↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

64/73

第六十三話 新年の願い

 ――一月一日、元日。


 新しい年を迎えた空は、雲一つないほど澄み渡っていた。


 冬の柔らかな日差しが窓から差し込み、静かな寝室を優しく照らしている。


「……ん……」


 和真はゆっくりと目を覚ました。


 まだ眠気の残る頭で天井を見つめる。


 身体が少し重い。


 それもそのはずだった。


 昨日は大晦日。


 朝からあおいと一緒に神社へ向かい、年越しの準備や参拝客への対応に追われていた。


 日付が変わってからも初詣に訪れる人々は絶えず、結局、帰宅できたのはすっかり日が昇ってからだった。


「……よく寝たなぁ」


 小さく呟き、壁に掛けられた時計へ視線を向ける。


「……え?」


 時計の針は、午後一時を少し過ぎたところを指していた。


「……もう昼過ぎか」


 どうやら思っていた以上に疲れていたらしい。


 こんな時間まで眠ったのは久しぶりだった。


「……さて、起きるか」


 そう呟いて身体を起こそうとした、その時。


「……ん?」


 動けなかった。


 正確には、両腕が何かに押さえられている。


 視線を右へ向ける。


「……すぅ……すぅ……」


 そこには、フェンリスが眠っていた。


 銀色の長い髪が枕に広がり、毛先の淡いピンク色が朝日に照らされている。


 狼の耳は力なく横へ倒れ、ふさふさの尻尾が布団から少しはみ出していた。


 そして何より、和真の右腕を両腕でしっかりと抱きしめている。


「……フェンリス?」


「……んぅ……」


 小さく声を漏らしたものの、目を覚ます様子はない。


 それどころか、和真の腕に頬を擦り寄せてきた。


「……和真ぁ……」


 甘えるような寝言。


 その口元には、幸せそうな笑みが浮かんでいた。


「……ははっ」


 思わず和真も微笑んでしまう。


 続いて左側。


「……すぅ……」


 こちらには、みゆが眠っていた。


 和真の左腕を抱き枕代わりにし、頬をぴったりと押しつけている。


 二本の尻尾は布団の中でゆったりと揺れ、そのうちの一本が和真の腰に絡まっていた。


「……みゆもか」


 和真が小さく呟くと、みゆの猫耳がぴくりと動いた。


「……んふふ……」


 どうやら楽しい夢でも見ているらしい。


「……和真……」


「……ん?」


「……だーめ……僕の……」


「……何がだよ」


 和真は苦笑した。


 しかし、問題はそれだけではなかった。


 胸元に、何やら柔らかな重みを感じる。


 視線を下ろしてみると――。


「……すぅ……すぅ……」


「……あおい」


 あおいがいた。


 和真の身体の上にうつ伏せになり、胸元へ顔を埋めて眠っている。


 小さな両腕は和真の身体に回され、九本の大きな尻尾が布団の上にふわりと広がっていた。


 まるで、和真を自分の寝床にしてしまったかのような格好である。


「……よくこの体勢で眠れるな」


 和真は呆れながらも、その頭をそっと撫でた。


「……ん……」


 あおいの狐耳が小さく動く。


「……和真……」


「……はいはい」


「……どこにも……行くでないぞ……」


 寝言を呟きながら、さらにぎゅっと抱きついてきた。


「……まったく」


 和真は苦笑した。


 右にはフェンリス。


 左にはみゆ。


 そして胸の上にはあおい。


 三人とも、これ以上ないほど幸せそうに眠っていた。


 昨夜……いや、今朝方だっただろうか。


 神社から帰宅した和真は、ほとんど倒れ込むように布団へ入った。


 その時、誰が和真と一緒に眠るかで少し揉めた記憶がある。


 もっとも、あまりの疲労に途中から何を話していたのかも覚えていない。


 ただ、三人がそばにいることだけは分かっていた。


「……三人とも、よく眠ってるな」


 そう呟きながら、ふと布団の足元へ目を向ける。


「……ん?」


 何やら見覚えのない膨らみがあった。


 しかも、わずかに動いている。


「……まさか」


 和真は首を伸ばして覗き込んだ。


 そこには――。


「……すぅ……」


「……ナディア?」


 なぜかナディアまで眠っていた。


 和真のベッドの端に入り込み、掛け布団の一部を大切そうに抱きしめている。


 しかも、その顔は妙に満足そうだった。


「……いつ入ってきたんだ?」


 和真にはまったく覚えがない。


 確か、布団に入った時にはいなかったはずだ。


 ということは、自分が眠った後にこっそり入り込んできたのだろう。


「……やれやれ」


 思わずため息が漏れた。


 ただでさえ三人に囲まれているというのに、まさか四人目までいたとは。


 とはいえ、ナディアは布団の端を抱きしめているだけなので、特に問題はなかった。


「……さて、どうやって起きようか」


 和真は改めて自分の状況を確認した。


 まず右腕。


 フェンリスがしっかりと抱きしめている。


 左腕。


 みゆが抱きつき、さらに尻尾まで絡めている。


 胸元。


 あおいが全身でしがみついていた。


「……これ、結構難しくないか?」


 誰にも聞こえないほどの声で呟く。


 しかし、このままではいつまで経っても起きられない。


 和真は慎重に動き始めた。


 まずはフェンリスから。


 抱きしめられている腕を少しずつ引き抜く。


「……んぅ……」


 その途端、フェンリスが寂しそうに眉を寄せた。


「……かず、まぁ……」


「……ごめんな。ちょっと起きるだけだから」


 そう小さく囁き、代わりに枕を抱かせてみる。


 すると――。


「……えへへ……」


 フェンリスは枕をぎゅっと抱きしめた。


「……よし」


 第一関門突破。


 続いてみゆ。


 こちらは腕だけでなく、尻尾まで絡まっている。


「……器用なことするなぁ」


 和真は苦笑しながら、二本の尻尾をそっと動かした。


「……んふ……」


 みゆは気持ちよさそうに寝返りを打ち、和真の枕へ頬を埋めた。


 その隙に腕を引き抜く。


「……よしよし」


 残るは、あおい。


 これが一番大変だった。


 和真の胸元にぴったりとくっついているため、少し動くだけでも反応してしまう。


「……ん……」


 和真が身体をずらすと、あおいの腕に力が入る。


「……和真……」


「……大丈夫だよ」


 和真はその背中を優しく撫でた。


 ゆっくり、ゆっくり。


 子供を寝かしつけるように撫で続ける。


 すると、やがてあおいの腕から力が抜けた。


「……すぅ……」


 今だ。


 和真はそっとあおいの身体を支え、横の布団へ寝かせた。


 そして九本の尻尾を踏まないように気をつけながら、ゆっくりとベッドから抜け出す。


「……ふぅ」


 思わず小さく息を吐く。


 何とか三人を起こさずに済んだ。


 和真はそれぞれに布団を掛け直した。


 フェンリスは枕を抱きしめたまま。


 みゆは和真の枕に頬を寄せたまま。


 あおいはすぐ隣で、幸せそうに眠っている。


 そしてナディアも、相変わらず布団を抱きしめていた。


「……本当に、よく眠るなぁ」


 和真は小さく笑った。


 さて、今度こそ起きよう。


 足音を立てないように、つま先からそっと床を踏む。


 一歩。


 二歩。


 ドアまでは、あと少し。


 もう一歩踏み出した、その時だった。


 ――ぎゅっ。


「うわっ!?」


 突然、背後から抱きしめられた。


 驚いて声を上げそうになり、慌てて口を押さえる。


「……おいおい。そんなに驚くなよ」


 耳元で、聞き慣れた声がした。


「……ナディア?」


「ふふっ。おはよう、和真」


 どうやら、いつの間にか目を覚ましていたらしい。


 ナディアは和真の背中に身体を寄せ、腰へ両腕を回していた。


「……びっくりしただろ」


「悪かったな」


 そう言いながらも、声にはまったく反省の色がない。


「……いつから起きてたんだ?」


「ついさっきだ。お前が一生懸命抜け出しているのが見えたからな」


「だったら声をかけてくれよ」


「せっかく面白いものを見ていたんだ。邪魔するのは悪いだろ?」


「……絶対楽しんでただろ」


「ふっ。まあな」


 ナディアが小さく笑う。


 和真が振り向くと、彼女はその顔をじっと見つめた。


「……ナディア?」


 次の瞬間。


 ナディアはそっと背伸びをした。


 そして――。


 ――ちゅっ。


「……っ!?」


 和真の唇に、柔らかな感触が触れた。


 ほんの短いキス。


 ナディアはゆっくりと顔を離す。


 その表情には、いつもの余裕のある笑みが浮かんでいた。


「……おはよう、和真」


 今度は、先ほどよりもずっと優しい小さな声だった。


「……あ、ああ。おはよう」


 和真も思わず小声で返す。


 ナディアは満足そうに目を細めた。


「ふふっ。新年最初の挨拶としては、悪くないだろ?」


「……普通におはようって言えばいいじゃないか」


「それだけじゃ物足りないだろ」


「……お前なぁ」


「何だ? 嫌だったのか?」


 ナディアが少し意地悪そうに笑う。


「……そういうわけじゃないけど」


「なら問題ないな」


 即答だった。


 和真は思わずため息をつく。


「……まったく」


 そんな和真を見て、ナディアは楽しそうに笑った。


 それから、もう一度軽く抱きしめる。


「……昨日はご苦労だったな」


「……ん?」


「神社の仕事だ。ずいぶん疲れていただろ?」


「……まあ、さすがにな」


「今日はゆっくり休め」


「ありがとう」


「ふっ。礼を言われるほどのことじゃない」


 ナディアはそっと身体を離した。


「さて、俺様はもう少し寝るとするか」


「……え?」


「何だ?」


「まだ寝るのか?」


「ああ」


 ナディアは当然のように頷いた。


「せっかく和真のベッドにいるんだ。もう少し堪能してから起きる」


「……何を?」


「和真の匂いだ」


「……は?」


「お前の匂いが染みついた布団だぞ? こんなに気持ちよく眠れる場所は、そうないからな」


「……お前なぁ」


 和真は呆れた。


 しかし、ナディアはまったく気にしていない。


「ふっ。じゃあ、また後でな」


 そう言って、さっさとベッドへ戻っていく。


 そして和真が使っていた枕をフェンリスから奪い取り抱き寄せると、嬉しそうに顔を埋めた。


「……ああ。やっぱり落ち着くな」


「……俺の枕なんだけど?」


「知っている」


「……返す気ないだろ」


「今はな」


「……やれやれ」


 和真は苦笑するしかなかった。


「じゃあ、俺は下に行くからな」


「ああ」


 ナディアは枕を抱きしめたまま片手を上げる。


「また後でな、和真」


「……うん。また後で」


 和真は静かにドアを開け、寝室を後にした。


 ◇◇◇


 階段を下りると、リビングから楽しそうな声が聞こえてきた。


「……それは、そっちじゃないか?」


「いいえ。私は違うと思いますよ」


「……あ、ほんまや。こっちでしたね」


「だから言ったでしょう。よく見なさい」


「ははっ! お前ら、正月から何でそんな真剣なんだよ」


「僕、こっち! こっちがいい!」


 どうやら、みんなでテレビを見ているらしい。


 和真は思わず笑みを浮かべた。


 昨日まで忙しかったこともあり、こうしてのんびりした声を聞くのは久しぶりな気がする。


 リビングのドアを開ける。


「おはよう、みんな」


 すると、五人が一斉に振り向いた。


「あら、和真」


 最初に声をかけたのはユエだった。


「ようやく起きたのね」


「おはよう、ユエ」


「おはよう。身体の調子はどう?」


「うん。おかげでよく眠れたよ」


「そう。ならよかったわ」


 ユエは小さく微笑んだ。


 続いて酒菜が声をかける。


「おう、和真。やっと起きたか」


「おはよう、酒菜」


「昨日はお疲れだったな。疲れは取れたか?」


「ああ。もう大丈夫だよ」


「そうか。ならいい」


 酒菜は安心したように笑った。


「和真さん、おはようございます」


 ひかげがソファから顔を上げる。


「おはよう、ひかげ」


「……昨日は、ほんまにお疲れさまでした」


「ありがとう。ひかげも家のことを手伝ってくれたんだろ?」


「……はい。でも、私は少しだけですから」


「そんなことないよ。助かった」


「……えへへ。よかったです」


 ひかげは嬉しそうに微笑んだ。


「和真、おはようございます」


 今度はリディアだった。


「おはよう、リディア」


「ずいぶんお疲れだったようですね。ゆっくり休めましたか?」


「うん。久しぶりにぐっすり寝たよ」


「ふふっ。それなら安心しました」


 リディアは穏やかに笑った。


 そして――。


「……あっ!」


 テレビの前に座っていたピピが、ぱっと顔を上げた。


 その瞳が大きく輝く。


「カズマ!!」


「おはよう、ピピ」


「カズマーっ!!」


 ピピが勢いよく駆け出した。


「うわっ!?」


 次の瞬間。


 ――ぎゅうっ!


 和真の身体に、ピピが飛び込んできた。


「えへへへへっ!」


「お、おいおい。どうしたんだ?」


 和真は慌ててピピを受け止めた。


 ピピは翼を和真の背中に回し、嬉しそうに抱きついている。


「カズマ! カズマ!」


「はいはい。どうした?」


「えへへ!」


 ピピは満面の笑みを浮かべた。


「久しぶりにカズマにぎゅーってできた!!」


「……あ」


 その言葉に、和真は一瞬動きを止めた。


「……そっか」


 思い返せば、最近は本当に忙しかった。


 フェンリスとの北海道旅行から帰って以降、ほとんどあおいと過ごし、年末になるとあおいと神社での仕事でほとんどいなかった。


 そして、昨日は一日中神社の仕事。


 ピピとは、同じ家に住んでいながらゆっくり触れ合う機会がほとんどなかった。


「……ごめんな、ピピ」


「ん?」


 ピピが首を傾げる。


「何で?」


「最近、あまり一緒にいられなかったから」


「……?」


 ピピは少し不思議そうにしていたが、すぐに笑った。


「大丈夫!」


「……そうか?」


「うん! カズマ、忙しかったもん!」


 そして、さらに強く抱きついてくる。


「でも、今日はいっぱいぎゅーってできる!」


「……ははっ」


 和真は思わず笑った。


「そうだな」


 そっとピピの頭に手を乗せる。


 柔らかな髪を優しく撫でた。


「……えへへへ」


 ピピは嬉しそうに目を細める。


「カズマのなでなで、久しぶり!」


「……そっか」


「うん!」


 まるで、ずっと欲しかったものをようやく手に入れたかのような笑顔だった。


 そんなピピを見つめながら、和真はふと昨日のことを思い出した。


 ユエがフェンリスたちに話していたこと。


 普段から和真のそばにいる四人。


 その一方で、他の住人たちは遠慮していること。


 みんな同じように、和真と仲良くしたいと思っているのだということ。


「……」


 和真はピピを見つめた。


 この子は、いつだって素直だ。


 嬉しければ笑い、悲しければ泣く。


 何かをしたければ遠慮なく言ってくる。


 けれど最近は、こんなふうに抱きついてくることすら少なくなっていた。


 それだけではない。


 ひかげも、リディアも。


 酒菜も、ユエも。


 みんなそれぞれに和真を気遣い、他の住人たちとの時間を譲ってくれていた。


 もちろん、和真自身も誰かを特別扱いしようとしていたわけではない。


 ただ、目の前のことに精いっぱいで、そこまで気が回っていなかった。


「……ピピ」


「なーに?」


「今日はいっぱい甘えていいからな」


「……ほんと!?」


「ああ」


 和真は優しく微笑んだ。


「せっかくのお正月だしな」


「やったーーーっ!!」


 ピピが満面の笑みを浮かべる。


 そのまま、和真の胸元へ顔を埋めた。


「えへへ! カズマ、大好き!」


「ははっ。ありがとう」


 和真はもう一度、ピピの頭を撫でた。


 そんな二人を見て、酒菜が笑う。


「おいおい。いつまで立ってるつもりだ?」


「ん?」


「座ったらどうだ? ピピも離れる気なさそうだしな」


「……確かに」


 和真は苦笑した。


「ピピ、ソファに行こうか」


「うん!」


 ピピは和真から離れることなく頷いた。


 仕方なく、和真はそのままピピを抱きかかえてソファへ向かう。


 ゆっくりと腰を下ろすと、ピピは当然のように膝の上へ座った。


「……そこがいいのか?」


「うん!」


「……ははっ。分かったよ」


 ピピはご機嫌で身体を預けてくる。


 すると――。


「……あの、和真さん」


「ん?」


 左側から、小さな声がした。


 振り向くと、ひかげが立っていた。


 長い前髪の奥から、少し恥ずかしそうに和真を見つめている。


「……お隣、座ってもええですか?」


「もちろん」


「……ありがとうございます」


 ひかげは嬉しそうに微笑むと、和真の左隣へ腰を下ろした。


 最初は少し距離を空けていたが、やがてそっと身体を寄せてくる。


「……ひかげ?」


「……あっ。す、すみません……」


 慌てて離れようとするひかげ。


 和真は小さく笑った。


「別にいいよ」


「……え?」


「今日はゆっくりできるんだし」


「……はい」


 ひかげは頬を赤らめ、嬉しそうに微笑んだ。


 すると今度は、右側から声がかかった。


「和真」


「ん?」


 リディアが穏やかな表情で立っていた。


「私も、隣に座っていいですか?」


「うん。もちろん」


「ふふっ。ありがとうございます」


 リディアは和真の右隣へ腰を下ろした。


 そして、そっと和真の手を取った。


「……リディア?」


「……少しだけ、こうしていてもいいですか?」


 リディアは和真の手を自分の膝の上へ乗せた。


 その表情には、普段の冷静さの中にほんの少しだけ照れが混じっていた。


「……うん。いいよ」


「ありがとうございます」


 リディアは嬉しそうに微笑んだ。


 和真はそんな彼女を見て、優しく手を握り返す。


「……っ」


 リディアがわずかに目を見開く。


 それから、静かに目を細めた。


「……和真」


「ん?」


「今年も、よろしくお願いしますね」


「ああ。こちらこそ」


 二人は顔を見合わせて微笑んだ。


 その様子を少し離れた場所から眺めていた酒菜が、楽しそうに笑う。


「ははっ。今日は両手に花どころじゃねえな」


「……本当ね」


 ユエも小さく微笑んだ。


「でも、いいんじゃないかしら」


「ん?」


「こういう時間も、必要でしょう」


 ユエは和真へ視線を向ける。


「……みんな、嬉しそうだもの」


「……そうだな」


 和真も自然と笑みを浮かべた。


 膝の上にはピピ。


 左隣にはひかげ。


 右隣にはリディア。


 そして少し離れた場所には、笑顔で見守る酒菜とユエ。


 和真は改めてみんなの顔を眺めた。


「……ひかげ」


「……はい?」


「ちょっとこっち向いて」


「……え?」


 ひかげが不思議そうに顔を上げる。


 和真は空いている左手を伸ばし、その頭をそっと撫でた。


「……っ!?」


 ひかげの肩がびくりと跳ねた。


「昨日は家のこと、いろいろありがとうな」


「……あ……」


「おかげで安心して神社の仕事ができたよ」


「……そ、そんな……」


 ひかげは頬を真っ赤にして俯いた。


 けれど、逃げようとはしない。


「……嬉しいです」


 小さな声。


「……和真さんに、そう言ってもらえるの……」


「……そっか」


 和真は優しく微笑み、もう一度頭を撫でた。


「……えへへ……」


 ひかげは嬉しそうに目を細めた。


 その様子を見ていたピピが、和真の胸元へ顔を寄せる。


「カズマ!」


「ん?」


「僕も!」


「ははっ。はいはい」


 和真は今度はピピの頭を撫でる。


「えへへへ!」


 ピピは満面の笑みを浮かべた。


 そして、和真の胸元へ身体を預ける。


 暖かな部屋。


 テレビから流れる楽しそうな音楽。


 時折聞こえるみんなの笑い声。


 和真はそんな穏やかな時間を、心から楽しんでいた。


 やがて――。


「……すぅ……」


「……ん?」


 和真が膝の上を見る。


 そこには、目を閉じたピピがいた。


「……ピピ?」


「……すぅ……すぅ……」


「……寝ちゃったのか」


 ついさっきまで元気いっぱいだったというのに、いつの間にか眠ってしまったらしい。


 和真の胸元へ顔を寄せ、安心しきった表情で寝息を立てている。


「……ふふっ」


 リディアが微笑む。


「よほど安心したんでしょうね」


「……そうみたいだな」


 ひかげも小さく笑った。


「……気持ちよさそうですね」


「ああ」


 和真はピピの頭を優しく撫でた。


 すると、眠っているはずのピピが小さく笑う。


「……えへ……」


「……まったく」


 和真は呆れたように笑った。


 けれど、起こそうとはしなかった。


 そのままピピを抱きかかえ、ゆっくりとテレビへ視線を戻す。


 リディアは和真の手を握ったまま。


 ひかげはすぐ隣で、嬉しそうに微笑んでいる。


 そんな三人と眠るピピを、酒菜とユエが穏やかに見守っていた。


 新年最初の午後。


 空色唐辛子荘には、久しぶりに静かで暖かな時間が流れていた。


 ◇◇◇


 それから、どれくらい経っただろうか。


 ――ガチャ。


 リビングのドアがゆっくりと開いた。


「……ふわぁ……」


 大きなあくびをしながら、フェンリスが顔を覗かせる。


 銀色の髪は少し乱れ、狼の耳もまだ眠たそうに垂れていた。


「……あれ? 和真?」


 リビングを見渡したフェンリスは、和真の姿を見つけるとぱっと表情を明るくした。


「あっ! いた!」


「おはよう、フェンリス」


「おはよう、和真!」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


「もう、起きたら和真がいないんだもん。びっくりしたよ!」


「ははっ。みんな気持ちよさそうに寝てたから、起こさないようにしたんだ」


「……そうだったんだ」


 フェンリスは少しだけ残念そうに耳を伏せた。


「……起こしてくれてもよかったのに」


「昨日はフェンリスも遅くまで起きてただろ? ゆっくり寝かせてあげたかったんだよ」


「……そっか」


 その言葉に、フェンリスは嬉しそうに微笑んだ。


「えへへ。ありがとう、和真」


 すると、その後ろからひょっこりと顔を出す者がいた。


「……あ、和真!」


 みゆだった。


「おはよう、みゆ」


「おはよー!」


 みゆは大きく伸びをしながらリビングへ入ってくる。


「もう、起きたら和真がいなくなってるんだもん。僕、ちょっとびっくりしたよ」


「ごめん、ごめん」


「それにさぁ……」


 みゆは隣のフェンリスを見た。


「フェンリス、和真がいないって分かった途端、すっごく慌ててたんだよ?」


「ちょっ!? みゆ!」


「えへへ。本当のことでしょ?」


「そ、それは……!」


 フェンリスは慌てて言い返そうとしたが、うまく言葉が出てこない。


 その顔が少しずつ赤くなっていく。


「……もう! 余計なこと言わなくていいじゃないか!」


「あははっ! ごめん、ごめん!」


 みゆは楽しそうに笑った。


 そんな二人の後ろから、今度はあおいが顔を覗かせる。


「……和真」


「あおい、おはよう」


「……うむ。おはようなのじゃ」


 あおいはまだ少し眠たそうに目を擦っていた。


 九本の尻尾も、いつもよりゆったりと揺れている。


「……和真、いつの間に起きたのじゃ?」


「少し前だよ。みんなよく寝てたから、先に下りてきたんだ」


「……そうであったか」


 あおいは小さく頷いた。


「わらわ、目が覚めた時に和真がおらなんだから、少し寂しかったぞ」


「ははっ。ごめんな」


「……うむ」


 あおいは微笑んだ。


「じゃが、こうしておるなら安心じゃ」


 そして最後に、ナディアが入ってきた。


「……ふぁぁ……」


 珍しく大きなあくびをしている。


「おはよう、ナディア」


「……ああ。おはよう、和真」


 ナディアは軽く手を上げた。


「まったく。ずいぶん気持ちよく眠れたぞ」


「……そうだろうな」


 和真は苦笑した。


 つい先ほどまで、自分の枕を抱きしめていたのだから。


「……あっ! そうだ!」


 突然、フェンリスがナディアを振り向いた。


「ナディア!」


「ん? 何だ?」


「僕が抱きしめてた枕、いつの間に取ったの!?」


「……ああ、あれか」


 ナディアは何でもないことのように答える。


「お前が手放していたから、俺様が使わせてもらった」


「手放してないよ! 起きたらなくなってたんだから!」


「ふっ。よく眠れたか?」


「話を逸らさないでよ!」


 フェンリスが頬を膨らませる。


 それを見て、みゆが吹き出した。


「あははっ! そういえばフェンリス、起きた時に枕を探してたね!」


「だって、和真の枕だったんだよ!?」


「でも和真本人はもう起きてたじゃん」


「それとこれとは別だよ!」


 フェンリスは真剣だった。


 和真は思わず苦笑する。


「……ナディア、あの後フェンリスから枕を取ったのか?」


「ふっ。なかなかいい枕だったぞ」


「……まったく」


 和真は呆れながらも笑った。


 そんなやり取りをしていた四人だったが、ふとフェンリスの視線がソファへ向けられた。


「……あれ?」


 そして、ぴたりと動きが止まる。


 そこには――。


 ソファに座る和真。


 その膝の上で、気持ちよさそうに眠るピピ。


 左隣には、和真に身体を寄せるひかげ。


 右隣には、和真の手を自分の膝の上に乗せているリディア。


「…………」


 フェンリスが目を丸くした。


 その視線を追いかけたみゆも、同じように動きを止める。


「……あれ?」


 あおいも首を傾げた。


「……おお?」


 ナディアは一瞬だけ驚いた表情を浮かべる。


「……ほう」


 四人はしばらく、その光景を眺めていた。


 普段なら真っ先に和真のところへ駆け寄るフェンリス。


 隙を見つけては隣に座ろうとするみゆ。


 最近は和真のそばから離れようとしなかったあおい。


 そして、余裕の笑みを浮かべながら甘えてくるナディア。


 けれど、今日は違った。


「……ふふっ」


 最初に笑ったのはみゆだった。


「ピピ、すっごく気持ちよさそうだね」


「……うん」


 フェンリスも小さく頷いた。


 ピピは和真の胸元へ顔を寄せたまま、すやすやと眠っている。


 和真が頭を撫でるたびに、口元がほんの少し緩んでいた。


「……よほど安心しておるのじゃな」


 あおいも微笑む。


「そうみたいだよ」


 和真は小さく笑った。


「さっきまで元気いっぱいだったんだけどな。撫でてたら寝ちゃった」


「……ふっ」


 ナディアが笑みを浮かべる。


「まったく、幸せそうな顔をしているな」


「ああ」


 和真はピピを見つめた。


「最近、あまり一緒にいられなかったからな。今日はゆっくり甘えてもらおうと思って」


「……そうか」


 ナディアは短く頷いた。


 その言葉に、フェンリスはふと昨日のことを思い出した。


 ユエから言われた言葉。


 自分たちだけが和真を独占しているわけではない。


 他のみんなだって、和真と一緒にいたい。


 そんな当たり前のことを、最近は忘れかけていた。


 フェンリスは和真の膝の上で眠るピピを見つめた。


「……えへへ」


 そして、小さく笑う。


「ピピ、よかったね」


 その言葉を聞いて、みゆも微笑んだ。


「そうだね」


 あおいは何も言わず、静かに頷いた。


 ユエはそんな四人の様子を見つめていたが、特に何も言わなかった。


 ただ、ほんの少しだけ口元を緩めていた。


「さて」


 ナディアが空いているソファへ向かう。


「俺様も座るとするか」


「あ、僕も!」


 みゆがその隣へ腰を下ろした。


 フェンリスも続く。


「じゃあ、僕はこっち!」


「わらわも、ここでよい」


 あおいも空いている場所に座った。


 こうして、四人は和真のそばに割り込むことなく、それぞれの席に落ち着いた。


「……お茶、淹れましょうか?」


 リディアが尋ねる。


「ああ、俺が淹れるよ」


 和真が立ち上がろうとすると、酒菜が手を上げた。


「おいおい。お前はそのままでいい」


「え?」


「ピピが起きちまうだろ」


「あ……」


 和真は膝の上を見る。


 ピピは相変わらず、気持ちよさそうに眠っていた。


「……そうだな」


「俺が持ってきてやるよ」


 酒菜はそう言って立ち上がった。


「ありがとう、酒菜」


「おう。気にすんな」


 その後ろ姿を見ながら、和真は自然と微笑んだ。


 ◇◇◇


 それからしばらくの間、リビングには賑やかな話し声が響いていた。


 テレビでは、お正月の特別番組が放送されている。


 画面の中では、出演者たちが次々と出される問題に挑戦していた。


「……あっ! これ、僕分かる!」


 フェンリスが身を乗り出した。


「絶対こっちだよ!」


「えー? 僕は違うと思うけどなぁ」


 みゆが首を傾げる。


「何で?」


「だって、さっきと同じように見えるもん」


「だからこっちなんじゃないか!」


「えへへ。そうかなぁ?」


 二人が言い合っていると、ナディアが腕を組んだ。


「ふっ。甘いな」


「……え?」


 フェンリスが振り向く。


「ナディアは分かるの?」


「当然だ」


 ナディアは自信満々に答えた。


「俺様は右だと思うぞ」


「……それ、僕と同じじゃないか!」


「なら、お前もなかなか見る目があるということだ」


「……何それ!」


 みゆが吹き出す。


「あははっ! ナディアってば!」


 そんな中、画面に正解が映し出された。


 ――不正解!


「……え?」


 フェンリスが固まった。


「……は?」


 ナディアも目を丸くする。


 正解は、二人が選ばなかった方だった。


「……ぷっ」


 みゆが口元を押さえた。


「……あははははっ!!」


「ちょ、ちょっと! 何で!?」


 フェンリスが画面を指さす。


「絶対こっちだと思ったのに!」


「……ふむ」


 ナディアも納得がいかない様子だった。


「なるほどな。なかなか巧妙な問題だ」


「ナディア、さっき絶対分かるって言ってたじゃん!」


「俺様は自信があると言っただけだ」


「同じじゃないか!」


「はははっ!」


 酒菜が豪快に笑った。


「お前ら、見事に引っかかったな!」


「……もう!」


 フェンリスは頬を膨らませた。


 そんな様子を見て、和真も笑っていた。


「ははっ。二人とも自信満々だったのにな」


「和真まで!」


「ごめん、ごめん」


 和真は笑いながら謝った。


 すると、隣のひかげが小さく声を上げる。


「……あ」


「ん? どうした、ひかげ?」


「……私、正解してました」


「えっ?」


 フェンリスが振り向く。


「ひかげ、分かってたの!?」


「……はい。たぶん、こっちかなって……」


「すごいじゃないか!」


「……そ、そんなことないです」


 ひかげは恥ずかしそうに俯いた。


「……たまたまですから」


「いや、すごいよ」


 和真が笑顔で言う。


「俺も間違えたし」


「……えへへ」


 ひかげは嬉しそうに微笑んだ。


 すると今度は、リディアが口を開く。


「今の問題は、細かな違いに気づけるかどうかが重要だったようですね」


「……細かな違い?」


 フェンリスが首を傾げる。


「ええ。よく見ると、こちらの方が――」


 リディアが説明を始める。


 その内容は分かりやすかったものの、次第に細かな分析へと変わっていった。


「さらに、光の当たり方によって印象が変わることもありますから――」


「……リディア」


 和真が苦笑する。


「ん? 何ですか?」


「もう次の問題が始まってるよ」


「……あら」


 リディアはテレビへ目を向けた。


 確かに、画面では次の問題が始まっていた。


「……ふふっ。少し話しすぎましたね」


「ははっ。リディアらしいよ」


 和真が笑うと、リディアも楽しそうに微笑んだ。


 その様子を見て、酒菜が再び笑う。


「ははっ! お前ら、本当に飽きねえな!」


「……まったくね」


 ユエも口元に笑みを浮かべた。


「テレビ一つで、よくそこまで盛り上がれるものだわ」


「ユエも一緒にやろうよ!」


 みゆが声をかける。


「私?」


「うん! 次の問題、ユエも答えて!」


「……仕方ないわね」


 ユエは小さく息を吐いた。


 けれど、その表情はどこか楽しそうだった。


 続いて出されたのは、三つの料理の中から一つを選ぶ問題だった。


「……これは、見た目だけでは判断が難しいですね」


 リディアが呟く。


「そうだな」


 和真も頷く。


「……わらわは、真ん中がよいと思うぞ」


 あおいが静かに答えた。


「おっ、あおいは真ん中か」


「うむ。何となくじゃが、こちらの方がおいしそうに見えるのじゃ」


「……僕は左!」


 フェンリスが勢いよく答える。


「僕も左かなぁ」


 みゆも同意した。


「……私は、右でしょうか」


 ひかげが控えめに言う。


「俺様は真ん中だな」


 ナディアも腕を組む。


「私は左にするわ」


 ユエが答えた。


「では、私は右にしましょう」


 リディアが微笑む。


 最後に和真が酒菜を見る。


「酒菜は?」


「俺か?」


 酒菜は少し考えた後、にやりと笑った。


「俺は真ん中だな」


「おっ、理由は?」


「勘だ」


「……料理人なのに?」


「料理人だって、写真だけじゃ分からねえこともあるんだよ」


「ははっ。確かに」


 やがて、画面に正解が映し出された。


 ――正解は、真ん中!


「おおっ!」


 酒菜が嬉しそうに声を上げた。


「よっしゃ!」


「……ほう」


 ナディアも満足そうに頷く。


「やはりな」


「……ふふっ。わらわも当たったのじゃ」


 あおいが嬉しそうに笑った。


「えーっ!?」


 フェンリスが悔しそうに耳を伏せる。


「また外した!」


「あははっ! 僕も!」


 みゆは楽しそうに笑っていた。


「……残念でしたね」


 リディアも苦笑する。


「……でも、楽しいです」


 ひかげが小さく微笑んだ。


 その言葉に、和真も頷いた。


「ああ。本当にな」


 こうして全員でテレビを見ながら笑い合う時間。


 最近は、なかなか取れていなかった。


 誰かが旅行へ出かけたり、仕事で忙しかったり。


 和真自身も、目の前のことに追われてばかりだった。


 けれど今は、みんながここにいる。


 誰かが笑えば、誰かがつられて笑う。


 些細なことで言い合いになっても、すぐにまた笑顔になる。


 そんな光景が、和真にはたまらなく嬉しかった。


「……」


 和真はゆっくりと部屋を見渡した。


 フェンリスが笑っている。


 みゆも楽しそうに尻尾を揺らしている。


 あおいは穏やかな表情でテレビを眺め、ナディアは時折得意げに感想を口にする。


 ひかげは和真の隣で嬉しそうに微笑み、リディアは和真の手を握ったまま会話を楽しんでいた。


 酒菜は豪快に笑い、ユエも穏やかな表情でみんなを見守っている。


 そして――。


「……すぅ……すぅ……」


 膝の上では、ピピが相変わらず眠っていた。


「……ははっ」


 和真は小さく笑った。


 これだけ騒がしいというのに、まったく起きる気配がない。


 それどころか、和真の胸元に顔を寄せ、さらに気持ちよさそうにしていた。


「……ピピ、本当によく寝るなぁ」


 小さく呟きながら、その頭を撫でる。


 すると――。


「……んふ……」


 ピピが小さく笑った。


「……まったく」


 和真は呆れながらも、優しく撫で続けた。


 ◇◇◇


 それからさらに時間が経ち、窓から差し込む日差しが少しずつ傾き始めた頃。


「……んぅ……」


 和真の膝の上で、ピピが小さく身体を動かした。


「……ん?」


 和真が視線を落とす。


「……ピピ?」


「……ふぁぁ……」


 ピピは小さくあくびをした。


 そして、ゆっくりと目を開ける。


「……あれ?」


 まだ眠たそうな瞳で周囲を見渡す。


「……カズマ?」


「おはよう、ピピ」


 和真が微笑んだ。


「よく眠れたか?」


「……うん……」


 ピピはこくりと頷く。


 それから、自分が和真の膝の上にいることに気づいた。


「……あっ!」


「ん?」


「僕、寝ちゃってた!」


「ははっ。そうだよ」


「……どれくらい?」


「結構長いこと寝てたぞ」


「……えへへ」


 ピピは少し照れくさそうに笑った。


「カズマ、ずっと抱っこしてくれてたの?」


「ああ」


「ずーっと?」


「うん。ずっとだよ」


「……ほんと?」


「本当」


 その言葉を聞いたピピは、ぱっと表情を明るくした。


「えへへへ!」


 嬉しそうに笑い、もう一度和真の胸元へ顔を寄せる。


「……カズマ、あったかい」


「そうか?」


「うん!」


 ピピは満面の笑みを浮かべた。


「それに、なでなでも気持ちよかった!」


「ははっ。それはよかった」


 和真はもう一度、ピピの頭を優しく撫でた。


「……えへへ……」


 ピピは目を細める。


 しばらくそのまま頭を撫でられていたが、ふと顔を上げた。


「……カズマ」


「ん?」


 和真が視線を向ける。


 するとピピは、にこっと笑った。


 そして――。


 ――ちゅっ。


「……っ!?」


 和真の唇に、柔らかな感触が触れた。


 ほんの一瞬の出来事だった。


「…………」


 和真が固まる。


 同時に、周囲の会話がぴたりと止まった。


「……え?」


 フェンリスが目を丸くする。


「……あれ?」


 みゆも驚いたように瞬きをした。


「……おお?」


 あおいの狐耳がぴんと立つ。


「……ほう?」


 ナディアが片眉を上げた。


「……っ!?」


 ひかげは思わず両手で口元を覆う。


「……あら」


 リディアも珍しく驚いた表情を浮かべた。


 酒菜は飲みかけのお茶を持ったまま固まり、ユエもわずかに目を見開いていた。


 そして、当の本人は――。


「えへへへへっ!!」


 満面の笑みだった。


「だーいすき! カズマ!!」


「……ピ、ピピ?」


 和真がようやく声を出す。


「なーに?」


 ピピは不思議そうに首を傾げた。


「……いや、その……」


「ん?」


 ピピは和真を見つめる。


 けれど、すぐにテレビの方へ顔を向けた。


「あっ!」


 画面では、ちょうど新しい番組が始まっていた。


「これ、面白そう!」


 そう言うと、何事もなかったかのように和真の胸元へ身体を預けた。


 そして、楽しそうにテレビを見始める。


「……」


「……」


「……」


 リビングには、数秒間の沈黙が流れた。


 やがて――。


「……ぷっ」


 最初に吹き出したのはみゆだった。


「あははははっ!!」


「……みゆ?」


 フェンリスが振り向く。


「だ、だって……!」


 みゆはお腹を抱えて笑っている。


「ピピ、何事もなかったみたいにテレビ見てるんだもん!」


「……あ」


 フェンリスもピピへ視線を向けた。


 当の本人は、和真の膝の上で楽しそうにテレビを見ている。


「……えへへ!」


 画面の中で面白い場面があったらしく、嬉しそうに笑っていた。


「……もう!」


 フェンリスも思わず笑った。


「ピピってば、本当に自由なんだから!」


「ん?」


 名前を呼ばれたピピが振り向く。


「なーに?」


「……何でもないよ!」


「そっか!」


 ピピはにっこり笑って、再びテレビへ向き直った。


「……ふふっ」


 あおいも小さく笑い始めた。


「ピピは、本当に素直じゃな」


「……そうですね」


 リディアも微笑む。


「思ったことを、そのまま行動に移してしまうんでしょうね」


「……び、びっくりしました……」


 ひかげはまだ少し頬を赤らめていた。


「……でも、ピピらしいです」


「はははっ!」


 酒菜が豪快に笑う。


「まったく、こいつには敵わねえな!」


「……そうね」


 ユエも呆れたように笑った。


「ピピには、遠慮というものがないのかしら」


「ふっ。いいじゃないか」


 ナディアが楽しそうに肩を揺らす。


「それだけ和真が好きだということだろ?」


「……まあ、そうなんだろうけど」


 和真は困ったように笑った。


 するとピピが、またこちらを振り向いた。


「カズマ!」


「ん?」


「僕、カズマ大好きだよ!」


「……うん。ありがとう」


「えへへ!」


 ピピは嬉しそうに笑った。


 そして、またテレビへ向き直る。


 その様子を見て、和真もとうとう笑ってしまった。


「……ははっ。まったく、ピピには敵わないな」


 優しく頭を撫でる。


「えへへへ!」


 ピピは満足そうに目を細めた。


 すると、テレビの中で出演者が大きな失敗をした。


「あっ! 見て見て!」


 ピピが声を上げる。


「転んじゃった!」


「……本当だね」


 みゆが笑いながら答えた。


「僕も見た!」


 フェンリスもテレビへ視線を戻す。


「……ふふっ。派手に転んでしもうたのじゃ」


 あおいが楽しそうに笑う。


「おいおい、大丈夫かよ」


 酒菜も笑いながら画面を見る。


「大丈夫そうですね。すぐ立ち上がりましたし」


 リディアが微笑んだ。


「……よかったです」


 ひかげも小さく頷く。


「ふっ。なかなか面白い番組だな」


 ナディアが笑う。


「まったく。騒がしいこと」


 ユエはそう言いながらも、口元には笑みを浮かべていた。


 先ほどまでの驚きはどこへやら。


 リビングには、また楽しそうな話し声が広がっていった。


 和真はそんなみんなを眺めながら、膝の上のピピを優しく撫で続けた。


「……」


 誰かが笑う。


 誰かが冗談を言う。


 それにつられて、また誰かが笑う。


 そんな何でもない時間が、今はとても大切に思えた。


 これから先も、きっといろいろなことがあるだろう。


 楽しいことばかりではないかもしれない。


 それでも。


 こうしてみんなが同じ場所に集まり、笑い合える時間を大事にしていきたい。


 和真はそう思った。


「……カズマ?」


「ん?」


 ピピが顔を上げる。


「どうしたの?」


「……いや」


 和真は優しく微笑んだ。


「何でもないよ」


「……?」


 ピピは不思議そうに首を傾げた。


 けれど、すぐに笑顔になる。


「えへへ!」


 その無邪気な笑顔に、和真もつられて笑った。


 窓の外では、冬の太陽がゆっくりと西へ傾き始めていた。


 新年最初の夕暮れが、もうすぐ訪れようとしていた。


 ◇◇◇


 窓の外が少しずつ茜色に染まり、冬の冷たい空気が夕暮れの訪れを告げ始めた頃。


「……さてと」


 酒菜がソファから立ち上がった。


「そろそろ飯の準備をするか」


「……ん?」


 その言葉に、フェンリスの耳がぴくりと動いた。


「ご飯!?」


「おう」


 酒菜はにやりと笑う。


「今日は正月だからな。特別なもんを用意してあるぞ」


「特別!?」


 今度はピピが勢いよく顔を上げた。


「何!? 何が出るの!?」


「ははっ。見てからのお楽しみだ」


「えー! 教えてよ!」


「まあ、待ってろって」


 酒菜は楽しそうに笑いながらキッチンへ向かう。


 すると、ユエも立ち上がった。


「私も手伝うわ」


「おう、頼む」


「私も行きますね」


 リディアも和真の手をそっと離し、立ち上がる。


「……私も、お手伝いします」


 ひかげも続いた。


「あっ、僕も!」


 みゆが元気よく手を上げる。


 そんな様子を見て、和真も立ち上がろうとした。


「じゃあ、俺も――」


「和真」


「ん?」


 ユエが振り向いた。


「あなたは座っていなさい」


「……え?」


「昨日からずっと働いていたでしょう。今日くらい、ゆっくり休んでいればいいわ」


「でも、みんなに任せっきりじゃ……」


「大丈夫よ。酒菜がいるんだから」


 ユエは小さく微笑んだ。


「それに、あなたが手伝わなくても人手は十分足りているわ」


「……そっか」


「ええ。だから、今は休んでいなさい」


「……ありがとう、ユエ」


「どういたしまして」


 ユエはそう言ってキッチンへ向かった。


 続いてリディアとひかげ、みゆも後を追う。


 和真はその背中を見送りながら、小さく笑った。


「……なんだか、申し訳ないな」


「ふっ。たまには甘えておけ」


 ナディアが隣から声をかけた。


「昨日はあれだけ働いていたんだ。誰も文句など言わんだろ」


「……そうだな」


 和真は頷いた。


「じゃあ、お言葉に甘えようかな」


「そうしておけ」


 ナディアは満足そうに笑った。


 ◇◇◇


 キッチンでは、酒菜を中心に夕食の準備が始まっていた。


「よし。じゃあ、昨日作ったやつを出すぞ」


 酒菜が冷蔵庫を開ける。


 そこには、丁寧に下ごしらえされた料理がいくつも並んでいた。


「……わぁ」


 ひかげが思わず声を漏らす。


「……改めて見ると、すごい量ですね」


「まあな」


 酒菜は笑った。


「これだけ人数がいるんだ。少ないとすぐなくなっちまうだろ?」


「……ふふっ。それは確かにそうですね」


 リディアも微笑む。


「特にフェンリスとピピは、よく食べますから」


「ははっ! あいつらの分は多めに作ってあるぞ」


「……ピピは、甘いものも好きですからね」


 ひかげが小さく笑った。


「ああ。栗きんとんなんか、あっという間になくなりそうだな」


 そんな会話をしながら、酒菜は手際よく料理を取り出していく。


 昨日から仕込んでおいた煮物。


 時間をかけて味を含ませた黒豆。


 色鮮やかな伊達巻。


 艶やかな照りをまとった海老。


 さらに、肉料理もいくつか用意されていた。


「……本当に、たくさんありますね」


 みゆが感心したように呟く。


「昨日、僕が手伝った時より増えてない?」


「ああ。お前らが休んだ後にも少し作ってたからな」


「えっ!? まだ作ってたの!?」


「おう」


 酒菜は何でもないことのように頷いた。


「正月くらい、みんなにうまいもん食わせてやりたかったからな」


「……酒菜」


 みゆは少し驚いた後、嬉しそうに笑った。


「……ありがとね」


「おう。だったら、たくさん食えよ」


「もちろん!」


 みゆは元気よく頷いた。


 その横で、ユエが重箱を取り出す。


「それじゃあ、盛りつけを始めましょうか」


「ああ。頼む」


 酒菜は右手で丁寧に料理を取り分けながら、みんなに指示を出していく。


 ユエとリディアが重箱に料理を詰め、ひかげが小鉢を用意する。


 みゆは人数分の箸や取り皿を並べ始めた。


 重箱の中には、黒、金、赤、白、緑。


 さまざまな色の料理が美しく収められていく。


 やがて、食卓に並べる準備が整った。


「……よし!」


 酒菜が満足そうに頷く。


「こんなもんだな」


「……すごく綺麗です」


 ひかげが感嘆の声を漏らした。


「ふふっ。本当にそうですね」


 リディアも微笑む。


「お店で出されてもおかしくない仕上がりですよ」


「おいおい。そんなに褒めるなって」


 酒菜は少し照れくさそうに笑った。


「まあ、喜んでもらえりゃそれでいいさ」


 そんな酒菜を見て、ユエも静かに微笑んだ。


「きっと喜ぶわよ」


 ◇◇◇


「おーい! みんな、飯だぞ!」


 酒菜の声がリビングに響く。


「ご飯!!」


 真っ先に反応したのは、やはりピピだった。


「やったー!」


「ははっ。そんなに慌てなくても逃げないよ」


 和真が笑う。


「だって! お腹すいた!」


「さっきまでお菓子食べてただろ?」


「お菓子とご飯は別だよ!」


「……そうなのか?」


「うん!」


 ピピは自信満々だった。


 和真は呆れながらも立ち上がる。


 ピピも食事ができるよう人間の姿へ変わり、嬉しそうに食卓へ向かった。


 そして――。


「……おお!」


 食卓を見た和真が、思わず足を止めた。


 そこには、見事な料理がずらりと並べられていた。


 大きな重箱がいくつも置かれ、その一段一段に色鮮やかなおせち料理がぎっしりと詰められている。


 黒く艶やかな黒豆。


 黄金色に輝く栗きんとん。


 ふっくらと焼き上げられた伊達巻。


 紅白のかまぼこに、鮮やかな紅白なます。


 数の子、田作り、昆布巻き。


 さらに、丁寧に飾り切りされたにんじんやれんこん、椎茸、里芋などの煮しめ。


 海老の旨煮は美しい赤色に染まり、食欲をそそる照りをまとっていた。


 そして、少し離れた大皿には肉料理まで並んでいる。


 薄く切り分けられたローストビーフ。


 甘辛い照り焼き。


 香ばしく焼き上げられた鶏肉の八幡巻き。


 そのどれもが美しく盛りつけられ、まるで料亭のようだった。


「……すごいな」


 和真は思わず呟いた。


「これ、全部酒菜が作ったのか?」


「おう。まあ、みんなにも手伝ってもらったけどな」


 酒菜は得意げに笑った。


「昨日から頑張って作ったんだ。正月くらい、こういうのもいいだろ?」


「……すごいよ。ほんとに」


 和真は感心したように料理を見渡した。


「こんなに豪華なおせち、久しぶりに見たな」


「ははっ。そりゃよかった」


 酒菜は嬉しそうに笑った。


 すると、フェンリスが目を輝かせた。


「わぁぁ……!」


 ふさふさの尻尾が大きく揺れる。


「すごい! すっごくおいしそう!!」


「……本当だね」


 みゆも目を丸くしていた。


「これ、全部食べていいの?」


「当たり前だろ。そのために作ったんだからな」


「やった!」


 みゆは嬉しそうに笑った。


 あおいも料理を眺め、感心したように頷く。


「……なんと見事な料理じゃ」


 その瞳が金色の栗きんとんに留まる。


「……美しいのう」


 ナディアは大皿の肉料理へ視線を向けた。


「ほう。なかなか豪勢じゃないか」


「お前ら、肉も好きだろ?」


「ああ。よく分かっているな」


 ナディアは満足そうに笑った。


「俺様も楽しみだ」


 ピピはというと――。


「わぁぁぁっ!!」


 両手を胸の前で握りしめ、目を輝かせていた。


「すごい! いっぱいある!」


「ははっ。どうだ、ピピ?」


「すっごい!!」


 ピピは満面の笑みを浮かべた。


「僕、全部食べたい!」


「おいおい。少しは残しておけよ?」


「えー!」


 そのやり取りに、みんなが笑った。


 そんな中、和真はふと気づいた。


「……そういえば」


 酒菜へ視線を向ける。


「これ、朝から食べる予定だったんじゃないか?」


「ああ」


 酒菜は頷いた。


「本当は元日の朝に出すつもりだったんだけどな」


「……あ」


 和真が申し訳なさそうな顔をする。


 フェンリスたちも顔を見合わせた。


「……ごめん、酒菜」


 和真が頭を下げる。


「せっかく作ってくれたのに、俺たち昼過ぎまで寝ちゃって」


「……僕もごめん」


 フェンリスが耳を伏せた。


「おいしい料理、朝から用意してくれてたんだよね?」


「僕もごめんね」


 みゆも申し訳なさそうに言う。


「起きたらお昼過ぎだったし……」


「……わらわも、すまぬ」


 あおいが小さく頭を下げる。


「せっかくの料理を待たせてしもうた」


 ナディアも頷いた。


「俺様も悪かったな。つい寝すぎてしまった」


 五人が揃って謝る。


 すると――。


「……ははっ!」


 酒菜が笑った。


「何だよ、揃いも揃ってそんな顔しやがって」


「……え?」


 和真が顔を上げる。


「気にすんなって」


 酒菜は笑顔のまま続けた。


「昨日は大変だったんだろ? 疲れてる奴を無理やり起こしてまで食わせるもんじゃねえよ」


「……でも」


「それに、どうせなら全員揃って食いたいじゃねえか」


 酒菜は重箱へ視線を向ける。


「朝は起きてた連中だけで軽く済ませたんだ。せっかくのおせちは、みんな揃ってからにしようって話になってな」


「……酒菜」


「ほら、もう謝るな」


 酒菜はにっと笑った。


「せっかく作ったんだ。うまそうに食ってくれりゃ、それで十分だ」


 その言葉に、和真は胸が温かくなるのを感じた。


「……ありがとう、酒菜」


「おう!」


 酒菜は嬉しそうに頷いた。


「ただし、遠慮して残すんじゃねえぞ?」


「……ははっ。分かったよ」


「僕、いっぱい食べる!」


 フェンリスが元気よく答える。


「僕も!」


 みゆも続いた。


「僕も! 僕も!」


 ピピが両手を上げる。


「はははっ! お前らなら心配いらねえな!」


 酒菜が豪快に笑った。


 ◇◇◇


「さて、最後は雑煮だな」


 酒菜がキッチンへ戻る。


 すると、鍋の蓋を開けた瞬間――。


 ふわり。


 湯気とともに、豊かな出汁の香りが広がった。


「……あ」


 和真が思わず顔を上げる。


「この匂い……」


「おっ、分かるか?」


 酒菜が笑う。


「雑煮もちゃんと用意してあるぞ」


 鍋の中には、透き通った黄金色の出汁。


 柔らかく煮込まれた鶏肉。


 大根、にんじん、椎茸、小松菜。


 そして、別に焼き上げた餅が用意されていた。


 こんがりと焼き目のついた餅を椀へ入れ、具材を丁寧に盛りつける。


 最後に熱々の出汁を注ぎ、柚子の皮を少しだけ添える。


 その瞬間、爽やかな香りがふわりと立ち上った。


「……わぁ」


 ひかげが小さく声を漏らした。


「……ええ香りですね」


「だろ?」


 酒菜は満足そうに頷いた。


「出汁はしっかり取ってあるからな」


「……楽しみです」


 リディアも微笑んだ。


 酒菜は右手で器を整えながら、ユエたちに配膳を頼んだ。


 やがて、全員の前に温かいお雑煮が並べられる。


 湯気の向こうには、色とりどりのおせち料理。


 そして、それを囲むみんなの笑顔。


 和真はその光景を見渡した。


「……すごいなぁ」


 思わず、もう一度呟いてしまう。


 すると酒菜が笑った。


「何だよ。まだ食ってねえだろ?」


「いや、こんなに豪華な食卓になるとは思わなくてさ」


「ははっ! だったら、味にも期待してくれよ」


「ああ。すごく楽しみだ」


 和真は嬉しそうに笑った。


 そして、全員が席についたところで改めて口を開く。


「……それじゃあ、みんな」


 みんなの視線が集まる。


 和真は笑顔を浮かべた。


「新年あけましておめでとう!」


「おめでとう!」


「今年もよろしくね!」


「うむ! 今年もよろしく頼むのじゃ!」


「ふっ。今年も楽しませてもらうぞ」


「よろしくお願いします」


「……今年も、よろしくお願いします」


「おう! 今年もよろしくな!」


「ええ。今年もよろしく」


「僕も! 今年もいっぱい遊ぼうね!」


 全員の声が重なった。


 和真は嬉しそうに笑った。


「じゃあ、いただきます!」


「いただきまーす!!」


 こうして、空色唐辛子荘の賑やかな新年最初の夕食が始まった。


 ◇◇◇


 まず和真が手に取ったのは、お雑煮だった。


 椀から立ち上る湯気に顔を近づけると、鶏の旨味を含んだ出汁と柚子の香りが鼻をくすぐる。


「……いただきます」


 そっと椀を傾け、一口。


「……っ」


 口に含んだ瞬間、優しい旨味が広がった。


 鶏肉の濃厚な風味。


 野菜から溶け出した自然な甘み。


 そして、それらをまとめる醤油の香り。


 しっかりとした味なのに、後味は驚くほどすっきりしている。


 最後に柚子の爽やかな香りがふわりと抜けた。


「……うまい」


 思わず声が漏れた。


「……これ、すごくうまいな」


「おっ、そうか?」


 酒菜が嬉しそうに顔を上げる。


「ああ。出汁がすごくいい」


「へへっ。そりゃよかった」


 和真は続いて箸を伸ばし、餅を持ち上げた。


 表面にはこんがりとした焼き目がつき、出汁を吸った部分は柔らかくなっている。


 小さく切り分けて口へ運ぶ。


「……んっ」


 香ばしい風味が広がり、噛むほどに餅の甘みが感じられた。


 そこへ、鶏肉と椎茸の旨味が染み込んだ出汁が合わさる。


「……ああ、正月って感じがするなぁ」


 和真はしみじみと呟いた。


 すると、隣のリディアが微笑んだ。


「和真、そんなにおいしいんですか?」


「うん。食べてみてよ」


「では、いただきます」


 リディアもお雑煮を一口。


「……あら」


 その表情が柔らかくなる。


「……これは、おいしいですね」


「だろ?」


「ええ。出汁の味がとてもよく出ています。それでいて、素材の風味がちゃんと残っていますね」


 リディアは感心したように椀を眺めた。


「料理というのも、本当に奥が深いですね」


「ははっ。研究みたいに考えるなよ」


 酒菜が笑う。


「ふふっ。すみません。つい」


 リディアも楽しそうに笑った。


 その隣では、フェンリスがすでにお雑煮を夢中で食べていた。


「……んんっ!」


 ぱっと顔を上げる。


「酒菜!」


「ん?」


「これ、すっごくおいしい!!」


「ははっ! そうか!」


「うん! お餅がもちもちしてて、出汁もすっごくいい味!」


 フェンリスの尻尾が勢いよく揺れた。


「僕、これ好き!」


「そりゃよかった」


「おかわりある?」


「あるぞ。だが、他の料理も食ってからにしろよ?」


「はーい!」


 フェンリスは嬉しそうに頷いた。


 それを見ていたみゆが、くすくすと笑う。


「フェンリス、もうおかわり?」


「だっておいしいんだもん!」


「えへへ。僕もおいしいと思うけどさ」


 みゆは箸で伊達巻を持ち上げた。


「こっちもすっごくおいしいよ?」


「……ん?」


 フェンリスが首を傾げる。


「それ、何?」


「伊達巻だって。食べてみなよ」


「……じゃあ、一つ」


 フェンリスは伊達巻を一切れ口へ運んだ。


「……!」


 その耳がぴんと立つ。


「……甘い!」


「でしょ?」


「卵なのに甘い!」


「えへへ。おいしいよね」


「うん! ふわふわしてる!」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


 伊達巻は口に入れると、しっとりとした柔らかな食感が広がった。


 卵の優しい甘みの中に、ほんのりと魚の旨味が感じられる。


 甘すぎず、後を引く味わいだった。


「……これも好き!」


「フェンリス、さっきから全部好きって言ってない?」


「だって全部おいしいんだから仕方ないじゃないか!」


「あははっ! それもそうだね!」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 ◇◇◇


 一方、あおいは栗きんとんをじっと見つめていた。


 黄金色に輝くそれは、重箱の中でもひときわ目を引いている。


「……ほう」


 あおいは感心したように呟いた。


「なんとも美しい色じゃな」


「栗きんとんだよ」


 和真が教える。


「……くりきんとん?」


「うん。甘い料理だよ」


「……甘いのかえ?」


「ああ。食べてみる?」


「うむ」


 あおいは小さく頷き、そっと箸を伸ばした。


 黄金色の餡と栗を少しだけ取り、口へ運ぶ。


「……っ!」


 その瞬間。


 あおいの狐耳がぴんと立った。


「……おお!」


「どう?」


 和真が尋ねる。


 あおいは嬉しそうに微笑んだ。


「……甘いのじゃ!」


「ははっ。そうだろ?」


「うむ! じゃが、ただ甘いだけではないぞ」


 あおいはゆっくりと味わう。


「栗の香りが口いっぱいに広がって……なんとも優しい味じゃ」


「おっ、分かるか」


 酒菜が嬉しそうに笑った。


「甘さを少し控えめにしてあるんだ」


「……うむ。見事じゃ」


 あおいは感心したように頷いた。


「わらわ、これはとても気に入ったぞ」


「なら、遠慮せず食えよ」


「うむ。感謝するのじゃ」


 あおいは幸せそうに栗きんとんをもう一口食べた。


 その様子を見ていたピピが、すぐに反応する。


「……甘い!?」


「ああ、甘いぞ」


 和真が答える。


「僕も食べる!」


 ピピは元気よく手を伸ばした。


「おいおい。そんなに慌てなくても大丈夫だよ」


「だって甘いんでしょ!?」


「うん」


「じゃあ食べる!」


 ピピは栗きんとんを口へ運んだ。


「……んっ!」


 その瞳が大きく輝く。


「……おいしーーーっ!!」


 思わず立ち上がりそうになる。


「ピピ、座って食べなさい」


 ユエがすかさず注意した。


「……はーい!」


 ピピは素直に座り直す。


 けれど、笑顔はまったく消えていなかった。


「これ、すっごく甘い!」


「そうだな」


「僕、これいっぱい食べたい!」


「ははっ。いいけど、他のも食べろよ?」


「うん!」


 ピピは元気よく頷いた。


 そして次の瞬間、海老の旨煮へ手を伸ばしていた。


「……今度はそれか」


 和真は苦笑した。


「えへへ!」


 ◇◇◇


 その隣では、ひかげが煮しめを味わっていた。


 小さく切り分けた里芋を口へ運ぶ。


「……ん……」


 ほろりと崩れる柔らかな食感。


 中まで染み込んだ出汁の旨味が、ゆっくりと口いっぱいに広がる。


 続いてれんこんを一口。


 こちらはしゃきっとした歯応えが残されており、噛むたびに優しい味が染み出してきた。


「……おいしい……」


 ひかげは思わず呟いた。


「ん?」


 酒菜が顔を向ける。


「どうだ、ひかげ?」


「……すごく、おいしいです」


 ひかげは嬉しそうに微笑んだ。


「お野菜の味がちゃんと残ってて……でも、出汁の味もしっかり染みてます」


「おっ。そうか」


「……はい」


 ひかげはもう一度、煮物を口へ運ぶ。


「……ほんまに優しい味ですね」


 その言葉に、酒菜は満足そうに笑った。


「煮物は時間かけたからな。気に入ってもらえてよかった」


「……ありがとうございます」


 ひかげは少し恥ずかしそうに俯いた。


「……こういうお料理、私も作れるようになりたいです」


「おっ、そうか?」


「……はい」


「なら、今度教えてやるよ」


「……えっ?」


 ひかげが顔を上げる。


「……いいんですか?」


「ああ。難しいことじゃねえよ。最初は一緒にやればいい」


「……ありがとうございます!」


 ひかげは嬉しそうに微笑んだ。


 そんな二人を見て、和真も自然と笑顔になる。


「ひかげ、料理の腕がどんどん上がりそうだな」


「……そ、そんな……」


 ひかげは頬を赤くする。


「……でも、頑張ります」


「うん。楽しみにしてるよ」


「……はい」


 ひかげは小さく頷き、嬉しそうに箸を進めた。


 ◇◇◇


「……ほう」


 今度はナディアが感心したように声を上げた。


 その箸には、鶏肉の八幡巻きが挟まれていた。


 甘辛い照りをまとった鶏肉の中には、ごぼうとにんじんが巻き込まれている。


 噛むと、柔らかな鶏肉の旨味が広がり、続いて野菜の歯応えが心地よく響く。


「……いいな、これ」


「おっ、気に入ったか?」


 酒菜が尋ねる。


「ああ」


 ナディアは満足そうに頷いた。


「肉は柔らかいし、中の野菜もいい食感だ。味付けも濃すぎない」


「そりゃよかった」


「それに、この照り焼きも悪くない」


 ナディアは別の料理へ箸を伸ばした。


「ふっ。正月から随分と贅沢な気分にさせてくれるじゃないか」


「ははっ! そう言ってもらえると嬉しいな」


「俺様が褒めるんだ。自信を持て」


「おう。ありがとな」


 酒菜は嬉しそうに笑った。


 すると、フェンリスが大皿のローストビーフへ目を向けた。


「……あ!」


「ん?」


「酒菜! これも食べていい!?」


「もちろんだ」


「やった!」


 フェンリスは嬉しそうに一枚取り分ける。


 薄く切られた牛肉は、外側が香ばしく焼き上げられ、中心には美しい赤みが残っていた。


 添えられたソースを少しつけて口へ運ぶ。


「……んんっ!!」


 その尻尾が勢いよく揺れた。


「……おいしい!!」


「ははっ。そうか!」


「すっごく柔らかい!」


 フェンリスは夢中で噛みしめる。


「お肉の味がすごいよ!」


「そいつは焼き加減に気を使ったからな」


「……もう一枚!」


「おう。まだあるぞ」


 すると、みゆが横から笑いかけた。


「フェンリス、ほんとにお肉好きだね」


「みゆだって好きだろ?」


「もちろん!」


 みゆもローストビーフを一枚取る。


「……んっ!」


 口に入れた瞬間、嬉しそうに目を細めた。


「……これ、ほんとにおいしい!」


「だろ!?」


「うん! 柔らかいし、ソースもすっごく合ってる!」


「えへへ。僕、これ気に入った!」


 二人は嬉しそうに笑い合った。


 そんな様子を見て、酒菜は満足そうに頷いた。


「ははっ。作った甲斐があったな」


 ◇◇◇


 一方、ユエは静かに黒豆を口へ運んでいた。


 艶やかな黒い表面。


 丁寧に煮込まれた豆は、形を崩さず、ふっくらと仕上がっている。


 口に入れると、柔らかな食感とともに上品な甘みが広がった。


「……ふむ」


 ユエはゆっくりと味わう。


「……おいしいわね」


「おっ、そうか?」


 酒菜が顔を上げる。


「ええ。甘さがちょうどいいわ」


 ユエは穏やかに微笑んだ。


「それに、豆の食感も残っている。ずいぶん丁寧に作ったのね」


「ああ。そいつは時間がかかったからな」


「そうでしょうね」


 ユエはもう一粒、黒豆を口へ運んだ。


「……いい出来だわ」


「へへっ。ありがとな」


 酒菜は少し照れくさそうに笑った。


 すると、あおいが不思議そうに尋ねる。


「……ユエ、その黒い豆も甘いのかえ?」


「ええ。食べてみなさい」


「……うむ」


 あおいは一粒口へ運ぶ。


「……おお!」


 嬉しそうに目を細めた。


「こちらもよい味じゃな!」


「そうでしょう?」


 ユエが微笑む。


「黒豆には、まめに元気で暮らせるようにという願いも込められているそうよ」


「……ほう」


 あおいは感心したように頷いた。


「料理に願いを込めるとは、面白いものじゃな」


「おせちは、そういう意味のある料理が多いんだよ」


 和真が会話に加わった。


「栗きんとんも、豊かに暮らせるようにっていう願いが込められてるんだ」


「……そうなのかえ?」


「ああ」


 あおいは自分の取り皿に残っていた栗きんとんへ視線を落とした。


「……なるほどのう」


 そして嬉しそうに微笑む。


「では、わらわも皆が豊かに暮らせるよう願いながらいただくとしよう」


「……ふふっ」


 ユエが小さく笑った。


「それはいい考えね」


 和真も微笑んだ。


「ああ。みんなが元気に過ごせる一年になるといいな」


「……うむ!」


 あおいは大きく頷いた。


 その笑顔を見て、和真の胸も温かくなった。


 ◇◇◇


 食事が進むにつれ、食卓はますます賑やかになっていった。


「酒菜! この海老もおいしい!」


 ピピが声を上げる。


「おう。そうか!」


「うん! ぷりぷりしてる!」


 ピピは嬉しそうに笑った。


「それに甘い!」


「ははっ。気に入ったならよかった」


 すると、みゆがピピの皿を覗き込んだ。


「……あれ?」


「ん?」


「ピピ、もう海老三つも食べたの?」


「うん!」


「……早っ!」


 みゆが目を丸くする。


「僕、まだ一つしか食べてないのに!」


「だっておいしいんだもん!」


「えへへ。それはそうだけどさ」


 ピピは満面の笑みを浮かべた。


「僕、もっと食べる!」


「おいおい」


 和真が苦笑する。


「他のみんなの分もあるからな?」


「……あ!」


 ピピがぴたりと動きを止めた。


 そして、周囲を見渡す。


「……みんなも食べる?」


「ははっ。もちろん食べるよ」


「……じゃあ、僕ちょっと待つ!」


 ピピは素直に箸を置いた。


 その様子に、みんなが笑う。


「……ピピ」


 フェンリスが声をかける。


「ん?」


「まだ別のおいしいものもあるよ!」


「……えっ!?」


 ピピが勢いよく振り向く。


「どれ!?」


「これ!」


 フェンリスが指さしたのは、甘く煮付けられたさつまいもだった。


「……甘いの!?」


「うん!」


「食べる!」


 ピピはすぐにそちらへ箸を伸ばした。


「……んんっ!!」


 またしても目を輝かせる。


「おいしーーーっ!!」


「でしょ!?」


「うん!!」


 二人は嬉しそうに笑い合った。


 それを見ていた酒菜が、豪快に笑った。


「はははっ! ほんと、作り甲斐がある連中だな!」


 ◇◇◇


 やがて食卓の料理も少しずつ減り始めた頃。


 和真は改めて、みんなの顔を眺めていた。


 フェンリスは夢中で料理を味わっている。


 みゆはそんなフェンリスをからかいながら、自分も楽しそうに箸を進めていた。


 あおいは初めて食べる料理の味や由来に興味津々で、時折和真に質問してくる。


 ナディアは酒菜の料理を褒めながら、肉料理を満足そうに味わっていた。


 ひかげは丁寧に一口ずつ食べ、リディアは料理の味付けに感心している。


 ユエは穏やかな表情でみんなを見守りながら、自分も食事を楽しんでいた。


 酒菜はそんな全員の反応を見て、嬉しそうに笑っている。


 そしてピピは――。


「……んっ! んっ!」


 相変わらず幸せそうに料理を頬張っていた。


「……ははっ」


 和真は思わず笑ってしまった。


「……ん?」


 隣のリディアが顔を向ける。


「どうしたんですか、和真?」


「いや……」


 和真は微笑んだ。


「こうしてみんなでご飯を食べるの、やっぱりいいなって思ってさ」


「……ふふっ」


 リディアも微笑む。


「そうですね」


 そして、食卓を見渡した。


「こんなに賑やかだと、食事も一段とおいしく感じます」


「うん」


 和真は頷いた。


 すると、向かいに座っていたみゆが話に加わる。


「僕もそう思う!」


「……ん?」


「だって、みんなで食べると楽しいもん!」


 みゆは嬉しそうに笑った。


「それに、酒菜の料理はいつもおいしいし!」


「おう。ありがとな」


 酒菜が笑う。


 するとフェンリスも頷いた。


「僕も! みんなで食べるの、大好きだよ!」


「……うむ」


 あおいも微笑む。


「わらわもじゃ」


 その目が和真へ向けられる。


「こうして皆で食卓を囲めるのは、よいものじゃな」


「ああ。本当にそうだな」


 和真は優しく微笑んだ。


 すると、ナディアが口を開いた。


「ふっ。これだけ人数がいれば、静かな食事にはならんな」


「……嫌か?」


 和真が尋ねる。


 ナディアは笑った。


「まさか」


 そして、楽しそうに食卓を見渡す。


「俺様は、こういう賑やかな食事も嫌いじゃないぞ」


「……そっか」


 和真は嬉しそうに笑った。


 その隣で、ユエが静かにお茶を置く。


「……そうね」


 ユエは穏やかな表情で言った。


「多少騒がしいくらいが、ちょうどいいのかもしれないわ」


「……ユエもそう思う?」


 和真が尋ねる。


「ええ」


 ユエは小さく微笑んだ。


「静かすぎる食卓より、今の方がずっといいわ」


 その言葉に、酒菜が笑った。


「ははっ! ユエもずいぶん丸くなったな!」


「……何か言った?」


 ユエが視線を向ける。


 酒菜はにやりと笑った。


「いや、何でもねえよ」


「……まったく」


 ユエは呆れたように息を吐いた。


 けれど、その口元には笑みが浮かんでいた。


 ◇◇◇


 食事も終盤に差しかかった頃。


「……酒菜」


 和真が声をかけた。


「ん?」


「改めて、ありがとう」


「……あ?」


 酒菜が顔を上げる。


「おせちもお雑煮も、本当においしかったよ」


「……おう」


「昨日からずっと準備してくれてたんだろ?」


「ああ。まあな」


 和真は微笑んだ。


「こんなに豪華な正月料理をみんなで食べられるなんて、思ってなかったからさ」


 そして、ゆっくりと続ける。


「……すごく嬉しかった」


「……和真」


「最高のお正月だよ」


 その言葉に、酒菜は一瞬だけ目を丸くした。


 そして――。


「……へへっ」


 少し照れくさそうに笑った。


「……大げさだな、お前は」


「そんなことないよ」


「……ったく」


 酒菜は頬をかきながら、視線を逸らした。


 けれど、その表情は嬉しそうだった。


「……まあ、喜んでもらえたならよかったよ」


「うん」


「来年も作ってやるからな」


「……え?」


 和真が顔を上げる。


 酒菜はにっと笑った。


「来年も、再来年も。みんながいるなら、俺が作ってやるよ」


「……酒菜」


「だから、楽しみにしてろ」


 和真は少しだけ目を細めた。


「……ああ」


 そして、嬉しそうに笑った。


「楽しみにしてる」


 そのやり取りを聞いていたフェンリスが、勢いよく顔を上げる。


「僕も!」


「ん?」


「僕も来年のおせち、楽しみにしてる!」


「ははっ! 気が早えな!」


「だっておいしいんだもん!」


「僕も楽しみ!」


 みゆも笑う。


「来年はもっと伊達巻作ってね!」


「お前、そればっかり食ってたな」


「あははっ!」


「わらわは栗きんとんがよいのじゃ」


 あおいも楽しそうに声を上げる。


「……私、煮物が好きです」


 ひかげが控えめに続いた。


「私は、今日の味付けをぜひ教えていただきたいですね」


 リディアも微笑む。


「俺様は肉料理を増やしてもらおうか」


 ナディアが笑った。


「ちょっと待て! お前ら、もう来年の注文かよ!」


 酒菜が呆れたように笑う。


「まったく、気が早い連中だな!」


 すると、ピピが勢いよく立ち上がった。


「僕も!!」


「……ん?」


 全員の視線が集まる。


 ピピは満面の笑みを浮かべた。


「僕、ぜーんぶ!!」


「……全部?」


 和真が聞き返す。


「うん! ぜーんぶいっぱい食べたい!!」


 一瞬の沈黙。


 そして――。


「……ぷっ」


 みゆが吹き出した。


「あははははっ!!」


「ピピ、それじゃ全部増やすことになるじゃないか!」


 フェンリスも笑う。


「えへへ! だって全部おいしいもん!」


 ピピは自信満々だった。


「ははははっ!!」


 酒菜が豪快に笑った。


「分かった、分かった! 来年はもっと作ってやるよ!」


「やったーーーっ!!」


 ピピが嬉しそうに両手を上げる。


 その様子に、みんなが笑った。


 そんな賑やかな食卓を眺めながら、和真は改めて思った。


 来年も、再来年も。


 こうしてみんなと一緒に笑いながら食事ができたら、どれほど幸せだろう。


 特別なことなんて、何もいらない。


 大切なみんなが、ここにいてくれる。


 それだけで十分だった。


 ◇◇◇


 やがて食事が終わると、みんなで片付けを始めた。


 残ったおせちは重箱へ戻し、明日も食べられるように冷蔵庫へしまう。


 食器を運び、テーブルを拭き、キッチンを片付ける。


 今度は和真も手伝った。


「和真、そっちの皿を頼む」


「うん。分かった」


「僕も運ぶ!」


 フェンリスが元気よく立ち上がる。


「じゃあ僕も!」


 みゆも続いた。


「わらわも何か手伝うぞ」


 あおいが言うと、リディアが微笑んだ。


「では、こちらの小皿をお願いします」


「うむ。任せるのじゃ」


 ひかげは食卓を丁寧に拭き、ユエは残った料理を整理していた。


 ナディアも食器を運びながら、酒菜と何やら楽しそうに話している。


 そしてピピは――。


「……ふぅぅ……」


 ソファの上で、お腹をさすっていた。


「……お腹いっぱい……」


「ははっ。あれだけ食べればな」


 和真が笑う。


「……えへへ」


 ピピは満足そうに笑った。


「すっごくおいしかった!」


「よかったな」


「うん!」


 ピピは元気よく頷いた。


 そして、ふと窓の外へ視線を向けた。


 外はすっかり暗くなっていた。


 冬の澄んだ夜空には、いくつもの星が輝いている。


「……」


 ピピはしばらく、その景色を眺めていた。


 やがて、そっと窓へ近づく。


 暗い空。


 遠くに見える山の輪郭。


 そして、その上に広がる広い夜空。


「……お空……」


 小さく呟く。


 その瞳には、どこか懐かしそうな光が浮かんでいた。


 けれど、すぐにいつもの笑顔へ戻る。


「……よし!」


 ピピは小さく頷いた。


 そして、片付けを終えてリビングへ戻ってきた和真へ視線を向ける。


「……カズマ!」


「ん?」


 和真が振り向く。


 ピピは嬉しそうに駆け寄った。


「……あのね!」


「どうした、ピピ?」


 和真が微笑む。


 するとピピは、少しだけ真剣な表情になった。


「……僕ね」


 そして、和真をまっすぐ見つめた。


「カズマに、お願いがあるの!」


 ◇◇◇


「……お願い?」


 和真は首を傾げた。


 ピピはこくりと頷くと、少しだけ言いにくそうに視線を泳がせた。


「……あのね」


「うん。どうした?」


「……僕ね」


 ピピはもう一度窓の外へ視線を向けた。


 暗い夜空には、いくつもの星が輝いている。


 その向こうには、どこまでも広がる大きな空があった。


「……お空、飛びたい」


「……空?」


「うん!」


 ピピは和真へ向き直った。


「高く! ずーっと高く飛びたいの!」


 そして、両手を大きく広げる。


「それでね、遠くまで飛んで、ぐるぐる回って、いっぱい飛び回りたい!」


「……そっか」


「あとね!」


 ピピはさらに顔を近づけた。


「歌も歌いたい!」


「……歌?」


「うん!」


 ピピは大きく頷いた。


「誰も気にしないで、思いっきり歌いたいの!」


 その言葉に、和真は少し考え込んだ。


 ピピはハーピーだ。


 この世界に来る前は、広い空を自由に飛び回ることができた。


 風を感じながら高く舞い上がり、思いきり翼を広げる。


 それはピピにとって、当たり前のことだったはずだ。


 けれど、こちらの世界ではそうもいかない。


 人の目がある場所では、ハーピーの姿を見せることすら難しい。


 空を飛び回れば、誰かに目撃される可能性がある。


 ましてや、ピピの歌声には魔力が宿っている。


 何も考えずに大勢の人の前で歌わせるわけにもいかなかった。


「……そうだよな」


 和真は小さく呟いた。


 ピピと出会ってから、もう随分と時間が経っている。


 一緒に旅行へ行ったり、遊びに出かけたり。


 楽しい思い出もたくさんできた。


 けれど、その一方でピピには我慢してもらっていることも多かった。


「……ピピ」


「なーに?」


「最近、あまり飛べてないもんな」


「……うん」


 ピピは小さく頷いた。


「ちょっとだけなら飛べるよ?」


 そう言って、窓の外を指さす。


「でも、高く飛んじゃダメ。遠くまで行っちゃダメ」


「……そうだな」


「お歌も、大きな声で歌っちゃダメ」


 ピピは少しだけ寂しそうに笑った。


「僕、ちゃんと我慢してるよ!」


「……うん。知ってる」


 和真は優しく頷いた。


「いつもありがとうな」


「えへへ!」


 ピピは嬉しそうに笑った。


 けれど、すぐにまた真剣な表情になる。


「……だからね」


「うん」


「どこか、ないかな?」


「……どこか?」


「うん!」


 ピピは両手を大きく広げた。


「人がいなくて、ずーっと遠くまで飛べるところ!」


 そして、満面の笑みを浮かべる。


「僕、カズマにお歌も聴いてほしい!」


「……俺に?」


「うん!」


 ピピは何度も頷いた。


「カズマに、いっぱい聴いてほしいの!」


 和真はそんなピピを見つめ、優しく微笑んだ。


「……そっか」


 そして、そっと頭を撫でる。


「分かった。ちょっと考えてみようか」


「……ほんと!?」


「ああ」


「やった!」


 ピピは嬉しそうに笑った。


 その会話を聞いていたみんなも、自然と和真たちの周りへ集まってきた。


「……確かに」


 リディアが腕を組む。


「ピピが自由に飛び回れる場所となると、かなり広い空間が必要ですね」


「そうだな」


 和真も頷いた。


「しかも、人目につかない場所じゃないと」


「……山奥とかどうだ?」


 酒菜が提案する。


「山奥?」


「ああ。人がほとんど来ねえような場所なら、好きに飛べるんじゃねえか?」


「……なるほど」


 和真は少し考えた。


 しかし、みゆが首を傾げる。


「でもさ、山って登山する人とかいるんじゃない?」


「……ああ、確かに」


「お正月でも登る人はいるだろうし」


「……そうだな」


 和真は頷いた。


 すると、ユエが静かに口を開く。


「それに、ピピの歌声のこともあるわ」


「……ああ」


「人が来ないかどうか、きちんと確認する必要があるでしょうね」


「そうだな」


 ピピの歌は、ただの歌ではない。


 魔力を帯びたその声は、聴く者に不思議な影響を与えることがある。


 和真たちは慣れているとはいえ、何も知らない人が近くにいる場所では注意が必要だった。


「……うーん」


 和真は腕を組んだ。


 しばらく考えた後、ふとある場所を思い出した。


「……そういえば」


 ピピと初めて出会った公園。


 周囲には木々が生い茂り、その向こうには山が広がっていた。


 あの辺りなら、街中よりは人目につきにくい場所もあるかもしれない。


 しかし、公園そのものには人が訪れる。


 そこから飛び立つのは、やはり難しいだろう。


「……やっぱり、公園じゃ無理か」


「……公園?」


 フェンリスが首を傾げた。


「ああ。俺が最初にピピと会った場所だよ」


「……ああ!」


 フェンリスが頷く。


「前に話してくれたところだね!」


「うん。でも、あそこは人が来るからな」


「……そっか」


 フェンリスは少し残念そうに耳を伏せた。


 その隣で、ひかげが小さく口を開く。


「……あの」


「ん?」


「……もっと山の上の方とかは、どうなんでしょう?」


「……山の上?」


「……はい」


 ひかげは少し考えながら続けた。


「高いところなら、周りに建物も少ないでしょうし……」


「……なるほど」


 和真は頷いた。


「確かに、山の上なら……」


 そこまで言いかけた時だった。


「…………あれ?」


 ふと、何かが頭の中に引っかかった。


「……和真?」


 みゆが首を傾げる。


「どうしたの?」


「……いや、ちょっと待って」


 和真は窓の外へ視線を向けた。


 遠くに見える、暗い山の輪郭。


 その山を眺めているうちに、ずっと昔の記憶が蘇ってきた。


 まだ子供だった頃。


 祖父の元山と話した、何気ない会話。


 確か、あの山には――。


「……あっ!」


 和真が突然声を上げた。


「……えっ!?」


 ピピがびくっと肩を震わせる。


「カズマ!? どうしたの!?」


「……あった」


「……え?」


「あるかもしれない!」


 和真は嬉しそうに顔を上げた。


「ピピが自由に飛べる場所!」


「……ほんと!?」


 ピピの目が輝いた。


「うん。ちょっと思い出したことがあるんだ」


 和真はみんなを見渡した。


「じいちゃんが、昔住んでた家があるんだよ」


「……家?」


 フェンリスが首を傾げる。


「どこに?」


「山の上」


 和真は窓の外を指さした。


「あの山の、かなり上の方だったはずだ」


「……あの山?」


 あおいが顔を上げた。


「和真、それは……」


「ああ。あおいがいた神社のある山だよ」


「……ほう」


 あおいは興味深そうに耳を動かした。


「じゃが、わらわはそのような家を知らぬぞ?」


「うん。知らなくても不思議じゃないよ」


 和真は優しく微笑んだ。


「じいちゃんの家は、神社よりもずっと上にあったはずだからな」


「……なんと」


 あおいは目を丸くした。


「あの神社よりも、さらに上なのかえ?」


「ああ。山頂にかなり近いところだったと思う」


「……そうであったか」


 あおいは窓の外へ目を向けた。


 遠くに見える山。


 かつて、二百年以上もの間、自分が封じられていた場所。


 あおいにとって、あの神社は世界のすべてだった。


 九つの核による封印。


 神社から離れようとすれば、土地に流れる魔力が乱れ、周囲に被害が及ぶ。


 それゆえ、あおいは長い年月を神社の中だけで過ごしてきた。


 山の上に何があるのか。


 山の向こうにどんな景色が広がっているのか。


 知りたくても、自分の足で確かめることはできなかった。


 それが変わったのは、和真と出会ってからだった。


 和真が封印を解き、神社の外へ連れ出してくれた。


 初めて境界を越えた時、和真の手を握りながら恐る恐る歩いたことを、今でも鮮明に覚えている。


「……わらわが知らぬのも当然じゃな」


 あおいは小さく微笑んだ。


「かつてのわらわは、神社から一歩も出ることができなんだから」


「……あおい」


「ふふっ。今となっては懐かしいのう」


 そう言いながら、あおいは和真を見つめた。


「和真のおかげで、わらわは外の世界を知ることができた」


 その表情は、とても穏やかだった。


「……ありがとうなのじゃ」


「……うん」


 和真も優しく微笑んだ。


 そんな二人を見て、みゆが明るく声をかける。


「じゃあさ、今度はその山の上を見に行けばいいじゃん!」


「……山の上を?」


「うん! せっかく自由になれたんだもん!」


 みゆはにっこり笑った。


「あおいだって、まだ見たことのない景色がいっぱいあるでしょ?」


「……うむ」


 あおいは小さく頷いた。


「確かに、そのとおりじゃな」


 すると、ピピが嬉しそうに笑う。


「あおいも一緒に行こうよ!」


「……わらわもかえ?」


「うん!」


 ピピは大きく頷いた。


「僕が飛ぶところ、見てほしい!」


 あおいは少し驚いた後、嬉しそうに微笑んだ。


「……ふふっ。それは楽しみじゃな」


 和真も頷いた。


「ただ、まずは本当に行けるか調べないとな」


「……うむ」


 あおいは素直に頷いた。


 すると、リディアが興味深そうに尋ねる。


「和真、その家は今も残っているんですか?」


「……たぶん」


「たぶん?」


「うん。実は俺も、ずいぶん昔に話を聞いただけなんだ」


 和真は少し照れくさそうに笑った。


「子供の頃、じいちゃんが山の上に家を持ってるって話をしてくれたことがあってさ」


「……へえ」


 みゆが興味深そうに聞いている。


「それで?」


「年に一回くらい、風を通したり掃除したりするために行くって言ってたんだ」


「……なるほど」


 リディアが頷いた。


「定期的に手入れされていたのなら、使える可能性はありますね」


「ああ」


 和真も頷く。


「ただ、最後にいつ行ったのかは分からないけどな」


「……でも!」


 ピピが勢いよく顔を近づけた。


「そこなら、僕、飛べる!?」


「……うーん」


 和真は少し考えた。


「周りに人がいなければ、飛べると思う」


「……ほんと!?」


「うん。ただ、ちゃんと確認してからな」


「うん!!」


 ピピは嬉しそうに頷いた。


「僕、待てる!」


「ははっ。ありがとう」


 和真はその頭を優しく撫でた。


 すると、酒菜が尋ねる。


「で、その家の場所は分かるのか?」


「……それなんだけど」


 和真は少し考えた後、顔を上げた。


「確か、地下室に昔の地図とか、鍵とかがあったはずなんだ」


「……地下室?」


「ああ。じいちゃんの荷物を整理した時に、まとめて置いた覚えがある」


「なら、探してみればいいじゃねえか」


「そうだな」


 和真は頷いた。


「ちょっと探してみるか」


「僕も!」


 真っ先に声を上げたのはピピだった。


「僕も探す!」


「ははっ。分かったよ」


「僕も手伝う!」


 フェンリスが立ち上がる。


「じゃあ僕も!」


 みゆも続いた。


「わらわも行くぞ」


 あおいが笑う。


「ふっ。俺様も付き合ってやるか」


 ナディアも腰を上げた。


 すると、リディアが微笑んだ。


「私も行きます。古い書類なら、整理するのも手伝えますから」


「……私も、お手伝いします」


 ひかげが控えめに言う。


「ははっ。全員で行くのか?」


 酒菜が笑った。


「まあ、すぐ見つかるならいいけどな」


「そうね」


 ユエも小さく頷いた。


「探すものが分かっているなら、それほど時間はかからないでしょう」


 こうして、全員で地下室へ向かうことになった。


 ◇◇◇


 地下室には、古い家具や道具、書類などが整理されて保管されていた。


 壁際には大きな棚が並び、その中には祖父が残した品々が収められている。


「……えっと」


 和真は照明をつけ、辺りを見渡した。


「確か、この辺だったと思うんだけど……」


「……すごいね」


 フェンリスが棚を見上げる。


「いろいろ置いてあるんだ」


「ああ。じいちゃんが残したものも結構あるからな」


「……へえ」


 みゆが興味深そうに周囲を見渡す。


「なんか宝探しみたい!」


「ははっ。そんな大したもんじゃないよ」


「でも、ちょっと楽しいじゃん!」


 みゆは嬉しそうに笑った。


 その横では、ピピがすでに棚の前に立っていた。


「カズマ!」


「ん?」


「どれ探すの!?」


「えっと、古い地図と鍵だよ」


「地図! 鍵!」


「うん」


「分かった!」


 ピピは元気よく頷いた。


「僕、見つける!」


「頼んだよ」


「うん!」


 ピピはさっそく棚を覗き込んだ。


 その間に、和真は奥の棚へ向かう。


「……確か、じいちゃんの書類はここに……」


 引き出しを開ける。


 そこには古い封筒や書類がきちんと分けて収められていた。


 和真は一つずつ確認していく。


「……あ」


 そして、すぐに一冊のファイルを見つけた。


「……これかな?」


 少し古びた厚手のファイル。


 表紙には、祖父の字で山の名前と『山の家』という文字が書かれていた。


「……あった」


「……えっ!?」


 フェンリスが驚いたように振り向く。


「もう!?」


「うん」


 和真はファイルを取り出した。


「これだと思う」


 みんなが集まってくる。


 ファイルを開くと、中には古い地図が入っていた。


 山の麓から続く道。


 いくつもの分岐点。


 そして、山頂付近には赤い丸印がつけられている。


「……これだ」


 和真はその印を指さした。


「この赤い丸が、じいちゃんの家だと思う」


「……おお!」


 ピピが目を輝かせた。


「ここ!?」


「たぶんな」


「……ほんまに山の上ですね」


 ひかげが地図を覗き込みながら呟いた。


「そうだな」


 和真も頷く。


「確か、山頂にかなり近い場所だったはずだよ」


「……すごいですね」


 リディアも興味深そうに地図を眺めていた。


「この地図を見る限り、周囲にはほとんど建物がありませんね」


「ああ。じいちゃんが昔住んでいた頃から、あまり人が来る場所じゃなかったみたいだからな」


「……なるほど」


 リディアは頷いた。


「それなら、ピピが自由に飛ぶ場所としては良さそうですね」


「……ただ」


 和真は地図を指でなぞった。


「今も人が来ないとは限らないし、実際に行って確認する必要はあるけどな」


「……そうですね」


 その隣では、あおいが地図へ顔を近づけていた。


「……和真」


「ん?」


「この辺りが、わらわのおった神社かえ?」


「ああ、そうだよ」


 和真は地図の一角を指さした。


「ここが神社で……じいちゃんの家は、こっちだな」


「……おお」


 あおいの狐耳がぴんと立った。


「なんと……ずいぶん高いところにあるのじゃな」


「そうだろ?」


「うむ。封印されておった頃には、思いもよらぬ場所じゃ」


 あおいは静かに地図を見つめる。


 神社の境界から一歩も外へ出られなかった、あの長い年月。


 こんなにも近くに、自分の知らない場所があった。


 それが、あおいには不思議でならなかった。


「……あの頃のわらわには、ここまで来ることなど考えられなんだ」


 ぽつりと呟く。


 すると、和真が微笑んだ。


「でも、今は行けるだろ?」


「……うむ」


 あおいは顔を上げた。


「和真のおかげじゃ」


「……ははっ」


 和真は少し照れくさそうに笑った。


「じゃあ、今度は一緒に見に行こうか」


「……よいのかえ?」


「もちろん」


 あおいの表情がぱっと明るくなった。


「……ふふっ。嬉しいのじゃ」


 その横で、ピピが嬉しそうに笑う。


「あおいも一緒!」


「ああ。みんなで行こうな」


「うん!!」


 ピピは大きく頷いた。


 すると、酒菜が尋ねる。


「で、鍵はどうするんだ?」


「ああ。確か、こっちに……」


 和真は隣の引き出しを開けた。


 中には、小さな木箱が収められていた。


「……あった」


 蓋を開けると、いくつもの鍵がきちんと並んでいる。


 それぞれに小さな札がつけられていた。


 和真はその中から一本を取り出した。


 少しくすんだ金属製の鍵。


 札には、先ほどのファイルと同じ文字が書かれていた。


『山の家』


「……これだ」


「……えっ!?」


 みゆが目を丸くする。


「もう見つかったの!?」


「ああ」


 和真は鍵を掲げた。


「ちゃんと残ってたよ」


「……すごいね!」


 フェンリスも驚いたように笑った。


「地図も鍵も、こんなに簡単に見つかるなんて!」


「ははっ。じいちゃん、こういうものはちゃんと整理してたからな」


 和真は懐かしそうに微笑んだ。


「本当に助かったよ」


 すると、ピピが鍵を覗き込んできた。


「カズマ! それでお家に入れるの!?」


「うん。鍵が合えばね」


「……おお!」


 ピピの瞳が大きく輝いた。


「やった! 見つかった!」


 嬉しそうにぴょんぴょん跳ねる。


「お家! お家!」


「ははっ。ピピ、落ち着いて」


「だって!」


 ピピは満面の笑みで和真を見上げた。


「僕、楽しみ!」


「うん。分かってるよ」


 和真は優しく頭を撫でた。


 すると、酒菜が呆れたように笑う。


「ははっ! みんなで探すつもりが、和真一人で見つけちまったな」


「……そうですね」


 リディアも微笑んだ。


「でも、すぐに見つかってよかったです」


「そうだな」


 和真は地図を丁寧に折りたたみ、鍵と一緒に持った。


「じゃあ、上に戻って詳しく見てみようか」


「うん!!」


 ピピが元気よく返事をした。


 ◇◇◇


 リビングへ戻った一同は、テーブルの上に地図を広げた。


 和真はスマートフォンも取り出し、現在の地図と見比べていく。


「……うーん」


 画面を確認しながら、小さく呟いた。


「途中までは車で行けそうだけど……」


「……その先は?」


 フェンリスが尋ねる。


「古い道だからな。今も車が通れるかどうか分からない」


「……歩くことになるのかな?」


 みゆが首を傾げる。


「その可能性はあるな」


 和真は頷いた。


「ただ、冬の山だし、無理はしないつもりだよ」


「そうですね」


 リディアが口を開く。


「標高が高ければ、雪や路面の凍結も考えられます」


「ああ。車で行けるかも含めて確認しないとな」


「それに、建物も長い間使われていない可能性がありますね」


「うん。そこも気になるところだ」


 和真は古い地図に目を落とした。


 子供の頃、祖父から何度か話を聞いたことはある。


 けれど、実際にその家へ行った記憶はほとんどない。


 家がどれほど大きいのか。


 周囲がどんな場所なのか。


 正直なところ、はっきりとは覚えていなかった。


「……まあ、行ってみないと分からないことも多いな」


 すると、ナディアが笑った。


「ふっ。少し冒険みたいじゃないか」


「……冒険?」


 フェンリスが顔を上げる。


「ああ。古い地図を頼りに山奥の家を探すんだ。悪くないだろ?」


「……あっ!」


 フェンリスの目が輝いた。


「確かに!」


「ははっ。そんな大げさなものじゃないと思うけどな」


 和真は苦笑した。


 すると、みゆが楽しそうに笑う。


「でもさ、ちょっとわくわくするよね!」


「うん!」


 フェンリスも頷いた。


「僕も行きたい!」


「……フェンリス?」


 和真が顔を向ける。


「ピピが空を飛ぶところ、僕も見たい!」


 フェンリスは嬉しそうに尻尾を揺らした。


「それに、和真のおじいさんが住んでた家も気になるし!」


「……そっか」


 和真は微笑んだ。


「じゃあ、フェンリスも一緒に行こうか」


「……ほんと!?」


「ああ」


「やった!」


 フェンリスは満面の笑みを浮かべた。


 すると、その隣からみゆが顔を出す。


「じゃあ僕も!」


「みゆも?」


「うん!」


 みゆはにっこり笑った。


「僕もピピが飛ぶところ見たいし、歌も聴きたいもん!」


「……そうだな」


 和真は頷いた。


「じゃあ、みゆも一緒に行こう」


「やったー!」


 みゆの二本の尻尾が嬉しそうに揺れた。


 そして和真は、あおいへ視線を向けた。


「あおいも一緒に行こうか」


「……うむ」


 あおいは嬉しそうに微笑んだ。


「わらわも行きたいのじゃ」


 そして、もう一度地図を見つめる。


「かつては神社から出ることすら叶わなんだ。こうして皆と山の上へ行ける日が来るとは、夢にも思わなんだぞ」


「……そうだな」


 和真は優しく頷いた。


「じゃあ、明日はみんなで楽しもう」


「……うむ!」


 あおいの九本の尻尾が嬉しそうに揺れた。


 和真は改めてみんなを見渡した。


「じゃあ、明日は俺とピピ、フェンリス、みゆ、あおいの五人で行こうか」


「うん!!」


 フェンリスとみゆが元気よく返事をする。


「うむ!」


 あおいも笑顔で頷いた。


 そして――。


「やったぁぁぁっ!!」


 ピピが両手を上げて大喜びした。


「明日! 明日行くんだね!?」


「ああ。天気と道の状態がよければな」


「うん!」


 ピピは嬉しそうに笑った。


「僕、いっぱい飛ぶ!」


「ははっ。楽しみだな」


「それでね! いっぱいお歌も歌う!」


「ああ。聴かせてくれよ」


「うん!!」


 ピピは満面の笑みを浮かべた。


 そんな彼女を見て、酒菜が楽しそうに笑う。


「ははっ! よかったな、ピピ!」


「うん!」


「俺は明日も家にいるから、帰ってきたら話を聞かせてくれよ」


「うん! いっぱいお話しする!」


「おう。楽しみにしてるぞ」


 酒菜は嬉しそうに頷いた。


 すると、リディアが和真へ視線を向ける。


「和真、出発前に道の状態をもう一度確認しましょう」


「ああ。頼むよ」


「それから、念のため防寒対策も必要ですね」


「うん。冬の山だからな」


 リディアは小さく頷いた。


「明日の朝、私も確認を手伝いますね」


「ありがとう、リディア」


「ふふっ。どういたしまして」


 その隣で、ひかげが控えめに口を開く。


「……和真さん」


「ん?」


「……気をつけて行ってきてくださいね」


「ああ。ありがとう」


「……お帰り、待ってます」


 ひかげは少し恥ずかしそうに微笑んだ。


「うん。帰ってきたら話をするよ」


「……はい」


 すると、ナディアが腕を組んで笑った。


「ふっ。今回は俺様も留守番してやろう」


「ナディアはいいのか?」


「ああ。明日はピピが主役だろ?」


 ナディアはピピへ視線を向けた。


「思いきり楽しんでこい」


「うん!!」


 ピピは嬉しそうに頷いた。


「ナディア! ありがとう!」


「ふっ。礼はいらん」


 そしてユエが静かに口を開いた。


「……和真」


「ん?」


「山へ行くのなら、十分に気をつけなさい」


「ああ。分かってるよ」


「冬の山を甘く見ては駄目よ。道が危険なら、無理をせず引き返すこと」


「うん」


「それと、ピピ」


「なーに?」


 ユエはピピへ視線を向けた。


「向こうへ着いても、すぐに飛び立っては駄目よ」


「……え?」


「周囲に人がいないか、和真たちと確認してからにしなさい」


「……あ!」


 ピピはこくりと頷いた。


「分かった!」


「本当に?」


「うん!」


 ピピは胸を張る。


「僕、ちゃんと待てるよ!」


「……それならいいわ」


 ユエは小さく息を吐いた。


 けれど、その表情はどこか嬉しそうだった。


 ◇◇◇


「……それじゃあ、明日は早めに出るか」


 和真が地図を片付けながら言った。


「うん!」


 フェンリスが元気よく頷く。


「僕、ちゃんと起きるよ!」


「僕も!」


 みゆも笑った。


「……わらわも、早起きするのじゃ」


 あおいが頷く。


 そしてピピは――。


「僕も!!」


 勢いよく手を上げた。


「僕、絶対起きる!」


「ははっ。頼もしいな」


「うん!」


 ピピは満面の笑みを浮かべた。


「だって、明日はお空をいっぱい飛べるんだもん!」


 嬉しそうに、その場でぴょんぴょんと跳ね始める。


「お空! お空!」


「……ピピ?」


 和真が小さく声をかける。


「ん?」


「そんなに跳ねたら――」


「僕、楽しみ!!」


 ピピはもう我慢できないとばかりに笑った。


 そして――。


 ふわり。


 その身体が変化し始めた。


「……あ」


 和真が嫌な予感を覚えた、その時。


 ピピは人間の姿から、見慣れたハーピーの姿へ戻っていた。


 両腕は大きな翼に変わり、脚も鳥のものへと戻っている。


「……ピピ?」


 和真が声をかける。


 しかし、彼女の耳には届いていなかった。


「やったぁぁぁっ!!」


 ――バサァッ!!


 嬉しさのあまり、ピピが勢いよく翼を広げた。


 その瞬間。


 ――バサバサバサッ!!


 テーブルの上に置かれていた紙類が一斉に舞い上がった。


「……え?」


 和真が目を丸くする。


 ――ガタンッ!


 棚の上の小物が風に煽られ、床へ落ちた。


「……あっ!?」


 フェンリスが驚いて振り向く。


 ――バサァッ!!


 ピピがもう一度翼を動かす。


 今度はソファのクッションが転がり、テーブルの端に置かれていた雑誌が宙を舞った。


「うわっ!?」


 みゆが慌てて耳を押さえた。


「ちょ、ちょっとピピ!?」


「えへへへ!」


 ピピは満面の笑みのまま、翼を広げている。


「僕、明日いっぱい飛ぶんだ!」


「それは分かったから!」


 フェンリスが慌てて声を上げた。


「ここでは翼を広げちゃダメだよ!」


「え?」


 ピピが首を傾げる。


 その間にも、大きな翼が動くたびに風が巻き起こっていた。


「……ピピ!」


 ユエの声が響いた。


「翼を閉じなさい!」


「……あ!」


 ピピはようやく動きを止めた。


 ――ぱさっ。


 最後の一枚の紙が、ゆっくりと床へ落ちる。


「…………」


 和真は周囲を見渡した。


 床には雑誌や紙が散乱している。


 棚の上にあった軽い小物も、いくつか転がっていた。


 幸い、大きなものは倒れていない。


 しかし、せっかく片付けたばかりのリビングは、すっかり散らかってしまっていた。


「……ピピ」


 和真がゆっくりと振り向く。


「……なーに?」


 ピピは満面の笑みだった。


「……周りを見てみようか」


「……ん?」


 ピピはきょろきょろと周囲を見渡した。


「……あれ?」


 散らばった紙。


 転がった小物。


 床に落ちたクッション。


「……あっ!」


 ピピが目を丸くした。


「いっぱい落ちてる!」


「……誰のせいだと思ってるんだ?」


「……え?」


 ピピは少し考えた。


 そして――。


「……僕?」


「そうだよ!」


 フェンリスが叫んだ。


「もう! ピピ、いきなり翼を広げたら危ないじゃないか!」


「……えへへ」


「笑ってごまかさない!」


 みゆも苦笑する。


「ピピ、嬉しいのは分かるけどさ」


「うん!」


「お部屋の中では気をつけないとダメだよ?」


「うん!」


「せっかく片付けたのに、また散らかっちゃったじゃん」


「……あ!」


 ピピはもう一度周囲を見渡した。


「……ほんとだ!」


「……まったく」


 酒菜が呆れたように笑う。


「お前、嬉しくなると周りが見えなくなるんだよな」


「えへへ!」


「褒めてねえぞ?」


 その言葉に、みゆが吹き出した。


「あはははっ!」


 リディアも散らばった紙を見渡し、小さく息を吐く。


「幸い、壊れたものはなさそうですね」


「……よかったです」


 ひかげがほっと胸を撫で下ろす。


 あおいも苦笑した。


「……まったく、ピピは元気じゃのう」


 すると、ユエが静かに口を開いた。


「ピピ」


「なーに?」


「部屋の中で急に翼を広げてはいけないと、何度も言っているでしょう?」


「……うん」


「嬉しいのは分かるわ。でも、周りのことも考えなさい」


「……はーい」


 ピピは素直に頷いた。


「……分かった?」


「うん!」


 そして、ぱっと顔を上げる。


「じゃあ、明日はいっぱい広げる!」


「……そういうことじゃないんだけど」


 ユエは額に手を当てた。


 すると――。


「……ぷっ」


 和真が思わず吹き出した。


「はははっ!」


「和真まで笑わないの」


「ご、ごめん……!」


 和真は笑いながら答える。


「でも、ピピらしいなって……」


「えへへへ!」


 ピピは嬉しそうに笑った。


 その様子に、フェンリスもとうとう笑ってしまった。


「……もう! 本当にピピは!」


「あははっ! 明日が楽しみすぎるんだね!」


 みゆも笑う。


「ふふっ。まあ、気持ちは分かるのじゃ」


 あおいが穏やかに微笑む。


「はははっ! 明日は思う存分飛んでこい!」


 酒菜が豪快に笑った。


「ただし、今度は何も壊すんじゃねえぞ?」


「うん!」


 ピピは元気よく頷いた。


「僕、気をつける!」


「……本当か?」


 和真が尋ねる。


「本当!」


 ピピは胸を張った。


「たぶん!」


「……ははっ」


 またしても、みんなが笑った。


 ◇◇◇


 散らかったリビングをみんなで片付け終えた頃には、夜もだいぶ更けていた。


「……ふぅ」


 和真が小さく息を吐く。


「ようやく片付いたな」


「……ごめんね、カズマ」


 人間の姿に戻ったピピが、少し申し訳なさそうに笑った。


「いいよ。次から気をつければ」


「……うん!」


 ピピは元気よく頷いた。


 そして、また満面の笑みを浮かべる。


「明日、楽しみ!」


「ははっ。そうだな」


 和真は優しく頭を撫でた。


「でも、ちゃんと寝ないと明日疲れるぞ?」


「……あ!」


 ピピが目を丸くした。


「そうだった!」


「だから、今日はもう寝ような」


「うん!!」


 ピピは元気よく頷いた。


 すると、フェンリスが大きく伸びをした。


「……ふわぁ……」


「眠い?」


 和真が尋ねる。


「……うん。ちょっと」


 フェンリスは照れくさそうに笑った。


「今日、いっぱい寝たはずなんだけどな」


「ははっ。昨日は疲れてたからな」


「……そうだね」


 フェンリスは嬉しそうに微笑んだ。


 そして、和真を見つめる。


「……和真」


「ん?」


「……今日は、ありがとう」


「……何が?」


「……えへへ」


 フェンリスは少しだけ頬を赤らめた。


「昨日も今日も、いっぱい一緒にいられたから」


「……そっか」


 和真は優しく微笑んだ。


「俺も楽しかったよ」


「……うん!」


 フェンリスの尻尾が嬉しそうに揺れた。


 すると、みゆが横から顔を出す。


「僕も楽しかった!」


「ははっ。よかった」


「えへへ。明日も楽しみだね!」


「ああ」


 あおいも微笑む。


「わらわも、明日が待ち遠しいのじゃ」


「うん。みんなで楽しもうな」


「……うむ!」


 三人は嬉しそうに頷いた。


 そんな様子を見ていたユエが、静かに口を開く。


「……さて」


 みんなの視線が集まる。


「そろそろ部屋に戻りなさい。明日は出かけるのでしょう?」


「……あ」


 和真が頷く。


「そうだな」


「今日は全員、ちゃんと自分の部屋で寝ること」


 ユエは四人へ視線を向けた。


「昨日からずいぶん騒がしかったんだから、今夜くらいは静かに休みなさい」


「……はーい」


 みゆが笑った。


「……分かったよ」


 フェンリスも頷く。


「うむ。わらわも今日は部屋へ戻るのじゃ」


 あおいが微笑んだ。


「ふっ。俺様も異論はない」


 ナディアも笑った。


 和真は少し驚いた。


 普段なら、誰が一緒に眠るかという話になりそうなものだったからだ。


 けれど、今日は違った。


 みんな素直に頷き、それぞれの部屋へ戻ろうとしている。


「……じゃあ、おやすみ」


 和真が笑顔で言う。


「おやすみ、和真!」


「また明日ね!」


「よい夢を見るのじゃ」


「ふっ。ゆっくり休めよ」


「おやすみなさい、和真」


「……おやすみなさい」


「おう。また明日な」


「ええ。おやすみ」


「カズマ! おやすみ!!」


 みんながそれぞれ挨拶を交わし、部屋へ戻っていく。


 和真も最後にリビングの明かりを消した。


 ◇◇◇


 ――深夜。


 空色唐辛子荘は、すっかり静まり返っていた。


 窓の外には、冬の澄んだ夜空。


 月明かりが庭を淡く照らし、遠くには山の黒い輪郭が浮かんでいる。


「……ふぅ」


 和真は自室のベッドに横になっていた。


 今日は久しぶりに、一人で眠る夜だった。


 いつもなら、誰かが隣にいる。


 フェンリスだったり、みゆだったり。


 最近では、あおいがぴったりとくっついて眠ることも多かった。


 けれど、今夜は誰もいない。


「……なんか、静かだな」


 和真は小さく呟いた。


 少し前までは、これが当たり前だったはずなのに。


 今では、誰もいないベッドが妙に広く感じられる。


「……慣れって怖いなぁ」


 苦笑しながら、布団を肩まで引き上げた。


 明日はピピを連れて山へ行く。


 祖父が昔住んでいたという家。


 果たして、今はどんな状態になっているのだろうか。


 子供の頃に聞いた話を思い出しながら、和真は目を閉じた。


 その時だった。


 ――コン、コン。


「……ん?」


 小さな音が聞こえた。


 和真は目を開ける。


「……何だ?」


 気のせいだろうか。


 そう思った直後。


 ――コン、コン、コン。


 今度は、はっきりと聞こえた。


 窓を叩く音だった。


「……窓?」


 和真は身体を起こした。


 カーテンの向こうに、何やら影が見える。


「……え?」


 まさかと思いながら、ベッドから下りる。


 そして、そっとカーテンを開けた。


「…………」


 そこには――。


「……えへへ!」


 満面の笑みを浮かべたピピがいた。


「……ピピ!?」


 和真は驚いて窓を開けた。


 冷たい夜風が部屋へ流れ込む。


「お、おい! こんな時間に何してるんだ!?」


「カズマ!」


 ピピは嬉しそうに笑った。


 ハーピーの姿で窓の外に浮かび、翼をゆっくりと動かしている。


「えへへ! 来ちゃった!」


「来ちゃったって……」


 和真は思わず額に手を当てた。


「……まったく」


 しかし、寒い夜空にそのままいさせるわけにもいかない。


「とりあえず中に入れよ」


「うん!」


 ピピは嬉しそうに頷き、窓からそっと部屋へ入った。


 翼を折りたたみ、床へ降り立つ。


 和真は窓を閉めた。


「……それで?」


「ん?」


「どうしたんだ、こんな時間に」


 ピピは少しだけ照れくさそうに笑った。


「……えへへ」


「……ピピ?」


「……あのね」


「うん」


 ピピは和真を見上げた。


「……明日、楽しみすぎて寝れないの!」


「……え?」


「だって!」


 ピピは目を輝かせた。


「明日、いっぱい飛べるんでしょ!?」


「……まあ、行ってみて大丈夫そうならな」


「それに!」


 ピピはさらに顔を近づける。


「カズマにお歌も聴いてもらえる!」


「……ああ」


「だからね!」


 ピピは嬉しそうに笑った。


「楽しみで、ぜんぜん寝れない!」


「……ははっ」


 和真は思わず笑ってしまった。


「遠足前の子供みたいだな」


「……遠足?」


「楽しみすぎて眠れなくなることだよ」


「……あ!」


 ピピはぱっと顔を明るくした。


「それ! それと同じ!」


「……そっか」


 和真は苦笑した。


「でも、寝ないと明日眠くなるぞ?」


「……うん」


 ピピは頷いた。


 そして、少しだけもじもじし始める。


「……だからね」


「ん?」


「……あの……」


 ピピは和真をじっと見つめた。


「……カズマ」


「うん?」


「……一緒に寝ていい?」


「……え?」


 和真が目を丸くする。


 ピピは少しだけ首を傾げた。


「……ダメ?」


「……いや、ダメってわけじゃないけど」


「……ほんと!?」


 ピピの表情がぱっと明るくなる。


「だって、カズマと一緒だとすぐ寝れるもん!」


「……そうなのか?」


「うん!」


 ピピは大きく頷いた。


「今日も、カズマの膝の上で寝ちゃったでしょ?」


「……ああ、そうだったな」


「すっごく気持ちよかった!」


 ピピは満面の笑みを浮かべる。


「だから、一緒に寝たい!」


「……まったく」


 和真は呆れながらも、自然と笑ってしまった。


 この子は本当に、思ったことをそのまま口にする。


 変に遠慮したり、駆け引きをしたりしない。


 ただ、和真と一緒にいたい。


 それだけなのだろう。


「……分かったよ」


「……え?」


「一緒に寝ようか」


「……ほんと!?」


「ああ」


 和真は優しく微笑んだ。


「明日は早めに出たいし、ちゃんと寝るんだぞ?」


「うん!!」


 ピピは嬉しそうに頷いた。


「やったーーーっ!!」


「しーっ!」


 和真が慌てて口元に指を当てる。


「みんな寝てるんだから、静かにな」


「……あっ!」


 ピピは慌てて翼を閉じた。


「……えへへ」


 そして、小さな声で囁く。


「……やった!」


「……ははっ」


 和真も小さく笑った。


 するとピピは、その場で人間の姿へ変わった。


 大きな翼は消え、両腕が現れる。


 鳥の脚も人間のものへと変わった。


「……よし!」


 ピピは自分の姿を確認すると、嬉しそうにベッドへ向かった。


「カズマ! 早く!」


「はいはい」


 和真は苦笑しながらベッドへ戻る。


 布団をめくると、ピピは嬉しそうに潜り込んだ。


「……えへへ!」


「そんなに嬉しいのか?」


「うん!!」


 ピピは満面の笑みを浮かべた。


「カズマと一緒!」


「……そっか」


 和真も微笑んだ。


 そして、隣へ横になる。


 すると――。


 ――ぎゅっ。


「……おっ?」


 ピピが両腕を回し、和真へ抱きついてきた。


「……ピピ?」


「えへへ……」


 ピピは和真の胸元へ顔を埋める。


 そして、安心したように大きく息を吐いた。


「……あったかい……」


「……ははっ」


 和真は優しく笑った。


「寒かっただろ?」


「……ううん」


 ピピは小さく首を振る。


「今は、あったかいよ」


「……そっか」


「……うん」


 ピピはさらに身体を寄せた。


 そして、和真の胸元に頬を擦り寄せる。


「……カズマ」


「ん?」


「……明日、楽しみだね」


「ああ。そうだな」


「……僕ね」


「うん」


「……いっぱい飛ぶよ」


「……うん」


「……それで、いっぱい歌う」


「ああ。楽しみにしてるよ」


 和真がそう答えると、ピピは嬉しそうに笑った。


「……えへへ」


 そして、少しだけ顔を上げる。


「……カズマ」


「ん?」


「……だーいすき」


「……ありがとう、ピピ」


 和真は優しく微笑んだ。


 するとピピは満足そうに目を細める。


「……おやすみ、カズマ」


「……おやすみ、ピピ」


 その言葉を最後に、ピピは再び和真の胸元へ顔を埋めた。


 そして――。


「……すぅ……すぅ……」


「……え?」


 和真は思わず目を丸くした。


 つい先ほどまで、楽しみすぎて眠れないと言っていたはずなのに。


 もう、寝息を立てている。


「……ははっ」


 思わず小さく笑ってしまった。


「……寝るの早すぎだろ」


 もちろん、返事はない。


 ピピは幸せそうな表情で眠っていた。


 両腕は和真の身体に回されたまま。


 顔は胸元へ埋められ、規則正しい寝息が静かな部屋に響いている。


「……まったく」


 和真は呆れながらも、そっと頭を撫でた。


 柔らかな髪が指の間を滑る。


 すると、眠っているピピが小さく笑った。


「……えへ……」


「……ははっ」


 和真も自然と笑みを浮かべた。


 今日一日、本当に嬉しそうだった。


 久しぶりに抱きついてきた時も。


 膝の上で眠っていた時も。


 みんなでおせちを食べていた時も。


 そして、明日の予定が決まった時も。


 ピピはずっと、満面の笑みを浮かべていた。


「……明日、晴れるといいな」


 和真は小さく呟いた。


 窓の外には、静かな冬の夜空が広がっている。


 遠くに見える山の向こうには、きっとピピが自由に飛べる空がある。


 誰の目も気にせず、思いきり翼を広げられる場所。


 好きなだけ飛び回り、心ゆくまで歌える場所。


 そんな場所を見つけてやりたい。


 和真はそう思った。


「……楽しみにしててくれよ、ピピ」


 小さく囁く。


 すると――。


「……んふ……カズマぁ……」


 ピピが寝言を呟いた。


 そして、ぎゅっと抱きつく力を強める。


「……はいはい」


 和真は苦笑しながら、その背中を優しく撫でた。


「……おやすみ」


 そっと目を閉じる。


 胸元には、安心しきったピピの温もり。


 耳元には、静かな寝息。


 その穏やかな音を聞いているうちに、和真の意識も少しずつ眠りへと沈んでいった。


 新しい年の最初の夜。


 空色唐辛子荘には、静かで優しい時間が流れていた。


 そして翌日。


 ピピにとって、待ちに待った特別な一日が始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。