第五十九話 雪晴れの贈り物
――チュン、チュン……。
どこからか、小鳥のさえずりが聞こえてきた。
障子の向こうから差し込む柔らかな朝日が、静かな客室を少しずつ照らしていく。
「……ん……」
和真がゆっくりと目を覚ました。
最初に感じたのは、腕の中にある温かな感触だった。
胸元に顔を埋めるようにして眠っているフェンリス。
銀色の髪が枕の上に広がり、淡いピンク色の毛先が朝日に照らされている。
大きな狼の耳は安心しきったように寝かされ、ふさふさの尻尾が布団の端から少しだけ覗いていた。
「……すぅ……すぅ……」
規則正しい寝息。
その穏やかな寝顔を見つめながら、和真は昨夜のことを思い返していた。
お互いの過去。
これまで胸の奥にしまい込んできた、決して楽しいとは言えない思い出。
それでも、二人は隠さずに話すことができた。
過去を知ったからといって、相手への気持ちが変わることはなかった。
むしろ、以前よりもずっと近くに感じられた。
「……フェンリス」
小さく名前を呼び、銀色の髪を優しく撫でる。
「んぅ……」
フェンリスが身じろぎした。
そして、和真の胸元に頬をすり寄せる。
「……かずま……」
「おはよう」
「……ん……おはよぉ……」
寝ぼけた声で返事をすると、フェンリスは再び目を閉じた。
「まだ眠い?」
「……うん……」
「そっか」
「……もうちょっと……こうしてたい……」
そう言いながら、和真の背中へ腕を回す。
和真は小さく笑った。
「いいよ。もう少しだけね」
「……えへへ……」
フェンリスが嬉しそうに微笑む。
和真も彼女を抱きしめ直し、しばらくその温もりを感じていた。
――そこで、ふと気づいた。
「……あれ?」
何かがおかしい。
いや、おかしいというより――。
静かすぎる。
昨日まで、あれほど激しく吹き荒れていた風の音が聞こえない。
窓を叩く雪の音もなければ、建物が軋むような音もない。
聞こえてくるのは、小鳥のさえずりと、時折どこかで響く人の声だけだった。
「……もしかして」
和真はゆっくりと身体を起こした。
「んん……?」
腕の中から温もりが離れ、フェンリスが不満そうな声を漏らす。
「……和真ぁ……?」
「ごめん。ちょっと外を見てくるよ」
「……そと?」
「うん。なんだか静かだから」
「……?」
フェンリスは眠そうに目を擦った。
和真は布団から出ると、窓際へ向かう。
そして、障子を開けた。
「…………え?」
思わず声が漏れた。
昨日までの景色が、そこにはなかった。
いや。
正確には、景色そのものがすっかり変わってしまっていた。
どこまでも広がる青空。
雲一つない、澄み切った冬の空。
眩しいほどの朝日が、辺り一面を照らしている。
そして――。
「……すごいな、これ」
目の前には、真っ白な世界が広がっていた。
庭木も、建物の屋根も、道路も。
見えるものすべてが、分厚い雪に覆われている。
庭にある灯籠などは、頭の部分だけが雪から覗いているほどだった。
吹き溜まりになっている場所では、一メートル近く積もっているように見える。
昨夜までの猛吹雪が嘘だったかのような、見事な快晴。
青と白だけで作られたような景色に、和真はしばらく見入ってしまった。
「……和真?」
背後から声がした。
振り返ると、フェンリスが布団の中から顔を出していた。
「どうしたの?」
「フェンリス。ちょっとこっちに来てみて」
「……?」
フェンリスは不思議そうに首を傾げた。
そして、布団から抜け出して和真の隣へやってくる。
「なになに?」
「外を見てごらん」
「そと……?」
フェンリスが窓の向こうへ目を向けた。
その瞬間。
「…………え?」
赤い瞳が大きく見開かれた。
数秒の沈黙。
そして――。
「わぁぁぁぁっ!!」
部屋中に元気な声が響いた。
「すごい!! 和真!! すごいよ!!」
「うん。すごいね」
「真っ白!! 全部真っ白になってる!!」
フェンリスは窓に両手をつき、顔を近づけた。
「昨日まであんなに吹雪いてたのに!!」
「本当だね。嘘みたいに晴れたね」
「ねえねえ! あそこ見て!」
フェンリスが庭を指差す。
「あんなに積もってる!!」
「一メートルくらいありそうだね」
「いちめーとる!?」
フェンリスが和真を振り返る。
「僕の背よりちょっと低いくらい!?」
「そうなるね」
「すごーい!!」
狼の耳がぴんと立ち上がった。
尻尾も嬉しそうに大きく揺れ始める。
「和真! 外に出たい!!」
「ふふ。まだ朝ご飯も食べてないよ」
「あっ……」
「それに、そのままじゃ寒いでしょ?」
和真がフェンリスの寝間着を見て笑う。
「むぅ……」
フェンリスは少しだけ頬を膨らませた。
しかし、すぐに窓の外へ視線を戻す。
「……でも、すっごく綺麗だね」
「うん」
「雪って、こんなに綺麗なんだ……」
先ほどまでの興奮した声とは違う、静かな呟きだった。
和真は隣に立ち、一緒に雪景色を眺めた。
冬の朝日を受けた雪が、きらきらと輝いている。
昨日までの恐ろしい吹雪とは、まるで別の顔を見せていた。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「僕、この景色、ずっと覚えてると思う」
「……そっか」
「うん!」
フェンリスはにっこりと笑った。
「だって、和真と一緒に見たんだもん!」
その言葉に、和真も自然と笑顔になった。
「俺も忘れないと思うよ」
「えへへっ!」
嬉しそうに抱きついてくるフェンリス。
和真はその身体を優しく抱きとめた。
しばらくそうしていると、外から人の声が聞こえてきた。
「……あれ?」
フェンリスが窓の下へ視線を向ける。
旅館の敷地では、従業員たちが朝早くから除雪作業を始めていた。
雪をスコップで運んでいる人。
除雪機を動かしている人。
車が通れるように駐車場を片付けている人。
あちこちで白い息を吐きながら、懸命に働いていた。
「……大変そう」
フェンリスがぽつりと呟いた。
「そうだね。これだけ積もったら、片付けるだけでも大仕事だよ」
「……うん」
フェンリスはしばらくその様子を眺めていた。
やがて、何かを思いついたように和真を見上げる。
「……ねえ、和真!」
「どうした?」
「あとで、女将さんにお願いしてもいいかな?」
「お願い?」
「うん!」
フェンリスはにっこり笑った。
「ちょっとやりたいことができたんだ!」
その笑顔を見た和真は、なんとなく彼女の考えていることが分かった気がした。
「ふふ。分かった。まずは朝ご飯を食べてからね」
「うんっ!」
こうして、函館旅行五日目の朝が始まった。
◇ ◇ ◇
朝食を終えた二人は、一度部屋へ戻っていた。
食卓には温かいご飯や焼き魚、味噌汁などが並び、昨夜の吹雪が嘘のように穏やかな朝食となった。
フェンリスはすっかり上機嫌だった。
食事中も、何度も窓の外へ目を向けていたほどだ。
「さて……」
和真はスマートフォンを手に取った。
「まずは帰りの飛行機を確認しないとね」
「あっ、そっか」
フェンリスも隣に座る。
「今日、帰れるのかな?」
「どうだろう。天気は良くなったけど、空港も雪がすごいだろうからね」
「……そっかぁ」
少し残念そうな声。
和真はその様子を見て小さく笑った。
「まだ帰りたくない?」
「……えへへ」
フェンリスは照れくさそうに笑った。
「ちょっとだけ」
「ふふ。正直だね」
「だって……」
フェンリスは和真の腕に抱きついた。
「和真と二人きりの旅行、すっごく楽しいんだもん」
「……うん」
「もちろん、みんなにも会いたいよ? でも……」
そこで少しだけ頬を赤くする。
「もうちょっとだけ、和真を独り占めしたいなって……」
和真はその頭を優しく撫でた。
「そっか」
「……うん」
「俺も、もう少し一緒にいたいよ」
「……ほんと?」
「うん」
フェンリスの表情がぱっと明るくなった。
「えへへっ!」
和真は笑いながらスマートフォンを操作し、空港の案内窓口へ電話をかけた。
何度か呼び出し音が鳴る。
やがて職員が応対した。
「お忙しいところすみません。函館空港の運航状況について確認したいんですが……」
和真は事情を説明した。
昨日までの大雪によって欠航が相次いでいること。
現在は旅館に滞在しており、帰りの飛行機を変更する必要があること。
そして、本日から飛行機が飛ぶ見込みがあるのか。
職員は一つずつ丁寧に答えてくれた。
現在、空港では朝から除雪作業が進められているという。
滑走路だけでなく、航空機が移動する通路や駐機場も雪で覆われており、安全確認にも時間が必要らしい。
天候が回復したことから、本日の夕方以降に運航を再開する予定だという説明だった。
「……夕方からですか」
和真が確認する。
「分かりました。ありがとうございます」
電話を切ると、フェンリスが顔を近づけた。
「どうだった!?」
「今日の夕方から飛行機が動き始める予定なんだって」
「夕方……」
「うん。朝から除雪してるらしいよ」
「そっかぁ……」
フェンリスは少し考え込んだ。
和真は彼女の顔を覗き込む。
「フェンリス」
「ん?」
「明日の便にしようか?」
「……えっ!?」
フェンリスが目を丸くした。
「いいの!?」
「うん。今日の夕方から動く予定とはいっても、まだ運航が安定するか分からないしね」
「……うん!」
「それに、明日なら少し観光してから帰れるかもしれないよ」
その言葉に、フェンリスがはっとした。
「……あっ!!」
「ん?」
「和真! 四日目に行く予定だったところ!!」
「うん。俺もそれを考えてた」
本来なら、旅行四日目。
二人は帰りの飛行機に乗る前に、最後の観光を楽しむ予定だった。
しかし、突然の吹雪によって予定はすべて中止になってしまった。
フェンリスも、一度は諦めていたのだ。
「……行けるの!?」
「まだ分からないけど、明日の朝早く出れば間に合うかもしれないね」
「ほんと!?」
「うん。ただ、道路の状況次第かな。無理はできないからね」
「うん! それは分かってる!」
フェンリスは嬉しそうに和真の手を握った。
「僕、もう行けないと思ってた!」
「せっかく楽しみにしてたんだもんね」
「うん!」
「じゃあ、明日の昼頃の便に変更できるか確認してみるよ」
「お願い!」
和真は航空会社へ連絡を入れた。
昨日までの欠航によって予約の変更が多く発生していたものの、幸いにも翌日の昼頃の便に二人分の空席が残っていた。
手続きを済ませ、改めて予約内容を確認する。
「……よし。取れたよ」
「……!」
「明日のお昼の飛行機」
「やったぁぁ!!」
フェンリスが勢いよく抱きついてきた。
「和真! ありがとう!!」
「ふふ。どういたしまして」
「じゃあ、今日も一緒にいられるんだね!」
「うん。旅館に泊めてもらえればね」
「あっ、そっか!」
フェンリスは慌てて身体を離した。
「女将さんにお願いしないと!」
「そうだね」
「じゃあ、早く行こう!」
「分かった分かった。そんなに慌てなくても大丈夫だよ」
「えへへっ!」
和真は笑いながら立ち上がった。
フェンリスも続いて立ち上がり、人間の姿へと切り替える。
狼の耳と尻尾が消え、見た目は普通の少女になった。
「よし!」
「それじゃあ、行こうか」
「うん!」
二人は並んで客室を出た。
◇ ◇ ◇
帳場へ向かうと、女将が従業員たちと何やら相談しているところだった。
どうやら、今後の営業について話しているらしい。
「女将さん、おはようございます」
和真が声をかける。
すると、女将がこちらを振り返った。
「あら、四ノ宮様。おはようございます」
「おはよう、女将さん!」
「フェンリス様も、おはようございます」
女将は二人の顔を見ると、にこやかに微笑んだ。
「昨夜はゆっくりお休みになれましたか?」
「はい。おかげさまで」
「僕もぐっすり眠れたよ!」
「それはようございました」
女将は安心したように頷いた。
「それにしても、今朝は驚かれたでしょう?」
「はい。あんなに積もっているとは思いませんでした」
「僕もびっくりした! 外が全部真っ白なんだもん!」
「ふふふ。私どもも、ここまで積もるとは思っておりませんでした」
女将は苦笑した。
「朝から総出で片付けておりますが、なかなか手強い雪でございまして」
「本当に大変そうですね」
「ええ。でも、幸いお天気も回復しましたから。何とか今日中に片付けたいところです」
そんな話をしたあと、和真は本題を切り出した。
「実は、帰りの飛行機についてなんですが……」
「ああ、はい。運航状況が分かりましたか?」
「はい。今日の夕方から再開する予定だそうです」
「まあ! それはよかったですね!」
女将が嬉しそうに声を上げた。
「はい。それで、フェンリスとも相談して、明日の昼頃の便に変更しました」
「明日でございますか?」
「はい。できれば明日の朝まで、もう一泊させていただきたいんですが……」
和真は申し訳なさそうに頭を下げた。
「お部屋は空いていますか?」
女将は一瞬驚いたような顔をした。
しかし、すぐに表情を明るくした。
「まあ! もちろんでございます!」
「いいんですか?」
「ええ! お二人がよろしければ、ぜひそのままお泊まりくださいませ!」
女将は嬉しそうに笑った。
「今回の大雪では、皆様にずいぶんとご不便をおかけしてしまいましたから。もう一晩ゆっくりしていただけるのでしたら、私どもも嬉しゅうございます」
「ありがとうございます」
「ありがとう、女将さん!」
二人が揃って頭を下げる。
「お部屋もそのままお使いいただけますよ」
「助かります」
「いえいえ。こちらこそ、ありがとうございます」
女将はそう言って、再び微笑んだ。
そこで、フェンリスが和真の袖をくいくいと引っ張った。
「……和真」
「ん?」
「さっきのお願い……」
「ああ、そうだったね」
和真は女将に向き直った。
「それと、もう一つお願いがあるんですが」
「はい。何でしょう?」
「外の雪かき、俺たちにも手伝わせてもらえませんか?」
「……え?」
女将が目を丸くした。
「雪かき、でございますか?」
「はい」
「でも……お客様にそのようなことをお願いするわけには……」
「あっ、いえ。俺たちからお願いしてるんです」
和真は慌てて付け加えた。
「朝から皆さんが頑張っているのが見えたので、少しでも手伝えたらと思って」
「僕も!」
フェンリスが元気よく手を上げる。
「僕、身体を動かすの大好きなんだ!」
「まあ……」
「それに、こんなにたくさん雪があるんだもん! せっかくだから僕も何かしたい!」
女将は困ったように笑った。
「お気持ちは大変ありがたいのですが、せっかくのご旅行ですのに……」
「大丈夫だよ!」
フェンリスが笑う。
「和真と一緒なら、雪かきだって楽しいと思うんだ!」
「……フェンリス」
和真が少し照れくさそうに笑った。
女将はそんな二人を見比べると、ふっと表情を和らげた。
「……本当に、仲のよろしいお二人ですね」
「えへへっ!」
フェンリスが嬉しそうに和真の腕へ抱きつく。
女将は少し考えたあと、頷いた。
「それでしたら……危険のない場所だけ、お願いしてもよろしいでしょうか?」
「はい。もちろんです」
「やった!」
「ただし、屋根の雪下ろしや除雪機の近くは危険ですので、そちらには近づかないでくださいませ」
「分かりました」
「うん!」
女将は嬉しそうに頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に助かります」
「こちらこそ、ありがとうございます」
和真が答える。
すると――。
「あっ! 女将さん!」
フェンリスが何かを思い出したように声を上げた。
「はい?」
「もう一つ、聞いてもいい?」
「もちろんでございます」
「あのね……!」
フェンリスは窓の外を指差した。
「僕、雪で遊んでみたいんだ!」
「雪遊び、でございますか?」
「うん!」
フェンリスは目を輝かせた。
「こんなにいっぱい積もってるんだもん! 色んなことができるんじゃないかなって!」
そこで、少しだけ恥ずかしそうに笑う。
「でも、僕、雪でどんな遊びができるのか、あんまり知らないんだ」
「まあ、そうでしたか」
「だから、女将さんに教えてほしいなって!」
その言葉を聞いた女将は、驚いたように目を瞬かせた。
そして――。
「ふふふっ!」
嬉しそうに笑い始めた。
「それは素敵でございますねぇ」
「ほんと!?」
「ええ。これだけ雪が積もっていれば、色々なものが作れますよ」
「色々!?」
「例えば……かまくら、なんていかがでしょう?」
「……かまくら?」
フェンリスが首を傾げる。
女将は優しく説明した。
「雪を大きく積み上げて、その中に入れる小さなお部屋を作るんです」
「…………え?」
フェンリスが固まった。
「……雪で?」
「はい」
「……お部屋を?」
「ええ」
数秒後――。
「すごーーい!!」
フェンリスが飛び跳ねた。
「和真!! 聞いた!? 雪のお部屋だって!!」
「うん。かまくらだね」
「僕、作ってみたい!!」
女将も楽しそうに笑う。
「それでしたら、雪だるまもいいですね」
「雪だるま!」
「それから、雪の彫刻なんかもございますよ」
「彫刻?」
「雪を削って、動物や色々な形を作るんです」
「……!」
フェンリスの目がますます輝いていく。
「動物も作れるの!?」
「ええ。犬や猫、うさぎなんかも可愛らしいですよ」
「すごい!! 僕、それもやりたい!!」
「ふふふ。でしたら、雪合戦も楽しいかもしれませんね」
「……ゆきがっせん?」
フェンリスが首を傾げた。
「雪を丸めて、みんなで投げ合って遊ぶんです」
「……雪を投げ合うの?」
「はい」
「……へぇぇ!」
フェンリスは少し考えたあと、にやりと笑った。
そして和真を見上げる。
「……和真」
「ん?」
「それ、すっごく楽しそうだね!」
「……ふふ。そうだね」
その笑顔を見た和真は、なんとなく嫌な予感がした。
フェンリスは元冒険者だ。
身体能力も反射神経も、普通の人間とは比べものにならない。
もし本気で雪玉を投げられたら――。
「……フェンリス」
「なに?」
「雪合戦をするときは、手加減してね?」
「……え?」
フェンリスがきょとんとした。
そして――。
「……あはははっ!!」
楽しそうに笑い始めた。
「大丈夫だよ! 僕、ちゃんと分かってるって!」
「本当?」
「ほんとほんと!」
そう言いながら、フェンリスは悪戯っぽく笑った。
「……でも、和真には勝ちたいなぁ」
「……お手柔らかにお願いします」
「えへへっ!」
そんな二人のやり取りを見ていた女将も、声を上げて笑った。
「ふふふ! それでしたら、こういたしましょう!」
「?」
「除雪した雪を、庭の奥にある空き地へ集めるんです」
女将が窓の外を指差した。
「あちらなら広さもございますし、雪遊びにも使えますから」
「ほんと!?」
「ええ。従業員にも声をかけておきますね」
「やったぁ!!」
フェンリスは満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう、女将さん!!」
「ふふふ。どういたしまして」
女将は嬉しそうに微笑んだ。
「ただし、お二人とも無理だけはなさらないでくださいね」
「はい」
「うん!」
「それと、雪の中では身体が冷えやすいですから、しっかり防寒してくださいませ」
「分かりました」
和真が答える。
その隣で、フェンリスはすでにやる気満々だった。
「よーし! 和真!」
「ん?」
「いっぱい雪かきして、いっぱい遊ぼうね!」
「うん。そうしよう」
「えへへっ!」
その笑顔を見て、和真も自然と笑顔になった。
◇ ◇ ◇
それからしばらくして。
二人は防寒着に着替え、旅館の玄関前に立っていた。
「……うわぁ!」
フェンリスが歓声を上げる。
外へ出ると、窓から見ていた以上に雪の量が凄まじかった。
除雪された通路の両側には、大きな雪の壁ができている。
日差しは暖かそうに見えるものの、空気はきんと冷たく、吐く息が真っ白になった。
「すごいね、和真!」
「うん。足元、気をつけてね」
「はーい!」
フェンリスは雪を踏みしめた。
――ぎゅっ。
「……!」
その感触に目を丸くする。
「……和真!」
「どうした?」
「雪が鳴った!」
「ふふ。新しい雪を踏むと、そういう音がするんだよ」
「へぇぇ!」
フェンリスはもう一歩踏み出した。
――ぎゅっ、ぎゅっ。
「……えへへっ!」
さらにもう一歩。
――ぎゅっ、ぎゅっ。
「楽しい!」
「雪を踏んでるだけで楽しそうだね」
「だって、面白いんだもん!」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
そのとき、近くにいた従業員が声をかけてきた。
「ああ、お二人とも! 女将から伺っていますよ!」
「おはようございます」
「おはよう!」
「まさかお客様にお手伝いいただけるとは。本当にありがとうございます!」
従業員は深々と頭を下げた。
「いえ。俺たちも楽しみにしてたので」
「僕、頑張るよ!」
「ははは! それは頼もしいですね!」
従業員は二人へスコップを渡してくれた。
作業する場所や雪を運ぶ方向を教えてもらい、雪かきの準備が整う。
「それでは、こちらの通路からお願いできますか?」
「分かりました」
「うん!」
和真がスコップを構える。
フェンリスも隣に並んだ。
「よーし!」
彼女は元気いっぱいに声を上げた。
「和真! どっちがいっぱい運べるか勝負しよう!」
「えっ、勝負?」
「うん!」
「……いや、フェンリスには勝てないと思うけど」
「えへへ! やってみないと分からないよ!」
「……絶対に勝てない気がするなぁ」
和真が苦笑する。
フェンリスは楽しそうに笑った。
「それじゃあ、いくよー!」
「はいはい」
「せーのっ!!」
二人は同時にスコップを雪へ突き立てた。
――ザクッ!!
青空の下。
旅館の従業員たちに混ざって、和真とフェンリスの雪かきが始まった。
このときの二人は、まだ知らなかった。
自分たちの何気ない申し出が、やがて旅館中を巻き込む大騒ぎになることを。
そして、この日が二人にとって、忘れられない思い出の一日になることを。
――ザクッ、ザクッ。
雪にスコップを突き立てる音が、静かな朝の空気に響いていた。
「よいしょっ!」
フェンリスがスコップいっぱいの雪を持ち上げる。
そして、従業員から教えてもらった場所へ運んでいく。
「えいっ!」
ザザッ!
雪が大きな山の上へ落ちた。
「よし! 一回目!」
フェンリスは満足そうに頷くと、すぐに次の雪へ向かった。
「和真! 僕、もう一回運んだよ!」
「うん。見てたよ」
「えへへ! 負けないからね!」
「いや、まだ勝負してたんだ?」
「もちろん!」
フェンリスは得意げに胸を張った。
「僕から勝負しようって言ったんだもん!」
「ふふ。そうだったね」
和真は笑いながらスコップを動かした。
もっとも、勝負になるとは最初から思っていなかった。
フェンリスは元冒険者であり、身体能力は普通の人間とは比較にならない。
本気を出せば、この程度の雪などあっという間に片付けてしまうだろう。
ただし、今は人間の姿。
周囲には旅館の従業員たちもいる。
あまりにも人間離れした力を見せるわけにはいかなかった。
「……んー」
フェンリスはスコップを雪に差し込むと、少しだけ考えた。
そして、隣で作業している従業員の様子をちらりと確認する。
「……これくらいかな?」
スコップに乗せる雪の量を調整した。
「よいしょっ!」
ザザッ!
「……よし!」
その様子を見ていた和真が小さく笑う。
「フェンリス、ちゃんと加減してるね」
「えへへ! もちろん!」
フェンリスは声を落として答えた。
「でも、思ったより難しいね」
「何が?」
「力を使いすぎないようにするの!」
「……ふふっ」
「だって、もっといっぱい運べるんだもん!」
少し不満そうに頬を膨らませる。
「でも、みんなびっくりしちゃうでしょ?」
「そうだね」
「だから、頑張って我慢してるんだよ!」
「偉い偉い」
和真が頭を撫でようとすると、フェンリスは嬉しそうに目を細めた。
しかし――。
「あっ!」
すぐに周囲を見回す。
「和真! 今は雪かき中!」
「……ああ、そうだったね」
「終わったらいっぱい撫でてね!」
「ふふ。分かったよ」
「約束!」
そう言って、再び元気よく雪を運び始めた。
◇ ◇ ◇
「いやぁ、助かりますねぇ!」
しばらくすると、近くで作業していた年配の従業員が声をかけてきた。
「お二人とも、随分と働き者ですね!」
「いえいえ。そんなことないですよ」
和真が笑う。
「本当ですよ! 特にお嬢さんは元気がいい!」
「えへへ!」
フェンリスが嬉しそうに笑った。
「僕、身体を動かすの好きなんだ!」
「それはいいことですなぁ!」
男性も豪快に笑った。
「いやぁ、若いってのは素晴らしい!」
「おじさんもすごいよ!」
「ほう?」
「だって、朝からずっと雪かきしてるんでしょ?」
「ははは! まあ、これが仕事ですからねぇ!」
「でも、すごい!」
フェンリスは真剣な顔で続けた。
「こんなに雪が積もってるのに、みんな頑張ってるんだもん!」
男性は一瞬きょとんとした。
そして、嬉しそうに笑った。
「……そう言ってもらえると、疲れも吹き飛びますなぁ」
「ほんと?」
「ええ!」
「えへへっ!」
フェンリスが笑う。
その様子を眺めていた和真も、自然と頬を緩めた。
フェンリスは昔から、人の懐に入るのが上手かった。
明るく、素直で、誰に対しても自然に接する。
人を疑うことを知らないわけではない。
それでも、相手の優しさを感じれば、同じように優しさを返す。
そんな彼女の性格が、和真は好きだった。
「……和真?」
「ん?」
「どうしたの? 僕の顔、何かついてる?」
「ああ、ううん」
和真は微笑んだ。
「楽しそうだなって思って」
「……!」
フェンリスはぱっと笑顔になった。
「うん! 楽しいよ!」
「そっか」
「だって、和真と一緒だし!」
そう言うと、また雪を運び始める。
男性は二人を交互に見て、にやりと笑った。
「いやぁ、仲がよろしいことで!」
「……あはは」
和真が照れくさそうに笑う。
フェンリスは特に気にした様子もなく、嬉しそうに頷いた。
「うん! 僕たち、仲良しなんだ!」
「はっはっは! そりゃあいい!」
男性の笑い声が、雪景色の中に響いた。
◇ ◇ ◇
作業を始めて一時間ほど経った頃。
「……よし!」
和真はスコップを地面に立て、額の汗を拭った。
冷たい空気の中で身体を動かしているはずなのに、防寒着の内側はすっかり温かくなっていた。
「ふぅ……」
息を吐き、周囲を見渡す。
玄関前の通路は、だいぶ歩きやすくなっていた。
ただ、駐車場の方にはまだ大量の雪が残っている。
除雪機が動いているものの、積雪量が多いため、なかなか作業が進まないようだった。
「和真ー!」
フェンリスが手を振る。
「こっち、だいぶ終わったよ!」
「うん。すごいね」
「えへへ!」
嬉しそうに駆け寄ってくる。
「次、どこやる?」
「その前に少し休もうか」
「えっ?」
「ずっと動いてるでしょ?」
「でも、僕まだ平気だよ?」
「うん。それは分かってるけどね」
和真は優しく微笑んだ。
「今日は一日あるんだから、無理しないでやろう」
「……うん」
フェンリスは素直に頷いた。
「じゃあ、ちょっと休憩!」
二人は従業員に声をかけ、軒下の休憩スペースへ向かった。
そこには温かいお茶が用意されていた。
「はい、どうぞ」
「あっ、ありがとうございます」
「ありがとう!」
湯気の立つ紙コップを受け取り、二人は並んで座る。
「……はぁぁ」
フェンリスが一口飲んだ。
「……あったかぁい」
「ふふ。おいしいね」
「うん!」
しばらく黙ってお茶を飲んでいたフェンリスが、ふと和真を見上げた。
「……和真」
「ん?」
「心配してくれたの?」
「うん?」
「さっき、休もうって言ってくれたから」
和真は少しだけ驚いた顔をした。
そして、ゆっくり頷く。
「もちろん」
「……そっか」
「フェンリス、少し前に倒れたばかりだからね」
「……!」
フェンリスの表情が少し変わった。
和真は続ける。
「元気になったのは分かってるよ。でも、あまり無理はしてほしくないんだ」
「……うん」
「それに、今日は遊ぶのが一番の目的なんでしょ?」
「……あっ!」
フェンリスが顔を上げた。
「そうだった!」
「ふふ。雪かきで疲れちゃったら、遊べなくなっちゃうよ」
「それは困る!」
フェンリスが慌てたように言った。
「僕、かまくら作りたいし、雪だるまも作りたいし、雪合戦もしたい!」
「うん。だから、ちゃんと休もうな」
「はーい!」
フェンリスは元気よく返事をした。
そして、そっと和真の腕に抱きつく。
「……でも」
「ん?」
「心配してくれて、ありがと」
少し照れくさそうな笑顔。
和真は優しく頭を撫でた。
「どういたしまして」
「……えへへ」
フェンリスは幸せそうに目を細めた。
◇ ◇ ◇
その頃。
旅館の二階にある客室では、一組の夫婦が窓の外を眺めていた。
「……あなた、ちょっと見て」
「ん?」
妻に呼ばれ、夫が窓際へ向かう。
「どうした?」
「ほら、あそこ」
妻が指差した先。
そこには、旅館の従業員たちに混ざって雪かきをしている和真とフェンリスの姿があった。
「……あれ?」
夫が首を傾げる。
「あの二人、宿泊客じゃないか?」
「そうよね。昨日、お食事のときに見かけたもの」
「……なんで雪かきしてるんだ?」
「さあ……?」
二人は顔を見合わせた。
しばらく眺めていると、フェンリスがスコップを持って元気よく走っていく姿が見えた。
その後ろから和真が笑いながら追いかけていく。
「……楽しそうね」
妻が呟く。
「……そうだな」
夫も頷いた。
そして、少し考える。
「……俺たちも手伝おうか」
「えっ?」
「いや、ほら。昨日からずっと世話になってるだろ?」
「……そうね」
「何もできないまま帰るのも、なんだか申し訳ないしな」
妻は夫の顔を見て、ふっと笑った。
「ふふ。珍しいわね」
「何が?」
「あなたがそんなこと言うなんて」
「……なんだよ、それ」
「ふふふ!」
妻は楽しそうに笑った。
「でも、賛成よ」
「よし。じゃあ、行くか!」
二人は防寒着を着込み、客室を出た。
◇ ◇ ◇
「……ん?」
再び作業を始めていた和真が、玄関から出てきた夫婦に気づいた。
二人は周囲を見渡すと、近くにいた従業員へ何かを尋ねていた。
やがて、従業員に案内されながらこちらへやってくる。
「あの、すみません」
「はい?」
和真が振り返る。
「私たちも、少しお手伝いしていいでしょうか?」
「……えっ?」
和真は思わず目を丸くした。
「雪かき、ですか?」
「ええ」
夫が笑う。
「ずっと部屋にいるのも退屈ですし、せっかくですからね」
妻も頷いた。
「それに、お二人が楽しそうにしていらしたので」
「……!」
和真は少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます!」
「僕も嬉しい!」
隣からフェンリスが顔を出した。
「みんなでやったら、もっと早く終わるね!」
「ふふ。そうね」
妻が笑う。
「よろしくね」
「うん! よろしく!」
こうして、新たに二人が加わった。
しかし、それだけでは終わらなかった。
しばらくすると、今度は子供連れの家族が玄関から出てきた。
「お父さん! 僕も雪かきやりたい!」
「こらこら、そんなに走るな!」
小学生くらいの男の子が、父親の手を引っ張っていた。
その後ろから母親もついてくる。
「すみません。子供がどうしてもやりたいって言いまして……」
父親が苦笑する。
和真は小さく笑った。
「それなら、一緒にやりませんか?」
「いいんですか?」
「はい。危なくないところなら」
「やったー!!」
男の子が飛び跳ねた。
フェンリスも嬉しそうに手を振る。
「こっちだよー!」
「お姉さん!」
男の子が駆け寄ってくる。
「僕も手伝う!」
「うん! 一緒に頑張ろう!」
フェンリスはしゃがんで男の子と目線を合わせた。
「でも、無理しちゃだめだよ?」
「うん!」
「雪って重いから、少しずつ運ぼうね!」
「分かった!」
そのやり取りを見ていた母親が微笑んだ。
「優しいお姉さんね」
「えへへ!」
フェンリスが照れくさそうに笑う。
それから、さらに別の宿泊客が加わった。
「おや、皆さん何をなさってるんです?」
「雪かきですよ!」
「ほう! それなら私も手伝おうかな」
「私も少しくらいならできそうね」
「じゃあ、俺も!」
気づけば、次々と人が集まっていた。
最初は和真とフェンリスの二人だけだった。
それが三人、五人、八人と増えていき――。
いつの間にか、十数人もの宿泊客が雪かきに参加することになっていた。
◇ ◇ ◇
「皆様! 本当にありがとうございます!」
玄関前に出てきた女将が、驚いたように声を上げた。
そこには、従業員たちに混ざって作業する宿泊客の姿があった。
「まさか、こんなに大勢の方が……」
女将は思わず目を潤ませた。
「こんなこと、初めてでございます……」
その隣にいた仲居も、嬉しそうに笑った。
「女将さん、皆様とても楽しそうですよ」
「……ええ。本当に」
女将は雪かきをする人々を見渡した。
あちこちから笑い声が聞こえてくる。
「そっち、もう少しお願いしまーす!」
「はーい!」
「お父さん! こっちもいっぱいあるよ!」
「よし! 任せろ!」
「うわっ! 雪が靴に入った!」
「あははは!」
まるで、何かのお祭りのようだった。
昨日まで吹雪に閉じ込められ、不安そうにしていた宿泊客たち。
その人々が今は笑顔で雪を運んでいる。
女将は静かに微笑んだ。
「……ありがたいことでございますね」
そして、近くにいた従業員へ声をかける。
「皆様に温かいお飲み物をお配りしてくださいな」
「はい!」
「それから、お昼のお食事も少し工夫いたしましょう」
「お昼、ですか?」
「ええ。これだけ大勢で身体を動かしていらっしゃるんですもの」
女将は嬉しそうに笑った。
「皆様に、しっかり温まっていただかないと」
◇ ◇ ◇
「よいしょっ!」
フェンリスが雪を運ぶ。
「お姉さん! こっちも!」
「あっ、うん! 今行くね!」
男の子に呼ばれ、すぐに駆け寄る。
「どうしたの?」
「ここ、固くて取れない!」
「どれどれ?」
フェンリスがしゃがみ込み、雪を確かめた。
どうやら、踏み固められた雪が凍り始めているらしい。
「……んー」
少し考えたあと、周囲を見回す。
そして、近くにいた従業員へ声をかけた。
「すみませーん!」
「はい?」
「ここ、固くなってるんだけど、どうしたらいい?」
「ああ、それは無理にスコップを入れない方がいいですね」
従業員は専用の道具を持ってきた。
「こういうところは、少しずつ崩していくんですよ」
「へぇぇ!」
フェンリスと男の子が並んで覗き込む。
「すごい!」
「なるほど!」
従業員は慣れた手つきで固い雪を崩していった。
「よし。これで大丈夫でしょう」
「ありがとう!」
「ありがとうございました!」
男の子も元気よく頭を下げた。
従業員は嬉しそうに笑った。
「いえいえ。困ったらいつでも呼んでくださいね」
「はーい!」
二人が揃って返事をする。
その様子を少し離れた場所から見ていた和真は、思わず笑みを浮かべた。
フェンリスは、いつの間にか子供たちの人気者になっていた。
「お姉さん!」
「はーい!」
「こっちも手伝って!」
「うん! 今行く!」
「お姉さん、これ見て!」
「わぁ! すごいね!」
あちらこちらから呼ばれては、楽しそうに応えている。
「……ふふ」
和真が笑っていると、隣で作業していた男性が声をかけてきた。
「あの子、すごい人気ですね」
「そうですね」
「お二人は恋人同士ですか?」
「……あっ、はい」
和真は少し照れくさそうに頷いた。
「そうです」
「やっぱり!」
男性が笑う。
「いやぁ、お似合いですよ!」
「ありがとうございます」
「見てるこっちまで楽しくなります」
その言葉に、和真はフェンリスへ目を向けた。
ちょうど男の子と一緒に雪を運び終えたところらしい。
「やったー!」
「えへへ! 頑張ったね!」
フェンリスが子供の頭を撫でている。
その笑顔を見つめながら、和真は静かに頷いた。
「……そうですね」
そして、小さく呟く。
「俺も、あの笑顔を見てると嬉しくなるんです」
男性は一瞬驚いたあと、にっこり笑った。
「……いいですねぇ。若いって!」
「……あはは」
和真は照れくさそうに笑った。
◇ ◇ ◇
――正午。
「皆様ー!」
旅館の玄関から、女将の声が響いた。
「そろそろお昼にいたしましょう!」
その声に、あちこちから返事が上がる。
「おお! もうそんな時間か!」
「ずいぶん頑張りましたね!」
「いやぁ、腹が減った!」
作業していた人たちが次々と手を止める。
和真もスコップを置いた。
「……ふぅ」
大きく息を吐く。
「さすがに疲れたなぁ……」
すると――。
「和真ー!」
フェンリスが駆け寄ってきた。
「お昼だって!」
「うん。聞こえたよ」
「えへへ! 僕、お腹すいちゃった!」
「ふふ。あれだけ動いたらね」
「うん!」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
和真は彼女の顔を見つめる。
頬が少し赤くなり、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「……フェンリス」
「ん?」
「疲れてない?」
「ちょっとだけ!」
「そっか」
「でも、すっごく楽しい!」
フェンリスはにっこり笑った。
「みんなと一緒にやると、雪かきって面白いんだね!」
「うん。俺もそう思うよ」
二人は並んで旅館へ戻った。
◇ ◇ ◇
食事会場へ入ると、温かな湯気が立ち上っていた。
「……わぁ!」
フェンリスが目を輝かせる。
大きな鍋には、具だくさんの豚汁。
その隣には、鮭や梅干し、昆布など、色々な具のおにぎりが並んでいた。
さらに漬物や卵焼きも用意されている。
「おいしそう!!」
「ふふ。そうだね」
和真も思わず笑顔になった。
すると、女将が近づいてきた。
「皆様、本当にお疲れ様でございます」
「女将さん!」
フェンリスが嬉しそうに振り返る。
「これ、全部用意してくれたの!?」
「ええ。皆様への、ささやかなお礼でございます」
「すごい! ありがとう!」
「ふふふ。どうぞ、たくさん召し上がってくださいね」
女将は優しく微笑んだ。
「冷えた身体には、温かい豚汁が一番ですから」
「うん!」
フェンリスは和真の手を引いた。
「和真! 早く食べよう!」
「はいはい」
二人はおにぎりと豚汁を受け取り、空いている席へ向かった。
「いただきまーす!」
「いただきます」
フェンリスはまず、豚汁を一口飲んだ。
「……んっ!」
ぱっと表情が明るくなる。
「おいしい!!」
「ふふ。よかったね」
「和真も飲んで!」
「うん」
和真も一口飲む。
大根、人参、ごぼう、豚肉。
具材の旨味が溶け込んだ温かな味噌汁が、冷えた身体に染み渡っていく。
「……ああ、おいしい」
「でしょ!?」
「うん。本当においしいね」
フェンリスは満足そうに頷いた。
続いて鮭のおにぎりを手に取る。
「……んむっ!」
大きく一口。
「……んんっ!」
幸せそうに目を細める。
「おいひい……!」
「ふふ。ちゃんと飲み込んでから話そうね」
「……んぐっ」
ごくん。
「おいしい!!」
改めて元気よく言った。
和真は思わず笑った。
「そんなにおいしい?」
「うん! いっぱい動いたあとだから、もっとおいしく感じる!」
「それは分かるなぁ」
和真もおにぎりを頬張る。
確かに、普段よりもずっとおいしく感じられた。
すると、近くの席から声がかかった。
「あっ! お姉さん!」
雪かきで一緒になった男の子だった。
「こっちで一緒に食べようよ!」
「えっ?」
フェンリスが振り返る。
男の子の隣では、両親も笑っていた。
「よかったら、ご一緒しませんか?」
父親が声をかける。
「……いいの?」
「もちろん!」
男の子が元気よく頷く。
「僕、お姉さんともっとお話したい!」
「えへへ!」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
そして和真を見上げる。
「和真、いい?」
「もちろん」
「やった!」
二人は席を移動した。
すると、ほかの宿泊客たちも自然と近くへ集まってきた。
「いやぁ、お疲れ様でした!」
「本当にすごい雪でしたねぇ!」
「まだまだ残ってますけどね!」
「あははは!」
会場はすっかり賑やかになっていた。
初めて顔を合わせた人同士が、楽しそうに会話している。
昨日までは、それぞれ別々に過ごしていた宿泊客たち。
しかし、雪かきを通じて、いつの間にか打ち解けていた。
「お姉さん!」
「ん?」
男の子がフェンリスを見上げる。
「午後も一緒に雪かきしてくれる?」
「もちろん!」
「やった!」
「でも、疲れたらちゃんと休もうね?」
「うん!」
母親が嬉しそうに微笑む。
「本当にありがとうございます。うちの子、すっかり懐いちゃって」
「えへへ! 僕も一緒にいて楽しいよ!」
フェンリスが笑う。
それを聞いた男の子も、嬉しそうに笑った。
すると、隣の席にいた年配の女性が口を開いた。
「それにしても、こんな経験は初めてだわ」
「そうですね」
和真が頷く。
「私、北海道には何度も来ているんですけどね。こんなに大勢で雪かきをしたのは初めて」
「俺も初めてですよ」
「ふふふ。でも、不思議ねぇ」
女性は周囲を見渡した。
「昨日まで、吹雪で帰れなくなって困っていたのに」
そこで、小さく笑う。
「今は、こんなに楽しいんですもの」
「……本当ですね」
和真も微笑んだ。
すると、フェンリスが元気よく言った。
「僕も楽しい!」
全員が彼女へ目を向ける。
「こんなに雪が積もってびっくりしたけど、みんなで一緒に頑張るのって楽しいね!」
フェンリスはにっこり笑った。
「それに、終わったら雪遊びもできるんだよ!」
「雪遊び?」
男の子が反応した。
「うん! 女将さんが教えてくれたんだ!」
「何するの!?」
「かまくらとか、雪だるまとか!」
「えっ! かまくら!?」
「うん!」
「僕も作りたい!!」
男の子が勢いよく立ち上がる。
「お父さん! 僕もかまくら作る!」
「おっ、いいな!」
父親が笑った。
「じゃあ、午後も頑張らないとな!」
「うん!」
そのやり取りに、周囲の人たちも興味を示し始めた。
「かまくらかぁ。懐かしいな」
「子供の頃に作りましたねぇ」
「雪だるまなら私も作れるかしら」
「雪合戦もやるらしいですよ!」
「ははは! それは楽しそうだ!」
いつの間にか、午後の雪遊びの話題で盛り上がっていた。
フェンリスは嬉しそうに和真の袖を引く。
「……和真!」
「ん?」
「みんなも雪遊びするって!」
「ふふ。そうみたいだね」
「楽しみだね!」
「うん」
和真は微笑んだ。
そのとき、少し離れた場所で女将がこちらを眺めていることに気づいた。
女将は大勢の客が笑い合う様子を見ながら、穏やかな表情を浮かべていた。
和真と目が合う。
すると、女将は小さく頭を下げた。
和真も静かに会釈を返した。
◇ ◇ ◇
昼食を終えると、再び雪かきが始まった。
「よーし!」
フェンリスがスコップを構える。
「午後も頑張るよー!」
「おーっ!!」
子供たちが元気よく応えた。
それにつられるように、大人たちも笑いながら声を上げる。
「おーっ!」
「頑張りましょう!」
「あと少しだ!」
午前中よりも、ずっと賑やかな雰囲気だった。
作業にも慣れてきたらしく、それぞれが自分にできることを見つけて動いている。
力のある男性たちは、大きな雪の塊を運ぶ。
女性たちは、玄関前や通路の細かな雪を片付けていく。
子供たちは、大人の目が届く安全な場所で、小さなスコップを使って雪を集めていた。
旅館の従業員たちは除雪機を使い、駐車場に積もった大量の雪を次々と移動させていく。
和真もスコップを手に、駐車場の端へ向かった。
「……よし」
ザクッ!
雪をすくい、運ぶ。
ザザッ!
その隣では、フェンリスが楽しそうに作業していた。
「和真! 見て!」
「ん?」
「あそこ、地面が見えてきた!」
「あっ、本当だ」
「えへへ!」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
「頑張ったらちゃんと綺麗になるんだね!」
「そうだね」
「……なんか、嬉しい!」
その言葉に、和真も笑った。
確かに、朝には雪で埋もれていた場所が、少しずつ元の姿を取り戻している。
自分たちが作業した結果が目に見えるのは、思った以上に気持ちのいいものだった。
「……よし。俺も頑張ろうかな」
「うん!」
二人は顔を見合わせて笑った。
◇ ◇ ◇
午後一時半。
駐車場の半分以上が、ようやく使える状態になっていた。
除雪機が雪を押し出し、そのあとを人の手で丁寧に片付けていく。
さらに旅館へ続く道路も、専門の作業員たちが除雪を進めていた。
「あと少しですね!」
従業員の一人が声を上げる。
「はい!」
和真が答える。
「この辺りも、もう少しで終わりそうです!」
「ありがとうございます!」
そのとき――。
「和真ぁ……」
少し離れた場所から、フェンリスの声がした。
振り返ると、彼女がスコップを持ったまま立っていた。
「どうしたの?」
「……ちょっとだけ、疲れちゃった」
フェンリスが照れくさそうに笑う。
和真はすぐにスコップを置いた。
「そっか。じゃあ、休憩しよう」
「……うん」
二人は再び休憩スペースへ向かった。
フェンリスは椅子に座ると、大きく息を吐いた。
「……ふぅぅ!」
「お疲れ様」
「えへへ……」
和真が温かいお茶を渡す。
「はい、どうぞ」
「ありがとう!」
フェンリスは両手で紙コップを包み込んだ。
「……あったかい」
「うん」
和真も隣に座る。
しばらく二人でお茶を飲んでいると、フェンリスがぽつりと呟いた。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「僕、ちょっと不思議」
「何が?」
「雪かきって、大変なんだね」
「……そうだね」
「でも、楽しいんだ」
フェンリスは雪かきをしている人々へ目を向けた。
「みんな、疲れてるはずなのに笑ってるでしょ?」
「うん」
「僕も疲れたけど……」
そこで、にっこり笑う。
「まだまだ頑張りたいって思うんだ!」
和真は彼女を見つめた。
「……そっか」
「うん!」
「きっと、みんなで頑張ってるからだろうね」
「みんなで?」
「うん。一人だったら大変なことでも、みんなと一緒なら楽しくなることってあるだろ?」
「……あっ!」
フェンリスが目を輝かせた。
「冒険者のときと同じだ!」
「……ふふ。そうかもしれないね」
「うん!」
フェンリスは嬉しそうに頷いた。
「一人じゃ大変なことも、仲間がいると頑張れるんだ!」
「そうだね」
和真は優しく微笑んだ。
フェンリスも幸せそうに笑う。
「……えへへ」
そして、そっと和真の手を握った。
「僕、和真と一緒でよかった」
「……うん」
「和真がいると、何でも楽しくなるんだもん」
その言葉に、和真の胸が温かくなった。
「……俺もだよ」
「……ほんと?」
「うん」
和真は握られた手を、優しく握り返した。
「フェンリスと一緒だと、何でも楽しいよ」
「……!」
フェンリスの頬がほんのり赤くなる。
「……えへへ」
そして、和真の肩に頭を寄せた。
「……大好き」
「俺も大好きだよ」
人々の笑い声が響く中。
二人は少しだけ、そんな穏やかな時間を過ごした。
◇ ◇ ◇
午後二時。
作業は最後の仕上げに入っていた。
「よーし! もうひと頑張りだ!」
「おーっ!!」
誰かの声に、あちこちから元気な返事が返ってくる。
和真たちも作業へ戻った。
玄関前の通路はすっかり綺麗になり、駐車場もほとんど使える状態になっていた。
残るのは、端に寄せられた雪や、細かな場所の片付けだった。
「お姉さーん!」
男の子がフェンリスを呼ぶ。
「はーい!」
「こっち、終わったよ!」
「ほんと!?」
フェンリスが駆け寄る。
そこには、午前中には雪で埋もれていた通路があった。
今では地面が見え、普通に歩けるようになっている。
「わぁ! すごい!」
「僕、いっぱい頑張った!」
「うん! 偉いね!」
フェンリスはしゃがみ込み、男の子の頭を撫でた。
「お疲れ様!」
「えへへ!」
男の子が嬉しそうに笑う。
その様子を見ていた父親も微笑んでいた。
「よし。じゃあ、あとはこっちを片付けるか!」
「うん!」
親子は元気よく次の場所へ向かった。
フェンリスも和真のところへ戻ってくる。
「和真!」
「ん?」
「あと少しだね!」
「うん。もうすぐ終わりそうだよ」
「えへへ!」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
「終わったら、いよいよ雪遊びだね!」
「そうだね」
「楽しみだなぁ!」
フェンリスは空き地の方へ目を向けた。
そこには、朝から集められた大量の雪が積み上がっていた。
大きな雪山がいくつも並んでいる。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「あの雪、全部使っていいのかな?」
「どうだろう。女将さんに確認してみようか」
「うん!」
フェンリスは目を輝かせた。
「僕、いっぱい作りたい!」
「何を?」
「かまくらも! 雪だるまも! 狼も!」
「ふふ。狼も作るんだ?」
「うん!」
フェンリスは元気よく頷いた。
「それからね、和真も作りたい!」
「……俺?」
「うん!」
和真は思わず笑った。
「雪で俺を作るの?」
「そう!」
「……難しくない?」
「大丈夫!」
フェンリスは自信満々に胸を張った。
「僕、頑張るから!」
「ふふ。楽しみにしてるよ」
「えへへっ!」
和真は笑いながら、再びスコップを動かし始めた。
◇ ◇ ◇
――午後三時。
「…………よし!」
従業員の一人が大きく声を上げた。
「皆さーん! 終わりましたよー!!」
その声が、雪に覆われた旅館の敷地に響き渡った。
「……えっ!?」
フェンリスが顔を上げる。
「終わった!?」
「はい! 必要な場所は全部片付きました!」
従業員が満面の笑みで答える。
それを聞いた瞬間――。
「やったぁぁぁ!!」
フェンリスが飛び跳ねた。
「和真!! 終わったよ!!」
「うん!」
「やったぁ!!」
その歓声につられるように、周囲からも声が上がった。
「お疲れ様でしたー!」
「いやぁ、終わった終わった!」
「すごいですねぇ!」
「本当に綺麗になりましたね!」
あちこちから拍手が起こる。
朝には雪で埋もれていた旅館の玄関前。
人が歩くことさえ難しかった通路。
車がほとんど見えなくなっていた駐車場。
それらが、見違えるほど綺麗になっていた。
旅館へ続く道路も、専門の作業員たちによって除雪が進み、安全に車が通れる状態になっている。
周囲にはまだ大量の雪が残っているものの、旅館の営業に必要な場所はほとんど片付いた。
「……すごい」
和真が思わず呟く。
その隣で、フェンリスも目を丸くしていた。
「……朝は、あんなに雪があったのに」
「うん」
「みんなで頑張ったら、こんなに綺麗になるんだね……!」
フェンリスは感動したように周囲を見渡した。
そして、和真を見上げる。
「……和真!」
「ん?」
「僕たち、頑張ったね!」
「うん。頑張ったね」
「えへへっ!」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
そこへ、女将がやってきた。
「皆様!」
大きな声に、全員が振り返る。
「本日は、本当にありがとうございました!」
女将は深々と頭を下げた。
「皆様のおかげで、こんなに早く片付けることができました。心よりお礼申し上げます」
従業員たちも揃って頭を下げる。
すると、宿泊客の一人が笑いながら言った。
「いやいや! こちらこそ楽しかったですよ!」
「そうそう!」
「いい運動になりました!」
「子供たちも大喜びでしたから!」
次々と温かな声が上がる。
女将は少し驚いたあと、嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
その目元には、わずかに涙が浮かんでいた。
「こんなに大勢のお客様と一緒に雪かきをするなんて、長いこと旅館を続けておりますが、初めての経験でございます」
女将はゆっくりと周囲を見渡した。
「昨日までは、皆様が無事にお帰りになれるか、そればかり心配しておりました」
静かな声だった。
「それが今では、こうして皆様と笑い合えている……」
女将は小さく息を吐く。
「本当に、ありがたいことでございます」
その言葉に、自然と拍手が起こった。
和真も拍手を送り、フェンリスも嬉しそうに両手を叩いた。
やがて女将は、ぱんっと手を合わせた。
「さて!」
全員が女将に注目する。
「皆様、本当にお疲れ様でございました!」
そして、にっこりと笑った。
「それでは……お待ちかねの時間にいたしましょうか!」
「……!」
フェンリスの目が輝いた。
「……女将さん!」
「はい?」
「もしかして……!」
女将は嬉しそうに頷いた。
「ええ。雪遊びのお時間でございます!」
「やったぁぁぁ!!」
フェンリスが両手を上げた。
すると、男の子も元気よく飛び跳ねる。
「かまくら! かまくら作ろう!」
「うん! 作ろう!」
「雪だるまも!」
「もちろん!」
周囲の大人たちからも笑い声が上がる。
「いやぁ、懐かしいなぁ!」
「私も雪だるま作ろうかしら!」
「雪合戦も楽しそうですね!」
女将はそんな人々を見て、優しく微笑んだ。
「空き地には、たくさん雪を集めてございます」
そして、庭の奥を指差した。
「せっかくですから、皆様で思いきり楽しんでくださいませ!」
「はーい!!」
子供たちの元気な返事が響いた。
フェンリスも負けじと声を上げる。
「はーい!!」
和真はその隣で笑っていた。
「……ふふ。本当に楽しそうだね」
「うん!」
フェンリスは満面の笑みを浮かべた。
「だって、ずっと楽しみにしてたんだもん!」
そして、和真の手を握る。
「和真!」
「ん?」
「一緒にいっぱい遊ぼうね!」
「うん。もちろん」
「えへへっ!」
二人は顔を見合わせて笑った。
朝からずっと続けていた雪かき。
最初は、旅館の人たちを少しでも手伝えたらという気持ちから始まったことだった。
しかし、気づけばたくさんの人たちが集まり、笑い合い、協力し合う一日になっていた。
そして今。
その人たちと一緒に、今度は雪遊びを楽しもうとしている。
昨日までの猛吹雪が残していった、大量の雪。
それは、思いがけず大勢の人を結びつけるきっかけになっていた。
「よーし!!」
フェンリスが元気よく声を上げる。
「和真! まずはかまくらだよ!!」
「ふふ。分かったよ」
「大きいの作ろうね!」
「うん。でも、作り方はちゃんと教えてもらおうね」
「もちろん!」
フェンリスは嬉しそうに頷いた。
そして、雪が山のように積まれた空き地へ向かって、元気いっぱいに歩き始めた。
和真もその隣に並ぶ。
澄み渡る青空の下。
今度は、雪かきとは違う賑やかな声が響き始めようとしていた。
――ぎゅっ、ぎゅっ。
真っ白な雪を踏みしめながら、フェンリスは空き地へ向かっていた。
「わぁぁ……!」
目の前に広がる光景に、思わず歓声を上げる。
そこには、朝からの除雪作業で集められた大量の雪があった。
大小さまざまな雪山が並び、場所によっては人の背丈を超えるほど高く積み上がっている。
「和真! 見て見て!」
「うん。すごい量だね」
「これ、全部使えるの!?」
「女将さんがそう言ってたからね」
「すっごーい!!」
フェンリスは嬉しそうに雪山へ駆け寄った。
そして、その前で立ち止まる。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「本当にこれでお部屋が作れるの?」
「うん。かまくらだね」
「へぇぇ……!」
フェンリスは興味津々で雪山を見上げた。
「じゃあ、僕たちが二人で入れるくらいの大きさがいい!」
「ふふ。結構大きいのを作らないとね」
「うん!」
フェンリスは両手を広げた。
「これくらい!」
「……それだと、かなり大きいね」
「えへへ!」
そんな二人のところへ、旅館の従業員がやってきた。
「お待たせしました! かまくらを作ると伺いまして」
「あっ! ありがとう!」
「いえいえ。せっかくですから、立派なものを作りましょう!」
「うん!」
従業員は雪山を確認しながら説明を始めた。
かまくらは、ただ雪に穴を掘れば完成するわけではない。
雪を十分に固め、壁や天井に厚みを残しながら、中を少しずつ掘っていく必要があるという。
「へぇぇ……!」
フェンリスは真剣な顔で聞いていた。
「じゃあ、僕がいっぱい雪を集める!」
「ははは! それは頼もしいですね!」
すると、後ろから元気な声が聞こえてきた。
「お姉さーん!」
「あっ!」
振り返ると、先ほどまで一緒に雪かきをしていた男の子が走ってきた。
その後ろには両親もいる。
「僕もかまくら作る!」
「うん! 一緒に作ろう!」
「やったー!!」
男の子が両手を上げた。
さらに、周囲からも人が集まり始める。
「かまくらを作るんですか?」
「私も手伝いましょうか?」
「いやぁ、懐かしいなぁ!」
「子供の頃、よく作りましたよ」
気がつけば、雪かきに参加していた人たちが再び集まっていた。
フェンリスは嬉しそうに笑う。
「みんなで作ろう!」
「おーっ!!」
男の子が元気よく答えた。
和真も思わず笑った。
「ふふ。また大人数になったね」
「えへへ! みんなでやった方が楽しいもん!」
「そうだね」
◇ ◇ ◇
「まずは、こっちへ雪を集めましょう!」
「はーい!」
従業員の指示で、みんなが作業を始めた。
除雪で集められた雪山を利用し、足りない部分に雪を積み重ねていく。
雪山の形を整えながら、少しずつ固めていった。
「よいしょっ!」
フェンリスがスコップで雪を運ぶ。
「和真! これくらい?」
「うん。いいと思うよ」
「じゃあ、もっと持ってくる!」
「待って。そんなに急がなくても大丈夫だよ」
「えへへ! だって早く作りたいんだもん!」
嬉しそうに笑いながら、再び雪を運びに行く。
そんなフェンリスを見て、周囲の人たちも笑っていた。
「元気なお嬢さんですねぇ!」
「本当ですね」
和真が微笑む。
「朝からずっとあんな調子なんですよ」
「ははは! 見ているこちらまで元気になりますよ!」
すると――。
「和真ー!!」
フェンリスの声が響いた。
「ちょっと来てー!」
「ん? どうした?」
和真が近づくと、フェンリスが雪山を指差した。
「ここ、もっと丸くした方がいいかな?」
「そうだね。少し形を整えてみようか」
「うん!」
二人は並んで雪を固め始めた。
フェンリスが雪を寄せ、和真が表面を整えていく。
「……よいしょ」
「和真、そこもうちょっと!」
「ここ?」
「うん!」
「これくらい?」
「そうそう!」
作業を進めるうちに、雪山は少しずつ丸みを帯びていった。
「……おお!」
フェンリスが一歩下がる。
「なんか、それっぽくなってきた!」
「うん。いい感じだね」
「えへへ!」
その隣では、男の子が父親と一緒に雪を固めていた。
「お父さん! ここも!」
「よし、任せろ!」
「もっと大きくしよう!」
「いやいや、あんまり大きくすると大変だぞ!」
「あはは!」
笑い声があちこちから響いていた。
しばらくして、従業員が雪山の状態を確認する。
「うん。これなら大丈夫そうですね」
「……!」
フェンリスが顔を上げた。
「じゃあ、中を掘るの!?」
「ええ。ここからがかまくら作りの面白いところですよ」
「やったぁ!!」
フェンリスが飛び跳ねる。
従業員は入口になる場所に印をつけた。
雪山の内側が崩れないよう、壁や天井の厚みを十分に残しながら掘っていくのだという。
「中を掘る作業はこちらで進めますので、皆さんは外から形を整えるのをお願いできますか?」
「はーい!」
「分かりました」
和真とフェンリスは再びスコップを手に取った。
中から運び出された雪を片付けたり、入口の周囲を整えたり。
気づけば、雪遊びのはずが再び雪かきのようになっていた。
「……ふふっ」
和真が小さく笑う。
「……?」
フェンリスが首を傾げた。
「どうしたの?」
「いや、さっきまで雪かきしてたのに、また雪を運んでるなって」
「……あっ!」
フェンリスも気づいたらしい。
そして――。
「あはははっ!!」
楽しそうに笑い始めた。
「ほんとだ! 僕たち、また雪かきしてる!」
「ふふ。そうだね」
「でも、今度はお部屋を作るためだもん!」
「うん」
「だから、全然違うよ!」
フェンリスは得意げに笑った。
和真はそんな彼女を見て、優しく微笑んだ。
「そうだね」
◇ ◇ ◇
それからしばらくして。
「皆さーん! できましたよー!」
従業員の声が響いた。
「……!」
フェンリスが勢いよく振り返る。
「できた!?」
「はい!」
目の前には、大きなかまくらが完成していた。
丸く盛り上がった真っ白な雪山。
その正面には、人が屈んで入れるほどの入口が作られている。
中には雪で作った腰掛けまであった。
「…………わぁ」
フェンリスが目を丸くした。
そして、ゆっくりと入口へ近づく。
「……本当に、お部屋になってる……」
先ほどまで雪の塊だったものが、今では小さな建物のようになっていた。
「……すごい」
フェンリスは感動したように呟いた。
和真も隣に並ぶ。
「立派なのができたね」
「……うん!」
フェンリスは和真を見上げた。
「中に入ってもいい!?」
「ふふ。ちゃんと確認してからね」
従業員が入口を覗き込み、安全を確かめたあと、笑顔で頷いた。
「大丈夫ですよ。ただし、一度に大勢は入れませんので、順番にお願いしますね」
「はーい!」
フェンリスは元気よく返事をした。
そして、和真の手を握る。
「和真! 一緒に入ろう!」
「うん。行こうか」
二人は屈みながら入口をくぐった。
中に入ると――。
「……わぁぁ……!」
フェンリスが小さく歓声を上げた。
外から見るよりも、ずっと広く感じられる。
雪で作られた丸い壁。
白く柔らかな光が差し込む天井。
外の声が少し遠くに聞こえる、不思議な空間だった。
「……すごいね、和真」
「うん。思ったより広いね」
「雪でできてるのに、ちゃんとお部屋なんだ……!」
フェンリスは興味津々で辺りを見回した。
「ねえ、座ってもいい?」
「いいと思うよ」
「じゃあ……」
フェンリスは雪の腰掛けにちょこんと座った。
「……おおっ!」
そして、和真を見上げる。
「和真も!」
「はいはい」
和真も隣へ腰を下ろした。
すると、フェンリスはすぐに身体を寄せてきた。
「……えへへっ」
「どうしたの?」
「和真と二人で、雪のお部屋にいる!」
「そうだね」
「なんだか秘密基地みたい!」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
そして、そっと和真の腕に抱きつく。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「こういうお家も面白いね」
「ふふ。さすがにずっと住むのは難しいけどね」
「えへへ! それはそうだけど!」
フェンリスは小さく笑った。
「でも、もし和真と一緒なら……」
「うん?」
「こういうお家で暮らすのも、ちょっと楽しそう!」
和真は思わず笑った。
「寒くない?」
「……んー」
フェンリスは少し考えた。
そして、和真の肩に頬を寄せる。
「和真がぎゅってしてくれたら、あったかいよ?」
「……ふふっ」
和真が笑う。
「それでも寒いと思うけどなぁ」
「むぅ!」
フェンリスが頬を膨らませる。
「そこは、僕も一緒ならあったかいって言ってほしかった!」
「あはは。ごめんごめん」
和真はそっと彼女を抱き寄せた。
「じゃあ、こうしてたら少しは暖かいかな?」
「……!」
フェンリスの頬が赤くなった。
そして、嬉しそうに笑う。
「……うん!」
少しの間、二人は寄り添っていた。
すると――。
「お姉さーん!」
入口から声がした。
「……あっ!」
フェンリスが顔を上げる。
「僕も入りたーい!」
先ほどの男の子だった。
フェンリスはすぐに立ち上がった。
「うん! おいで!」
「やったー!」
男の子は父親と一緒に入口をくぐった。
「うわぁ! すごーい!!」
「ね! すごいでしょ!」
フェンリスは得意げに胸を張る。
「みんなで作ったんだよ!」
「うん!」
男の子は嬉しそうに辺りを見回した。
「お父さん! 雪のお家だ!」
「本当だなぁ。立派なのができたな!」
その様子を見ながら、和真はスマートフォンを取り出した。
「フェンリス、写真撮ろうか」
「……!」
フェンリスの目が輝いた。
「撮る!!」
和真がカメラを構える。
「じゃあ、そこに座って」
「うん!」
フェンリスは腰掛けに座り、両手を膝の上に置いた。
そして――。
「えへへっ!」
満面の笑み。
カシャッ。
「はい、撮れたよ」
「見せて見せて!」
画面を覗き込む。
「……わぁ!」
そこには、雪のかまくらの中で幸せそうに笑うフェンリスが写っていた。
「すっごくいい!」
「ふふ。よかった」
「次は和真も!」
「俺も?」
「うん!」
フェンリスは男の子の父親にお願いし、二人の写真も撮ってもらうことにした。
「それじゃあ、撮りますよー!」
「はい!」
「えへへっ!」
フェンリスは和真の腕に抱きつき、肩に頭を寄せた。
「はい、チーズ!」
カシャッ!
「ありがとうございます!」
「ありがとう!」
二人が頭を下げる。
写真を確認すると、フェンリスは嬉しそうに微笑んだ。
「……えへへ」
「どう?」
「すっごく好き!」
「そっか」
「これも大事にする!」
そう言って、和真の腕にぎゅっと抱きついた。
◇ ◇ ◇
「次は雪だるま!!」
かまくらから出たフェンリスが、元気よく声を上げた。
「ふふ。忙しいね」
「だって、まだいっぱいあるんだもん!」
フェンリスは周囲を見渡した。
空き地では、それぞれが思い思いの雪遊びを始めていた。
小さな雪だるまを作っている人。
雪で動物を作っている人。
写真を撮っている人。
どこからも楽しそうな声が聞こえてくる。
「和真! 僕たちも作ろう!」
「うん」
「大きい雪だるま!」
「どれくらい?」
「……んー」
フェンリスは少し考えた。
そして、自分の頭の高さに手を上げる。
「僕と同じくらい!」
「結構大きいね」
「えへへ!」
フェンリスは雪を両手ですくい、丸く固め始めた。
「……よいしょ」
ぎゅっ、ぎゅっ。
小さな雪玉ができあがる。
「……できた!」
「うん。いい感じだね」
「これを大きくするんだよね?」
「そう。転がしていくと、周りに雪がくっつくんだ」
「……なるほど!」
フェンリスは早速、雪玉を地面に置いた。
そして、ゆっくりと転がし始める。
ころころ……。
「……あっ!」
雪玉に少しずつ雪がくっついていく。
「和真! 見て!」
「うん」
「大きくなってる!!」
「ふふ。本当だね」
フェンリスは夢中になって転がし続けた。
ころころ。
ごろごろ。
ごろごろごろ……。
「……ん?」
しばらくすると、雪玉はかなり大きくなっていた。
「……あれ?」
フェンリスが押す。
「……よいしょ」
しかし、なかなか動かない。
「……むぅ」
「どうしたの?」
「重くなっちゃった……」
フェンリスは困ったように笑った。
「もうちょっと大きくしたいんだけど……」
「ふふ。じゃあ、一緒に押そうか」
「……!」
フェンリスが嬉しそうに頷く。
「うん!」
二人は並んで雪玉に手を当てた。
「せーのっ!」
「よいしょ!」
ごろっ。
大きな雪玉が動き始めた。
「やったぁ!」
「ふふ。動いたね」
「うん!」
二人で力を合わせながら、少しずつ転がしていく。
やがて、フェンリスの腰ほどの高さになったところで、和真が声をかけた。
「そろそろいいんじゃない?」
「……んー」
フェンリスは雪玉を見つめた。
そして、満足そうに頷く。
「うん! これでいい!」
「じゃあ、次は頭だね」
「うん!」
今度は少し小さな雪玉を作る。
こちらも二人で転がし、身体の上に乗せられる大きさまで育てていった。
そして、近くにいた男性にも手伝ってもらい、二つの雪玉を重ねる。
「……おおっ!」
フェンリスが感動したように声を上げた。
「雪だるまになった!!」
「ふふ。まだ顔がないけどね」
「あっ、そうだった!」
フェンリスは慌てて周囲を見回した。
「目! 目をつけないと!」
「小石を探してみようか」
「うん!」
二人は雪のない場所に落ちていた小石や枝を集めた。
目を二つ。
鼻には小さな木の実。
口は短い枝を並べて作る。
さらに両脇へ枝を差し込んで腕にした。
「……よし!」
フェンリスが一歩下がる。
そして――。
「できたぁぁ!!」
満面の笑みを浮かべた。
目の前には、フェンリスとほとんど同じくらいの高さをした雪だるまが立っていた。
「和真! 見て見て!」
「うん。ちゃんと雪だるまになったね」
「えへへ!」
フェンリスは雪だるまの隣に並んだ。
「僕と同じくらいだ!」
「本当だね」
「なんだかお友達みたい!」
そう言って、雪だるまの肩にそっと手を置く。
「……えへへっ!」
嬉しそうに笑うフェンリス。
和真はその姿を見て、スマートフォンを構えた。
「フェンリス、こっち向いて」
「……ん?」
「写真撮るよ」
「あっ!」
フェンリスは慌てて姿勢を正した。
そして、雪だるまの隣で両手を広げる。
「えへへっ!」
カシャッ!
「はい、撮れたよ」
「見せて!」
画面を覗き込んだフェンリスが、嬉しそうに笑った。
「わぁ! 僕と雪だるま!」
「ふふ。いい写真になったね」
「うん!」
すると、フェンリスは何かを思いついたように顔を上げた。
「……和真!」
「ん?」
「今度は二人で撮ろう!」
「もちろん」
「雪だるまを真ん中にして!」
「いいね」
ちょうど近くにいた夫婦にお願いし、写真を撮ってもらうことになった。
二人は雪だるまの左右に並び、その後ろから顔を寄せ合った。
「それじゃあ、撮りますね!」
「お願いします!」
「えへへっ!」
カシャッ!
写真の中には、雪だるまを挟んで笑う二人が写っていた。
「……わぁ」
フェンリスは写真をじっと見つめた。
そして、小さく笑う。
「……また宝物が増えちゃった」
和真はその頭を優しく撫でた。
「帰ったら、ちゃんと整理しないとね」
「うん!」
◇ ◇ ◇
「……よし!」
雪だるまを完成させたフェンリスは、今度は別の雪の塊の前にしゃがみ込んでいた。
「次は狼!」
「ふふ。楽しみにしてたもんね」
「うん!」
フェンリスはスコップを手に取り、雪を少しずつ削り始めた。
まずは身体。
それから頭。
そして、尖った耳。
「……んー」
真剣な顔。
和真が隣から覗き込む。
「難しい?」
「ちょっとだけ……」
フェンリスは唇を尖らせた。
「頭はできたんだけど、尻尾が難しいんだ」
「尻尾?」
「うん!」
フェンリスは雪の塊を指差した。
「狼の尻尾って、もっとふわふわしてるでしょ?」
「そうだね」
「でも、雪だと上手く作れなくて……」
和真は少し考えた。
「それなら、横に大きく広げてみたら?」
「……横?」
「うん。身体に沿わせるように作れば、形を残しやすいと思うよ」
「……あっ!」
フェンリスの目が輝いた。
「なるほど!」
早速、雪を足しながら形を整えていく。
すると、少しずつ大きな尻尾らしい形ができあがっていった。
「……おお!」
「いい感じじゃない?」
「うん!」
フェンリスは嬉しそうに頷いた。
「これならできそう!」
それからも、二人は相談しながら雪を削っていった。
耳の角度。
鼻先の形。
前足の位置。
少しずつ整えていくうちに、四つ足で座った狼の姿が現れてきた。
「……よし!」
フェンリスは最後に耳の形を整えた。
そして、スコップを置く。
「……できた!」
和真も一歩下がって眺めた。
「おお……!」
そこには、大きな尻尾を身体に沿わせた狼の雪像があった。
少し丸みのある身体と、ぴんと立った耳。
どこか愛嬌のある顔をしている。
「すごいね、フェンリス!」
「……ほんと!?」
「うん。ちゃんと狼に見えるよ」
「やったぁ!」
フェンリスは嬉しそうに飛び跳ねた。
「和真に褒められた!」
「ふふ。だって上手にできてるからね」
「えへへっ!」
フェンリスは雪の狼の隣にしゃがんだ。
そして、その頭を優しく撫でる。
「……かわいい」
和真はそんなフェンリスを見つめた。
銀色の髪。
淡いピンク色の毛先。
嬉しそうに笑う赤い瞳。
今は人間の姿をしているが、普段の彼女には可愛らしい狼耳と、大きな尻尾がある。
「……なんだか、フェンリスに似てるね」
「……えっ?」
フェンリスが顔を上げた。
「僕に?」
「うん」
和真は雪の狼を指差した。
「ちょっと丸い感じとか、可愛らしいところとか」
「……!」
フェンリスの頬が赤くなる。
「……もう!」
「ん?」
「和真って、すぐそういうこと言う!」
「えっ? 変なこと言った?」
「……言った!」
フェンリスは照れくさそうに顔を逸らした。
しかし、すぐに小さく笑う。
「……でも、嬉しい」
そして、もう一度雪の狼を見つめた。
「……じゃあ、この子は僕だね!」
「ふふ。そうだね」
「えへへ!」
フェンリスは和真を見上げる。
「和真! 写真!」
「うん。撮ろうか」
和真がスマートフォンを構える。
フェンリスは雪の狼の隣にしゃがみ込み、片手をその頭に添えた。
そして――。
「えへへっ!」
カシャッ!
「はい、撮れたよ」
「ありがとう!」
フェンリスは画面を覗き込み、満足そうに頷いた。
「……うん! いい写真!」
そして、にこっと笑う。
「これ、みんなにも見せたいな!」
「きっと驚くと思うよ」
「えへへ!」
◇ ◇ ◇
「……さて!」
フェンリスが立ち上がった。
「次は和真!」
「……ん?」
和真が首を傾げる。
「和真を作る!」
「……ああ!」
昼間の約束を思い出した。
「本当に作るんだ?」
「もちろん!」
フェンリスは自信満々に頷いた。
「僕、約束したもん!」
「ふふ。そうだったね」
フェンリスは新しい雪の塊の前に移動した。
そして、じっと和真の顔を見つめる。
「…………」
「……フェンリス?」
「…………」
「……あの?」
「動かないで!」
「えっ?」
「今、和真の顔を覚えてるの!」
「……あはは」
和真は思わず笑った。
「そんなにじっと見なくても、いつも見てるでしょ?」
「それとこれとは違うの!」
「……そ、そうなんだ」
「うん!」
フェンリスは真剣な顔で和真を見つめた。
そして、満足したように頷く。
「……よし!」
スコップを手に取り、雪を削り始めた。
和真も隣にしゃがみ込む。
「何か手伝おうか?」
「だめ!」
「……えっ?」
「和真は見てて!」
フェンリスは真剣だった。
「これは僕が作るんだから!」
「……分かった」
和真は笑いながら少し離れたところへ座った。
フェンリスは雪の塊を削り、頭らしい形を作っていく。
しかし――。
「……んー」
少し削る。
「……むぅ」
また削る。
「……あれ?」
首を傾げる。
和真は笑いを堪えながら見守っていた。
そして、しばらくして――。
「……できた!」
フェンリスが満足そうに声を上げた。
「和真! 見て!」
「うん」
和真が近づく。
そこには――。
「…………」
丸い顔。
目は二つの小石。
口は大きく弧を描いた枝。
頭には、なぜか短い枝が何本も刺さっていた。
「…………」
和真はしばらく黙っていた。
フェンリスが期待に満ちた目で見上げる。
「……どう!?」
「……えっと」
和真は雪像を見つめる。
「……これは、俺?」
「うん!」
「……そっか」
「似てるでしょ!?」
「……う、うん」
和真は必死に笑いを堪えた。
「……すごく……個性的だね」
「……!」
フェンリスが嬉しそうに笑った。
「でしょ!?」
「……ふふっ」
とうとう笑いが漏れてしまう。
「……あはははっ!」
「……えっ!?」
フェンリスが目を丸くした。
「和真!? なんで笑うの!?」
「ご、ごめん……!」
和真はお腹を押さえた。
「だって……!」
「むぅぅ!!」
フェンリスが頬を膨らませる。
「僕、頑張ったのに!」
「うん! 頑張ったのは分かるよ!」
「じゃあ、笑わないでよぉ!」
「ごめんごめん!」
和真は笑いながらフェンリスを抱き寄せた。
「でも、すごく嬉しいよ」
「……ほんと?」
「うん」
和真は雪像を見つめた。
「俺のことを考えながら、一生懸命作ってくれたんでしょ?」
「……うん」
「それだけで嬉しいよ」
「……!」
フェンリスの頬が赤くなった。
「……もう」
小さく呟く。
「……和真って、ずるい」
「えっ?」
「……なんでもない!」
フェンリスは照れくさそうに笑った。
そして、雪像の隣に並ぶ。
「じゃあ、写真!」
「ふふ。いいよ」
和真はスマートフォンを取り出した。
まずはフェンリスと雪像を一枚。
続いて、和真本人と雪像を並べて一枚。
さらに、近くの宿泊客に頼んで、二人と雪像を一緒に撮ってもらった。
「はい、撮りますよー!」
「お願いします!」
「えへへっ!」
カシャッ!
撮影を終えると、フェンリスが嬉しそうに写真を確認した。
「……あははっ!」
今度はフェンリスが笑い始めた。
「……和真!」
「ん?」
「こうして並べると……」
フェンリスは写真と雪像を見比べる。
「……あんまり似てないね!」
「……今気づいたの!?」
「あはははっ!!」
フェンリスはお腹を抱えて笑った。
和真もつられて笑い始める。
「ふふっ……あははは!」
「でも、僕、これ好き!」
「俺もだよ」
「えへへ!」
フェンリスは和真の手を握った。
「これもいい思い出だね!」
「うん。そうだね」
◇ ◇ ◇
その後も、雪遊びは続いた。
空き地のあちこちに、さまざまな雪の作品が並んでいく。
小さなウサギ。
丸まって眠る猫。
立派な雪の灯籠。
大きな魚の彫刻。
子供たちが作った、少し不格好な雪だるまもあった。
それぞれが自分の作品を見せ合い、褒め合い、写真を撮っている。
「和真! あれ見て!」
フェンリスが指差した。
そこには、大きな雪の魚があった。
「すごい! 本物みたい!」
「本当だね。上手だなぁ」
「ねえ、あれ何の魚かな?」
「……鮭かな?」
「鮭!?」
フェンリスの目が輝いた。
「おいしそう!」
「……食べられないよ?」
「分かってるって!」
フェンリスが笑った。
その隣では、男の子が小さな雪ウサギを作っていた。
「お姉さん!」
「ん?」
「見て見て!」
「わぁ!」
フェンリスがしゃがみ込む。
「かわいい!」
「僕が作ったんだ!」
「すごいね!」
男の子は得意げに胸を張った。
「お姉さんの狼もすごかったよ!」
「えへへ! ありがとう!」
「でも、あのお兄さんのやつは……」
男の子が少し離れた場所にある和真の雪像を見た。
「……変な顔!」
「…………!」
フェンリスが固まった。
その隣で、和真も一瞬黙り込む。
そして――。
「……ぷっ!」
フェンリスが吹き出した。
「……あはははっ!!」
「フェンリス!?」
「だ、だって……!」
フェンリスは笑いながら和真を見上げた。
「……変な顔って……!」
「……俺じゃなくて、雪像だからね?」
「分かってるよぉ!」
フェンリスは涙が出るほど笑っていた。
男の子もつられて笑い出す。
「あははは!」
和真は苦笑しながら二人を見つめた。
「……まったく」
しかし、その口元には笑みが浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
「それじゃあ、そろそろ雪合戦でもやりますか!」
宿泊客の男性が声を上げた。
「……!」
フェンリスが勢いよく振り返る。
「雪合戦!!」
「おっ、やる気満々だね!」
「うん!!」
フェンリスは嬉しそうに頷いた。
「僕、ずっと楽しみにしてたんだ!」
「ははは! そりゃあいい!」
男性は周囲の人たちに声をかけた。
「皆さん! 雪合戦やりませんかー!」
「おお、いいですね!」
「楽しそう!」
「僕もやる!」
「私も参加しようかしら!」
次々と参加者が集まってくる。
子供たちも大喜びだった。
「やったー!」
「雪合戦だー!」
和真はその様子を見ながら笑った。
「ずいぶん賑やかになりそうだね」
「うん!」
フェンリスはにっこり笑う。
そして、和真を見上げた。
「……和真」
「ん?」
「僕、和真と勝負したい!」
「……やっぱり?」
「えへへ!」
フェンリスは得意げに胸を張った。
「だって、一緒のチームだったら和真に雪玉投げられないもん!」
「……なるほど」
和真は苦笑する。
「朝から嫌な予感はしてたんだよね」
「大丈夫だよ!」
フェンリスは笑った。
「ちゃんと手加減するから!」
「……本当にお願いね?」
「えへへっ!」
その笑顔が、なぜか少しだけ悪戯っぽかった。
やがて参加者たちは、二つのチームに分かれることになった。
子供も参加するため、柔らかな雪玉だけを使うこと。
顔や頭を狙わないこと。
近距離では強く投げないこと。
転びそうになったら無理をしないこと。
そうした約束を確認してから、雪合戦を始めることになった。
和真とフェンリスは、もちろん別々のチーム。
「……ふふふ」
フェンリスが和真を見つめる。
「……なに?」
「和真、覚悟してね!」
「……お手柔らかに」
「えへへ!」
両チームがそれぞれの場所へ移動する。
間には雪で作った小さな壁がいくつか用意されていた。
そこに隠れながら雪玉を投げ合うらしい。
「それじゃあ、始めますよー!」
従業員の声が響く。
「準備はいいですかー!?」
「はーい!!」
大勢の返事が重なった。
フェンリスは雪玉を一つ手に取る。
そして、少し離れた場所にいる和真を見つめた。
「……ふふっ」
口元に笑みが浮かぶ。
「絶対当てるんだから!」
一方の和真は――。
「……さて」
雪玉を手に取りながら、フェンリスを見ていた。
「……あの子、絶対俺を狙ってくるよなぁ」
小さく呟く。
すると、同じチームの男性が笑った。
「お兄さん、彼女さんに狙われてるんですか?」
「……たぶん」
「ははは! それは大変だ!」
「ええ。かなり」
和真が苦笑する。
そして――。
「それでは……!」
従業員が大きく手を上げた。
「よーい……始め!!」
その瞬間。
「和真ぁぁ!!」
「……早っ!?」
フェンリスが真っ先に雪玉を投げてきた。
――ぽすっ!
「うわっ!」
雪玉が和真の肩に命中した。
「やったぁぁ!!」
フェンリスが両手を上げる。
「当たった!!」
「……ちょっと待って! 始まったばかりだよ!?」
「えへへ!」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
「油断した和真が悪いんだよ!」
「……よし」
和真も雪玉を構える。
「それなら、俺も遠慮しないからね」
「望むところだよ!」
フェンリスが身構えた。
「それっ!」
和真が雪玉を投げる。
「わわっ!」
フェンリスは慌てて身体を傾けた。
雪玉が肩のすぐ横を通り過ぎる。
「危なかったぁ!」
「ふふ。次は当てるよ」
「僕だって!」
フェンリスも雪玉を投げ返す。
――ぽすっ!
「……あっ!」
またしても和真の腕に命中した。
「やった!!」
「……二回目!?」
「えへへっ!」
フェンリスは満面の笑みを浮かべた。
周囲では、子供たちも雪玉を投げ合っていた。
「それー!」
「わーっ!」
「こっちだよー!」
「あははは!」
笑い声が絶えない。
そのとき、フェンリスの隣に男の子が駆け寄ってきた。
「お姉さん!」
「ん?」
「僕もあのお兄さんに当てたい!」
「……!」
フェンリスの目が輝いた。
「いいね!」
二人は顔を見合わせる。
「一緒に狙おう!」
「うん!」
そして――。
「和真ぁ!!」
「お兄さーん!!」
「……ん?」
和真が振り返る。
そこには、雪玉を構えた二人がいた。
「……えっ?」
「せーのっ!」
「それーっ!!」
――ぽすっ!
――ぽすっ!
二つの雪玉が和真に命中した。
「うわっ!?」
和真が驚く。
フェンリスと男の子は顔を見合わせた。
「やったぁ!!」
「当たったー!!」
二人で喜び合う。
「……ちょっと待って!」
和真が声を上げた。
「なんで二人とも俺ばっかり狙うの!?」
「えへへ!」
フェンリスは悪戯っぽく笑った。
「だって、和真に勝ちたいんだもん!」
「僕もー!」
男の子が続く。
「……なるほどね」
和真は苦笑した。
すると、同じチームの男性が笑いながら声をかけてきた。
「お兄さん! こっちに隠れて!」
「あっ、ありがとうございます!」
和真は慌てて雪の壁の後ろへ移動した。
しかし――。
「……ふふふ」
フェンリスがその様子を見ていた。
「……和真、隠れたね」
「うん!」
男の子が頷く。
「どうする?」
「……よーし!」
フェンリスは雪玉を一つ手に取った。
「僕がこっちから行くから、君は反対側からね!」
「分かった!」
二人は左右に分かれる。
それを見ていた和真は、思わず声を上げた。
「……ちょっと! 作戦立ててない!?」
「えへへ!」
フェンリスが笑う。
「和真! 覚悟ー!」
「わーっ!」
男の子も走り出す。
「……うわっ!」
和真は慌てて雪の壁から飛び出した。
――ぽすっ!
――ぽすぽすっ!
次々と雪玉が飛んでくる。
「ちょ、ちょっと待って!」
和真が笑いながら逃げる。
「二人がかりは反則じゃない!?」
「反則じゃないよー!」
フェンリスが楽しそうに答える。
「チーム戦だもん!」
「……あはは!」
周囲の人たちも大笑いしていた。
いつの間にか、子供たちまで和真を追いかけ始める。
「お兄さんを狙えー!」
「それーっ!」
「わーっ!」
「……なんで俺だけ!?」
和真は逃げ回りながら笑った。
その姿を見ていたフェンリスは、お腹を抱えて笑っていた。
「あははははっ!!」
「……フェンリス!」
「……あはは! 和真、真っ白!」
和真の上着には、雪玉の跡がいくつもついていた。
「……まったく!」
和真も笑いながら雪玉を手に取る。
「こうなったら、俺も反撃するよ!」
「えへへ! 来て来て!」
「それっ!」
和真が雪玉を投げる。
フェンリスは軽やかに避けようとした。
しかし――。
「……あっ!」
雪に足を取られ、少しだけ体勢が崩れる。
――ぽすっ!
雪玉が肩に命中した。
「……!」
フェンリスが目を丸くする。
和真も驚いた。
「……当たった!」
数秒の沈黙。
そして――。
「……やられたぁ!」
フェンリスが楽しそうに笑った。
「和真、すごい!」
「……ふふ。ようやく一回だね」
「えへへ!」
フェンリスは雪玉を作り直した。
「でも、まだまだ負けないよ!」
そして、再び走り出す。
――ぽすっ!
――ぽすぽすっ!
雪玉が飛び交い、笑い声が響く。
大人も子供も関係なく、みんなが夢中になって遊んでいた。
やがて、フェンリスの肩にも雪がつき、和真の上着もすっかり白くなっていた。
それでも二人は笑っていた。
「和真ー!」
「なにー?」
「すっごく楽しいねー!!」
「うん! 楽しいよ!」
フェンリスは満面の笑みを浮かべた。
そして、最後の雪玉を投げる。
「えいっ!!」
――ぽすっ!
「……あっ!」
和真の肩に命中した。
「やったぁぁ!!」
フェンリスが嬉しそうに飛び跳ねる。
その姿を見て、和真も声を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
――それから、しばらくして。
「はぁぁ……!」
フェンリスが大きく息を吐いた。
雪合戦が終わり、みんなが休憩している。
「……楽しかったぁ!」
「ふふ。随分楽しんでたね」
和真が隣に座る。
「うん!」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
「雪合戦って、すっごく面白いね!」
「そうだね」
「僕、またやりたい!」
「ふふ。今度はみんなともできたらいいね」
「……あっ!」
フェンリスが顔を上げる。
「それ、いいね!」
「うん」
「みゆも、きっと喜ぶよね!」
「そうだね。雪玉を追いかけそうだなぁ」
「……あははっ!」
フェンリスが笑った。
「みゆならやりそう!」
「ひかげは、ちょっと怖がるかもしれないね」
「えへへ! でも、慣れたら楽しんでくれそう!」
「うん」
「ピピなんて、空から雪玉投げてきそう!」
「……それは反則だね」
「あはははっ!!」
二人は顔を見合わせて笑った。
そんな会話をしているうちに、辺りが少しずつ暗くなり始めた。
「あっ……」
フェンリスが空を見上げる。
「もう夕方なんだね」
「本当だ」
和真も顔を上げた。
先ほどまで青く澄み渡っていた空が、少しずつ茜色に染まり始めている。
冬の日暮れは早い。
雪に覆われた山の向こうへ、太陽がゆっくりと沈もうとしていた。
「……きれい」
フェンリスが呟く。
雪原が夕日に照らされ、淡い橙色に染まっていた。
朝には眩しいほど真っ白だった世界が、今は温かな色に包まれている。
「……和真」
「ん?」
「今日、あっという間だったね」
「うん」
「朝から雪かきして……」
フェンリスは指を折りながら数え始めた。
「お昼におにぎり食べて、かまくら作って、雪だるま作って……」
「雪の狼も作ったね」
「うん!」
「それから、俺の雪像も」
「……あっ!」
フェンリスが吹き出した。
「……あははっ!」
「……また笑ってる」
「だ、だって……!」
フェンリスは口元を押さえた。
「……和真の雪像、面白かったんだもん!」
「作ったのはフェンリスでしょ?」
「えへへ!」
二人は楽しそうに笑った。
そして、フェンリスはゆっくりと周囲を見渡した。
大きなかまくら。
大小さまざまな雪だるま。
雪のウサギや狼。
そして、少し不格好な和真の雪像。
どれも、今日みんなで作ったものだった。
「……僕、今日のこと……」
フェンリスが小さく呟く。
「……ずっと忘れないと思う」
和真は彼女を見つめた。
「……うん」
「最初は、雪がいっぱい積もってるのを見て、すごいなって思っただけだったけど……」
フェンリスは嬉しそうに微笑んだ。
「こんなにいっぱい遊べるなんて、思ってなかった!」
「そうだね」
「それに、みんなとも仲良くなれたし!」
「うん」
フェンリスは和真の手を握った。
「……和真」
「ん?」
「僕、この旅館に泊まれてよかった」
和真は静かに頷いた。
「俺もそう思うよ」
「……えへへ」
フェンリスは幸せそうに笑った。
◇ ◇ ◇
そのときだった。
「皆様ー!」
旅館の方から、女将の声が響いた。
「……?」
フェンリスが振り返る。
そこには、女将と数人の仲居たちが立っていた。
さらに、その後ろから従業員たちが何かを運んでくる。
「……あれ?」
フェンリスが首を傾げた。
「和真、あれ何だろう?」
「……ん?」
和真も目を向ける。
従業員たちが運んでいたのは、七輪や食材の入った箱だった。
「……七輪?」
和真が呟く。
フェンリスはますます不思議そうな顔をした。
「……しちりん?」
「うん。炭を使って料理を焼く道具だよ」
「……えっ!?」
フェンリスの目が輝いた。
「お料理するの!?」
「……そうみたいだね」
女将が嬉しそうに笑った。
「皆様! 本日は本当にお疲れ様でございました!」
周囲の人たちが集まり始める。
「朝から雪かきをしていただき、さらには雪遊びまで楽しんでいただけて、私どもも嬉しく思っております」
女将はそう言って、にっこりと微笑んだ。
「そこで、ささやかではございますが、もう一つお楽しみをご用意いたしました!」
「……!」
フェンリスが身を乗り出す。
「もう一つ!?」
「ええ!」
女将は従業員たちが運んできた箱を示した。
「せっかく立派なかまくらもできましたので、皆様で温かいものを召し上がりませんか?」
「……!」
フェンリスの目が大きく開いた。
「温かいもの!?」
「はい。焼き餅や、北海道の海鮮などをご用意いたしました」
「……お餅!?」
フェンリスが声を上げる。
「それに、ホタテやイカもございますよ」
「海鮮も!?」
女将が笑顔で頷く。
「ええ。皆様に楽しんでいただければと思いまして」
「やったぁぁぁ!!」
フェンリスが飛び跳ねた。
「和真!! すごい!!」
「ふふ。本当だね」
「まだ楽しいことがあるよ!!」
和真は嬉しそうなフェンリスを見て笑った。
周囲の宿泊客たちも歓声を上げていた。
「おお! いいですねぇ!」
「焼き餅ですか! 懐かしい!」
「ホタテもあるんですか!?」
「うわぁ! 楽しみ!」
再び賑やかな声が広がっていく。
従業員たちは、かまくらの周囲へ机や椅子を並べ始めた。
炭を使う七輪は、煙や一酸化炭素がこもらないよう、かまくらの外に設置する。
その代わり、かまくらの中には座布団や小さな机が用意され、焼き上がった料理を持ち込んで楽しめるようになっていた。
「……わぁ」
フェンリスが目を輝かせる。
「雪のお部屋で、お餅を食べられるんだね!」
「そうだね」
「すごい! 楽しみ!」
和真は優しく微笑んだ。
「ふふ。今日は本当に盛りだくさんだね」
「うん!」
フェンリスは嬉しそうに頷いた。
◇ ◇ ◇
――じゅうぅぅ……。
七輪の上で、大きなホタテが焼かれ始めた。
炭火に炙られた貝殻の中で、身が少しずつふっくらと膨らんでいく。
「……わぁぁ」
フェンリスが興味津々で覗き込んだ。
「和真! 見て!」
「うん。おいしそうだね」
「すっごくいい匂い!」
すると、仲居が小さな瓶を手に取った。
「こちらに、お醤油を少し垂らしますね」
「……うん!」
じゅわっ!
醤油が熱い貝殻に触れた瞬間、香ばしい湯気が立ち上った。
「……っ!!」
フェンリスの目が輝く。
「いい匂いぃぃ!!」
仲居は嬉しそうに笑った。
「もう少しで焼き上がりますよ」
「うん!」
フェンリスはじっとホタテを見つめていた。
その様子を見ていた和真が小さく笑う。
「……フェンリス」
「ん?」
「そんなに見つめても、早く焼けないよ?」
「……えへへ!」
フェンリスが照れくさそうに笑った。
「だって、おいしそうなんだもん!」
「ふふ。そうだね」
やがて、仲居が焼き上がったホタテを皿に乗せてくれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう!」
「熱いですから、気をつけてくださいね」
「うん!」
フェンリスは少し冷ましてから、箸で身を持ち上げた。
「……いただきます!」
ぱくっ。
「…………!」
赤い瞳が大きく開かれる。
「……んんっ!!」
そして――。
「おいしいぃぃ!!」
満面の笑みを浮かべた。
「和真!! これ、すっごくおいしい!!」
「ふふ。よかったね」
「和真も食べて!」
「うん」
和真も焼きたてのホタテを受け取る。
一口食べると、貝の旨味と醤油の香ばしさが口いっぱいに広がった。
「……ああ、本当だ」
「でしょ!?」
「うん。すごくおいしいね」
「えへへ!」
フェンリスは幸せそうに笑った。
その隣では、別の七輪でイカが焼かれていた。
じゅうぅぅ……。
香ばしい匂いが漂ってくる。
「……あっ!」
フェンリスが振り返る。
「和真! あっちもおいしそう!」
「ふふ。今度はイカだね」
「食べたい!」
「うん。食べようか」
二人は焼きたてのイカも分けてもらった。
「……んっ!」
フェンリスが嬉しそうに頷く。
「これもおいしい!」
「うん。いい味だね」
「えへへ!」
すると――。
「お姉さーん!」
男の子が駆け寄ってきた。
「お餅も焼けたよ!」
「……お餅!?」
フェンリスが勢いよく振り返る。
「どこ!?」
「こっち!」
男の子が手を引く。
「和真! 行こう!」
「はいはい」
二人は笑いながら、餅を焼いている七輪のところへ向かった。
◇ ◇ ◇
「……わぁ」
フェンリスが感嘆の声を漏らした。
七輪の上には、四角い餅がいくつも並んでいた。
炭火で炙られた表面には、少しずつ焼き色がついている。
そして――。
ぷくっ。
「……あっ!」
フェンリスが指差した。
「和真!!」
「ん?」
「お餅が膨らんだ!!」
「ふふ。本当だね」
ぷくぷく……。
餅の一つが、さらに大きく膨らんでいく。
「……すごい!」
フェンリスが目を丸くした。
「なんで膨らむの!?」
近くにいた仲居が笑顔で説明する。
「中の水分が温められて、膨らむんですよ」
「へぇぇ……!」
フェンリスは興味津々だった。
「面白いね!」
「ふふふ。そうですね」
仲居は焼き上がった餅を皿へ移した。
「こちら、お醤油で召し上がりますか? それとも、きな粉もございますよ」
「……きなこ?」
「ええ。甘いきな粉をまぶして食べてもおいしいですよ」
「……!」
フェンリスの目が輝いた。
「僕、両方食べたい!」
「ふふふ。かしこまりました」
仲居は嬉しそうに笑い、二種類用意してくれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう!」
フェンリスはまず、醤油をつけた餅を手に取った。
「いただきまーす!」
ぱくっ。
「……んっ!」
そして――。
びよーん。
「……!?」
餅が長く伸びた。
フェンリスが目を丸くする。
「……ふぁ!?」
さらに引っ張る。
びよーん。
「……ふぉぉ!?」
和真は思わず吹き出した。
「……ぷっ!」
「……和真ぁ!?」
「ご、ごめん!」
和真は笑いながら口元を押さえる。
「だって、すごく伸びてるから……!」
「……んむむ!」
フェンリスは一生懸命餅を噛み切った。
そして、ゆっくりと噛んで飲み込む。
「……はぁ!」
「大丈夫?」
「……うん!」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
「お餅って、こんなに伸びるんだね!」
「そうだね」
「びっくりした!」
「ふふ。俺もびっくりしたよ」
フェンリスは少し考えたあと、今度は小さく餅を噛み切った。
「……んっ!」
もぐもぐ。
「……おいしい!」
「よかったね」
「うん!」
そのあと、きな粉餅も食べる。
「……んんっ!」
フェンリスの頬が緩んだ。
「甘い!」
「ふふ。おいしい?」
「うん!」
フェンリスは和真へ皿を差し出した。
「和真も食べて!」
「うん。いただこうかな」
和真もきな粉餅を一口食べた。
「……ああ、おいしいね」
「でしょ!?」
「うん。甘さもちょうどいいね」
「えへへ!」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
それから、ふと和真を見上げる。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「僕、もう一個食べてもいいかな?」
「ふふ。いいけど……」
和真は少し考えた。
「夕ご飯、食べられなくならない?」
「…………あっ」
フェンリスが固まった。
そして、少しだけ視線を逸らす。
「……だ、大丈夫だよ!」
「本当?」
「……たぶん!」
「……ふふっ」
和真は笑った。
「じゃあ、食べすぎないようにね」
「はーい!」
そう答えながら、フェンリスは嬉しそうにもう一つ餅を受け取った。
◇ ◇ ◇
日が暮れるにつれて、空き地の雰囲気も少しずつ変わっていった。
旅館の従業員たちが用意した灯りが、雪の上を柔らかく照らし始める。
大きなかまくら。
雪だるま。
雪の狼。
そして、少し不格好な和真の雪像。
昼間に作ったものが、淡い光の中に浮かび上がっていた。
「……わぁ」
フェンリスが小さく息を呑んだ。
「……綺麗」
和真も隣に並んだ。
「うん。本当に綺麗だね」
昼間とは違う景色だった。
真っ白だった雪が、灯りを受けて淡く輝いている。
かまくらの中からも柔らかな光が漏れ、まるで小さな家が雪原に建っているようだった。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「ちょっと、かまくらに入ってもいい?」
「うん。行こうか」
二人は焼きたての餅と温かな飲み物を持ち、再びかまくらへ向かった。
中へ入ると、昼間とは違う光景が広がっていた。
小さな灯りが雪の壁を照らし、白い空間全体が柔らかく輝いている。
「……すごい」
フェンリスが小さく呟いた。
「昼間より、もっと綺麗……」
「そうだね」
二人は並んで腰掛けた。
フェンリスは温かな飲み物を一口飲む。
「……はぁぁ」
幸せそうに息を吐いた。
「……あったかい」
「うん」
和真も一口飲んだ。
外では、宿泊客たちの楽しそうな声が響いている。
炭火で焼かれる海鮮の香り。
雪の上を歩く足音。
遠くから聞こえる子供たちの笑い声。
そのすべてが、どこか心地よかった。
「……和真」
「ん?」
フェンリスがそっと肩に頭を寄せた。
「……今日、すっごく楽しかった」
「うん。俺も」
「朝からずっと遊んじゃったね」
「ふふ。そうだね」
「……えへへ」
フェンリスは小さく笑った。
「僕、雪って冷たいだけだと思ってた」
「……うん」
「でも、こんなに楽しいんだね」
和真は静かに頷いた。
フェンリスは続ける。
「それに、みんな優しかった」
「そうだね」
「女将さんも、仲居さんも、雪かきしてた人たちも……」
フェンリスは嬉しそうに微笑んだ。
「僕たちが雪かき手伝いたいって言っただけなのに、こんなにいっぱい楽しいことができたんだもん」
「……うん」
和真はそっとフェンリスの手を握った。
「フェンリスが雪かきを手伝いたいって言ってくれたからだよ」
「……えっ?」
「それがきっかけで、みんな集まってくれたんだと思う」
「……僕が?」
「うん」
和真は優しく微笑んだ。
「だから、ありがとう」
「…………!」
フェンリスの頬が赤くなった。
「……もう」
「ん?」
「……和真って、そういうこと言うの、ずるいよ」
「えっ?」
和真が首を傾げる。
フェンリスは小さく笑った。
「……でも、嬉しい」
そして、そっと和真の手を握り返す。
「……僕も、和真が一緒にいてくれたから、こんなに楽しかったんだよ」
「……そっか」
「うん!」
フェンリスはにっこり笑った。
「だから、僕からもありがとう!」
その笑顔を見て、和真も微笑んだ。
「どういたしまして」
そして、そっとフェンリスを抱き寄せた。
「……えへへ」
フェンリスは嬉しそうに肩へ頬を寄せた。
しばらく二人で寄り添っていると――。
「お姉さーん!」
入口から声がした。
「あっ!」
フェンリスが顔を上げる。
昼間の男の子だった。
「こっちでみんな写真撮るんだって!」
「……写真!?」
「うん! お姉さんたちも来て!」
フェンリスはぱっと表情を明るくした。
「和真!」
「うん。行こうか」
「やった!」
二人は手を繋いでかまくらを出た。
◇ ◇ ◇
外へ出ると、大勢の宿泊客たちが集まっていた。
女将や仲居たちも一緒だった。
「せっかくですから、皆様で記念写真を撮りましょう!」
女将が嬉しそうに声をかける。
「おお! いいですね!」
「ぜひぜひ!」
「私たちも入っていいんですか?」
「もちろんでございます!」
みんなが笑顔で集まり始めた。
背景には、大きなかまくらと、昼間に作った雪だるまたち。
そして、雪の彫刻が並んでいる。
「……わぁ」
フェンリスが嬉しそうに笑った。
「和真! みんなで写真だって!」
「うん」
「すっごく楽しみ!」
和真は優しく微笑んだ。
「そうだね」
フェンリスは和真の腕に抱きつき、隣に並んだ。
その横には、昼間から一緒に遊んでいた男の子。
さらに両親や年配の夫婦、ほかの宿泊客たちが次々と並んでいく。
「皆様、もう少し寄ってくださーい!」
従業員の声が響く。
「はーい!」
「そっち、もう少し!」
「お父さん、見えない!」
「おっと、すまんすまん!」
笑い声が広がる。
やがて、全員が並び終えた。
「それでは、撮りますよー!」
従業員がカメラを構える。
「はい、皆様笑顔で!」
フェンリスは和真を見上げた。
「……和真」
「ん?」
「……えへへっ!」
そして、ぎゅっと腕を抱きしめた。
和真も優しく微笑む。
「はい、チーズ!!」
――カシャッ!
雪に覆われた旅館の庭。
柔らかな灯りに照らされたかまくら。
そして、そこに集まったたくさんの笑顔。
その一瞬が、一枚の写真に収められた。
「……やったぁ!」
フェンリスが嬉しそうに声を上げた。
「和真! みんなで撮れたね!」
「うん」
「えへへ!」
女将は写真を確認すると、嬉しそうに微笑んだ。
「……とても素敵なお写真になりました」
そして、周囲の人たちを見渡す。
「皆様、本日は本当にありがとうございました」
その言葉に、自然と拍手が起こった。
「こちらこそ!」
「楽しかったですよ!」
「また来ます!」
「ありがとうございました!」
温かな声が次々と響いていく。
女将は深々と頭を下げた。
その目元には、再び小さな涙が浮かんでいた。
昨日まで、吹雪によって足止めされていた人たち。
予定が狂い、不安な気持ちで過ごしていた宿泊客たち。
しかし今は、誰もが笑顔だった。
そして、その輪の中には、和真とフェンリスの姿もあった。
「……ねえ、和真」
「ん?」
フェンリスが小さく呟く。
「僕、今日のこと……絶対に忘れない」
和真は優しく微笑んだ。
「俺もだよ」
「……えへへ」
フェンリスは幸せそうに笑った。
そして、和真の手をぎゅっと握った。
「……大好き」
「俺も大好きだよ」
雪に覆われた夜の庭。
大勢の人たちの笑い声と、温かな灯りに包まれながら。
二人は、思いがけず訪れた特別な一日を、心から楽しんでいた。
――午後六時半。
楽しかった雪遊びも終わり、宿泊客たちは少しずつ旅館の中へ戻り始めていた。
かまくらの周囲に置かれていた七輪も片付けられ、従業員たちが最後の後片付けを進めている。
「……はぁぁ!」
フェンリスが大きく息を吐いた。
「楽しかったぁ!」
「ふふ。今日は本当に一日中遊んでたね」
「うん!」
フェンリスは満面の笑みを浮かべた。
その頬は寒さでほんのり赤くなり、銀色の髪にも小さな雪の粒がついていた。
「雪かきも、かまくらも、雪だるまも……」
指を折りながら数え始める。
「狼も作ったし、雪合戦もしたし!」
「俺の雪像もね」
「……あっ!」
フェンリスが吹き出した。
「……あははっ!」
「また笑ってる」
「だ、だって……!」
口元を押さえながら、楽しそうに笑う。
「思い出したら面白くなっちゃった!」
「作った本人が笑っちゃだめでしょ」
「えへへ! ごめんね!」
まったく悪びれた様子もない。
和真は苦笑しながら、フェンリスの頭についた雪を払ってやった。
「ほら、髪にも雪がついてるよ」
「あっ、ほんと?」
「うん。じっとしてて」
「はーい!」
フェンリスは嬉しそうに目を閉じた。
和真が優しく髪を払っていると、少し離れたところから声がかかった。
「四ノ宮様、フェンリス様!」
振り返ると、女将がこちらへ歩いてきていた。
「あっ! 女将さん!」
「本日は本当にありがとうございました」
女将は二人の前で立ち止まると、深々と頭を下げた。
「皆様のおかげで、明日からは無事に通常営業へ戻れそうでございます」
「それはよかったです」
和真が笑顔で答える。
女将はゆっくりと顔を上げた。
「正直に申し上げますと、今朝の時点では、ここまで除雪が進むとは思っておりませんでした」
「そうだったんですか?」
「ええ。あの積雪でしたから、従業員だけでは何日かかることかと……」
女将は少し困ったように笑った。
「もちろん、専門の業者さんにもお願いしておりましたが、駐車場や通路の細かな場所までは、なかなか手が回りませんので」
「確かに、すごい雪でしたからね」
「はい。それが、まさかお客様方までお手伝いくださるとは……」
女将は改めて二人を見つめた。
「本当に感謝しております」
「そんな!」
フェンリスが慌てて手を振った。
「僕たちがやりたくてやったんだよ!」
「ええ。そうおっしゃっていただけると、私どもも救われます」
「それにね!」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
「僕、今日すっごく楽しかったんだ!」
「ふふふ。そうでしたね」
「最初は雪かきだけだったのに、みんなが手伝ってくれて!」
フェンリスは両手を広げた。
「そのあと、かまくらとか雪だるまとか、いーっぱい作って!」
「ええ」
「雪合戦も面白かったし、お餅もホタテもすっごくおいしかった!」
女将は嬉しそうに笑った。
「それは何よりでございます」
「だから、僕たちからもありがとう!」
フェンリスはぺこりと頭を下げた。
「こんなに楽しいこと、いっぱい教えてくれて!」
「……フェンリス様」
女将の表情が柔らかくなった。
和真も隣で頭を下げる。
「俺からもお礼を言わせてください。本当にありがとうございました」
「四ノ宮様まで……」
「今回の旅行、吹雪で予定が大きく変わってしまいましたけど……」
和真はフェンリスへ目を向けた。
彼女はにっこり笑っている。
「そのおかげで、こんなに楽しい経験ができました」
「……そうでございますか」
「はい。きっと、ずっと忘れないと思います」
女将は二人を見つめていた。
そして、目元をそっと押さえた。
「……困りましたねぇ」
「えっ?」
フェンリスが首を傾げる。
「どうしたの?」
「いえ……」
女将は微笑んだ。
「歳を取ると、どうにも涙もろくなってしまいまして」
「……女将さん?」
「ふふふ。嬉しい涙でございますよ」
そう答えると、女将は改めて二人へ頭を下げた。
「この旅館を営んでいて、本当によかったと思える一日でございました」
その言葉に、和真もフェンリスも自然と笑顔になった。
「……えへへ!」
フェンリスが嬉しそうに笑う。
「僕も、この旅館に来られてよかった!」
「ありがとうございます」
女将はにっこりと微笑んだ。
「どうぞ、またいつでもお越しくださいませ」
「うん! 絶対また来る!」
フェンリスが元気よく答える。
和真も頷いた。
「はい。またお世話になりたいと思います」
「ふふふ。楽しみにお待ちしております」
そして、女将は何かを思い出したように手を合わせた。
「ああ、そうでした」
「はい?」
「お二人とも、そろそろ夕食のお時間でございますが……」
「…………あっ」
フェンリスが固まった。
和真も一瞬、言葉を失った。
「…………」
「…………」
二人はゆっくりと顔を見合わせる。
「……和真」
「……うん」
「……僕、まだお腹いっぱい」
「……俺も」
女将はそんな二人を見て、目を瞬かせた。
そして――。
「……ふふっ!」
口元を押さえる。
「ふふふ……!」
とうとう笑い出してしまった。
「あらあら! そうでしたわね!」
「えへへ……」
フェンリスが恥ずかしそうに笑う。
「お餅、いっぱい食べちゃった……」
「ホタテもイカもいただきましたからね」
和真も苦笑した。
女将は楽しそうに頷いた。
「ええ。お二人とも、本当においしそうに召し上がっていらっしゃいましたもの」
「……あはは」
「ふふふ。では、お夕食は少し遅らせましょうか?」
「……いいんですか?」
「もちろんでございます。せっかくのお料理ですから、おいしく召し上がっていただきたいですしね」
女将は優しく微笑んだ。
「少しお休みになってから、お越しくださいませ」
「ありがとうございます」
「ありがとう、女将さん!」
フェンリスは嬉しそうに頭を下げた。
「ふふふ。それでは、また後ほど」
女将は笑顔で旅館へ戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、和真が小さく呟く。
「……さて」
「……うん?」
「とりあえず、部屋に戻ろうか」
「……そうだね」
フェンリスは自分のお腹をさすった。
「……食べられるかなぁ」
「ふふ。無理しなくていいからね」
「……でも、せっかく作ってくれてるんだもん」
「そうだね」
和真は優しく笑った。
「じゃあ、少し休んでから頑張ろうか」
「うん!」
二人は手を繋ぎ、客室へ戻った。
◇ ◇ ◇
――午後八時。
食事会場には、夕食の準備が整えられていた。
「……わぁ」
フェンリスが目を輝かせる。
食卓には、北海道の食材を使った料理が並んでいた。
新鮮な魚のお刺身。
温かな茶碗蒸し。
香ばしく焼かれた魚。
彩り豊かな小鉢。
さらに、湯気の立つ鍋料理まで用意されていた。
「……おいしそう」
フェンリスが呟く。
「うん。すごくおいしそうだね」
和真も頷いた。
しかし――。
「…………」
フェンリスは自分のお腹に手を当てた。
「……和真」
「ん?」
「……まだ、ちょっといっぱい」
「……俺もだよ」
二人は顔を見合わせた。
そして、思わず笑ってしまった。
「……あははっ!」
「ふふっ!」
すると、料理を運んできた仲居が声をかけてきた。
「お二人とも、どうかなさいました?」
「あっ、いえ……」
和真が苦笑する。
「実は、さっきのお餅や海鮮がまだお腹に残ってまして……」
「あら!」
仲居も笑い出した。
「ふふふ! そうでしたか!」
「えへへ……」
フェンリスが照れくさそうに笑った。
「だって、すっごくおいしかったんだもん!」
「ありがとうございます」
仲居は嬉しそうに頭を下げる。
「では、どうぞご無理のない範囲で召し上がってくださいね」
「はい」
「うん!」
そうして、二人の夕食が始まった。
「いただきます」
「いただきまーす!」
フェンリスはまず、茶碗蒸しを一口食べた。
「……んっ!」
ぱっと表情が明るくなる。
「おいしい!」
「ふふ。よかったね」
「和真も食べて!」
「うん」
和真も一口食べる。
優しい出汁の味が、口いっぱいに広がった。
「……ああ、おいしいね」
「でしょ!?」
「うん。これなら食べられそうだね」
「えへへ!」
フェンリスは嬉しそうに頷いた。
しかし、しばらくすると――。
「……ふぅ」
箸を置いてしまった。
「……どうしたの?」
「……ちょっと、休憩」
「ふふ。そっか」
和真もゆっくりと食べ進めていた。
料理はどれもおいしい。
それなのに、なかなか箸が進まない。
昼にはおにぎりと豚汁。
夕方には餅や海鮮。
そのうえ、朝から一日中身体を動かしていたのだ。
疲れと満腹感が同時に押し寄せてきていた。
「……和真」
「ん?」
「……僕、ちょっと失敗したかも」
「何が?」
「……お餅、食べすぎちゃった」
フェンリスがしょんぼりと呟く。
和真は思わず笑った。
「ふふ。おいしかったからね」
「……うん」
「でも、今日は特別だから」
「……特別?」
「うん。あんなに大勢で雪かきして、雪遊びまでしたんだよ?」
和真は優しく微笑んだ。
「つい食べすぎるくらい楽しかったなら、いい思い出じゃない?」
「…………!」
フェンリスは目を丸くした。
そして、嬉しそうに笑う。
「……えへへ!」
「ふふ」
「そうだね!」
フェンリスは再び箸を手に取った。
「じゃあ、もうちょっと頑張る!」
「うん。無理しない程度にね」
「はーい!」
二人はゆっくりと食事を続けた。
途中で何度も箸を休め、今日の出来事を話しながら、一品ずつ味わっていく。
「和真、あの男の子、すっごく元気だったね!」
「うん。フェンリスとずっと一緒にいたもんね」
「えへへ! かわいかった!」
「そうだね」
「雪合戦のときも、和真を狙うって張り切ってたよ!」
「……それはよく覚えてるよ」
「あはははっ!」
フェンリスが楽しそうに笑う。
「和真、いっぱい雪玉当てられてたもんね!」
「フェンリスが先頭に立ってたけどね」
「えへへ!」
そんな話をしながら食べ進めているうちに、料理も少しずつ減っていった。
そして――。
「……ふぅぅぅ」
フェンリスが大きく息を吐いた。
「……ごちそうさまでしたぁ……」
「ごちそうさまでした」
和真も箸を置く。
二人は顔を見合わせた。
「……食べたね」
「……うん」
「……お腹、大丈夫?」
「……いっぱい」
「……俺も」
そして――。
「……あはははっ!」
二人は同時に笑い出した。
そこへ、女将が様子を見にやってきた。
「お二人とも、お食事はいかがでしたか?」
「あっ、女将さん!」
フェンリスが顔を上げる。
「すっごくおいしかった!」
「それはようございました」
「……でも」
フェンリスは恥ずかしそうに笑った。
「お腹、ぱんぱん……」
「ふふふ!」
女将は声を上げて笑った。
「あらあら! それは大変でございますね!」
「えへへ……」
「今日は本当によく召し上がりましたものね」
「……うん」
フェンリスはお腹をさすった。
女将は優しく微笑む。
「今夜はゆっくりお休みくださいませ。朝からずっと動いていらっしゃいましたから」
「はい。ありがとうございます」
「ありがとう!」
和真とフェンリスが頭を下げる。
女将はにっこりと微笑んだ。
「明日はお帰りになるんでしたね」
「はい。昼頃の便なので、朝早く出発する予定です」
「そうでございますか」
女将は少し寂しそうに笑った。
「それでしたら、明日の朝食はお早めにご用意いたしましょう」
「……いいんですか?」
「もちろんでございます」
「ありがとうございます。本当に助かります」
「いえいえ」
女将は優しく首を振った。
「どうぞ、最後まで楽しいご旅行になさってくださいませ」
「はい」
「うん!」
フェンリスは元気よく頷いた。
「明日も楽しんでくるね!」
「ふふふ。お気をつけて」
二人は改めてお礼を言い、食事会場をあとにした。
◇ ◇ ◇
客室へ戻ると、フェンリスは畳の上にぺたんと座り込んだ。
「……はぁぁぁ」
大きく息を吐く。
「お腹いっぱい……」
「ふふ。今日は本当にいっぱい食べたね」
「……うん」
フェンリスは少しだけ苦笑した。
「でも、全部おいしかった!」
「そうだね」
和真は隣に腰を下ろした。
すると、フェンリスがすぐに身体を寄せてくる。
「……和真」
「ん?」
「……ぎゅってして」
「ふふ。いいよ」
和真が腕を広げると、フェンリスは嬉しそうに抱きついた。
「……えへへ」
「お疲れ様」
「……うん」
和真は銀色の髪を優しく撫でた。
「今日もいっぱい頑張ったね」
「……和真も」
「ふふ。ありがとう」
フェンリスはしばらく和真の胸に頬を寄せていた。
そして、ふと顔を上げる。
「……ねえ、和真」
「どうした?」
「お風呂、入ろう?」
「うん。そうしようか」
「えへへ!」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
「今日はいっぱい動いたから、ゆっくり浸かりたい!」
「そうだね。ただ、少し休んでから入ろう」
「……あっ」
フェンリスが自分のお腹を見下ろす。
「……そうだった」
「ふふ」
「……もう、今日は食べすぎちゃったなぁ」
そう言いながらも、その表情は幸せそうだった。
◇ ◇ ◇
――それから、しばらくして。
客室の露天風呂には、白い湯気が立ち上っていた。
夜の空気は冷たい。
しかし、昼間の猛吹雪が嘘だったかのように、風は穏やかだった。
空には星が瞬き、雪に覆われた庭が月明かりに照らされている。
「……わぁ」
フェンリスが感嘆の声を漏らした。
「和真、見て!」
「うん。綺麗だね」
「雪が光ってる……!」
白い雪が月明かりを反射し、淡く輝いていた。
昼間とはまた違う、幻想的な景色。
二人は身体を洗い、ゆっくりと湯船へ入った。
「……はぁぁぁ……」
フェンリスが気持ちよさそうに息を吐いた。
「……あったかぁい……」
「ふふ。気持ちいいね」
「うん……!」
フェンリスは湯船の縁に背中を預け、目を閉じた。
「……しあわせぇ……」
和真も隣で大きく息を吐く。
朝から続いた雪かき。
そのあとの雪遊び。
思っていた以上に身体を動かしていたらしい。
温かな湯に浸かると、身体の奥に残っていた疲れがゆっくりとほぐれていくようだった。
「……ああ、気持ちいい」
「でしょ……?」
フェンリスが嬉しそうに笑った。
そして、少しずつ和真の方へ移動してくる。
「……和真」
「ん?」
「……隣、いい?」
「もちろん」
「えへへ……」
フェンリスは身体を寄せ、和真の腕に抱きついた。
和真も優しく肩を抱く。
「……あったかい」
「そうだね」
「……温泉もあったかいけど……」
フェンリスは和真の胸に頬を寄せた。
「和真もあったかい」
「……ふふ」
和真はその頭を優しく撫でた。
しばらく、二人は静かに雪景色を眺めていた。
そして――。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「今日の雪だるま、明日も残ってるかな?」
「うん。天気次第だけど、きっと残ってると思うよ」
「……そっか」
フェンリスは嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、明日の朝、もう一回見たいな」
「ふふ。いいね」
「写真も撮りたい!」
「うん。時間があれば撮ろうか」
「やった!」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
そして、今日撮った写真の話になった。
「かまくらの写真もよかったね!」
「うん。あれは綺麗に撮れてたね」
「雪だるまも!」
「ふふ。フェンリスと同じくらいの大きさだったね」
「えへへ!」
フェンリスは得意げに笑う。
「僕、あんなに大きいの作ったの初めて!」
「頑張ったもんね」
「うん!」
そして、少し考えたあと――。
「……あっ!」
吹き出した。
「……あははっ!」
「……どうしたの?」
「……和真の雪像!」
「……またそれ?」
「だ、だって……!」
フェンリスは笑いながら和真を見上げた。
「……思い出したら……!」
「……そんなに面白かった?」
「……あはははっ!」
とうとう声を上げて笑い始めた。
和真もつられて笑ってしまう。
「……まったく」
それでも、楽しそうなフェンリスの姿が嬉しかった。
やがて笑いが収まると、フェンリスはそっと和真の胸に頬を寄せた。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「……僕、今日のこと、みんなにいっぱい話したい」
「うん」
「雪かきしたことも、かまくら作ったことも……」
フェンリスは嬉しそうに微笑んだ。
「みんなで雪合戦したことも!」
「そうだね」
「みゆも、きっとびっくりするよね!」
「うん。写真を見たら驚くと思うよ」
「えへへ!」
「ピピなんて、自分もやりたいって言い出しそうだね」
「絶対言う!」
フェンリスが笑った。
「それに、ひかげにも見せたいな」
「そうだね」
「雪の狼、あおいにも見せたい!」
「うん。きっと喜んでくれるよ」
フェンリスは満足そうに頷いた。
そして、しばらく静かになった。
「……和真」
「ん?」
「……明日、帰るんだね」
先ほどまでとは違う、少し寂しそうな声。
和真はゆっくりと頷いた。
「……うん」
「……そっか」
フェンリスは和真の腕をぎゅっと抱きしめた。
「……なんだか、あっという間だったなぁ」
「そうだね」
「最初は三泊四日の予定だったのにね」
「うん。それが五泊六日になっちゃった」
「……えへへ」
フェンリスは小さく笑った。
「……でも、僕……」
「ん?」
「……延びてよかったって思ってる」
和真は彼女を見つめた。
「……そっか」
「うん」
フェンリスはゆっくりと顔を上げた。
「だって、この旅行で……」
そこで少し照れくさそうに微笑む。
「和真と、もっと仲良くなれたもん」
「……うん」
「それに……」
フェンリスは少しだけ頬を赤くした。
「……僕のこと、好きって言ってくれたし……」
和真は優しく微笑んだ。
「うん」
「……それから……」
フェンリスはそっと和真の胸へ顔を埋めた。
「……僕の全部、受け止めてくれた」
その言葉には、いくつもの意味が込められていた。
長い間胸にしまってきた想い。
過去の出来事。
弱さも、不安も、寂しさも。
そして、恋人としての気持ちも。
和真はそっとフェンリスを抱きしめた。
「……俺も、フェンリスと一緒に来られてよかった」
「……ほんと?」
「うん」
和真は優しく続ける。
「いろんなことがあったけど、全部大切な思い出になったよ」
「……うん」
「それに、フェンリスのことをもっと知ることができた」
フェンリスの瞳が潤んだ。
「……和真……」
「だから、俺もこの旅行に来てよかったと思ってる」
「…………」
フェンリスはしばらく和真を見つめていた。
そして、嬉しそうに微笑む。
「……えへへ」
そっと両腕を和真の首へ回した。
「……大好き」
「俺も大好きだよ」
和真が答える。
フェンリスはゆっくりと目を閉じた。
二人の唇が、優しく重なる。
短い口づけ。
そして、もう一度。
互いの温もりを確かめるように、そっと抱きしめ合った。
夜の雪景色を眺めながら、二人はしばらく寄り添っていた。
◇ ◇ ◇
――午後十時。
温泉から上がった二人は、寝る準備を始めていた。
明日は朝早くに旅館を出発する。
もともと四日目に訪れる予定だった場所へ立ち寄り、そのあと空港へ向かうためだ。
「……よし」
和真は鞄の中を確認した。
「これで大体片付いたかな」
「和真! 僕も終わったよ!」
フェンリスが嬉しそうに声を上げる。
「忘れ物はない?」
「うん!」
フェンリスは得意げに頷いた。
「ちゃんと確認した!」
「そっか。偉いね」
「えへへ!」
和真はスマートフォンで明日の天気と道路の状況を確認した。
幸い、明日も天気は良い予報だった。
道路の除雪も進んでおり、主要な道は通行可能になっているようだ。
ただし、凍結している場所もあるため、移動には十分な余裕が必要だった。
「……うん」
和真は小さく頷いた。
「どうやら、明日も晴れそうだよ」
「ほんと!?」
「うん。道路もだいぶ片付いてるみたい」
「やった!」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、四日目に行く予定だったところにも行けるんだね!」
「そうだね。朝早く出れば大丈夫そうだよ」
「えへへ!」
「ただ、飛行機に遅れるわけにはいかないからね」
「うん!」
「早めに出て、時間を見ながら観光しよう」
「分かった!」
フェンリスは元気よく頷いた。
「じゃあ、明日は早起きだね!」
「うん」
和真はスマートフォンに目覚ましを設定した。
「これでよし」
「僕も起こしてね!」
「ふふ。もちろん」
「えへへ!」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
そして、少しだけ周囲を見渡した。
五泊も過ごした客室。
最初に訪れたときは、ただの旅館の一室だった。
けれど今では、たくさんの思い出が詰まった場所になっていた。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「……ここで寝るのも、今日が最後なんだね」
和真はゆっくりと頷いた。
「……そうだね」
「……そっか」
フェンリスは少し寂しそうに笑った。
そして、和真を見上げる。
「……じゃあ」
「ん?」
「最後の夜も、いっぱいぎゅってしてね?」
和真は優しく微笑んだ。
「もちろん」
「……えへへ」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
そして、獣人の姿へ戻る。
銀色の狼耳がぴょこんと現れ、大きな尻尾がふわりと揺れた。
「……よし!」
フェンリスは布団へ向かう。
そして、もぞもぞと潜り込んだ。
「和真ぁ!」
「はいはい」
「早く!」
「ふふ。そんなに急がなくても」
「だって!」
フェンリスは布団の中から両手を伸ばした。
「和真にぎゅってしてほしいんだもん!」
その姿を見て、和真は思わず微笑んだ。
「……分かったよ」
灯りを落とし、フェンリスの隣へ横になる。
すると――。
「……ぎゅーっ!」
フェンリスが勢いよく抱きついてきた。
「……ふふ」
和真も優しく抱きしめ返した。
「甘えん坊だね」
「……えへへ」
フェンリスは嬉しそうに胸へ頬を寄せた。
「だって、今日は最後の夜だもん」
「……そうだね」
「……いっぱい甘えたい」
「いいよ」
和真は銀色の髪を優しく撫でた。
その指先に、フェンリスの柔らかな髪が触れる。
「……気持ちいい?」
「……うん」
フェンリスは幸せそうに目を細めた。
「……もっと」
「ふふ。はいはい」
和真が撫で続けると、フェンリスの耳が小さく揺れた。
大きな尻尾も嬉しそうに左右へ動いている。
しばらく、二人は何も言わずに抱きしめ合っていた。
窓の外には、静かな雪景色が広がっている。
風の音もなく、時折聞こえるのは建物の軋む小さな音だけだった。
「……フェンリス」
和真が静かに名前を呼んだ。
「……ん?」
フェンリスが顔を上げる。
赤い瞳が、和真を見つめた。
「……ひとつ、言ってもいい?」
「……なあに?」
和真は少しだけ間を置いた。
そして、フェンリスの頬にそっと手を添える。
「……今夜が、旅行最後の夜だから」
「……うん」
「……もう一度、フェンリスを抱きたい」
「…………!」
フェンリスの耳がぴんと立った。
赤い瞳が大きく開かれる。
「……か、和真……」
頬がみるみる赤くなっていく。
和真は優しく続けた。
「……もちろん、フェンリスが嫌じゃなければだけど」
「…………」
「ただ……俺が、そうしたいって思ったんだ」
フェンリスはしばらく和真を見つめていた。
そして――。
「……うん」
小さく頷いた。
「……僕も」
そっと和真の胸に手を置く。
「……僕も、和真と……そうしたい」
恥ずかしそうに目を伏せながらも、はっきりと答える。
「……最後の夜だもん」
「……うん」
「……いっぱい、甘えたい」
和真は優しく微笑んだ。
「……おいで」
「……うん」
フェンリスは両腕を和真の首へ回した。
そして、ゆっくりと唇を重ねる。
短い口づけ。
唇が離れると、フェンリスは恥ずかしそうに微笑んだ。
「……えへへ」
「……どうしたの?」
「……和真から言ってくれるの、嬉しい」
「……そっか」
「……うん」
フェンリスは小さく頷いた。
「だって、僕ばっかりお願いしてる気がしてたから……」
和真はその頬を優しく撫でた。
「そんなことないよ」
「……ほんと?」
「うん」
和真はフェンリスの目を見つめた。
「俺だって、フェンリスに触れたいし、抱きしめたい」
「…………!」
「好きだからね」
その言葉に、フェンリスの瞳が潤んだ。
「……もう……」
小さく呟く。
「……和真って……」
「……ん?」
「……僕を幸せにするの、上手すぎるよ……」
和真は小さく笑った。
「……そうかな」
「……うん」
フェンリスは幸せそうに微笑んだ。
「……大好き」
「俺も大好きだよ」
そして、二人はもう一度唇を重ねた。
今度は先ほどよりも長く。
互いの存在を確かめるように、優しく抱きしめ合う。
旅の初日には、まだ互いの気持ちを言葉にできなかった。
二日目には、少しずつ距離を縮めた。
三日目には、フェンリスが勇気を振り絞り、想いを伝えた。
そして、昨夜。
互いの過去を知り、その痛みさえも受け止め合った。
今夜は、もう迷いはなかった。
大切な人を愛おしいと思う気持ち。
もっと近くにいたいという願い。
そのすべてが、二人の間にあった。
和真はフェンリスを優しく抱き寄せる。
フェンリスもその胸に身体を預けた。
外には静かな銀世界。
その夜、二人は何度も愛を確かめ合い、互いの温もりに包まれながら、旅行最後の夜を共に過ごした。
◇ ◇ ◇
――それから、しばらくして。
「……はぁ……」
フェンリスが小さく息を吐いた。
和真の腕の中。
銀色の髪が枕の上に広がり、大きな尻尾が布団から少しだけはみ出している。
「……大丈夫?」
和真が優しく尋ねる。
「……うん」
フェンリスは幸せそうに微笑んだ。
「……すっごく、幸せ……」
「……そっか」
「……えへへ」
和真が銀色の髪を撫でると、フェンリスは気持ちよさそうに目を細めた。
そして、そっと和真の胸に頬を寄せる。
「……和真」
「ん?」
「……ありがとう」
「……どういたしまして」
「……僕、こんなに幸せでいいのかな……」
小さな呟き。
和真はフェンリスの顔を覗き込んだ。
「……どうして?」
「……だって」
フェンリスは少し照れくさそうに笑った。
「……少し前までは、こんなふうになれるなんて、思ってなかったから……」
「……うん」
「和真のこと、好きで……でも、どうしたらいいか分からなくて……」
その声が少しだけ震える。
「……すっごく、苦しかったんだ」
和真は静かに頷いた。
フェンリスは続ける。
「……でも、今は……」
そっと和真の胸に手を当てた。
「こうして、和真が抱きしめてくれる」
「……うん」
「好きって言ってくれるし……」
頬を赤くしながら、嬉しそうに笑った。
「……いっぱい、愛してくれる」
和真はそっとフェンリスを抱きしめ直した。
「……フェンリス」
「……ん?」
「……これからも、たくさん幸せになろうね」
「…………!」
フェンリスの目が大きく開かれた。
そして――。
「……うん!」
嬉しそうに微笑んだ。
「……約束だよ?」
「うん。約束」
和真が小さく笑う。
フェンリスは幸せそうに目を細めた。
そして、ふと自分のお腹へ手を当てた。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「……あのね」
フェンリスは少しだけもじもじした。
「……今日、何度も愛し合ったでしょ?」
「……うん」
「……えへへ」
フェンリスは頬を赤くしながら、お腹を優しくさすった。
「……和真の赤ちゃん……」
そこで、少しだけ言葉を止める。
そして、いたずらっぽく笑った。
「……さすがに、できちゃったかな?」
「…………!」
和真は少し目を丸くした。
フェンリスはそんな和真を見て、くすっと笑った。
「……えへへ。どう思う?」
和真はそっと彼女のお腹へ視線を向けた。
そして、優しく微笑んだ。
「……だといいね」
「…………!」
フェンリスが固まった。
赤い瞳を大きく見開き、和真をじっと見つめる。
「……和真……?」
「ん?」
「……今……」
フェンリスは少しだけ声を震わせた。
「……だといいねって、言った?」
「……うん」
和真は優しく頷いた。
「もちろん、今すぐ分かることじゃないけどね」
「……うん」
「でも、もし本当にフェンリスとの子供ができたら……」
和真はそっと彼女の頬に触れた。
「……俺は嬉しいよ」
「…………っ」
フェンリスの瞳が、みるみる潤んでいった。
「……ほんと……?」
「うん」
「……迷惑じゃない……?」
その問いに、和真は少し驚いた。
「迷惑なわけないよ」
「……!」
和真は優しく微笑んだ。
「もし赤ちゃんができたら、二人で大切に育てたい」
「…………」
「だから、ちゃんと一緒に考えていこう」
フェンリスはしばらく言葉を失っていた。
そして――。
「……和真ぁ……!」
勢いよく抱きついた。
「……っ!」
和真が少し驚く。
しかし、すぐに優しく抱きしめ返した。
「……どうしたの?」
「……だって……!」
フェンリスは胸に顔を埋めた。
「……嬉しいんだもん……!」
その声は涙で少し震えていた。
「……僕……」
フェンリスはそっと顔を上げた。
「……和真との赤ちゃん、欲しいなって……思ってたから……」
和真は静かに彼女を見つめた。
「……そっか」
「……うん」
フェンリスは涙を浮かべながら微笑んだ。
「……もし、本当にできてたら……」
そっとお腹をさする。
「……僕、すっごく大事にする」
その表情は、いつもの無邪気な笑顔とは少し違っていた。
柔らかく、温かな笑顔。
まだ見ぬ小さな命を思い浮かべているようだった。
和真はその手に、そっと自分の手を重ねた。
「……俺もだよ」
「……和真……」
「……うん」
二人はしばらく、お腹に手を重ねたまま見つめ合っていた。
やがてフェンリスが、少し照れくさそうに笑う。
「……えへへ」
「ん?」
「……僕たちの赤ちゃんって、どんな子になるのかな?」
「……そうだね」
和真は少し考えた。
「フェンリスに似たら、きっと元気いっぱいな子になるだろうね」
「……えっ!?」
フェンリスが目を丸くした。
「僕に似たら?」
「うん」
「……じゃあ、和真に似たら?」
「……俺?」
和真は少し困ったように笑った。
「どうだろう」
「……んー」
フェンリスは真剣な顔で考え始めた。
そして――。
「……きっと、すっごく優しい子になるね!」
満面の笑み。
和真は思わず笑った。
「そうかな?」
「うん!」
フェンリスは大きく頷いた。
「だって、和真に似るんだもん!」
「……ふふ。ありがとう」
「えへへ!」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
そして、再び和真の胸に頬を寄せる。
「……でも」
「ん?」
「……どっちに似ても、きっとかわいいよね」
「……うん」
和真は優しく微笑んだ。
「きっとね」
フェンリスは幸せそうに目を閉じた。
そして、小さく呟く。
「……楽しみだなぁ……」
和真はその頭を優しく撫でた。
まだ何も分からない。
けれど、もし本当に新しい命が宿っていたなら。
そのときは、二人で大切にしていきたい。
和真はそう思いながら、フェンリスを抱きしめた。
◇ ◇ ◇
「……ねえ、和真」
「ん?」
フェンリスが顔を上げた。
「……キスして?」
少し恥ずかしそうな笑顔。
和真は優しく微笑んだ。
「……うん」
そっと頬に手を添える。
フェンリスは嬉しそうに目を閉じた。
二人の唇が、ゆっくりと重なった。
短い、優しい口づけ。
唇が離れると、フェンリスは幸せそうに微笑んだ。
「……えへへ」
「……どうしたの?」
「……幸せ」
和真も微笑んだ。
「……俺もだよ」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
そして、そっと和真の胸に顔を埋める。
「……和真」
「ん?」
「……ぎゅってして」
「うん」
和真が優しく抱きしめる。
「……もっと」
「……ふふ」
少しだけ腕に力を込める。
「……これくらい?」
「……うん」
フェンリスは満足そうに微笑んだ。
「……あったかい……」
「……そうだね」
大きな尻尾が、ゆっくりと揺れる。
狼の耳も安心しきったように寝かされていた。
「……明日、早起きだね」
フェンリスが小さく呟く。
「うん」
「……寝坊しないようにしないと……」
「ふふ。そうだね」
「……和真、ちゃんと起こしてね?」
「もちろん」
「……えへへ」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
「……明日も楽しみ……」
「うん。最後まで楽しもうね」
「……うん……」
少しずつ声が小さくなっていく。
朝から一日中動き回っていた疲れが、ようやく出てきたのだろう。
フェンリスの瞼がゆっくりと閉じていった。
「……和真……」
「……ん?」
「……大好き……」
眠たそうな声。
和真は優しく微笑んだ。
「……俺も大好きだよ」
銀色の髪をそっと撫でる。
「……おやすみ、フェンリス」
「……おやすみ……」
フェンリスは和真の胸に頬を寄せたまま、静かな寝息を立て始めた。
「……すぅ……すぅ……」
その穏やかな寝顔を見つめながら、和真は小さく息を吐いた。
そして、もう一度フェンリスを抱きしめる。
「……愛してるよ」
小さく呟き、額にそっと口づけた。
フェンリスは眠ったまま、嬉しそうに口元を緩めた。
まるで、その言葉が聞こえていたかのように。
和真は小さく微笑んだ。
そして、彼女を抱きしめたまま目を閉じる。
窓の外には、月明かりに照らされた銀世界が広がっていた。
昨日まで荒れ狂っていた吹雪は、もうどこにもない。
静かで、穏やかな夜。
五泊六日へと延びた、二人きりの函館旅行。
初めて訪れる景色に感動し、観光を楽しみ、たくさんの写真を撮った。
互いの想いを確かめ合い、恋人として結ばれた。
そして、誰にも話せなかった過去を打ち明け、これからの未来についても語り合った。
今日の雪遊びも、きっと忘れることはないだろう。
旅館の人たちと一緒に雪をかき、大勢の宿泊客と笑い合ったこと。
かまくらを作り、雪だるまを作り、雪合戦を楽しんだこと。
そして、雪明かりの下で食べた温かな料理。
そのすべてが、大切な思い出になった。
明日は、いよいよ旅行最終日。
本来なら四日目に訪れるはずだった場所へ立ち寄り、そのあと飛行機に乗って帰る予定だ。
帰れば、いつもの賑やかな日常が待っている。
けれど、この旅行で育まれた二人の想いが消えることはない。
和真の腕の中で眠るフェンリス。
その寝顔は、どこまでも穏やかだった。
――こうして、忘れられない旅行最後の夜は、静かに更けていった。




