょう?」
「琥珀か」
「はい。温かみのある毛色ですし、綺麗な名前だと思います」
和真が紅月を見る。
「コハクは?」
――ふるふる。
「……これも違うか」
リディアは少し困ったように微笑んだ。
「なかなか難しいですね」
続いて酒菜が口を開く。
「なら、いっそコンでどうだ?」
「……酒菜、それ名前なの?」
みゆが呆れたように笑った。
「いいじゃねぇか。狐らしいだろ?」
「こんっ!」
紅月が鳴いた。
酒菜の顔が明るくなる。
「おっ! 気に入ったか?」
しかし。
――ふるふる。
「……違うのかよ!」
居間に笑い声が響いた。
◇ ◇ ◇
紅月は和真の膝の上で、小さく耳を動かしていた。
人間たちが次々に何かを呼びかけてくる。
どうやら、自分に新しい名前をつけようとしているらしい。
けれど。
紅月には、もう名前があった。
――紅月。
それが、自分の名前だった。
母親がつけてくれた、大切な名前。
幼い頃。
まだ自分が母親の身体へ甘えるばかりだった頃。
優しい声が、何度もその名前を呼んでくれた。
――紅月。
その声を聞くたびに嬉しくなって、母親のもとへ駆け寄った。
温かな身体。
柔らかな毛並み。
優しく舐めてくれた、大きな舌。
母親の匂い。
今でも、はっきりと覚えている。
もう、あの声を聞くことはできない。
けれど、名前だけは残っていた。
母親が自分へくれたもの。
それだけは、なくしたくなかった。
「……くぅん」
紅月は小さく鼻を鳴らした。
そして、和真を見上げる。
この人間は優しい。
自分を助けてくれた。
ここまで来た自分を、追い払わずに抱きしめてくれた。
だからこそ。
自分の名前を知ってほしかった。
けれど、今の紅月には伝えることができない。
人間の言葉を理解することはできても、人間たちのように話すことはできなかった。
そのことが、少しだけもどかしかった。
◇ ◇ ◇
「……じゃあ、モミジは?」
今度はナディアが口を開いた。
いつの間にか居間へ顔を出していたらしい。
彼女は和真の向かい側へ腰掛け、赤狐を興味深そうに見つめていた。
「その赤い毛並みなら、悪くない名前じゃろ」
「……こん」
――ふるふる。
「……ほう」
ナディアは目を細めた。
「それも嫌か」
「なんか、全部嫌がってるよな」
和真が困ったように笑う。
「赤い毛から考えてるからかな……」
フェンリスが呟く。
みゆは腕を組んで考え込んだ。
「じゃあ、色と関係ない名前ならどう?」
「例えば?」
「うーん……」
みゆが考えていると、ひかげがそっと手を上げた。
「……あの」
「ん? どうした、ひかげ」
「……少し、気になることがあるんですけど」
和真が顔を向ける。
ひかげは紅月を見つめた。
「……この子、もしかして……私たちの言葉、分かってるんやないでしょうか?」
「……え?」
和真が目を丸くした。
「言葉が?」
「……はい」
ひかげはゆっくり頷く。
「さっきから、名前を呼ばれるたびに首を振ってますよね」
「……ああ」
「それに、嫌かどうか聞いたときも、ちゃんと反応してるように見えます」
みゆも紅月を見た。
「……確かに」
フェンリスが首を傾げる。
「じゃあ、この子……僕たちの話、分かってるの?」
「……その可能性はありますね」
リディアも興味深そうに頷いた。
「普通の狐とは、少し違うのかもしれません」
ユエは腕を組み直した。
「……確かめてみればいいじゃない」
「確かめる?」
和真が聞き返す。
「ええ。簡単なことよ」
ユエは紅月へ視線を向けた。
「ねえ、狐」
「……こん?」
「もし、私たちの言葉が分かるなら……首を縦に振ってみなさい」
居間が静まり返った。
全員の視線が紅月へ集まる。
紅月はユエをじっと見つめた。
そして。
――こくん。
小さく、首を縦に振った。
「…………」
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
「ええええっ!?」
ピピが大きな声を上げた。
「分かってるの!?」
「こんっ!」
――こくん。
「すごーい!!」
ピピが椅子から飛び上がった。
みゆも目を丸くしている。
「……本当に分かってるんだ」
「……びっくり」
フェンリスも驚いた顔で紅月を見つめた。
酒菜が感心したように笑う。
「こりゃ、ただの狐じゃなさそうだな」
ナディアも興味深そうに目を細める。
「……ふむ。なかなか面白い子じゃのう」
和真は膝の上の紅月を見下ろした。
「……じゃあ、お前」
「……こん?」
「もう、自分の名前があるのか?」
紅月の耳がぴんと立った。
そして。
――こくん!
今度は、はっきりと頷いた。
「……あっ!」
みゆが声を上げる。
「だから名前をつけられるの、嫌だったんだ!」
紅月はもう一度頷いた。
「こんっ!」
和真は思わず笑ってしまった。
「……そうだったのか」
そっと紅月の頭を撫でる。
「ごめんな。勝手に名前をつけようとして」
「……くぅん」
紅月は和真の手へ頬を擦り寄せた。
怒っているわけではない。
ただ、自分には大切な名前がある。
それを知ってほしかっただけだった。
「……でも、困ったな」
和真は小さく呟く。
「名前があるのは分かったけど、何て名前なのか聞けないもんな」
フェンリスも頷いた。
「うん……」
みゆが考え込む。
「文字とか書けないのかな?」
「狐の身体じゃ難しいだろ」
「そっか……」
しばらく皆で考えたものの、良い方法は思いつかなかった。
すると、ひかげがそっと口を開いた。
「……でしたら」
「ん?」
「……無理に名前を決めなくても、ええんやないでしょうか」
和真がひかげを見る。
「名前を?」
「……はい」
ひかげは紅月へ優しく微笑んだ。
「この子には、もう大切な名前があるんですから」
「……ああ」
「……だから、私たちが勝手に別の名前をつけるのは、ちょっと違う気がします」
その言葉に、和真は静かに頷いた。
「……そうだな」
みゆも微笑む。
「うん。僕もそう思う」
フェンリスも嬉しそうに頷いた。
「この子の本当の名前、いつか分かるといいね」
「……こんっ!」
紅月が小さく鳴いた。
ひかげは嬉しそうに目を細めた。
「……じゃあ、それまでは……」
少し考えてから、和真を見る。
「……キツネちゃん、ではどうでしょう?」
「キツネちゃん?」
「……はい。名前やなくて、呼び方として」
和真は紅月へ視線を落とした。
「……どうだ?」
紅月は首を傾げた。
「お前の名前が分かるまで、キツネちゃんって呼んでもいいか?」
紅月はしばらく和真を見つめた。
――キツネちゃん。
それは、自分の名前ではない。
けれど、狐である自分を呼んでいるだけ。
母親からもらった名前をなくすわけではない。
そう理解すると。
――こくん。
紅月は小さく頷いた。
「……おっ!」
和真の顔が明るくなる。
「いいのか?」
「こんっ!」
「そっか!」
和真は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、よろしくな。キツネちゃん」
「こんっ!」
みゆも笑顔で手を振る。
「よろしくね、キツネちゃん!」
「僕も! よろしく!」
フェンリスも嬉しそうに声をかけた。
ピピは両手を上げる。
「キツネちゃん! キツネちゃん!」
「……ピピ、あまり騒がないの」
ユエが注意する。
「だって嬉しいんだもん!」
酒菜は豪快に笑った。
「ははっ! まあ、決まってよかったじゃねぇか!」
リディアも柔らかく微笑む。
「本当のお名前が分かるまでは、それでよさそうですね」
ナディアは紅月を興味深そうに見つめたまま、小さく笑った。
「……ふふ。面白い子が増えたものじゃ」
そんな皆を見回し、和真は改めて紅月へ視線を落とした。
「……キツネちゃん」
「……こん?」
「しばらく、ここで休んでいくか?」
紅月は和真をじっと見つめた。
ここ。
この場所。
自分を追いかけてくる人間たちのいない、温かな場所。
美味しい食べ物があって。
優しく撫でてくれる人間がいて。
怖いときには抱きしめてもらえる。
そんな場所にいてもいいのだろうか。
「……くぅん」
紅月は小さく鼻を鳴らした。
そして。
――こくん。
静かに頷いた。
「……そっか」
和真は優しく微笑んだ。
「じゃあ、ゆっくりしていけよ」
「……こんっ」
紅月は嬉しそうに鳴いた。
そして、和真の膝の上で丸くなる。
大きな尻尾を身体へ巻きつけると、そのまま安心したように目を閉じた。
紅月。
それが、自分の本当の名前。
母親がつけてくれた、大切な名前。
いつか、この優しい人間にも知ってもらいたい。
そのときは、きっと。
母親に名前を呼んでもらったときと同じくらい、嬉しくなるだろう。
紅月はそんなことを思いながら、ゆっくりと眠りについた。
居間には、穏やかな時間が流れていた。
そして、空色唐辛子荘には新たに一匹の、小さな住人候補が加わったのだった。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ。
和真は小さな赤狐を抱え、自分の部屋へ戻ってきた。
「さて……と」
「……こん?」
腕の中から紅月が顔を上げる。
和真はその頭を優しく撫でた。
「とりあえず、今日はここでゆっくり休もうな」
「こんっ!」
元気のいい返事だった。
午前中、母屋で食事をもらい、しばらく和真の膝の上で眠っていたおかげか、朝よりも随分と元気になっている。
しかし、まだ疲れは残っているはずだ。
山からここまで、一体どれほど歩いてきたのだろう。
和真には想像もつかなかった。
「……それにしても」
和真は改めて紅月を見下ろした。
「本当に俺たちの言葉が分かるんだな」
「……こん?」
「いや、普通の狐じゃないんだろうなって」
紅月は首を傾げた。
自分が普通の狐なのか、そうでないのか。
そんなことを聞かれても、よく分からない。
ただ、人間の言葉なら昔から理解できた。
母親もそうだったから、それが当たり前だと思っていた。
「……まあ、いいか」
和真は小さく笑った。
「今は無理に聞かないよ。いつか教えてくれればいいからさ」
「……くぅん」
紅月は和真の胸元へ顔を擦り寄せた。
その仕草に和真は微笑み、そっと床へ下ろす。
「よし。まずは寝床を作ろう」
ところが。
「……こんっ!」
紅月はすぐに和真の足元へ駆け寄った。
ズボンへ前脚をかけ、必死に見上げてくる。
「ん?」
「くぅん……くぅん……」
「……ああ、そっか」
和真はしゃがみ込んだ。
「また置いていかれると思ったのか?」
紅月はじっと和真を見つめた。
そして、小さく頷いた。
「……そうか」
和真は優しく頭を撫でる。
「大丈夫。ここは俺の部屋だから。出かけることはあっても、ちゃんと戻ってくるよ」
「……くぅ」
「だから、安心していいからな」
紅月はしばらく和真を見つめていた。
それから、そっと手へ頬を寄せる。
「……くぅん」
「よしよし」
和真は微笑みながら、紅月の背中を撫でた。
そして、部屋の隅に置いてあった毛布を取り出す。
適当な大きさに折り畳み、その上へ柔らかなクッションを置いた。
「どうだ? これなら暖かいだろ」
「……こん?」
「お前の寝床だよ」
紅月は恐る恐る近づいた。
鼻先を近づけ、匂いを確かめる。
「くん……くん……」
知らない匂い。
けれど、その中に和真の匂いが混じっていた。
紅月は前脚を乗せた。
ふかふかしている。
続いて後脚も乗せ、くるりと身体を回す。
そして。
「……くぅん」
その場へ丸くなった。
「おっ、気に入ったか?」
――こくん。
「ははっ。よかった」
和真は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、ここがお前の場所だな」
「こんっ!」
紅月は大きな尻尾を揺らした。
けれど、和真が立ち上がると、すぐに顔を上げる。
「……くぅ?」
「大丈夫だって。すぐそこにいるから」
和真はベッドへ腰を下ろした。
すると、紅月は安心したように目を細める。
大きな尻尾を身体へ巻きつけ、鼻先を埋めた。
「……すぅ……」
やがて、小さな寝息が聞こえ始めた。
和真はその姿をしばらく見つめていた。
「……本当によく頑張ったな」
昨日出会ったばかりの、小さな赤狐。
自分のことを怖がり、必死に噛みついてきたあの子が、今はこんなにも安心して眠っている。
それが不思議で、少し嬉しかった。
「……おやすみ、キツネちゃん」
和真は静かに呟いた。
◇ ◇ ◇
夕方。
和真が母屋へ顔を出すと、居間にはすでに何人かの住人が集まっていた。
「和真!」
真っ先に声をかけてきたのはフェンリスだった。
銀色の髪を揺らしながら駆け寄ってくる。
「キツネちゃんは?」
「ああ、部屋で寝てるよ」
「そっか。よかった!」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
そして、何の迷いもなく和真の腕へ抱きつく。
「……フェンリス?」
「えへへ」
「どうした?」
「……何でもない」
そう言いながらも、離れようとしない。
むしろ、嬉しそうに頬を寄せてくる。
和真は苦笑した。
昨夜から、フェンリスはいつも以上に甘えん坊になっていた。
もちろん、それが嫌なわけではない。
ただ、皆の前でもこれほど積極的になるとは思っていなかった。
「……フェンリス、みんな見てるぞ?」
「……いいよ」
「え?」
「……別に、悪いことしてないもん」
フェンリスは少し頬を赤くしながら、和真を見上げた。
その表情を見た途端、和真まで昨夜のことを思い出してしまう。
「……そ、そうだな」
思わず目を逸らした。
すると。
「んふふ」
背後から楽しそうな笑い声が聞こえた。
「和真、顔赤いよ?」
「……みゆ!」
振り返ると、みゆが悪戯っぽく笑っていた。
「何? 僕たちのこと思い出してた?」
「……っ!」
和真は言葉に詰まった。
フェンリスも一瞬固まる。
「み、みゆ!」
「何?」
「そ、そういうことは……!」
「だって本当のことでしょ?」
みゆは楽しそうに笑いながら、和真の反対側へ回った。
そして、当然のように腕を組む。
「今日はまだ全然甘えてないもん」
「……朝、散々甘えただろ?」
「朝は朝。今は今だよ」
「……お前なぁ」
和真がため息をつく。
すると、みゆは和真の肩へ頭を預けた。
「昨日、すっごく幸せだったからさ」
「……みゆ」
「今日も和真の近くにいたいんだよ」
その声は、いつものように明るかった。
けれど、込められた気持ちは真剣だった。
和真は少し照れながら微笑む。
「……分かったよ」
「えへへ」
みゆは満足そうに目を細めた。
その反対側では、フェンリスがさらにぎゅっと腕を抱きしめている。
「……僕も」
「分かってるって」
和真は苦笑しながら、二人の頭を順番に撫でた。
昨夜、三人で過ごした時間。
身体を重ね、互いの気持ちを確かめ合ったことは、確かに二人との距離を変えていた。
フェンリスは以前よりも素直に甘えてくるようになり、みゆも遠慮なく愛情を示してくる。
そして和真自身も、二人がそばにいることを以前よりずっと強く意識するようになっていた。
ただ。
「……あのね、和真」
フェンリスが小さく囁く。
「ん?」
「……今日も、一緒に寝たいな」
「……え?」
和真が目を瞬かせる。
すると、みゆがすかさず口を挟んだ。
「僕も!」
「……ちょっと待て!」
和真が慌てる。
「昨日も一緒だっただろ!?」
「だから今日も!」
「いや、だからって……!」
すると、背後から。
「……ほう」
低い声が聞こえた。
三人の動きが止まる。
「随分と仲がいいじゃないか」
振り返ると、そこにはナディアが立っていた。
腕を組み、どこか楽しそうな笑みを浮かべている。
「……ナディア?」
和真が名前を呼ぶ。
ナディアは三人の様子をゆっくりと見回した。
和真の両腕に抱きついているみゆとフェンリス。
二人とも、妙に幸せそうな顔をしている。
そして、和真だけが慌てている。
「……ふっ」
ナディアは小さく笑った。
「なるほどな」
「……何が?」
「いや、何でもない」
そう言いながら、和真へ近づく。
「和真」
「ん?」
「夕食が終わったら、少し時間をもらうぞ」
「……え?」
「二人で話がある」
有無を言わせない調子だった。
「……何の話だ?」
「それは後でのお楽しみだ」
ナディアは不敵に笑った。
そして、みゆとフェンリスへ視線を向ける。
「お前たちも、少しは和真を休ませてやれよ?」
「……あ」
フェンリスが慌てて腕を離した。
みゆは少しだけ眉を上げる。
「……ナディア、もしかして」
「何だ?」
「……気づいてる?」
その問いに、ナディアは口元を緩めた。
「さあな」
「……あはは」
みゆは何かを察したように笑った。
フェンリスは真っ赤になっている。
和真は二人の様子を見比べた。
「……おい、何の話だよ」
「和真」
みゆがにっこり笑う。
「……頑張ってね?」
「だから何を!?」
その叫び声が居間に響いた。
◇ ◇ ◇
夕食後。
和真はナディアに呼ばれ、母屋の縁側へ出ていた。
冬の夜風は冷たい。
けれど、空には綺麗な星が輝いていた。
「……それで?」
和真が隣へ座ったナディアを見る。
「話って何だ?」
「ん?」
ナディアは何でもないことのように顔を向けた。
「昨夜のことだ」
「…………え?」
和真の動きが止まった。
ナディアはその反応を見て、口元を緩める。
「みゆとフェンリス。二人とも、随分と幸せそうだったじゃないか」
「……っ!」
「お前も、今朝から二人に甘かったようだな」
「そ、それは……」
「ふっ、隠さなくてもいい」
ナディアは腕を組んだ。
「三人で愛し合ったんだろ?」
「…………」
和真は顔を覆った。
「……何で分かるんだよ」
「分かるに決まっているだろ」
ナディアは得意げに笑う。
「あれだけ分かりやすい態度を取っていればな」
「……そんなに?」
「ああ。特にフェンリスだ。お前を見るたびに顔を赤くしていたぞ」
「……うっ」
「みゆに至っては、隠す気もなさそうだったな」
「……あいつ……」
和真は深いため息をついた。
ナディアはそんな和真をしばらく眺めていた。
そして。
「……しかし」
少しだけ声の調子が変わった。
「俺様だけ除け者とは、感心しないな」
「……え?」
和真が顔を上げる。
ナディアは不満そうに腕を組み直した。
「みゆとフェンリスは、二人揃ってお前に甘えていたというのに」
「……ナディア?」
「俺様は一人、寂しく眠っていたんだぞ?」
「……いや、あの」
「何だ?」
「昨日は、その……二人に誘われて……」
「知っている」
「……え?」
「どうせ、お前はどちらか一人にしようとして、みゆに押し切られたんだろ?」
「…………」
和真は絶句した。
その反応を見て、ナディアが吹き出す。
「ははっ! 図星か!」
「……何でそこまで分かるんだよ!」
「お前たちのことを、どれだけ見てきたと思っている?」
ナディアは楽しそうに笑った。
「和真が自分からそんな提案をするとは思えないからな」
「……まあ、そうだけど」
「ふっ。まったく、相変わらずだ」
しかし、しばらく笑ったあと。
ナディアはふっと表情を和らげた。
「……まあ、あの二人が幸せそうなのは悪くない」
「……ナディア」
「フェンリスなんて、あれだけ苦しんでいたんだ。今の顔を見れば、俺様だって安心する」
和真は静かに頷いた。
ナディアは夜空へ目を向ける。
「みゆもそうだ。あいつなりに、色々考えているんだろう」
「……ああ」
「だから、二人を責めるつもりはない」
そこで、和真へ顔を向けた。
「だがな」
「……ん?」
「俺様だって、お前に甘えたいんだぞ?」
その言葉に、和真は目を瞬かせた。
ナディアは少しだけ頬を赤くする。
「……何だ、その顔は」
「いや……」
「俺様が甘えたらおかしいか?」
「そんなことないよ」
「ならいい」
ナディアは小さく息を吐いた。
そして、和真の腕へ自分の腕を絡める。
「みゆやフェンリスばかりずるいじゃないか」
「……ナディア」
「俺様も、お前と一緒にいたい」
いつものような自信に満ちた声。
けれど、その奥には確かな寂しさがあった。
「……だから」
ナディアは和真を見上げた。
「今日は俺様が行くからな」
「…………はい?」
「お前の部屋だ」
「……えっ!?」
「何をそんなに驚いている?」
「いや、だって……!」
「何だ?」
「昨日も……その……」
「昨日は昨日だろ?」
「……そういう問題じゃ……!」
ナディアはくすくす笑った。
「ふっ、相変わらず慌てるな」
「……ナディアが急に言うからだろ」
「急でもないぞ? 俺様は前からお前に甘えているだろうが」
「……それはそうだけど」
「それとも、俺様とは一緒にいたくないのか?」
ナディアは少しだけ首を傾げた。
和真は慌てて首を横に振る。
「そんなことない!」
「……ほう?」
「ナディアと一緒にいるのは、俺も嬉しいし……」
そこまで言って、和真は少し顔を赤くした。
「……大切に思ってるから」
ナディアの目が少し大きくなる。
そして。
「……ふっ」
嬉しそうに微笑んだ。
「なら、決まりだな」
「……ああ」
和真が頷く。
ナディアは満足そうに笑った。
「よし。今夜は俺様がお前を独り占めしてやる」
「……またそういう言い方を」
「嫌か?」
「……嫌じゃないよ」
その答えを聞いて、ナディアは少しだけ頬を赤くした。
「……そうか」
そして、和真の肩へそっと頭を預ける。
「……なら、今夜はよろしく頼むぞ」
「……ああ」
和真も静かに微笑んだ。
◇ ◇ ◇
その夜。
和真が部屋へ戻ると、紅月はすぐに顔を上げた。
「こんっ!」
「おっ、起きてたのか」
和真は笑いながら近づいた。
「いい子にしてたか?」
――こくん!
「ははっ。そっか」
頭を撫でると、紅月は嬉しそうに尻尾を振った。
そのまま前脚を伸ばし、和真の膝へ登ろうとする。
「おっと」
和真は紅月を抱き上げた。
「本当に甘えん坊だな、お前」
「……くぅん」
紅月は和真の胸元へ顔を擦り寄せた。
すると、和真は苦笑する。
「……今日は甘えん坊が多いなぁ」
朝はみゆとフェンリス。
そして、今夜はナディア。
さらに、この小さな赤狐まで。
「……俺の身体、一つしかないんだけどな」
「……こん?」
紅月は不思議そうに首を傾げた。
その仕草が可愛らしくて、和真は思わず笑ってしまう。
「……何でもないよ」
そう言って、再び頭を撫でた。
しばらくして。
――コンコン。
扉がノックされた。
「和真、入るぞ」
ナディアの声だった。
「ああ、いいよ」
――ガチャ。
扉が開く。
そこには、寝間着姿のナディアが立っていた。
「待たせたな」
「いや、今戻ってきたところだよ」
「そうか」
ナディアは微笑みながら部屋へ入った。
そして、和真の腕の中を見る。
「……おや?」
「ん?」
「キツネちゃんも一緒か」
「ああ。今日はここで寝かせるつもりなんだ」
「なるほどな」
ナディアは紅月を見つめた。
「まだ慣れない場所だ。和真の近くにいた方が安心するだろうな」
「そう思ってさ」
「いい判断だ」
ナディアは頷いた。
そして、紅月へ近づく。
「こんばんは、キツネちゃん」
「……こん?」
紅月が顔を上げる。
昼間、皆と一緒にいた女性だ。
あの優しい人間と、随分親しそうに話していた。
ナディアはそっと手を差し出した。
「触ってもいいか?」
紅月はしばらくその手を見つめた。
そして、鼻先を近づける。
「くん……くん……」
昼間にも嗅いだ匂い。
危険な感じはしない。
それに、和真が安心している。
紅月は小さく頷いた。
――こくん。
「……ふっ。ありがとな」
ナディアは優しく頭を撫でた。
「……くぅん」
紅月は気持ちよさそうに目を細める。
そんな姿を見て、和真が微笑んだ。
「ナディアにも懐いたみたいだな」
「当然だろ?」
「……当然なのか?」
「俺様を誰だと思っている?」
ナディアは得意げに笑った。
しかし、すぐに紅月へ視線を戻す。
「……それにしても」
「ん?」
「本当に綺麗な狐だな」
「ああ。こんな毛色の狐、俺も初めて見たよ」
「しかも、人間の言葉まで理解するとはな」
ナディアは興味深そうに紅月を見つめた。
「……お前、一体何者なんだ?」
「……こん?」
紅月は首を傾げた。
その様子に、ナディアは小さく笑う。
「まあ、今すぐ答えろとは言わないさ」
そう言って、再び頭を撫でた。
◇ ◇ ◇
「……さて」
ナディアは和真の隣へ腰掛けた。
「ようやく落ち着いたな」
「……そうだな」
和真は紅月を寝床へ下ろす。
すると、紅月はすぐに顔を上げた。
「……こん?」
「大丈夫。ここにいるから」
和真が声をかけると、紅月は安心したように丸くなった。
ナディアはそんな様子を見て微笑む。
「……随分と懐かれたものだな」
「俺も驚いてるよ」
「ふっ。お前らしいじゃないか」
「……そうか?」
「ああ。放っておけないんだろ?」
和真は少し考えた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……まあな」
ナディアは満足そうに笑った。
「そういうところも、俺様は気に入ってるんだ」
「……ナディア」
すると、ナディアはそっと和真の肩へ寄り添った。
「……和真」
「ん?」
「少し、抱きしめてくれないか?」
和真は少し驚いた。
普段のナディアなら、自分から抱きついてくることが多い。
けれど、今夜は珍しくお願いするような口調だった。
「……ああ」
和真は優しく腕を回した。
ナディアも和真の背中へ腕を回す。
ぎゅっと。
互いの身体が寄り添った。
「……ん」
ナディアが小さく息を漏らす。
そして、和真の胸元へ顔を埋めた。
「……やっぱり、落ち着くな」
「……そうか?」
「ああ」
ナディアは嬉しそうに目を細める。
「お前の腕の中は、どうにも居心地がいい」
「……はは」
和真は少し照れながら笑った。
そのまま、ナディアの髪を優しく撫でる。
「……和真」
「ん?」
「今夜は、俺様のことだけ考えてくれ」
和真はナディアを見つめた。
ナディアもまた、真っ直ぐに見つめ返してくる。
「……昼間は、みゆもフェンリスも随分と幸せそうだった」
「……ああ」
「俺様も、あんな顔をしてみたい」
その言葉に、和真は少し驚いた。
「……ナディア?」
「何だ?」
「……もう十分、幸せそうに見えるけど」
ナディアは一瞬きょとんとした。
そして。
「……ふっ」
小さく笑った。
「そうかもしれないな」
和真の胸へ、もう一度頬を寄せる。
「……でも、もっと甘えたい」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
和真は微笑みながら、ナディアを抱きしめ直す。
「……分かった」
「……本当か?」
「ああ」
ナディアは嬉しそうに笑った。
「……なら」
ゆっくりと顔を上げる。
「キスしてくれ」
和真は頷いた。
「……うん」
そっと顔を近づける。
二人の唇が重なった。
短い口づけ。
けれど、離れたあともナディアは和真を見つめていた。
「……もう一度」
「……ああ」
再び唇が重なる。
今度は、先ほどよりも長く。
ナディアは和真の背中へ回した腕に力を込めた。
和真もまた、彼女を優しく抱きしめる。
しばらくして唇が離れると、ナディアは満足そうに微笑んだ。
「……ふふ」
「……何だよ」
「いや……やっぱり、お前が好きだなと思ってな」
和真は少し照れたように笑った。
「……ありがとう」
「何だ、その返事は」
ナディアはくすくす笑った。
「もう少し気の利いたことを言えないのか?」
「……急に言われると困るんだよ」
「ふっ。そういうところも、お前らしいな」
ナディアはそう言うと、再び和真へ抱きついた。
「……まあ、いい」
「ん?」
「俺様は、お前がこうして抱きしめてくれるだけでも嬉しいんだ」
和真はその言葉を聞き、静かに微笑んだ。
「……俺も、ナディアとこうしていられて嬉しいよ」
ナディアの頬が赤くなる。
「……まったく」
「……ん?」
「そういうことを、さらっと言うな」
「……え?」
「こっちが照れるだろ」
和真は思わず笑った。
「ナディアでも照れるんだな」
「当たり前だ!」
ナディアは少し頬を膨らませた。
しかし、すぐに微笑む。
「……お前の前では、俺様だってただの女なんだからな」
その言葉に、和真は黙って頷いた。
そして、もう一度ナディアを抱きしめる。
ナディアも嬉しそうに目を閉じた。
◇ ◇ ◇
「……こん?」
部屋の隅。
紅月は毛布の上で、二人の様子をじっと見つめていた。
あの優しい人間。
そして、昼間にも会った雌の人間。
二人は身体を寄せ合い、何度も口を合わせている。
紅月は不思議そうに首を傾げた。
何をしているのだろう。
けれど、しばらく見ているうちに、何となく分かってきた。
ああ。
そういうことか。
これは、つがいの行動だ。
雄と雌が互いに身体を寄せ合う。
野山で暮らしていた頃にも、似たような光景を見たことがある。
交尾の前に、互いの身体を擦り寄せたり、毛づくろいをしたりすることがあった。
人間は口を合わせるらしい。
それが少し不思議だった。
「……こん」
紅月は納得したように小さく鳴いた。
どうやら、この二人は交尾をするつもりらしい。
それなら、邪魔をする必要はない。
紅月にとって、それはごく自然なことだった。
母親から、人間の恋愛について教わったことはない。
それに、恋人というものが何なのかもよく分からない。
ただ、雄と雌が互いを求めている。
それだけは理解できた。
紅月は小さく欠伸をした。
「……ふぁ……」
そして、再び毛布の上へ丸くなる。
けれど。
ふと、気になって顔を上げた。
あの優しい人間が、雌の人間を抱きしめている。
雌もまた、嬉しそうにその胸へ顔を埋めていた。
その光景を見て、紅月は少しだけ安心した。
あの男は、幸せそうだ。
それなら、きっと大丈夫。
「……くぅん」
紅月は大きな尻尾を身体へ巻きつけた。
◇ ◇ ◇
「……和真」
ナディアが小さく名前を呼んだ。
「……ん?」
「そろそろ、こっちへ来ないか?」
そう言って、ベッドへ視線を向ける。
和真は少しだけ頬を赤くした。
「……ああ」
ナディアは嬉しそうに笑った。
二人は並んでベッドへ腰掛ける。
和真がナディアの髪へ触れると、彼女はそっと目を閉じた。
「……優しいな、お前は」
「……そうかな」
「ああ」
ナディアは和真の手を取り、自分の頬へ添える。
「……だから、もっと欲しくなる」
その声は、いつもよりも少しだけ甘かった。
和真は静かにナディアを見つめる。
彼女がどれほど自分を大切に思ってくれているのか。
それは、もう十分に伝わっていた。
だからこそ、今夜はその気持ちに応えたいと思った。
「……ナディア」
「……何だ?」
「今日は、俺もナディアと一緒にいたい」
ナディアの目が少し大きくなる。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「……ふっ」
和真の首へ腕を回す。
「なら、遠慮はしないぞ?」
「……ああ」
和真は微笑み返した。
ナディアはそっと顔を近づける。
二人の唇が重なった。
そして、互いの身体を抱きしめる。
ナディアの指が、和真の背中へゆっくりと回った。
和真も、彼女を大切に包み込むように腕を回す。
何度も唇を重ねながら、二人は少しずつベッドへ身体を預けた。
「……和真」
「……うん」
「今夜は、いっぱい甘えさせてもらうからな」
「……分かったよ」
和真は優しく笑った。
その笑顔を見て、ナディアも幸せそうに微笑む。
「……好きだぞ」
そっと囁き、もう一度唇を重ねた。
和真はナディアを抱きしめた。
互いの温もりを確かめ合う。
そして、二人は自然と、さらに深い親密さを求め合っていった。
◇ ◇ ◇
その様子を。
紅月は、毛布の上から静かに見つめていた。
「……こん?」
あの雄と雌は、まだ身体を寄せ合っている。
随分と仲がいいようだ。
紅月は首を傾げた。
そして、少し考える。
……ああ、やっぱり。
交尾だ。
人間も、狐と同じように交尾をするのだ。
ただ、その前に随分と長く抱き合うらしい。
それが人間のやり方なのだろう。
「……こん」
紅月は小さく鳴いた。
特に驚くこともない。
ただ、あの優しい人間が嬉しそうなのは、何となく分かった。
紅月は再び身体を丸める。
ふかふかの毛布。
温かな部屋。
近くには、自分を助けてくれた人間がいる。
もう、寒い山の中で一匹きりになる必要はない。
追っ手の足音に怯えながら眠る必要もない。
「……くぅん」
紅月は安心したように目を閉じた。
ふと、母親の声を思い出す。
――紅月。
幼い頃、何度も呼んでもらった名前。
その声を聞くだけで、嬉しくなった。
温かな身体へ擦り寄ると、母親はいつも優しく舐めてくれた。
あの温もり。
あの匂い。
そして、自分だけの名前。
紅月はその記憶を胸に抱いたまま、ゆっくりと眠りへ落ちていった。
窓の外では、冬の風が静かに吹いている。
部屋の中では、和真とナディアが互いを抱きしめ、二人だけの温かな時間を過ごしていた。
そして、そのすぐそばでは。
小さな赤狐が、安心しきった寝顔で眠っていた。
まだ誰も知らない。
その赤狐が、母親からもらった大切な名前を持っていることを。
――紅月。
いつか、その名前を和真に呼んでもらえる日が来るのだろうか。
今はまだ、分からない。
けれど。
少なくとも、この夜。
紅月には、安心して眠れる場所があった。
それだけで、十分に幸せだった。




