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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第六十四話 空に響く歌声と新たな出会い

 一月二日。


 新しい年を迎えて、二日目の朝。


 窓の外では、冬の冷たい風が木々を静かに揺らしていた。


 雲ひとつない青空から、柔らかな朝日が差し込んでいる。


「……ん……」


 和真はゆっくりと目を覚ました。


 まだ少し眠気の残る頭で天井を見つめ、それから自分の胸元に視線を落とす。


「……すぅ……すぅ……」


 そこには、気持ちよさそうに眠るピピの姿があった。


 人間の姿になったピピは、和真の胸に頬を寄せ、両腕を背中に回してしっかりと抱きついている。


 昨日の夜、楽しみすぎて眠れないと言って、窓から和真の部屋を訪ねてきたのだ。


 そして、一緒に眠りたいとお願いされ、こうして朝を迎えていた。


「……本当に楽しみだったんだな」


 和真は小さく笑った。


 昨夜のピピは、山の家へ行けることが嬉しくて仕方がない様子だった。


 広い空を自由に飛び回れる。


 誰の目も気にせず、大好きな歌を思いきり歌える。


 それがどれほど嬉しいことなのか、和真にも十分伝わっていた。


「……カズマぁ……」


「ん?」


 眠っているはずのピピが、小さく名前を呼んだ。


「……えへへ……」


 どうやら寝言らしい。


 幸せそうな笑みを浮かべ、さらにぎゅっと抱きついてくる。


「ははっ……どんな夢を見てるんだ?」


 和真は空いている手で、そっとピピの頭を撫でた。


 すると、ピピは気持ちよさそうに頬を緩めた。


 そんな穏やかな時間が、しばらく続いた。


 やがて――。


「……んぅ……」


 ピピの瞼がぴくりと動いた。


 ゆっくりと目を開け、ぼんやりと和真を見上げる。


「……カズマ?」


「おはよう、ピピ」


「……おはよぉ……」


 寝ぼけた声で返事をしたピピ。


 そのまま再び胸元に顔を埋める。


「……えへへ……」


「まだ眠い?」


「……ううん……」


 そう答えながらも、まったく離れようとしない。


 和真が苦笑していると、ピピがふと顔を上げた。


「……あっ!」


「どうした?」


「今日!」


「うん?」


「今日、山に行く日!!」


 突然、ピピの目がぱっと輝いた。


「カズマ! 今日だよね!? お空、飛びに行く日!」


「ああ、そうだよ」


「やったぁぁぁ!!」


「うわっ!」


 勢いよく抱きついてきたピピに、和真は思わず声を上げた。


「ピピ! ベッドの上で暴れない!」


「だって! だって! 嬉しいんだもん!」


「わかった! わかったから!」


 和真が笑いながら宥めると、ピピは満面の笑みを浮かべた。


「ねえ、カズマ!」


「ん?」


「昨日も一緒に寝られたし、今日はいっぱい飛べるし……僕、すっごく幸せ!」


「そっか」


「うん!」


 ピピは嬉しそうに笑った。


 そして、和真の頬に軽く口づけをした。


「えへへ♪」


「……まったく」


 和真は少し照れながら、ピピの頭を撫でる。


「ほら、そろそろ起きよう。みんなも準備してるだろうし」


「はーい!」


 元気よく返事をしたピピ。


 しかし、和真が起き上がろうとすると、なぜかもう一度抱きついてきた。


「……ピピ?」


「あとちょっとだけ!」


「さっきまで寝てただろ?」


「だって、カズマとくっついてるの好きなんだもん!」


「……あと一分だけな」


「やった!」


 結局、和真はそのまま数分間、ピピに抱きつかれることになった。


     ◇


 朝食の時間。


 母屋の食卓には、すでに何人かの住人が集まっていた。


「おはよう!」


 ピピが元気よく挨拶すると、みゆが振り返った。


「あっ、ピピ! おはよう!」


「おはよう、みゆ!」


 その後ろから和真も顔を出す。


「みんな、おはよう」


「和真、おはよっ!」


 フェンリスが嬉しそうに駆け寄ってきた。


 銀色の髪を揺らしながら、和真の腕にぎゅっと抱きつく。


「今日はお出かけだね!」


「ああ。天気もよさそうだし、ちょうどいいな」


「えへへ♪ 楽しみ!」


 そんな二人を見ていたみゆが、ふとピピに目を向けた。


「ところでピピ」


「なぁに?」


「昨日、和真と一緒に寝たんだよね?」


「うん!」


 ピピは迷うことなく頷いた。


「カズマにぎゅーってしてもらって寝たの!」


「へぇ……」


 みゆの尻尾がゆらりと揺れる。


「……そうなんだぁ」


「すっごく気持ちよかったよ! カズマ、いっぱい頭撫でてくれたし!」


「ふーん……」


 みゆはにっこりと笑った。


 けれど、その笑顔を見た和真は、なぜか嫌な予感がした。


「……みゆ?」


「なぁに、和真?」


「いや……なんでもない」


「ふふっ。僕も今度、いっぱい撫でてもらおうかなぁ」


「それくらいなら、いつでもいいだろ?」


「……それだけで済むかなぁ?」


「え?」


「なんでもなーい♪」


 みゆは楽しそうに笑った。


 その横で、フェンリスが少しだけ頬を膨らませる。


「……私も和真と寝たい」


「フェンリス?」


「だってぇ……最近、みんなばっかりなんだもん」


「いや、フェンリスだって結構一緒に寝てるだろ?」


「それでも足りないの!」


 そう言って、さらにぎゅっと腕に抱きつく。


「……わかったから、とりあえず朝ご飯にしよう?」


「むぅ……」


 フェンリスは不満そうだったが、渋々腕を離した。


 そのやり取りを見ていたユエが、呆れたようにため息をつく。


「朝から何やってるのよ、あんたたちは」


「ユエ、おはよう」


「おはよう、和真。今日は山に行くんでしょ?」


「ああ。ピピを思いきり飛ばせてやりたいからね」


「それはいいけど、冬山なんだから気をつけなさいよ」


「わかってる」


「それと、暗くなる前には帰ってきなさい。山の天気は変わりやすいんだから」


「はいはい」


「返事は一回!」


「はい!」


 和真が慌てて返事をすると、周囲から笑い声が上がった。


「ユエって、お母さんみたい!」


 ピピが笑う。


「誰がお母さんよ!」


「えへへ!」


「まったく……」


 ユエは呆れたように肩をすくめた。


 けれど、すぐに少しだけ表情を和らげる。


「……まあ、楽しんできなさい」


「ああ。ありがとう」


     ◇


 朝食を終えると、五人は出発の準備を始めた。


 今回の同行者は、和真、ピピ、みゆ、フェンリス、そしてあおい。


 昨日の夜に約束したとおりの顔ぶれだった。


 和真は地下室で見つけた山の家の地図と鍵を確認し、必要な荷物を車に積み込んでいく。


 飲み水。


 昼食。


 防寒用品。


 念のための救急用品。


 それから、家の掃除に使う簡単な道具も用意した。


「和真、そんなに荷物いるの?」


 フェンリスが首を傾げる。


「山の上だからね。何があるかわからないし、念のためだよ」


「そっか!」


「それに、あの家もしばらく行ってないみたいだから、少し様子を見ておきたいんだ」


 和真が荷物を整理していると、ピピがそわそわしながら近づいてきた。


「カズマ! まだ!?」


「もう少し!」


「早く行こうよ!」


「そう急かすなって」


「だってぇ!」


 ピピは今にも飛び跳ねそうだった。


 すでに人間の姿で外出用の服を着込み、準備万端といった様子である。


 そんなピピの肩を、みゆがぽんぽんと叩く。


「ピピ、落ち着いて。山は逃げないよ?」


「でも、早く飛びたい!」


「ふふっ。わかるけどね」


 そのとき。


「和真」


 あおいが母屋から出てきた。


「おっ、あおい。準備できた?」


「うむ。いつでもよいぞ」


 あおいは暖かな冬服に身を包み、楽しそうに微笑んでいた。


「それにしても、山の上の家か。どのような場所なのじゃ?」


「古い家だよ。祖父が昔使っていた場所なんだ」


「ほう……」


「神社よりも、ずっと山の上にあるんだ」


「なんと! そんなところに家があるのか!」


 あおいは驚いたように目を丸くした。


 長い間、神社から離れることができなかったあおいにとって、まだまだ知らない場所は多い。


「景色も綺麗だと思うよ」


「それは楽しみじゃのう!」


 嬉しそうに笑うあおい。


 そんな彼女の姿を見て、和真も自然と笑みを浮かべた。


「よし! それじゃ、そろそろ行こうか!」


「「「「はーい!」」」」


 こうして五人は、山の上の家へ向けて出発した。


     ◇


 車を走らせること、しばらく。


 住宅が立ち並ぶ景色は次第に少なくなり、やがて深い緑に囲まれた山道へと変わっていった。


 冬の山。


 葉を落とした木々の枝が空へ伸び、ところどころに霜が残っている。


 道の脇には枯れ葉が積もり、風が吹くたびにかさかさと音を立てていた。


「わぁ……!」


 窓の外を眺めていたピピが、嬉しそうに声を上げる。


「カズマ! すっごく山!」


「ははっ。そりゃ山に来てるからな」


「木がいっぱい!」


「そうだね」


「お空も広い!」


「ああ。もう少し登れば、もっと広くなるぞ」


「ほんと!?」


「うん」


 ピピは嬉しそうに窓の外を眺め続けた。


 その隣では、あおいも興味深そうに景色を見つめている。


「ふむ……神社の周りとは、また違う景色じゃのう」


「ここまで登ると、人もほとんど来ないからね」


「なるほどのう……」


 あおいは窓の外に広がる山々を見つめた。


 遠くには、いくつもの稜線が重なって見える。


 冬の澄んだ空気のおかげで、その輪郭まではっきりしていた。


「……綺麗じゃ」


 思わず漏れた言葉に、和真が微笑む。


「気に入った?」


「うむ。実に見事な景色じゃ」


「家に着けば、もっとよく見えると思うよ」


「それは楽しみじゃ!」


 その一方で。


「ねえ、和真」


 助手席のみゆが、ふと声をかけた。


「ん?」


「昔、おじいさんと一緒にあの家へ行ってたの?」


「ああ。小さい頃に何度か連れていってもらったような気がするよ」


「へぇ……」


「山のことを色々教えてもらったり、木の実を拾ったりね」


「楽しそう!」


「楽しかったよ。祖父は山のことになると、すごく詳しかったから」


 和真は懐かしそうに笑った。


「ただ、最後に行ったのは結構前だと思うから、今どうなってるかはわからないけどね」


「大丈夫! もし汚れてたら、僕もお掃除手伝うよ!」


「ありがとう、みゆ」


「えへへ♪」


 そんな会話を聞いていたフェンリスも、身を乗り出した。


「私も手伝う!」


「うん。ありがとう」


「それに、お掃除が早く終われば、いっぱい遊べるもんね!」


「……結局、そっちか」


「えへへ!」


 車内に笑い声が響いた。


 和真はそんな賑やかな会話を楽しみながら、慎重に山道を進んでいった。


     ◇


 さらに山道を登ると、道幅が次第に狭くなってきた。


 路面には小石や落ち葉が増え、日陰には薄く凍結している部分もある。


 和真は速度を落とし、慎重にハンドルを握った。


「……この先は車じゃ厳しそうだな」


 やがて、少し開けた場所に到着した。


 そこには古い作業用の空き地があり、車を停められる程度の広さがあった。


「よし。ここから歩こう」


 和真は安全を確認して車を停めた。


「歩くの?」


 ピピが尋ねる。


「ああ。ここから先は、車で行くより歩いたほうが安全だからね」


「僕、飛んでいっちゃダメ?」


「まだダメ。家に着いて、周りに誰もいないのを確認してからな」


「はーい!」


 ピピは元気よく返事をした。


 五人は車を降り、防寒具を整える。


「……うぅ、寒い!」


 フェンリスが肩をすくめた。


「山の上だからね」


「和真ぁ……」


「ん?」


「手、繋いでいい?」


「いいよ。足元には気をつけてね」


「うん!」


 フェンリスは嬉しそうに和真の手を握った。


 すると――。


「あっ! 僕も!」


 みゆが反対側から手を握る。


「おいおい、二人とも……」


「えへへ♪」


「ふふっ♪」


 二人は揃って笑った。


 そんな様子を見ていたあおいが、小さくため息をつく。


「やれやれ。相変わらずじゃのう」


「……あおいも繋ぐ?」


 和真が冗談めかして尋ねると、あおいはにっこりと笑った。


「うむ。では、背中にでもくっつこうかのう?」


「いや、それは歩けなくなるから!」


「ふふふっ。冗談じゃ」


 楽しそうに笑うあおい。


 一方、ピピは待ちきれない様子で前方を見つめていた。


「カズマ! まだ!?」


「もう少しだよ!」


「早く! 早く!」


「はいはい」


 和真は苦笑しながら、山道を歩き始めた。


 冬の森は静かだった。


 足元の枯れ葉を踏む音と、時折聞こえる鳥の鳴き声。


 それ以外には、ほとんど音がない。


 木々の間から差し込む日差しが、山道に細かな影を落としていた。


 しばらく歩いたところで、ピピがふと足を止めた。


「……あっ!」


「どうした?」


「見えた!」


 ピピが前方を指さす。


 木々の向こう。


 少し開けた場所に、古い一軒家が見えていた。


「おっ、あれだ!」


 和真が声を上げる。


「えっ!? あれが!?」


「そう。祖父の山の家だよ」


 五人は歩く速度を少し上げた。


 そして、木々の間を抜けた瞬間――。


「「「わぁぁ……!」」」


 思わず歓声が上がった。


     ◇


 そこには、広々とした景色が広がっていた。


 山の斜面に建てられた古い家。


 その前には、十分な広さの空き地があり、少し先へ進むと視界が一気に開けている。


 眼下には幾重にも連なる山々。


 遠くには、青空と地平線が溶け合うような景色が広がっていた。


 冬の澄んだ空気のおかげで、遠くの山並みまでくっきりと見える。


「すっごーーーーい!!」


 ピピが両手を広げた。


「カズマ! ここ! ここすごいよ!」


「ははっ。気に入った?」


「うん!!」


 ピピは何度も頷いた。


「すっごく高い! すっごく広い!」


 興奮した様子で、その場をくるくると回る。


「ここなら、いっぱい飛べるね!」


「ああ。上空の風と周囲の様子を確かめてからな」


「やったぁぁ!!」


 ピピは飛び跳ねて喜んだ。


 その様子に、みゆとフェンリスも笑みを浮かべる。


「ピピ、すっごく嬉しそう!」


「うん! 連れてきてよかったね!」


 あおいも景色を眺めながら、感心したように頷いていた。


「これは見事じゃ……」


「いい場所だろ?」


「うむ。まさか、これほどとは思わなんだ」


 和真は少し誇らしげに笑った。


 そして、古い家へと目を向ける。


「……さて」


 懐から鍵を取り出した。


「まずは家の様子を確認しようか」


 玄関へ向かい、鍵を差し込む。


 少し硬くなっていた鍵を慎重に回すと――。


 ガチャリ。


 古い錠前が音を立てて開いた。


「よし」


 和真は扉をゆっくりと開いた。


 中には、懐かしい木の香りが残っていた。


 家具には薄く埃が積もっているものの、思っていたほど荒れてはいない。


「……懐かしいな」


 和真は小さく呟いた。


 昔、祖父と訪れたときの記憶が蘇る。


 古い木の床。


 窓際に置かれた椅子。


 壁に掛けられた時計。


 あの頃と、ほとんど変わっていない。


「和真?」


 フェンリスが顔を覗き込んだ。


「ああ、ごめん。ちょっと懐かしくて」


「そっか♪」


 フェンリスは優しく微笑んだ。


「じゃあ、お掃除しよっか!」


「そうだね」


「僕も手伝う!」


 みゆも袖をまくる。


 あおいも周囲を見渡しながら頷いた。


「わらわにもできることがあれば言うのじゃ」


「ありがとう」


 そのとき。


「カズマぁ……」


 ピピが少しだけ不満そうな声を出した。


「……まだ飛んじゃダメ?」


 和真は思わず笑ってしまった。


「ははっ。そんなに待ちきれないか」


「うん!」


 ピピは力強く頷く。


「だって、昨日の夜からずっと楽しみだったんだもん!」


「わかった。じゃあ、先に少し飛ぼうか」


「ほんと!?」


「ああ。ただし、風の様子を見て、無理はしないこと」


「わかった!」


「それから、遠くまで行きすぎないこと。何かあったらすぐ戻ってくるんだぞ?」


「うん!」


 ピピは満面の笑みを浮かべた。


「カズマ、大好き!」


 そう言って、和真に勢いよく抱きつく。


「うわっ!」


「えへへへ♪」


「まったく……」


 和真は苦笑しながら、ピピの頭を撫でた。


     ◇


 家の前に戻ったピピは、待ちきれない様子で空を見上げていた。


「……よーし!」


 誰にも見られていないことを確認すると、ピピは人間の姿から本来のハーピーの姿へと戻った。


 腕が大きな翼へと変わり、脚も鋭い鉤爪を持つ鳥の脚へと変化していく。


 普段の、見慣れたピピの姿。


 けれど、その表情はいつも以上に輝いていた。


「カズマ!」


「ん?」


「ちゃんと見ててね!」


「ああ。見てるよ」


「絶対だよ!」


「わかってるって!」


 ピピは嬉しそうに笑った。


 そして――。


 バサッ!!


 大きく翼を広げた。


 次の瞬間、力強い羽ばたきとともに、小さな身体が宙へ浮かび上がる。


「わぁっ!」


 フェンリスが歓声を上げた。


 ピピは一度低い位置で旋回すると、和真たちの方を振り返った。


「行っくよぉぉぉ!!」


 バサッ!!


 再び翼を大きく羽ばたかせる。


 そして、一気に高度を上げていった。


「おおっ!」


 和真が思わず声を上げる。


 ピピの身体はぐんぐん小さくなっていった。


 青空の中を、まるで風と遊ぶように飛んでいく。


 大きく翼を広げて滑空し、風の流れを掴んで上昇する。


 くるりと身体を傾け、山の上空を大きく旋回する。


 そして、今度は翼を少し畳み、一気に高度を下げた。


「きゃああっ!?」


 フェンリスが驚いて声を上げる。


 けれど――。


 バサァッ!!


 地面に近づいた瞬間、ピピは再び翼を広げた。


 風を受けて、ふわりと上昇する。


「やっほおおおお!!」


 楽しそうな声が山々に響いた。


「すごーい!」


 みゆが拍手する。


「ピピ、かっこいい!」


 フェンリスも大きく手を振った。


 ピピは嬉しそうに笑いながら、さらに大きな弧を描いて飛んでいった。


 その姿を、和真はじっと見つめていた。


 普段のピピは、どちらかといえば甘えん坊だ。


 和真のそばにいることを好み、よく抱きついてくる。


 難しいことを考えるより、楽しいことを全力で楽しむ。


 そんな無邪気な女の子だった。


 けれど、今のピピは違って見えた。


 空を自由自在に飛び回るその姿は、美しく、力強い。


 大きな翼で風を捉え、自分の身体ひとつで空を駆けていく。


 そこには、ハーピーとして生まれた彼女本来の姿があった。


「……すごいな」


 和真は小さく呟いた。


 きっと、ずっと我慢していたのだろう。


 人間の世界で暮らすために。


 自分たちと一緒にいるために。


 飛びたい気持ちを抑え、翼を自由に広げることさえ遠慮していたのかもしれない。


(……もっと早く連れてきてあげればよかったな)


 そんなことを考えていると――。


「カズマぁぁぁ!!」


 空から元気な声が響いた。


「おーう!」


「見ててぇぇぇ!!」


 ピピは大きく旋回した。


 そして、何度も空中で身体を回転させる。


 翼を広げて、くるり。


 再び風を掴んで、ふわり。


 まるで空に見えない道があるかのように、自由自在に飛んでいた。


「すごいねぇ……」


 フェンリスが感心したように呟く。


「うん。あんなふうに飛べるなんて、ちょっと羨ましいな」


 みゆも空を見上げていた。


 あおいは眩しそうに目を細める。


「ふふっ。あれほど楽しそうに飛ぶ姿は、見ているこちらまで嬉しくなるのう」


「ああ。本当にそうだね」


 和真も微笑んだ。


 しばらくして、ピピはゆっくりと高度を下げてきた。


 そして、五人の頭上で大きく旋回する。


「カズマ!」


「ん?」


「歌っていい!?」


 その言葉に、和真は笑顔で頷いた。


「ああ! 思いきり歌っていいよ!」


「ほんと!?」


「もちろん! 今日はそのために来たんだから!」


「やったぁぁぁ!!」


 ピピは嬉しそうに翼を広げた。


 そして、再び青空へと舞い上がっていく。


 大きな山々。


 澄み渡る青空。


 冬の冷たい風。


 そのすべてを楽しむように、ピピはゆっくりと旋回した。


 そして――。


 すぅ……。


 大きく息を吸い込む。


 次の瞬間。


 透き通るような歌声が、山の空へと響き始めた。


 ――♪――。


 優しく、柔らかく。


 どこまでも澄んだ歌声。


 それは冷たい冬の空気に溶け込み、山々の間をゆっくりと広がっていく。


「……綺麗」


 フェンリスが小さく呟いた。


「うん……」


 みゆも静かに頷く。


 和真は目を細めた。


 空を飛びながら歌うピピ。


 その姿は、まるで青空そのものが歌っているかのようだった。


 誰にも邪魔されない。


 誰の目も気にしなくていい。


 ただ、大好きな空を飛び、大好きな歌を歌う。


 そんなピピの幸せが、その歌声から伝わってくるようだった。


 ――♪――。


 山の木々が、風に揺れる。


 どこからともなく、小鳥たちの声が聞こえ始める。


 静かだった冬の山に、優しい音色が満ちていった。


 和真は空を見上げ、穏やかに微笑んだ。


(……連れてきて、本当によかった)


 そう思った。


 しかし――。


 その美しい歌声が、山の奥深くまで届いていることを。


 そして、傷つき、恐怖に震える一匹の小さな命にも届いていることを。


 このときの和真たちは、まだ知らなかった。


 ――♪――。


 ピピの歌声が、冬の山々に響き渡る。


 高く、低く。


 時には優しく、時には楽しそうに。


 大きな翼を広げ、青空を自由に飛び回りながら、ピピは心の底から歌を楽しんでいた。


「……すごいな」


 和真は思わず呟いた。


 空色唐辛子荘でもピピの歌を聴く機会はあった。


 けれど、今日の歌声はいつもと少し違う。


 どこまでも広がる空。


 遮るもののない大自然。


 そのすべてを自分のものにしたかのように、ピピはのびのびと歌っていた。


「……和真」


「ん?」


 フェンリスが、そっと和真の腕に抱きついてきた。


「ピピ、すっごく嬉しそうだね」


「ああ。本当に楽しそうだ」


「えへへ♪ よかったね」


 フェンリスは空を見上げながら微笑んだ。


 その隣で、みゆも嬉しそうに尻尾を揺らしている。


「ねえ、和真。これからも時々連れてきてあげようよ」


「そうだね。ここなら周りを気にせず飛べるし」


「うん! 僕もまた来たいな!」


「私も!」


 フェンリスが元気よく手を上げる。


 すると、あおいも小さく頷いた。


「わらわも気に入ったぞ。空気も澄んでおるし、実に心地よい場所じゃ」


「ははっ。みんな気に入ったみたいだね」


 和真は嬉しそうに笑った。


 そのときだった。


 ――♪――。


 ピピの歌声が、ふわりと変わった。


 先ほどまでの明るく軽やかな旋律から、どこか優しく、包み込むような歌へ。


 まるで誰かを慰めるような、温かな歌声だった。


「……あれ?」


 みゆが首を傾げる。


「どうした?」


「なんか……さっきと歌が違うね」


「ああ。確かに」


「でも、すっごく優しい歌……」


 フェンリスが目を細める。


 和真も、その歌声に耳を傾けた。


 不思議と心が落ち着く。


 日頃の忙しさも、色々な悩みも。


 今だけは、どこか遠くへ消えていくような気がした。


 そして――。


 その歌声は、山の奥深くにまで届いていた。


     ◇


 山の斜面を少し下った場所。


 冬枯れの木々が生い茂る森の中を、小さな赤い影が歩いていた。


「……クゥ……」


 弱々しい鳴き声。


 その正体は、一匹の狐だった。


 四本の脚で歩く、普通の狐と変わらない姿。


 しかし、その毛並みは驚くほど鮮やかな赤色をしていた。


 まるで燃える炎のように美しい毛並み。


 本来なら、その赤い毛は陽光を浴びて美しく輝いていたはずだった。


 だが、今は見る影もない。


 身体のあちこちが泥で汚れ、赤い毛には乾いた血がこびりついている。


 右の後ろ脚には痛々しい傷。


 腹部にも何かで切られたような傷があった。


 さらに、首元には縄で強く締めつけられたような痕まで残っている。


「……ッ……」


 赤狐はふらついた。


 脚に力が入らない。


 何日もまともに食べていなかった。


 水も十分に飲めていない。


 それでも、必死に歩き続けていた。


 逃げなければ。


 捕まってはいけない。


 あの人間たちに、もう二度と。


「……クゥ……」


 小さな身体が震える。


 思い出すだけで恐ろしかった。


 追いかけてくる人間たち。


 自分を捕まえようと伸びてくる手。


 逃げ道を塞ぐように迫ってくる足音。


 赤狐は何度も振り返った。


 幸い、今は誰もいない。


 けれど、いつまた見つかるかわからない。


 安心できる場所など、どこにもなかった。


 そのとき――。


 ――♪――。


「……?」


 赤狐の耳がぴくりと動いた。


 聞き慣れない音。


 いや、歌声だった。


 森の上から、優しい歌声が聞こえてくる。


「……クゥ?」


 赤狐は顔を上げた。


 木々の隙間から、青い空が見える。


 その空のどこかから、美しい歌声が響いていた。


 怖くない。


 不思議と、そう感じた。


 ずっと胸の奥を締めつけていた恐怖が、ほんの少しだけ和らいでいく。


 赤狐はしばらく空を見上げていた。


 そして、歌声のする方へ顔を向ける。


 身体は限界だった。


 それでも、なぜかその歌声に近づきたいと思った。


 ふらり。


 一歩。


 また一歩。


 赤狐はゆっくりと歩き始めた。


     ◇


「カズマぁぁぁ!!」


 上空から元気な声が響いた。


「おーう!」


「今度はもっと高く飛ぶよぉ!!」


「気をつけろよー!」


「わかったぁぁ!!」


 ピピは楽しそうに笑い、大きく翼を羽ばたかせた。


 そして、ぐんぐん高度を上げていく。


「……ほんと、元気だなぁ」


 和真が苦笑する。


「ふふっ。あれだけ飛んでるのに、全然疲れないんだね」


 みゆが感心したように言った。


「ハーピーだからね。空を飛ぶことには慣れてるんだろうな」


 その言葉に、フェンリスも頷いた。


「でも、あんなに高いところ、怖くないのかな?」


「ピピにとっては、地面を走るのと同じような感覚なのかもしれないね」


「そっかぁ……」


 フェンリスは再び空を見上げた。


 そのとき。


「……ん?」


 ぴくり。


 頭の上の狼耳が動いた。


「どうした、フェンリス?」


「……何か……」


 フェンリスは鼻をひくひくと動かした。


「変な匂いがする……」


「変な匂い?」


「うん……」


 フェンリスの表情が少し曇る。


「……血の匂い」


「えっ?」


 和真が驚いて振り返った。


 すると、みゆも真剣な表情で森の方を見つめていた。


「……和真」


「みゆも気づいた?」


「うん。何かいる」


 猫耳が小さく動く。


「それに……草が擦れる音がする」


 和真は二人が見つめる方向へ視線を向けた。


 家の裏手。


 そこには少し傾斜した地面があり、その先は深い森へと続いている。


「動物かな?」


「たぶん……」


 フェンリスが頷いた。


 その直後だった。


 ガサッ。


 茂みが小さく揺れた。


「……!」


 五人の視線が、一斉にそちらへ向く。


 ガサガサ……。


 何かがゆっくりと近づいてきている。


 和真は二人の前に出た。


「ちょっと待ってて」


「和真、気をつけてね」


「ああ」


 茂みの向こうを慎重に覗き込む。


 すると――。


「……え?」


 そこにいたのは、一匹の小さな赤狐だった。


     ◇


「……狐?」


 和真が呟いた。


 茂みから姿を現した赤狐は、今にも倒れそうな様子だった。


 ふらふらと歩き、時折身体が大きく傾く。


 毛並みは泥と血で汚れていた。


「……ひどい……!」


 フェンリスが思わず口元を押さえた。


「和真! この子、怪我してる!」


 みゆも慌てて駆け寄ろうとする。


「待って、みゆ!」


 和真が手で制した。


「今は刺激しない方がいい」


「……うん」


 赤狐は和真たちの姿に気づいた。


 その瞬間。


「……ッ!!」


 びくりと身体を震わせた。


 人間。


 また人間がいる。


 赤狐は反射的に身を翻そうとした。


 けれど――。


「……キャウッ!」


 傷ついた後ろ脚に力が入らず、その場に倒れ込んでしまった。


「あっ!」


 フェンリスが声を上げる。


 赤狐は必死に立ち上がろうとした。


 しかし、もう身体が言うことを聞かない。


 何度も脚を動かすものの、地面に崩れ落ちるばかりだった。


「……大丈夫だよ」


 和真はゆっくりとしゃがみ込んだ。


「怖がらなくていいから」


 できるだけ穏やかな声で話しかける。


 けれど、赤狐は和真を睨みつけた。


「……グルル……!」


 小さな牙を剥き、精一杯威嚇する。


「……怖いんだね」


 フェンリスが悲しそうに呟いた。


 その様子を見ていたあおいも、表情を曇らせる。


「……随分と怯えておるのう」


「ああ……」


 和真は小さく頷いた。


 赤狐の目には、はっきりとした恐怖が浮かんでいた。


 ただ警戒しているだけではない。


 何かに追い詰められ、必死に抵抗している。


 そんな目だった。


「……何があったんだろう」


 和真は静かに呟いた。


 赤狐は答えない。


 ただ、震える身体で牙を剥き続けていた。


 そんなとき。


「……あれ?」


 上空からピピの声が聞こえた。


「カズマ? みんなどうしたの?」


 ピピはゆっくりと高度を下げ、少し離れた場所に着地した。


「……あっ!」


 赤狐を見つけた瞬間、目を大きく見開く。


「キツネさん!」


「ピピ、静かに」


「……うん」


 和真に言われ、ピピは慌てて声を小さくした。


「……怪我してるの?」


「ああ。かなりひどい」


「……かわいそう……」


 ピピは心配そうに赤狐を見つめた。


 先ほどまでの明るい表情は消え、今にも泣きそうになっている。


「カズマ……助けてあげられない?」


「もちろん。そのつもりだよ」


 和真はゆっくりと赤狐に向き直った。


「……なあ」


 できるだけ優しく声をかける。


「俺たちは、君を捕まえたりしないよ」


「……グルル……」


「ただ、怪我を治してあげたいんだ」


 赤狐は和真を睨みつけたままだった。


 和真は少しずつ手を伸ばす。


「大丈夫。怖くないよ」


 もう少し。


 あと少し。


 その瞬間だった。


 ガブッ!!


「いっ……!」


「和真っ!!」


 フェンリスが悲鳴を上げた。


 赤狐が、伸ばされた和真の右手に噛みついたのだ。


「和真! 手!」


 みゆも慌てて近づこうとする。


「大丈夫! 二人とも、待って!」


 和真はすぐに声をかけた。


 噛まれた手から血が滲んでいる。


 鋭い牙が食い込み、かなりの痛みがあった。


 それでも、和真は無理に振り払おうとはしなかった。


 赤狐の身体が震えていることに気づいたからだ。


「……大丈夫だよ」


 和真は静かに声をかける。


「怖かったんだな……」


「……ッ……!」


「ごめん。急に触ろうとして」


 赤狐は必死に噛みついていた。


 けれど、和真が抵抗しないことに戸惑い始めていた。


 どうして。


 どうして、この人間は叩かないのだろう。


 どうして、怒らないのだろう。


 そんな疑問が浮かぶ。


 やがて――。


「……クゥ……」


 赤狐はゆっくりと口を離した。


 和真の手には、小さな牙の痕が残っていた。


「……よし。ありがとう」


 和真は微笑んだ。


 そして、そっと左手をかざす。


「……少しだけ、我慢してね」


 次の瞬間。


 淡い光が、和真の手のひらに集まり始めた。


     ◇


 ふわり。


 温かな光が、赤狐の身体を包み込んだ。


「……!」


 赤狐が驚いたように目を見開く。


 先ほどまで感じていた激しい痛み。


 それが少しずつ和らいでいく。


「……クゥ……?」


 不思議そうに首を動かす赤狐。


 和真は集中して、傷の状態を確かめていた。


「……かなり傷が深いな」


 特に後ろ脚の傷がひどかった。


 腹部にも複数の傷がある。


 首元の傷に至っては、何かで強く締めつけられたような痕だった。


「……これ……」


 和真は眉をひそめる。


 自然にできた傷には見えなかった。


(……まさか、人間に?)


 そう考えた瞬間、赤狐が見せた異常な怯え方を思い出した。


 人間を見た途端、逃げようとしたこと。


 怪我をしていても、必死に牙を剥いていたこと。


 そして、噛みついた後も震え続けていたこと。


(……ひどいことをされたのかもしれないな)


 和真は胸が痛んだ。


 けれど、今は傷を治すことが先だった。


「……もう少しだよ」


 優しく声をかける。


 淡い光が一層強くなった。


 すると、赤狐の身体に残っていた傷が、少しずつ塞がり始めた。


 後ろ脚の傷。


 腹部の傷。


 首元の傷。


 血が止まり、破れていた皮膚が元に戻っていく。


「……わぁ……」


 フェンリスが小さく声を漏らした。


「よかった……!」


 みゆもほっとしたように胸を撫で下ろす。


 ピピは心配そうに見守りながら、両手をぎゅっと握っていた。


「……キツネさん、頑張って……」


 赤狐はもう抵抗していなかった。


 ただ、和真の手から生まれる光を不思議そうに見つめていた。


 温かい。


 身体が温かい。


 ずっと痛かったところが、もう痛くない。


 それが信じられなかった。


 やがて、光が静かに消えていく。


「……ふぅ」


 和真は小さく息を吐いた。


「よし。傷は全部塞がったかな」


「本当!?」


 フェンリスが嬉しそうに尋ねる。


「ああ。少なくとも、目立つ傷は治せたと思う」


「よかったぁ……!」


 フェンリスは安心したように笑った。


 しかし――。


「……クゥ……」


 赤狐はその場にぐったりと横たわっていた。


「……あれ?」


 みゆが首を傾げる。


「和真、まだ元気がないよ?」


「ああ……」


 和真は赤狐を見つめた。


 傷は治した。


 けれど、それだけでは足りない。


「……お腹が空いてるんだと思う」


「お腹?」


「うん。それに、かなり疲れてるみたいだ」


 和真は赤狐の痩せた身体を見つめた。


 骨が浮き出るほどではないが、明らかに衰弱している。


 きっと、長い間まともに食べられなかったのだろう。


「……じゃあ、ご飯あげようよ!」


 ピピが勢いよく顔を上げた。


「カズマ! お弁当あるよね!?」


「あるけど、人間用の味付けだから、そのままじゃあげられないよ」


「……そっかぁ」


 ピピは残念そうに肩を落とした。


 すると、みゆが何かを思い出したように声を上げる。


「あっ! 和真!」


「ん?」


「お昼用に持ってきた鶏肉、まだ味付けしてないよね?」


「ああ……そういえば!」


 和真は手を打った。


 昼食用に用意していた食材の中には、簡単に調理できるよう持ってきた鶏肉があった。


 幸い、まだ味付けしていない。


「それなら少し分けてあげられるな」


「やった!」


 ピピが嬉しそうに笑う。


 和真は赤狐へ視線を戻した。


「……さて」


 そっと手を伸ばす。


「家の中で休もうか」


 赤狐は一瞬、身体を強張らせた。


 けれど、先ほどのように牙を剥くことはなかった。


 ただ、不安そうな目で和真を見つめている。


「大丈夫。怖いことはしないから」


 和真はゆっくりと身体を抱き上げた。


「……クゥ……」


 小さな鳴き声。


 赤狐は少しだけ身じろぎしたものの、やがて大人しくなった。


 和真の腕の中は温かかった。


 何より、あの恐ろしい人間たちとは違う。


 乱暴に掴まれることもない。


 痛いことをされることもない。


 ただ、優しく抱きかかえられている。


「……いい子だね」


 和真は微笑んだ。


 その様子を見ていたフェンリスも、嬉しそうに笑う。


「和真、この子、ちょっと安心したみたいだね」


「そうだといいけど」


「うん! きっとそうだよ!」


 みゆも頷いた。


 こうして五人は、赤狐を連れて山の家へと戻った。


     ◇


 家の中。


 和真は、持ってきた毛布を畳んで部屋の隅に敷いた。


 その上に赤狐をそっと寝かせる。


「……よし」


 赤狐は不思議そうに周囲を見回していた。


 知らない場所。


 知らない匂い。


 けれど、柔らかな毛布は気持ちがよかった。


「……クゥ……」


 赤狐は少しだけ身体を丸めた。


「可愛い……」


 フェンリスが小さく呟く。


「うん。すっごく綺麗な毛並みだね」


 みゆも感心したように見つめていた。


 泥で汚れてはいるものの、その赤い毛並みはとても美しい。


「普通の狐とは、ちょっと違うね」


 和真が呟く。


「そうなの?」


 ピピが首を傾げた。


「ああ。こんなに鮮やかな赤い毛並みの狐は、あまり見たことがないな」


「ふむ……確かに珍しい色じゃのう」


 あおいも興味深そうに頷いた。


 同じ狐の特徴を持つあおいにとっても、その毛並みは珍しく見えた。


「……じゃが」


 あおいは少しだけ表情を曇らせる。


「随分と人を恐れておるようじゃな」


「ああ……」


 和真は頷いた。


「きっと、何かあったんだろうね」


 その言葉に、フェンリスが悲しそうな顔をした。


「……かわいそう」


「そうだね」


 和真は赤狐に視線を戻した。


 赤狐はまだ警戒しているようだったが、先ほどのような強い恐怖は見せていなかった。


「……もう大丈夫だからな」


 和真は小さく声をかけた。


「ここでは、誰も君を傷つけたりしないよ」


 その言葉が通じたのかどうか。


 赤狐はじっと和真の顔を見つめていた。


 やがて――。


「……クゥ……」


 小さく鳴いて、毛布に顔を埋めた。


     ◇


 しばらくして。


「できたよー!」


 みゆが嬉しそうに声を上げた。


 古い台所を借り、持ってきた道具で鶏肉を茹でていたのだ。


 もちろん、味付けはしていない。


 和真は茹でた鶏肉を十分に冷まし、小さくほぐした。


「……これなら食べられるかな」


 清潔な器に少量を入れ、赤狐の近くに置く。


 さらに、別の器に新しい水も用意した。


「ほら。ご飯だよ」


 赤狐はゆっくりと顔を上げた。


「……?」


 鼻をひくひくと動かす。


 食べ物の匂い。


 それを感じた瞬間、赤狐の耳がぴんと立った。


「……クゥ……!」


 けれど、すぐには近づかない。


 和真たちの顔を、何度も確かめるように見つめている。


「……警戒してるね」


 みゆが小声で言った。


「ああ。ちょっと離れようか」


 和真はみんなに合図した。


「この子が安心して食べられるように、少し距離を取ろう」


「うん!」


 フェンリスが頷いた。


 五人は少し離れ、赤狐の様子を見守る。


 すると――。


 くんくん。


 赤狐はもう一度、食べ物の匂いを確かめた。


 そして、ゆっくりと立ち上がる。


 一歩。


 また一歩。


 器の前まで近づくと、恐る恐る鶏肉を口にした。


「……!」


 赤狐の目が大きく開いた。


 次の瞬間。


 ぱくっ。


 ぱくぱくっ。


 夢中になって食べ始めた。


「……ふふっ」


 フェンリスが嬉しそうに笑った。


「すっごくお腹空いてたんだね」


「そうみたいだね」


 和真もほっとした。


 赤狐は少量の鶏肉を食べ終えると、今度は水を飲み始めた。


 ぺろぺろと、何度も。


 その様子を見ていたピピが、嬉しそうに微笑む。


「……よかったぁ」


「ピピ?」


「だって……さっき、すっごく苦しそうだったから……」


 ピピは赤狐を見つめた。


「元気になってほしいな」


「そうだね」


 和真は優しく頷いた。


「きっと、ゆっくり休めば元気になるよ」


「……うん!」


 ピピは嬉しそうに笑った。


 そんなピピの頭を、和真はそっと撫でた。


     ◇


 食事を終えた赤狐は、再び毛布の上へと戻っていた。


 お腹が満たされたからだろうか。


 先ほどまでの緊張が少しずつ解けているように見える。


「……クゥ……」


 小さく鳴くと、そのまま身体を丸めた。


 瞼がゆっくりと下がっていく。


「……眠そうだね」


 フェンリスが微笑んだ。


「うん。きっと、ずっと眠れてなかったんだろうな」


 和真は静かに答えた。


 赤狐はもう、和真たちを警戒する余裕もないようだった。


 やがて、すうすうと小さな寝息が聞こえ始める。


「……寝ちゃった」


 みゆが小さく笑う。


「可愛いね」


「うん♪」


 フェンリスも嬉しそうに頷いた。


 ピピは赤狐のそばにしゃがみ込み、じっと寝顔を見つめていた。


「……カズマ」


「ん?」


「この子、もう大丈夫?」


「傷は治したし、ご飯も食べられたからね。あとはゆっくり休ませてあげよう」


「……そっか」


 ピピは安心したように微笑んだ。


 そして、赤狐に向かって小さく囁く。


「……おやすみ、キツネさん」


 赤狐の耳が、ぴくりと動いた。


 けれど、目を開けることはなかった。


 その姿を見つめながら、和真は静かに息を吐いた。


(……それにしても)


 どうして、あんな怪我をしていたのだろう。


 どうして、あそこまで人間を恐れていたのだろう。


 気になることは多かった。


 しかし、今は確かめる方法がない。


 和真は赤狐の頭をそっと撫でた。


「……ゆっくり休んでね」


 そして、みんなに向き直る。


「さて、俺たちもお昼にしようか」


「うん!」


「お腹空いたぁ!」


 フェンリスが嬉しそうに声を上げる。


「ふふっ。さっきまで狐の心配してたのに、もうお腹の話?」


 みゆがからかう。


「だってぇ! 私だってお腹空くもん!」


「はいはい♪」


「むぅ!」


 二人のやり取りに、和真が笑った。


 そんな賑やかな声を聞きながら、赤狐は静かに眠り続けていた。


 柔らかな毛布。


 満たされたお腹。


 そして、もう痛みのない身体。


 それは赤狐にとって、久しぶりに訪れた穏やかな時間だった。


 山の家に、賑やかな声が響いていた。


「いただきまーす!」


 フェンリスの元気な声に続き、みんなも昼食を食べ始めた。


 今日の昼食は、持参した食材で作った簡単な料理だった。


 温かいスープに、サンドイッチ。


 それから、みゆが焼いてくれた鶏肉。


 古い家ではあったが、台所は問題なく使うことができた。


「ん〜♪ おいしい!」


 フェンリスは幸せそうに頬を緩めた。


「ふふっ。フェンリス、本当においしそうに食べるよね」


 みゆが笑う。


「だっておいしいんだもん!」


「まあ、いっぱい食べるのはいいことだけどね」


「えへへ♪」


 和真はそんな二人を見ながら、温かいスープを口に運んだ。


 冷えた身体に、じんわりと温かさが広がっていく。


「……はぁ。温まるなぁ」


「そうじゃのう。外は随分と冷えておったからな」


 あおいも満足そうに頷いた。


「それにしても、なかなかよい家じゃな」


「そうだね。思っていたより状態もよかったし」


 和真は室内を見回した。


 古い木造の家。


 決して豪華ではないものの、生活に必要な設備は一通り揃っている。


 窓からは山々を見渡すことができ、静かに過ごすには申し分ない場所だった。


「少し手入れをすれば、また普通に使えそうだな」


「じゃあ、今度は泊まりに来る?」


 みゆが尋ねる。


「それもいいかもしれないね」


「ほんと!?」


「うん。ただ、まずは家全体をちゃんと点検してからかな」


「やった! 楽しみ!」


 みゆの尻尾が嬉しそうに揺れた。


「私も泊まりたい!」


 フェンリスも勢いよく手を上げる。


「ここなら、和真とずーっと一緒にいられるもんね!」


「いや、普段も一緒に暮らしてるだろ?」


「それとこれとは違うの!」


「ははっ。そうなのか」


「そうなの!」


 フェンリスは胸を張った。


 すると、隣で食事をしていたピピが顔を上げる。


「カズマ!」


「ん?」


「僕も泊まりたい!」


「ああ。ピピも一緒に来ような」


「やったぁ!」


 ピピは嬉しそうに笑った。


「じゃあ、夜も飛んでいい!?」


「夜は危ないから、まずは昼間だけにしような」


「えぇ〜!」


「そんな顔してもダメだよ」


「むぅ……」


 ピピは少しだけ頬を膨らませた。


 しかし、すぐに笑顔に戻る。


「じゃあ、またいっぱい歌う!」


「ああ。それなら大歓迎だよ」


「えへへ♪」


 そんな会話の間も、部屋の隅では赤狐が静かに眠っていた。


 柔らかな毛布の上で身体を丸め、時折小さく耳を動かしている。


 みゆがちらりと視線を向けた。


「……よく寝てるね」


「そうだね」


 和真も赤狐を見つめた。


 先ほどまでひどく衰弱していたことを考えると、今は休ませておくのが一番だろう。


「……元気になってくれるといいな」


 和真が小さく呟く。


 その言葉に、フェンリスも静かに頷いた。


「うん……」


 それから、少しだけ心配そうな顔をする。


「ねえ、和真」


「どうした?」


「この子……ここに置いていって大丈夫なのかな?」


「……そうだね」


 和真は少し考え込んだ。


 怪我は治した。


 食事もできた。


 けれど、まだ身体は弱っている。


 このまま放っておくことには不安があった。


「……連れて帰る?」


 みゆが尋ねる。


「それも考えたんだけどね」


 和真は赤狐へ視線を戻した。


「この子、かなり人間を怖がってたでしょ?」


「……うん」


「無理に連れて帰ったら、余計に怖がらせるかもしれない」


 それに、この山が赤狐の住処なのかもしれない。


 もしそうなら、勝手に住み慣れた場所から連れ出していいものか、和真には判断できなかった。


「少なくとも、今は落ち着いて眠れてるみたいだしね」


「そっか……」


 フェンリスは少し残念そうに頷いた。


「……でも、心配だなぁ」


「うん。俺も心配だよ」


 和真は優しく微笑んだ。


「だから、帰る前に食べ物と水を置いていこうと思う」


「それなら、この子も困らないね!」


 ピピが嬉しそうに声を上げた。


「そうだね。しばらく休めるようにしておこう」


 和真は小さく頷いた。


 ただ、そのときの和真は知らなかった。


 赤狐があれほどまで人間を恐れていた理由を。


 そして、この山にも、まだ危険が残っていることを。


     ◇


 昼食を終えると、五人は家の中を簡単に片付けた。


 使った食器を洗い、持ち込んだ道具をまとめる。


 窓を拭き、家具に積もっていた埃も軽く落とした。


 古い家ではあったが、手入れをすれば十分使えそうだった。


「よし! こんなところかな」


 和真が手を止める。


「終わったぁ!」


 フェンリスが嬉しそうに両手を上げた。


「ふふっ。結構綺麗になったね」


 みゆも満足そうに微笑む。


 あおいは窓際に立ち、外の景色を眺めていた。


「和真よ」


「ん?」


「この家、なかなかよい場所に建っておるのう」


「そうだね」


「窓から見える山々も見事じゃし、静かで落ち着く」


「祖父も、そういうところが気に入ってたのかもしれないね」


「ふふっ。わらわも気に入ったぞ」


 あおいは穏やかに笑った。


 そんな中。


「カズマぁ……」


 背後から、待ちくたびれたような声が聞こえた。


 振り返ると、ピピがじっと和真を見つめていた。


「……どうした?」


「……お掃除終わった?」


「ああ。終わったよ」


「じゃあ!」


 ぱっと表情が明るくなる。


「もう一回飛んでいい!?」


 和真は思わず笑ってしまった。


「ははっ。やっぱりそれか」


「だってぇ! まだいっぱい飛びたい!」


「わかった、わかった」


「ほんと!?」


「ああ。ただし、帰る時間もあるから、あと少しだけな」


「やったぁぁ!!」


 ピピは嬉しそうに飛び跳ねた。


 その様子を見ていたみゆが、くすくすと笑う。


「本当に飛ぶのが大好きなんだね」


「うん!」


 ピピは大きく頷いた。


「だって、お空はすっごく気持ちいいんだもん!」


 そう言って、両腕を大きく広げる。


「風がびゅーってなって、身体がふわーってなって!」


「ふふっ。楽しそう」


「すっごく楽しいよ!」


 ピピは満面の笑みを浮かべた。


「僕ね! 今日はカズマにいっぱい見てもらいたいの!」


「そうなの?」


「うん!」


 ピピは和真に駆け寄ると、ぎゅっと抱きついた。


「だって、カズマが僕をここに連れてきてくれたんだもん!」


「……そっか」


 和真は嬉しそうに笑った。


「じゃあ、ちゃんと見てるよ」


「絶対だよ!」


「ああ。約束」


 ピピは満足そうに笑い、元気よく玄関へと駆けていった。


     ◇


 午後の山は、朝とはまた違った美しさを見せていた。


 太陽が少し傾き、山々の斜面に長い影が伸び始めている。


 冬の澄んだ空気の中、遠くの山並みが青く霞んでいた。


「よーし!」


 ピピは空き地の中央に立つと、再びハーピーの姿へと変わった。


 大きな翼を広げ、何度か軽く羽ばたく。


「カズマ!」


「おーう!」


「行ってきまーす!」


「気をつけてな!」


「はーい!」


 バサッ!!


 力強い羽ばたきとともに、ピピが舞い上がった。


 今度は朝よりもゆっくりと高度を上げていく。


 風に身を任せ、大きな円を描くように旋回する。


「……綺麗」


 フェンリスが小さく呟いた。


「うん。さっきとは飛び方が違うね」


 みゆも空を見上げる。


 ピピは翼を大きく広げたまま、ほとんど羽ばたかずに滑空していた。


 まるで目に見えない大きな手に支えられているようだった。


「……気持ちよさそうだな」


 和真が微笑む。


 そのとき。


「カズマぁぁぁ!!」


 ピピが上空から呼びかけた。


「なーにー!?」


「もう一曲歌うねぇぇ!!」


「ああ! 聴かせてくれ!」


「うんっ!!」


 ピピは大きく翼を広げた。


 そして、ゆっくりと息を吸い込む。


 ――♪――。


 再び、歌声が響き始めた。


 今度の歌は、先ほどよりも少し明るい。


 春の訪れを待ちわびるような、希望に満ちた旋律だった。


 優しく、楽しげに。


 時には高く、時には低く。


 歌声は風に乗り、山々の間をどこまでも広がっていく。


 和真たちは、誰も言葉を発しなかった。


 ただ静かに、ピピの歌に耳を傾けていた。


 やがて――。


 最後の音が、冬の空に溶けていった。


 ほんの少しの静寂。


 そして。


「ピピー!! すっごくよかったよー!!」


 フェンリスが大きく手を振った。


「綺麗だったよー!」


 みゆも声を上げる。


 ピピは空中でくるりと身体を回転させた。


「えへへへー!!」


 嬉しそうな笑い声が響く。


 和真も大きく拍手を送った。


「最高だったよ、ピピ!」


「カズマぁぁ!!」


 その声に応えるように、ピピは勢いよく下降してきた。


 そして、和真の少し手前でふわりと着地する。


「えへへへ♪」


「お疲れ様」


「うん!」


 ピピは嬉しそうに頷いた。


「ねえ、カズマ!」


「ん?」


「また連れてきてね!」


「ああ。もちろん」


「ほんとにほんと!?」


「約束しただろ?」


「うんっ!」


 ピピは満面の笑みを浮かべた。


 そして、人間の姿へ戻ると、和真に勢いよく抱きついた。


「カズマ、大好き!!」


「うわっ!」


「えへへへ♪」


 ぎゅうっと抱きつくピピ。


 和真は苦笑しながら、その頭を優しく撫でた。


「喜んでもらえてよかったよ」


「うん! 今日、すっごく楽しかった!」


 その笑顔を見て、和真も嬉しくなった。


 少し遠出をすることにはなったけれど、連れてきて本当によかった。


 そう心から思った。


     ◇


 午後三時を少し過ぎた頃。


 和真は時計を確認した。


「……さて、そろそろ帰る準備をしようか」


「えぇ〜!」


 真っ先に声を上げたのはピピだった。


「もう!?」


「ああ。山道は暗くなると危ないからね」


「……むぅ」


 ピピは残念そうに頬を膨らませた。


「まだ飛びたい……」


「また連れてくるから」


「……ほんと?」


「ああ」


「……じゃあ、我慢する!」


 ピピはそう言って、こくりと頷いた。


「いい子だね」


 和真が頭を撫でると、嬉しそうに目を細めた。


 一方、フェンリスは家の中へと視線を向けていた。


「……ねえ、和真」


「ん?」


「あの子は?」


 和真も、すぐに何のことかわかった。


 先ほど助けた赤狐のことだ。


「……様子を見てこようか」


「うん!」


 五人は再び家の中へ入った。


 部屋の隅。


 毛布の上には、赤狐が静かに横たわっていた。


「……すぅ……すぅ……」


 小さな寝息が聞こえる。


 時折、耳や尻尾がぴくりと動くものの、目を覚ます気配はなかった。


「……まだ寝てる」


 みゆが小さく呟いた。


「そうだね」


 和真は赤狐のそばにしゃがみ込んだ。


 呼吸は落ち着いている。


 身体の傷も、きちんと塞がっていた。


「……大丈夫そうだな」


「よかったぁ……」


 フェンリスがほっとしたように微笑んだ。


 しかし、すぐに少し寂しそうな顔をする。


「……やっぱり、置いていくんだよね?」


「……うん」


 和真は静かに頷いた。


「この子がどうしたいのか、まだわからないからね」


「……そっか」


「もし人間を怖がっているなら、無理に連れて帰るのもかわいそうだし」


 和真は赤狐の頭をそっと撫でた。


「……でも」


 フェンリスが小さく呟く。


「また怪我したりしないかな……?」


 その声には、心配が滲んでいた。


 和真もすぐには答えられなかった。


 あの痛々しい傷。


 人間を見た瞬間の、激しい恐怖。


 思い出すだけで胸が痛む。


「……そうだね。心配だよ」


 和真は正直に答えた。


「でも、今はこの子が安心して休めるようにしてあげよう」


「……うん」


 フェンリスは静かに頷いた。


 すると、ピピが赤狐のそばにしゃがみ込んだ。


「……キツネさん」


 小さな声で呼びかける。


「僕ね、今日はいっぱい飛んだんだよ」


 眠っている赤狐に、嬉しそうに話しかけた。


「すっごく楽しかったの!」


 そして、少しだけ寂しそうに笑う。


「……また会えたらいいね」


 赤狐の耳が、ぴくりと動いた。


 けれど、目を開けることはなかった。


「……おやすみ」


 ピピはそう囁くと、静かに立ち上がった。


     ◇


 和真は台所へ向かった。


 残っていた味付け前の鶏肉を取り出し、しっかりと茹でる。


 それを十分に冷ましてから、小さくほぐした。


 さらに、新しい水を器に注ぐ。


「……これくらいあれば、しばらくは大丈夫かな」


 和真は赤狐のそばに食べ物と水を置いた。


 残りの食材も、傷まないように気をつけながら、必要な分だけ用意する。


「和真、他に何かできることある?」


 みゆが尋ねた。


「そうだな……毛布をもう一枚敷いてあげようか」


「うん!」


 みゆはすぐに動いた。


 持参した予備の毛布を広げ、寝床の周りを整える。


 フェンリスも手伝い、冷たい床から身体を守れるようにした。


「これなら寒くないかな?」


「うん。さっきより暖かそうだね」


 和真は小さく頷いた。


 あおいも赤狐の様子を見つめながら、静かに口を開く。


「……この子が自分で外へ出られるようにもしておいた方がよいのではないか?」


「ああ。そうだね」


 和真は頷いた。


 家の裏手には、小さな物置へ通じる出入り口があった。


 そこを少し開けておけば、赤狐が目を覚ましたとき、自分の意思で外へ出ることができる。


「……よし」


 和真は扉の状態を確認し、赤狐が通れる程度の隙間を残して固定した。


 冷たい風が直接寝床に吹き込まないよう、位置にも気を配る。


「これなら、外に出たいときは出られるな」


「うん!」


 フェンリスが嬉しそうに頷いた。


 和真はもう一度、赤狐のところへ戻った。


 そして、その小さな頭をそっと撫でる。


「……じゃあね」


 柔らかな赤い毛並み。


 まだ少し泥の残る身体。


 けれど、先ほど見つけたときよりもずっと穏やかな寝顔だった。


「……元気になるんだよ」


 和真は優しく微笑んだ。


 赤狐の耳が、小さく動く。


 それを見て、和真も少しだけ安心した。


「……さて、行こうか」


「うん」


 みゆが頷く。


 フェンリスは名残惜しそうに赤狐を見つめていたが、やがて和真の隣へ戻った。


「……またね、キツネさん」


 小さく手を振る。


 ピピも同じように手を振った。


「またね!」


 あおいも静かに微笑む。


「どうか、達者でな」


 そして、五人は山の家を後にした。


     ◇


 山道を下りながら、ピピは何度も振り返っていた。


「……ねえ、カズマ」


「ん?」


「あのキツネさん、元気になるかな?」


「ああ。きっと大丈夫だよ」


「……そっか」


 ピピは少しだけ安心したように笑った。


「……また会えるかな?」


「どうだろうね」


 和真は少し考えた。


「野生の狐だったら、元気になったら森に帰るだろうし」


「……そっかぁ」


「でも、またここに来たとき、会えるかもしれないよ」


「ほんと!?」


「うん。可能性はあると思う」


「……じゃあ!」


 ピピは元気よく顔を上げた。


「また来たら、キツネさんを探してみる!」


「ははっ。探すのはいいけど、無理に追いかけたりしちゃダメだよ」


「わかった!」


 ピピは笑顔で頷いた。


 そんな会話を聞いていたフェンリスも、ふと口を開く。


「……和真」


「ん?」


「私も、また会いたいな」


「そうだね」


「……あの子、すっごく怖がってたけど……」


 フェンリスは少しだけ俯いた。


「最後は、ちょっと安心してくれてたよね?」


「ああ。そう見えたね」


「……えへへ」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


「だったら、よかった」


 和真は優しく微笑んだ。


 そして、そっとフェンリスの頭を撫でる。


「……優しいね、フェンリス」


「えっ!?」


 突然褒められ、フェンリスの頬が赤くなる。


「そ、そんなことないよぉ……」


「そんなことあるよ」


「……えへへ♪」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


 すると、反対側からみゆが顔を覗き込む。


「ねえ、和真」


「ん?」


「僕も心配してたよ?」


「ああ。みゆも優しいよ」


「ふふっ。ありがと♪」


 みゆは満足そうに笑った。


 そんな二人を見ていたあおいが、呆れたように肩をすくめる。


「やれやれ。何でも和真に褒めてもらいたがるのう」


「えへへ♪」


「ふふっ♪」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 そんな賑やかな声が、冬の山道に響いていた。


     ◇


 それから、しばらくして。


 五人は車を停めていた場所へと戻ってきた。


「ふぅ……着いたぁ!」


 フェンリスが大きく伸びをする。


「お疲れ様」


 和真が笑う。


「さあ、帰ろうか」


「はーい!」


 みんなが車に乗り込む。


 和真は全員が席に着いたことを確認すると、エンジンをかけた。


 ゆっくりと車が動き出す。


 窓の外では、山の木々が少しずつ後ろへ流れていった。


「……ねえ、カズマ」


 後部座席からピピが声をかけた。


「ん?」


「今日ね、すっごく楽しかった!」


「そっか」


「うん!」


 ピピは満面の笑みを浮かべた。


「いっぱい飛べたし、いっぱい歌えたし!」


「ああ。俺も楽しそうなピピを見られて嬉しかったよ」


「えへへへ♪」


 ピピは幸せそうに笑った。


「……また一緒に来ようね!」


「ああ。約束だよ」


「うんっ!」


 こうして五人を乗せた車は、山を下り始めた。


 空は少しずつ夕暮れの色へ変わり始めていた。


 今日という一日は、ピピにとって忘れられない思い出になったことだろう。


 そして、和真たちにとっても。


 一匹の小さな赤狐との出会いは、心に残る出来事となっていた。


 けれど――。


 その出会いが、まだ終わっていないことを。


 このときの五人は、誰も知らなかった。


     ◇


 同じ頃。


 山の上の家。


 静まり返った室内で、小さな赤狐がゆっくりと目を覚ました。


「……クゥ……?」


 ぼんやりと周囲を見回す。


 柔らかな毛布。


 近くに置かれた食べ物と水。


 そして――。


 誰もいない部屋。


「……?」


 赤狐はゆっくりと顔を上げた。


 あの人間たちがいない。


 自分を傷つけることなく、優しく抱き上げてくれた人間。


 身体の痛みを消してくれた人間。


 食べ物を与えてくれた人間。


 その姿が、どこにもなかった。


「……クゥ……」


 赤狐は小さく鳴いた。


 少しだけ、胸の奥が寂しくなる。


 けれど、すぐに近くの食べ物の匂いに気づいた。


 くんくん。


 鼻を動かし、器へ近づく。


 そして、少しだけ口にした。


 ……おいしい。


 赤狐は夢中になって食べ始めた。


 やがて、お腹が落ち着くと、今度は水を飲んだ。


 冷たく、澄んだ水。


 その一口一口が、身体に染み渡っていく。


「……クゥ……」


 赤狐は再び毛布の上へ戻った。


 身体を丸め、ゆっくりと目を閉じようとする。


 ここは暖かい。


 食べ物もある。


 水もある。


 それに、何より――。


 あの人間の匂いが残っていた。


 優しく抱き上げてくれた腕。


 頭を撫でてくれた手。


 その温もりを、赤狐はまだ覚えていた。


 怖くなかった。


 むしろ、安心できた。


 あんな人間がいるなんて、知らなかった。


 赤狐は小さく息を吐いた。


 そして、もう一度眠ろうとした。


 そのときだった。


 ――ガサッ。


「……ッ!」


 赤狐の耳が、ぴんと立ち上がった。


 遠くで、何かが動く音がした。


 最初は風かと思った。


 けれど、違う。


 ガサ……ガサッ……。


 枯れ葉を踏む音。


 枝を払いのける音。


 それも、一つではない。


 複数の足音だった。


「……!」


 赤狐の身体が強張る。


 そして、鼻をひくひくと動かした。


 風に乗って届く、かすかな匂い。


 その瞬間――。


「……ッ!!」


 赤狐の瞳に、恐怖が浮かんだ。


 知っている。


 この匂いを。


 忘れるはずがない。


 自分を追いかけてきた人間たち。


 捕まえようとした、あの恐ろしい人間たちの匂いだった。


 ――逃げなければ。


 赤狐は反射的に立ち上がった。


 もう、足は痛まない。


 身体の傷も治っている。


 先ほど食べたもののおかげで、少しだけ力も戻っていた。


 それでも、怖かった。


 再び捕まることが。


 また、あんな痛い思いをすることが。


 そして、二度と自由になれなくなることが。


「……クゥ……!」


 赤狐は急いで部屋を見回した。


 そのとき、家の裏手に小さな隙間があることに気づいた。


 和真が、自分のために開けておいてくれた出入り口だった。


 赤狐は迷わなかった。


 小さな身体を滑り込ませ、外へ飛び出す。


 冬の冷たい風が、赤い毛並みを揺らした。


 森の向こうから、かすかに人間の声が聞こえてくる。


「……こっちに足跡があるぞ」


「まだ遠くへは行ってないはずだ」


「見つけたら、今度こそ逃がすなよ」


 赤狐はびくりと震えた。


 怖い。


 怖い。


 けれど、立ち止まっている暇はなかった。


 まだ相手は自分に気づいていない。


 今なら逃げられる。


 赤狐は勢いよく茂みへ飛び込んだ。


 ガサガサッ!!


 赤い身体が、木々の間を駆け抜けていく。


 途中で何度も振り返った。


 けれど、誰も追いかけてきていない。


 まだ見つかっていないのだ。


 それでも、走ることをやめなかった。


 あの家には戻れない。


 あそこにいれば、いずれ見つかってしまう。


 逃げなければ。


 もっと遠くへ。


 人間たちの手が届かない場所へ。


 そう考えたとき――。


 ふと、赤狐の脳裏に一人の人間の姿が浮かんだ。


 優しい声。


 温かな手。


 自分が噛みついても、怒らなかった人間。


 身体の傷を治し、食べ物まで与えてくれた人間。


「……クゥ……」


 赤狐は小さく鳴いた。


 もう一度、会いたい。


 あの人間に。


 あの温かな手に。


 もう一度だけ、触れてほしい。


 そんな気持ちが、胸の奥に芽生えていた。


 赤狐は立ち止まり、鼻を高く上げた。


 冬の冷たい風。


 木々の匂い。


 土の匂い。


 そして、その中に残る、かすかな匂い。


 あの人間たちが通っていった道の匂いだった。


「……!」


 赤狐の耳がぴくりと動いた。


 そして、ゆっくりと身体の向きを変える。


 向かう先は、山の麓。


 あの人間たちが帰っていった方向だった。


 赤狐は一度だけ、山の上を振り返った。


 あの家で過ごした、ほんの短い時間。


 あれほど安心できたのは、いつ以来だろう。


「……クゥ……」


 小さく鳴くと、赤狐は再び走り始めた。


 四本の脚で、懸命に地面を蹴る。


 赤い毛並みが、夕暮れの森を駆け抜けていく。


 傷は癒えた。


 けれど、まだ身体は完全ではない。


 それでも、赤狐は足を止めなかった。


 もう一度、あの人間に会いたい。


 ただ、その一心で。


 小さな赤い影は、山を下り続けていた。


 夕暮れの空が、少しずつ藍色へと変わり始めていた。


 山を下りた和真たちの車は、見慣れた道を走っていた。


「ふわぁぁ……」


 後部座席から、大きなあくびが聞こえた。


「……眠いのか、ピピ?」


「んぅ……ちょっとだけ……」


 和真がルームミラーを覗くと、ピピが目をこすっていた。


 朝からずっとはしゃぎ、山の上では何時間も飛び回っていたのだ。


 さすがに疲れたのだろう。


「いっぱい飛んだからな」


「うん……でもね……」


「ん?」


「すっごく……楽しかった……」


 そう呟くと、ピピは隣に座るあおいの肩に頭を預けた。


「……すぅ……」


「おや、寝てしもうたか」


 あおいが小さく笑った。


「ふふっ。よほど楽しかったのじゃろうな」


「そうだね」


 助手席のみゆも、後ろを振り返って微笑んだ。


「今日のピピ、ずっと嬉しそうだったもんね」


「うん! 歌もすっごく綺麗だった!」


 フェンリスが嬉しそうに頷く。


「私、また聴きたいなぁ」


「また連れていこうか」


 和真がそう言うと、フェンリスは満面の笑みを浮かべた。


「うん!」


 そして、少しだけ間を置いて。


「……あの狐さんも、元気になってくれるといいね」


 ぽつりと呟いた。


「ああ……そうだね」


 和真も、山の家に残してきた赤狐を思い出した。


 炎のような赤い毛並み。


 傷ついた身体。


 そして、人間を見た瞬間の激しい恐怖。


 何があったのかはわからない。


 けれど、あの小さな身体で必死に生き延びようとしていたことだけは、痛いほど伝わってきた。


「……また様子を見に行こうと思う」


「ほんと!?」


「ああ。無事に森へ帰ってたら、それはそれで安心だしね」


「……うん!」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


 和真も、少しだけ表情を和らげる。


 あの赤狐が、これから穏やかに暮らせることを願いながら。


 車は夕暮れの道を走り続けた。


     ◇


「ただいまー!」


 空色唐辛子荘に、フェンリスの元気な声が響いた。


「おかえり!」


 母屋からユエが顔を出す。


「遅くならなくてよかったわ。山はどうだった?」


「すっごく楽しかったよ!」


 フェンリスが嬉しそうに答えた。


「ピピがね! ものすごーく高く飛んで、いっぱい歌ってくれたの!」


「へえ。よかったじゃない」


「うん!」


 その横では、和真が眠っているピピを抱きかかえていた。


「……あら?」


 ユエが目を丸くする。


「ピピ、寝ちゃったの?」


「ああ。帰りの車でぐっすり」


「まったく……子供みたいね」


 そう言いながらも、ユエの表情は優しかった。


「部屋に運んであげなさい。夕飯になったら起こせばいいわ」


「そうするよ」


 和真は頷き、ピピを部屋へと運んでいった。


 ベッドに寝かせ、毛布を掛ける。


「……カズマぁ……」


「ん?」


 眠っているピピが、小さく名前を呼んだ。


「……また……いこうね……」


 どうやら寝言らしい。


 和真は思わず笑った。


「……ああ。また行こうな」


 そっと頭を撫でる。


 ピピは幸せそうに微笑み、再び静かな寝息を立て始めた。


 その姿を見届けてから、和真は部屋を後にした。


     ◇


 夕食の時間。


 今日の山での出来事は、食卓でも大きな話題になっていた。


「へえ。そんなに珍しい狐がいたの?」


 リディアが興味深そうに尋ねた。


「ああ。毛並みが普通の狐よりずっと赤くてね」


「傷もいっぱいあったんだよ……」


 フェンリスが悲しそうに言う。


「和真が治してくれたからよかったけど……」


「……そう」


 リディアは少し考え込む。


「人間を極端に怖がっていたのなら、以前に何かあった可能性はあるわね」


「俺もそう思う」


 和真は頷いた。


「でも、詳しいことはわからないからね」


「そうね。傷が治ったからといって、すぐに安心できるとは限らないし」


「……うん」


 フェンリスが小さく頷いた。


 すると、酒菜が口を開いた。


「まあ、まずは助かってよかったじゃねえか」


「そうだね」


「それに、あんたたちが帰った後も休めるようにしてきたんだろ?」


「ああ。食べ物と水も置いてきたよ」


「だったら、今は無事を祈るしかねえな」


 酒菜の言葉に、和真は静かに頷いた。


 その後も、ピピの飛行や歌の話で食卓は盛り上がった。


 途中で起こされたピピも、自分の話になるとすっかり元気を取り戻し、身振り手振りを交えて楽しそうに話していた。


 そんな賑やかな夕食が終わり、それぞれが自分の時間を過ごし始める。


 和真も食器の片付けを手伝い、ようやく一息ついた。


 そして――。


「……和真♪」


「ん?」


 背後から、聞き慣れた声がした。


 振り返ると、みゆがにっこりと笑っていた。


 その隣には、フェンリスもいる。


「どうした、二人とも?」


「えへへ♪」


 みゆは嬉しそうに尻尾を揺らした。


「ちょっと、お話があるんだけど」


「話?」


「うん。大事なお話♪」


 その笑顔を見た瞬間、和真は嫌な予感がした。


「……なんだよ、その顔」


「ふふっ。なんでもないよ?」


 みゆはそう言うと、和真の手を取った。


「ねえ、和真」


「ん?」


「……今夜、僕と一緒に寝ようよ♪」


「……えっ?」


 和真が目を丸くする。


 すると、隣のフェンリスが慌てて声を上げた。


「あっ! みゆ! ずるい!」


「え?」


「私も! 私も和真と寝たい!」


 フェンリスは反対側の腕にぎゅっと抱きついた。


「和真! 今夜は私と一緒に寝よ?」


「えっ!? ちょ、ちょっと待って!」


 突然、左右から抱きつかれた和真は、慌てて二人を見比べた。


「二人とも、落ち着いて!」


「僕は落ち着いてるよ?」


 みゆがにっこりと笑う。


「私だって落ち着いてるもん!」


 フェンリスも負けじと答えた。


「いや、全然落ち着いてないだろ……」


 和真は頭を抱えた。


 しかし、みゆはそんな和真を見て、さらに楽しそうに笑った。


「ねえ、和真」


「……今度は何?」


「僕、今日はただ一緒に寝るだけじゃなくて……」


 みゆは少しだけ頬を染めた。


 そして、和真の耳元に顔を寄せる。


「……ちゃんと、愛してほしいな♪」


「っ!?」


 和真の顔が、一瞬で真っ赤になった。


「み、みゆ!?」


「ふふっ♪」


 みゆは悪戯っぽく笑う。


 すると――。


「……わ、私も……」


 フェンリスが小さな声で呟いた。


「……え?」


 和真が振り返る。


 フェンリスは顔を真っ赤にしながら、和真の服をぎゅっと握っていた。


「……私も……和真と……」


 言葉の続きを口にするのが恥ずかしいのか、何度も視線を逸らしている。


「……その……」


「フェンリス?」


「……愛して……ほしい……」


 消え入りそうな声だった。


「……っ!」


 和真は思わず言葉を失った。


 みゆはそんな二人を見て、満足そうに笑っていた。


「ふふっ。じゃあ、決まりだね♪」


「……いや、待って!」


 和真が慌てて声を上げる。


「決まりって、どういうこと!?」


「え?」


 みゆが不思議そうに首を傾げた。


「だから、今夜は三人で一緒に寝るの♪」


「……三人!?」


「うん♪」


 あまりにも当然のように答えるみゆ。


 和真は思わずフェンリスを見た。


 すると――。


「さ、三人!?」


 フェンリスも驚いていた。


「み、みゆ!? ちょっと待って!?」


「あれ? フェンリス、嫌なの?」


「い、嫌っていうか……!」


 フェンリスの顔が、みるみる赤くなっていく。


「そ、そういうのって……その……二人でするものじゃ……!」


 みゆは少しだけ考えるような仕草をした。


 そして。


「……じゃあ、僕だけでいいの?」


「……え?」


 フェンリスが固まった。


「僕と和真、二人だけでいい?」


「なっ!?」


「フェンリスは今日は自分の部屋で寝る?」


「そ、それは嫌っ!!」


 フェンリスは反射的に叫んだ。


 その声に、和真まで驚く。


「フェ、フェンリス!?」


「だ、だって! だってぇ!!」


 フェンリスは真っ赤な顔で俯いた。


「……私だって……和真と一緒にいたいもん……」


 みゆはそんなフェンリスを見つめ、ふっと微笑んだ。


「……そっか♪」


 そして、悪戯っぽく笑う。


「でもね、僕は譲らないよ?」


「……え?」


「僕、今夜は絶対に和真と一緒に寝るって決めたもん♪」


「み、みゆぅ……」


「だからね」


 みゆはフェンリスの顔を覗き込んだ。


「……フェンリスがいてもいいよ?」


「……っ!?」


 フェンリスの顔が、耳まで真っ赤になった。


「そ、そんな……!」


「ふふっ♪」


「みゆの意地悪ぅ……!」


「えへへ♪」


 みゆは楽しそうに笑った。


 けれど、その表情には、ただからかっているだけではない優しさもあった。


 フェンリスがどれほど和真を好きなのか。


 そして、これまでどれほど寂しい思いをしてきたのか。


 みゆは、誰よりもよく知っていた。


 だからこそ。


 今日は、少しだけ違う形でもいいと思ったのだ。


「……ねえ、フェンリス」


「……なぁに?」


「僕はね、和真が大好きなんだ」


「……うん」


「だから、和真と一緒にいたい」


「……うん」


「でも、フェンリスだって同じでしょ?」


「……っ」


 フェンリスは小さく頷いた。


「……大好き……」


「うん。知ってるよ」


 みゆは優しく微笑んだ。


「だったら、今日はどっちかが我慢しなくてもいいんじゃないかな?」


「……みゆ……」


 フェンリスは戸惑ったように和真を見つめた。


 そして、少しだけ俯く。


「……でも……恥ずかしいよぉ……」


「ふふっ。僕だって、ちょっと恥ずかしいよ?」


「絶対嘘だぁ……」


「えへへ♪ ばれた?」


「もうっ!」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 そんな様子を見ていた和真は――。


「……いやいやいや!!」


 思わず両手を上げた。


「ちょっと待って! 俺の意見は!?」


「え?」


 みゆが首を傾げる。


「和真、嫌なの?」


「い、嫌ってわけじゃないけど……!」


 和真は真っ赤になりながら言葉を探した。


「……こういうのは、もっとちゃんと考えないと……」


「うん。だから、ちゃんと考えてるよ?」


「……え?」


 みゆは和真の手を握った。


「僕は、和真が好き」


 その声は、先ほどまでとは違って真剣だった。


「フェンリスも、和真が好き」


「……うん」


 フェンリスも小さく頷く。


「でも、和真が嫌だったら、無理にはお願いしないよ?」


 みゆは静かに微笑んだ。


「……僕たちだけで決めることじゃないもんね」


 和真は二人を見つめた。


 みゆの真剣な瞳。


 フェンリスの、不安と期待が入り混じった表情。


 どちらも、自分にとって大切な存在だった。


「……俺は……」


 和真は少しだけ考え込んだ。


 みゆへの想い。


 フェンリスへの想い。


 これまで積み重ねてきた時間。


 そして、ユエから言われた言葉。


 大切な人と、ちゃんと向き合うこと。


 それを思い出していた。


「……二人とも」


「うん?」


「……本当に、後悔しない?」


 和真は真剣な表情で尋ねた。


「俺は、どっちのことも大切にしたい。だからこそ、勢いだけで決めたくないんだ」


 みゆは、少しだけ目を細めた。


「……和真らしいね」


「……そうかな」


「うん♪」


 そして、ぎゅっと手を握り直した。


「僕は後悔しないよ」


 フェンリスも、和真の顔を見つめる。


「……私も……」


 頬を真っ赤にしたまま、勇気を振り絞った。


「……恥ずかしいけど……和真と一緒にいたい」


「フェンリス……」


「……みゆも一緒でも……いいよ」


 そう言って、みゆを見る。


「……でも!」


「ん?」


「……私のことも、ちゃんと見てね……?」


 その言葉に、和真の胸が温かくなった。


「……当たり前だよ」


 和真は優しく微笑んだ。


「二人とも、大切だから」


 みゆとフェンリスは、顔を見合わせた。


 そして――。


「……えへへ♪」


「……ふふっ♪」


 二人とも、嬉しそうに笑った。


     ◇


 その夜。


 和真の部屋。


 ベッドの上には、三人が並んで座っていた。


「…………」


「…………」


「…………」


 妙な沈黙が流れる。


 和真は落ち着かない様子で視線を泳がせていた。


 フェンリスは顔を真っ赤にしたまま、膝の上で両手を握りしめている。


 そして、みゆだけが楽しそうに笑っていた。


「……ねえ、和真」


「……な、何?」


「そんなに緊張しなくてもいいのに♪」


「いや、無理だろ!?」


「ふふっ♪」


 みゆは嬉しそうに笑った。


「フェンリスも、すっごく真っ赤だね」


「だ、だってぇ……!」


 フェンリスは恥ずかしそうに俯いた。


「……こんなの、初めてだもん……」


「僕だって初めてだよ?」


「みゆは全然緊張してないじゃん!」


「えへへ♪」


 そんな二人のやり取りに、和真も少しだけ笑った。


 けれど。


 いざ二人を目の前にすると、どうしていいのかわからない。


「……和真」


 フェンリスが小さく名前を呼んだ。


「ん?」


「……抱きしめて……?」


 その声は、いつもよりずっと小さかった。


 和真は静かに頷いた。


「……おいで」


「……うん」


 フェンリスがゆっくりと近づき、和真の胸に身体を預ける。


 和真は優しく抱きしめた。


「……えへへ……」


 フェンリスが幸せそうに微笑む。


 すると。


「……僕も♪」


 みゆが反対側から抱きついてきた。


「うわっ!」


「ふふっ。僕も忘れないでね?」


「忘れてないって!」


「えへへ♪」


 三人の間に、自然と笑みが広がった。


 和真は二人を見つめた。


 そして、まずフェンリスの頬にそっと触れる。


「……フェンリス」


「……なぁに?」


「……大好きだよ」


「……っ!」


 フェンリスの瞳が潤んだ。


「……私も……大好き……」


 和真は優しく唇を重ねた。


 短く、温かな口づけ。


 唇が離れると、フェンリスは恥ずかしそうに顔を伏せた。


「……えへへ……」


 すると、反対側からみゆが顔を覗き込んだ。


「……和真?」


「……ん?」


「僕には?」


 悪戯っぽい笑顔。


 和真は思わず苦笑した。


「……もちろん」


 そう言って、今度はみゆに向き直る。


「……みゆも、大好きだよ」


「……うん♪」


 みゆは嬉しそうに目を細めた。


 そして、和真の首にそっと腕を回す。


 二人の唇が、静かに重なった。


 その様子を見ていたフェンリスは、恥ずかしそうに目を逸らす。


「……うぅ……」


「ふふっ。フェンリス、見ててもいいんだよ?」


「み、見られないよぉ……!」


 みゆは楽しそうに笑った。


 けれど、その手は優しくフェンリスの手を取っていた。


「……ねえ、フェンリス」


「……なぁに?」


「今日は、三人で幸せになろうね」


 その言葉に、フェンリスは少しだけ驚いた顔をした。


 そして、ゆっくりと微笑む。


「……うん」


 和真は二人を抱き寄せた。


 もう一度、それぞれの顔を見つめる。


「……二人とも、本当にありがとう」


「ふふっ。お礼なんていらないよ」


「……うん。私も、和真が好きだから……」


 和真は静かに頷いた。


 誰かに流されて決めるのではない。


 自分自身の気持ちで、二人と向き合う。


 そして、これからの関係にも責任を持つ。


 その覚悟を確かめるように、二人を強く抱きしめた。


 やがて部屋の明かりが消え、三人だけの静かな夜が始まった。


     ◇


 どれほど時間が過ぎただろう。


 窓の外には、静かな冬の夜が広がっていた。


 部屋には小さな寝息と、穏やかな話し声だけが残っている。


 和真はベッドの中央に横たわっていた。


 右側にはみゆ。


 左側にはフェンリス。


 二人とも和真に身体を寄せ、毛布に包まれながら幸せそうにしていた。


「……えへへへ♪」


 みゆは満面の笑みを浮かべている。


「……幸せ♪」


 そう呟き、和真の胸元に頬を寄せた。


 一方のフェンリスは――。


「…………」


 顔を真っ赤にしたまま、毛布に顔を埋めていた。


「……フェンリス?」


「……む、無理……」


「え?」


「……恥ずかしくて……死んじゃいそう……」


「ははっ……」


 和真は思わず笑ってしまった。


 すると、フェンリスが毛布から少しだけ顔を出す。


「……和真ぁ……」


「ん?」


「……笑わないでよぉ……」


「ごめん、ごめん」


 和真は優しく頭を撫でた。


「……でも、俺もすごく緊張したよ」


「……ほんと?」


「ああ。どうしていいかわからなくて、ずっとドキドキしてた」


「……私も……」


 フェンリスは恥ずかしそうに微笑んだ。


「……でも……」


「ん?」


「……幸せだった……」


 その一言に、和真の胸が温かくなった。


「……そっか」


「……うん」


 フェンリスはそっと和真に抱きついた。


「……ありがとう、和真……」


 和真も、優しく抱きしめ返した。


 すると――。


「……ねえ、和真♪」


 みゆが楽しそうに声をかけてきた。


「……ん?」


「……今日は、すっごく特別な日になったね」


「……そうだね」


 和真は少しだけ照れながら答えた。


 みゆは嬉しそうに笑う。


 そして、ふと自分のお腹に手を添えた。


「……それにね♪」


「……ん?」


「……もしかしたら、赤ちゃんができるかもしれないね」


「…………え?」


 和真の表情が固まった。


 みゆはにっこりと笑っている。


「だって、今日は避妊しなかったんだもん」


「……っ!」


 和真は息を呑んだ。


 今夜、三人で愛し合った。


 そして、みゆにもフェンリスにも、避妊をしないまま身体を重ねた。


 それは、二人のどちらにも妊娠の可能性があるということだった。


 和真は改めて、その意味を考えた。


「……みゆ」


「なぁに?」


「……本当に、赤ちゃんができてもいいと思ってるの?」


 みゆは少しだけ目を丸くした。


 そして、優しく微笑んだ。


「……うん」


 その返事に迷いはなかった。


「もちろん、必ずできるわけじゃないのはわかってるよ?」


「……うん」


「でもね……」


 みゆは和真の手を取り、自分のお腹にそっと重ねた。


「……いつか、和真との赤ちゃんができたら……僕、すっごく嬉しいと思う」


「……みゆ……」


「だって、大好きな和真との赤ちゃんだよ?」


 みゆの瞳が、優しく細められる。


「……絶対に、大切にしたいもん」


 和真は、その言葉を静かに受け止めた。


 すると――。


「……あの……」


 反対側から、小さな声が聞こえた。


 フェンリスだった。


「……和真……」


「……ん?」


 フェンリスは真っ赤な顔で俯いていた。


 けれど、その手は自分のお腹に添えられている。


「……私も……」


 少しだけ言葉を詰まらせる。


「……赤ちゃん……できるかもしれないんだよね……?」


「……うん」


 和真は静かに頷いた。


 フェンリスは、自分のお腹をそっと撫でた。


「……そっかぁ……」


 そして、小さく微笑む。


「……ここに……和真の赤ちゃんが……」


 その声には、驚きと恥ずかしさ、そして小さな期待が混ざっていた。


 しばらく自分のお腹を見つめていたフェンリス。


 やがて、意を決したように顔を上げた。


「……ねえ、和真」


「……どうした?」


「……もし……」


 フェンリスの瞳が、少しだけ潤む。


「……もし、私のお腹に赤ちゃんができたら……」


 そして、震える声で尋ねた。


「……産んでも……いい……?」


 和真は、言葉を失った。


 その問いかけが、あまりにも真剣だったからだ。


 フェンリスは、ただ甘えているのではなかった。


 自分の身体に起こるかもしれない変化。


 新しく生まれるかもしれない命。


 そして、その先にある未来。


 それらを、彼女なりに考えていた。


「……フェンリス」


 和真はそっと身体を起こした。


 そして、フェンリスの手を握る。


「……もちろんだよ」


「……っ!」


 フェンリスの目が、大きく開かれた。


「……ほんと……?」


「ああ」


 和真は真剣な表情で頷いた。


「もし赤ちゃんができたら、俺もちゃんと父親になる」


「……和真……」


「フェンリス一人に、全部背負わせたりしない」


 そして、反対側のみゆにも視線を向ける。


「……みゆも同じだよ」


「……うん?」


「もしみゆに赤ちゃんができても、俺はちゃんと向き合う」


 和真は二人の手を握った。


「……二人とも、俺にとって大切な人だから」


 みゆとフェンリスは、静かに和真を見つめていた。


「……今夜のことだって、俺自身が決めたことなんだ」


 和真は少しだけ俯いた。


「だから、もし新しい命ができたなら……その責任から逃げたりしない」


 そこで一度、言葉を切る。


「……ただ、赤ちゃんができたら嬉しいっていう気持ちだけじゃ、きっと足りないよね」


 二人は黙って耳を傾けていた。


「身体のことも、生活のことも、これからのことも……ちゃんと考えなくちゃいけない」


 和真は二人の顔を見つめた。


「俺も、もっとしっかりしないと」


 その言葉に、みゆがふっと微笑んだ。


「……和真」


「ん?」


「……僕たちも、一緒に考えるよ?」


「……え?」


「だって、和真だけの問題じゃないもん」


 みゆは優しく笑った。


「僕も、フェンリスも……自分で決めたことなんだから」


「……うん!」


 フェンリスも力強く頷いた。


「私も! 和真だけに任せたりしないよ!」


 そして、少しだけ恥ずかしそうに笑う。


「……でも……」


「ん?」


「……赤ちゃんができたら……いっぱい甘えちゃうかも……」


「……ははっ」


 和真は思わず笑った。


「それは今と変わらないんじゃない?」


「むぅ! 違うもん!」


 フェンリスが頬を膨らませる。


 すると、みゆが楽しそうに笑った。


「ふふっ。フェンリス、今でも和真にべったりだもんね♪」


「みゆだって!」


「えへへ♪ 僕は隠してないもん♪」


「もぉぉ!」


 二人のやり取りに、和真も笑顔になった。


 けれど、その胸の奥には、先ほどまでとは違う感情が芽生えていた。


 嬉しさだけではない。


 不安もある。


 これからどうなるのか、わからないことだって多い。


 それでも。


 自分が二人を大切に思っていることだけは、はっきりしていた。


     ◇


「……ねえ、和真」


 みゆが小さく名前を呼んだ。


「ん?」


「……大好きだよ」


 そう言って、そっと唇を重ねる。


 柔らかな、優しい口づけだった。


 唇が離れると、みゆは嬉しそうに微笑んだ。


「……えへへ♪」


 すると、反対側からフェンリスが顔を覗き込んだ。


「……私も……」


「……フェンリス?」


「……大好き……」


 そして、恥ずかしそうに目を閉じる。


 和真は優しく微笑んだ。


「……俺もだよ」


 そっと唇を重ねる。


 フェンリスは幸せそうに頬を緩めた。


「……えへへ……」


 そして、再び和真の胸元に顔を埋めた。


「……ねえ、和真」


「ん?」


「……今日は……このまま寝てもいい……?」


 和真は少しだけ笑った。


「もちろん」


「……やったぁ……」


 フェンリスは嬉しそうに抱きついてきた。


 すると、みゆも反対側からぎゅっと抱きつく。


「僕も離さないよ♪」


「……ははっ」


 和真は苦笑した。


「二人とも、そんなにくっついたら動けないよ」


「動かなくていいもん♪」


「うん! 今日はずっと一緒!」


「……まったく」


 そう言いながらも、和真は二人を優しく抱きしめた。


 右腕には、みゆ。


 左腕には、フェンリス。


 二人の柔らかな髪が胸元に触れ、温かな体温が伝わってくる。


 やがて、みゆが小さくあくびをした。


「……ふわぁ……」


「眠い?」


「……うん……ちょっと……」


 みゆは幸せそうに目を細める。


「……おやすみ、和真……」


「おやすみ、みゆ」


 すると、フェンリスも顔を上げた。


「……和真……」


「ん?」


「……おやすみのキス……もう一回……」


「……ははっ。甘えん坊だなぁ」


「……だってぇ……」


 和真は優しく微笑み、フェンリスの額に口づけた。


「……おやすみ、フェンリス」


「……えへへ……おやすみ……」


 フェンリスは嬉しそうに目を閉じた。


 しばらくすると、二人の規則正しい寝息が聞こえ始める。


「……すぅ……すぅ……」


「……ん……」


 和真は、二人の寝顔を見つめた。


 幸せそうに眠るみゆ。


 自分の胸元に頬を寄せ、時折小さく微笑むフェンリス。


 その姿を見ていると、胸が温かくなる。


 けれど、同時に。


 自分が背負うものの大きさを、改めて感じていた。


(……赤ちゃん、か……)


 和真は天井を見つめた。


 まだ、何も決まったわけではない。


 妊娠するかどうかもわからない。


 けれど、今夜の選択によって、その可能性が生まれたことは確かだった。


(……もし、本当にできたら……)


 自分は父親になる。


 誰かの人生を守り、育てていく立場になる。


 それは、簡単なことではない。


 ただ好きだという気持ちだけでは、きっと乗り越えられないこともあるだろう。


 それでも。


(……逃げちゃダメだ)


 和真は静かに目を閉じた。


(……ちゃんと、向き合わないと)


 みゆにも。


 フェンリスにも。


 そして、もし生まれてくるのなら、その新しい命にも。


(……俺が、しっかりしないとな……)


 和真は二人を、もう一度強く抱きしめた。


 すると――。


「……んぅ……和真ぁ……」


 眠っているフェンリスが、小さく名前を呼んだ。


「……ん……大好き……」


 反対側では、みゆがさらに身体を寄せてくる。


「……和真……」


 その温もりに、和真は思わず微笑んだ。


「……俺も、大好きだよ」


 誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。


 窓の外では、冬の夜風が静かに吹いていた。


 新しい年が始まって、まだ二日。


 これから先、何が待っているのかはわからない。


 けれど。


 この腕の中にある幸せを、決して当たり前のものだと思わないように。


 そして、二人の想いに誠実であり続けられるように。


 和真は、心の中で静かに誓った。


 ――もっと、しっかりしよう。


 大切な人たちを守れる自分でいよう。


 そう心に決めながら、和真もゆっくりと目を閉じた。


 三人を包む布団の中には、優しい温もりが満ちていた。


 そして、静かな夜は更けていった。


     ◇


 一方、その頃。


 山の麓に広がる森の中。


 小さな赤い影が、暗闇を駆け抜けていた。


「……ハァ……ハァ……」


 荒い息遣い。


 小さな四本の脚は、何度も地面を蹴り続けていた。


 追っ手の気配は、もう感じられない。


 けれど、立ち止まることはできなかった。


 あの人間。


 自分を助けてくれた、優しい人間。


 もう一度、会いたい。


 それだけを頼りに、赤狐は走り続けていた。


 冷たい風が、鮮やかな赤い毛並みを揺らす。


 冬の夜。


 月明かりの下を、一匹の赤狐が駆けていく。


 その名は――紅月。


 まだ和真たちは、その存在が再び自分たちの前に現れることを知らない。


 そして紅月もまた。


 これから始まる新しい暮らしを、まだ知らなかった。


 ただ、もう一度あの温かな手に触れたいと願いながら。


 小さな赤い影は、夜の森を走り続けていた。

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