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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第六十話 旅の終わりと新たな悩み

 十二月二十八日。


 北海道旅行、六日目の朝。


 ――チュン、チュン……。


 窓の外から聞こえる小鳥のさえずりに、和真はゆっくりと目を覚ました。


「……ん……朝か……」


 腕の中には、すっかりお馴染みになった温もりがあった。


 銀色の髪に淡いピンク色の毛先。


 幸せそうな寝顔を浮かべながら、和真の胸元に頬を寄せているフェンリス。


 その頭には柔らかな狼耳があり、大きな尻尾が布団の端から覗いていた。


「……ふふ……和真ぁ……」


 寝言だろうか。


 名前を呼びながら、さらに身体を寄せてくる。


「……まったく……」


 和真は小さく笑い、その髪を優しく撫でた。


 思えば、色々なことがあった六日間だった。


 初日のクリスマス。


 雪に包まれた五稜郭。


 元町の美しい街並み。


 互いの気持ちを確かめ合った三日目の夜。


 そして、予想もしなかった猛吹雪。


 飛行機が欠航し、二日間も帰れなくなったことには驚かされた。


 けれど、昨日は旅館の人たちと雪かきをし、雪だるまやかまくらを作り、思いきり雪遊びを楽しんだ。


 予定外の出来事さえ、今では大切な思い出になっている。


「……今日で最後か」


 そう呟いたときだった。


「……んぅ……?」


 フェンリスの耳がぴくりと動いた。


「……和真……?」


「おはよう、フェンリス」


「……おはよぉ……」


 まだ眠そうな声。


 フェンリスは目を擦ると、和真の顔を見つめた。


 そして、にへらっと笑う。


「えへへ……今日も和真がいる……」


「そりゃいるだろ。一緒に寝てたんだから」


「そうだけど……嬉しいんだもん」


 そう言って、ぎゅっと抱きつく。


「……もう少しだけ、こうしてていい?」


「ああ、いいよ」


「えへへ……」


 フェンリスは満足そうに目を閉じた。


 しかし、数秒後。


「……あっ!」


「どうした?」


「今日、帰る日だった!」


「今思い出したのか?」


「だってぇ……!」


 フェンリスは唇を尖らせる。


「まだ帰りたくないんだもん……」


「俺も楽しかったよ。でも、みんなも待ってるからな」


「……うん」


 少し寂しそうに頷いたあと、フェンリスは顔を上げた。


「でもね、和真」


「ん?」


「帰っても……僕のこと、いっぱいぎゅってしてね?」


「もちろん」


「毎日だよ?」


「はいはい」


「『はい』は一回!」


「はい」


「えへへ♪」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


 そして、和真の頬にそっと口づける。


「……大好き」


「俺も好きだよ、フェンリス」


 その言葉に、フェンリスの尻尾が布団の中で嬉しそうに揺れた。


 こうして二人は、北海道で迎える最後の朝を、ゆっくりと過ごしたのだった。


 ◇ ◇ ◇


 身支度を整えた二人は、旅館の食事処へ向かった。


 北海道で食べる最後の朝食。


 焼き魚に温かな味噌汁。


 炊きたてのご飯。


 小鉢には地元の食材を使った料理が並んでいる。


「いただきまーす!」


 フェンリスは元気よく手を合わせた。


「んん〜♪ おいしい!」


「相変わらずいい食べっぷりだな」


「だっておいしいんだもん!」


 頬を膨らませながら幸せそうに食べるフェンリス。


 和真はそんな姿を見て、自然と笑みを浮かべていた。


 少し前まで、食事もろくに取らず、無理を重ねて倒れてしまった彼女。


 病院のベッドで眠っていた姿を思い出すと、今こうして笑っていることが本当に嬉しかった。


「……フェンリス」


「ん? なぁに?」


「帰ってからも、ちゃんと食べるんだぞ」


「……え?」


「無理して働いたり、食事を抜いたりするのは禁止」


 フェンリスは一瞬きょとんとした。


 けれど、すぐに優しく微笑む。


「……うん。もう、和真に心配かけないよ」


「約束な」


「うん! 約束!」


 そう言って、小指を差し出す。


 和真も笑いながら小指を絡めた。


「指切りげんまん!」


 嬉しそうに笑うフェンリス。


 その笑顔を、和真はずっと守っていきたいと思った。


 ◇ ◇ ◇


 朝食を終えた二人は、荷物をまとめる前に旅館の庭へ向かった。


「わぁぁぁっ!」


 外へ出た瞬間、フェンリスが歓声を上げた。


 昨日作った雪だるまたちが、朝日に照らされていた。


 その奥には、二人と旅館の人たちで作った大きなかまくら。


 昨夜から新たな雪はほとんど降っておらず、どちらも綺麗な形を保っていた。


「和真! 残ってるよ!」


「ああ。よかったな」


「写真! 写真撮ろう!」


「もちろん。そのつもりで端末も持ってきた」


「やったぁ!」


 フェンリスは雪だるまの隣へ走っていく。


 今日は外出用に人間の姿へ変わっているため、狼耳も尻尾もない。


 それでも、そのはしゃぎ方はいつものフェンリスそのものだった。


「和真! 見て見て!」


 雪だるまの隣で、同じように両手を広げる。


「僕も雪だるま!」


「ははっ、何だそれ!」


「いいから撮って!」


「はいはい。じゃあ、そのままな」


 カシャッ。


 画面には、雪だるまと並んで満面の笑みを浮かべるフェンリスが写っていた。


「次は和真も!」


「俺も?」


「うん! 一緒に!」


 和真は端末を構え直すと、近くにいた旅館の従業員に撮影をお願いした。


「では、お撮りしますね!」


「ありがとうございます」


 和真がフェンリスの隣へ立つ。


 すると、フェンリスは当然のように和真の腕へ抱きついた。


「えへへ♪」


「……近くないか?」


「だって恋人だもん!」


「……そうだな」


 和真が笑う。


「はい、撮りますよー!」


 カシャッ。


 白銀の庭。


 二つの雪だるま。


 そして、幸せそうに寄り添う二人。


 そんな一枚が出来上がった。


 続いて、かまくらの前でも撮影することにした。


「和真! 中に入ろう!」


「昨日も入っただろ?」


「今日は記念写真!」


 フェンリスに手を引かれ、二人はかまくらへ入った。


 中には昨日使った小さな雪の腰掛けが残っている。


 二人で並んで座ると、今度は和真が端末を構えた。


「ほら、こっち見て」


「うん!」


 フェンリスが和真の肩へ頭を預ける。


 カシャッ。


「もう一枚!」


「今度はどうする?」


「……えへへ」


 フェンリスはいたずらっぽく笑った。


 そして――。


 ちゅっ。


「……っ!」


 和真の頬にキスをした。


「フェンリス!?」


「えへへ! 撮れた?」


「いや、びっくりして押せなかった……」


「えーっ!」


「急にするからだろ!」


「じゃあ、もう一回!」


「ちょ、待っ――」


 ちゅっ。


 カシャッ。


 今度は何とか撮影できた。


 画面には、和真の頬へキスするフェンリスと、照れくさそうに笑う和真。


「やったぁ!」


 写真を確認したフェンリスは、嬉しそうに両手を上げた。


「これ、僕のお気に入りにする!」


「……人に見せるなよ?」


「えー? どうしようかなぁ?」


「フェンリス……」


「冗談だよぉ!」


 くすくす笑いながら抱きついてくる。


 和真もつられて笑った。


 ◇ ◇ ◇


 写真撮影を終え、二人は旅館へ戻った。


 荷物を持って玄関へ向かうと、そこには女将と数人の従業員が待っていた。


「あら、お二人とも。もうご出発ですか?」


「はい。長い間、本当にお世話になりました」


 和真は深々と頭を下げた。


「急な延泊までお願いしてしまって……本当にありがとうございました」


「いえいえ。とんでもございません」


 女将は優しく微笑んだ。


「こちらこそ、昨日は雪かきを手伝っていただいて、本当に助かりました」


「僕もすっごく楽しかったです!」


 フェンリスが元気よく答える。


「雪だるまも、かまくらも、雪合戦も! 全部楽しかった!」


「ふふふ。それはよかったです」


 女将は二人を見つめた。


「本当に仲のよろしいお二人ですね」


「えへへ……!」


 フェンリスが照れながら和真の腕に抱きつく。


「和真はね、僕の大好きな人なんです!」


「おやおや」


 女将は嬉しそうに笑った。


「それは素敵なことですね」


 そして、少しだけ真面目な表情になる。


「どうぞ、お互いを大切になさってください」


「……はい」


 和真が頷く。


「僕、絶対に大切にします!」


 フェンリスも元気よく答えた。


 女将はその返事に満足そうに微笑んだ。


「また、いつでもいらしてくださいね」


「はい。ぜひ、また来たいです」


「僕も! 絶対また来ます!」


 二人は何度も振り返りながら手を振った。


 旅館の人たちも、姿が見えなくなるまで手を振ってくれていた。


「……いい旅館だったね」


「ああ。本当に」


「また来ようね」


「もちろん」


 和真がそう答えると、フェンリスは嬉しそうに笑った。


 こうして、六日間お世話になった旅館を後にした。


旅館を後にした二人は、女将が手配してくれた車に乗り込み、最後の観光へと向かった。


 目的地は、本来なら旅行四日目に訪れる予定だった場所。


 猛吹雪の影響で一度は諦めていたが、帰りの飛行機を翌日に変更したおかげで、短いながらも観光する時間を確保することができた。


「和真! 今日はどこから行くの?」


「まずはトラピスチヌ修道院だな。そのあと湯倉神社に寄って、早めに昼飯を食べよう」


「おお〜!」


 フェンリスは嬉しそうに身を乗り出した。


「四日目に行く予定だったところだね!」


「ああ。全部回れるか心配だったけど、何とかなりそうだよ」


「えへへ! よかったぁ!」


 窓の外には、真っ白な雪景色が広がっている。


 道路は除雪されているものの、両脇には大きな雪の山ができていた。


「……すごいねぇ」


「ん?」


「昨日も思ったけど、こんなに雪が積もるなんて……」


「俺も驚いたよ。一晩であんなに積もるとは思わなかった」


「僕、雪って好きだけど……ちょっと怖くなっちゃった」


 フェンリスは窓の外を見つめながら呟いた。


「でもね、和真」


「ん?」


「吹雪で帰れなくなったのは大変だったけど……僕、ちょっとだけ嬉しかったんだ」


「……嬉しかった?」


「うん」


 フェンリスは少し照れくさそうに笑う。


「だって、和真と一緒にいられる時間が増えたんだもん」


「……そっか」


「昨日だって、旅館のみんなと雪だるま作ったり、かまくら作ったり……予定にはなかったことがいっぱいできたでしょ?」


「ああ。楽しかったな」


「だからね、僕にとっては全部いい思い出!」


 フェンリスは満面の笑みを浮かべた。


「今回の旅行、最初から最後まで全部宝物だよ!」


 その言葉に、和真は自然と微笑んだ。


「俺もだよ」


「……えへへ」


 フェンリスは嬉しそうに頬を緩める。


 そして、そっと和真の手に自分の手を重ねた。


「……また二人で旅行しようね」


「ああ。もちろん」


「約束だよ?」


「約束」


 指を絡めるように手を握り合う。


 そんな二人を乗せて、車は雪の残る函館の街を走っていった。


 ◇ ◇ ◇


 最初の目的地、トラピスチヌ修道院。


 車を降りた瞬間、冷たい空気が二人の頬を撫でた。


「ひゃあっ! 寒い!」


「大丈夫か?」


「うん! でも、やっぱり北海道って寒いね!」


 フェンリスはマフラーに顔を埋めながら笑った。


 目の前には、雪に包まれた美しい建物が広がっていた。


 赤茶色の煉瓦造りの建物。


 雪をまとった木々。


 静かに佇む聖母像。


 冬の澄んだ青空との対比が、何とも幻想的だった。


「……わぁ……」


 フェンリスが思わず足を止める。


「……すごく綺麗……」


「本当だな」


「なんだか……絵本の世界みたい」


 先ほどまで元気にはしゃいでいたフェンリスも、この場所では自然と声を落としていた。


 周囲には観光客の姿もあったが、敷地には不思議な静けさが漂っている。


 二人は一般に開放された見学エリアを、ゆっくりと歩いた。


「ここって、今も人が暮らしてるんだよね?」


「ああ。修道女の人たちが生活しているんだって」


「へぇ……」


 フェンリスは建物をじっと見つめた。


「こんな綺麗なところで、静かに暮らしてるんだね」


「そうだな」


「……僕には無理かも」


「ん?」


「だって、和真といっぱいおしゃべりしたいし、みんなとも遊びたいもん!」


「ははっ、確かにな」


「それに、静かにしてなきゃいけないんでしょ?」


「少なくとも今のフェンリスには大変そうだな」


「むぅ! 僕だって静かにできるよ!」


 そう言って、フェンリスは口元に指を当てた。


「……しーっ」


「…………」


「…………」


 数秒後。


「……ねえ、和真」


「もうしゃべってるぞ」


「あっ!」


 二人は顔を見合わせ、小さく笑った。


 やがて、聖母像の前へやってきた。


 フェンリスはその姿を見上げ、しばらく黙っていた。


「……和真」


「ん?」


「ここでお願い事してもいいのかな?」


「お願い事?」


「うん」


「神社とは違うからな。ここは祈りの場所だし……静かに手を合わせるくらいならいいんじゃないかな」


「そっか」


 フェンリスは小さく頷いた。


 そして、胸の前でそっと手を重ねる。


 目を閉じ、しばらく祈るように佇んでいた。


 和真は何も言わず、その横顔を見守っていた。


 やがて――。


「……よしっ!」


 フェンリスが目を開けた。


「何をお願いしたんだ?」


「えへへ……秘密!」


「秘密か」


「うん!」


 フェンリスは嬉しそうに笑う。


「でもね、すっごく大事なお願い!」


「そっか。叶うといいな」


「……うん!」


 フェンリスは和真を見上げた。


 そして、そっと腕に抱きつく。


 ――これからも、ずっと和真の隣で笑っていられますように。


 その願いは、誰にも聞かせない。


 けれど、彼女の胸の中には、確かに刻まれていた。


 ◇ ◇ ◇


「和真! 写真撮ろう!」


「ああ。せっかく来たんだからな」


 建物を背景に、まずはフェンリス一人の写真を撮ることにした。


「そこに立ってみて」


「ここ?」


「そうそう。もう少し右かな」


「こう?」


「うん。いい感じ」


 フェンリスは両手を身体の前で重ね、少しだけ首を傾げた。


 普段の元気いっぱいな笑顔とは違う、柔らかな微笑み。


 カシャッ。


「おっ、いい写真だ」


「見せて見せて!」


 駆け寄ってきたフェンリスが画面を覗き込む。


「……わぁ!」


「どう?」


「えへへ……なんだか大人っぽい!」


「実際、いつもより落ち着いて見えるな」


「えー? いつもだって落ち着いてるよ!」


「……そうだな」


「今、ちょっと間があった!」


「気のせいだよ」


「むぅ〜!」


 頬を膨らませるフェンリス。


 和真は思わず笑ってしまった。


「ほら、次は二人で撮ろう」


「……!」


 その一言で、フェンリスの表情が一気に明るくなった。


「うんっ!」


 近くにいた観光客にお願いし、二人で並ぶ。


 すると、フェンリスは和真の腕に自分の腕を絡めた。


 そして、ぴったりと身体を寄せる。


「……フェンリス?」


「えへへ♪」


「……まあ、いいか」


「いいんだよ! 恋人なんだから!」


 少し得意げに胸を張る。


 その言葉に、撮影を引き受けてくれた女性が微笑んだ。


「まあ、恋人同士なんですね」


「はい!」


 フェンリスが元気よく答える。


「すっごく大好きな人なんです!」


「ふふっ。素敵ですね」


 和真は少し照れくさそうに頬を掻いた。


「じゃあ、撮りますよ」


「お願いします!」


 カシャッ。


 冬の青空。


 雪に包まれた修道院。


 その前で、幸せそうに寄り添う二人。


「はい、どうぞ」


「ありがとうございます!」


 写真を確認したフェンリスは、嬉しそうに声を弾ませた。


「和真! これもすっごくいい写真!」


「ああ。綺麗に撮れてるな」


「えへへ……」


 フェンリスは画面を見つめたまま、小さく呟く。


「……また一枚増えちゃった」


「何が?」


「宝物の写真!」


 その笑顔を見て、和真も嬉しくなった。


 ◇ ◇ ◇


 修道院を後にした二人は、続いて湯倉神社へ向かった。


 ここも、当初の四日目の予定に組み込んでいた場所だった。


 鳥居の前に立つと、フェンリスが目を輝かせた。


「神社だ!」


「フェンリス、神社好きだよな」


「うん! あおいもいるし!」


「ああ、そうだな」


 あおいの名前が出たことで、和真は京都旅行を思い出した。


 二人で歩いた街並み。


 神社で過ごした時間。


 そして――。


 あの夜の口づけ。


「……和真?」


「ん?」


「どうしたの?」


「いや、ちょっと京都のこと思い出してた」


「あおいとの旅行?」


「ああ」


「そっかぁ」


 フェンリスは一瞬だけ何かを考えるような表情を浮かべた。


 しかし、すぐに笑顔へ戻る。


「ねえ! 僕たちもお参りしよう!」


「そうだな」


 二人は並んで境内へと進んだ。


 手水を済ませ、拝殿の前に立つ。


 お賽銭を入れ、静かに手を合わせた。


 和真は目を閉じる。


 頭に浮かんだのは、アパートで暮らす住人たちの顔だった。


 みゆ。


 ナディア。


 リディア。


 酒菜。


 ひかげ。


 ピピ。


 あおい。


 ユエ。


 そして、隣にいるフェンリス。


 今年も色々なことがあった。


 特にフェンリスが倒れたときは、本当に怖かった。


 あんな思いは、もう二度としたくない。


 ――みんなが、健康で笑って暮らせますように。


 和真はそう願った。


 一方、隣のフェンリスも真剣な表情で手を合わせていた。


 参拝を終えると、フェンリスが和真を見上げる。


「和真は何をお願いしたの?」


「みんなが元気で過ごせるように、かな」


「……!」


 フェンリスはぱっと笑顔になった。


「和真らしいね!」


「そうか?」


「うん!」


「フェンリスは?」


「えへへ……秘密!」


「また秘密か」


「うん! でも、さっきとはちょっと違うお願い!」


「へえ」


「……聞きたい?」


「気になるな」


 フェンリスは少しだけ考え込む。


 そして、和真の耳元に顔を寄せた。


「……和真と、ずっと仲良しでいられますようにって」


「……!」


 和真が振り向く。


 フェンリスは頬を赤く染めながら、嬉しそうに笑っていた。


「えへへ……言っちゃった」


「……そっか」


 和真は優しく微笑んだ。


「それなら、神様にお願いしなくても大丈夫だよ」


「……え?」


「俺も、ずっとフェンリスと仲良くしていたいから」


「…………!」


 フェンリスの顔が一気に真っ赤になった。


「……か、和真ぁ……!」


「どうした?」


「そういうこと、急に言わないでよぉ……!」


「え? 何か変なこと言った?」


「言った!」


 フェンリスは真っ赤になった顔をマフラーに埋める。


「……嬉しくて、どうしたらいいかわかんなくなっちゃう……」


「……ははっ」


「もう……!」


 そう言いながらも、フェンリスは和真の腕を離そうとしなかった。


 その後、二人は境内を少し散策し、記念写真を撮った。


 鳥居を背景に並んで撮った一枚。


 フェンリスが可愛らしい飾りを見つけ、嬉しそうに微笑む一枚。


 そして、二人で顔を寄せ合って撮った写真。


 どの写真にも、幸せそうな笑顔が残されていた。


 ◇ ◇ ◇


 時計を見ると、そろそろ昼食を取る時間になっていた。


「さて、フェンリス。そろそろ昼飯にしようか」


「お昼! やったぁ!」


「今日は早めに食べないとな。飛行機に遅れたら大変だし」


「うん!」


「何が食べたい?」


「うーん……」


 フェンリスは真剣に考え込んだ。


「お寿司もいいし……海鮮丼もいいし……」


「昨日も魚介類をいっぱい食べたな」


「だって、おいしいんだもん!」


「そうだな」


「でも……」


 フェンリスは少し考えたあと、ぱっと顔を上げた。


「塩ラーメン!」


「塩ラーメン?」


「うん! 函館の塩ラーメン、もう一回食べたい!」


「いいね。それにしようか」


「やったぁ!」


 二人は湯の川周辺で、昼前から営業しているラーメン店に入った。


 店内に入ると、温かな空気と食欲をそそる香りが二人を包んだ。


「はぁ〜……あったかい……」


「外は寒かったからな」


「うん!」


 注文した塩ラーメンが運ばれてくる。


 透き通った黄金色のスープ。


 湯気を立てる麺。


 香ばしいチャーシュー。


「わぁぁ……!」


 フェンリスの目が輝いた。


「いただきまーす!」


 まずはスープを一口。


「……んん〜っ!」


 フェンリスが幸せそうに目を細める。


「おいしいぃ!」


「ははっ。よかったな」


「和真も早く食べて!」


「ああ」


 和真もスープを飲んだ。


 あっさりとしながらも、しっかりと旨味のある味わい。


 冷えた身体に染み渡る。


「……うまいな」


「でしょ!」


「何でフェンリスが得意げなんだよ」


「えへへ!」


 二人は笑い合いながら、北海道での最後の食事を楽しんだ。


 やがて、フェンリスが箸を置く。


「……ごちそうさまでした!」


「ごちそうさま」


「……はぁ〜、おいしかったぁ……」


 満足そうにお腹をさする。


 しかし、少ししてから、フェンリスは窓の外を眺めた。


「……これで、本当に最後なんだね」


「……そうだな」


「……楽しかったなぁ……」


 声に、ほんの少し寂しさが混じる。


 和真はそんな彼女を見つめ、優しく笑った。


「また来ればいいだろ?」


「……え?」


「北海道。今度は違う季節に来てもいいしさ」


「……!」


 フェンリスの顔がぱっと明るくなる。


「また二人で!?」


「もちろん」


「ほんと!?」


「ああ」


「やったぁぁっ!」


 嬉しさのあまり、思わず大きな声を上げてしまう。


 周囲の視線に気づき、フェンリスは慌てて口を押さえた。


「……あっ」


 そして、小さな声で。


「……ごめんなさい……」


 和真は思わず吹き出した。


「ははっ!」


「もう! 笑わないでよぉ!」


「ごめんごめん」


 楽しい昼食を終えた二人は、そのまま空港へと向かった。


 ◇ ◇ ◇


 函館空港。


 二人は無事に到着し、搭乗手続きを済ませた。


 預ける荷物の中には、旅行中に買い集めたお土産がぎっしりと詰まっている。


「……和真」


「ん?」


「お土産、全部入った?」


「ああ。何とか収まったよ」


「よかったぁ!」


「買いすぎたかと思ったけどな」


「だって、みんなの顔を思い浮かべたら、あれもこれもってなっちゃったんだもん!」


「まあ、気持ちはわかるよ」


「えへへ!」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


 搭乗まで少し時間があったため、二人は展望窓の前に並んで座ることにした。


 窓の向こうには、青空の下に広がる滑走路。


 飛行機がゆっくりと移動している。


 除雪された滑走路の脇には、まだ大量の雪が積まれていた。


「……すごいね」


「ん?」


「昨日まで飛行機が飛ばなかったなんて、信じられないくらい綺麗な空」


「本当だな」


「……でも、よかった」


 フェンリスはほっとしたように息を吐く。


「みんな、待ってるもんね」


「ああ。連絡したら、みゆなんかすごく心配してたぞ」


「……うん」


 フェンリスは少しだけ申し訳なさそうに笑った。


「帰ったら、ちゃんとただいまって言わなきゃ」


「そうだな」


 しばらく二人で滑走路を眺めていると、フェンリスがそっと和真の肩に寄りかかってきた。


「……ねえ、和真」


「ん?」


「今回の旅行でね、僕……すっごく幸せになっちゃった」


「……そっか」


「うん」


 フェンリスは和真の手を握った。


「旅行に行く前は、ちょっと怖かったんだ」


「……怖かった?」


「うん……」


 フェンリスは俯いた。


「和真と二人で旅行できるのは嬉しかったけど……もし、僕の気持ちを伝えて困らせちゃったらどうしようって……」


「……フェンリス」


「でも……」


 フェンリスは顔を上げる。


 そこには、柔らかな笑顔が浮かんでいた。


「和真が、僕のこと好きって言ってくれたから……」


 ぎゅっと、手を握る力が強くなる。


「……もう、怖くないよ」


 和真はしばらく彼女を見つめていた。


 そして、そっと手を握り返す。


「……俺も、ちゃんと自分の気持ちに気づけてよかったよ」


「……えへへ」


 フェンリスは照れくさそうに笑った。


 そんな二人の耳に、搭乗案内の放送が聞こえてきた。


「あっ! 和真!」


「ああ。そろそろだな」


 二人は立ち上がる。


 フェンリスは最後にもう一度、大きな窓の向こうを見つめた。


「……北海道」


 小さく呟く。


「……またね!」


 そして、和真の手を握った。


「行こう、和真!」


「ああ!」


 二人は並んで搭乗口へと向かった。


 ◇ ◇ ◇


 飛行機は予定どおり、昼過ぎに函館空港を飛び立った。


 窓際の席に座ったフェンリスは、離陸してからもしばらく外を眺めていた。


「わぁ……!」


 眼下には、白く染まった北海道の大地。


 雪に覆われた山々。


 そして、青い海。


「……綺麗……」


「本当だな」


 フェンリスは和真の肩へ頭を寄せた。


「……また来ようね」


「ああ」


「今度は、もっといっぱい写真撮りたい!」


「今回も相当撮ったと思うけどな」


「まだまだ足りないよ!」


「ははっ」


 和真は笑いながら、フェンリスの頭を優しく撫でた。


 しばらくして、フェンリスは小さなあくびをした。


「……ふぁぁ……」


「眠い?」


「……ちょっとだけ……」


「朝から動いてたからな。少し寝てもいいよ」


「……じゃあ……」


 フェンリスは和真の肩に頬を寄せる。


「……着いたら起こしてね……」


「ああ。おやすみ」


「……おやすみ、和真……」


 やがて、静かな寝息が聞こえ始めた。


 和真はそんな彼女を見つめ、微笑んだ。


 少し前まで、無理を重ねて倒れてしまった少女。


 その彼女が今、こんなにも安心した表情で眠っている。


 和真はそっと彼女の手を握った。


 ――これからは、もっと大切にしよう。


 そう心の中で呟き、窓の外へ視線を向けた。


 青い空の向こう。


 飛行機は二人の帰る場所へと進んでいった。


 ◇ ◇ ◇


 羽田空港に到着したのは午後だった。


 荷物を受け取り、二人は帰路についた。


 北海道に比べれば、関東の空気は随分と暖かく感じられる。


「……あれ?」


 空港の外に出たフェンリスが首を傾げた。


「どうした?」


「……寒くない!」


「いや、普通に寒いぞ?」


「北海道に比べたら、全然!」


「ははっ。確かにな」


「なんだか、すっごく暖かいところに来た気分!」


 そう言って、フェンリスは嬉しそうに笑った。


 その後、二人は車で自宅へと向かった。


 車窓から流れる景色を眺めながら、フェンリスは旅行の写真を見返していた。


「……えへへ」


「今度は何を見てるんだ?」


「三日目の写真!」


「……ああ」


「これ、すっごく好き!」


 和真がちらりと画面を見る。


 そこには、旅行三日目に二人で撮った写真が映っていた。


 あの日。


 フェンリスが勇気を振り絞り、互いの気持ちを確かめ合った夜。


 思い出すだけで、胸が温かくなる。


「……俺も好きだよ、その写真」


「……!」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


「えへへ……!」


 そして、写真を大切そうに見つめる。


「……和真」


「ん?」


「帰ったら、また一緒に寝ようね?」


「……え?」


「だって、恋人だもん!」


「……ははっ」


 和真は少し困ったように笑った。


「まあ、帰ってから考えような」


「えーっ!」


「みんなも待ってるだろ?」


「……むぅ……」


 フェンリスは頬を膨らませる。


「……僕、今日も和真と寝たいのに……」


 小さく呟いたその言葉。


 和真は運転に集中していたため、聞き取れなかった。


 フェンリスはしばらく頬を膨らませていたが、やがてまた写真を眺め始めた。


 ◇ ◇ ◇


 夕方。


 二人を乗せた車が、ようやく自宅へと到着した。


「……着いたぁぁ!」


 フェンリスが大きく伸びをする。


「お疲れ様、フェンリス」


「和真もお疲れ様!」


 車から荷物を降ろし、二人は玄関へと向かった。


 久しぶりに見る、見慣れた建物。


 北海道の旅館も素敵だったが、やはり帰ってきたという安心感がある。


「……ただいま!」


 フェンリスが元気よく玄関を開けた。


 すると――。


「おかえりーっ!!」


「わあっ!?」


 真っ先に飛び出してきたのは、みゆだった。


「フェンリス! 和真!」


 みゆは勢いよく駆け寄ると、二人へ抱きついた。


「もう! 心配したんだからね!」


「ご、ごめんね、みゆ!」


「吹雪で飛行機が飛ばないって聞いたとき、本当にびっくりしたんだから!」


 みゆの猫耳が、少しだけ伏せられる。


「ニュースでもすごかったし……ちゃんと帰ってこられるのかなって……」


「……心配かけたな、みゆ」


 和真が優しく答える。


 すると、みゆは和真の胸元に顔を埋めた。


「……ほんとだよ……」


「ごめんな」


「……でも……」


 みゆは顔を上げた。


 そして、にっこりと笑う。


「無事に帰ってきてくれて、よかった!」


「ああ。ただいま」


「おかえり、和真!」


 和真が頭を撫でると、みゆは嬉しそうに目を細めた。


 そこへ――。


「まったく。ようやく帰ってきたか」


 聞き慣れた声が響いた。


「ナディア!」


 フェンリスが顔を上げる。


 そこには、腕を組んだナディアが立っていた。


「おかえり、二人とも」


「ただいま、ナディア」


「俺様たちを随分と待たせてくれたな」


「ごめんね! 吹雪がすごくて……!」


「ふふっ。わかっているさ」


 ナディアは笑いながら、フェンリスの頭を軽く撫でた。


「無事で何よりだ」


「……えへへ!」


 フェンリスが嬉しそうに笑う。


 すると、ナディアの視線が和真へ向いた。


「……しかし」


「ん?」


「随分といい顔をしているじゃないか、和真」


「……そうか?」


「ああ」


 ナディアは意味ありげに笑った。


「よほど楽しい旅行だったようだな?」


「……まあ、楽しかったよ」


「ほう?」


 ナディアの目が細くなる。


 和真は何となく嫌な予感がした。


 しかし、そんな二人の様子など気づかず、フェンリスは嬉しそうに話し始める。


「すっごく楽しかったよ! ねえ、聞いて! 雪だるまも作ったし、かまくらも作ったんだ!」


「ほう。それはまた、随分と楽しそうだな」


「うん!」


 ナディアはにっこりと笑った。


「……あとで、詳しく聞かせてもらおうか」


「うん! いっぱい話すね!」


「……ふふっ。楽しみだ」


 その笑顔に、和真は背筋が少し冷たくなった。


 ◇ ◇ ◇


 玄関の騒ぎを聞きつけ、ほかの住人たちも次々と姿を現した。


「お二人とも、おかえりなさい」


「リディア!」


 フェンリスが元気よく手を振る。


 リディアは安心したように微笑んだ。


「フェンリス、体調は大丈夫ですか? 無理はしていませんね?」


「うん! 僕、もうすっかり元気だよ!」


 フェンリスは元気いっぱいに答えた。


「それなら安心しました。和真も長旅で疲れたでしょう。今夜はゆっくり休んでくださいね」


「ああ。ありがとう、リディア」


 和真が微笑むと、リディアも安心したように頷いた。


「まったく、ニュースを見たときは驚きましたよ。あれほどの積雪では、移動も大変だったでしょう?」


「うん! すっごかったんだよ!」


 フェンリスは両手を大きく広げた。


「昨日なんて、雪がこんなに積もってたんだ!」


「それは大変でしたね」


「でもね! 旅館のみんなと雪かきして、そのあと雪だるまとかまくらも作ったんだ!」


「そうだったんですか。それは貴重な体験でしたね」


「えへへ!」


 フェンリスが嬉しそうに笑う。


 すると、その後ろから力強い声が響いた。


「おっ! やっと帰ってきたか!」


「酒菜!」


「おう、おかえり。二人とも無事みたいだな」


 酒菜は二人の顔を見比べると、安心したように笑った。


「ったく、ニュース見て驚いたぞ。あんな吹雪に巻き込まれるなんてな」


「心配かけたな、酒菜」


「気にすんな。無事ならそれでいい」


 酒菜はそう言って和真の肩を軽く叩いた。


「それより、腹は減ってねぇか? 今夜は俺がたっぷり作ってやるぞ」


「やったぁ!」


 フェンリスが嬉しそうに声を上げる。


「僕、酒菜のご飯も食べたかったんだ!」


「ははっ! そりゃ嬉しいこと言ってくれるじゃねぇか」


 酒菜は豪快に笑った。


「北海道でうまいもん食ってきたんだろ? 負けないくらいうまいもん作ってやるから、楽しみにしとけ!」


「うん! 楽しみ!」


「和真もな。長旅で疲れただろ。今日はしっかり食って寝ろよ」


「ああ。ありがとう」


「礼は飯を食ってからにしろ」


 そう言って笑う酒菜。


 ぶっきらぼうな言葉の中にも、二人を心配していた気持ちが感じられた。


 すると、廊下の奥から控えめな声が聞こえた。


「……お、おかえりなさい……」


「ひかげ!」


 フェンリスが嬉しそうに振り返った。


 そこには、長い前髪で目元を隠したひかげが立っていた。


「……二人とも……無事で……よかったです……」


「ただいま、ひかげ」


 和真が微笑む。


「心配かけたね」


「……いえ……」


 ひかげは小さく首を振った。


「……ニュースで……雪、すごかったから……ちょっと……心配しとったんです……」


「そっか。ありがとう」


「……あの……フェンリスも……大丈夫やった……?」


「うん! 僕、元気いっぱいだよ!」


 フェンリスは胸を張って答えた。


「すっごく楽しかったんだ!」


「……そっか……」


 ひかげはほっとしたように微笑んだ。


「……楽しめたんやったら……よかったです……」


「ひかげにも写真見せるね!」


「……うん……楽しみに……しとるね……」


 そんな二人の会話に、和真も嬉しそうに笑った。


 そのときだった。


「おかえりーっ!」


 元気いっぱいの声が響いた。


「ピピ!」


「フェンリス! 和真!」


 ピピが嬉しそうに駆け寄ってきた。


「ねえねえ! 雪! いっぱいあった!?」


「うん! すっごくいっぱいあったよ!」


「どれくらい!?」


「えっとね……僕よりも高く積もってたんだ!」


「ええーっ!?」


 ピピが目を丸くする。


「すごい! 僕も見たかった!」


「えへへ! 写真いっぱい撮ったよ!」


「ほんと!?」


「うん!」


「見せて見せて!」


「あとでね!」


「やったー!」


 嬉しそうにはしゃぐピピ。


 そんな騒ぎを聞きつけ、さらに奥から一人の少女が姿を現した。


「……ふむ。何やら賑やかじゃの」


「あっ! あおい!」


 フェンリスが顔を上げる。


 そこには、穏やかな笑みを浮かべたあおいが立っていた。


「おかえり、フェンリス」


「ただいま!」


「うむ。随分と楽しんできたようじゃな」


「うん! すっごく楽しかった!」


「そうかそうか。それは何よりじゃ」


 あおいは優しく微笑んだ。


 そして、和真へ視線を向ける。


「和真も、無事に戻ってきてくれてよかったの」


「ああ。ただいま、あおい」


「……うむ」


 あおいは小さく頷いた。


 しかし、その視線がふと和真の腕へ向く。


 フェンリスが当然のように和真の腕に抱きついていた。


 しかも、その表情は今まで以上に幸せそうだった。


「……ほう……」


 あおいは少しだけ目を細めた。


「……どうしたんだ、あおい?」


「いや、何でもないのじゃ」


 あおいはすぐに柔らかな笑みを浮かべる。


「それより、長旅で疲れたじゃろう。先に荷物を片づけてくるとよいぞ」


「ああ。そうさせてもらうよ」


「うん!」


 和真とフェンリスが頷く。


 すると――。


「ようやく帰ってきたのね」


 落ち着いた女性の声が響いた。


 ユエだった。


「あっ、ユエ!」


「ただいま、ユエ」


「ええ。おかえりなさい、二人とも」


 ユエは二人を見比べると、小さく息を吐いた。


「まったく……二日も足止めされるなんてね。連絡はもらっていたけれど、さすがに心配したわ」


「ごめん、ユエ」


「謝る必要はないわ。天候ばかりはどうにもならないでしょう?」


 ユエはそう言うと、フェンリスへ目を向けた。


「フェンリス。身体の調子はどう?」


「うん! 元気いっぱい!」


「そう。ならよかったわ」


 ユエは少しだけ表情を和らげた。


「でも、元気になったからといって、また無理をしては駄目よ。わかった?」


「うん! もう無茶しないよ!」


「ならいいわ」


 そして、今度は和真を見つめた。


「……和真」


「ん?」


「少しは自分の気持ちと向き合えた?」


「……!」


 和真の表情が一瞬止まった。


 金沢でユエから言われた言葉。


 自分の気持ちから逃げないこと。


 本当に大切なものを見失わないこと。


 あのときの説教が、脳裏に蘇る。


「……ああ」


 和真は静かに頷いた。


「ちゃんと向き合えたと思う」


「……そう」


 ユエはそれ以上、問い詰めなかった。


 ただ、和真の隣で幸せそうに笑っているフェンリスへ視線を向ける。


 そして、少しだけ微笑んだ。


「……それなら、よかったわ」


 ◇ ◇ ◇


 荷物を片づけ終えた二人は、母屋の居間へ戻ってきた。


 フェンリスは一度自分の部屋へ戻り、いつもの獣人の姿になっていた。


 銀色の狼耳が嬉しそうに動き、大きなふわふわの尻尾が左右に揺れている。


「みんなー! お土産あるよー!」


「おっ! そうなの?」


 みゆが真っ先に振り返った。


「うん! 和真と一緒に選んだんだ!」


 和真は大きな袋をテーブルに置いた。


「いやぁ、結構買ったな」


「えへへ! だって、みんなに喜んでほしかったんだもん!」


「そうだな」


 袋の中には、北海道で買ったお菓子や雑貨、工芸品などがぎっしりと入っていた。


「じゃあ、まずはみゆ!」


「僕?」


「うん! はい、これ!」


 フェンリスが差し出したのは、小さな箱だった。


 みゆが蓋を開ける。


「……わぁ!」


 中に入っていたのは、雪の結晶をあしらった可愛らしいアクセサリーだった。


「かわいいっ!」


「でしょ!」


「これ、僕に?」


「うん! 和真と一緒に選んだんだ!」


「……和真も?」


 みゆが和真を見る。


「ああ。みゆに似合うと思ってさ」


「……えへへ」


 みゆの頬がほんのり赤くなった。


「ありがとう! すっごく嬉しい!」


「喜んでくれてよかった!」


 みゆはアクセサリーを大切そうに手に乗せた。


「今度、和真とお出かけするときにつけちゃおうかな?」


「ははっ、いいね」


「約束だからね?」


 みゆはいたずらっぽく笑った。


 その横で、フェンリスの耳がぴくりと動いた。


「……むぅ」


 小さく頬を膨らませるフェンリス。


 しかし、すぐに次のお土産を取り出した。


「次はナディア!」


「おっ、俺様の分もあるのか?」


「もちろん!」


 差し出されたのは、北海道の工芸品を使った上品な小物だった。


 落ち着いた色合いに、繊細な装飾が施されている。


「へえ……なかなかいいじゃないか」


「気に入った?」


「ああ。俺様の好みをよくわかってるな」


 ナディアは満足そうに笑った。


「これ、和真も選んだのか?」


「ああ。ナディアなら気に入りそうだと思って」


「……ふっ、そうか」


 ナディアは和真を見つめる。


「お前、なかなか気が利くじゃないか」


「喜んでもらえたならよかったよ」


「ふふっ。ありがたく使わせてもらうぞ」


 ナディアは小物を大切そうにしまった。


 続いて、フェンリスはリディアの前へ向かった。


「リディアにはこれ!」


「私にもですか?」


「うん!」


 差し出されたのは、雪の結晶を模したガラス細工だった。


 透明なガラスの中に繊細な模様が作られている。


「……これは……」


 リディアはそっと手に取った。


「とても精巧ですね」


「綺麗でしょ?」


「ええ。光の反射も美しいですし、細部まで丁寧に作られています」


 リディアは興味深そうに眺めた。


「ありがとうございます。研究室に飾らせてもらいますね」


「うん!」


「和真も、ありがとうございます」


「ああ。気に入ってくれてよかった」


 リディアは柔らかく微笑んだ。


 ◇ ◇ ◇


「次は酒菜!」


「おっ、俺にもあるのか?」


「もちろんだよ!」


 フェンリスが渡したのは、北海道の海産物を使った珍味や調味料だった。


 酒菜は袋の中を覗き込み、にやりと笑った。


「へえ……いいもん買ってきたじゃねぇか」


「酒菜なら、料理に使えるものがいいかなって思ってさ」


 和真が答える。


「なるほどな。確かにこいつは使えそうだ」


 酒菜は調味料の瓶を手に取り、ラベルを確認した。


「こっちじゃなかなか見かけないやつだな。面白ぇ」


「何か作れそう?」


「当たり前だろ」


 酒菜は自信たっぷりに笑った。


「俺を誰だと思ってんだ? こんだけありゃ、いくらでも作れるぞ」


「やったぁ!」


 フェンリスが嬉しそうに声を上げる。


「楽しみにしてるね!」


「おう。期待してろ」


 そして、和真を見て笑った。


「お前もな。今度こいつでうまいもん作ってやる」


「ああ。楽しみにしてるよ」


「ふっ、任せとけ」


 続いて、ひかげ。


「ひかげにはこれ!」


「……えっ……わ、わたしに……?」


「うん!」


 フェンリスが渡したのは、淡い色合いの柔らかなマフラーだった。


「北海道で見つけたんだ!」


「……わぁ……」


 ひかげは両手でそっと受け取った。


「……かわいい……」


「ひかげに似合うと思ってさ」


 和真が笑いながら言う。


「……えっ……」


 ひかげの頬が赤く染まった。


「……和真さんが……選んでくれはったんですか……?」


「ああ。フェンリスと一緒にね」


「……そ、そうなんや……」


 ひかげはマフラーを胸元へ抱きしめた。


「……ありがとう……ございます……」


 そして、小さく微笑む。


「……めっちゃ……嬉しいです……」


「えへへ! よかった!」


「……大事に……使わせてもらいます……」


 ひかげは嬉しそうにマフラーを眺めていた。


 ◇ ◇ ◇


「ピピにはこれ!」


「僕の!?」


「うん!」


 フェンリスが袋を差し出す。


 ピピが中を覗き込むと――。


「わぁぁっ!」


 嬉しそうな声が響いた。


「お菓子! いっぱい!」


「北海道限定のお菓子だよ!」


「やったー!」


 ピピは目を輝かせた。


「僕、これ食べたい!」


 早速袋を開けようとする。


 すると、和真が笑いながら声をかけた。


「ピピ、もうすぐ夕飯だからな。食べすぎないように」


「えーっ!」


 ピピは頬を膨らませた。


「少しだけ!」


「少しだけならいいよ」


「やった!」


 ピピは嬉しそうに一つ取り出した。


「おいしい!」


「ははっ。よかったな」


 ◇ ◇ ◇


「あおい」


「……ん?」


 和真が声をかける。


「これ、あおいに」


 差し出したのは、小さな細長い箱だった。


「……妾にかえ?」


「ああ」


 あおいは箱を受け取ると、ゆっくり蓋を開けた。


 中に入っていたのは、雪の結晶をあしらった美しい栞だった。


 繊細な銀色の装飾が、光を受けて静かに輝いている。


「……ほう……」


 あおいは目を細めた。


「なんと美しい……」


「気に入ってくれた?」


「うむ」


 あおいは栞をそっと持ち上げた。


「これは、和真が選んだのかえ?」


「ああ。あおいに似合うと思って」


「……っ」


 あおいの頬が、ほんのり赤くなる。


「……そうか」


 小さく呟き、栞を胸元へ寄せた。


「……ありがとう、和真」


「どういたしまして」


「ふふっ。大切にするのじゃ」


 あおいは柔らかく微笑んだ。


 しかし、その視線がふとフェンリスへ向く。


 フェンリスは和真の隣に座り、当然のようにその腕へ抱きついていた。


 しかも、今まで以上に幸せそうな顔をしている。


「……ふむ……」


 あおいは小さく目を伏せた。


 和真が自分のことを考えて、栞を選んでくれた。


 それは、とても嬉しい。


 けれど――。


 目の前で幸せそうに寄り添う二人を見ると、胸の奥がちくりと痛んだ。


 京都で過ごした夜。


 和真と交わした長い口づけ。


 あの温もりは、今でも忘れられない。


 なのに今、フェンリスは自分よりもずっと和真の近くにいるように見えた。


「……むぅ……」


 あおいは小さく頬を膨らませた。


「ん? あおい?」


「……なんじゃ?」


「どうかした?」


「……何でもないのじゃ」


 あおいはすぐに微笑んだ。


「それより、本当に嬉しいぞ。礼を言うのじゃ」


「そっか。よかった」


 和真が笑う。


 あおいはその笑顔をじっと見つめたあと、栞を大切そうに箱へ戻した。


 ◇ ◇ ◇


「さて、最後はユエだな」


 和真が別の袋を取り出した。


「……私にもあるの?」


「当たり前だろ」


 和真が笑う。


「ユエにもちゃんと買ってきたよ」


「そう。ありがとう」


 ユエが袋を開けると、中には北海道の銘菓が入っていた。


「何がいいか迷ったんだけどさ。お菓子ならみんなで食べられるかなと思って」


「ええ。いい選択だと思うわ」


 ユエは中身を確認すると、小さく微笑んだ。


「ありがとう、和真。フェンリスもね」


「えへへ! どういたしまして!」


 フェンリスが元気よく答える。


 ユエはそんな二人を見つめた。


「それにしても……ずいぶんと楽しい旅行だったようね」


「ああ。色々あったけど、いい思い出になったよ」


「うん! すっごく楽しかった!」


「……そう」


 ユエは少しだけ目を細めた。


 和真の隣で、幸せそうに笑っているフェンリス。


 そして、彼女を見る和真の穏やかな表情。


 ユエは何かを察したようだった。


 けれど、今は何も言わなかった。


 ◇ ◇ ◇


「ねえねえ! 写真も見せてよ!」


 お土産を渡し終えると、みゆが身を乗り出してきた。


「僕も見たい!」


 ピピも目を輝かせる。


「うん! いっぱい撮ったんだよ!」


 フェンリスは嬉しそうに端末を取り出した。


 画面には、六日間の思い出がぎっしりと詰まっていた。


 初日に訪れた観光地。


 函館の街並み。


 雪に包まれた五稜郭。


 美味しかった料理。


 そして、和真とフェンリスが並んで写る数々の写真。


「わぁ……!」


 みゆが画面を覗き込む。


「綺麗だね!」


「でしょ!」


 フェンリスは嬉しそうに画面を操作した。


「これがね、雪景色! こっちは夜に撮った写真!」


「へえ、いいじゃないか」


 ナディアも興味深そうに覗き込む。


「俺様も行ってみたくなるな」


「うん! すっごく綺麗だったよ!」


 次々と写真が切り替わる。


 すると――。


「あれ?」


 みゆが首を傾げた。


「……なんかさ、二人で撮った写真、多くない?」


「うん!」


 フェンリスは嬉しそうに頷いた。


「和真といっぱい撮ったんだ!」


「……へぇ……」


 みゆの耳がぴくりと動く。


 その隣で、ナディアも画面をじっと見つめていた。


「……おい、和真」


「ん?」


「お前、随分とフェンリスにくっつかれてるじゃないか」


「……まあ、そうだな」


「ふーん……」


 ナディアは口元に笑みを浮かべた。


「ずいぶん仲良くなったようだな?」


「えへへ!」


 フェンリスは照れくさそうに笑う。


「だって、和真とずっと一緒だったんだもん!」


「……なるほどな」


 ナディアは小さく頷いた。


 みゆもにっこりと笑う。


「ねえ、ナディア」


「ん?」


「あとでさ、和真にちょっと聞きたいことがあるんだけど」


「奇遇だな。俺様もだ」


「……?」


 和真は首を傾げた。


「……何の話?」


「んふふ。あとでね?」


「そうだな。あとでゆっくり聞かせてもらおう」


 二人が揃って微笑む。


 しかし――。


 その笑顔が、妙に怖い。


「…………」


 和真は何となく背筋が冷たくなった。


 一方、フェンリスはそんな二人の様子など気にも留めていなかった。


「見て見て! これが昨日作った雪だるま!」


 画面には、雪だるまと並んで笑うフェンリスが写っていた。


「わぁ! かわいい!」


「こっちがかまくら!」


「ええっ! こんなに大きいの!?」


「うん! 和真と一緒に入ったんだ!」


 ピピが興奮気味に画面を覗き込む。


「すごい! 僕も入りたい!」


「えへへ! 中、結構広かったんだよ!」


 ひかげも興味深そうに写真を眺めていた。


「……わぁ……ほんまに……入れるんやね……」


「うん! 中で写真も撮ったよ!」


 フェンリスが画面を切り替える。


 そこには、かまくらの中で肩を寄せ合う二人の姿。


 そして――。


「……あれ?」


 みゆの耳が、ぴんっと立った。


 次の写真。


 フェンリスが和真の頬にキスをしている写真だった。


「…………」


「…………」


 みゆとナディアが無言になる。


 しかし、フェンリスは嬉しそうに笑っていた。


「えへへ! これ、今日撮ったんだ!」


「……今日?」


 みゆが静かに尋ねる。


「うん! 帰る前に!」


「……へぇぇ……」


 みゆの尻尾が、ゆっくりと揺れた。


 ナディアも画面を見つめたまま、口を開く。


「……おい、和真」


「……な、何?」


「ずいぶん楽しんできたみたいじゃないか?」


「……ま、まあな……」


「ふふっ。そうか、そうか」


 ナディアが笑う。


 みゆも笑う。


 ただし、二人とも目が笑っていない。


 和真は思わず視線を逸らした。


 そんな空気などまったく気づかず、フェンリスは次の写真を探している。


「ねえねえ! ほかにもいっぱいあるんだよ!」


「……うん。あとで全部見せてね?」


 みゆがにっこり微笑む。


「ああ。俺様もじっくり見せてもらおうかな」


「うん!」


 フェンリスは嬉しそうに頷いた。


 和真は小さく息を吐く。


 ――これは……。


 ――間違いなく、何かあるな……。


 楽しかった北海道旅行。


 その余韻に浸る間もなく、帰宅したばかりの和真には、新たな騒動の気配が近づいていた。


 そして、その予感は――。


 夕食後、見事に的中することになるのだった。


 ◇ ◇ ◇


「みんなー! 夕飯できたぞー!」


 台所から酒菜の声が響いた。


「やったぁ! ご飯!」


 真っ先に反応したのはフェンリスだった。


 大きな尻尾を嬉しそうに揺らしながら、和真の腕を引っ張る。


「和真! 早く行こ!」


「ははっ。そんなに慌てなくても料理は逃げないよ」


「だって、酒菜のご飯久しぶりなんだもん!」


「そうだな。俺も楽しみだよ」


 二人は笑いながら食堂へ向かった。


 食卓には、酒菜が腕によりをかけて作った料理が並んでいた。


 湯気を立てる炊き込みご飯。


 具だくさんの豚汁。


 香ばしく焼き上げられた魚。


 色鮮やかな煮物に、揚げたての天ぷら。


 どれも食欲をそそるものばかりだった。


「わぁぁぁっ!」


 フェンリスの目が輝く。


「すっごくおいしそう!」


「ははっ! そりゃよかった!」


 酒菜は嬉しそうに笑った。


「北海道でうまいもん食ってきたんだろ? 帰ってきた初日くらい、俺の料理もたっぷり食ってくれよな!」


「もちろん!」


 フェンリスは元気よく頷いた。


 和真も料理を見渡し、感心したように呟く。


「すごいな、酒菜。こんなに作ってくれたのか」


「おう! 二人が帰ってくるって聞いたからな!」


「ありがとう」


「気にすんな。ほら、冷める前に食え!」


 全員が席につく。


 フェンリスは当然のように和真の隣へ座った。


 反対側にはみゆ。


 そして、その隣にはナディアが座っている。


「それじゃあ、いただきます!」


「「「いただきまーす!」」」


 賑やかな夕食が始まった。


 ◇ ◇ ◇


「んん〜っ!」


 一口食べたフェンリスが、幸せそうに頬を緩めた。


「おいしいぃ!」


「ははっ! いい食いっぷりだな!」


 酒菜が笑う。


「北海道でもいっぱい食べてきたんだろ?」


「うん! 海鮮丼もお寿司もラーメンも、すっごくおいしかった!」


「そりゃよかったな!」


「でもね、酒菜のご飯も大好き!」


「おっ、嬉しいこと言ってくれるじゃねぇか!」


 酒菜は満足そうに笑った。


 そんなやり取りを見ていたリディアが、フェンリスへ優しく声をかける。


「食欲もしっかり戻ったようですね。安心しました」


「えへへ! もう大丈夫だよ!」


「それはよかったです。でも、無理だけはしないでくださいね」


「うん! 約束!」


 フェンリスは元気よく答えた。


 その隣で、和真も安心したように微笑んでいた。


 少し前まで、食事も取らずに無理を重ねていたフェンリス。


 今、こうして元気に食べている姿を見るだけで、胸が温かくなる。


「……和真?」


「ん?」


「どうしたの?」


「いや、おいしそうに食べるなと思って」


「えへへ!」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


「だって、本当においしいんだもん!」


「そっか」


「和真もいっぱい食べてね!」


「ああ」


 そんな二人のやり取りを、みゆはじっと見つめていた。


「……むぅ」


 猫耳がぴくりと動く。


 そして、和真の袖をちょんちょんと引いた。


「ねえ、和真」


「ん?」


「僕も久しぶりに和真と一緒にご飯食べられて嬉しいよ?」


「……え?」


 突然の言葉に、和真が目を丸くする。


 みゆは頬を膨らませた。


「だって、フェンリスばっかり見てるんだもん」


「ああ、ごめんごめん」


「……むぅ」


 みゆは少し拗ねたように和真へ身体を寄せる。


「僕だって、ずっと和真が帰ってくるの待ってたんだからね?」


「うん。ありがとう、みゆ」


 和真が優しく微笑むと、みゆの頬が赤くなった。


「……えへへ」


 嬉しそうに笑うみゆ。


 しかし――。


「……むぅ」


 今度はフェンリスの尻尾が揺れた。


 みゆが和真へ寄り添っている。


 それを見ると、何だか少しだけ面白くない。


「……和真」


「ん?」


「僕も、もっとくっついていい?」


「……今、ご飯食べてるだろ?」


「じゃあ、食べ終わったら!」


「ははっ。わかったよ」


「えへへ!」


 フェンリスは満足そうに笑った。


 その光景を見ていたナディアが、呆れたように息を吐く。


「おいおい。二人とも、少しは和真を休ませてやれよ」


「だってぇ!」


「僕だって!」


 二人が同時に答える。


「……まったく」


 ナディアは肩をすくめた。


 しかし、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。


「まあ、気持ちはわからなくもないがな」


「……ナディア?」


 和真が首を傾げる。


 ナディアはにやりと笑った。


「何でもないさ。ほら、せっかくの料理が冷めるぞ」


「……ああ」


 和真は再び箸を手に取った。


 ◇ ◇ ◇


 食事が進むにつれて、話題は北海道旅行の思い出へと移っていった。


「それでね! 雪合戦もしたんだ!」


 フェンリスは身振り手振りを交えながら楽しそうに話していた。


「和真に雪玉投げたら、すっごく驚いてた!」


「そりゃ驚くよ。いきなり投げてきたんだから」


「えへへ!」


 ピピが目を輝かせる。


「いいなぁ! 僕も雪合戦したい!」


「今度みんなでやりたいね!」


「うん!」


 ひかげも小さく微笑んだ。


「……楽しそうやね……」


「ひかげも一緒にやろうよ!」


「……えっ……わ、私も……?」


「もちろん!」


「……ふふ……うん……」


 そんな話を聞きながら、あおいは静かに食事を進めていた。


 時折、和真とフェンリスへ視線を向ける。


 何かを確かめるように。


 そして、すぐに目を伏せた。


 一方、ユエは黙って食事を続けていた。


 ただ、みゆとナディアが何度も和真へ視線を送っていることには、気づいていた。


「……はぁ」


 小さなため息。


 ユエは何も言わず、湯飲みへ手を伸ばした。


 ◇ ◇ ◇


 夕食を終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。


「ごちそうさまでした!」


 フェンリスが元気よく手を合わせる。


「おう! たくさん食ってくれてありがとな!」


 酒菜が笑う。


「和真も、今日は早めに休めよ」


「ああ。そうするよ」


 六日間の旅行。


 飛行機での移動。


 帰宅してからの荷物整理。


 さすがに少し疲れが溜まっていた。


 和真は立ち上がり、軽く伸びをする。


「さて……そろそろ部屋に戻ろうかな」


 すると――。


「……ねえ、和真」


 みゆが声をかけた。


「ん?」


「ちょっと、いい?」


「どうした?」


 みゆはにっこりと笑った。


「少しお話ししたいんだけど」


「話?」


「うん。僕とナディアから」


 和真が振り返る。


 そこには、腕を組んだナディアが立っていた。


「おう。ちょっと付き合ってもらおうか」


「……?」


 和真は二人を交互に見つめた。


「何かあった?」


「ふふっ。まあ、ちょっとな」


 ナディアが笑う。


「旅行のことを、もう少し詳しく聞きたくてさ」


「……旅行?」


「うん!」


 みゆが元気よく頷いた。


「ねえ、いいでしょ?」


「……まあ、いいけど」


 和真は少し不思議そうに首を傾げた。


 しかし、断る理由もない。


「じゃあ、ちょっとだけな」


「やった!」


 みゆが嬉しそうに笑う。


 そのときだった。


「僕も行く!」


「……え?」


 三人が振り返る。


 そこには、フェンリスが立っていた。


「フェンリス?」


「僕も一緒に行く!」


 そう言って、和真の腕へぎゅっと抱きついた。


「いや、俺が呼ばれたんだけど……」


「だって、旅行の話するんでしょ?」


「……まあ、そうだけど」


「だったら僕も一緒がいい!」


 フェンリスは満面の笑みを浮かべた。


 みゆとナディアが顔を見合わせる。


「……ねえ、ナディア」


「ああ」


 二人は何やら考え込む。


 そして――。


「……ま、いっか!」


 みゆがにっこり笑った。


「フェンリスも一緒においでよ」


「うん!」


 ナディアも口元に笑みを浮かべる。


「そうだな。本人がいた方が、話も早そうだ」


「……?」


 和真は何となく嫌な予感を覚えた。


 しかし、フェンリスは嬉しそうに和真の腕へしがみついている。


「和真! 行こ!」


「……ああ」


 こうして四人は、ほかの住人たちから少し離れた部屋へと向かった。


 ◇ ◇ ◇


 部屋に入ると、和真は椅子へ腰を下ろした。


 その隣には、当然のようにフェンリス。


 正面には、みゆとナディアが並んで座っている。


「……それで?」


 和真が口を開いた。


「話って何?」


「んふふ……」


 みゆが笑う。


 ナディアも、何やら楽しそうに微笑んでいた。


 しかし、その笑顔には少しばかり不穏なものが混じっている。


「……和真」


「ん?」


 みゆが身を乗り出した。


「北海道、楽しかった?」


「ああ。すごく楽しかったよ」


「そっかぁ」


 みゆはにっこり笑う。


「……じゃあさ」


 一拍置いて。


「フェンリスと、どこまで仲良くなったの?」


「…………え?」


 和真の動きが止まった。


 ナディアも腕を組み直す。


「俺様も気になってたんだ。出発前と帰ってきたあとじゃ、二人の雰囲気が全然違うからな」


「……そ、そうか?」


「ああ。見ればわかるぞ」


 ナディアがにやりと笑う。


「特にフェンリス。お前、ずいぶん幸せそうじゃないか」


「えへへ……!」


 名前を呼ばれたフェンリスは、嬉しそうに頬を緩めた。


「うん! 僕ね、すっごく幸せなんだ!」


「……へぇ?」


 みゆの耳がぴくりと動く。


「何かあったの?」


「うん!」


 フェンリスが勢いよく頷いた。


「実はね!」


「……っ!」


 和真が慌てて口を開く。


「フェ、フェンリス!?」


「ん?」


「いや、その……!」


「どうしたの?」


 フェンリスは不思議そうに首を傾げた。


 みゆとナディアの視線が和真へ向く。


「……和真?」


「おい、何を慌ててるんだ?」


「……いや……」


 和真は額に手を当てた。


 どう説明すればいいのだろう。


 みゆとナディアには、今までのこともある。


 フェンリスと恋人になったことを、隠しておくつもりはなかった。


 けれど、伝え方というものがある。


 少なくとも、こんなふうに突然切り出すことになるとは思っていなかった。


 しかし――。


「えへへ!」


 フェンリスは幸せそうに笑った。


「僕ね、和真に好きって言ったんだ!」


「…………」


 みゆの笑顔が止まった。


 ナディアの眉がわずかに動く。


「……ほう?」


「それでね! 和真も僕のこと好きって言ってくれたの!」


「……え?」


 みゆが小さく呟く。


「……和真が?」


「うん!」


 フェンリスは嬉しそうに頷いた。


「僕のこと、大好きだって!」


「…………」


 みゆの猫耳が、ゆっくりと伏せられた。


 ナディアは口元に笑みを浮かべたまま、和真を見る。


「……おい、和真」


「……はい」


「本当なのか?」


「……ああ」


 和真は静かに頷いた。


「フェンリスに、自分の気持ちを伝えたよ」


「……そうか」


 ナディアが小さく息を吐く。


 その横で、みゆが俯いた。


「……そっかぁ……」


 少しだけ、声が震えていた。


 けれど――。


「……それでね!」


 フェンリスの話は、まだ終わっていなかった。


「三日目の夜にね、僕、すっごく勇気を出したんだ!」


「……三日目?」


 みゆが顔を上げる。


「うん!」


 フェンリスは頬を赤く染めた。


「和真と一緒にお風呂に入って……そのあと……」


「…………」


 ナディアが黙り込む。


 和真は嫌な予感しかしなかった。


「フェンリス、その話は……」


「僕ね……」


 フェンリスは恥ずかしそうに指先を合わせた。


「……和真に、抱いてほしいってお願いしたんだ」


「…………」


「…………」


 部屋が静まり返った。


 みゆの尻尾がぴたりと止まる。


 ナディアも目を見開いていた。


「……え?」


 みゆが小さく声を漏らす。


「……抱いてって……?」


「う、うん……」


 フェンリスは顔を真っ赤にしながら頷いた。


「最初はね、和真もすっごく悩んでたんだけど……」


 そこで、和真を見上げる。


「ちゃんと僕の気持ちを聞いてくれて……」


 そして、とても幸せそうに微笑んだ。


「……僕たち、恋人になったんだ」


「…………」


「……それで、和真と……愛し合ったの」


 みゆの表情が固まった。


 ナディアは腕を組んだまま、天井を仰いだ。


「……あー……」


 何とも言えない沈黙。


 和真は両手で顔を覆いたくなった。


 しかし、フェンリスはまだ嬉しそうに話していた。


「それにね!」


「……まだあるの?」


 みゆが尋ねる。


「うん!」


 フェンリスは和真の腕に抱きつく。


「和真がね、僕のことが一番好きだって言ってくれたんだ!」


「…………」


「…………」


 今度こそ、完全な沈黙が訪れた。


 そして――。


「……へぇぇぇ……」


 みゆが、ゆっくりと顔を上げた。


「……そうなんだぁ……」


 にっこり。


 笑顔だった。


 ただし、耳は完全に伏せられ、尻尾は大きく左右に揺れている。


「……フェンリスが、一番なんだぁ……?」


「……っ!」


 和真の背筋が凍った。


 ナディアも、ゆっくりと顔を和真へ向ける。


「……ほぉぉ……」


 そして、口元を吊り上げた。


「なるほどなぁ……」


「……ナディア?」


「俺様たちを差し置いて、フェンリスが一番ってわけか?」


「……い、いや……!」


 和真が慌てて口を開く。


 しかし、ナディアはさらに続けた。


「へえ。そうかそうか。なかなか言ってくれるじゃないか、和真」


「ちょ、ちょっと待ってくれ!」


「ん?」


 みゆが首を傾げる。


「何を待つの?」


「いや……ちゃんと説明するから!」


「……ふーん?」


 みゆは頬を膨らませた。


「僕にも好きって言ってくれたのに……」


「……みゆ……」


「僕だって、和真のこと大好きなのに……」


 その声には、拗ねた気持ちだけではない寂しさが混じっていた。


 みゆは以前、フェンリスに和真との関係を打ち明けている。


 あのとき、フェンリスがどれほど泣いたかも知っていた。


 だから、フェンリスが幸せになれたこと自体は嬉しかった。


 けれど――。


 自分よりも一番に想われていると聞かされると、やはり胸が苦しくなる。


「……ずるいよぉ……」


 みゆが小さく呟いた。


 ナディアも珍しく、少し不満そうな表情を浮かべている。


「おい、和真」


「……何?」


「俺様とのことも、忘れたわけじゃないだろうな?」


「忘れてないよ!」


「だったら……」


 ナディアは少しだけ目を細めた。


「俺様の気持ちも、ちゃんと考えてくれよな」


「……ああ」


 和真は静かに頷いた。


「わかってる」


 その返事に、ナディアはふっと息を吐いた。


 けれど、そこで話が終わるほど簡単ではなかった。


 何しろ――。


「えへへ……」


 フェンリスが、まだ幸せそうに笑っている。


「……フェンリス?」


 みゆがゆっくり顔を向ける。


「ん?」


「……ちょっと嬉しそうすぎない?」


「えっ?」


 フェンリスはきょとんとした。


「だって……嬉しいんだもん」


「……むぅぅ……!」


 みゆの頬が膨らむ。


「僕だって嬉しいこといっぱいあったんだからね!」


「僕もいっぱいあったよ!」


「だからぁ!」


 みゆが身を乗り出す。


「……もう!」


 その様子を見ていたナディアが、大きくため息をついた。


「……まったく。こうなったら仕方ないな」


「……?」


 三人がナディアを見る。


 ナディアは腕を組み直した。


「なあ、フェンリス」


「なぁに?」


「ひとつ提案があるんだが」


「……提案?」


「ああ」


 ナディアはにやりと笑った。


「今回、お前は和真と六日間も二人きりだったわけだろ?」


「……うん」


「それも、旅行中に恋人になって、ずいぶん甘えたようじゃないか」


「えへへ……うん!」


「だったらさ」


 ナディアは指を一本立てた。


「帰ってきた数日くらい、俺様とみゆに和真を譲ってくれないか?」


「…………え?」


 フェンリスの笑顔が止まった。


 みゆがぱっと顔を上げる。


「あっ! それいい!」


「だろ?」


 ナディアが笑う。


「六日間も独り占めしたんだ。少しくらい譲ってくれてもいいだろ?」


「そうそう!」


 みゆも身を乗り出した。


「僕たち、ずっと和真が帰ってくるの待ってたんだよ?」


「……えっと……」


 フェンリスが目をぱちぱちさせる。


「だからさ、何日かだけ僕たちに譲って?」


 みゆは可愛らしく首を傾げた。


「ね? いいでしょ?」


 しかし――。


「やだっ!」


 即答だった。


「……え?」


 みゆの笑顔が固まった。


「絶対やだ!」


 フェンリスは和真の腕にぎゅっと抱きついた。


「僕、今日も和真と一緒に寝るもん!」


「ええーっ!?」


 みゆが声を上げる。


「六日間も一緒にいたんでしょ!?」


「六日間一緒だったけど、今日も一緒がいいの!」


「ずるいよぉ!」


「ずるくないもん!」


 フェンリスは頬を膨らませた。


「だって、和真は僕の恋人だもん!」


「僕だって和真のこと好きなんだから!」


「僕だって大好きだもん!」


「むぅぅ!」


「むぅぅ!」


 二人が睨み合う。


 ナディアはその様子を見て、額に手を当てた。


「……おいおい、二人とも」


 そして、フェンリスを見つめる。


「なあ、フェンリス。俺様たちだって少しは甘えたいんだぞ?」


「……でも!」


 フェンリスは和真の腕を離さなかった。


「僕、ずっと我慢してたんだもん!」


「……!」


 みゆの表情が変わる。


 フェンリスは唇を尖らせた。


「和真のことが好きで……でも、どうしたらいいかわからなくて……いっぱい泣いたんだもん……!」


「……フェンリス……」


「やっと好きって言ってもらえたのに……!」


 フェンリスの目が少し潤む。


「……まだ、いっぱい甘えたいんだもん……」


 みゆは一瞬、何も言えなくなった。


 あの夜。


 和真との関係を打ち明けたとき、フェンリスが泣き崩れた姿を覚えている。


 自分の腕の中で、声を上げて泣いていたフェンリス。


 だからこそ、その言葉が胸に刺さった。


「……それは……」


 みゆは少し俯いた。


「……わかってるけど……」


 けれど、すぐに顔を上げる。


「……でも、僕も寂しかったんだよ?」


「……みゆ……」


「六日間も和真に会えなくて……本当はすっごく寂しかったんだから……」


 みゆの猫耳が伏せられる。


「……帰ってきたら、いっぱい甘えようと思ってたのに……」


 ナディアも腕を組んだまま、小さく頷いた。


「俺様だって同じだ。別にフェンリスの幸せを邪魔したいわけじゃない」


「……うん……」


「だがな、少しくらいこっちの気持ちも考えてくれよ」


「……でもぉ……」


 フェンリスは和真の腕をぎゅっと抱いた。


「……今日だけは、絶対に一緒に寝たい……!」


「今日だけって言って、明日も同じこと言うんでしょ!?」


 みゆがすかさず突っ込む。


「……うん!」


「正直すぎるよぉ!」


「だって本当だもん!」


「もうっ!」


 再び言い合いが始まった。


 ◇ ◇ ◇


「……あのー……」


 和真がおずおずと手を上げた。


「ちょっといいかな?」


「何!?」


「なんだ!?」


「和真は僕と寝るんだよ!」


 三人が同時に振り向く。


「……いや……」


 和真は困ったように笑った。


「そもそも、俺の意見は……?」


「…………」


 一瞬の沈黙。


 しかし――。


「和真はちょっと黙ってて!」


 みゆが頬を膨らませる。


「そうだな。今は俺様たちの話だ」


 ナディアも頷いた。


「和真は僕と寝るの!」


 フェンリスまで、きっぱりと言い切った。


「…………」


 和真は天井を見上げた。


 ――俺の話なのに、何で俺が一番蚊帳の外なんだ?


 思わずため息が漏れる。


「……いや、だからさ」


 和真はもう一度口を開いた。


「三人とも、ちょっと落ち着いてくれない?」


「僕は落ち着いてるよ!」


「僕だって!」


「俺様も冷静だぞ!」


「……どこが?」


 和真の呟きは、誰にも届かなかった。


「とにかく! 僕、譲らないからね!」


 フェンリスが宣言する。


「えーっ! ずるい!」


 みゆも負けじと言い返す。


「俺様にだって順番くらい回ってきてもいいだろう!」


 ナディアまで声を上げる。


「順番なんて嫌だもん!」


「じゃあどうするのさ!」


「僕がずっと一緒に寝る!」


「それがずるいって言ってるんだよぉ!」


 言い合いは、ますます激しくなっていった。


 和真は完全に頭を抱えていた。


 ――どうしてこうなった……。


 つい数時間前まで、フェンリスと北海道旅行の思い出に浸っていたというのに。


 帰宅したその日の夜に、こんな騒ぎになるとは。


「……はぁ……」


 和真は大きくため息をついた。


 そのときだった。


「……あなたたち」


 突然、部屋の入口から静かな声が響いた。


「「「……っ!?」」」


 三人の動きがぴたりと止まる。


 和真も振り返った。


 そこに立っていたのは――。


「……ユエ?」


 ユエだった。


 ◇ ◇ ◇


 ユエは腕を組み、四人を静かに見つめていた。


 表情は穏やかだった。


 けれど――。


 その目が、まったく笑っていない。


「……随分と楽しそうね」


「……あ……」


 みゆの耳がゆっくりと伏せられる。


 フェンリスの尻尾も、ぴたりと止まった。


 ナディアは気まずそうに視線を逸らす。


「……ユエ。これはだな……」


「言い訳はあとで聞くわ」


「……っ」


 ナディアが口を閉じた。


 ユエは大きく息を吐く。


「まったく……廊下まで声が聞こえていたわよ」


「……ご、ごめん……」


 みゆが小さく謝る。


 しかし、ユエは首を振った。


「問題は騒いでいたことだけじゃないわ」


 そして、三人を順番に見つめた。


「……あなたたち、自分が何を言っていたのかわかってる?」


「……え?」


 フェンリスが首を傾げる。


 ユエは静かに続けた。


「譲るだの、順番だの、独り占めだの……」


 そこで、一度言葉を切る。


「和真は、あなたたちの持ち物じゃないのよ?」


「…………!」


 三人の表情が固まった。


「和真にだって気持ちがある。自分の意思がある。それなのに、誰と一緒に寝るかをあなたたちだけで決めるつもり?」


「……そ、それは……」


 みゆが口ごもる。


「……だって……」


 フェンリスも俯いた。


 ユエはさらに続けた。


「好きな人と一緒にいたい。その気持ちはわかるわ。嫉妬することだってあるでしょう」


 少しだけ声を柔らかくする。


「でもね、それを理由に相手の気持ちを無視していいわけじゃないの」


「…………」


「三人とも、そこを勘違いしていない?」


 誰も答えられなかった。


 ユエは小さくため息をつく。


「……和真」


「……は、はい」


 和真が背筋を伸ばす。


 ユエはまっすぐ見つめた。


「あなたにも言いたいことはあるわ」


「……うん」


「以前、金沢で話したこと。忘れていないわよね?」


「……忘れてない」


「そう」


 ユエは静かに頷く。


「なら、今夜は自分でもう一度考えてみなさい」


「……わかった」


「それと……」


 ユエの目が細くなる。


「今夜は自分の部屋に戻って、一人で休みなさい」


「……え?」


 和真が目を丸くした。


 すると――。


「ええっ!?」


 フェンリスが声を上げた。


「で、でも! 僕、今日も和真と一緒に……!」


「フェンリス」


「……っ!」


 ユエが静かに名前を呼んだ。


 たったそれだけで、フェンリスは口を閉じた。


「……今夜は我慢なさい」


「……うぅ……」


 フェンリスの耳がぺたりと垂れる。


 みゆも慌てて口を開いた。


「じゃ、じゃあ僕も……!」


「みゆも同じよ」


「……うぅ……」


 猫耳がしゅんと伏せられた。


 ナディアが小さく肩をすくめる。


「……まったく。とんだとばっちりだな」


「ナディア?」


「……何でもない」


 ユエに見つめられ、ナディアはすぐに口を閉じた。


 その様子を見て、和真は思わず苦笑した。


 しかし――。


「……和真」


「……はい」


「笑っていないで、部屋へ戻りなさい」


「……あ、はい」


 和真は慌てて立ち上がった。


 すると、フェンリスが寂しそうに腕を伸ばす。


「……和真ぁ……」


「……フェンリス」


 和真は困ったように微笑んだ。


「今日はゆっくり休もうな」


「……うぅ……」


 フェンリスは小さく頷いた。


「……わかった……」


 その横で、みゆも頬を膨らませている。


「……せっかく帰ってきたのにぃ……」


 ナディアも不満そうだった。


「……やれやれ。今日はついてないな」


 しかし――。


「……さて」


 ユエが静かに口を開いた。


「和真がいなくなったところで、あなたたちにはもう少し話があるわ」


「……え?」


 三人が同時に顔を上げる。


「……ま、まだあるの?」


 みゆが恐る恐る尋ねた。


「当然でしょう?」


 ユエはにっこりと笑った。


「まさか、これで終わりだと思っていたの?」


「…………」


「…………」


「…………」


 三人の顔から、血の気が引いた。


 和真は扉の前で、その光景を見つめていた。


 ――ああ……。


 ――これは長くなりそうだな……。


「……じゃ、じゃあ俺はこれで……」


「ええ。おやすみ、和真」


「……おやすみ」


 和真は静かに扉を閉めた。


 そして、廊下を歩き始める。


 しかし、数歩進んだところで――。


「……みゆ」


 閉じた扉の向こうから、ユエの声が聞こえてきた。


「……は、はい……」


「まず、あなたからね」


「……ええっ!?」


 和真は思わず足を止めた。


 けれど、すぐに首を振る。


 ――……俺が戻ったら、余計に怒られそうだな。


 そう考え、自室へ向かって歩き始めた。


 ◇ ◇ ◇


 一方、その頃。


 部屋に残された三人は、ユエの前で揃って正座していた。


「……さて」


 ユエは椅子に腰を下ろし、三人を見渡した。


「まずは、みゆ」


「……は、はい……」


 みゆの尻尾が小さく揺れる。


「あなたが寂しかったのはわかるわ。和真が六日間も留守にしていたんだものね」


「……うん……」


「でも、だからといってフェンリスに和真を譲るよう迫るのは違うでしょう?」


「……それは……」


 みゆは俯いた。


「……ごめんなさい……」


「謝る相手は私じゃないわよ」


「……うん……」


 ユエは静かに続ける。


「それに、あなたはフェンリスがどれほど苦しんでいたか、知っているでしょう?」


「……っ!」


 みゆの表情が変わった。


 あの夜。


 フェンリスへ和真との関係を打ち明けたとき。


 自分の腕の中で、声を上げて泣いていたフェンリス。


 その姿を、みゆは忘れていなかった。


「……知ってる……」


 みゆは小さく呟いた。


「……でも……僕だって……」


「ええ。あなたにも気持ちがある。それは否定しないわ」


 ユエは少しだけ声を柔らかくした。


「ただ、その気持ちを伝える方法は、もっとあるでしょう?」


「……うん……」


「和真に寂しかったと伝えればいい。甘えたいなら、そう言えばいいのよ」


 そして、少し厳しい表情に戻る。


「それをフェンリスとの取り合いにして、和真を困らせる必要はないでしょう?」


「……はい……」


 みゆはしゅんと俯いた。


 ユエは次にナディアを見る。


「……ナディア」


「……おう」


「あなたは、もう少し考えてから発言しなさい」


「……む」


「今回の騒ぎ、あなたが提案したことも原因でしょう?」


「……まあ、そうだな」


「わかっているなら、どうしてあんなことを言ったの?」


 ナディアは少しだけ口を尖らせた。


「……俺様だって、和真に甘えたかったんだよ」


「それはわかるわ」


「だったら……」


「でも、だからといってフェンリスに譲れと言うのは違うでしょう?」


「…………」


「あなたは普段、みんなのことをよく見ているでしょう? それなのに、自分のことになると随分と余裕がなくなるのね」


「……っ!」


 ナディアの顔が赤くなった。


「そ、それは……!」


「違うの?」


「……むぅ……」


 ナディアは悔しそうに顔を背けた。


 ユエは小さくため息をつく。


「……まったく。あなたまで子供みたいな取り合いをしてどうするの」


「……悪かったよ……」


「反省するなら、次から気をつけなさい」


「……わかった」


 そして――。


「……フェンリス」


「……は、はいっ!」


 フェンリスがびくりと肩を震わせた。


 大きな狼耳がぺたりと伏せられている。


「あなたが和真を大切に思っていることは、よく知っているわ」


「……うん……」


「今回の旅行で、ようやく気持ちが通じ合ったのね?」


「……うん……」


 フェンリスは頬を赤く染め、小さく頷いた。


「……和真が……好きって言ってくれたんだ……」


「そう。それはよかったわね」


 ユエは優しく微笑んだ。


「私も嬉しいわ」


「……ユエ……」


 フェンリスの表情が少し明るくなる。


 しかし――。


「でも、それと独り占めは別の話よ」


「……っ!」


 フェンリスの耳が再び伏せられた。


「恋人になれたからといって、和真があなたの言うことを何でも聞かなければいけないわけじゃないでしょう?」


「……うん……」


「和真には和真の時間がある。ほかの住人たちと過ごす時間だって必要なの」


「……でも……」


 フェンリスが小さく呟く。


「……僕、まだいっぱい甘えたい……」


「ええ。甘えたいなら甘えればいいわ」


「……え?」


 フェンリスが顔を上げる。


 ユエは優しく続けた。


「ただし、和真がいいと言ったときにね」


「…………」


「自分の気持ちばかり押しつけて、相手のことを考えなくなったら、それは愛情とは少し違ってくるわ」


 フェンリスは唇をきゅっと結んだ。


「……うん……」


「それに、あなたは和真の恋人になったのでしょう?」


「……うん……!」


「なら、少しは和真を信じてあげなさい」


「……!」


 ユエは静かに微笑んだ。


「一日一緒に寝られなかったくらいで、和真の気持ちが変わると思う?」


「……思わない……」


「そうでしょう?」


「……うん……」


 フェンリスは俯いた。


 けれど、しばらくしてから小さく頷く。


「……僕、ちょっとわがままだったかも……」


「気づけたなら、それでいいわ」


 ユエはそう言って微笑んだ。


 しかし――。


「……さて」


 三人が顔を上げる。


「ここまでは、それぞれの問題ね」


「……え?」


 みゆが首を傾げた。


 ユエは腕を組み直す。


「まだ一番大切な話が残っているわ」


「……ま、まだ……?」


 フェンリスの声が震える。


「ええ」


 ユエは三人をまっすぐ見つめた。


「あなたたち、本当にお互いを大切にする気があるの?」


「…………!」


 三人の表情が変わった。


「みゆも、ナディアも、フェンリスも。和真が好きなのはわかるわ」


 ユエは静かに続けた。


「でも、だからといって、相手を傷つけても構わないと思っているわけじゃないでしょう?」


「……うん……」


 みゆが小さく頷く。


「……そんなつもりは……」


 ナディアも俯いた。


「……僕も……」


 フェンリスの尻尾がしゅんと垂れる。


 ユエは三人を見渡した。


「だったら、どうしてあんな言い合いになるの?」


「…………」


「相手の気持ちを聞こうともしないで、自分の気持ちばかり主張して……」


 ユエは少しだけ声を強めた。


「……それで、本当に仲良く暮らしていけると思う?」


 三人は何も答えられなかった。


 しばらくの沈黙。


 やがて――。


「……ごめんね、フェンリス」


 みゆが小さく口を開いた。


「……みゆ……?」


「僕、ちょっと意地悪だった……」


 猫耳を伏せたまま、みゆは続ける。


「本当は、フェンリスが幸せになれて嬉しいのに……」


 少しだけ声が震える。


「……羨ましくなっちゃった……」


 フェンリスは目を丸くした。


「……みゆ……」


「……ごめんね……」


 フェンリスは慌てて首を振った。


「ううん! 僕もごめん!」


「……え?」


「僕も、みゆとナディアの気持ち、ちゃんと考えてなかった……」


 フェンリスは少しだけ俯く。


「……だって、嬉しくて……和真とずっと一緒にいたくて……」


 そして、小さく笑った。


「……ちょっと、わがままになっちゃった……」


 その様子を見て、ナディアが大きく息を吐いた。


「……はぁ。まったく」


 二人が振り向く。


 ナディアは少し照れくさそうに頬を掻いた。


「……俺様も悪かったよ」


「……ナディア……」


「フェンリスがやっと幸せになれたってのに、変なこと言っちまったな」


 そう言って苦笑する。


「……悪かった」


 フェンリスは首を振った。


「ううん……!」


 そして、三人は互いの顔を見合わせた。


 少しだけ、気まずい沈黙。


 けれど――。


「……ふふっ」


 みゆが小さく笑った。


「……なんか、僕たち変だったね」


「……そうだな」


 ナディアも苦笑する。


「……えへへ……」


 フェンリスも照れくさそうに笑った。


 そんな三人を見て、ユエはようやく表情を和らげた。


「……まったく」


 そして、静かに微笑む。


「最初から、そうやって話し合えばよかったのよ」


「……うん……」


 三人が揃って頷く。


 しかし、その直後。


「……さて」


 ユエが再び口を開いた。


「それじゃあ、今夜は三人とも自分の部屋で休みなさい」


「……ええっ!?」


 みゆが思わず声を上げる。


「……やっぱり駄目?」


 フェンリスもおずおずと尋ねる。


「当然でしょう?」


 ユエはにっこり笑った。


「反省したからといって、すぐに和真の部屋へ押しかけるつもり?」


「……うぅ……」


「……むぅ……」


「……ちぇっ……」


 三人は揃って肩を落とした。


 ユエは呆れたように息を吐く。


「……本当に、あなたたちは……」


 こうして、帰宅早々始まった三人の争いは、ユエによる長い説教によってようやく幕を閉じた。


 ただし――。


 和真の部屋で眠ることだけは、三人ともきっぱりと禁止されたのだった。


 ◇ ◇ ◇


「……はぁぁ……」


 自室に戻った和真は、大きなため息をついた。


 北海道から帰ってきて、まだ数時間。


 つい今朝まで、フェンリスと雪景色を眺めながら笑い合っていたというのに。


 今では、すっかり別の意味で疲れ果てていた。


「……まさか、帰って早々あんなことになるとはな……」


 ベッドへ腰を下ろす。


 頭に浮かぶのは、先ほどの三人の姿だった。


 フェンリス。


 みゆ。


 ナディア。


 互いに譲らず、誰が自分と一緒に寝るかで言い合っていた。


 しかも、当の本人である自分の意見は、ほとんど聞いてもらえなかった。


「……俺の話だったんだけどなぁ……」


 思わず苦笑する。


 けれど、笑ってばかりもいられなかった。


 みゆの寂しそうな顔。


 ナディアの不満そうな表情。


 そして、和真にしがみつきながら必死に自分の気持ちを訴えていたフェンリス。


 誰の気持ちも、軽く扱っていいものではなかった。


「……ユエの言うとおりか……」


 以前、金沢でユエに言われたこと。


 自分の気持ちと向き合うこと。


 本当に大切なものを見失わないこと。


 その言葉を思い出す。


 北海道で過ごした六日間。


 フェンリスと一緒にいるうちに、和真はようやく自分の気持ちに気づいた。


 彼女が好きだ。


 恋人として、これからも大切にしたい。


 その気持ちは、もう誤魔化すつもりはない。


 けれど――。


「……みゆとナディアにも、ちゃんと向き合わないとな……」


 和真は静かに呟いた。


 二人との間にあった出来事。


 交わした言葉。


 一緒に過ごした時間。


 それらも決して嘘ではない。


 自分が何を望んでいるのか。


 そして、二人にどう向き合うべきなのか。


 いずれ、きちんと話さなければならないだろう。


「……難しいなぁ……」


 和真はゆっくりとベッドへ横になった。


 見上げた天井は、いつもと変わらない。


 旅館の天井とは違う、見慣れた自分の部屋。


 久しぶりに戻ってきた安心感もあった。


「……それにしても……」


 和真はふと、隣の空いた場所へ視線を向けた。


 この六日間。


 毎晩、隣にはフェンリスがいた。


 柔らかな銀色の髪。


 嬉しそうに揺れる狼耳。


 大きな尻尾。


 眠るときには、いつも幸せそうに身体を寄せてきた。


 つい今朝まで、腕の中にあった温もり。


「……なんか、変な感じだな……」


 一人で寝るのは久しぶりだった。


 いつもなら気にもならないはずなのに、今夜は妙にベッドが広く感じる。


「……フェンリス、怒ってないかな……」


 今夜も一緒に寝るつもりだった彼女。


 ユエに止められたとき、ずいぶん寂しそうな顔をしていた。


 思い出すと、少し申し訳なくなる。


 けれど、ユエがああ言った以上、今夜は大人しく休んだ方がいいだろう。


「……明日、ちゃんと話そう」


 そう呟き、和真は目を閉じた。


 飛行機での移動。


 帰宅してからの騒動。


 疲れもあったのだろう。


 やがて、意識がゆっくりと沈み始めた。


 ◇ ◇ ◇


 コン、コン……。


「……ん……?」


 小さな音が聞こえた。


 和真は薄く目を開けた。


 コン、コン……。


 今度は、はっきりと聞こえる。


 どうやら、誰かが部屋の扉を叩いているようだった。


「……誰だろ……」


 和真はゆっくりと身体を起こした。


 時計を見る。


 もう、かなり遅い時間だった。


「……ユエかな?」


 先ほどの説教が終わったのだろうか。


 それとも――。


「……フェンリス?」


 あるいは、みゆかナディアか。


 三人とも、今夜は自分の部屋で休むように言われていたはずだ。


 けれど、あの三人なら、こっそりやってきても不思議ではない。


「……まさかなぁ……」


 和真は小さく苦笑した。


 再び、控えめなノックが聞こえる。


 コン、コン。


「はーい。今開けるよ」


 ベッドから立ち上がり、扉へ向かった。


 そして――。


 ガチャッ。


「……え?」


 扉を開けた和真は、思わず目を丸くした。


 そこに立っていたのは――。


「……和真」


 あおいだった。


 ◇ ◇ ◇


「……あおい?」


「……うむ」


 あおいは小さく頷いた。


 淡い色合いの寝間着を身につけ、その腕には自分の枕を大切そうに抱えている。


 普段なら、落ち着いた笑みを浮かべている彼女。


 けれど、今夜は少し様子が違っていた。


 どこか落ち着かないように視線を泳がせ、枕を抱く腕に力が入っている。


「どうしたんだ? こんな時間に」


「……その……」


 あおいは口を開きかけ、すぐに閉じた。


 何かを言いたそうなのに、なかなか言葉が出てこないらしい。


「……あおい?」


「……むぅ……」


 小さく唸る。


 そして、意を決したように顔を上げた。


「……和真」


「うん?」


「……今宵は……少しばかり、寂しいのじゃ……」


「……寂しい?」


「うむ……」


 あおいは枕をぎゅっと抱きしめた。


「和真が旅行へ出かけてから、もう六日も経ってしもうた……」


「……そうだな」


「最初は四日で帰ってくると聞いておったのに、吹雪で二日も延びて……」


 あおいは少し俯いた。


「……思うておったより、ずっと寂しかったのじゃ……」


「……あおい……」


 和真は少し驚いた。


 あおいがこんなふうに、素直に寂しさを口にするのは珍しい。


 普段は落ち着いていて、周囲を優しく見守ることが多い彼女。


 甘えてくることはあっても、ここまで遠慮がちな姿を見せることはあまりなかった。


「……それでの……」


 あおいは少しだけ顔を上げた。


 その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。


「……今宵は、和真と一緒に眠りたいのじゃ……」


「……え?」


 和真は思わず聞き返した。


 あおいは枕を抱いたまま、上目遣いで和真を見つめる。


「……ダメかえ?」


「…………」


 和真は言葉に詰まった。


 その表情が、あまりにも寂しそうだったからだ。


 潤んだ瞳。


 少し不安そうに揺れる声。


 そして、返事を待ちながら枕を抱きしめる姿。


 そんな顔をされて、簡単に断れるわけがなかった。


「……はぁ……」


 和真は小さく息を吐いた。


 そして、優しく微笑む。


「……わかったよ」


「……!」


 あおいの瞳が大きく開かれた。


「……よいのかえ?」


「ああ。一緒に寝よう」


「……本当に?」


「もちろん」


 和真は扉を大きく開けた。


「おいで、あおい」


「……っ!」


 あおいの表情が、ぱっと明るくなった。


「……ありがとう、和真!」


 嬉しそうに微笑み、そっと部屋へ入る。


 和真はそんな彼女を見つめながら、苦笑した。


「……今日は色々ある日だなぁ……」


「……何か言うたかえ?」


「いや、何でもないよ」


 そう答え、和真は静かに扉を閉めた。


 ◇ ◇ ◇


 部屋へ入ったあおいは、和真のベッドを見つめた。


 そして、自分の枕をそっと置く。


「……ふふっ」


「どうした?」


「……いや、何でもないのじゃ」


 あおいは小さく笑った。


「ただ……嬉しくての」


「そっか」


 和真も微笑む。


「じゃあ、そろそろ寝ようか」


「うむ!」


 二人は並んでベッドへ入った。


 和真が布団を掛けると、あおいは少し遠慮がちに横になった。


 しかし――。


「……和真」


「ん?」


「……もう少し、近くへ寄ってもよいかえ?」


「ああ。いいよ」


「……うむ」


 あおいは少しずつ身体を寄せた。


 そして、そっと和真の胸元へ手を伸ばす。


「……抱きついても?」


「いいよ」


「……ふふっ」


 あおいは嬉しそうに笑った。


 そして――。


 ぎゅっ。


 和真の身体へ、そっと抱きついた。


「……あおい?」


「……少しだけ、このままでおらせてくれ」


「ああ」


 和真は優しく背中へ手を添えた。


 すると、あおいは安心したように目を閉じる。


「……はぁ……」


 小さな吐息。


「……あったかいのぅ……」


「そう?」


「うむ。やはり、和真の隣は落ち着くのじゃ」


 あおいは幸せそうに微笑んだ。


 そして、和真の胸元へ顔を寄せる。


「……すん……」


「……ん?」


「……すんすん……」


「……あおい?」


「……むぅ……」


 あおいが小さく唸った。


 さらに身体を寄せ、和真の首元へ鼻先を近づける。


「……すん……すん……」


「……くすぐったいよ、あおい」


「……少し待つのじゃ」


「……?」


 あおいは真剣な表情で匂いを確かめていた。


 そして――。


「……やはりのぅ……」


 ぽつりと呟いた。


「……フェンリスの匂いが、随分とするのじゃ……」


「……っ!」


 和真の身体が一瞬固まった。


「あ、あおい……?」


「……むぅ」


 あおいは頬を膨らませた。


「……六日間も一緒におったのじゃから、当然といえば当然じゃが……」


 そう言いながら、さらに和真の胸元へ顔を埋める。


「……少し、妬けるのぅ……」


「……え?」


 和真はあおいを見下ろした。


 あおいはしばらく黙っていた。


 やがて――。


「……和真」


「……ん?」


「……妾は、羨ましいのじゃ」


「……羨ましい?」


「……うむ」


 あおいは顔を上げた。


 その表情には、いつもの穏やかな笑みがなかった。


「……みゆも、ナディアも……」


「…………」


「……そして、フェンリスまで……」


 あおいは少しだけ唇を尖らせた。


「……皆、和真と深い仲になってしもうた……」


「……っ」


 和真の胸がどくりと鳴った。


「……あおい、どうしてそれを……?」


「……ふん」


 あおいは少し拗ねたように鼻を鳴らした。


「妾とて九尾の狐じゃぞ?」


 そして、再び和真の胸元へ顔を寄せる。


「……匂いでわかるのじゃ」


「…………」


「みゆのときも、ナディアのときも……何となく察しておった」


 あおいは小さく息を吐いた。


「……フェンリスも、帰ってきたときの様子でわかったわい」


「……そっか……」


 和真は何も言えなくなった。


 あおいは俯いたまま、言葉を続ける。


「……妾も、和真と旅行へ行ったのに……」


「……うん」


「京都で過ごした二日間……妾は、今でも忘れておらぬぞ」


 あおいの腕に少しだけ力がこもる。


「あの街並みも……一緒に歩いた道も……」


 そして、小さな声で。


「……和真と交わした口づけも……」


「……あおい……」


 和真の脳裏に、京都での思い出が蘇った。


 二人で歩いた古都の街並み。


 神社で過ごした時間。


 そして、人目のない場所で交わした長い口づけ。


 あのときのあおいの表情。


 少し恥ずかしそうで、それでも嬉しそうに微笑んでいた姿。


 和真も、はっきりと覚えていた。


「……忘れてないよ」


「……!」


 あおいが顔を上げる。


「俺だって、京都の旅行は大切な思い出だよ」


「……本当かえ?」


「ああ」


 和真が微笑む。


 すると、あおいの頬がほんのり赤くなった。


「……ふふっ」


 嬉しそうに笑う。


 しかし、その笑顔はすぐに寂しそうなものへ変わった。


「……じゃが……」


 あおいは小さく呟いた。


「……妾だけ、取り残されてしまったようでの……」


「……え?」


「皆は、和真ともっと親しくなっておる」


 あおいは少しだけ俯いた。


「……妾も、和真が好きなのに……」


 その声は、ほんの少し震えていた。


「……妾だって……もっと、和真のそばにいたいのじゃ……」


 和真は何も言わず、そっとあおいの背中を撫でた。


 すると、あおいはゆっくりと顔を上げた。


 その瞳は、まっすぐに和真を見つめていた。


「……和真」


「……うん?」


「……妾は、おぬしが好きじゃ」


「…………」


「京都へ行く前から……ずっと、ずっと好きじゃった」


 あおいは小さく微笑んだ。


「二人で旅行へ行けたときは、本当に嬉しかったのじゃ」


「……うん」


「口づけを交わした夜など……嬉しくて、なかなか眠れなんだ」


 照れくさそうに笑う。


 しかし、すぐに真剣な表情へ戻った。


「……和真」


「……ん?」


 あおいは少しだけ身体を起こした。


 そして、和真を見下ろすようにして顔を近づける。


 長い銀色の髪が、さらりと肩から流れ落ちた。


 淡い青色の毛先が、和真の頬をくすぐる。


 あおいの瞳が、わずかに潤んでいた。


「……妾は……」


 一度、言葉を切る。


 そして――。


「……妾は、ダメかえ?」


「…………!」


 和真は息を呑んだ。


 あおいは上目遣いで、真っ直ぐに和真を見つめていた。


「……妾も、和真ともっと深い仲になりたいのじゃ……」


「……あおい……」


「……みゆやナディア……フェンリスと同じように……」


 その頬が、さらに赤く染まる。


「……妾も、和真に愛してほしいのじゃ……」


 部屋が静まり返った。


 時計の針が進む音だけが、かすかに聞こえる。


 和真は言葉を探した。


 あおいの気持ちは、嬉しい。


 自分をこれほどまでに想ってくれていること。


 それを、軽く扱いたくはない。


 けれど――。


「……あおい」


「……うむ……」


「……ダメってわけじゃないんだ」


「……!」


 あおいの表情が明るくなる。


「……本当かえ?」


「……ああ」


 和真は静かに頷いた。


「俺にとって、あおいは大切な人だよ」


「……っ!」


「京都で過ごした時間も、あの夜のことも……ちゃんと覚えてる」


「……うむ……!」


「でも……」


 和真は少しだけ視線を落とした。


「……さすがに、今すぐは……」


「…………」


 あおいの表情が止まった。


「……今すぐは、ダメなのかえ?」


「……ごめん」


 和真は困ったように微笑んだ。


「フェンリスに自分の気持ちを伝えたばかりだし……」


「……うむ……」


「みゆやナディアのことも、ちゃんと考えないといけない」


 和真はあおいを見つめる。


「だから、今の気持ちのまま、あおいともっと深い関係になるのは……違う気がするんだ」


「…………」


「……あおいのことを、軽く考えたくないから」


 しばらく沈黙が続いた。


 あおいは和真の顔をじっと見つめていた。


 そして――。


「……むぅ……」


 頬を膨らませた。


「……和真は、ずるいのぅ……」


「……え?」


「そんなふうに言われては、怒るに怒れぬではないか……」


「……あおい……」


 あおいは小さく鼻を鳴らした。


「……ふん」


 そして、再び和真の胸元へ身体を寄せる。


「……ならば、よい」


「……え?」


「今宵は、それで許してやるのじゃ」


 少し拗ねたような声。


 和真は思わず苦笑した。


「……ありがとう」


「……ただし!」


 突然、あおいが顔を上げた。


「……っ!?」


 和真が驚く。


 あおいは真剣な表情で、和真を指さした。


「妾は、諦めぬからの!」


「……え?」


「和真が妾の気持ちを受け止めてくれるまで、何度でも声をかけるのじゃ!」


「……あおい……」


「今宵は駄目でも、明日がある。明日が駄目なら、明後日がある!」


 あおいは胸を張った。


「妾は、そう簡単には諦めぬぞ!」


 その姿に、和真は思わず笑ってしまった。


「……ははっ」


「……な、何がおかしいのじゃ!」


「いや……あおいらしいなって」


「……むぅ!」


 あおいは頬を膨らませた。


「笑い事ではないのじゃ!」


「ごめんごめん」


「……まったく……!」


 そう言いながら、あおいは再び和真へ抱きついた。


 ぎゅううっ。


「……うわっ!」


「……今宵は、これくらい許すのじゃ!」


「……ははっ。もちろん」


 和真は優しく抱き返した。


 すると、あおいは少しだけ身体の力を抜いた。


「……ふふっ」


「……どうした?」


「……やはり、和真の腕の中は落ち着くのぅ……」


「そっか」


「……うむ」


 あおいは幸せそうに目を細めた。


 そして、小さな声で呟く。


「……妾も、もっと甘えたいのじゃ……」


「……いいよ」


「……!」


「今夜は、ゆっくり甘えていいから」


 その言葉に、あおいの顔が真っ赤になった。


「……そ、そういうことを……!」


「……ん?」


「……簡単に言うでない……!」


 あおいは顔を和真の胸へ埋めた。


「……ますます、好きになってしまうではないか……」


 その声は、消え入りそうなほど小さかった。


 和真は何も言わず、そっとあおいの髪を撫でた。


 ◇ ◇ ◇


 しばらくして。


「……和真」


「ん?」


「……ひとつ、聞いてもよいかえ?」


「ああ。何?」


 あおいは少しだけ顔を上げた。


「……フェンリスのこと、本当に好きなのじゃな?」


「……ああ」


 和真は迷わず頷いた。


「好きだよ」


「……そうか……」


 あおいは小さく微笑んだ。


 けれど、その笑顔には少しだけ寂しさが混じっていた。


「……よかったのぅ、フェンリスは……」


「……あおい……」


「……あやつ、ずっと苦しんでおったからの」


 あおいは静かに呟いた。


「妾と和真が京都から戻ったときも……あやつは随分と悲しそうな顔をしておった」


「…………」


「それでも、何も言わずに笑おうとしておったのじゃ」


 あおいはそっと目を閉じた。


「……だから、あやつが幸せになれたことは、妾も嬉しい」


「……ありがとう」


「……じゃが……」


 あおいは再び和真へ抱きついた。


「……それと、妾が羨ましいと思うことは、別なのじゃ……」


「……うん」


「……妾も、和真が好きじゃからの……」


 和真は静かに頷いた。


「……ちゃんと伝わってるよ」


「……そうか……」


 あおいは少しだけ安心したように微笑んだ。


 そして――。


「……ならば、よい」


 そう言って、和真の胸元へ頬を寄せた。


「……今宵は、これで我慢してやるのじゃ……」


「……ありがとう、あおい」


「……ただし、また誘いに来るからの」


「……ははっ。わかったよ」


「……約束じゃぞ?」


「うん」


「……ふふっ」


 あおいは満足そうに笑った。


 そして、ぎゅっと和真へ抱きつく。


「……おやすみ、和真……」


「おやすみ、あおい」


 和真は優しく髪を撫でた。


 すると、あおいは嬉しそうに目を細める。


 そのまま、しばらく静かな時間が流れた。


 ◇ ◇ ◇


「……すぅ……」


 小さな寝息が聞こえてきた。


「……あおい?」


 和真がそっと声をかける。


 返事はない。


 見下ろすと、あおいは和真の胸元へ顔を寄せたまま、幸せそうに眠っていた。


 その腕は、まだしっかりと和真を抱きしめている。


「……寝ちゃったか」


 和真は小さく笑った。


 起こさないように、そっと布団を掛け直す。


 あおいは気持ちよさそうに寝息を立てていた。


「……まったく……」


 和真は天井を見上げた。


 そして、深く息を吐く。


「……まさか、あおいまでとはなぁ……」


 つい数時間前。


 みゆとナディア、フェンリスの三人に囲まれ、誰と一緒に寝るかで大騒ぎになったばかりだった。


 その三人は、今頃ユエの説教から解放され、各自の部屋で眠っていることだろう。


 そして自分は――。


 まさか、あおいと一緒に寝ることになるとは。


「……ユエが知ったら、また怒られそうだな……」


 和真は苦笑した。


 けれど、寂しそうな顔で訪ねてきたあおいを、追い返すことなどできなかった。


 それに、彼女が口にした言葉も気になっていた。


 ――妾は、ダメかえ?


 あのときの、潤んだ瞳。


 勇気を振り絞って伝えてくれた想い。


 そして、断られても諦めないと宣言した姿。


「……あおいも、そんなふうに思ってたんだな……」


 和真は小さく呟いた。


 京都で一緒に旅行をしたとき。


 あおいが自分に好意を抱いてくれていることは、何となく感じていた。


 けれど、それがどれほど大きなものなのか、きちんと考えたことがあっただろうか。


「……なかったな……」


 和真は静かに息を吐いた。


 みゆ。


 ナディア。


 フェンリス。


 そして、あおい。


 四人の顔が順番に浮かんだ。


 それぞれ性格も違う。


 自分との出会いも、過ごしてきた時間も違う。


 それでも、みんな自分を大切に思ってくれている。


 その気持ちに、どう応えればいいのだろう。


「……難しいな……」


 和真は片手で額を覆った。


 フェンリスが好きだ。


 それは、もうはっきりしている。


 北海道で過ごした時間の中で、自分の気持ちに気づいた。


 あの三日目の夜。


 勇気を出して想いを伝えてくれたフェンリスを抱きしめながら、自分も彼女が好きなのだと認めた。


 これからも、ずっと大切にしたい。


 その気持ちは変わらない。


 けれど――。


「……だからって、ほかのみんなのことをどうでもいいとは思えないしな……」


 みゆと過ごした夜。


 ナディアと過ごした時間。


 あおいと京都で交わした口づけ。


 どれも、大切な思い出だった。


 そして、相手にとっても同じなのだろう。


 自分だけが、都合よく忘れていいはずがない。


「……はぁ……」


 また、ため息が漏れた。


 そんなとき。


「……んぅ……」


 腕の中で、あおいが小さく身じろぎした。


「……あおい?」


 和真が顔を向ける。


 すると、あおいは眠ったまま、さらに身体を寄せてきた。


「……かずま……」


 小さな寝言。


「……ふふ……」


 その口元には、幸せそうな笑みが浮かんでいた。


 和真は思わず微笑んだ。


「……おやすみ」


 そっと髪を撫でる。


 あおいは安心したように、再び静かな寝息を立て始めた。


 ◇ ◇ ◇


 窓の外には、静かな冬の夜が広がっていた。


 北海道とは違い、雪のない景色。


 それでも、十二月の夜は十分に冷え込んでいる。


 和真は天井を見上げたまま、ゆっくりと息を吐いた。


「……もうすぐ、年末年始か……」


 十二月二十八日。


 今年も、残すところあと三日。


 思えば、今年は本当に色々なことがあった。


 アパートの管理をしながら、住人たちと過ごした日々。


 旅行へ出かけるたびに増えていった、大切な思い出。


 賑やかな食卓。


 何気ない会話。


 そして、少しずつ変わっていった自分と住人たちとの関係。


 楽しいことばかりではなかった。


 フェンリスが倒れたときは、本当に怖かった。


 病院のベッドで眠る彼女の手を握りながら、どれほど後悔したことだろう。


 もっと早く気づいていれば。


 もっとちゃんと話を聞いていれば。


 そんな思いが、何度も胸を締めつけた。


 けれど、その出来事があったからこそ、フェンリスときちんと向き合おうと思えた。


 そして、北海道で自分の気持ちを伝えることができた。


「……フェンリス……」


 和真は小さく名前を呟いた。


 今頃、どうしているだろう。


 ユエの説教を受けたあと、大人しく眠っているだろうか。


 それとも、まだ少し拗ねているだろうか。


 思い浮かぶのは、頬を膨らませながらも、最後には甘えてくるフェンリスの姿だった。


「……明日は、ちゃんと抱きしめてやろう」


 そう呟き、少しだけ笑った。


 しかし、その直後。


 腕の中で眠るあおいへ視線を落とす。


「……あおいも、か……」


 これから先。


 自分は、どうすればいいのだろう。


 誰か一人を大切にするということ。


 それ以外の人たちと、どう向き合っていくかということ。


 簡単に答えを出せるものではなかった。


 それでも、いつまでも曖昧なままではいられない。


 ユエが何度も忠告してくれた理由が、今なら少しわかる気がした。


 自分の優柔不断さが、誰かを傷つけてしまうこともある。


 優しくしたつもりが、相手に期待を抱かせてしまうこともある。


 だからこそ、きちんと考えなければならない。


「……年が明ける前に、少しは整理したいな……」


 和真は静かに呟いた。


 今年も、あとわずか。


 残された日々の中で、自分なりに考えてみよう。


 すぐに答えが出なくてもいい。


 けれど、逃げることだけはしたくなかった。


 そんなことを考えているうちに、少しずつ瞼が重くなってきた。


 長旅の疲れもあり、身体はすっかり休息を求めている。


「……そろそろ寝るか……」


 和真は布団を整え、あおいを起こさないようにゆっくりと身体を横たえた。


 すると――。


「……ん……」


 あおいが小さく声を漏らした。


 そして、眠ったまま和真の胸元へさらに顔を寄せる。


「……かずま……だいすきじゃ……」


「…………」


 和真は思わず目を丸くした。


 寝言だった。


 けれど、その言葉は、はっきりと聞こえた。


「……ははっ……」


 和真は困ったように笑った。


「……本当に、どうしたもんかな……」


 そう呟きながらも、あおいを抱きしめる腕は緩めなかった。


 彼女が安心して眠れるように。


 ただ、それだけを思っていた。


「……おやすみ、あおい」


 最後に小さく囁く。


 そして、和真もゆっくりと目を閉じた。


 ◇ ◇ ◇


 こうして、五泊六日に及んだ北海道旅行は、無事に幕を閉じた。


 フェンリスにとって、それは生涯忘れることのできない、大切な思い出となった。


 大好きな和真と二人きりで過ごした時間。


 初めて勇気を出して伝えた想い。


 そして、ようやく結ばれた二人の心。


 そのすべてが、彼女にとってかけがえのない宝物だった。


 一方、和真にとっても、この旅行は大きな転機となった。


 自分の気持ちに気づき、フェンリスへの想いを認めることができた。


 けれど、それと同時に、ほかの住人たちとの関係についても、改めて考えなければならなくなった。


 みゆ。


 ナディア。


 そして、今夜新たに想いを伝えてきたあおい。


 彼女たちの気持ちを、どう受け止めていくのか。


 その答えは、まだ見つかっていない。


 もうすぐ迎える年末年始。


 賑やかな住人たちに囲まれながら、和真は残されたわずかな日々を、自分なりに悩み、考えながら過ごすことになるのだった。


 静かな冬の夜。


 今はただ、腕の中で幸せそうに眠るあおいの温もりを感じながら。


 和真もまた、深い眠りへと落ちていった。

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